CHAPTER04

Chapter04 相克相死のエクソダス


ごrgおりっ、がりgありiっ。
軋む音が聞こえる。
goりごぎzがgりっ、zaがりっ、がrいっ。
たまらなく不快な、骨かなにかのような硬いものが、強い力で削れていく音。
わたしは知らない部屋にいた。
2メートル四方くらいの立方体の、とても狭い部屋。
壁も天井も、切り出したばかりみたいなごつごつした岩だ。
天井も、床も。どこにも出口がない。
「ここ、どこ――?」
意識が朦朧としている。
自分の腕を見ようとして、手が半透明であることに気がついた。
――ひっ。
叫ぼうとしても、声が出ない。
がaりっ、gざがrりっ、gごりtっ。
やけに耳に障る、自分の頭蓋骨を機械で削られているような、不快な――
――これは夢だ。目を覚まさなくちゃ。
「こんなもの、夢だ」
「それは違うぞ、我が助手」
背後で声がした。
「お――岡部っ!?」
「夢ではない。ここはタイムパラドックスに耐えられなかった魂が沈む、時間の墓場だ」
振り返っても岡部の姿はない。
「岡部――どこにいるの」
「ここはお前の生命が迷い込んだ時のあわいだ、クリスティーナ。アトラクタフィールドは人の魂を事象次元のなかに収束させ、そう簡単に人の生き死にが変動しないようにさせる力がある。だが同時に、死んだ生命を簡単に生き返らないようにするための拒否機構もそなえている」
「ねえ、岡部。わたしはここにいるわ。姿を見せて。わたしをここから出して」
「それは無理なのだ、クリスティーナ。俺はα世界線からβ世界線へと、世界を変えた。そのとき、アトラクタフィールドが矛盾の修正を行ったために、お前の記憶、お前という存在のイデアは行き場を失って、この墓場に封じ込められた。ここは時間の概念のない牢獄。世界に存在することを拒否された魂が二度と抜け出せないよう捕獲する、魂の屠殺場。お前はここで、ゆっくりと消滅させられる。無限の時間をかけて、ゆっくりと」
世界がゆがむ。
息ができない。
体が――ぐずぐずに腐敗して、空中に溶け出してしまいそう。
「い、嫌よ岡部。わたしは死にたくない。消えたくない。お願い岡部、ここから出して。わたしを助けて!」
「お前はシュタインズゲートへは至れない。お前の魂は世界線移動ショックに耐えられない。だから、お前の存在は、ここで消える」
いっ――
いや!
いや!
死ぬのは、いや!
死ぬのは、いや!
死ぬのは、いやなのっ!
「助けて、岡部! 助けて、岡部! わたしは死にたくない! わたしは消えたくない! 研究だってぜんぜんできてない、パパとも仲直りできてない! 岡部とも……」
呼吸がすぼまる。
喉がしめつけられる。
「岡部とも……もっと、一緒にいたい……っ!」
世界が軋む。
この、音は……
「この音は、部屋の壁が迫ってきている音だ、クリスティーナ。時間がお前という存在の矛盾を許さず、封殺しようとしているのだ。誰もそれに逆らうことはできない」
部屋が――小さくなってきている。
もはや骨を削るような音は、はっきり近くで感じられるほど大きくなっている。
――これは、部屋が縮まる音だ。
goりごぎ、zがgりっ! zaがりぃっ! 
がrいっ、がaりっ、gざがr、りっ、gごりtっ!
「お願い岡部、わたしはここよ……わたしはまだ生きてる……死にたく、ない」
「世界がお前を拒絶したのだ、紅莉栖。お前は俺に、タイムリープマシンの危険性について、非通知着信を悪用したときの危険性について、ひとことも話さなかったな? あれがなければ、お前はシュタインズゲートにたどり着くことができた……だが、もう遅い。世界はお前を拒否する。イレブンナインの世界線は、ひとつの終わり。お前の魂を捕縛して離さない、もうひとつの『裏シュタインズゲート』」
もう両手を縮めても、体が迫る石壁に当たっている。
こんなことなら――
こんなことなら、あのとき、ラジ館の屋上で、『あの言葉』を言っていれば――
「さよならだ、紅莉栖」
部屋の体積がわたしの体積を下回り、全身の骨が砕け、肉が圧搾され、悲鳴もあげられないまま魂がひしゃげ潰されて――

――そして光。


「…………………………っはあああっ! ああっ、あああああっ、ああっ!」
ラボのソファーで飛び起きた。
じっとりと嫌な汗をかいている。
首の筋肉がかちかちに固まっている。
視界がぐらぐらに揺れていて、心臓がすごい速さで鳴っている。
ここは、どこだ。わたしは、一体――。
汗で額にへばりついた前髪を乱暴にかきあげる頃には、ひどい夢を見ていたのだと理解できた。
どんな夢だったか――もう、思い出せない。
とても嫌な何か、とても恐ろしい何かを見ていたような気がするけど――。
どうやらわたしは、ラボのソファーで眠り込んでしまっていたらしい。
部屋は暗い。ラボにひとつきりの窓はかすかに青みがかっている。
ラボの時間を見る。6時15分。
それが朝の6時なのか、夕方の6時なのか、わたしには判別がつかない。
白衣を着たまま寝たせいで、そこらじゅうにシワができてしまっている。
「きゃ、白衣によだれたらしちゃってる……だ、誰も見てないわよね……き、気づかない、気づかない」
丸1日寝たとは思えないから、たぶん朝の6時だろう。
「トゥットゥルー♪ ラボに一番の……あー、クリスちゃんだー」
ラボのドアが開いて入ってきたのは、元気なまゆりの顔。
「あれー、牧瀬氏じゃん。なになに、また徹夜?」
その後ろからは、橋田の巨体。
「……おはよう」
「クリスちゃん、どうしたのー? なんだか、ぼんやりしてるみたい」
「べっ、別に、いつもどおりよ」
と、ここで思い出す。
わたしがラボに来たのは、ふたりに会うためだったのだ。忘れてた。
ふたりに、お願いしなくちゃならないことがあったのだ。
でも――ちょっと、さすがに。
気が重い、と言わざるを得ないなあ――。
はあ。
わたしは昨日の、鈴木イサオとの会話を思い出す。
よりによって、こんなことになっちゃうなんて、なあ……。


鈴木イサオが言った、ふたりめの『送信者』のいどころ。
そこはよりにもよって、とんでもないところだった。
「なっ、なんで『●●●●●』なんかに送信者がいるのよ!」
「うるせぇ、俺だって信じられるかよ! でも言ったんだよ、『●●●●●』にいるってよ! 会いたかったら来いってよ!」
「誰が行くか『●●●●●』なんかにっ! ひょっとしてドッキリか何かなんじゃない?」
「どういうドッキリだ、仕掛け人も視聴者も面白くねぇよ、ドン引きだよ!」
「まあ、普通の人間ならね……」
くっ……まさか『●●●●●』とは……。。
「というか、生きて帰ってこれねぇぞ」
「うっ、うるさいわね、脅すんじゃないわよ」
「事実だぜ。俺の知ってる奴でも、何人も帰ってこなかった奴がいる。『●●●●●』には悪魔がいるとか、気づいたら人の血がついてるとか、いる人間全員法律を破っている犯罪者だとか、室内なのに雲ができているとか」
「で、でも、それでも行かなくちゃならないのよ! 大丈夫、『●●●●●』だったら、逆に罠の張りようがないとも考えられるし」
「罠とか考えるまでもなく、『●●●●●』にいる時点で罠」
うるさい。深く考えさせるな。
「ああもう、行けばいいんでしょ! っていうかこの流れで行かなくて済むわけないじゃない! そういうもんなんでしょ、罠なんでしょ!?」
「フン、壊れたか」
壊れもするわ!
「ああ……わたしって何て不幸。でももういいわ、どこだって行ってやる、何だってやってやる! そんでタイムリープして“なかったこと”にして全部忘れてやる! ああもう、行ってやろうじゃない、『●●●●●』に……いや」

「行ってやろうじゃないの……コミマ会場にっ!!!」


というわけで。
わたしはぼんやりと、橋田とまゆりの背中を眺めていた。
まゆりはキッチンで朝食のインスタントスープを温めている。
橋田はPCで、@ちゃんねるのエロゲ板を巡回している。
そんな橋田のHENATAI行為にも、なんだかコメントする気になれない。
行ってやろうじゃないの、なんて言ったはいいものの……。
「ねぇー、橋田?」
「んー? なんぞ?」
「まゆりとあんたってさあ……今日、コミマに行くんでしょ?」
「ああー、行くお。というか僕とまゆ氏は今日も明日も行く」
「コミマって何日から何日まであるんだっけ?」
「あれ、知らんの? コミマは今年は昨日から明日まで3日間開催されるお。3日目は僕にとって聖戦と書いてジハードだけど、2日目の今日はまゆ氏と一緒に参加するつもり」
「ふぅん……」
「どしたん?」
一人で行ってもぜったい迷うだろうし……。
聞くところによると危ないところらしいから、そのほうが現実的よね……。
HENTAIが服着て歩いてるような橋田と、ふたり、っていうんならともかく……まゆりと3人なら……。
「ねえ、橋田。コミマ、わたしも一緒に行っていい?」
「え?」
その瞬間。
どだだだだだだだだばたばたっ、がしゃん、ばたーん! がらんがらん!
えらい音がキッチンのほうから聞こえてきた。
かと思うと。
「クリスちゃんっ!! コミマ行くって、ホント!?」
「え、えええ?」
「ねえホントホント? とうとう決心したのっ?」
なにそのリアクション。
「え、ええ、まあね……行くわ。たまにはいいかなー、って」
「すごいすごーい! じゃあ一緒に行こうね! 大丈夫、いろいろ教えてあげるから!」
は、はあ。
まあ、まゆりはコミマ経験は豊富だし、なにげに体力もあるから、頼りにはなるけど。
「あのねー、荷物は少なめにしたほうがいいよー。たくさん歩くからねー。それから夏は水分補給はぜったいいるよー。ペットボトルを持っていくことー。現地で買えるなんて、甘いこと考えないほうがいいよー?」
な、なんかすごいこと言われてる。
というか、なんでまゆりはそんなに嬉しそうなの?
はっ、まさか……。
「いやー、ようやくクリスちゃんがコミマデビューしてくれる気になったなんてねえー。まゆしぃは嬉しいのです。これでようやく、まゆしぃが寝ずに作ったコスがお披露目できるってことだもんねえー」
「そうね、まゆり凄くがんばってあれ作ってたもんねっておい!? わたしコスプレするなんて一言も言ってないんですけど!?」
「え? やだなー、クリスちゃん。あのねー、コスの衣装はね、着てもらうために作るんだよー? まゆしぃがせっかくがんばって作ったのに、クリスちゃんが着てくれないとねー、まゆしぃは、とっても、悲しいのです……」
ぐすん、と涙ぐむまゆり。
「おー牧瀬氏が泣かしたー」
「えっ、ちょ、おま、そんなの論理的におかしい……」
「だってね、がんばったんだよ? まゆしぃね、あんまり器用じゃないから、いっぱい指に針さしちゃって……それでもね、クリスちゃんのために、がんばったんだよ?」
えーっ、いつの間にかわたしのためになっとる。
「だから、わたしはコミマに行くとは言ったけど、コスプレをするとは一言も……」
「あー、ひょっとしてクリスちゃん、恥ずかしいの? それならそうと言ってくれればよかったのにー。大丈夫だよ、ちゃんと恥ずかしくないやつもあるからね?」
「いや、そのりくつはおかしい」
「青タヌキの名言キタコレ」
もう橋田の発言はこの際スルー。
「あ、あのねまゆり? まゆりがすっごく頑張って作ったコスプレ衣装を着たくないわけじゃないのよ。そういうわけじゃないの。でもね、駄目なの。わたしがコミマに行くのはコスプレするためじゃなくて……そう、用事があるのよ」
「用事ってなに?」
すかさず聞き返される。
きょ、今日のまゆりはなんか違うな。
なんというか、目が……狩人のような。
「用事? 用事はね。えーと、そう、人に会うの」
「誰っ?」
レスポンスが早い!
「あー、その、あれね。その人は、じつは会ったことない人なんだけど」
「じゃあ大丈夫だね! だってその人、コミマに来るんでしょ? じゃあコスプレとかしたまま会ったって、きっと大丈夫だよ! びっくりしないよ!」
などといいながら、ソファーにじりじりとにじり寄ってくるまゆりさん。
ち、近い! 顔が近い!
「い、いや大丈夫とかいう問題でなくてね、まゆり? わたし自身がコスプレをするということに対して恥ずかしさがね? えーと、聞いてる?」
目をきらきらさせながらがっしりと手を握ってくるまゆり。
いつか岡部が言っていたのを思い出す。
『ラボメンの中で、一度言い出したらいちばん頑固なのは、まゆり』
――ジーザス。
「い、いつか着るわ、いつか」
「えー? クリスちゃんもうすぐアメリカに帰っちゃうんでしょー? 今年着ないと、着る機会なくなっちゃうよー……」
うーん、まあ、そうなのだけど。
「だから、ね? こっちでの思い出づくりに、ね?」
がっしりとわたしの両手をつかんで、至近距離で見つめてくるまゆり。
「うっは、百合フラグいただきました」
勝手に興奮する橋田。
ええい、わたしが突っ込めない状況なのをいいことに、好き勝手言いおって。
やむをえない。
最後の手段だ。
「わかったわ、まゆり」
「えー? 着てくれるの?」
「着るわ。他でもない、あなたの頼みだもの」
「えー、ホント!? やったー、まゆしぃ、嬉しい☆」
「ただし……明日! 明日ね!」
「えー……? 明日?」
もうこうなりゃ最後の手段だ。
タイムリープしてやる。
ここはオーケーしておいて、タイムリープで戻って約束を『なかったこと』にしてやる。
「明日、なのー……? たしかに明日もコミマはやってるけどー……いいの? 明日は3日目だよ? コミマの3日目だよ? 具体的には言わないけど、すごいことになるよ?」
「いいわ。まゆりのお願いだもの」
反故にすることが決まっている約束ほど、好きなことを言えることはない。
「じゃあね、今からちょっと試着してみよー♪」
「えっ」

ザ・ワールド。
時は止まる。

「えっ?」
「えっ?」
にっこり笑ってくびをかしげるまゆり。
し、試着?
ここで?
「そっ、それは……」
「ねー、いいでしょー?」
「あ、明日でいいじゃない、それも! 今日はホラ、時間もないし、ね」
「いちおうねー、サイズ合わせしたいんだよー。あのね、今日試着とかしちゃえばー、明日までに直しを入れられるでしょー?」
「そっ、それも明日すればいいんじゃない?」
「えー……それこそ時間なくなっちゃうよー……」
うっ。
ううっ。
筋は通っている……。
い、いやでも。
「ちょっと、ここじゃあ、恥ずかしくって、ねえ。ほら橋田もいるし」
「えー、でもクリスちゃん、明日はもっとたくさんの人に見られるんだよ? ダルくんで恥ずかしがってちゃ、明日なんて着れないよー? ……それともクリスちゃん、明日もほんとは着るつもり、ないのー……?」
「そ、そんなわけないだろ! もちろん着るわ、誠心誠意着るわ! でもね、ちょっと、心の準備が……」
あああ。
だんだん理由がいい加減になってきている。
学会の研究議論会で鍛えられたわたしのこの論理武装がことごとく破られていく……。
まゆり、恐ろしい子!
「そう? じゃあちょっと、待ってあげるねー……」
しょぼんとするまゆり。
ちょっと可哀想だったかな。
でも本当に一般大衆の前に出るのはさすがに……。
わたし一応、日本のゴシップ週刊誌か何かに、顔でちゃってるらしいし……。
だから明日の約束はどうあっても果たせないけど、そのぶん、今日ここで試着するくらいは我慢してあげてもいいかもしれない。
なにしろ、まゆりは、もうすぐ……。
「ねえ、橋田」
「なんぞ?」
「わたしが、コスプレしたら、どう?」
「どう、って……そりゃ見たい罠。なんといっても我らが牧瀬氏だし。まゆ氏がんばって衣装作ってたし。恥ずかしがってる女の子がコスしてるのって、なんか萌えるし」
「う……あんたっていつでも瞬間風速HENTAIね」
「HENTAI紳士だお」
「言うと思った」
うーん、しかし、そうか。
恥ずかしがってると逆によくないのかもしれん。
「ねえ、まゆり、さっき言ってた『恥ずかしくない衣装』って、どんなの?」
「えー? えっとねー、これだよー」
まゆりは白っぽい衣装を広げてみせる。
その衣装は、意外にも。
「あれ、なんていうか結構……まとも?」
というか露出が少ない。
コスプレってもっとムチムチパッツンなやつばっかりじゃないの?
「あのねー、これはね、雷ネット翔にでてくる、うらら先生のコスなの。学校の理科の先生でね、あんまり出番のないキャラだけど、結構人気あるんだよー?」
白衣に、スカートに、黒タイツ。それから眼鏡。
なんか、スカート以外、わたしの普段着とあんまり変わらないような。
……、というか普段着のホットパンツのほうが短い。
「……ねえ、まゆり。わたしがこれを今日だけでも着たら、嬉しい?」
「うん、すっごくね、嬉しいよ! だってクリスちゃんは、まゆしぃたちのラボメン仲間だもん☆」
はあ。
しょうがない。
ここは一肌脱いでやるか。
「お、なになに、ここで試着会? 牧瀬氏よく決断したすなー。しかし、大丈夫? 僕、外に出てようか?」
うーん、どうしよう。
ちょっと嫌だが……。
「まあ、いいわ。ただし着替えは絶対に覗かないでよね」
「大丈夫だお。うらら先生のエロ同人サイト見て時間つぶしてるから」
「おめーは本当に気持ちがいいくらいの大HENTAIだな! 人がコスプレしてる横でコスプレキャラのエロ同人見るか普通!?」
「じゃあ、ダルくんとまゆしぃだけの、ふたり撮影会だねー☆」
「いや、撮影はなしだから」
「えー、なんでー?」
「そこの瞬間風速HENTAIが、ネットにうpしないとも限らないから」
「はっはっは、僕も信用ないすなー」
ねぇよ。
「よーし、じゃあ、着替え手伝ってあげるねー」
「ええ、そうしてくれると助かる」
「このラボ更衣室ないからねえ。ちょっとシャワー室を借りようねー♪」
「そうね。やだ、なんか緊張してきちゃった。人生初のコスプレかー……どんな感じが……するの……か……な……」
…………あれ。
…………なんだろう、いまの感じ。
すごーい……嫌な予感がするような。
なにか大事なことを、忘れているような……。
「まゆり……その、ちょっと……いい?」
「なーにー?」
「まゆり……今、どこに行こうとしているの?」
「どこって、もちろん、更衣室だよー?」
「更衣室……ね。でもまゆり、このラボには更衣室、なかったんじゃないの?」
「へんなクリスちゃんー。わかって聞いてるんでしょ? もちろん、ラボの更衣室っていったら、シャワー室のことだよー。あ、でもガムテープで開かないようにしてあるね。とっちゃいましょー。べりべりー」
「あ、あの」
「あ、そういえばクリスちゃんの張り紙、故障中ってあるけど、なにかあったのー?」
あ、あ。
ああああ。
やばい。
テラヤバス。
「や、ややややややややややややややややややややっぱりコスプレはなしの方向で!」
シャワー室の扉までダッシュ。
扉の前にはりつく。
「えー、どうしてー?」
扉をガードするわたしを、残念そうな顔で見るまゆり。
しかしこの扉だけは、この扉だけは!
開かせるわけにはいかんのだよ!
「どうしてって、ちょっと事情ができたから!」
「せっかく約束、してくれたのに……」
涙目になるまゆり。
あ、ちょっと本気で落ち込んでるぞ、これは。
「やーい、牧瀬氏がなかしたー」
橋田が茶化すけど、かまってられない。
「あ、あのねまゆり。コスプレはしたいんだけど、これには深いわけがあってね……」
「なぁにー? 事情って、なに? そのシャワー室と関係あるの?」
「な、ないないないないない! 光の速さで関係ない!」
「牧瀬氏、そのリアクションは、すごく関係あると言ってるようにしか見えないわけだが」
「あ、あはははは、なにを言っているの橋田さん。シャワー室に関係なんてあるわけないじゃない!」
「なぁにー、故障中って?」
「えーと、それは……それは、その……故障してるのよ!」
「なにが故障してるの?」
「なにがって……そりゃ、シャワーが故障してるの、もちろん!」
「あー、じゃあ大丈夫だねー。シャワー浴びるわけじゃないもん。着替えるだけだもん。よいしょっと」
「わー! 待った待った待った待った待った!」
構わずシャワー室のドアを開けようとするまゆりを必死に止める。
「どうしたのクリスちゃん、おもしろーい」
「違うのよまゆり、これには深いわけがあってね、このシャワー室にはアレなのよ、アレがアレなのよ!」
「えー、アレがアレなの? どういうことー?」
「ほっほっほっ、アレがアレとは、アレでアレってことよ。まゆりさんも面白いことをおっしゃる」
「えへへー」
「仲いいすなー、ふたりとも」
「黙っとれHENTAI魔人!」
「えっと、じゃあそれはともかくとしてー、シャワー室に入りまーす☆」
「わああっ、駄目、開けちゃ駄目!」
「なにー、ひょっとしてクリスちゃん、なにか隠してるー?」
「あっはっはっは、まゆりさんも人が悪い、そんな事あるわけないじゃないですか」
「リアクションがどう考えても何か隠してる件」
「だから黙っとれHENTAI魔人!」
「なになにー、ひょっとして、誰か監禁してたりとかー? かわいいショタっ子を、監禁して飼ってたりとかー?」
ど、どこからそういう発想が!?
おそるべしアニメ世代!
「いや、そういうんじゃ全然ないから!」
「じゃあ誰を隠してるのー?」
「誰って……それは言えな、いや誰も隠してなんかないから!」
「えー、おしえてー」
近い、顔が近いよ!
「顔が近いよまゆりさん!」
「あははー、クリスちゃん照れてる」
「うはー、百合フラグキタコレ! なんだかオラ、興奮してきたぞ! これはうらら先生のエロ同人サイトを早急にチェックせねば……」
「そのHENTAIの居合い抜きをやめんかHENTAI抜刀斎!」
「あー……そういえば朝ごはんのスープをあっためてる途中だったんだー……残念、キッチンにもどらないとー」
「…………ふぅ」
「と見せかけてとりゃあー!」
「ぎゃあああ! 開けちゃ駄目だってー! ホントに駄目だってーー!!」
「あははー、クリスちゃん面白いー♪」
「ハァハァ……キタコレ……ハァハァ……キタコレ……」
「ホントにエロサイト見るなこのアホーーーーーーーーー!!!!」

と。
なにげない拍子に。
がちゃ。

「あ」
「あ」
「あ♪」
シャワー室の扉が、開いた。

ゆっくりと扉が開いていく。
スローモーションのように、ひきのばされた時間。
や、ば、い……
わたしは必死で閉めようとするけど、体がうごかない。
時間だけがゆっくりになってる。
体の動きがついていかない。
扉が開き……中のものが、
わたしが隠していた、
岡部が……
岡部の体が……

岡部の体が……



……ない。


「え?」
脳がストップする。
え、やだなあ、なにこれ?
見えてるものの意味がわからない。
いや、シャワー室。シャワー室だよこれは。
それだけ。
あはは。
……え?
シャワー室、だけ?

「あれー? なにもないよー?」
まゆりのがっかりした声。
その声も遠くから聞こえてくるようだ。
脳の処理が追いついてない。
これ、え? でも……。そんなはず……ってことは……
……岡部。
岡部。
岡部……?
岡部?
岡部!
岡部!!!

わたしは無言で走り出した。
「ちょっ、ちょっと、クリスちゃん!?」


†  †  †


走る。
秋葉原の街を走る。
人目も気にせず、わき目もふらず、ただ走る。
「どこ……!?」
汗が目に入る。
心臓がすごい速さで鳴っている。
とぎれとぎれの息が、他人のものみたいに口から漏れる。
「岡部は、どこ……!?」
休日の人ごみをかきわける。
駅前の歩行者天国を駆け抜ける。
何度も人にぶつかって、怒鳴られる。
無視して走る。
秋葉原じゅうを探して回る。
岡部のいそうなところ。
UPX。
メイクイーン・ニャン×2。
ラジオセンターのパーツショップ。
牛丼屋『サンボ』。
いない。
いない。
どこにもいない。
「どこ、岡部……岡部の体は、どこ……!?」
っ、そうだ、ケータイは!
慌ててケータイで岡部の番号にかけると、同時に逆側のポケットから着信音。
ああ、くそっ。
岡部のケータイはわたしが預かってたんだった。馬鹿か。
いない、いない、いない!
岡部の体は、どこだ!?
わたしはあの日、記憶死した岡部を連れて帰った。
泣きながら、岡部を背負って、ラボまで連れて帰った。それも2回も。
一度タイムリープして岡部の記憶死を2回見ることになってしまったから、岡部を運ぶのも、2回やった。
そしてラボのシャワー室に岡部を隠した。
苦労して岡部の体をラボのシャワー室に押し込んだ。シャワー室の扉の外からガムテープで目張りし開かないようにしてから、『故障中。危険、開けるべからず。紅莉栖』という張り紙をした。
まさか、岡部が、目覚めた?
いや……外からガムテープで目張りしたんだから、内側から開けられるはずがない。
じゃあ、なぜ?
なぜ岡部の体が、消えたの?
「はぁ、は、ああっ、あああああああああっ! わたしは馬鹿だ! 大馬鹿野郎だ! 畜生! 畜生!」
路上で叫ぶ。
もちろん、わかりきっていたことなのだ。
岡部は自分でどこかへ行かない。
ガムテープで目張りされていたし、だいたい記憶を殺されてたんだから、まともに動けるはずがない。
誰かが岡部を連れ去ったのだ。
動けない岡部の体を、持ち去ったのだ。
誰か?
決まっている。そんなことをする奴はひとりしかいない。
ラウンダー。
天王寺……綯……
「いやぁぁああああああああああああああああっ!!」


†  †  †




わたしは、あてもなく街を歩いていた。
消えた岡部の体。
状況は悪くなっていくばかり。
どうしてこうなってしまった?
どこでわたしは間違えた?
秋葉原の幹線道路の上にかかった歩道橋のうえで、街を見渡す。
この街のどこかに、岡部はいる。天王寺綯もいる。
でもわたしにはそこに手がとどかない。
探す方法もない。

不意に思う。
わたしは、ひとりだと。

こんなとき、頼れる人がいたら。
困ったときはいつだってこの人に言えば、とりあえずは何とか前に進める――そんな人がいたら。
わたしにはいない。
誰にも頼らないように生きてきた。
誰かに依存することは弱みを見せることで、それは弱肉強食の科学の最前線で、決してさらしてはいけない弱点だった。
わたしは自分を守るために心に砦を築き、防壁を張った。そして誰にも負けないくらい努力した。
その結果――わたしは頼るべき人を、すべて失ってしまった。
もし岡部がここにいたら、いろんな相談ができるのに。力になってくれるのに。

――そのとき、まるで空から降ってきたみたいに、ひとりの人の顔が浮かんだ。

頼れる人。
助けてくれる人。
いつだってわたしに正しい方向を教えてくれた人。
――いや、それは無理だ。
――あの人には、頼っちゃいけないんだ。
ほかに頼れる人は誰もいない。
でも、あの人なら。
――違う。そんなのは幻想だ。間違った望みだ。
――あの人が助けてくれるなんてことは、ありえない。
でも。
ひょっとしたら。
駄目でもともと。
お願いしてみる価値はある。

――そうだ。失うものは何もない。
連絡先は知ってるんだから。
相談しないほうが不自然なんだ。
だってわたしたちは――誰よりも近い人間なんだから――

ケータイを持つ手が汗ですべる。
もう暗記してしまっている電話番号をプッシュする。
ケータイを耳にあてる。呼び出し音のコールが、やたら大きく長く響く。
電話を耳に当てて待つポーズのまま、わたしは祈る。
出て、という気持ちと、出ないで、という気持ちが、半分ずつ混ざり合っている。
――ぜんぶ話そう。
――それから、どうしたらいいか教えてもらおう。

5回目の呼び出し音のあと、電話が、つながった。

『………………………………誰だ』
電話の向こうの声。
低くおさえられた、不機嫌な声。
「……わ、わたしよ……紅莉栖。今、いい?」
『ふん、紅莉栖か……』
わたしの手が震えている。震えを止める気も起きない。

「そうよ、パパ」

電話の向こうの相手――わたしの実の父親、牧瀬章一――は、無言だった。
電話はしばらくぶりだ。
8月4日に電話でケンカして以来、もう2週間近くも連絡をしていない。
――なにか、喋らなくちゃ。
勇気をふりしぼって、言葉を選び出す。
「ごめんね、忙しかった? でもね、実はどうしても、相談したいことがあってね……パパの意見を、聞きたかったの。ねえ、すごく困ってるの。話を聞いてくれるだけでもいいから……」
『………………だ』
くぐもった声が聞こえた。
「え?」
『電話してくるなと、言ったはずだ』
攻撃的な、険のある、言い方。
「そ……」
一瞬、何も言えなくなってしまう。
『お前、また私を馬鹿にするために連絡をよこしたのか? タイムマシン発表会が流れて、次の発表会のセットもできない私をあざ笑いたいのか?』
「ちっ……違うわ、どうしてそうなるのよ!?」
『どうして、だと? 理由か。理由を知りたいのか。それはお前が心の底では、私を馬鹿にしているからだ。くだらない無能の父親だと、心のどこかで思っているからだ。だからお前との話はいつも、最終的には私の無能さをあげつらう話題で終わる。そんなことに私が気づかないとでも思ったか?』
「違う、わたしはそんなこと思ってない! それに、そんな話をするために電話をかけたわけでもないの!」
『では何の話だ? 困っている、だと? 話を聞いてくれるだけでもいい、だと?』
パパの口調が激しくなっていく。
ああ、まただ。
また怒らせてしまう。
『お前はいつもそうだ。勝手に期待して、勝手に話をもちかけて、私がコメントすると反論して、論破して、けっきょく自分で答えを見つけてしまう。心の中で、応えられなかった私に失望しながらな。私は一体なんだ? お前の玩具か?』
「そっ……それは……」
そんなことはない。
そう言いたかった。
ただパパを頼りにしてるだけなの。
そう言い返したかった。
けど――
ここ数年、パパに失望しないことがあったか?
パパの答えがわたしの予想を上回り、それでなおかつ正しかったことがあったか?
物理の論文に関する議論にしろ。
アメリカへの留学相談にしろ。
わたし自身の相談にしろ。
――もしパパがアドバイスをくれたとして、わたしはそのアドバイスに、ため息と失望を抱かないと、言い切れるか?
「わたしは、ただ……」
『なあ、正直に答えるんだ、紅莉栖。お前はこの私が無能であると証明したいのだろう? 自分がとっくの昔に父親を超えたと、私に認めさせたいのだろう?』
「違うわ、パパ! わたしはいつだってパパをすごいと思ってる! 尊敬してるの。ウソじゃない!」
『……ふん。ならば私のどこがすごい? どこを尊敬している? 言ってみろ』
「…………それは……」
思考がぐるぐる渦を巻く。
なにか答えなくちゃ。
とにかく、思いついたことを言うんだ。

「わたしを……育ててくれた、ところ……」

『ハッ! 何を言うかと思えば、育ててくれたところ? そんなことはどの親子にだって言える、どうでもいいことではないか! 科学者としての父に尊敬すべきところなど何もないと、すべてお前以下だと、そう言いたいのだな!?』
「違う……そうじゃなくて……」
『だがな紅莉栖。私は屈したりはせんぞ。絶対に諦めん。必ずお前を見返してやる。お前ができるわけがないと否定したタイムマシンを開発してやる。そしてお前にわたしを、再び尊敬させてみせる』
「タイムマシン……そうだ、パパ! タイムマシンだったら、わたしが作ったわ!」
通話口の向こうで、息をのむ気配。
『何だ……と……?』
「そうだったパパ、聞いて! タイムマシンはできないなんて言ってごめんなさい! カー・ブラックホールを使った特異点を使って、限定的だけどケータイ電波を過去に送ることに成功したの!」
『貴様……どこまで……』
「理論をこれから教えるわ。実証実験を一緒にしましょう。パパの夢だったタイムマシンは、わたしがちゃんと、発見してあげたから、だから――」
『貴様どこまで私を愚弄すれば気がすむのだっっっ!!!』
「っ、ひ……」
ケータイが割れるかと思うほどの怒声。
心臓が縮まる。
『タイムマシン開発はっ……私の、夢であり悲願なのだっ……今はなき恩師と親友に約束した、絶対に果たさねばならない、使命なのだっ……! それを、それを貴様はっ、「タイムマシンだったらわたしが作った」、だとっ……!? 嘘にしても最悪だ、貴様、人の心を土足でふみにじって、そんなに楽しいか!』
「ち、違うの、嘘じゃない! 本当にわたしはっ」
『分かった、もういい。嘘だろうが本当だろうが関係ない。お前は父親を心の奥で馬鹿にしている。それが今はっきりと確認できた。そんな人間とこれ以上話す気はない。二度とかけてくるんじゃないぞ』
「ねえ、待ってパパ、話したいことがあるの、わたしホントはね、パパのこと……!」
『お前を育てたことを尊敬している、と言ったな紅莉栖。だったら教えてやろう。……私は、お前を育てたことを、後悔している』
そ……
そんな。
そんなふうに、言うなんて……
『紅莉栖……二度とかけてくるな。頼む。……これ以上私を、価値のない人間にしないでくれ』

そう言って、電話は切れた。


†  †  †


どこをどう歩いただろう。
気がつけば、国際展示場へ向かう、りんかい線の電車に揺られていた。
車窓が単調な風景をえんえんと写し続けるのを、わたしは見つめていた。
電車が駅に止まる。人が降りていく。人が乗ってくる。電車が走り出す。
電車が駅に止まる。人が降りていく。人が乗ってくる。電車が走り出す。
電車が駅に止まる。人が降りていく。人が乗ってくる。電車が走り出す。
まるで第1種永久機関のように単調に同じ動作を繰り返しながら、電車は走っていく。
バッグを持った男の人。お腹の大きな主婦。おじいさんとおばあさん。女子高生4人組。リュックを背負った小太りの男の人。車掌さん。人。人。人。人。
見えているものが、頭に入ってこない。
ああ――駄目だな。
わたしは思う。
脳のエンジンが止まりかけてる。
考えるための回路に電気が通っていない。
このままじゃまずい。どうにかしなきゃ。
……………………。
ああ、そこでまた思考が止まる。
具体的な考えに頭が切り替わってくれない。
いいか、考えるんだ、考えるんだ牧瀬紅莉栖。
さあ、顔をたたいて、気合を入れて、なにか素晴らしい案を、天才軍師のような輝く策を、考え出すんだ! できるだろう、お前なら!
……………………。
できなかった。
思考は意識の海の中のごく表層でぱちゃぱちゃ跳ね回るだけで、思考の深淵へと入っていかない。
気づけば同じところを思考がループしている。

パパとの間にはまたひどい溝をつくってしまった。
岡部の体は見つける手立てすらない。
何もかもが、加速度的に悪くなっていく。
わたしがもがけばもがくほど、事態は悪化の一途をたどる。

どうしてパパは分かってくれないんだろう。
どうしてわたしはこうも、ひとりで空回りしているんだろう。
わたしとパパは、お互いなにか別のものに対して話しかけているみたいだ。
昔はこうじゃなかった。
わたしが小さい頃、パパの口癖は「この子は天才だ!」だった。
7歳で論文を読み、9歳で独自のラプラシアン方程式の使い方を見つけたわたしのことを、パパは心底誇らしそうだった。
『いつか私のような偉大な科学者になる』――いつもそう言っていた。
その日が来るのを、本当に楽しみにしているみたいだった。
だからわたしも、その期待にこたえるために精一杯がんばった。
でも――。
『電話してくるなと、言ったはずだ』
『貴様どこまで私を愚弄すれば気がすむのだ!』
どうして。
わたしは、あるはずのない答えを探し続ける。
どうしてこうなってしまったのか。
どうすればよかったのか。

わたしが小さかったころ、わたしの家庭は決して裕福ではなかった。
パパは論文を書くかたわら、論文の翻訳や大学研究所の実験手伝いなんかの仕事をしていた。
労働時間のわりに実入りのすくない仕事だ。
それでもパパは泣き言ひとつ言わなかった。わたしやママを養い、そのかたわら自分の研究のために論文を書いていた。
パパはいつも寝不足だった。
だからあんまりパパと一緒に外に出かけた記憶がない。
休日のパパはいつも書斎にこもりきりで、仕方ないからわたしもひとりで図書館に行き、論文を読んでいた。
パパにほめてもらいたい。パパの仕事のお手伝いがしたい。
その一心で。

その結果がこれなんだから――もう笑うしかない。

……このまま、休んでしまおうか。
ふと思った。
悪いアイデアではない。
ずっと考えてはいたことだ。
今から3ヶ月くらい、特になにもせずだらだら過ごして、その間にあった出来事を整理してからタイムリープする。
それから頑張ればいい。
頭を整理するための、長いバケーションだ。
どうだろう。
なかなか悪くない案のように思うけど。
――駄目よ、もちろん。
わたしの中のもうひとりのわたしが、容赦なく叱責する。
――その結論はもう出ただろ、少し前に考えて結論を出しただろ! 論外よ、そんな消極策は逃げ。時間も安全もじゅうぶんあるんだったら、それもいいでしょうよ。でもこの戦いにはまゆりが――まゆりの命がかかっているんだぞ!
分かってるわよ。わたしは反論する。もうひとりの自分に。でも、1回のタイムリープごとに事態悪化の危険が伴うのも事実でしょ。ロングスパンでタイムリープしたほうが、いいこともあるかもしれない。
――駄目に決まってる! 容赦ないわたしの反論。『かもしれない』を100個ならべて素敵な理論ができて、それで世界が救えるんなら、そうしなさい。でも分かってるでしょう、そんな都合のいい理論はないって! この世界は不条理。不確実性と観測限界に満ちている。そんな世界で少しでも可能性の高い理論を目指してもがくのが、わたしたち科学者でしょう?

――分かっている。

わたしたちは、もがかなくてはならない。
岡部を連れ去った奴も不明。
天王寺綯の目的も不明。
『送信者』を追って問題が解決するかも不明。
そんな不明と不確定と不確実性が支配するこの世界で、わたしたち科学者は、血を吐きながら『確定』したものを探さなくてはならない。
迷っている暇なんてない。
ぐずっている暇なんてない。
笑いながら、わたしたちは理論を探して、泥の道を這い進まなくてはならない――
声に出して言ってみる。
「前に、進まなくちゃ……ならない……」


そのとき、声が聞こえた。

<「その通りだ、紅莉栖。お前ならやれる」>

「誰?」
思わず立ち上がって、声に出して訊いていた。
まわりを見回す。見知った顔はひとりもいない。
耳元でささやくように、誰かの声がきこえた。
はっきりと。
電車のなかの人たちが、急に立ったわたしを不審そうに見る。わたしを横目に見ながらひそひそ話をしている人もいる。
あ……。
あわてて座る。恥ずかしさが後からやってくる。
――幻聴?
耳の後ろから、聞こえたような。
一瞬のことで、よく聞き取れなかった。
いや、でも、はっきり聞こえた。幻聴にしては声がリアルすぎる。
まるで、現実とは違う位相から聞こえてきたような、はっきりとした声。
知らない人の声のような……知ってる人の声のような……。
――いいや、考えすぎだ。
そんなはずないじゃない。
それらしい人が誰も近くにいない状態で、こんなふうに移動する車両で、誰かがわたしを呼ぶ声がするなんて、科学的にありえない。
幻聴だ。さもなければ、なにかの遠い放送音を聞き間違えたのだ。
そう思うしかない。
でも、おかげで頭ははっきりした。
霞がすっきりしたみたいに、思考がクリアになっている。
あの声の主の――おかげ?
まさか。
どちらでもいい。
――そうだ。世界線測定カード。あの世界線は、いまいくつを示しているだろうか。
ポケットにあるそれを取り出してみる。
それは以前見たときより、少しだけ変わっていた。

凾cIVERGENCE=0.99999999999008%

――桁が、増えてる。そして数字が、008ポイントだけ増えてる。
これは何を意味するのだろう?
何とも言えない。
ただ、数字が変わった理由は想像がついた。鈴木イサオに『エル・プサイ・コングルゥ』というあのキャンセルDメールを送ったからだ。あれで過去が微妙に変化し、世界線に超微小の移動が起こったのだ。
できればもう一度、無意味なDメールを送信してこの数値の変動を確かめたかった。
もしわたしの予想通りだとしたら、どんな無意味なメールでも、この世界線測定カードの桁は最小位が1〜2ポイントは変動するはず。
このカードを応用すれば、ひょっとしたら『わたしが望む世界線』にピンポイントで指定してDメールを送れるようになるかもしれない。
そうなれば、強力な武器になる。

「立ち止まることは許されない、か……」

立ち止まれないのなら、とにかく考えることだ。
考えることなら今すぐにできる。なんの道具もいらない。
まゆりと岡部、ふたりの命が、わたしの頭脳にかかっている。
小さな頭蓋骨のなかだけの、誰にも頼れない、孤独な戦い。

考えてやろうじゃないか。

まず最初に思いつくこと。
岡部の体を取り戻すために、タイムリープするべきか、否か。
これに対する回答はすぐ出る。『その問いは科学手法的ではない』だ。
問いの設定方法が間違っている。
わたしの武器はいつだって科学的論法。
そこからずれれたら、いつだって失敗が待っている。
科学はいつだって、正しく目的を設定し、その問題を解決するための仮説を立て、実験によって客観的に仮説を確かめる。それしかない。わたしにはそれしかない。
わたしはいつも持ち歩いている小さなメモを取り出して、ペンで思考を走り書きしていく。
まず、目的を正しく定義する。
岡部を取り戻すこと? 違う。
『岡部の記憶死を回避し、岡部の力でβ線へ世界線移動を実現すること』だ。
では、目的の達成を阻むものは何か?
1.岡部の意識がないこと。
2.岡部の体がどこにどんな状態であるか分からない。つまり岡部の意識が戻っても、自由に行動できない可能性があること。
3.β線への移動を阻む、正体不明の敵、天王寺綯がいること。
よし。正しく定義できた。
こうして考えると、2よりも1が問題であり、1よりも3が問題であることが分かる。
この推理で間違っていないと直感する。
この推理を進めた先に、わたしの求める最適解が存在するはずだ。
では、問題を解決するための仮説を立て、そのうえでこれから取るべき行動を決定しよう。

…………………………。

………………。

…………。

よし、分かった。
これからわたしがすべきこと。それは――
『送信者』を探す。
岡部の体を捜すのは、あとまわし。
これが最適解だ。
今ある情報の範囲で動くなら、これがベストだ。

次の行動を『送信者』探しに絞った理由はみっつある。
ひとつめ。岡部の体を探すためにタイムリープしても、状況が良くなるとは限らないこと。
もう疑う余地はないが、天王寺綯はタイムリーパーだ。そうである以上、タイムリープすることで相手の裏をかけるとは限らない。最悪、この『岡部持ち去り』自体が、わたしのタイムリープを誘う罠の可能性もある。
ふたつめ。『送信者』に勝ってノイズメモリーの送信をキャンセルすれば、岡部の体持ち去りも一緒にキャンセルされる可能性が高いこと。記憶死していない、元気な岡部を誘拐するのは、記憶死している岡部を誘拐するより、ずっと難しい。まずそっちの可能性を確認したほうが、リスクはぐっと減る。
みっつめ。今のわたしに何より足りないのは、情報。情報がないために思い切った策を打てないでいる。では情報をどこから得るか、を考えたとき、コミマにいる2人目の『送信者』から情報を取るのが最も適しているのではないか、と思う。鈴木イサオの言葉からして、今回の『送信者』は必ずしも天王寺綯に同調していない。こちらに対し協力的な可能性さえある。うまく説得できれば、天王寺綯に対しての有効な協力者になってくれるかもしれない。
そうでなくても、2人目の『送信者』は、今回の作戦全体を理解しているフシがある。そいつから情報を聞けるだけ聞き、めぼしい情報がなかったら仕方ない、そのうえでタイムリープする。
逆に、いま焦ってタイムリープしてしまい、『2回目の今日』に戻ったときに、まだ『送信者』がコミマにいてくれるかどうか、確信がない。
この世界線変動率0.99999999999%の世界線では、誰がいつ死ぬかという結論は変わらないけど、死ぬまでにどんな行動をとるかという過程はかなり変幻的に動く。タイムリープしても同じ時間を繰り返せるとは思わないほうがいい。

アナウンスが響く。
電車が駅についた。
人がどっと降りる。
液体クロマトグラフィーを流れる薬品のように、それぞれの意志をもった人々が電車から吐き出されていく。
そのとき、なんとなく、不思議な感じがした。
どう言えばいいのか分からない。ほんの数ミリ秒だけ体が宙に浮くというか――前進の毛穴がふっと開くというか――とにかく日本語にも英語にも適切な言葉のない、ふわっとした感触。
そして、その声が、聞こえた。

<「この駅で、降りろ」>

「…………!?」
急いで周囲を見る。
誰もいない。
さっきと同じ声だ。さっきよりも確かに、はっきりと聞こえた。
男の人の声だ。でも誰かまでは分からない。
もう声は聞こえない。さっきの不思議な感触もない。
『ドアが閉まりますー。お気をつけくださーい』
無気力なアナウンスの声。
ドアが閉まろうとする。
……え、閉まる、閉まるって……でも、降りろって声が、
わたしは立ち上がっていた。
どうする。
どうする?
降りるのか、降りないのか!?
こ、こんなときは、科学的考察を――
っ、間に合わないっ!

科学的考察や論理的判断が間に合わないとき――
人は自分の心の中にある『なにか』に従って行動する。

わたしは走った。
ギリギリで電車のドアをすべり抜け、駅のホームに下りる。
わたしの背中のすぐ後ろで、ドアが音をたてて閉まった。
……あっぶな。
電車のすべり込みダッシュ、ダメ、ゼッタイ。
心臓がドキドキ跳ねている。
ああ、降りちゃった。
たいした考えもなしに降りちゃったよ。
わたしらくしない、なんて非論理的なことを。

「あー、クリスちゃんだー! トゥットゥルー♪」
「あれー牧瀬氏、いきなり出てったかと思ったら、何でこんなとこにおるん?」
「あれ、あんたたち……」
荷物カートを持った橋田とまゆりが、駅のホームに立っていた。
「どうしてこんなとこに?」
「そりゃあこっちの台詞だお。牧瀬氏、コミマ行くって言ってたのにいきなりラボ飛び出してそのまま帰って来んし、電話にも出んし、しょうがないから先にコミマ行って待ってようと思って電車乗り継いで電車待ちしてた←今ココ」
「そ、そう」
「クリスちゃんこそ、どうしてここにいるのー?」
「……それは」
岡部の消失。
謎の声。
『どうしてここにいるか』……その答えは一言では表せない。すごくたくさんの要素がある。
けど、わたしは自分が言うべき言葉を瞬間的にみつけだす。
「それはもちろん、コミマに行くためよ。決まってるでしょう?」
「あー、そっかー♪」
うれしそうなまゆり。
「それにしても移動中に偶然駅でばったり会うとかすげえ確率すな」
「そうね」
偶然?
そうなんだろうか。
『この駅で降りろ』――。
あの言葉。
偶然で片付けてしまって、いいものだろうか。
「あいつならこんなとき、言うのかな――運命石の扉《シュタインズゲート》の選択だ、って」
「え、なにか言ったー?」
「ううん、なんでもないわ」
とにかく、道は決まった。
決まったのなら、前に進まなくてはならない。
「さあ、わたしの道は誰にも邪魔できないわ!」
「おーすげー牧瀬氏テンションたけー」
「ふん、コミマが何よ、SERNが何よ! どんな敵だろうがぶっ飛ばして、地べたにはいつくばらせてやるわ! この天才科学者、牧瀬紅莉栖の手でねっ!」
「よっ、天才少女ー!」


†  †  †


「もう駄目……生きててすいません……何でもするから、もう許して……」
死にそう……。
駄目、もうなんか駄目。動けない……。
地べたにはいつくばって許しを請いたい気分。
「なに、ここ……? 教えて、まゆり……」
「えー? ここはねー、コミマっていうね、同人誌即売会場だよー」
「同人誌……会場……ここが? 地獄の一丁目の……間違い、でしょ……?」
照りつける陽光。
乾いたアスファルト。
そして見渡す限りの人、人、人の群れ。
動かない。
動けない。
人が、いすぎて。
「ここは、何……? 日本の全人口が、いっせいにここに来たの……?」
「いんや、毎年こんなもんだお」
「今年はちょっと少ないよねー?」
嘘……これが……少ない?
人が多い? そんな生易しいもんじゃない。
人は砂漠を見て、『わー砂が多いー』とは思わない。ただ砂漠ドン、それだけだ。
それと同じ。
わたしたちには、人間がこれほど海のように大量にうようよしている状態を表現する言葉がない。
地面が見えない。
人の頭しか見えない。
照りつける直射日光。
ふきでる汗がつぎつぎに額をすべり落ちる。
こんな暑さのに耐える格好してないんですけど、わたし……。
「ねえ、岡部もこのコミマ、来たことあるの?」
「あるお」
「どーせ貧弱なあいつのことだから、途中でへばってたんでしょ?」
「いんや、『フゥーハハハ、人がゴミのようだ! これより我が『天国へ至る道』作戦《オペレーション・ヴァルハラ》を始める!』とかって、異様にテンション上がってたお。人ごみとか見ると無条件で何か持ち上がっちゃう人種なんだと思われ」
あ、そう……。
「あ、じゃーそろそろまゆしぃは並びに行くのです」
「ガンガレ」
「……え? なに、並ぶって、ここの今は並んでるんじゃないのですか?」
「おー、ここはね、並んでるんじゃなくて、単に人がたくさんいて前に進めないだけ」
「は」
「じゃあ、行ってくるねー! トゥットゥルー♪」
そう言ってまゆりは人ごみに消えた。
暑苦しい人の群生林のあいだを、スルスルと小動物のようにすり抜けながら。
「そろそろ開始だお」
「へ?」
地響き。
「へ……?」
地面が揺れてる。なに? 地震?
遠くでなにかが連続してはじける音。拍手……?
なにかが、くる。
なにかものすごく大きな力が、この土地全体を覆っている予感がする。
人の波が、動き出した。
「お、お、おおお!?」
視界がひっくり返った。
そこから先は、あんまり覚えていない。
人の濁流が波濤のように押し寄せる。なんだかわからないものの力に翻弄されて、わたしは前に押し出されるように進んでるんだけど、これほんとに前? わからない。橋田ともあっという間にはぐれた。拡声器で誰かが「一列に並んでくださーい!」って叫んでるけど、そもそも列なんてあるのか、この人海原の中に?
暑い。
死ぬ。
溺れる。
はっ……橋田っ……! まゆり……っ!
で、溺死する……! 人ごみで溺死するこのままじゃ……!
前がどっちか分からない。自分がどこに進んでいるのか分からない。
そして最大の衝撃は、ここがどうやら会場の『外』らしいってこと。
か、会場の中は一体どうなってるっていうんだ?
想像のなかの会場は、赤い鬼と青い鬼が人々をつまんでは食っている地獄絵図。それでも人々は我先にと前に進んでいく。何のために? 同人誌やグッズを買うために? 嘘だろ。ドラえもんの秘密道具でも売ってるんじゃないのか?

結局、会場に入るまでに1時間かかった。

熱い。
視界がかすむ。
足が動かない。
喉が渇いた。
わたし、ここで何してるんだっけ……?
「あー、クリスちゃん、大丈夫ー?」
「あ……あ、あ……」
「クリスちゃん、ジャングルで遭難した軍人さん人みたいになってるよー? はいお水」
「……っ! あ、うぐ」
「ゆっくり飲んでねー」
「ぐっ……んぐ、んぐ、んぐ、んぐっ……ぐっ!」
「あ、へんな音したー♪」
「…………!! ……!」
「よしよーし」
「……っ! っ、はあ、はあっ、はあっ! ……生きてる、わたし、生きてる……っ!」
「その格好すごく暑そうだもんねー」
「暑い……もうなんか逆に、汗が出てこない」
「着替える?」
何!
「着替え……あるの……?」
「うん、布地が薄いから、けっこう涼しいよ?」
何だと!
「まゆり! あなたがここにいてくれて、ほんとうに良かったわ! わたしちょっと泣きそうよ!」
「あははー大げさだなークリスちゃんは」
「で、どんな服?」
「あれー、クリスちゃんには今朝説明したよ? ほら、これ」

コスプレでした。

ええええええええええええええええええええええええええええええ。
ええええええええええええええええええええええ。

でも着ました。
(涼しかったです)

「まゆ氏乙ー……って牧瀬氏がうらら先生のコスしとる!? ついに目覚めた?」
「うるさい、深く突っ込むな……命には替えられないのよっ」
「でもすごいねー。クリスちゃん、すごく似合ってるよー?」
「確かに、なんかサマになってるお。なんかいかにも理科の先生、って感じ」
「ほ、ホント?」
「うん!」
「そ、そうかー。や、やだなあもう、わたしったら。こんなトコでこんなカッコしちゃって。恥ずかしいったらないわ。ねえ、この襟の角度、変じゃない?」
「変じゃないよー」
「スカートの位置とか、変じゃない?」
「変じゃないよー」
そ、そうか。
ふ、ふふん。
………………。
……。
「……ねえ、橋田、さっきからわたし、変じゃない?」
「すっごい変だお」
………………orz。


†  †  †


とまあ、そんなことがあって。
わたしは例の『送信者』を探すことにした。
同人誌を売ってる人、コミマのスタッフ、その他おおぜいの一般客から、それらしい人を探す。
――探す、っていってもねえ。
これだけたくさんの人から、どうやって探せばいいんだろう?
会場は昼を過ぎて少しずつ人手が収まってきた。戦利品(と呼ぶらしい)のアニメ紙袋を手に帰っていく人が目立つようになった(橋田がラボでいつもエロ系のゲームやってるせいで見慣れるんだけど、あれ持ったまま電車に乗るんだよね……)。
それでも、会場には数え切れないくらいの人がいる。うまく人波に乗らなければ行きたい方向にも行けない。
こんな中からどうやって探すんだ?
とりあえず、鈴木イサオも持っていたVR用ヘッドギアを持っている人を探す。あるいはそれが入りそうなバッグを持っている人を探す。
しかしこれが意外といない。
みんな薄い本をバッグに詰めてるから、ヘッドギアみたいにかさばるものを持ってる人はそうそういないみたいだ。
一瞬この人かな、と思ったらただのヘッドホンだったり。
なかなか見つからない。
2時間ほど歩き回って、さすがにへとへとになってしまった。
まゆりたちはコスプレ仲間と合流して、一緒に行動しているらしい。
えらいわ、これは。
わたしは日陰に座って、少し休むことにした。
「……ふう」
いろんな人たちが、わたしの前を通り過ぎていく。
意外と女の人も多いんだな……。
みんななんだか楽しそうだ。彼らにとっては半年に1度のお祭りなんだから、楽しいのは当たり前か。
「なんだかな……わたしはここでも、ひとりぼっちなのか……」
小学校では理科と数学が異様にできたから、授業になじめなくて。
アメリカに留学したら、日本人のしかも女の子が大学にいるからって変な奴だって思われて。
たまに戻ったら天才少女だとかなんだとかで、一歩はなれて接されて。
そしてここでもひとり。
――思えば、わたしをふつうに集団の一員として迎えてくれたのって、岡部のラボの人たちだけだったのかもなー……。
………………。
なんだか、封印していたはずの寂しさがぶり返してしまいそうだ。
「いかんいかん……捜索を再開しなきゃ」
わたしは腰をあげた。
と。
「ん? メールか」
ケータイ画面に『メール受信しました』の文字。
まゆりかな? と思って、なにげなく開いてみる。

[Date] 8/21 12:11 [From]chris-m@docono.ne.jp
[Sub] [Temp]
[Main]右の階段登れ


「…………?」
一瞬、なにか分からない。
けど送信者を見たとき、それが何か一瞬で理解した。
「この送信アドレス……!」
送信日を見る。
……5日後。
つまり。
「Dメール……!」
そして、送信したケータイのアドレスは、わたし自身のアドレス。
つまりこのメールは、5日後のわたしが、今のわたしに向けて送ったメールということになる。
………………。
冷静に考えろ、わたし。
冷静さだ。
冷静さを失うんじゃない。
ここで問題。
このメールは信用できるか否か?
――否。
5日後に、誰かがわたしのケータイを奪って、わたしに罠を張るために送ったDメールの可能性がある。
では次の問題。
このメールを無視できるか?
――これも否。
いまわたしには手がかりがこれしかない。『送信者』につながる可能性がある以上、無視することもできない。
罠にしろなんにしろ、右手の階段には何かがあるんだ。
それは間違いない。
考えた末、わたしは右手の階段とやらに、別ルートから行くことにした。
コミマの会場はいろんな通路でそれぞれの広場や建物がつながっている。
わたしはあえて時間をかけてぐるっと回り道して、メールに指示のある『右手の階段の上』に行くことにした。
尾行はないようだけど、念のためときどき急に走ってわたしの居場所を分かりにくくする。
念のため、ケータイの時計を見ながら、何分にどこを通ったか記憶するようにする。
こうすれば、わたしが今どこにいるかを知っているのは、未来のわたしだけになるはず。
大回りして建物の中を通り抜け、『階段の上』の広場から少し離れた植木に隠れて様子をうかがっていると、再びメール受信あり。

[Date] 8/21 12:25 [From]chris-m@docono.ne.jp
[Sub] [Temp]
[Main]わたしは今植


[Date] 8/21 12:25 [From]chris-m@docono.ne.jp
[Sub] [Temp]
[Main]木の傍メール


[Date] 8/21 12:25 [From]chris-m@docono.ne.jp
[Sub] [Temp]
[Main]が罠か警戒中


「…………」
わたしが12時25分に植木のそばにいることを知っていて、かつメールが罠かどうか怪しんでいることも知っている。何よりDメールの送信が自分だったくらいでは簡単に信用しない、わたしの用心深さも見抜いている。
間違いない。
このDメールを送ってるのは、未来のわたしだ。信用してもよさそう。
……ふう。
それにしても、ずいぶんと回りくどいやり方をするものだ。
こんなことができるなら直接Dメールで岡部を助ける方法を教えてくれればいいのに。
合理的なわたしがそれをしないということは、世界線収束のせいでDメールのアドバイスは効きにくいことを見越しているのか、あるいは岡部を助けることはそもそも不可能なのか、どちらか。
後者の可能性はあんまり考えたくなかった。
と、次のDメール。

[Date] 8/21 12:27 [From]chris-m@docono.ne.jp
[Sub] [Temp]
[Main]まっすぐ西へ

……はいはい。分かりましたよ。
もう警戒せず、素直に先に進む。
西に進むと、人の往来が徐々にまばらになってきた。コミマの中心から外れてきている。
海風を感じながら遊歩道を歩いていくと、突き当たりに大きな両開きの扉が現れた。ほかに道はない。
わたしは少し待ってメールの着信を待った。
けど2、3分待っても、続きの指示は来ない。
「……そ、扉を開けろってことね。へいへい」
なんだか自分にいちいち指図されるのって変な気分だな。
重い扉を開く。
中は……暗くてよく見えないけど、なにかの施設の裏口のようだ。扉の先に薄暗い廊下が続いていて、両側にオフィスなのか会議室なのか、殺風景な部屋が続いている。ひんやりした空気。
ひとの気配はない。
「ここまで来ると、誰もいないのね……」
廊下の中ほどに『関係者以外立ち入り禁止』の黄色い札が立ててあったけど、今さら引き返すわけにもいかないので、無視して先に進む。
建物の中ほどまで進む。ケータイに着信。

[Date] 8/21 12:8 [From]chris-m@docono.ne.jp
[Sub] [Temp]
[Main]203会議室


[Date] 8/21 12:38 [From]chris-m@docono.ne.jp
[Sub] [Temp]
[Main]心を強く持て

「…………」
右手の部屋を見ると、くすんだ木製のドアに、黒く『203』の文字。
耳をすましてみる。
誰の声もしない。
あれだけ人がいる会場とは思えないくらい、ひどく静かだ。
そういえば、涼しいからといってコスプレをしたまま来てしまったことに、いまさら気づいた。
ドアノブをそっと握り、開く。


†  †  †


扉を開けると、むっとした熱気。
続いて古い埃の匂い。
空気がわたしの横を通り抜けて逃げていく。
部屋は薄暗かった。
コミマ会場から少し外れただけなのに、ここはひどくうらぶれて、人々から見捨てられた場所みたいに見える。
日に灼けたカーテンの端から、午後の光がわずかに漏れて、室内にオレンジ色の光の帯をつくっている。空中を舞う埃が、帯の中で輝いている。
どこか遠くで蝉が鳴いている。
部屋には飴色の会議机と、薄汚れた椅子が置かれている。

部屋の端に、誰かが座っていた。
ゆったりした服を着ている。
逆光のせいで顔はよく見えない。
見えないけど、わたしはその人を、知っている気がした。
背が小さい。
椅子に座って、じっとこちらを見ている。
ゆったりとカールした金髪。
息をひそめた、猛獣の気配。

「御機嫌よう」

とその人は言った。
しわがれた声だ。どうやら老人らしい。
そう思ってみれば体は小さく縮こまっている。
でもその声には、老人の脆弱さは微塵もない。
そのシルエットは、襲撃の予感に体をたわめている猛獣のようだ。
わたしは何か言おうとして、喉がカラカラになっているのに気づく。
「よく来たね。迷わなかったかしら?」
…………言葉が出ない。
なにか言うべきなのだろうけど、喉がしびれている。
「とりあえず、お掛けなさい」
子どもを諭すような声。
老人――初老のおばあさんだ。
年齢は50歳くらい、だろうか。
いや、違う。
初老のおばあさんなんかじゃない。こんな危険な――不用意に近づけば食いちぎられそうな凶暴な気配をした人間は、老人とは呼ばない。
「…………あ……」
動こうとして、体が硬直していることに気づく。
「……こんな」
おばあさんはあくまで優しく語り掛ける。
「さあ、立ってないで、お掛けなさいな。……話があるのでしょう?」
まばたきができない。
かみしめた顎の筋肉が硬直している。
「……こんな……ことって……」
汗が床に落ちた。
「積もる話もあるんだし、まずは座って、落ち着きましょう。たまには女同士、ゆっくり話し合うのも、悪くないわ」
「……こんな、こと、あるわけない」
「いいじゃないの、そんなことは。……わたしがあなたくらいの年のとき、あなたはもうおばさんだったわ。それが逆になっただけ。気にするほどのことじゃないわ」
「……いいえ、違う。あなたがここにいるはずない。あなたはここにいては、いけないはず」
「……言いたいことは分かるわ。でもね、牧瀬さん。世界っていうのは、何だって起こりうる所なのよ。あなたも年をとれば分かるわ」
「ちがう……ありえない。だって、あなたは、」
「……座りなさい」
「あなたは、10年前に、死んでいる……はずなのに……!!」
カーテンが揺れて、室内の光が動く。
透明な金髪。
しわの刻まれた顔。
緑がかった瞳。
時間が経っても、その顔のもつ、戦士の陰は消えていない。
どうして。
どうして、あなたがここにいるんだ……!
「まさか、あなたが……『送信者』……!?」
「そうよ。驚かせたみたいでごめんなさい。でもまずは座って、あたしの話を聞いてちょうだい。いろいろあったのよ、この25年間……本当に、いろいろね。あなたたちと、別れてから」
「なぜ……なぜですか。あなたが『送信者』なわけがない。その着信は、岡部を殺す電話なんですよ……どうしてあなたがそんなことするんです!」

「答えてよ、阿万音、鈴羽……!!」

机の向こうに座る老女は、にっこりと微笑んだ。
「なんて懐かしい名前。その名前を聞くのは何年ぶりかしら。まるで若返るようだわ」
「やっぱり、あなたは阿万音鈴羽なんですね……!? レトロPCを手に入れるために、過去へタイムトラベルしたっていう……」
「その名前も懐かしいけれど、あたしは今違う名前を使っているのよ。『橋田 鈴』っていうの。よろしくね」
橋田、鈴。
その名前、どこかで聞いたことがあるような……。
「いいえ、名前なんて関係ありません。問題は、あなたが何故この時代にいるのか、ってこと。そして何故『送信者』なのか、ってこと。回答次第では、ただじゃおかない」
「質問は一つずつよ、ドクター・レディ。そしてその前に、まずは座りなさい」
「なら最初の質問! この世界線では10年前にあなたは死んでいる。どうやってここにいるのか!」
「では、あなたのために、関係性を少し分かりやすくしてあげようかしら。これよ」
橋田鈴は、テーブルの下に隠していた手を出した。
その手に、なにかが握られている。
黒いなにか。
カーテンからもれてくる光を、にぶく反射させるなにか。
鉄のグリップ。
トリガーの曲線。
サイレンサー装置つきの発射口。
黒い光沢。
実物をアメリカで見たことはあった。
でも、こうやって自分につきつけられて見ると、まるで違って見える。
橋田鈴の――拳銃。
「……っ!!」
後ろを向いて、部屋から逃げようとする。
ぢゅん。
小さくこもった爆発音。
会議室の壁に、穴があいている。
「――フリーズ」
背筋が凍った。
撃った……!
いきなり、一発、警告もなしに、撃った……!
やばい。
橋田鈴……引き金を引いたのに、まるで表情が変わっていない。
小石を指ではじいたくらいにしか思ってない。
「いきなりで驚いた? ごめんなさいね。でもつい、若い頃の癖でね……昔から警告が面倒で、最初に一発撃っちゃうの。まだ気が短かった時の名残ね。でも安心して、ちゃんと当たらないように狙ったから。……昔と違ってね」
安心――できるわけ、ない。
もしこれが、当たっていたら――
「……っ、……!」
一拍遅れて、思い出したように汗が吹き出す。
「グロッグ26。9ミリのパラベラム弾を17+1発撃てる、主に軍用で使われている拳銃よ。プラスチックフレーム採用で女性にも扱いやすい、この時代にしてはとても良い銃。最近では、バージニア工科大学銃乱射事件で33人を殺した銃、といったほうが有名かしら? かなりカスタマイズしてあるから、ほとんど原型はとどめていないけれどね」
銃口から目が離れない。
「あなたにこの銃を見せたのは、話し合いをシンプルにするためよ。頭はすっきりした? もしまだ混乱が残ってるようだったら、もう一発撃ってあげてもよくてよ。今度はもう少し近くにね」
「な、っ……!」
「落・ち・着・い・た?」
地獄の底から声が聞こえる。
「え、ええ……落ち、着いた、わ」
そう答えるのが精一杯。
けど橋田鈴はにっこり笑った。芸をした子犬を褒めるような笑顔だ。
「結構よ。では、座りなさい」

わたしが素直に座ると、橋田鈴は、それでね、と語りはじめた。

「あたしの仕事はね、岡部くんを二度と目覚めさせないことなの」
「……わけが分からない、って顔をしているわね。無理もないわ」
「あたしが『送信者』なのは、もう知っているわね。それはある『契約』のためよ。天王寺綯――あたしは彼女を、フランスの古いアニメ映画になぞらえて“時の支配者”と呼んでいるけれど――彼女から、この計画に協力すれば、ある『報酬』をももらえる、と提案を受けたの。あたしはその契約を受けた。その報酬は――『タイムマシンに乗せてもらうこと』」
タイムマシンに……乗せてもらうこと?
「知っていると思うけど、この世界線であたしは2000年の夏に死ぬ。あたしはその情報を、未来から入手したの。その『死』は、世界線収束のせいで絶対に避けられない――そう分かっていて、あの娘はあたしに取引を持ちかけた。『仕事を協力してくれるなら、本物のタイムマシンで未来に連れて行ってあげる』――あたしはその取引を、受けたわ。当然でしょう? 自分が死ぬとわかっていて、それを避けられる手段があると分かってて、気づかないふりをできる人間なんていないわ。そして2000年の夏、あたしは行方不明となり、戸籍上は『死亡』として処理された――主観時間からすると、ほんの1ヶ月前のことよ。この時代に戻ってきたあたしは、タイムパラドックスを避けながら、“時の支配者”の手伝いをした。あの娘の、狂った計画のね――」
「そう、今のあたしは――ラウンダー。仲間を奪った、嫌悪すべき一団のメンバー。だけどそれも重要な事ではないわ。今のあたしは、すべての任務を果たし、なににも縛られない。ここからは、あたしのやりたいようにさせてもらう」
「あたしの仕事はひとつ。あなたを試すこと。もう少し正確に言うと、あなたが岡部くんを助け出せる可能性を『絞りこむ』こと――理由は知らない。ただ、世界線を選別し細かくより分けるために必要な作業だと聞いているわ。あなたが岡部くんを助け出す確率を、だいたい0.01%くらいにしろ、と言われているの」
「そしてその条件は――学期末の学力テストよ」

テスト?

「テストって、でも、一体何の……」
「冗談でも何でもないわ。こう見えてもね、あたしはこの世界線で、大学の教師をやってたの。日本の学生はねえ、このテストとかいうものに人生をコントロールされるのよ。あなたもその気分を味わってみたら?」
「そうではなくて。岡部の命をかけて、学力テストをしろ、と?」
「問題は3問。どれも専門的な知識を必要としない、考えれば誰でも分かる問題よ。今からプリントを配るわ。カンニングは禁止ね。質問も禁止。分かった?」
「なっ……ちょ、ちょっと待って、ちゃんと説明を」
「説明はしたわ。わたしはあなたの母親ではない。知りたいことは自力で考えなさい」
1枚の紙が、目の前に置かれた。
紙には問題文が少しだけ。右下には『答:______』という簡素な文字。
横には何の変哲もない鉛筆が2本と、消しゴムが1個。
テスト。
ほんものの、義務教育につきものの、学力テストだ。
でも――
「さあ、どうしたの? そろそろはじめるわよ」
「こんな馬鹿らしいこと、できません」
「いい切り返し。そう言われれば、あたしはあなたを説得する必要が出てくる。時間を稼ぐつもりね?」
「違います。わたしはあなたにこんなことをやめさせたいだけ。人の命を賭けた学力テストなんて、この世にあっちゃいけない。それが分からないんですか?」
「それでも――あなたはこのテストを受けなくちゃならない。でなければ岡部くんは助けられない」
くそ……。
焦りがこみあげる。
分かっている。
敵のほうが圧倒的に立場が強い。
でも。
相手の用意したシナリオどおりに反応していても、いずれはジリ貧だ。
それなら……これはどうだ?
「無駄です。わたしは前の世界線でテストを受けた。そしてその後、タイムリープでテストの記憶を過去に飛ばした。テストはするだけ無駄です。問題も正解も知っているから」
「嘘ね。あなたはタイムリープしていない」
な――
即答……? なぜ?
このハッタリを見破るには、実際にテストをさせてみるしかない。
それすらさせずに、なぜ分かった?
「あなたの理屈では、ひとつ前の世界線で『テストに失敗したあと、ラボまで帰ってタイムリープマシンを動かした』ことが前提になっている。そうね?」
「……そうですが」
「馬鹿ねぇ――あたしが、そんなこと、許すはず――ないじゃない」
銃口がつきつけられた。
わたしの額に。
グロッグ26。
前進に痺れのような悪寒が走る。
「な……」
「テストに失敗したあなたを、わたしが『それじゃあ元気でね』と言って手を振って帰すと思う? なにもせずに? 相手が『あの』牧瀬紅莉栖だと分かっていて――?」
銃を握る手に、力がこもる。
わたしは銃のトリガーから目を離せない。
トリガーにかかった指に、力が、入って――
「牧瀬紅莉栖。タイムマシンの母。あなたのせいで、2036年の世界でレジスタンスの仲間がたくさん死んだ。忘れたくても忘れられないわ。SERNの頭脳、300人委員会のメンバー、憎んでも憎みたりない、あたしたちの敵――」
トリガーの指が震えている。
橋田鈴の指に、力が、入って――
「………………………………………………冗談よ」
銃が、遠ざけられた。
今まで息を止めていたことに、ようやく気がついた。
「……っ、あ、あなたは、本気で、わたしを」
「このテストに失敗したら、あなたには死んでもらいます。容赦なく、ひとかけらの躊躇いもなく死んでもらいます。ひょっとしたら世界線の収束によってあなたは死なないかもしれないけれど、その時は両手両足を撃ち抜いて、動けなくしてからどこかに監禁でもするわ。いくら食事を抜いても拷問しても死なないのなら、監禁するほうも楽ね、きっと」
「…………!」
この女、本気だ。
殺す気だ。
どうして。
「どうして、こんな酷いことができるんだ……っ」
涙で視界がにじむ。
「あなたは本当に、あの阿万音鈴羽……? あなたは……ラボメンの、仲間じゃないっ……!」
「人がそんなに簡単に、殺したり殺されたりしていいわけない! きっと何か手があるはず。いっしょに戦いましょう、阿万音鈴羽さん。ふたりで協力すれば……天王寺綯にだって」
ぢゅん、と鋭い音。
「牧瀬紅莉栖」
硝煙の匂い。
拳銃からたちのぼる煙。
「あなたが、あたしの本質を語るな」
机の上に、直径1センチほどの穴。
わたしの手の、すぐ左に。
手の置かれたすぐそばに向けて、橋田鈴が、銃を、撃った……!
「牧瀬紅莉栖。まだ現実が飲み込めていないあなたのために、親切心から教えてあげるわ。ここがどこで、あなたは何をしていて、あたしは誰なのか」
そう言うと、橋田鈴は体を前にのりだした。
わたしに顔を近づける。
「よく見なさい、あたしがあなたにとっての何なのかを」
橋田鈴の目が至近に迫る。
なにを思ったのか、橋田鈴は自分の目の下を押さえ、まぶたの下を露出させる。
いわゆる『あかんべえ』のポーズ。
一体、なにを……。
「見えるかしら? まぶたの中」
橋田鈴のまぶたの中は、きれいなピンク色で……
…………これは。
これは、何?

まぶたの中に黒い粒のような『なにか』がある。

一見すると、それはとても小さい塊だ。目に入っても、ほとんど違和感はないに違いない。
でも、さらに目を凝らすと、その黒い粒の中のさらに一部が、青く明滅している。
機械のように。
信号を発する、なにかの装置のように。
「これ、岡部の話の中で、あなたが言っていた……!?」
「そう。これは未来のSERNの技術で開発された装置。ラウンダーの実働部隊には必ずこれが使われる。捕虜にしたレジスタンスに使われることもあるわ。相手に言うことを聞かせたいときに使う、いちばん低コストで労力の少ないやりかた――これで分かった? 『あたしは何か』っていう問題の答え」
橋田鈴は笑う。
狂戦士の笑いを。
「これは『洗脳装置』――あたしは天王寺綯に操られている。彼女の言うことに従うようプログラムされているの」
なぜ……?
なぜ笑えるの、そんなものを埋め込まれて?
「分かってもらえたかしら? あたしはあなたにとって、身内じゃない。友だちじゃない。――あたしはあなたにとっての、『敵』よ。それだけがはっきりとした答え」
今やこれ以上なく。
自分の置かれている立場を思い知った。
「まあ、そんな怖い顔をするものじゃあないわ。洗脳といっても、それほど強いコントロールを受けているわけではないの」
ふたたび席に腰掛けた橋田鈴は、にっこりと、教師の微笑をうかべる。
「あなたに学力テストを課すこと。不合格なら命を奪うけど、合格なら何でも言うことを聞いてあげること。大きなプログラムはその2つだけで、あとはささやかな禁止事項があるくらい。自由意志も保証されているわ。実際されてみると、べつに大したことないのよ、洗脳って」
そんな。
「それにこの洗脳装置はオマケ。あたしはあくまで自分の意志で天王寺綯――“時の支配者”に協力することを決めたし、自分の意志でここにいるわ。洗脳装置をつけるのも、あたしが自ら進んで望んだことなの。だってこれ以上に信用を獲得できる方法はないものね。おかげで、重要な仕事をいくつも任せられたわ」
自ら進んで洗脳に身をゆだねるような怪物。
そんな相手と戦わなくてはならないのか?
こんな相手に、説得や懐柔や、ましてや共闘が期待できるわけがない。
あとは、実力で、テストをクリアし、橋田鈴を倒す道のみ――
命を賭けて?
「質問はない? もうストップウォッチを押すわよ」
でも。
道がひとつなら――進むしかない。
「ひとつ、約束してください」
わたしは深呼吸をする。
「このテストに合格したら、わたしの質問に答えてくれますか」
橋田鈴はにっこり笑った。
「いいわ。本当ならそんなルールはないけれど、命を賭けてテストを受けるんですもの、それくらいのお願いは聞いてあげなくてはね」
「では、あらかじめ質問項目を宣言しておきます。ひとつめ、天王寺綯の目的。ふたつめ、二次世界線結節とは何か。みっつめ、3人目の『送信者』の居場所。これを絶対に知りたい。それでも約束してもらえますか?」
「優秀な生徒ね。必要点を押さえていて、しかも無駄がないわ。あたしはこう見えて、優秀な生徒は好きなの。大学教師の頃からね。――いいわ、大サービスで教えましょう。その3つの質問に」
「わたしが満足いくまで?」
「あなたが満足するまで、何度でも、どこまでも詳しく。約束しましょう」
わたしは目を閉じる。
メールの文章を思い出す。
『心を強く持て』。
わたしは目を開いて、宣言する。
「……ストップウォッチを押してください」
そして、はじまった。
まゆりでも、岡部でもなく。
他の誰でもない、わたし自身の命の賭かった、死の学力テストが。

第1問目の問題は、じつにシンプルな問題だった。
問題1:4人のギャング――大頭目、頭目、ヒラ、使い走りで、1000枚の金貨を配分する。配分方法は多数決とし、大親分から順に配分率を提案する。反対多数の場合、提案者は受け取りの権利を失い、提案権が下の者に移る。賛否同数の場合は賛成とする。
ギャングたちは自らの利益最大化を目的として、最も論理的に適した選択をするものとする。
このとき、大頭目がすべき提案とは何か。



…………。
これは……。
脳が『立ち上がる』――
わたしは自分の脳が働きはじめるのを、そう表現する。
「質問してもいいですか?」
「なにかしら? 問題内容に関する質問なら、受け付けられないわよ」
「制限時間は何分でしたっけ?」
「3問トータルで50分。だから第1問は、15分くらいで解ければいいかしらね」
「そうですか。できました」
「そう、なら頑張ってね……って、え!?」
わたしは解答用紙を差し出す。
「第2問をください。わたしには時間がないんです」
「できた、って、まだ始まってから2分しか経っていないわよ!?」
「そうですか。じゃああと2問で48分ですね。次の問題を」
「……っ、でも、肝心の答えは……」
橋田鈴が解答用紙をのぞきこむ。
そこには、こう書かれている。

『答 999:0:1:0』

「せ……」
「正解よ……」
当然だ。
わたしの論理演算能力を何だと思っているんだ。

ギャング4人が論理的に行動するということは、全員のとる行動を予測できるということ。
問題では分配人数が4人。
まずはもっと少ない、2人くらいの人数で分配するケースから考える。
分配候補がヒラ、使い走りの2人だったら、ヒラは絶対に1000:0と提案するだろう。
賛成反対同数の場合は可決、という前提があるからだ。何を提案したって通る。
では頭目、ヒラ、使い走りの3人で分配する場合はどうか。
この場合、いちばん分かりやすいのはヒラの行動だ。ヒラは何が何でも自分の番まで提案をまわしたい。自分の提案の番が来たら1000:0の提案ができる。だからどんな頭目の提案も反対するはずだ。
一方で使い走りは、ヒラまで提案権を回したくない。ヒラの提案は1000:0というひどい内容だと分かっているからだ。とすると、ヒラよりマシな提案なら何でも賛成する。したがって頭目がとるであろう提案は『999:0:1』になる。頭目と使い走りが賛成して、可決。
分配人数が4人になっても、同じ考え方をひとつ加えるだけ。
大頭目の提案を、ひとつ下の頭目は必ず却下する。自分の番までまわしたいからだ。とすると大頭目が味方につけるべきは、ヒラか使い走りのどちらか一人。より安く味方につけられるのはヒラ。なぜならヒラの立場からすれば、次の頭目の提案が『999:0:1』という最悪の提案であることは予測できるからだ。そうなる前に、自分に少しでも金貨が入る提案で手をうとうとする。だから『999:0:1:0』という提案に、大頭目、ヒラが賛成し、可決されるというわけだ。

「――素晴らしい。さすがはあの『牧瀬紅莉栖』。でも次の問題は、少し難しいわよ」

次の問題用紙が、目の前に配られる。
なんでも来い。
わたしの脳はすでに『立ち上がって』いる。
このモードになったら、どんな問題も解けない気がしない。
わたしの目的を阻む問題なら、何だってすべて、解いてやる――


問題2:
m≦nである2以上の自然数m、nがある。
岡部倫太郎はm×nの答えだけを知っている。
天王寺裕吾はm+nの答えだけを知っている。
お互いに質問をしながら、元になっているmとnを当てるゲームをしている。

岡部倫太郎「m+nが何なのか、俺の情報だけでは分からないな」
天王寺裕吾「そのことを俺は知ってたぜ」
岡部倫太郎「その言葉を聞いてもまだ分からない」
天王寺裕吾「m+nは14未満だ」
岡部倫太郎「クックック、mとnが分かったぞ、フゥーハハハ!」
天王寺裕吾「なるほど、そうか、俺も分かったぜ」

問題:mとnはいくつか。



……何このしょうもないプチ寸劇。
人物AとかBでいいのでは……。
……それはそれとして、いきなり問題のレベルが上がったな。
さっきの問題とは比べ物にならないくらい、レベルが高い。

「どう、難しい? 天才少女さん」
「うるさい。静かにしてください。考えてるんですから」
――mとnを2人の会話から推定するのか。
さあ、動け、わたしの脳。

岡部はm×nを知っている。
店長はm+nを知っている。
そして相手の数字を、この短いやりとりの中で推理し、確定している。
でも――m+nが14未満ということは、mとnがとりうる数字はそんなに多くない。
これは論理や計算というより、岡部と店長のことばをいかに数学の言葉に翻訳するかにある気がする。
特に、2番目の岡部の言葉と3番目の店長の言葉、これをどう数学的に翻訳するかが鍵だ。
――順番に翻訳していこう。
まず、m+nが何か分からないという最初の岡部の台詞。
ここから、いくつかの可能性を排除できる。
岡部の知っているm×nの数字から、いきなりm+nが推定できてしまうケース。
レアケースだが、そんな組み合わせも確かに存在する。
具体的にはm×nが素数×素数になっているケースだ。この場合、天王寺裕吾のm+nは素数+素数の1つしかないことになってしまい、数あてクイズは一瞬で終了する。
そうはならなかった、と岡部は主張している。
つまりmとnは2、3、5、7、11、13だけを使うような組み合わせではなく、岡部の持っている数字は3×7や、5×5ではないということ。
次の台詞の扱いは重要だ。
『そのことは知ってたぜ』
そのこと――『素数+素数が答えではない』ということを、店長はすでに知っていた。
つまり店長の知っているm+nは、素数+素数では絶対に表現できない数字なわけだ。だから岡部に一発で当てられ、ゲームが終了する危険はなかった。そのことを店長は推定できた。
これでかなり候補が潰しこめる。
店長の持っているm+nは1、2、3、4、5ではありえない。6も……無理だな。3+3で表現できてしまう。7も2+5があり駄目。8も3+5があるから駄目か。おっと、これは相当減るぞ。同じやりかたで9、10、12、13が駄目。
ありゃ。なんと、天王寺裕吾の知っているm+nは11でしかありえなくなってしまった。
これはかなり前進と言えるな。
でも、次で岡部は実にへたれた台詞を言う。
『その言葉を聞いてもまだ分からない』
分かれよ、そんくらい。
m+nが11って分かったんだぞ。はじめから知ってたm×nの情報をあわせて考えると、一瞬で答えが分んなきゃおかしいだろうが。まったく、岡部は問題文でもヘタレだな。
もちろん、分からなかったのには理由がある。
その証拠に、次の台詞を聞けば、岡部にも答えが分かってしまう。
『m+nは14未満だ』
この言葉が最後のヒントになって、岡部は答えを特定する。
つまり逆に言えば、m+nは14未満、この最後の情報を聞くまで、岡部はm+nは11のほかにもあるかもしれない、と思っていたことになる。
実際にさっきと同じやり方で、(素数+素数)で表現できない組み合わせを探すと……15はできる(2+13)、16はできる(3+13)、17は……できない、18はできる(5+13)、19はできる(2+17)、20はできる(3+17)、21はできる(2+19)、22はできる(3+19)、23は……できない、24はできる(5+19)、25はできる(2+23)、26はできる(3+23)、27はできる(8+19)、28はできる(5+23)、29は……できない。
わたしは問題用紙の隅に数字をメモしながら考えていく。
これをずっとやっていくことはできるけど、多分これ以上大きい数字にはなりえないだろう。なにしろ最終的に、m+nは14未満なのだ。そんなに大きい数字を探しても仕方がない。
さて。
一度整理しよう。
現在の論点は、3つ目と5つ目の台詞。岡部が『その言葉を聞いてもまだ分からない』と答え、店長に『m+nは14未満だ』と教えられてようやく、m+nは11だと特定できた。これはなぜか、ということ。
これが分かれば、岡部の持っている数字が何なのか特定できるはずだ。
店長の大ヒントを聞いても、岡部はm+nは11と特定できなかった。
それはつまり、この時点では岡部はまだ『11または17または23または29だな』というくらいにしか、m+nを絞り込めていなかった、ということ。
考えられる可能性はひとつ。
岡部の持っているm×nに、いろんなm、nの組み合わせが考えられたからだ。
そしてそのm、nの組み合わせの中に、m+nが11以外にも、17とか23が含まれていたからだ。
だから可能性をひとつに絞り込めなかった。

……ここまで翻訳できたら、後はもう力技でいこう。
たぶんそのほうが早い。
全パターン洗い出し。

mとnがとりうるパターンは、今のところ何か?
m+nは11で確定なのだから、岡部が最初に持っていた数字の可能性はかなり少ない。
つまり、2と9、3と8、4と7、5と6だ。
わずか4パターン。
と同時に、自動的に岡部が最初に教えられた数字――m×nは、18か、24か、28か、30。
このどれかになる。
順番に可能性をつぶしていこう。
パターン1。もしm×nが18だったら。
この場合、問題文のような話の流れになるか?
…………。
ならない。
矛盾する。
岡部の立場からすると、自分の数字が18だった時点で、店長の数字は2+9である11か、3+6である9か、のどちらかしかない。それ以外の組み合わせは存在しない。
だとすると、店長の1回目の台詞、『m+nは11または17または23または29である』という意味の言葉を聞いた瞬間に、回答をひらめいてしまうはずだ。
だからパターン1、m×nが18、はありえない。
続いてパターン2。
m×nが24だった場合。
これも同様の考え方で成立しない。
この場合のmとnの組み合わせは2と12、3と8、4と6の組み合わせのどれかだけど、2言目の店長の『そのことは知ってたぜ』の台詞で、3と8以外の可能性は消えてしまう。岡部は即座に答えを出せてしまう。
パターン3、m×nが28の場合。
これもありえない。
最後に、パターン4。m×nが30の場合。
これは――
――成立する!
これだ。問題文のような会話になる。
なぜなら、店長の1つ目の台詞『そのことは知ってたぜ』の時点では、岡部は5+6である11でだと思えばいいのか、15+2である17だと思えばいいのか、判断がつかない。絞り込めないのだ。
この条件下でないと、岡部の『その言葉を聞いてもまだ分からない』という台詞は出てこない。
だから、店長の持っていたm+nは11、岡部の持っていたm×nは30だった、というのが真相。
よって答えはm=5、n=6。
これが正解だ。

しかし……
こんなに瞬時にいろんな推定をできる、計算能力の高い岡部……。
ちょっと会ってみたい気もする。

「できたわ」
わたしは解答用紙に『m=5、n=6』と書いて、橋田鈴に手渡す。
「……正解よ」
橋田鈴は天をあおいだ。
「すごいわ。こんなに早く解けるとは思わなかった。ちょっと予想外よ。本当のところを言うと、この問題は解けないと思ってた。この問題をこんなに短い時間で解ける18歳なんて、他にいる? あたしの教え子でもいないわ」
「――教え子? 大学の?」
「そうよ。あたしは日本の大学で、素粒子物理学を教えていたの」
素粒子……物理学?
「未来から来たっていっても、根無し草のあたしには住むところも働くところもなくてね。2036年に学んだ知識をもとに、大学の先生をやってた、ってわけ」
記憶の隅に、カツンとぶつかるものがあった。
「素粒子物理学……橋田鈴……?」
さっき、橋田鈴の名前を聞いたとき、『どこかで聞いた名前だな』って思った。
その名前を見たことがあるのは。
学会誌『サイエンス』の――誌面。タイトルは――
「『リングレーザーを用いた擬似カー・ブラックホールの生成と素粒子注入に関する基礎的実験』――!」
「あら、わたしの論文名まで覚えていてくれるなんて。光栄だわ」
「いや……ものすごく有名な論文だし……」
気づかないなんてどうかしている。
有名なんてものじゃない。
その論文が発表されたのは、今から20年も前。
まだ『ブラックホール』という存在が証明されてない、いわば仮説――というか、数式遊び的な存在でしかなかった時代。SERNですらブラックホール生成実験に着手すらしていない時代。
そんな昔に、ひとりの日本人が、まったく新しい仮説を建て、ブラックホールに似た状態を作ろうとした。
その日本人は、特異点という『すさまじい』特性を持つブラックホールを実際に作るのではなく、ブラックホールの『外殻』のみを再現しようとした。レーザーのエネルギーを使って。
当時の学会からすれば、実に異端的発想。
外から見ればそれはブラックホールとなんら変わらない特性を持つそれは、なんとカー・ブラックホールと同じ、裸の特異点を持つ。
つまり、LHCがなくてもタイムマシンが作れるのだ。
ブラックホールを作ってから裸にするのではなく、はじめから裸の状態のブラックホールを作った、その実験は――レーザー・カー・ブラックホール実験と呼ばれた。
わたしがタイムリープマシンを作るときにも、一番参考にした論文だ。
「あの論文の筆頭著者の名前が、確か、プロフェッサー・スズ・ハシダ……!」
とんでもない有名人だ。
というか、日本の物理学界では伝説的人物のはず。
なんでも、そのまま続けていればノーベル物理学賞間違いなしだったのに、突然実験を辞め、学会から姿を消したとか。
一説には、実験中の大事故で研究が続けられなくなったとか、交通事故で亡くなったとか、いろんな噂が飛び交っている人物だ。
「いつまで経ってもレーザー・カー・ブラックホールの研究が進まないと思っていたら、あなた、こんなところにいたんですか……!」
橋田鈴は、ふふふ、と笑った。
「あの論文はいわばズルだもの。未来の知識がいくつか入ってるわけだし。それに、あんまり目立ちすぎてSERNからスカウトが来たりしたら、何がなんだか分からなくなるものね」
「そ、そうだ、あなたがあの論文を書いた理由は? やっぱりタイムマシンを作ろうとしたんですか……?」
タイムマシンの基礎を固めるうえで、あまりに重要な論文。
それを、この初老の女性が書き上げた理由は、やっぱりタイムマシン?
だとすれば、いったい何のために……?
けど、橋田鈴は表情を消して、首を横に振るだけだった。
「質問は禁止よ」
「…………」
橋田鈴。
この人は何者なのか。
なぜ自分の命の摂理を曲げて、天王寺綯に従ってまでこの時代に来たのか。
なぜタイムマシンを作れるような論文を書いておきながら、自ら途中放棄したのか。
わたしに銃をつきつけてまで、この人は一体何をさせようとしているのか――。
「次が最後の問題よ」
橋田鈴の言葉で、わたしは我に返った。
次が、最後……。
そうだ。
この問題を解ければ、岡部のノイズメモリー着信を“なかったこと”にできる。
でも。もし、問題を解けなければ。
血と、死。
死ぬのは、まだ怖い。
でも、もう決めたんだ。わたしは戦うって。
だから今だけは、怖さを、忘れていさせて――
「さあ、最後の問題用紙をください」
橋田鈴は、その問題用紙を――

「え?」

問題3:
カー・ブラックホールの特異点を裸にするために必要な注入電子量を答えよ。


…………!?
なに、これ……?
「顔色が悪いわよ、牧瀬紅莉栖。どうしたの?」
そんな。
これは。
「残り時間はあと38分。難しい問題だけど、あなたならできるわ。頑張って」
膝が震える。
視界が霞む。
こんなの……
「こんなの、無理に決まってる!!」
机を叩く。
「こんなので、できるわけないでしょう!? 何ですかコレ!? どう考えたって馬鹿にしてる!」
「何故できないの?」
「できない! こんな問題、答えられっこない! だってこれは、SERNが今まさに研究している解!」
ああっ、くそっ。
この女、どうしてそんなに取り澄ましてるんだ――!
「注入する電子量!? それが分からないから、SERNの研究者はせっせとゼリーマンを作ってんでしょ? SERNの科学者どころか、世界の科学者が、誰も知らない、誰も解答できない問題なんですよ!? それを解くのに与えられた時間が38分?」
「でもあなたは、タイムリープマシンを実際に完成させた。そうでしょう?」
「あれは後付けです! 科学というより工学に近い。できあがったタイムリープ理論をもとに、どうやって情報を裸の特異点の中にくぐらせるか、っていう装置。詳しい電子注入条件はわたしにも分からない。ただ偶然、42型ブラウン管テレビの電子銃がそれに等しい電子量を持ってた、っていうだけ。その数値を今、ここに書けなんて言われても、答えられるはずがない!」
「答えられなければ、仕方ないわね。残念だけど岡部くんは助からない。あなたも死ぬ」
「ああ、だから……違う、こんなもの、問題として成立してない……世界の誰も知らないんだから……」
「だとしたら、あなたはその程度だったってことね」
「そういうことじゃない、そういうことじゃなくて……第一、わたしが答えを書いたとして、あなたはそれが正解かどうか、分かるんですか?」
「分かるわ」
「分かるわけない!」
机を叩く。
「たとえあなたが有名な物理学者でも、あなたが答えを知ってるわけない、橋田鈴教授!」
「たとえ知っていなくても、解答を見ればそれが正しい結論かどうかくらい分かるわ。物理学者だもの」
「詭弁です」
「いいえ。それにあたしは、教えられているもの。天王寺綯から。未来のSERNで計算された、正しい電子注入量を」
「なら、どうしてそれを今のSERNに教えないんです! きっと感謝されますよ、これ以上ゼリーマンを量産しなくていいんだから!」
「それは禁止されているのよ。時間順序を守るため、と聞いたわ。それ以上は答えられない」
「くっ……!」
何か、ないのか。
こんな問題を解こうとするのは、ただの自殺行為だ。
天才物理学者ロイ・カーが人生のすべてをかけて発見した物理法則を、鼻歌まじりに飛び越えるような行為なんだぞ。
それも30分そこそこで。
そんなもの、わたしに、できるわけないじゃないか……!
……逃げる。
逃げるか?
そうだ。そうしよう。もう残された手はそれしかない。
ラボまで逃げて、タイムリープマシンを使うんだ。
わたしは鉛筆を落として、それを拾うふりをしながら立ち上がり、出口へと走る……!
ばちんっ。
耳元ですごい音。
髪が舞い上がり、耳が痺れる。
「テスト中の離席は認められていません」
おだやかな橋田鈴の笑顔。
その手には、拳銃。
銃口からはうっすらと煙がたちのぼっていて――
「…………っ!」
撃たれた。
拳銃の弾が、耳のすぐ近くをかすめ、髪の毛を引きちぎっていった。
オレンジの髪が床の上に何本も落ちる。
さっき撃たれたときより、ずっと頭に近い――
次は当たる。
殺される。
テストを受けても死。逃げても死。
「嫌…………っ」
不意に。
声が聞こえてくる。
『死ニタクナイ』
悶えるような、女の人の声。
『オ願イ、殺サナイデ』
声はわたしの中から。
わたしの胸の中から、湧き上がってくる。
『ワタシヲ殺サナイデ』
『死ヌノハ、嫌』
止められない。
心の声を止められない。
死ぬ――?
わたしが――?
嫌だ。
死ニタクナイ。
助ケテ。
助ケテ。

<「…………っ……」>

<「……るな、………り…」>

何かが耳の近くで聞こえた。
空耳じゃない。
物理的な音声。

<「……諦めるな、紅莉栖」>

聞こえた。
確かに、聞こえた。

<「諦めるな紅莉栖。お前にしかできない」>
この声は。
電車の中で、わたしに『この駅で降りろ』とささやいた声。
忘れようがない。
優しい声。
「……誰?」
わたしは問いかける。空中に向かって。
「誰なの?」
<「俺の声が聞こえる限り、お前は負けない。お前は死なない」>
誰のものとも分からない言葉なのに、その言葉が胸に突き刺さる。
そんな声は嘘だ。わたしは死ぬんだ。
<「何度でも言う。お前は死なない」>
その声がわたしを包む。
わたしが一番聞きたかった声。
いちばん聞きたかった言葉。
<「この問題、確かに難問だ。ひとりでは時間が限られている。絶対に解けない」>
そうだ。
圧倒的に時間が足りない。
<「だが、逆に考えろ。ひとりでは解けないのなら、ふたりで解けばいい」>
…………?
ふたりで解く?
誰と? どうやって?

<「決まっている。俺と、お前とでだ」>

世界が取り戻される。
そこにあるのは、ありふれた会議室。
「どういうこと? あなたは、誰?」
思わず声に出してしまう。
「牧瀬紅莉栖さん? 誰と話しているの?」
目の前には、戸惑い顔の橋田鈴。
彼女には、聞こえてないんだ。
わたしにだけ聞こえてる。
なぜ? いったい、誰が、どうやって?
<「説明したいが、時間がない。だが俺が誰かは、お前がいちばん知っているはずだ」>
まさか……。
そのもったいつけた言い方。
口調。
懐かしい声色。
「……岡部? 岡部なの!?」
<「そうだ、と言ったら?」>
その、声。
「…………っ」
間違えようがない。
数時間前、電車の中で聞こえた声と同じ。
そしてこの数週間、何度も聞いた、懐かしさすら感じる声。
でも。
「ありえない、そんなこと」
いくらなんでも非科学的すぎる。
難しい問題のせいでピンチになったわたしの耳に、わたしだけに聞こえる声が、ここにはいないはずの岡部の声が聞こえて、一緒に問題を解く?
どう考えても電波だ。
わたしは岡部の声を聞いているんじゃなく、自分の聞きたいものを聞いているんだ。
<「そう思ってもらっても結構だが、俺は間違いなく岡部倫太郎だ。未来から時間を越えて情報を送っている」>
は?
<「Dメールの応用だ。周囲の金属をDメール電波で振動させ、お前の耳の周辺に弱い空気振動、つまり音を発生させる。2025年に俺が逃亡生活をしながら開発した技術で、SERNも知らない」>
は。
はははは。
それはない。
それはないよ岡部くん。
「いよいよわたしの頭もおかしくなったか……?」
<「今はそれでもいい。とにかく時間がない。なんでもいいから問題を言ってみろ」>
「じゃあ、一般相対性理論でアインシュタインが導き出した宇宙重力の方程式、いわゆるアインシュタインの重力場の方程式は何?」
これが分かれば、問題を解くのが一気に楽になるけど。
<「簡単だな。『G+Λg=8πGT/c^4』。ここでGはアインシュタインテンソル、Tはエネルギー、Λは宇宙項。cは光速だ。ちなみに、俺が今計算したわけではなく、未来の技術論文データベースを今検索しただけなので、確実に正解だ」>
…………。
……凄い。
わたしもうっすらとしか覚えていなかったけど、確かそういう式だったはず。
「じゃ、じゃあ、カー解における回転する特異点から導き出せる、カー解とシュバルツシルト解との関係は?」
<「すぐ分かるぞ、待っていろ……∇γ=−λγ^2+i(∇γ×λ)だ」>

…………この声は何だ?
本当に未来からの声なのか?
それともわたしの深層心理が生んだ妄想?
どちらでもいい。
大事なのは、これで答えが見えてきたかもしれない、ってこと。
「じゃあ聞くけど、カー・ブラックホールに注入する電子量はいくらか、分かる?」
<「残念だが……それは無いものねだりだ、紅莉栖よ。その解答は俺のいる2025年でも分かっていない。こちらの時代のデータベースにすでにある数式を教えたり、計算を手伝うことはできるが、考えるのは紅莉栖、お前がやるのだ」>
ふうん。
そういうことか。
計算はしてくれる。
すでに導出されている式も教えてくれる。
でも数式自体は、わたしが推論して導出しないといけない。
…………。
カー解といえば数式が行列になった多次元の、しかも複素テンソルになっている。
3次元プラス時間の概念が入っていて、もはや映像的なイメージすらできない。
さらに肝心の、カー解と電荷を結びつける数式となると、仮説すらない。天才ロイ・カーも大天才アインシュタインでさえも諦めた、神の領域。
たとえ数式のデータベースと計算があったとしても、何年もかけてやる仕事だ。
それを今から30分少々で、朝食でも作るようなお手軽さで、導き出さなくてはならない?
1時間前のわたしに『そんなことできるか?』と聞いたら、100パーセント間違いなく『できるわけないだろ』と答えただろう。
考えるのも馬鹿らしい。
――でも。
「橋田鈴教授」
「あ、あら、不思議な独り言の時間はおしまい?」
「残り時間は何分ですか?」
「……35分22秒よ。でも、本当にやる気? あなた、目が怖いわよ」
「何とでも言ってください。ただし、1秒でも計り間違えないでくださいね。なにしろ私はこれから、世紀の大発見をするんですから」
たぶんわたしは、頭がおかしくなっているんだろう。
妄想と区別のつかないような声を頼りに、30分で裸の特異点の電荷を数式化しようとしている。
きっと岡部の声はわたしの妄想で、数式も計算もぜんぶデタラメ、出てきた答えは目を覆いたくなるようなひどい数式で、わたしは橋田鈴にあっさり射殺される。
それでも――
それでも。
不思議だな。
わたし今、燃えてるぞ。
「橋田鈴教授。これから少し独り言が多くなりますが、減点の対象になりますか?」
「い、いえ……独り言を言うだけなら、カンニングにはならないわ、もちろん。それで答えが正しくなるなら、是非どうぞ」
では遠慮なく。
「岡部! まずは電荷Qを変数に含む宇宙重力場の数式ぜんぶ出して!」
<「ぜ、全部だと!? お前の時代の数式だけでも、いくつあると思ってる? 一般相対性理論の変式のものだけでも、数十はあるぞ!」>
「数十? 甘いな。実験で正しくないと認められたもの、仮説の域を出ないもの含めて数百はあるでしょう? 全部教えなさい!」
<「ほ、本気か紅莉栖? 言うのは簡単だが、理解しないといけないんだぞ?」>
「時間がない、早く!」
<「む、無理になったら言えよ? まず第一、帯電した天体に関する重力式、ライスナー・ノルドシュトルム・ブラックホールの重力式からだ――」>

15分後――。
「はあっ……はぁ、っか、……ぁっ」
<「おい、大丈夫か紅莉栖? 少し休むか?」>
「大丈っ……夫よ、これしき、何でも、ない、わ……」
未来岡部から教えられた数式、その数228種類。
それらをすべて整理し、分類し、必要なものを頭の中で選り分けた。
さらに数式の意味を変え、変形し、代入して新しい数式を作り出した。
極度の集中に、脳が悲鳴をあげている。
煙が出そうだ。
だけど、まだ止まるわけにはいかない。
<「それで紅莉栖、答えは出せそうか?」>
数式を吟味する。
いくつか出た仮説を検証していく。
そして導き出された結論は。
「――駄目、ね」
どの式を使っても、ブラックホールの特異点を裸する電荷量を数式化できない。
「やっぱり、数式をカー解にだけぶち込んだのが間違い――? カー解には特殊な別解がある? それとも、そもそも電荷を加えて裸の特異点を作るっていう理論自体が間違いで、なにか別の要因がある――?」
よく考えてみれば。
そもそも、わたしが思いついた仮説を、SERNの科学者たちが思いついていないはずがないのだ。
彼らは数式を組み合わせ、必ずこれらの仮説にたどり着いている。
そしてそれをもとに実験を行っているはずだ。
結果は――ゼリーマン。つまり失敗。
やっぱりこの限られた時間と情報で答えを出すのは、無理があったのか……?
<「すまんが、俺は実験主体でやってきたから、理論解の導出は苦手だ。あまり役に立てない」>
「いいわよ、期待してないから」
<「お前……相変わらず、口が悪いな……」>
岡部の言葉に、ふといつものラボを思い出す。
ここは会議室じゃなくてラボ。今は死のテスト中じゃなくて、ラボでいつもの雑談――円卓会議か何か――の最中。
岡部がわけのわからない理論でタイムマシンを語り出し、わたしが反論する。
そうしたら試してみよう、ということになって、電話レンジにバナナを放り込んで――。
……バナナを放り込んで……
「そうだ……! バナナ! バナナよ!」
<「は?」>
「バナナを放り込むんだ! ゲルバナ、それに、放電現象!」
わたしはテスト用紙の裏に猛然と数式を書き込みはじめる。
「バナナはフラクタル構造化した――けど、ケータイの電波はフラクタル化しなかった。それは波である光子がリング特異点の外殻、事象の地平線を“すり抜けた”から。それを数式であらわすと――」
<「おい、紅莉栖、いったい何を思いついたんだ?」>
「ラボよ! あのラボで採った何十回もの電話レンジ(仮)を使った実験、あれを応用するのよ! それこそがSERNの科学者が使えなかった数式、知りえないデータ! あのときに採った電界データや、Dメールの時の電波エネルギーを使えば、もっと数式は絞り込めるはず――!」
脳がふたたび活性化する。
不必要な部分の脳細胞が休眠し、計算、論理推定、記憶をつかさどる部分の脳が熱を持ち始める。
考えるんだ。
わたしの武器は、それだけ。
――ケータイの周波数2.45GHzは1秒あたり2.45×10の9乗回振幅してるから、1ns(10のマイナス9乗秒)あたり2.45ビットの情報を送れる計算になる。Dメールで送信している32バイトのデータはその8倍の256ビット。つまり電話レンジのブラックホールはざっと100ns開きっぱなしってことになる。対してLHCの14TeV級ブラックホールは10のマイナス26乗秒で蒸発する。この差は、リフターの性能差、つまり電荷の射出量とリフターまでの距離に関係しているはず。ブラックホールの寿命が長いために取り込む電荷の量も多いという良循環を数式に入れた上で、ここから逆算すると、電荷Qは――

思考が光速化する。
脳がわたしの頭のサイズを越えて膨張する。
あらゆる情報が並列で処理され、意識されるよりも早く結論を持ってくる。
「あと10分よ」
橋田鈴の急かす声も、今は遠くに聞こえる。
わたしは不思議な高揚感に包まれている。
まるで自分が一個の巨大なスーパーコンピュータになったような。
あらゆる論理を使い、冷徹に事実を導き出す理論装置になったような。
まるで伝説の存在、あらゆる事実と理論を保存し導き出す、“アカシック・レコード”にでもなったような――
思考が意識の上でも下でも平行して同時に行われる。
脳が、意識が拡張していく感覚。
神にでもなった気分だ。
わたしは、自分が次のフェーズに来ていることを自覚した。
成長というより――『進化』という言葉が近いだろうか。
いける。
解ける。
目は自然と閉じられる。
そのかわり、頭の中にある数式が、色をもちはじめる。
シュヴァルツシルト方程式は半透明のクリムゾンレッドに。
カー・ニューマン解は深海の暗いディープ・ブルーに。
ワイル解やトミマツ・サトウ解は互いに回りながら銀とグリーンに輝く。
あらゆる数式が、暗い宇宙の中で色とりどりの光を放ち、互いの意味を主張する。
そしてすべてが事象の地平線に向かって、落ち込んでいく。
それが意味するのはひとつ。
裸の特異点とは何か。
本来存在しないはずの、『宇宙の意味の消失点』とは何か。
それはわたしたちが理解できないだけで、本来どこにでもあるもの。
当たり前に存在しうるもの。
「あと8分」
見えた。
アインシュタイン方程式と、特異点定理の変形であるペンローズ仮説。それにシュレディンガーの猫で有名な量子論の量子にじみ。
それらを総合した先に、求める答えがある気がする。
「あと7分」
<「おい、紅莉栖。大丈夫か? 何か手伝うことは?」>
「ないわ。黙ってて。もう少しで届きそうよ」
誰も見たことのない数式ができようとしている。
SERNが解けなくて当然だ。
一般相対性理論とは、あくまでマクロな領域、わたしたちの常識の範疇である古典論の支配する物理世界での法則。
マイクロブラックホールや、リング特異点の中の電子の振る舞いに代表されるミクロの世界では、古典論は通じない。それはすべてが確率で、すべてが波である量子論の世界。シュレディンガーの猫が棲む世界。
そこにブラックホールのカー解を導入するには、量子論的な思考のステップが必要なのだ。
量子効果を考えに入れれば、電子の注入で特異点がリング化するのも、あるいは普通ではありえないような現象が電子レンジの中で起こるのも、しごく自明のことだ。
これは――すごい。
思考が止まらない。
「あと5分」
あと5分か……。
そろそろまとめに入らないといけない。
でも少しもったいない気さえした。
いまわたしは、電子的ミクロと宇宙的マクロが交差する点、つまり宇宙のはじまりの理論に向き合っているのだ。
もう少し進めれば、宇宙の真理だって分かってしまう気がする。
『神さまはこの世界をどうやって作ったのか』。
それを表現する数式が、手の届くところにある気がする。
こんな時間制限のあるテストのために、それを逃してしまうのは、あまりにも――
「あと4分」
<「大丈夫だ紅莉栖、お前ならできる。信じている」>
岡部の声に、はっと我に返る。
そうだ。わたしにはやるべきことがある。
科学者であるのは、やるべきことをやったその後でいい。
数式をいくつかのケースに場合分け。地表重力下での、電荷のスピンを加えられた状態での挙動に限定する。
これでブラックホールをリング化させる数式は整った。
さらにここに、100nsという超長時間の寿命を成立させるリングの条件である電荷式を代入。
シュレディンガー方程式を使って、不要項を削除していく。
「あと3分」
仕上げだ。
数式に実際に数値を代入して、実験値に近いオーダーが得られるか検証する。
電話レンジの放電。
テーブルを叩き割った重力増大。
数式をひとつひとつ代入していき、検証する。
「あと2分」
<「おい紅莉栖、そろそろ答えを書いたほうが」>
「大丈夫よ、このままいけば5秒くらいは時間が余る」
<「5秒って、お前……!」>
検証した数式に、わずかな誤差がある。
でも大丈夫。
フランスと日本との緯度の差、つまり時点遠心力の差と重力偏差の差であるGδとNδを加えて補正。
「あと1分」
出来上がった数式を、一度頭の中に戻し、矛盾がないか整理する。
カー・ニューマン解と比較。問題なし。
ワイル解と比較。問題なし。
SERNが公表しているブラックホール解と比較。問題なし。
「残り10秒」
なんと。
10秒もある。
余裕だ。
ひとつ咳払いをして、わたしは最終的に導き出された回答を、解答用紙に、書いた。
そして深呼吸。
解答用紙を、前に押し出す。
「できたわ」

「……そう。できたのね。あなたには、できたのね」
橋田鈴は神妙な顔で解答用紙を受け取った。
「確認させてもらいます」
その目が、紙の上を高速ですべっていく。
細工を見る職人のように、数式をひとつひとつ確認し、吟味していく。
「この解は空中放電ロスが含まれている――でも矛盾はない――リフターの距離による空中逓減定数もちゃんと表現されてる――模範解答と少しだけ数式の前提が違うけど、表現しようとしていることは同じ、いえ、もっと精度が高い――」
「どうです、正解ですか、不正解ですか」
「牧瀬紅莉栖さん」
「何?」
「あなた、本当に人間?」
「…………」
橋田鈴は、ため息をついた。
少し悲しそうに。
「合っているわ。完全に正解。文句のつけようがない。完全正解よ。人間にこんなことが可能なの……? 申し訳ないけど、寒気すら感じるわ。どんな脳を持っていれば、たかだか30分少々で、ここまでの回答ができるの?」
「ちょっとした妖精さんの助言があったんです」
「そんなことは関係ないわ。思考の高み――そう表現するしかない次元に、すでにあなたは達している。あたしには解けなかった。研究のかたわら、何十年もかけて考えたけど、決して導き出せなかった。この数式はね、それだけ難解で複雑で到達困難なの。それが、こんなにもあっさり――」
「――そうですか」
「これからのあなたの人生が、少し不憫だわ」
「……? どういう意味です」
「この数式を解けたあなたに、もはや解けない問題はないわ。それだけあなたの脳は人間の限界を超えている。あたしの知る未来では牧瀬紅莉栖は『タイムマシンの母』なんて呼ばれていたけど、きっとあなたはそんなものじゃない、もっととんでもない存在になる。人類の限界を超えた神の領域にまで達してしまう。……そんなあなたが、一体何を望み、何を欲しがるの? まともな欲望を抱いていられる? 寒気を感じるわね、この世界のあなたは、きっとタイムマシンなんかに留まらない、もっととんでもないものを発明してしまうでしょう」
「あなたが人間らしく生きられることを祈るわ」
うなだれる橋田鈴。
複雑な気分だ。
「未来の話は今はどうでもいい。わたしは正解したんですね? では、わたしの勝ちということでいいですね?」
「ええ。あなたの完全な勝ちよ。完膚なきまでにあなたは勝った。勝者はすべてを手に入れる権利がある。好きなようにしなさい」
橋田鈴は、なんだか小さくなってしまったようだ。
自分が解けなかった問題が目の前で解かれたのが、ショックだったのかもしれない。
でも、勝負は勝負。
約束は守ってもらわないと。
「最初に言ったはずです。質問に答えると。わたしの知りたいことを教えてくれますね?」
「今のあなたには勝てる気がしないわね……いいわ。ひとつめの質問は何だったかしら?」
「天王寺綯の目的」
「そうね。あなたには教えてあげる――いえ、あなたは知らなくてはならない。未来から来た――いえ、『あたしが生み出した』悪魔、天王寺綯、“時の支配者”について――」
「あなたが、生み出した?」
「そもそものはじまりから話すことにしましょうか。……あたしはあの日、父さんに会えないままタイムマシンに乗って、1975年へと、片道きりのタイムトラベルをしたわ。暑い日だったわ。夕暮れのなかで、タイムマシンは燃料が切れて動かなくなった。そしてあたしは、ひとりで1975年で生きていくことになった」
橋田鈴は遠い目をする。
「色々なことがあったわ――本当に、色々なことが――」


†  †  †


あたしは1975年にタイムトラベルしてからしばらくの間、あてどもなくただふらふらと過ごしていたわ。
無理もないことでしょう? なにせあたしはその時代でたった一人きり。知っている人も、頼れる人もいなかったんだから。
あたしが生まれた時代よりずっと日本は自然が多くて、時間がゆっくりしてた。1975年といえば、高度経済成長を遂げめざましい近代化を遂げた時代だったって本では言っていたけど、現代に比べれば人々の生活はずっとつつましかった。
サバイバルは得意だったから、最初の1ヶ月はそこらの野山で野生動物を採って暮らしたわ。
東京でも、ちょっと歩けばすぐにそういう手つかずの自然が残っていたの。兎とか、野鳥とか、ネズミを獲って暮らしたわ。
こんなことでIBN5100を手に入れられるんだろうか、なんて不安になりながらね。
『センセイ』に会ったのはそんな時だったわ。
田舎道の道端で、黒い煙をあげる乗用車のボンネットを開けて、うおえあーとかえあるおえーとか、意味のわからない奇声をあげてたから、気になって近づいてみたの。
目が血走っててなんだか危ない人っぽかったんだけど、ひとりごとを総合するに、どうも急いでどこかに行かなくちゃならない、なのに車が故障した、みたいなことを言ってたわ。
遠くから眺めてただけだけど、バッテリーの配線をつなげ間違えているだけなのがすぐ分かった。当時の乗用車は今よりずっとシンプルな作りだったからね。
しょうがないから助けてあげたら、なぜか土下座して感謝されてね。お礼がしたいなんて言うのよ。
なんだか断ると状況が悪化しそうだったし、ひょろっとした痩せっぽっちの男の人にどうにかされるほどあたしもヤワじゃないから、同じ車に乗ったの。
その男の人は、これから学会で発表するんだって言った。
その人は、20代後半くらいだったけど、どこか小さい大学で助手をしていたの。
物理学専攻だったのだけれど、なにせ要領が悪くてね。大事な学会に行く途中で車が壊れるなんて序の口よ。実験装置を壊してあやうく研究室が火事になりかけたり、実験用の試料を飲んじゃって1週間寝込んだり――
まあ、牧瀬紅莉栖、あなたとは違って、そりゃあもうダメダメな研究者だったわ。
とにかくその男の人――みんなはその人を『センセイ』と呼んでいたんだけど――は、学会の開催されているところに、あたしを連れて行った。ついでにセンセイの発表を聞いたけど――ひどいなんてものじゃなかった。中学生の発表会じゃないんだから、って感じ。よくこれで研究室の助手がつとまるなあ、なんて思ってあきれたわ。
おまけにその内容。超電導物質についての発表だったのだけど――てんで低レベルでね。
おもわず質問しちゃったのよ。『それでは磁場をはじき返すマイスナー効果を説明できなんじゃないですか』ってね――こう見えてもあたし、タイムマシンを使うために、物理学の初歩は2036年に勉強していたから。
……そしたら後で、質問攻めにされてね。そんな現象聞いたこともない、なぜそんなことを知っているのですか、ってね。
これには困ったわ。まさか未来で勉強しましたなんて言えないし、アメリカの大学で勉強したとか適当に嘘ついたのね。そしたらセンセイ感激して、ぜひうちの研究室で手伝ってくれ、だって。
あたし、本当はそんなことしてる場合じゃなかったんだけど、まあ、野宿でサバイバルしてるよりマシだったし、適当に誤魔化してそのうち逃げればいいか、なんて思ってオーケーしたわ。IBN5100を探すには、まず住むところがないと始まらなかったから。
そんなわけで、あたしはボロボロの木造アパートに住み始めた。家賃は実験手伝いを条件に、センセイが出してくれたわ。もっともセンセイも薄給貧乏で、同じアパートの隣に住んでいたけれど。
それからは、まあ二重生活ね。
センセイの実験を手伝いながら、IBN5100の情報を集めたわ。
3年ほど続いたかしら。
いっこうにIBNの情報が集まらなくて焦っていたあたしを、センセイはいろいろと励ましてくれたわ。ドジで貧乏で気が利かなかったけど、ひとを傷つけたり悪く言うことだけはない人だった。
ある日、そんなセンセイが実験で大きな失敗をしたことがあってね。
もう大学を辞めるしかない、なんていまにも自殺しちゃいそうな顔で言うものだから――つい、教えてしまったの。
高温超伝導、セラミック超伝導物質の作り方――その配合比率を。
本来ならあと数年後に発見されるはずの、とても有名な配合比率。
いま思い出しても、馬鹿なことをしたなあって思うけれど――きっとタイムリープでやり直せても、あたしは同じことをするのでしょうね、きっと。
それから彼の名声は爆発的に広まったわ。牧瀬紅莉栖、あなたも知っているでしょう。セラミック超伝導が発見された後の、その世界での狂騒的盛り上がりを。センセイは駄目助手から一転、世界の天才物理学者として祭り上げられたわ。連日センセイのもとにはテレビカメラが詰め掛け、世界中の有名大学から招聘の案内が来た。論文はいくつもの賞を獲ってすごく有名になった。お金も使い切れないくらい貯まった。
そして、あたしはセンセイのもとを離れたわ。
目立つわけにはいかなかった。ちょうどその頃、物理学業界ではSERNがラージハドロンコライダー、LHCの製造構想の噂がたちはじめていたし、そろそろ未来からSERN中枢にIBN5100回収の指令が来てもおかしくない頃だったから。
何よりこれ以上過去を変えて、未来の『ワルキューレ』のみんなに迷惑をかけるわけにはいかなかったから――。
あたしがいなくなってから、センセイは必死であたしを探したらしいわ。
けれど帰るつもりは、もうなかった。
手元にあったわずかな資金を元手に、IBN5100を探した。けどSERNの対応は素早かった。もうほとんどのIBN5100は回収されてしまっていて、残ったものも法外な値段で取引されていた。今の貨幣価値でも、数千万円はくだらない値段がつけられていたわ。もう正規の手段でBIN5100を買い取るのは無理だった。センセイの資金を頼ろうかとも思ったけど、それはやめたわ。いまや有名になったセンセイが大金を使ってIBN5100を買ったとなれば、当然噂が広まる。そうすれば、そのうちSERNの部隊がセンセイの命を狙うことになるから。
残された方法は、こっそり盗み出すことしかなかった。
SERNが回収したIBN5100を一時的に保管する施設があった。あたしはそこに忍び込んだわ。
ワルキューレの任務で何度も潜入作戦はやっていたものだから、大して苦労はなかったわ。
盗んだIBN5100を脱出用の乗用車に積み込んだ。
けど何年も前線から離れていたせいで、カンが鈍ったのかもしれないわね。
最後の最後になって、敵に見つかった。
連中は銃で武装していてね。必死で車を運転して、命からがら逃げおおせたけど、体にいくつも銃弾を受けた。
何とか逃げ切って、IBN5100を安全な場所に隠した。
だけど、血を流しすぎて、あたしは気を失った。
薄れていく意識の中で、はっきり死ぬ、って思った。
すごく寂しかったのを覚えているわ。
次に気がついたのはベッドの上だった。センセイが横にいて笑っていたわ。きみは困った助手だ、ふらりといなくなって、ようやく見つけたら死にかけているなんて。どうせ傷が治ったら、またふらりと出て行くんだろう、って笑った。笑いながら咳をしていたわ。
動けるようになるまで、センセイとふたりで暮らした。
あたしの人生のなかでいちばん穏やかな時期だったわ。
でもその時間が長く続かないのは、あたしが一番分かっていた。
センセイを危険にさらすわけにはいかない。
IBN5100はうまく隠したけど、いつSERNに嗅ぎつけられるか分からない。
それにその頃、センセイはあたしを看病するために、大学を辞めるつもりでいた。
あたしのために、大好きな研究を辞めてほしくなかった。
それで、ある夜、わたしはセンセイの家を抜け出そうと決めた。けれど抜け出す日の夜――センセイが、倒れたの。
肺の病気だった。
病気の素振りなんて一度も見せなかったのに。どうして隠していたのと怒ったら、きみに負担をかけたくなくて、って言って笑った。そういう人だったの。
容態は急激に悪くなって、1ヶ月くらいで、センセイはそのまま亡くなった。
あの人は、死んだの。
しばらくは何もする気が起きなかったわ。
抜け殻みたいに部屋でぼーっとしてた。
昼も、夜も、一歩も外に出ないで、ただ天井を眺めてた。
SERNがIBN5100を取り返しに来る気配もなかった。ってことはつまり、この時代でやるべきことは全てやったことになる。
センセイが亡くなって1ヶ月くらいして、ようやく気がついたわ。
もう、あたしが生きていなくちゃならない理由が、なにもなくなってしまったってことに。
ずっと何かと戦って生きてきたわ。
生まれたときから、戦士としてSERNと戦ってきた。
そして過去を変えるためにタイムマシンに乗って、岡部倫太郎やあなたたちに会った。
1975年に来てからはIBN5100を手に入れるために奔走した。
すべては未来のために。
でも、もう『しなくてはならないこと』はなくなった。
あたしは、あたしのために生きてもいいことになった。
そうしたら突然、生きているのが馬鹿らしくなったわ。
目的もなく、ただ生きるっていうのが……どうもしっくりこなかったというか、納得できなかったのね。
何度も死のうとした。
でも駄目ね。生きてる理由がないからなんて消極的な理由では、人は死ねないもの。理由もなく生きているのが苦痛で仕方なかったけれど、死のうとするたびに、センセイの笑顔がちらついて――けっきょく死ねなかった。
あたしは死ぬこともできなくなった。
生きていることも死ぬこともできないまま、センセイが勤めていた大学の教授のすすめで、講師として働くことになったわ。
センセイの残した偉大な研究の跡を継いでくれ、なんて頼まれてね。
そんなのどうでもよかったのに。
あたしが何を頑張ってどう研究して成果を残しても、2036年の未来はそこにある。科学なんて放っておいても発達するんだもの。
ろくに研究もせず、論文も書かず、最低限の仕事をして、ときどき生徒に授業をして――そんなふうにあたしは、自動的に受動的に生きたわ。
でも、学生からの受けは不思議と良かったみたいね。
あるとき、ひとりの学生があたしの研究室に来て質問をしたの。あんまりパッとしない生徒で、成績は中の下くらいだったけど、科学の話をするときの彼の目は貪欲で、ぎらぎらした輝きがあったわ。
彼はこう訊いたの。
橋田先生、タイムマシンは実現可能ですか――
あたしは、できるわけないわ、と答えた。でもその生徒は食い下がった。絶対にできるはずだって言い張ったの。なんでもウェルズの『タイム・マシン』に感化されたらしくてね。何時間も議論したわ。彼の理論はしっちゃかめっちゃかで、とても科学とは呼べないものだったけど――そのとき、ふと思ったの。
タイムマシンを作ったらどうだろう、って。
カー・ブラックホールに電子を注入して特異点を裸にする、っていう基礎的な知識はあったけど、理論を実現するためにパパが作ったタイムマシンの、制御的な条件まで知っているわけじゃなかった。でも、燃料が切れて使えなくなった人工衛星型タイムマシン――FG204 2nd EDITION ver.2.31、あれを再使用できるようにすれば、ひょっとして、って思ったの。
あたしはその学生を焚きつけて、マシンの条件理論化と試験モデルの製造にとりかからせた。いきなり本物を使わせるわけには、もちろんいかなかったから。
その学生は夢中になって作ったわ。
彼の本名は忘れたけど――そういえば、自分の本名が嫌いだとかで、いつも自分をなんとか中鉢、って呼ばせてたわ。
中鉢くんはクラスメイトのひとりと組んで、タイムマシン実験をはじめた。
そのパートナーのクラスメイトの名前は覚えているわ。確か、秋葉幸高。
資産家の息子で、彼自身もビジネスの才能があったみたいね。学生の頃からいくつもの会社の株式に投資して、経営に参加していたみたい。しかも中々いい結果を出していたみたいよ。
秋葉くんが研究資金を出して、中鉢くんが理論と装置設計を組み立てる。
そうやってまた数年が経ったわ。
時代は目まぐるしく変化した。
日本の高度成長とバブル、貿易摩擦、いろんなニュースが駆け巡ったわ。
でもそんなもの、あたしにとってはテレビの中の出来事と同じだったな。
ガラスの向こうで、あたしと関係ない人たちがわいわい騒いでいるようなものだった。
それはあたしにとっては『今』であると同時に、『過去』の話だった。『過去』の亡霊が再放送されているだけ。
あたしはひとりぼっちだった。
本当のことを話せる人は誰もいなかった。
センセイにあたしのことをちゃんと話しておけばよかった。
その頃になってそう思うようになったわ。
タイムマシンができたら、未来を元通りにする前に、センセイに会いに行こう。
そして本当のことを全部話そう。
そう思ったわ。
タイムマシンの実現――いちばんの問題はやっぱり燃料で、巨大なタイムマシンをすっぽり覆うような巨大な『裸の特異点』を作るには、普通のハドロンでは無理。それから膨大なエネルギーが必要になるの。もちろん、ガソリンタンクを積んでどうにかなるエネルギーじゃない。
中鉢くんと秋葉くんのふたりには、その研究をやってもらったわ。
もちろん、あたしがタイムマシンで来た未来人なんてことは秘密にしてね。
ほどなくして、壁につきあたった。
やっぱり無理なのよ、人の手でブラックホールを、それも安全で巨大なブラックホールを作るなんて。
エネルギーが絶対的に足りない。
そのうち秋葉くんの経営する会社も資金繰りが苦しくなってきて、満足に装置をつくることもできなくなってきたわ。
装置の規模を縮小せざるをえなくなって、やっぱり人が乗れるタイムマシンの完成は諦めるしかなくなったの。
中鉢くんはすごくがっかりしていたけど、あたしには別のアイデアがあった。
Dメール。
人が乗るサイズのタイムマシンごと時間を越えるのは無理でも、電波や無線信号が通れるサイズのブラックホールなら、作れるかもしれない――
それは分かってたことだった。
なぜなら、あたしは知っていたからね。2010年に秋葉原のラボで、あなたたちがそれを成し遂げたのを。
あとはその方法だけ。
もちろん、SERNみたいに巨大なLHCを作る資金もなかったし、かといって電話レンジみたいな偶然に頼ったマシンができることを祈るほど楽天家でもなかったから、あたしたちは別の手を考えるしかなかった。
ここで役に立ったのは、意外にもセンセイの研究なの。
セラミック超電導を手に入れてから、センセイはマイナーでマニアックな研究に走っていたの。超電導でマイスナー効果を得られた空間に電子レーザーを照射したらどうなるか、みたいな研究ね。
あたしはその研究をもらうことにした。
超電導化されたセラミックを中心に高エネルギーのレーザーを照射すると、それを取り囲むように高エネルギーバンドができるの。ここにハドロンを注入すると、ほとんどのハドロンは安定化してエネルギーを失うのだけど、ごく一部が周囲のエネルギーを吸い取って超高速円運動をはじめる。この高速粒子バンドを球状に配置するとあら不思議、まるでブラックホールが中心にあるみたいな重力分布を実現できることがわかったの。
あたしは大学のレーザー施設も借りて、この擬似ブラックホールに裸の特異点と同じ挙動を示させる実験を繰り返したわ。
実験装置の準備に3年。
実際に裸の特異点を作り出すのに5年かかったのよ。
自分の辛抱強さに呆れるわ。
でも、それはついに完成した。
SERNよりも早い、世界初のタイムマシン。
ええ、そうなの。タイムマシンは、実は電話レンジよりずっと昔に、いちど完成していたのよ。
悪く思わないでね。
でも――欠点もあった。
電話レンジみたいにケータイで送信先を特定できなかったせいで、局所場指定ができたかったの。
何度条件を変えてトライしてみても、その前提は覆らなかった。
早い話が、Dメールがどこに飛ぶか分からないの。
擬似ブラックホールに向けて発射された電波は、どこでもない宇宙空間に発射されて、それきり。誰に届くこともない、不完全なものでしかなかった。
それでも、それはタイムマシン。
時間を越えて情報を運ぶもの。
あたしはそれを完成させた。
そしてそれは、何か実用的な役に立つものでは、なかったのよ。
残念なことにね。
あたしは迷ったけれど、それを封印することにした。
中鉢くんと秋葉くんには、『この実験は失敗だった』とだけ告げて、タイムマシン実験の終了を宣言したわ。
中鉢くんは納得しなかったけど、もはや資金に余裕のなかった秋葉くんに説得される形で、しぶしぶ了承してくれた。
タイムマシンは、常に命を狙われる危険にさらされるもの。
あのふたりを危ない目にあわせるわけにはいかなかった。
中鉢くんは、次のタイムマシン理論はあるんですか、ってあたしに訊いた。
あたしは、ないよ、って答えた。
それは本当のことだったわ。
たぶんあたしは、本当の意味でタイムマシンを使って何かを成し遂げようと思っていたわけじゃなかったの。
ただ何かすることが、生きている理由になるなにかが、欲しかっただけだったのかも。
それからまた少し時間が過ぎて。
授業をしていても、ひとりで食事をしていても――あたしは、気がつくとあのレーザータイムマシンを何とか使う方法はないかって考えてる自分に気がついた。
諦めたつもりでいたのに、情けないことよね。
でも自分を納得させたくて、あたしは実験施設に忍び込んだ。
ひとつ、案があったの。
局所場指定はできない。
でも逆に言えば、宇宙のどこかに流れている電波なら、拾うことができる。
そこであたしは、擬似ブラックホールから漏出してくる電波を拾うことにしたの。
ひとりきりの実験は思ったよりうまくいったわ。
いくつもの周波数に受信装置をあわせたけど、意外なことに実験数日で、ラジオ電波をつかまえることができたの。――ごく普通の、ラジオチューナーで聞けるタイプの、民間ラジオ電波ね。
たぶん民間用でカバー範囲も広くて、信号強度も大きいことが幸いしたんじゃないかしら。――もっとも、なにも聞こえないことがほとんどだったし、たまに入ってもどことも知れない外国語のラジオばかりで、ほとんど意味は聞き取れなかったけど。
それでもラジオは聞き取れた。そしてそれはどうやら、現在のラジオじゃない、過去または未来のラジオ放送みたいだった。
ラジオが聞こえるということは、少なくとも過去・未来数十年のあいだの地球のどこかと繋がっているってこと。学術的に見れば、それは大きな収穫だったわ。
あたしは実験施設をこっそり使って、何度も受信実験を繰り返した。
たまに意味が判別できるラジオが入ることがあったの。そのラジオの放送日が3年後の未来だと分かったときには――さすがに飛び上がるくらい嬉しかったわね。
これで未来の情報を手に入れることができる。
考えてみれば、あたし自体が未来から来た、未来の情報の塊みたいなものなんだから、おかしな話よね。
でも話はそれで終わりじゃないの。
その『タイムラジオ』は、最後にすごい情報を運んできたわ。
――それも、悪い種類の情報をね。
何だと思う?

あたしの死ぬ日付け。

その日、あたしはいつものようにラジオ受信実験を繰り返していて、そのラジオニュースを拾ったの。
『2000年の8月13日に、素粒子物理学の橋田鈴教授がの死亡が確認された。死因は――』
そこでラジオにノイズが混じって、ラジオは消えたわ。
でもはっきり聞こえたの。『死亡』って。
ラジオを受信したその日から3年後のことだった。
3年後に、あたしは死ぬ――
アトラクタフィールド理論でいけば、その死を回避することは絶対にできない。あたしが何をどうあがいても、その日は必ずやってくる。
最初は、なんでもないことだって思おうとしたわ。人は誰だっていつか死ぬ。その日が分かったくらいで、取り乱したりするのはおかしい、って。そう考えた。そして実験を続けたわ。
でも、数日したところで、実験は続けられなくなった。
心がね、死んでいるの。3年を待たずに、心が生きるほうを向いてくれないのよ。分かるかしら?
呆然としたわ。
あたしに残された手は何もなかった。
タイムマシンで時間を何度も旅し、未来を知っていて、未来を変える方法を知っているあたしが、自分の生き死にすら動かせないことが分かったの。
ショックだった。
なによりショックだったのは、あたしは自分が死ぬことを知ったことが、センセイが死んだときより衝撃を受けてる、って事実に気がついたこと。
やっぱりあたしでも――何度も死にかけの作戦を遂行したあたしでも、死ぬのは怖いんだ。
あたしはほどなくして、実験装置を壊したわ。
二度と実験ができないようにした。
大学側には質問責めにされたけど、次の実験のためですってはぐらかした。
ねえ――あのとき、あたしはどうするのが正しかったんだと思う? 死を避けるためにべつの実験を繰り返せばよかった? すべての人にいずれは訪れる死を受け入れればよかった? 自暴自棄になって、どうせ死ぬんだからと好き放題すればよかった?
自分が死ぬことを知ると、人は5段階の感情を持つってよく言うわ。否認、怒り、回避の模索、鬱、そして受容。でもそんなもの、学問の中の世界でしかない。
こう言うと薄情に聞こえるかもしれないけれど――他の誰が死んでも、自分が死ぬのは嫌だったわ。受容なんてできるわけない。
でも日本に帰ってから、あたしは極力そのことを考えないようにした。
死ぬ瞬間に、『死ぬのは嫌だ』なんてみじめったらしく叫ぶのも嫌だったから。もし死の5段階なんてものがあるんだったら、さっさと最後の段階に行ってしまいたかった。そうすれば楽になると思った。
でも、駄目ね。
いつだって、そういうときに悪魔は囁くもの。
人の心がいちばん弱っているとき、いちばん欲しいものがあるときにやってくるもの。
天王寺綯が、あたしの研究室に現れたの。
『おひさしぶりだね、阿万音鈴羽』
天王寺綯はそう挨拶した。
混乱するあたしをよそに、天王寺綯――“時の支配者”はこう言ったわ。
『君の望みを知っているよ、ミス阿万音。誰だって望んで死ぬ人間はいない。死にたくない、そう願うのはごく自然なことだ――そして、アタシならその願い、叶えてあげられるのだけど』
頭が真っ白になった。
いきなりのことで、なにが起こっているのか分からなかったわ。
あたしの昔の名前、阿万音の姓を知っている人間はその時代にはいない。
そしてその時代では、天王寺綯はまだ天王寺裕吾の奥さんのお腹の中にいるはずだった。
それらの事実が意味するものはひとつしかない。
タイムマシン。
そしてSERN。
すぐに事態を悟ったわ。そして侮辱された、と思った。自分の願望を見抜かれて、仲の良かった少女を案内人にして、SERNはあたしを、侮辱しようとしてるのか、って――
でも天王寺綯は笑って違うよ、って言ったわ。
『そうじゃない。アタシはSERNじゃない。未来から、SERNの一人乗り用タイムマシンに乗ってやってきた、それは確か。でもそのタイムマシンは奪ってきたもの。アタシはSERNの手先でも、ラウンダーの手先でもない。アタシはアタシ。ただ一人で世界の構造を打ち壊すもの。ほんものの混沌を運ぶもの。“タイムマスター”、それが今のアタシだ。ご理解いただけるかな?』
天王寺綯の要求は簡単だった。
自分の目的に協力してほしい。部下となって、命令に従ってほしい。
そうしてくれれば、一人乗り用のタイムマシンを使って、あたしが死ぬ日――8月13日を、回避してあげるって。
確かにそれは、乾坤一擲の妙手だった。
8月13日にタイムマシンを使って未来に飛んでしまえば、いまの時代の人からは行方不明に見えるだろうし、そうすればいずれ死亡として処理される。そしてここにいるこのあたしの意識は死なずに連続して、別の時間に移動することができる――
でもそんなこと、すぐに決断できるわけがなかった。
深く考えなくたって、それが人の道から外れた行為だってことが分かっていた。
それに、天王寺綯は、明らかに――邪悪な感じがした。
そう答えると、天王寺綯は笑ったわ。
『そうかい。ならばそれもいい。決断権はあくまで君にある。気が変わったら教えてくれたまえ。しかし、考える時間はあまりないぞ。よく生きて、そして死ね』
そう言って天王寺綯は消えたわ。

あたしは死ぬ準備をはじめた。
IBN5100を秋葉くんに預けた。いつかこのパソコンをどうしても必要だとする若者が現れるから、そのときは快く貸してあげてほしい、って伝言を残してね。これでIBN5100は、間違いなく岡部倫太郎のところに届くはずだった。
それであたしがこの世界ですべきことは、ほんとうに何もなくなった。
あたしはまだ迷っていた。
生きるべきか、死ぬべきか。

そんな日、大学の実験棟で事故が起こったの。
中鉢くんが起こしたブラックホール実験が原因だった。彼はひとりでもタイムマシンを実現させようと、ひとりで実験を繰り返していたの。
でもある日、小型加速器が事故を起こして、大爆発を起こしたの。
実験棟がほとんど全て吹き飛んだわ。
中鉢くんはたまたま実験の席を外していたから無事だったけど、何人かの研究員が命を落とした。
あたしも実験棟の1階にいて、爆発に巻き込まれた。
天井が割れて瓦礫が降ってきたわ。とっさに大きな机の下に隠れたけど、出口が塞がれてしまった。書類に火がついたのか、火が周囲を包んだ。
瓦礫に囲まれて煙に燻されて、何度も意識が遠のきかけた。
朦朧とする意識のなかで、強い感情が芽生えて、あたしもとうとう無視するわけにはいかなくなった。
死にたくない。
『死の受容』がなんて馬鹿馬鹿しいことなのか悟ったわ。
死を受け入れることはできない。
あたしが受け入れようと、受け入れまいと、死はやってくる。あたしの心なんてお構いなしに、命を奪っていく。
だからあたしは死にたくない。
必死にもがいて、出口を探した。
脱出できたのは奇跡だったと思う。あるいはそれは、8月13日まであたしが死なないことを世界が保証していたせいかもしれないけど。
次に目が覚めたのは病院のベッドだった。
感動したわ。生きてるってことが、こんなに嬉しいものだなんて思ってもみなかった。
『よかったねえ、生きていて』
隣で声がするから振り返ると、病室の椅子に、天王寺綯が座ってた。
『きみが逃げるとき、こう思わなかったかい、ミス阿万音? もっと生きたい、と――ほんの少しでも、思わなかったのかい? 死ぬだけならいつでもできる。なら、もう死んでもいいと思えるまで生きて、それから死んではどうかな?』
わたしは気づいた。わたしはまだ十分に生きていない。
死にたくない理由は、それだったのよ。
死ぬまでにしたいことが、まだまだたくさんある。実験もしたい。SERNのディストピアが破壊されるか確かめたい。岡部やラボのみんなに再会したい。
あたしは『死にたくない』って言ったの。
声に出して。
『ならば今日から君は“タイムマスター”の部下、橋田鈴だ。歓迎しよう』――天王寺綯はそう言って、あたしの手を握ったわ。
まるで何十歳も年上の人間みたいに見えた。
――それからあたしは、洗脳装置をインプラントされ、天王寺綯から記憶をヘッドギアでアップロードした記録ディスクを持って、一人乗りのタイムマシンで2010年に飛んだの。8月13日にね。
そして天王寺綯に2000年の記憶を『ダウンロード』し思い出させ、彼女の指示に従って、ノイズメモリー送信の準備をはじめたわ。
この仕事が終わった後、あたしは1975年の、まだセンセイが生きていた頃に戻してもらうことになっている。
そうしたら今度こそ、任務や仕事のない、ただの女として、ゆっくりと無目的にただ生きることにするわ。
だからそれまでは立ち止まれない。
それまでは、任務を誰かに邪魔されるわけには、いかないの……


†  †  †


――橋田鈴が息をつく。
橋田鈴の長いタイムトラベルの話が、ようやく現代につながった。
彼女の語った話に、アトラクタフィールド理論的な矛盾はない。
彼女がどうやって過ごしてきたかも大体分かった。
しかも彼女の話に出てきた中鉢、秋葉という名前にも聞き覚えがあった。
まさか――彼らと橋田鈴教授が知り合いだったなんて――
「今の話であなたの辿ってきた道は大体分かりました。だけどそもそも、天王寺綯の目的って何なんです?」
「彼女の目的は――『SERNを滅ぼす』こと、らしいの」
「え?」
――SERNを、滅ぼす?
何故?
「どういうことです? だって天王寺綯はラウンダーで、SERNの手先で、SERNのタイムマシン技術を使って現代にやってきたって――」
「そうでもないらしいの。彼女は電話レンジ――あなたたちの作ったタイムリープマシンが15年間使われずに保管されていたのを利用して『記憶だけ』現代まで飛ばした。それからフランスのSERNに飛び、未来のSERNが使って来ていたタイムマシンを奪い、さらに10年の時間を遡った。これはSERNの命令なんかではなくて――あくまで、天王寺綯自身の欲望と目的に従ったこうどう。その目的はSERNを滅ぼし、この世に混沌をもたらすため」
「この世に――混沌を、もたらす?」
なんだろう、その不吉な言葉は。
どこかの誰かも日常的に使っていた、たわいない言葉のはずなのに。
今の言葉には暗い重みと影がある。
「そう。SERNと300人委員会が作り上げた管理社会は、いわば秩序の極致。あらゆる出来事、人間、感情がコントロールされ、全体最適のなかに収められている。そこには戦争もないし、貧困もないし、飢えも不平等もない。その代わり個人の感情や欲望は、全体管理の名のものに厳しく弾圧されているのだけれど――それはいわば、混沌が最も少ない状態とも言える。天王寺綯は、それを壊したいらしいの」
「それは、どうして?」
「世の中はもっと混沌としていなくちゃならない。滅茶苦茶で人がたくさん死んで、弱い人間は殺され淘汰されなくてはならない――彼女はそう言っていたわ。どこまで本気なのかは分からないけれど」
それは。
確かに混沌だ。
彼女の望むものは、世界の混沌、管理の終わり。
「分かりました。それであなたは、どうなんです?」
「どう、とは?」
「天王寺綯の思想――混沌の実現のためにSERNを滅ぼすっていう、その目的に賛成して、彼女に協力しているんですか?」
「面白い質問をするわね」
橋田鈴は少し考えてから、言った。
「天王寺綯の思想には共感できない。『ワルキューレ』がSERNと戦ってたのは、あくまで人が失った自由を取り戻すため。混沌が欲しいわけじゃない。あたしが協力しているのは、あくまで死を回避することに対する交換条件」
なるほど。
協力はするけど、共感はしないというわけか。
少し安心した。
橋田鈴は、ほんとうに心の底までわたしたちの敵になってしまったわけではないのだ。
「でも、岡部を記憶死させたり、わたしにこんなテストだとかいう下らない試験をさせたりすることが、どうしてSERN打倒と混沌につながるんですか」
「――詳しくは分からない。天王寺綯も、そこまでは話してくれなかった。けれど牧瀬紅莉栖、さっきのあなたの状態を見ていて、思ったことがひとつあるの。たぶん、天王寺綯は、SERNの秩序の破壊を――あなたに、させようとしている」
「わ……わたしに?」
どういう意味だ?
わたしがSERNの秩序を壊す?
いやまあ、そりゃ確かに、SERNをぶっ潰したいと思ってはいるけど……
「あなたに、『タイムマシンを超えるもの』を作らせるつもりなのよ」
「タイムマシンを超えるもの? それは、何です?」
橋田鈴は首を横に振る。
「分からないわ。あたしごときには、タイムマシンの向こう側を予想することはできない。今のあなたにもできないでしょう。でも、第3問目を解くときのあなたは、神がかっていたわ。あの状態でいまから10年、20年経っていたら……天才を超える天才になっているかもしれない」
天才を超える、天才。
「あなたは天才少女と呼ばれているけれど、しょせんこの世界に天才なんて無数にいるわ。物理学の世界ひとつとっても、ハイゼンベルグ、ディラック、エルンスト、クーパー、戸塚、アブリコソフ……数え切れないくらいの超天才がいる。一般の人は名前も知らないような人でも、あたしたちからすれば天の上の存在。でもあなたはひょっとしたら、そういう千の天才を超えて――ニュートンやアインシュタインという神クラスの超天才、いえ、それ以上の存在になるかもしれない」
「わ、わたしが? ニュートンやアインシュタイン以上?」
いやいや。
それはない。
ニュートンとアインシュタインは別格。あのふたりの業績は異常。
どちらも古典物理、相対性理論という、数百年使われる物理基礎を、たったひとりで構築してしまった超人だ。
それを超えるなんて……
「買いかぶっていただくのは嬉しいですが、それはない、と思います。第一わたしが天才を超えることと、SERNの秩序の破壊とのあいだに、何の関連があるんですか」
「確かなことは何もいえない。これはあたしの仮説。でも、天王寺綯は、このテストを課す意味を、こう言っていたわ――より難しい試験を牧瀬紅莉栖にクリアさせることで、無限に近い数の世界線をいくつものバージョンに選り分けて、世界線の選別をしようとしている、って。つまり、無数にある世界線のなかで、テストをクリアできなかった世界のあなたを見捨て、テストをクリアできるだけの能力を持ったあなたを生き残らせる。これを繰り返せば、いつか最高の天才が生まれる、って」
寒気がした。
わたしの才能を選別する?
「じゃあ……つまり、今のわたしは」
「正答率0.01%の問題をクリアした、特に選び抜かれた牧瀬紅莉栖、ってところだわね。おそらく他の可能性世界では、牧瀬紅莉栖はテストをクリアできず、殺されている」
「…………!」
「その目指す先が何なのかまでは分からない。けれどあなたにテストや難問を課す理由は、これで説明がつくと思うわ」
そんな……まさか……。
でも。
それなら辻褄があっている、とも言える。
天王寺綯の不可解な『ゲーム』。
狂った遊びだと思ってた。合理的な理由なんてないと。
でも、もし『ゲーム』に、ちゃんとした目的があったら?
その目的は……凡百のわたしを殺して、優秀なわたしだけを選別する……?
無残にも撃たれ、刺され、殴られて殺される99.9%のわたし。
あるいは、第1の4℃との『ゲーム』に勝てなかったわたしも、何らかの形で殺されてしまったのかもしれない。
今ここにいるわたしは、その極小確率を潜り抜けた、特に頭のいいわたし、ってこと……?
ふ……
ふざけるな。
そんなことあっちゃいけない。
「ゆ、許せない。そんなの、グロテスクすぎる。選民思想どころじゃない。わたしを何だと思っているんだ」
「そうね。それに、それだけでは説明がつかないこともある。岡部倫太郎を記憶死状態にしたこととか。――ひょっとしたら、意味はないのかもしれない。意味のなさも含めて、彼女の望む混沌なのかもしれない。なんにせよ、彼女に直接訊いてみるしかないわ。彼女はあなたを待っている。3つ目のノイズメモリー送信機を持ってね」
――え?
「ちょ、ちょっと待って――それじゃあ、3人目の『送信者』は――」
「もちろん、他にいるはずもないわ。3人目の『送信者』は、天王寺綯自身。彼女の望みは、あなたとの――牧瀬紅莉栖との、直接対決よ」
そんな。
普通の人間相手なら、いくらだってやりようはあると思ってた。
どんな頭脳にも暴力にも、タイムリープマシンさえあれば負けないと思ってた。
でも――
他でもない首謀者である天王寺綯からメールアドレスを聞き出すなんてことが、できるのか?
いや、聞き出したとして、ほんとうに過去の天王寺綯は送信を“なかったこと”にしてくれるのか?
「それからもうひとつ、二次世界線結節について知りたいって言ってたわね」
「え……ええ。天王寺綯は、『二次世界線結節』があるから、岡部の記憶死は回避できないって言ってました。どういう意味なんでしょう? そもそも人が着信を取るか取らないかを、つまりどの世界線に派生するかを、人がコントロールすることが可能なんでしょうか?」
“タイムマスター”。
“時の支配者”。
天王寺綯がタイムリープについて、世界線理論について尋常ではない知識を持っていることは分かっている。
けれど、人ひとりが世界線を操ることが、そんなに簡単だとは思えない。
二次世界線結節。
『岡部が電話を取ること』を、回避不能にする方法。
『岡部が電話を取ること』を、世界に重要な出来事だと誤解させる方法。
なにか特殊な機械や大掛かりな未来装置が関係しているのだろうか?
何かわたしの理解の届かないような複雑怪奇な理論があるのだろうか?
そう尋ねたら、橋田鈴は首を横に振った。
「そんなに複雑な理論や機械は存在しないわ。どちらかというと、それはしごくシンプルな理論。世界線――アトラクタフィールド理論は、ひとことで言えば『世界の趨勢にかかわる大きな変化は、アトラクタフィールドの収束によって許されない』ってこと。これは分かるわね? なら、『どうしても修正されたくないこと』があるなら――世界の大きな変化の原因に、無理矢理組み込んでしまえばいい」
「ど……どういうことです?」
「簡単よ。岡部倫太郎の記憶死が回避できない理由はひとつ――」
橋田鈴はそこで言葉を少し置いて、少し残念そうに、言った。

「あなたがそれを見たからよ、牧瀬紅莉栖」

「――え?」
今度こそ本当に分からない。
わたしが見たから、岡部の記憶死は回避不能?
どういうことだ。
――そんなことは簡単だ。
もうひとりのわたしが言う。
――論理的に明らかじゃないの。それ以外にない。
違う。そんなはずない。そんなこと、あるわけが……
「あなたは岡部倫太郎の記憶死を『見た』。それによってあなたは対策を考え、天王寺綯の試練をクリアする動機を与えられ、いろいろな試行錯誤を重ねた。その結果は、未来のあなたが作るタイムマシンにも影響を与える。世界の最重要人物――『タイムマシンの母』であるところのあなたの、その後の行動原理にもなった。もしあなたが岡部倫太郎の記憶死を体験していなかったら、未来はまた別の形になる。それこそ、何百万人という人の命の運命を左右するほどに」
「そんな」
わたしが見たから、岡部の記憶死は回避できない?
わたしが岡部の記憶死を回避しようと思うせいで、記憶死は世界に固定されてしまった?
「これが“二次世界線結節”。ほんらい収束の対象とならない事象を、世界に重要事項と“誤認”させる手法。それ自体はすごくシンプルでしょう? ――ほんらい収束しない箇所に、副次的な世界線の“節目”をつくることから、そう呼ばれるのよ。作動原理がごくシンプルなだけに、覆すのは難しいわ」
「そ……そんな」
「嘘じゃないのは、あなたが一番分かるはず。岡部倫太郎を助けるために、タイムリープしたのでしょう? そしてそれは失敗したのでしょう? それがこの理論の正しさを証明しているわ」
「でも――そんなの、典型的なタイムパラドックスじゃない! わたしが見たから岡部の記憶死は回避できない。回避できないからわたしは回避するために努力し、その結果未来のタイムマシンが変わる。その変わった未来から、天王寺綯はやってくる。わたしに未来を変えさせるために――」
「そう、因果論的には典型的な自己撞着ね。でもそもそも、Dメールやタイムマシンとはそうしたものなの。未来から情報を受け取った時点で世界線は変動しているのだから、『送信元』である未来はもう存在しない。Dメールというのは別の世界線から送られてきたメールに見えるでしょう? それと同じ。未来が過去を変えにやってくるというのは、因果が矛盾しているようでいて、何の矛盾もないのよ。それは『別の世界の未来』なのだから」
別の世界の、未来――
そうだ。
「岡部! 聞こえてる!?」
わたしはさっきの、声だけの岡部に呼びかける。
「さっきまでわたしに話しかけていたでしょう、岡部? ねえ、何か返事をしろ!」
…………。
……。
返事がない。
「ど、どうしたの牧瀬さん。テストの時からひとりごとで、岡部、岡部って言っていたけど」
「わ――わたしだけに、聞こえるんです。岡部の声が。さっきのテスト中もそれで助けてくれました。ねえ、岡部? からかってるんじゃないでしょうね。これじゃまるっきり、わたしヘンな人じゃない! ちょ、何とか言いなさいよ!」
いくら耳をすましても、岡部の返事はない。
――そういえば、さっきから妙に静かだから、変だとは思っていたんだ。
いなくなった?
それとも、声が届くにはなにか特別な条件がある?
「あ、あなたの言うことだから今さら嘘とか妄想だとは思わないけれど……あんまり人前で言わないほうがいいわね、それ。おかしな人だと思われるわよ」
橋田鈴教授に優しく指摘していただきました。
ううっ、ちょっと傷ついた。
わたしは、橋田鈴に岡部の声について話した。
未来から信号を送っているということ。各種の方程式をデータベースから答えてくれたこと。それのおかげで第3問は正解できたこと。
ひとしきり聞いてから、橋田鈴はううん、と唸った。
「あなたが言うことが本当なのか、判別することはできないわ。でもあたしが生まれた未来の『ワルキューレ』で、似たような技術が研究されていたのは確か。通信機を持たない仲間と連絡をとるために、遠隔地の金属にラジオの原理の共鳴電波を送ることで、望む相手にだけピンポイントで音声を送れるの。同様に対象の環境光を観測して音の波動に復調することで、こちらからの声を相手に届ける――その技術とタイムマシンを組み合わせれば、未来と話をするのも不可能じゃないわ、理論的には」
そんなすごい技術があったのか――
タイムマシンのある未来の話だ、今さら何も驚かないけど。
タイムマシンがあれば、研究開発のための時間は事実上無限にあるからな。
「でも、じゃあ未来では岡部は助かってるの?」
「どうかしら。分からないわ。この世界では死んだままかも。さっきも言ったように、未来からのメッセージというのは、必然的に『別の世界線からのメッセージ』でもあるわけだから」
ああっ、ややこしいな。
こんなとき岡部がいないから悪いんだ。
本人に直接聞けばすぐわかるのに。
でも――確かに、未来から岡部の声が聞こえるからといって、それが『岡部がいずれ意識を取り戻す』ことを意味しているわけじゃない。
ひょっとしたら、全く別の世界線の――記憶死しなかった岡部が、2025年から過去に信号を送り、それがたまたまこの世界線――ダイバージェンス0.99999999999%のこの世界に、紛れ込んだだけかもしれない。
つまり、わたしがさっき話した声だけの岡部は、この世界線の岡部ではないかもしれない。
まあ、いずれ本人に聞けばわかる話だし、耳元でこれから助けるべき岡部の声が聞こえるというのは、恥ずかしくも心強い。
「これで、あなたの質問には答えられたかしら」
「――ええ。いま何が起こっているのかは、だいたい理解できました」
ではどう対策すべきかまでは、さっぱり思いつかないけれど。
「じゃあ、本題に入りましょうか」
「本題?」
「これよ」
橋田鈴が取り出したのは、一本の携帯電話。
銀の折りたたみ式ケータイ。4℃が持っていたのと同じタイプのもの。
そうだ。すっかり忘れてた。
「じゃあ遠慮なく」
橋田鈴のケータイを借り受けて、アドレスを調べる。4℃のときと同じ要領で、過去に向けてのメールを作成する。


[Date] 8/16 16:21 [To]The_End_of_Endless_Time_Flow@abboldman.com
[Sub] [Temp]
[Main]エル    プサイ   コングルゥ

「これで、過去のあなたがノイズメモリーの送信を中止すると思いますか?」
メールを作りながら、橋田鈴に問いかける。
「それは確実ね。そういう契約だから。それにあたしは信じていたわ。あなたならきっと、試練を潜り抜けられるって」
「人に向かってぱかすか銃撃っておいて、よく言う」
「ふふ、そうね。でも迫真の演技だったでしょう?」
「そうですね。オスカー女優並みでしたよ――って、え?」
演技?
橋田鈴はいたずらな笑みを浮かべている。
その指が、自分のまぶたの中の黒い小型機械をつまみあげ――
それを外した。
「――え?」
「種明かしよ。まあ、気づいていたとは思うけど」
いやいや。
いやいやいや。
「え、それって確か未来の洗脳装置で、それのせいで命令に逆らえなくて、え?」
気づいたとか、気づいてないとか。
え、どういうこと?
「あたしは『ワルキューレ』の戦士よ。こんなちゃちな洗脳装置の解除方法くらい、知らないわけないでしょう。信用をある程度得るためにはこれはこれで便利だから、上手く利用させてもらっていたのよ。でももう必要ないわね」
な……
「なんだそりゃ! なんだそりゃ! 大事なことなので2回言いました! え、なにそれ、じゃあわたしビビり損? けっきょくテスト失敗してもオーケーでしたってこと?」
「さあね。そのときは天王寺綯が何らかの手を打ってきていたと思うけど」
知らんがな。
そんなとこまで気を回している余裕はない。
大事なのは、橋田鈴は洗脳されていない、ってこと。
ってことは――。
「じゃ、じゃあどうして天王寺綯に従うようなふりをしていたんですか!」
「ふふふ、やだねえ、決まってるじゃない。味方だと思ってたあたしに裏切られて泡くって慌てる天王寺綯――ちょっと、見たくない?」
そ、それは。
……かなり見たいかも。
「あたしはあたし。生き方を変えるつもりはない。自分の心に蓋をして、洗脳に従って誰かの言いなりなんていうのは、家畜の生き方であって、あたしの生き方ではないわ」
橋田鈴はにっこり笑う。
「そしてあたしは、何があっても、どんな拷問を受けても、決して仲間は売らない。それがあたしの生き方」
「橋田教授……」
「この言葉を知っているのは岡部倫太郎だけかもね。あなたたちは『仲間』よ。未来からやってきた、孤独なあたしを、あなたたちは当たり前のように迎え入れてくれた。いえ、戦いのなかで、お互いの背中を守るような『戦友』しか知らなかったあたしにとって――あなたたちのように、当たり前にそばにいて、苦しいときは一緒に苦しんでくれる、そんな優しさをくれた人たちは――そうね、あの時はうまい言葉が見つからなかったけれど、今だったら分かるわ。きっと、それを『友だち』って言うのね」
橋田鈴教授の笑顔は、力強かった。
「あたしは橋田鈴であると同時に、阿万音鈴羽。ラボメンナンバー008にして、バイト戦士。別の場所で何年過ごそうと、それは変わらないわ」
よ、よかった……。
橋田鈴は敵ではない。
「じゃあ橋田教授、何かいい方法は思いつきませんか? こんな天王寺綯の馬鹿げたゲームから今すぐ降りて、岡部を確実に助け出す方法は?」
橋田鈴は首を横に振った。
「残念ながら思いつかないわね。天王寺綯はさすがね、前もって罠をいくつも張っているわ。こと時間跳躍に関する裏のかきあいでは、天王寺綯には圧倒的なノウハウがあるから、取れる手段は相当な力技に限定されるわね。天王寺綯を追い詰めて自白させるか――あるいは、さらに過去の誰かに、天王寺綯が生まれる前に殺すように依頼するとか――」
――綯殺し。
そうしたら、天王寺綯が現代に来て岡部を殺そうとしたという事実は、わたしや皆の記憶ごと吹っ飛び、世界は修正されるのだろう。
できるだろうか。過去の綯殺し。
――無理だろう。
倫理的にどうこうというより、Dメールだけで11年も前の人に殺しを依頼するなんて、非現実的すぎる。
第一その前に、世界線の収束に阻まれて天王寺綯の死はその時には達成不可能だろう。
死ぬタイミングの人間の死を回避することはできないし、死ぬべきでないタイミングの人間を殺すこともできない。
いずれにしても、岡部を助けるには、今のところ正攻法しかない、ということか。
わたしは橋田に、橋田鈴のケータイから電話をかける。
「ハロー、橋田?」
「あれ、牧瀬氏じゃん。今どこ?」
「まだコミマ会場の近くにいるわ。知り合いとの話が長くなってね。そっちは?」
「こっちは戦利品抱えてラボに戻ったとこだお。あー疲れた。当分動きたくねーすな」
「疲れてるとこ悪いんだけど、電話レンジ起動してくれない?」
「へ? いいけど。またなんか実験? オカリンに無断でそんな実験やってていいの?」
「岡部は……」
一瞬言葉に詰まる。
「岡部にはわたしから許可取っておくわ。ひとつ、よろしく」
「んー、まあいいけど」
言いながら、橋田は電話の向こうで電話レンジの設定をしているようだ。
時間は、岡部に『記憶死着信』が入る10分前。
これで2本目の『記憶死着信』をキャンセルできる。
「いいですね、橋田鈴教授」
「いいけど、送った途端に大規模な世界線変動が起きて、あたしたちみんな記憶を失っちゃっても知らないよ」
「本気でそうなると思ってます?」
「まあ、起こらないでしょうね。アトラクタフィールド理論から考えると」
わたしは自分のケータイの送信ボタンに指を添える。
「じゃあ、電話レンジ起動して」
「オーキードーキー。ポチッとな」
電話口の向こうで、放電現象の音。
「あーあ、こんなに簡単にカー・ブラックホールを作られちゃうんだもんなあ。あたしの25年は何だったのかしら」
隣で橋田鈴が苦笑交じりに愚痴る。
わたしは、Dメールの送信ボタンを――
――押した。
…………。
……。
世界線変動は、起こらない。
ここまでは予想通り。
「橋田鈴教授。あなたはノイズメモリーを送信したことを、覚えていますか?」
「覚えているわ。間違いなく送った。けどいまのメールで、その事実は消えたでしょうね。ホラ」
橋田鈴は手の甲を見せる。
年齢並みに皺の寄った手の甲には、赤いマジックで『キャンセル済み』と書いてあった。さっきまではなかった文字だ。
「あたしは送信をキャンセルされたら、こうやって手の甲にそのことを書くことに決めていたの。ついさっき、あなたが送信ボタンを押した瞬間に、この文字は突然現れたわ。だからDメールは成功。残る仕事はあとひとつ」
天王寺綯との対決。
わたしは電話の向こうに呼びかける。
「橋田? ご協力ありがとう。電話レンジの放電、もう切っちゃって構わないわよ」
「あ、もういいん? 送信終わった? いやー、オカリンいないし、下の階に店長帰ってきたらどうしようかと思ったお。いつもいつもすげー揺れだし……ん? ちょい待ち。誰か来たみたい。ドアノックしとる。まさか、店長? だとしたらやべーのだぜ」
電話の向こうで慌てる橋田。
「橋田? 誰か来たの?」
「うん、ちょっと待ってお。はいはーい、今出るお……………………はい。はい? どちらさん? え、いや、ちょっと何、あんたたち」
がちゃがちゃと、電話の向こうで何かがぶつかる音。
「ちょっと、橋田?」
「誰だおあんたら。無断でラボに入っ……ちょ、おま、何す、いた、いたたたたたいいたい! あ、やめ、ぐ、ぎゃっ!」
何かが壊れる音。
倒れる音。
「ちょっと、橋田!? どうしたの、そっちで何やってるの!?」
「ま、牧瀬氏、こいつらヤバ、け、警さ、つを」
バキン。
電話が切れた。
「橋田!? 橋田!!」
「何があったの?」
「わ、分からない! ――ラボに誰か来たみたいで、言い争う声と、なにか壊れる音が聞こえて、それで……」
「この動きは予定にはないわ。ただの押し込み強盗――なわけないわね。急いだほうがいい」
橋田鈴がわたしの手を引いて立ち上がる。
わたしは立ち上がろうとして、
視界の隅に窓が映って、
時間がスローモーションのように、
カーテンが揺れて、
窓の向こうでなにかが光って、
窓が割れて、
風が、
弾が、
音速を超えた弾丸が、窓を
窓をつきやぶって、
ガラスの破片がきらきら輝いて、

橋田鈴の胸部にスナイパーライフルが着弾して肉が飛び散った。

「……がっ!?」
橋田鈴の眼球が裏返る。
一拍遅れて血しぶきが床に飛び散る。

「……え?」
何、これ。
何が起こったの?
橋田鈴が倒れる。
「ぐ――がっ!」
橋田鈴が口から大量に吐血した。
ドクン。
橋田鈴が――撃たれた。
窓から――狙撃された。
この部屋は、狙われている?
見られている?
「いやあああぁぁぁぁぁっ……!」
怖い。
他に何も浮かばない。
撃たれた。
窓の外から撃たれた。
うずくまる。
頭をかかえる。
狙撃。
スナイパー。
この部屋は狙われている。
いや、最初から監視されていたんだ。
わたしも、きっと、殺されて――
「っ……す、牧瀬、紅莉栖」
かすかな、声。
顔をあげる。
「頭を下げて……窓の下、かっ、壁の傍にっ、そこからじゃ、スナイパーから見える。っ」
「は、橋田教授っ……」
「ごめ、んなさい、こんなことに巻き込んでしまって」
「橋田教授っ、ち、ち血がっ、血が!」
「ええ、こ、これじゃも持ってすす数分ね」
橋田鈴の喉が痙攣する。
激しく咳き込むと、そのたびに口から血がしぶく。
「これを持ってにに逃げて、壁づたいに、ひひ人ごみに紛れて」
橋田鈴が差し出したもの。
黒く光る、拳銃。
「いやっ……そんなもの、持てません……」
「いいから、持つのよ、死にたくな、なければ」
橋田鈴の手が伸びてきて、わたしの手に拳銃を握らせる。
その手が、血でぬめる。
「っ……う、こんな」
頭がしびれる。
たぶんわたしは泣いている。
涙が頬を流れる。
馬鹿。
泣くやつがあるか。
泣いてる場合じゃない。
橋田教授の言うとおりだ。
死にたくなければ――動かなくちゃ――
「は……橋田教授、い、いま、助けを呼んで、きます」
膝が震える。
でも、立ち上がらなくちゃ。
立ち上がって、行動しなくちゃ。
「そそれでい、いい、いいのよ」
橋田教授の目がすうっと遠くなる。
もうこっちを見ていない。
命が――消えようとしている。
目の前で、人が、死のうとしている。
“あたしはひとりぼっちだった”
“あたしはまだ十分に生きていない”
“あなたたちは『仲間』よ”
橋田鈴教授。
誰よりも自分の死を恐れたタイムトラベラー。
ジョン・タイターにして、いろいろな世界を生きた強い女性。
戦士。
「い、いよいよ、このととと時が、きき来たのね」
「だ、駄目、死んじゃ駄目、死んじゃウソだ、――だから橋田教授、生きて」
「そ、そうね、あたしは生きたい、こんなに血がでていても、ま、まだ生きたい。ふ、不思議ね」
橋田教授の表情はほんとうに不思議そうだった。
「死ぬって、何? あと数十秒で来る、あたしの死って何? ね、ねえ教えて牧瀬紅莉栖」
その瞬間、もう一発の銃弾が部屋に飛び込んだ。
狙撃は誰にも当たらず、会議室の机の上に大きな穴をあけた。
「……っ!」
消音狙撃銃なのか、音はほとんどしなかった。
「嫌よ、死にたく、ない、でも死は、来るわ、納得できなくても、来る、どうして? せ、センセイ、どうして迎えに、来てくれない、の? あたし死ぬ、んだよ、ねえセンセイ、怖いよ」
橋田教授の呼吸が浅くなる。
目がゆっくり閉じていく。
「怖いよ、怖いよ、ひとりぼっちで消えるのは、怖いよ、これは、何? 何が起こってる、の? 分からない、怖いよ、助けてセン」

――――。

――死んだ。

橋田教授はそのまま動かなくなった。
床に血だまりがすーっと広がっていく。
――教授。
彼女の人生は、いったい何だったんだろう?
未来に生まれて。
未来を変えるためにこの世界に、そして過去に飛んで。
IBN5100を手に入れて。
物理学の世界に名を残して。
でも、天涯孤独で。
――橋田教授。
孤独な初老の女性は、いまわたしの目の前で血を流して倒れて、動かない。
もう命が消えてしまった。
「こんなの……ひどすぎるよ……!」
彼女の一生は何だったんだ。
涙が止まらない。
心があふれる。
ごめんなさい。
助けられなくて、ごめんなさい。
わたしがここに来なければ、もしかしたら死なずにすんだかもしれないのに――

また狙撃。
3発目の着弾。
壁にまた拳大の黒い穴が空く。
――悲しませてさえくれないのか。
行くしかない。
動かなくちゃ。

壁づたいに、スナイパーから決して姿を見られないようにしながら、部屋を脱出した。

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