CHAPTER03

Chapter03 不可能証明のイレブンナイン


「なっ……何故だっ……!」
そいつは、頭を抱えていた。
「さあ、何故かしらね。はい、これでチェックメイト。これで32戦中、わたしの24勝3敗5引き分け。どう、何か言うことはある?」
「こっ、こんなことが、許されるというのか……っ」
「さあね。可能性としては、ありうるんじゃない?」
わたしは相手の『サーバマス』と呼ばれる場所に、自分のリンクカードを移動させた。これで4枚目。
同時に、相手の顔が、くちゃっと歪む。
おっ、おーっ、泣きそう。
大の大人が泣くとこ、最近よく見られるなー。
相手はぐずぐずの顔のまま、「も、もう一戦だ」とすがりついてくる。
「もちろん、いいわ。何度だってやってやりましょう。あなたの心が折れるまでね」
ひいっ、鬼だこの女、と相手が小さく叫ぶ。
わたしは自分のオンラインカードを素早くシャッフルし、自分でも見えないように適度にばらけさせて自分のサーバマスに配置しなおす。
「さあはじめましょう。言っておくけど、わたしは簡単には許さないからな。いい年した男でも半泣きどころか大泣きしてかつ土下座でごめんなさいもうしませんと頭すりつけて謝るまで、許してやらないからな」
相手の顔が青ざめる。
「さあ、33戦目、はじめるわよ」
「んな、馬鹿な、このオレが……っ」
相手は黒いニット帽を握り締めて、実にくやしそうに歯ぎしりをした。
「この“雷ネット界の黒い貴公子”たる俺の伊達ワルカリスマハートが、手も足も出ねえ、だと……!?」


ことは数時間前までさかのぼる。
私はラボのPCで、橋田にケータイの解析を依頼した。
橋田の仕事は確かだった。というか確かすぎ。
ケータイを渡すと橋田は『うーん、やったことないけど、それ系のツール扱ってるサイト知ってるから、なんとかなるっしょ』と言いながらPCにケータイを接続した。じゃあわたしは散歩でもして頭を冷やしてこようかな、と思って、一度脱いでいたコート(岡部に買ってもらったやつだ)をふたたび着た。それから一度お手洗いに行って帰ってきたところで、『はいケータイ持ち主、名無し氏のお名前、ハケーン』と言ったのだ。
は?
わたしは目が丸くなった。まだ5分も……いや、それどころか、2、3分しか経ってないような気がするんですけど。
「いやあ、牧瀬氏の電話があってから、前準備はしてたん。だからだお」
だからと言ったって、こんなに短時間で割り出されては、名無し氏が可哀想というか(同情する気はまったく起きないけど)。
「なるほど、それでこれから、名前から住所そのほかの情報を出していくのね」
「いや、それももう済んでる。職業、趣味、よく行く場所まで、ぶっこぬき完了。ミッションコンプリート」
マジでか。

というわけで、わたしはラジ館の屋上で上等してくれやがったAsshole(あらわたしったらはしたない言葉遣い)の行方を追うため、ひとり行動を開始したのだった。
アスホール名無し氏の本名は、波倉滝尾。21歳、フリーター。高校中退後、東京に出てきてフリーター生活をはじめる。以後たいした職にもつかず、ふらふらとバイト先を変えて今に至る、とのこと。
彼らは秋葉原の外れ、モデルガンショップが入った貸しビルの一室をよく溜まり場にしているとのことだった。
やれやれ、ここまで分かっちゃうものか。
橋田が敵でなくて本当によかった。ケータイひとつで、よく行く場所までばれてしまうとは……。
とにかく橋田には、わたしが今日中に連絡を入れなかったら警察にこの場所を調べるよう電話よろ、とだけ依頼しておいた。ちょ牧瀬氏どういうこと、説明PLZと聞き返してくる橋田をはぐらかし、わたしはひとり、敵のねぐらに向かった。
橋田を巻き込むことはできなかった。それは親切心とかじゃなく、論理的に考えた結果、そうするのが一番いいとわたしは考えたからだ。
――橋田はバックアップだった。わたしがもし死んだら、橋田は最後のタイムリーパーとして、わたしと岡部を救う旅をしてもらわなくてはならない。その時のために、橋田は今の世界線ではできるだけ収束の外側、安全な場所にいてもらう必要があった。
さて。
鬼が島に乗り込む前に、わたしにはひとつ、立ち寄るべき場所があった。

「ほっ……とっ、おりゃああああ!」
たてつけの悪い扉を開けはなつ。
扉はがらがら、ばきん! という音をたてて開いた。なんか最後のばきん、は何かが壊れた音のように聞こえなくもなかったけど、キニシナイ!
♪〜(・ε・)の顔文字のような顔をしながら、わたしは店内に入った。
ブラウン管工房。
店内は薄暗く、うっすらと埃が舞っていた。つみかさねられた時間と時間と時間の気配。すごく古く長く使われたものたちだけが持つ、独特の気配だ。所狭しと並べられたブラウン管テレビの黒い画面に、不安そうなわたしの顔が、ゆがんだ形で映っている。
「……おっじゃましまーす、店長さん」
わたしは意味もなく足音を殺して歩いた。
わたしのお腹が小さく、きゅうと鳴った。そういえば朝から考えることに精一杯で何も食べてない。あわてて誰も聞いていないか確かめる。ちょっと頬が赤くなった気がしたが、もちろん気のせいだ。
誰もいない。
今ブラウン管工房の店長は、なぜか不在だ。営業中なのに店員不在でいいのかな、とも思うけれど、この店に客が来ているところなんて見たことないから、まあいいのだろう。おかげでこうやって、人目をはばからず探し物ができる。
ここはわたしたちのラボの下の階になっている。薄い天井ごしに橋田がアニメを観ながら『キター、魔法少女、テラカワユス!』と叫んでいるのが、けっこうダイレクトに聞こえてくる。
プライバシーもセキュリティもあったもんじゃないな、ここは。
タイムマシンの情報が筒抜けになるわけだ。
そう、天王寺綯とこのブラウン管工房の店主――天王寺裕吾との関係も、確かめなくてはならないことのひとつだった。
天王寺綯と天王寺裕吾との関係は、本来なら親子だ。しかし岡部が経験してきた世界線では、天王寺裕吾はラウンダー――SERNの実働部隊として、ラボ襲撃を裏で操っていた存在なのだという。コードネームはFB。
そして天王寺綯――わたしが今戦っている、“タイムマスター”と名乗ったほうの天王寺綯は、SERNの名前を口に出した。今のわたしたちの状況にちょっかいを出してきているところから見て、SERNの一員である可能性が高い。はたしてふたりの関係は、どれほどの協力関係にあるのか。――つまり、天王寺裕吾を、どれほど警戒すればいいのか。
これは本来優先的に確かめるべき事象だ。
だがわたしはあえてこの調査を後回しにしていた。
『送信者』を探すのに必死で余裕がないからじゃない。天王寺裕吾の危険性を判定する作業は、労力が大きいわりに得るものが少ないからだ。
天王寺裕吾が敵であろうとなかろうと、SERNである彼に事情のすべてを話すわけにはいかない。なので仮に天王寺裕吾が敵でなかったとしても、彼を協力者として引き込むことはできない(もしそれがなければ、綯の父親を味方に引き入れる、というのは魅力的な策のひとつだった)。
そして天王寺裕吾は警戒心が高いだろう。
直接格闘戦になっても勝ち目が低い。
ということで結論。とにかく彼には近寄らない。
そういう論理的戦略のもとに、わたしはこっそりブラウン管工房に潜入し、こっそりとブツをいただいていくことにする。
べ、べつにビビってるわけじゃないからな。
冷静に考えなくても窃盗だが、こまけえことはいいん……細かいことは気にしないことにする。
店内でもひときわ目立っている、42型ブラウン管の背後にまわる。
「さあ、綯ちゃんのファッキン贈り物はどこかな……?」
最近だんだん自分の口が悪くなってきている気がするわ。
わたしが探しているのは、天王寺綯の贈り物。あの夜、あいつが別れ際に言った言葉。
“――ブラウン管工房の42型テレビの裏に、いいものを置いておいた。挑戦者への、ちょっとしたプレゼントだ。探してみたまえ――”
わたしは薄暗いなか身を乗り出して、それを探した。ほどなく、なにか角ばったものが、指先に触れる。
「……これ?」
取り出して、眺める。
それは一見、少し厚いカードキーのような格好をしていた。
白く、普通の紙カードを5枚重ねたくらいの厚みがある。表面はつるりとしていて、斜めにブラウンのスラッシュと、SERN、の文字。そして下のほうに小さく――文字が――
「ダイバージェンス……インディケーター……?」
世界線測定器。
そう読める。
胸がざわつく。
世界線測定器――それはかつて、未来の岡部が作り、鈴羽がこの2010年に未来から持ってきたという、世界線の変動を確認するための装置。その性質のために、一般人にはいつ見ても同じ数字の、岡部にしか使い道がない道具。
その数値が1%を越えたとき、α世界線からβ世界線へ移行が完了したことになるという……
でもそれは岡部が作ったオリジナルのもので、サイズもこんなカードほどの小型サイズじゃなかったはず……
こんなものがプレゼント? はっきり言って、意味がわからない。
第一、世界線測定器なら岡部が持ってるやつを使えばいい。ニキシー管で作られた、岡部自作のダイバージェンスメーターを。
それに世界線測定器はその性質上、リーディング・シュタイナーを持つ岡部以外には、なんの価値もありがたみもない道具だ。
これを、どうしろと?
――まあ、今より“ゲーム”とやらの難易度が上がったり、さらに絶望的な事実を突きつけられるよりは、ずっといいのだけど。
わたしは落胆半分安心半分で、なにげなくカードを裏返した。
心臓が凍りつく。
「……!!!!」


……わたしは、カードをポケットに突っ込み、本来の目的地である、アスホール名無しがたむろしているというたまり場に向かった。
そこは秋葉原の中心街をはさんでラボと反対側、国道沿いの比較的車通りの多い一隅だった。とはいえ中心街から遠いため人通りは少なく、むしろいくら騒いでも車の走行音にかきけされるため、若い男たちがたむろして遊ぶにはぴったりな場所といえそうだった。
わたしは時代に取り残された感じのする3階建ての古いビルの外付け階段を登り、ドアの前に立つ。
――ひとつ深呼吸。
これから乗り込むのは、やばい仕事も請け負う頭のネジがぶっとんだアスホールと、その仲間がいる場所だ。わたしにはこの頭脳があるから大丈夫、と自分に言い聞かせるけど、それでも体力勝負暴力勝負になったとき、やはり不安が大きい。
もちろん、徒手空拳で挑むほどわたしはアホではない。
右のポケットには、護身用のスタンガン。小さいが違法改造されていて、威力は十分だ。
そしてわたしは、それだけでも十分とは考えない。もうひとつ奥の手を用意している。
わたしはポケットの中の小さいICレコーダーに手を伸ばし、スイッチを入れる。
秋葉原で買ったこのレコーダーは、録音しながら同時に音声データをネット上にアップロードすることができる便利なツールなのだそうだ。もちろんアップロードしたデータの保存先はわたししか分からないけど、自分のケータイメールにそのアドレスを書いて送っておいた。
これはバックアップ。もしわたしが死ぬか監禁され、かつ警察の捜査も失敗した場合、これによってバックアップとしての橋田が活きてくる。彼なら帰らないわたしのことを調べるため、わたしのメールサーバーにハッキングくらいするだろう。そのときこの音声記録を見つければ、すみやかにタイムリープし、このドアを開くわたしを止めてくれるはずだ。
――タイムリープマシンがあると、こういう策が使える。普通なら問題が起こる前にそれを防ぐのがリスク回避の基本だが、タイムリープできるなら、問題が起こってから問題を“なかったこと”にするという戦略がとれるのだ。
わたしは、そのドアの前で、数秒待つ。
後ろから橋田が『牧瀬氏、そのドア開けるのちょい待ち!』と叫んでくれるのを、待っているのだ。
そうすればこの先が危険だと分かる。
橋田が来ないなら、このドアの先は安全ということだ。
――頭の中で、もうひとりのわたしが、馬鹿、やめろ、と叫ぶ。
――そううまくいくはずない。そんなに都合よくできてないから、岡部は苦労したんでしょう?
その通りだ。わたしは馬鹿なことをやっているだろうか?
危険な連中のたまり場に、ひよっこい女がひとり、押し入ろうとしている。
まるで自ら危険な道に望んで突っ込もうとしている。どう考えたって自殺行為だ。
死ぬのは怖い。依然として怖い。けれどわたしは死ななくてはならない存在なのだ。世界のため、まゆりのために死ななくてはならない存在なのだ。
わたしは愚かにも、このドアの向こうに一人で突っ込めば、なにか変わるかもしれないと思っている。わたしという人間がそう簡単に、心の闇に巣くった死の恐怖がそう簡単に、消えるはずもないのに。
わたしはカードを見る。
世界線測定器――ただしSERN用の、さきほど42型ブラウン管テレビの裏で拾ったカード型測定器だ。
その裏には、こう書かれている。

凾cIVERGENCE=0.99999999999%

――この数字が意味するところは、何なんだろうか。
9が11桁。イレブンナイン、とでも言うのだろうか。
いまのところ、これから分かることは、今のこの世界線が限りなくβ世界である1%に近いということだ。そして岡部が自作した世界線測定器より、はるかに精度が高いということだ。岡部の世界線測定器は、小数点以下6桁までしか測定できなかったが、こちらは11桁まで測定できる。
つまり、これはごく微小な世界線移動、いわゆる『近距離』世界線移動にも対応しているということ。
わたしはカードをポケットに入れた。わたしの予想が正しければ、これは後々重要なアイテムになる。まさに天王寺綯を倒すのに必要不可欠な道具になるはずだ。
――わたしにこれを与えたことを後悔しなさい、天王寺綯。
街路樹のどこかに止まった蝉が、じいじいと鳴いている。
わたしはドアノブに手をかける。
今は進むときだ。
ぎゅっと目を閉じ、“わたしの中の神様”に小さく祈ってから、目を開け、ドアを勢いよく開ける――


「たのもう」
わたしはできるだけ、腹に力をこめて宣言した。
「…………誰だ?」
部屋には男が――5人、いた。
2人は中央の机に向かい合って座っている。なにか色のついたボードのようなものが机の中央に置かれている。
残りの3人はなにをするでもなく、壁にもたれかかって立っている。
全員がこちらを見た。
部屋は色に乏しかった。
ラボよりひとまわり大きい室内。コンクリートうちっぱなしの壁。装飾品らしいものは置いていない。アクセサリーなのだろう、チェーンや鍔つき帽子が何個か壁にかけられている。照明はなく、部屋は薄暗い。煙草の匂いがした。
わたしは男たちを観察する。
それぞれが、なんというか独特のいでたちだ。ストリート系、とか言うんだろうか? ぼさぼさの茶髪、黒いぼろぼろのパンツ。ベルトを3つくらいつけているけど、どれもゆるゆるで垂れているので、機能を果たしていない。銀のアクセサリーやらスカルヘッドのリングやらをとにかくたくさん身につけている。
ちょっとは想像していたけど、こういう種類のひとたちか。これは……強敵そうだ。
「あなたたちのなかで、一番えらい人を教えてくれる?」
「ああん?」
中でも背の高い奴が、一歩進み出てくる。
茶髪に黒のテンガロンハット。体にぴったりしたライダースーツ。すごいとりあわせだけど、迫力だけはある。
「一番偉いやつ、だと?」
目をほそめて、ゆっくりと歩いてくる。歩くたびに腰のチェーンが揺れて、ちゃらちゃら音をたてる。煙草のにおいが強くなる。
……やばい。ちょっと、怖いかも……
ええい、ビビってたって仕方がない。こっちは自分の命かけてんだ。
「おい……なあ、マサ」
「ああ?」
中央の机に向かってすわっている2人のうち右側が返事をする。
「俺たちん中でいちばん偉いのって、誰だ?」
「ああ? オメェ、そりゃ、アレだろうよ……タクマじゃねえの?」
反対の壁際で爪をいじってた男が、おどろいて顔をあげる。
「え? お、俺? いや俺じゃねーだろ。どっちかっつうと、巽クンじゃねえ? ほら、格好とかいかすじゃん。ロックっつうか、クールっつうか」
「俺っちかよ! いやちげーよ、俺っちそんなんじゃねーもん。まだまだだよ。すげえっつったら、ケンジ。ケンジだよ」
「……俺はそんなトップとかそういうガラじゃねー。そういうのは達矢にでもやらせとけ」
最初に話していた男がとびあがった。
「えっ? あ、いや、そー? なんつーか、やっぱり? いやー、やっぱオイラのあふれるカリスマハートに敵うやつぁいねえか。よしおめえら、黙ってオイラについてこい」
「…………」
「…………」
「いや、やっぱ達矢はねえな……」
「うん、ねえな……」
何このやりとり。
わたしが呆然としていると、がちゃりと奥のドアが開いて、ひとりの男が入ってきた。
「アホども! このヴァイラルアタッカーズのリーダーが誰かも忘れたか!」
背の高い、黒いコーディネートで身を包んだ男だ。
一歩進むたびに、身につけたたくさんのシルバーアクセがじゃらじゃらと音を立てる。
ごついサングラス。黒いニットの帽子。
「イサオくん!」
「イサオじゃねえ! 4℃《シド》だっつってんだろうが!」
イサオくんと呼ばれた男が怒鳴りつける。
ドアの向こうから水が流れる音がしていたのが、関係ないのになぜか気になった。トイレ行ってたな。
「この雷ネッター界に降り立った黒きカリスマのことを、二度と本名を呼ぶんじゃねえ」
男はふぁさっ、と髪をかきあげた。
ヴァイラルアタッカーズ。
それがこいつらの集団の名前。
奴らの名前も、そしてリーダーだと名乗る4℃とかいう名前の男にも、実は聞き覚えがあった。
岡部が別の世界線で、ひと悶着起こした連中だ。あまり良くない連中だと聞いている。
「悪かったな猫ちゃん。手下どもがやんちゃやらかしたようだ。だが気をつけな。ここは黒き聖域《サンクチュアリ》、アキバに降臨した伊達ワル雷ネッターであり、“黒の絶対零度”こと4℃様が支配する、俺の庭である黒きHELLだからな。お前みたいな子猫ちゃんが迷いこんでいい場所じゃねえ。身も心も黒く染められるぜ」
………………………………え?
……なにが何で、なにがどうと、おっしゃいました?
一回の台詞に黒が3回出てきませんでした?
突然出てくる非日常ワードに頭がついていかないわたし。
「オレの名は4℃。数字の4に温度の℃で、4℃。『ヴァイラルアタッカーズ』のリーダーをやってる」
………………………………はあ。
岡部の体験話で聞いてたけど、いまいちピンとこなかった。
……なるほど、こういう奴か。
「まーイサオくん本名は鈴木功夫だけどね」
「その名前で呼ぶなっつてんだろうが!」
怒った。
なんというか、本名を呼ばれて怒る人間をみたのは、18年という人生のなかで2人目だった。
ひょっとしてこいつ、岡部に似てる?
「ところで紅きワイルドキャト」
「…………」
「お前のことだよ、紅きワイルドキャット」
「え? わたし?」
「そうだ。お前以外に誰がいる? その瞳は体制への反逆を示し、誰にもなびかず懐かない、牙持つ紅きワイルドキャット。お前に言っておくことが、ひとつある」
「はあ」
最後のワンフレーズだけ意味がちょっと理解できた。“言っておくことがひとつある”のとこだけ。
よし、意思疎通はできている。
4℃と呼ばれた男は後ろ足に体重をかけ、スカルリングを見せびらかすように手の甲を前につきだし、首を15度ほどかしげて目を細めた。そしてわたしを指差して、一言。
「俺に惚れたら、火傷するぜ」
うわああああああああああああああああああああああああああああああああ。
わああああああああああああああ。わああああああああああああああああああ。
あああああ。
ぞわっときた。
今なんか首のあたりがぞわっときたよ!
助けて岡部。もうすでに(いろんな意味で)心が折れそうだよ!
わたしが硬直して震えているのを、感動に震えているのと勝手に勘違いしたらしい4℃とかいう男は、ふっ、と笑った。
「“黒の絶対零度”であるこの俺に触れた女は皆、身も心も凍らされるのさ――知ってるか? 乾いた氷は、肌を火傷させるんだぜ――」
そ、そうですか。
頭が容量オーバーで、つっこむ気も起きない。
乾いた氷の接触は火傷とは言わない。
低温の生体暴露で火傷に似た症状が生じるのは、水分の凝固によって細胞の浸透圧が変化し、細胞膜が破裂して炎症反応が起きるためだ。
それを昔の人は『しもやけ』と呼んだ。
絶対零度のしもやけ男は、わたしの内心のつっこみに気づかず演説を続けていく。
「つまりこれは世界の黒き真理に魅入られた俺の宿命、常にストリートシーンにおいて黒き輝きに包まれることを約束された俺の凍れる伊達ワルハートのみが持つ選ばれし力なのさ」
さすがは黒いしもやけ男だ。言ってることがさっぱり分からない。
一瞬、『あれ、こいつ岡部に似てる?』と思った自分が恥ずかしい。この4℃とかいう男のそれは、ナルシストがメーターを振り切っているだけだ。岡部の厨二病妄想とは方向性ぜんぜん違う。
しかし、あっちのペースにされてしまうと話がぜんぜん進まなくなるという意味では共通しているな。
ここはこちらのペースに引き戻さなければ。
「ご高説のところ悪いんだけど、人を探してるの。知らない? 波倉滝尾、21歳。どうやらケータイを落としたみたいでね。ここによく来るって聞いたわ。拾ったから渡したいんだけど」
「…………へえ、そうか、あんたか」
なぜか4℃は驚いたようだった。
「あんたがそうだったとはなあ。驚きだ」
「な……何がよ?」
「フッ、実はな。知らないガキに教えられたんだよ。『波倉を探してる女が、もうすぐこの俺の庭であるこの黒きHELLにやってくる。そうしたら――何でも言うことを聞いてやれ』、ってな――」
「え?」
言うことを聞いてやれ?
「ガキって、身長130センチくらいの小学生? 髪の毛を、こんな感じに括ってる?」
「そうだ」
じゃあその『ガキ』ってのは、間違いなく天王寺綯のこと。
でも『言うことを聞いてやれ』っていうのは――?
「変なガキだったぜ。すげえ金額のカネをぽんと置いていきやがった。そしてこの俺に、妙な依頼をしていきやがったんだ。こいつだ」
4℃とかいう男は部屋の奥にある物置きらしい場所から、何かを持ってきた。
「…………っ!」
そいつが持ってきたもの。
それは、ヘッドギアだった。
シリコンで覆われた9チャンネルの電極パッドと、18チャンネルのプローブ電極。
それが意味することは、ひとつしかない。
「それは……!」
「なるほどな。こいつにも見覚えがあるってわけだ、紅きワイルドキャット」
4℃は得心したようにうなずいた。
こいつが……
こいつが1人目の『送信者』なのか……?
ならやることはひとつ。
『このゲームの勝利条件は、3人の送信者からメールアドレスを聞きだすこと』。
「お願い、あなたのメールアドレスを教えて。わたしはそれを、どうしても知らなくちゃならない」
「ほう」
何かを勘違いしたのか、とりまきの男どもから歓声や口笛が聞こえた。
「確かにこいつに目覚まし時計をくっつけて、知らねえ番号にかけたのはこの俺だ」
「……理由は」
「何も。妙なチェーンメールが来たのさ。ラウンダーとかにならねぇか、ってな。報酬がいいとか言うから、冗談のつもりでオーケーしたら、この仕事だ。ちびっこいガキが来て、ものすげえ額の前金を払っていきやがった」
「それで、仕事は……指定した電話番号に、そのヘッドギアを接続した電話をかけること?」
「フン、やっぱり知ってるんじゃねえか。だがこのヘッドギアを絶対にかぶるな、とかワケのわからねぇ条件を言ってたがな。それから、さらにややこしいことだが、『エル・プサイ・コングルゥ』とかいう内容のメールが来たら仕事は中止だ、とも言っていた……結局来なかったがな。フッ、俺のクレバーなブラックブレインは、こいつをヤバい仕事だと判断した。そして俺はヤバい仕事は大歓迎だ」
「イサオくんお金ないって困ってたもんねー。雷ネットの拡張エキスパンション買う金がなくて、ご飯3日抜いたりとか」
「余計なこと言うんじゃねぇ! ――とにかく俺は仕事をしただけさ。非通知でな。雷ネッター界の黒き貴公子たる俺にしては実に味気ない、簡単な仕事だったぜ」
「その金でみんなで銀座で焼肉食ったんだよね、イサオくん」
「ああ、あの肉はヤバかった。グレートだったぜ。俺のブラックハートを1秒で虜にするとは、ただごとじゃねえぜ神戸牛――って、いらん話をするんじゃねぇ!」
やっぱり、
お前が――
お前が『送信者』だったのか。
いきなり本丸を当ててしまったらしい。
『送信者』。ノイズメモリーを送った3人のうちの一人。わたしが戦うべき相手。
そして『ラウンダー』という言葉。
これで、天王寺綯がラウンダー、ひいてはSERNとつながっている可能性が極めて強くなった。
「ちなみに波倉滝尾はもういねぇ。というより、昨日から連絡がつかねぇのさ。あいつ、一度ここに立ち寄ったとき、真っ青な顔していやがった。『ガキに殺される、あいつは悪魔だ』とかなんとか抜かしてやがった――ふん、何があったか知らないが、あんな腰抜けは俺の黒き騎士団、ヴァイラルアタッカーズには必要ねぇ。仲間でもねぇ」
申し訳ないけれど、わたしにとっても波倉滝尾はどうでもいい存在になっていた。
目の前の男。こいつからいかにメールアドレスを聞き出すか。それが全て。
――運が巡ってきた。
「ねえ、どうしたらメールアドレスを教えてくれる?」
教えてやろうよイサオくん、この女すっげー美人だし、仲良くなりてぇよぉ、と勝手にはやし立てる周囲の男たちを手で制して、4℃はゆっくりと言った。
「教えて、やらねえ」
――くそっ。
「この俺に命令できる奴なんていねえ。なぜならこの俺は現世の闇に降り立った絶対零度の貴公子、誰にもなびかねえ誰の下にもつかねえ、体制の破壊者、漆黒の革命者だからだ。この意味が分かるか、紅いワイルドキャット」
「すいません、さっぱり分かりません」
「な、何ぃ――!?」
しまった。
つい思ったままのことがそのまま口に出てしまった。
「くっ……くっくっくっ。なかなかお転婆な雌猫だぜ。この雷ネッター界の黒き孔雀を前にしても、簡単には懐かねえとは。だがそれでこそ、お前との勝負は面白くなる」
勝負――?
「教えてやろう。あのガキとこの俺が取り交わした漆黒の契約を。それは、俺に依頼をしてくる女がいたら、何でも願いを聞いてやれ、という内容だ――ただし、ゲームに勝てば、な」
ゲーム、ですって?
「この俺の黒きHELLには絶対的な掟がひとつある。それはあらゆる条約に優先し、体制を破壊するこの漆黒の騎士団において、唯一俺たちを縛る絶対のルールだ。それが何なのか、知りたいか、紅きワイルドキャット――?」
ええい。
もったいつけすぎだ。
ただでさえ朝から何も食べてなくて空腹で気が立ってるってのに、聞いてもないことをペラペラとこの男は、しかも意味わかんないし。
だんだんしびれが切れてきたが、仕方がないから聞いてやる。
「へええ、へえ。何?」
「フッ――それは、神の摂理。8マスかける8マス、合計68の宇宙の中に集約された、俺の支配する絶対空間。ガイアのささやきに愛された者だけが生き残る、絶対摂理の超空間」
突然だが、説明しよう。
わたしは短気である。
「ええいコラ! まどろっこしいわ! 巻け、巻け! こっちはお腹減ってて早く帰りたいんだから、ワケのわからない前口上はいいからどうしたらメールアドレスを教えるのか早く説明しろっ! あと8×8は68じゃなく64だっ!」
「なっ、何ぃ――!?」
ポーズをつけて後じさる4℃。
「くっ、この雌猫、思った以上にじゃじゃ馬だぜ。この俺を怒らせることを恐れねえとは、よほど痛い目を見たいらしい――」
怒っているというより、さすがにちょっと恥ずかしそうな黒のしもやけ男。
「いいから、早く結論を言えっ!」
「くっくっく……よし、教えてやろう。だが俺は怖え女に弱いとかそういう奴では断じてねぇ。ビビったとかそういうのでも断じてねえ。いいだろう、教えてやるぜ漆黒の理を――そして絶望に震えるがいい、俺の騎士団の絶対法律、それは『雷ネット・アクセスバトラーズが強いこと』だ」
「雷ネット……アクセスバトラーズ?」
何だっけ。
聞いたことはあるんような。
「その様子だと知らねえようだな。いいだろう、教えてやろう。雷ネットアクセスバトラーズとは、この宇宙の真理。俺の伊達ワルハートがガイアのささやきを受け、漆黒に輝くステージ。すなわちそれは……」
「あ、いいですから、そういうの。誰か説明して?」
「あ、ここにルールブックあるよ。読めば?」
取り巻きのひとり――達矢と呼ばれた、金髪をこれでもかというくらい盛った男が、にこにこしながらわたしに一冊の本をよこした。
「あ、ありがとう」
「いーのいーの。イサオくん話長いからねえ。ま、雷ネットはむちゃくちゃ強いから、うちのリーダーやってるんだけど」
「うるせえ達矢」
雷ネット・アクセスバトラーズ。
それは子ども向けマンガを原作に出てくる、カードバトルゲームだ。
シンプルなルールと高い戦略性は、子どもたちのみならず大人をも巻き込んで大ブームとなっている――とルールブックには書いてある。
そういえば橋田がフェイリスさんとカードゲーム勝負をしてたとか言っていたっけ。そのカードゲームの名前が、確か雷ネット・アクセスバトラーズ。
「チビガキは俺に依頼をするとき、こう言った。メールアドレスを知りたがる女に、なんでもいいからゲームをしろ。内容は俺が決めていい、とな。そして負けたときの条件も俺の好きにしていい、相手は絶対に拒めないから……だとよ。だから俺はお前に、この雷ネットでの勝負を申し込む。どうする、やめるか?」
わたしは頭の中を整理する。
岡部を助けるためにはこの男のメールアドレスが必要。Dメールでこいつの過去に『ノイズメモリーの送信を中止しろ』という意味のメールを送れば、岡部を殺す3つの着信のうち、ひとつは消せる。
そして4℃のメールアドレスを知るには、カードゲームに勝てばいい。
「……なんだ、簡単じゃない」
わたしは思わず声に出して言った。
「ハッ! テメェ……よく言ったな。いい度胸じゃねえか。黒の絶対零度、4℃様に雷ネット勝負を持ち込まれ、少しも怯まねえとは。だが貴様は絶望と共に知ることになる――真の雷ネッターにして黒の黙示録、4℃様の生きるロックマインドをな」
全く、相変わらずナルナルした言動が目立つ奴だ。
だけどカードゲームに勝つだけで解決するのなら、想定していた厄介な状況に比べればずっと楽。
「……で?」
「で、とは?」
「とぼけないで。わたしが負けたときの条件。さっき言ってたでしょう? わたしも時間がないんだから、さっさと教えて」
「いいだろう、紅きワイルドキャット。その向こう見ずさもお前の強さ、お前みたいな女は嫌いじゃねえ」
4℃はフッ、と笑って顔をそむけた。
なんだろう。
なんか、頬を赤らめているような――。
そしてそいつは、こう言った。
「お前が負けたら――俺の、女に、なってもらう」
うっ。
…………………………うえええぇぇええええぇぇぇぇぇぇっ!?
「な、何よあんた、そんな、女とか、ええっ、ちょ、バカなの、死ぬの!?」
汗がふきでる。
頭がパニックになって正しく思考できない。
「お前のその挑発的な瞳――体制に反逆する伊達ワルの魂、そこに俺は、世界という檻に鎖で捉えられた紅き堕天使の魂を見た。お前こそ、この俺と同じ魂を持つもの――この雷ネット界に反逆の黒き炎をもたらすもの、そう確信した」
「い、いやいや意味わかんないし。あんたの女になるとか何それ、その発想はなかったわ! 何なのそれは、わたしに理解できない言語なのか、わたしが考えているのとは違う言語体系で実はぜんぜん違う意味なのか!」
「くっくっく、そう照れるな、ワイルドキャット。この俺の腕の中で、黒き雷ネッター界の夜明けを見守るがいい」
…………………………ぐふっ。
いかん。
駄目。
生理的に駄目。
頭の上で星が散る。
意識が、飛びそうだ……。
このままでは戦う前に負けてしまう。
しかし精神を集中しようとしても、目の前のナルナルオーラに全身が自動的に痙攣してしまう。
こ、こいつと……付き合う?
よし。
想像してみよう無理です。
お、恐ろしい……0.1秒たりとも想像することができなかった。脳が拒否していた。
脳への負荷が高すぎて、シミュレーションすらできない……
いわゆる『生理的に受け付けない』っていうやつ。わたし自身、理系で男っぽい思考をすることがよくあるけど、こ、この生理的嫌悪、全身の毛が逆立つような気持ち悪さは、女にしか分かってもらえないものがある。
ええい、もう一言で言ってしまうおう。キモい。キモくてキモくて仕方がない。
もしこんな奴と実際につきあうことになってしまったら、わたしの人格はばらばらに崩壊してしまう。
目をあけたままお花畑のちょうちょを追いかけるようになってしまうかもしれない。
それだけは避けねば。
「さあどうしたワイルドキャット。俺の黒き契約にもとづき、俺と戦うか? それとも負け犬のように逃げ出すか?」
それにしてもこのしもやけ男、ノリノリである。
これはひどい。
ひどい勝負もあったものだ。
勝っても手に入るのはメールアドレス。そして負けたら、人生が終わる。
ひどい。リスクとリターンが釣り合っていない。ふつうの人が聞いたら、そんな勝負できるわけがないと言うだろう。
誰だってそう思う。わたしだってそう思う。
けど。
「いいわ。勝負しましょ」
やめるわけないだろ、そんなことで。
「そうこなくてはな、紅きワイルドキャット。雷ネット初心者であるお前が、このグランドチャンピオンシップの現チャンプである俺に挑むとは」
グランドチャンピオン。
ってことは相当強いのだろう。
「関係ないわね。あんたがグランドチャンピオンだろうがガチャピンだろうが、わたしは退くわけにはいかないもの。見せてあげるわ、頭を使うっていう、ほんとうの意味をね」
「くっくっく……いいだろう。おいテメエら、バトルマットを用意しろ!」
勢いきって啖呵をきったのはいいものの。
さて。
わたしこのゲーム、ルール知らないのよね……。
まあ、なんとかなるか。


「このゲームのルールを簡単に教えてやろう」
わたしと4℃は、テーブルをはさんで向かいあわせに座った。
テーブルの上には、8×8マスのマット。その上に、黄色いカードが裏向きに8枚、紫のカードが裏向きに8枚、横一列に並べられている。
ちょっと見た感じは、将棋やチェスの並びに見えなくもない。
「この雷ネット・アクセスバトラーズはチェスや将棋にたとえられるが、そいつは正確じゃねえ。なぜなら相手の駒が何か、裏向きのために分からないからな。どちらかっつーと軍人将棋に近いが、もっと奥が深ぇ」
4℃の説明と、手元のルールブックで、だいたいのルールを把握する。
雷ネット・アクセスバトラーズは、インターネットのウェブを模したゲームだ。
自分の8つのカードを動かして、相手の陣地『サーバマス』に自分のリンクカードを早く到着させたほうが勝ち。
ルールブックには、こう書いてある。
・ゲームを開始するまえに、まずはサーバマスを除いた自陣のいちばん手前のマスに、8枚のオンラインカードを相手にわからないように、裏向きで並べていく。お互いに配置が終わった時点でセット完了となり、つぎに先攻と後攻を決める。
なるほど。
――ということで、コイントスをすることにした。
「ふっ、この俺の漆黒のコインは、俺が先攻としてお前を陥落させることを選んだようだぜ」
さて、4℃のナルナル台詞は無視して、つづきを読む。
・ゲーム開始後は伏せたオンラインカード(自分の8枚のカードのことだ)を動かしながら相手の陣地に進めていく。
――4℃がカードを1マス前進させる。
わたしも自分のカードを同じように、1マス進めた。
「くっく、そんな適当に指してもいいのか? 紅きワイルドキャットよ、見たところ、自分の動かしたカードがリンクカードかウィルスカードかすらも把握していないようだが」
そう、カードには2種類ある。リンクカードか、ウィルスカード。どちらも動き方は同じ。裏返しにしてあるため、相手からはどちらがリンクカードでどちらがウィルスカードか区別がつかない。
ルールブックをさらに読む。
このカードゲーム、勝利条件がみっつある。
ひとつめはさっきも言った、相手のサーバマスに自分のリンクカードを到着させること。
しかしこの方法で決着がつくことはほとんどない――と、ルールブックには書いてある。ほとんどの場合、次の2つの方法で勝敗が決する。
ふたつめの勝利条件。それは相手のリンクカード4枚全部を取ってしまうこと。
みっつめの勝利条件。それは相手に自分のウィルスカードを4枚取らせてしまうことだ。
リンクカードを取り続ければ勝ち。逆にウィルスカードを取り続ければ負け。
しかし相手のカードが裏返されているため、それがどちらのカードなのか分からない。
リンクカードを取られれば敗北に一歩近づく。
ウィルスカードを取られると勝利に一歩近づく。
だからこのゲームで前進するのは基本的にウィルスカード。だがそんなウィルスだらけのカードを取るわけがない。だから適度にリンクカードを混ぜ、ブラフを操って、相手の行動を制限する。
相手のカードはリンクか? ウィルスか?
その読みあい、心理戦がこのカードゲームの大きな勝敗を決める要素となっている。
「くっくっく、さっきまでの威勢はどうした? カードを進める手が止まっているようだが」
4℃がわたしのカードをまた1枚取った。
「ふっ、リンクカードだ。どうする? 俺の黒きバトルオーラが、また貴様の寿命を縮めたが?」
なるほど。リンクカードを取られた、ってことは、4枚しかないカードを1枚失ったってこと。わたしがまた一歩、敗北に近づいたことになる。
わたしはルールブックを片手に、さらにカードを前に進める。全軍前進の構えだ。
「おいおい、そいつは少し興ざめだぜ。そんなにあてずっぽうにカードを動かしていいのか? 大事な勝負なんだろ? それとも今からすでに、この“黒の絶対零度”の女になりたいがため、わざと負けてくれるのか? だとしたら、フッ、素直じゃねえ猫ちゃんだぜ」
体がぞわぞわした。
ううっ、いくら考えまいとしても、こいつの台詞が脊髄反射的にわたしを震えさせてしまう。
正直なところ、いちばんの敵はそれだな。
「ここで俺の『ターミナルカード』起動。ターミナルカード、光速回線《ラインブースト》! くっくっく、この俺の黒き疾風に怯えな」
4℃が使ってきたのはターミナルカード。いわゆる特殊能力カードだ。光速回線《ラインブースト》はカードを2マス移動させることができる。
なるほど。そうやって使うのね。
わたしも自分のターンに光速回線《ラインブースト》を使い、自分のカードを2マス進める。
わたしのカードが相手のオンラインカードを奪う。相手のカードを裏返す。
「ふっ、残念だったな、そいつはウィルスカードさ。これでこのゲームの奥深さが分かったか? 相手の思考を読み、裏の裏の裏をかかなければ、このゲームは勝てな――」
相手がカードを進めるとほぼ同時に、わたしは自分のカードを動かす。
「おい、聞いてるのかテメエ。そんな適当なやりかたじゃあ、俺は1000年経っても倒せねえつってんだよ。勝負を投げるのはお前の勝手だが、こうもあっけないんじゃあ興ざめするぜ。お前はなかなか『やる』奴だと思っていたが――俺の思い違いか?」
「いいから、あなたのターンよ。早くカードを動かして」
「ふっ……いいだろう。敗北の2文字を早くその目に焼き付けたいと言うんなら――」
4℃がカードを動かす。わたしのカードを奪う。
カードを裏返す。おっ、ラッキー。ウィルスカードだ。
「ちっ……ウィルスカードか。運のいい奴だ……自分でも何のカードか分からずにテキトーに指してやがるから、こっちも動かしにくいぜ」
わたしはノータイムでぽんぽん指していく。とりあえず、前へ。
カードを動かしながら、わたしはだんだん煮え切らない思いがしてきた。
カードデュエルをしているわたしを、ほんとうのわたしが遊離して見下ろしているような気がする。
見下ろしているわたしが、わたしに話しかける。
わたしはどうしてこんなことをしてるんだろうか。
こんなことで本当に、岡部は助かるんだろうか。
たとえこいつにうまくアドレスを聞き出しても、残る『送信者』はまだふたりいるのに。
それ以前に、この男が本当にノイズメモリー着信を送った人間なのかどうかには、いまだに疑問が残る。天王寺綯の語った“ゲーム”のルールを、いわば信用してこいつと戦っているにすぎない。
これで違ったら、どうするんだ?
なんの価値もない戦いで、あまつさえ『俺の女になれ』とかいうふざけた勝負を受けて、はじめてやるゲームに頭をひねらせて――
「そろそろ持ちカードも少なくなってきたぜ。降参してもいい頃なんじゃねえか?」
ゲームの対戦相手はナルシストの泉から生まれてきたような、厨二病が無邪気に見えるくらいのナルシストだし――
「おい、聞いてんのか?」
そして、そう、忘れるわけにはいかないことがある。
この戦いに勝って、すべての『送信者』にDメールを送って岡部を復活させたら、わたしは死ぬのだ――
いいんだろうか。
わたしはこのまま戦っていて、いいんだろうか?
わたしは少し手を止めて――それから、カードを動かした。
「よ、っと。17」
「あん?」
「さあ、あなたのターン。早く動かして」
「おいテメエ、今の数字はどういう意味――」
「どういう意味だっていいでしょ。いいから動かしてよ、グランドチャンピオンさん」
「くっ、だがもう勝負は決まったようなもんだぜ、食らえ!」
相手が動かす。
わたしは再び腕を組む。考え事をするときの、わたしの癖だ。
敵陣近くにあるカードを、一歩前に進める。
「はい、15」
「なんだその数字は――くだらねえブラフなら承知しねえぞ」
4℃は自分のカードを横に移動させ、わたしのカードを奪った。
わたしは即座に別のカードを進める。
「13」
「そのカウントダウンは何だ、って言ってるんだ。テメェ、いい加減にしねえか――」
4℃も即座にカードを進める。
ああ、わたし、こんなところで何やってんだろ。
左側のカードを、右へ。
「11」
「させねぇ。――ターミナルカード、『ファイヤーウォール』起動っ。そのカードは先に進ませねぇぜ」
「あらそう。9」
「そのカウントダウンを、やめねえかっ……!」
「あらあら。まだ気がつかない? じゃあ分かりやすいように、こうしてあげるわ」
わたしは――自陣のカードを、すべて表向きにした。
左側から、ウィルス、リンク、ウィルス、ウィルス、リンク。
「なっ……勝負を捨てたのかテメェ! この読みあいが全てのアクセスバトラーズで、自分のカードをさらけ出すなど……!」
「あら、ルール違反じゃないと思うけど。ルールブックにもそう書いてあるわよ?」
「たっ、確かに違反じゃねえが、自分の首を絞める以外のなにものでもねえ! 自殺したい時くらいにしか、使い道がねえルール――」
「そう思うなら取ってみなさい。わたしのカードを……これで7」
「7、だと……? 待てよ、そいつは、まさか……」
「ようやく気づいた? よくカードの配置を眺めてみなさい。黒の貴公子さん」
カードの位置。
それらの相対的関係。
どれが動けばどう取られるのか、どう阻止できるのか。
ターミナルカードの残りは何か。それらを使って最大いくら移動できるのか。
「まさか、これは……馬鹿な……」
4℃の目がめまぐるしくボードの上を動く。頭の中でカードの動きを何パターンもシミュレーションしているのだろう。
「あなたはたしかに強いわ、グランドチャンピオン。カードの性質も熟知してるだろうし、相手の読みあいも強い。真剣に読みあいの勝負をしたら、きっとわたしは勝てないでしょうね。だからわたしは勝負しない。読みあいもしない。純粋に数理とロジックで勝つ」
「馬鹿な……どう、動いても……では、あのカウントダウンは、『17』という数字は――」
「そうよ。なんなら少し試してみる? ……これで5」
「進ませねえっ!」
「そう。そっちが阻止に動くなら、逆に左のカードが進みやすくなるな――3、よ。そろそろ見えてきた?」
どう動いても。
4℃が自分のカードをどう動かしても、わたしのカードが先に――先に、相手の陣地にたどりつく。
そしてこのゲームの勝利条件のひとつは――相手の陣地にどれかひとつでもリンクカードがたどりついたら、勝ち。
「心理戦の駆け引きではあなたには勝てない。じゃあどうするか? 答えは簡単。駆け引きで絶対に読まれない、『見えない』手を指す。見えない手、つまりどんな読心術を使っても絶対に読めない手――つまり、自分でも何を指してるのか分からないような、あてずっぽうな手を指す、ってこと。わたしは前半、自分のカードが何かも見ず、戦略も考えずに適当に指した。これをやられると、あなたは困ったはず。なにしろわたしの動きには戦略がない。戦略がないから読みようがない。結局カンに頼ってわたしのカードを奪うしかない。戦術もごくシンプルな前進戦法しかとれなくなる。わたしは単純前進、あなたも単純前進。結果、わたしとあなたの実力は五分五分になる――」
そう、わたしが序盤に自分のカードすら見なかったのは、相手に自分のカード内訳を知られないため。
「これはカードゲームというより、純粋なゲーム理論の思考。勝ちでも負けでもない、灰色の勝負を狙う限り、実力差というのは極めて現れにくいの。そして終盤、カードが減ってきてパターンが見えてきたとき、わたしは考えはじめる――あなたがどう動かしてもわたしを捉えられない、『詰み』の手を」
「ばっ、馬鹿な、このゲームは自駒を自由に動かせるうえ、ターミナルカードの介入もある。その動きのパターンは将棋やチェスの比じゃねえ。『詰み』の手など、そう簡単に見つかるはずが――」
「馬鹿ねえ。わたしを――わたしの頭脳を何だと思っているの?」
わたしは髪をかきあげる。
「カードを全て取られない限界枚数の5。そのカードが動く可能性1024通り。それを詰むまでのターン数分、さらにターミナルカードを使う可能性をかけた合計、およそ800億通り――すべて計算した。ただそれだけのことよ」
「そ……そんなことが……そんなことができるわけが、できるわけがないっ」
「ま、信じる信じないは自由。それにあなたの手は上級者ゆえのパターンがある。それが見えてしまえば、計算するパターンはもっと少なくて済むのだけど……ま、あなたが適当に指しても全て計算する。それだけよ」
「そんなっ……確かにカード同士の位置をコントロールして『詰み』にもっていく戦法は雷ネッターの中にもあるが……こんな、こんなに早いターンから、まるで精密狙撃みてぇな……どんな頭してやがるんだ、こんなことができるなんて、まるで、神、じゃねえか……!」
「神なんていない。あるのは数字。数字は嘘をつかないわ。裏切りもしない。数字に嘘をついてごまかして裏切るのは、いつだって人間のほう。数理と物理法則だけが支配する、冷徹で残酷な世界でずっと生きてきたこのわたしを、見くびらないでほしいものね」
「馬鹿な……こ、この俺が……雷ネット界において“黒の絶対零度”と呼ばれる4℃様がが、よりにもよって初心者に、敗れるだとっ……!」
「負けたわけじゃない。あなたはたった一回、初心者の小娘にわざと負けてあげただけ。それでいいわ。でも約束は約束でしょ。さあ、メールアドレスを教えなさい」
「ぐっ、こ、こいつはイカサマだ、何かイカサマをしやがったに違いねえ……っ」
「あらあら、グランドチャンピオンさん、その台詞は惨めに負けて踏み潰される負け犬のキャラが言う台詞よ。主張するのは結構だけど、みんなの見ている前でちょっと情けなさすぎるんじゃない?」
「もっ……」
4℃は顔を真っ赤にして震えてたまま、言った。
「もう一戦だ! 今のはなにかの間違い、いや、油断、そう油断しただけだ! なにが数字は嘘をつかないだ、テメエがそういう下らねぇ手で来るなら容赦しねえ、計算勝負でテメエに勝ってやる! 後悔するなよ!」
わたしは無言でにっこり笑う。
卑怯けっこう。捻りつぶしてやる。


「なっ……何故だっ……!」
そいつは、頭を抱えていた。
「さあ、何故かしらね。はい、これでチェックメイト。これで32戦中、わたしの24勝3敗5引き分け。どう、何か言うことはある?」
「こっ、こんなことが、許されるというのか……っ」
「さあね。可能性としては、ありうるんじゃない?」
2戦目、4℃は作戦を変えて、わたしと同じ計算戦法に切り替えてきたけど、わたしの計算のほうが何ターンも早かった。
10戦目くらいでまわりの手下にあたりちらし、20戦目くらいで急に無言になり、30戦目くらいからはちょっと泣いていた。
とはいえ全敗というわけでもない。4℃は何度か幸運で勝負を拾ったこともあった。わたしの戦略の欠点は、前半を適当に指すため、ごくたまに『詰み』に手が届かない布陣ができあがってしまうことがある。勝率を100%にできないのだ。
それでもそんなケースはごく一部。4℃もそれを分かっているのか、運良く勝っても『俺の通算勝率が貴様を越えるまでやめねぇ』と言い張ってきかない。
それでもわたしは容赦しない。何度でも叩きのめし続ける。
もともと『勝ったらメールアドレスを教える』という勝負内容だったはずだけど、なんかもう趣旨がかわっている。
ま、構わないけど。
相手はぐずぐずの顔のまま、「も、もう一戦だ」とすがりついてくる。
「もちろん、いいわ。何度だってやってやりましょう。あなたの心が折れるまでね」
ひいっ、鬼だこの女、と相手が小さく叫ぶ。
わたしは自分のオンラインカードを素早くシャッフルし、自分でも裏が見えないように適度にばらけさせて自分のサーバマスに配置しなおす。『自分にも見えないように』配置するために、場にランダム性が生じ、『読みあい』というこのゲームの性質は殺されてしまう。
「さあはじめましょう。言っておくけど、わたしは簡単には許さないからな。いい年した男でも半泣きどころか大泣きしてかつ土下座でごめんなさいもうしませんと頭すりつけて謝るまで、許してやらないからな」
相手の顔が青ざめる。自分がそうしているところを、そろそろ想像できるのだろう。
「さあ、33戦目、はじめるわよ」


40戦目――
4℃はなにもない空中を見ながら、ぶつぶつと何かをつぶやいている。目が血走ってきた。

50戦目――
4℃の語尾が「だべ」とか「だずら」とかになってきた。どうやら東北地方出身だったということが判明。

60戦目――。

「あ――は、あはははは、あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
また負けた4℃が、突然笑い出した。
なにごとかと思って顔を見ると、痙攣した笑い顔のまま、白目を剥いている。
ありゃ。
とうとう飛んじゃったか。
「もう、らめ、ゆる許してください、お、おねがいしましましますうううぇうろあはははははははははははは」
うわー、これがアヘ顔というやつかー。
4℃は、豪快に椅子ごと倒れた。
「どうしたの、“黒の絶対零度”4℃様?」
「おねがい、おねがいもう陵辱しないで、心を汚さないで」
すんすんと少女のように泣く4℃。
わたしは倒れた4℃をのぞきこむ。
「あれ、あなた黒い貴公子4℃様じゃなかったっけ?」
「わ、わたくしはし、4℃ではあり、ませんただの、ただの鈴木イサオでございまうございます」
目の焦点があっていない。
舌が痙攣している。
頭にパンチもらいすぎて変になったボクサーみたいだった。
「おれ、おろれの黒き庭が黒きHELLがきえる、きえていくいや、そんなものははじめかららかったろか、あは、あはははははははははははは」
起き上がる気配もないようだ。
勝負あった、と思っていいのかもしれない。
「ねえグランドチャンピオン、ちょっと聞きたいんだけど」
「はひ」
「この部屋にいる人間で、いちばん雷ネット・アクセスバトラーズが強いのは誰?」
「ほ……ほれは」
4℃――いやもう地に堕ちた一般人であるところの鈴木イサオは、一瞬びくんと跳ねた。
「ほれは――」
ぐす、ぐす、と鼻をすする音が聞こえる。
床にのびてすすり泣く大の大人の図。
「あら、まだ分かってない? じゃあもう一戦やりましょうか、チャンピオンのプライドを賭けて」
「いやあっ、やめて、もうこわさないで、心をこわさないで」
「じゃ、いちばん強いのは誰?」
「ほれは――ほれは、あなたさまでふ、おれえさん――あなたさまれふ」
しぼり出すような鈴木イサオの声。
「そう。じゃあもうひとつ質問。この部屋には絶対的なルールがあるとかいってたわよね。この部屋でいちばん偉いのは、なにが強い人だったっけ?」
「そ、それはら、雷ネット・あくせふわとらーずが、つよ強いやつ」
「なるほど。それはとてもいいことね。ふうん、なるほど。この部屋で雷ネット・アクセスバトラーズがいちばん強いのはわたし。そして、この部屋では雷ネットがいちばん強い人間がいちばん偉い。いちばん偉い人間は何をしてもいい。偉くない人間は何を命令されても逆らえない。そうね?」
わたしはにっこりと、とても穏やかに笑った。
母が我が子を見守るような、慈悲に満ちた微笑み。
こんないい笑顔をするのは生まれて初めてかもしれない。実に完璧なスマイル。
勝負を見守っていた男たちはそれを見て、なぜか全員震え上がり、背中の壁にはりついた。
「あ、悪魔だ」
「目を見るな、魂を持っていかれるぞ」
「助けて父ちゃん、こ、ここ、こえーよー」
半泣きのヴァイラルアタッカーズの面々。
そして完全に陥落した鈴木イサオ。
「そ、そうれす。え、偉いひとのいうことには従いまふから、か、かかから、お願い、お願いですこれいじょう、オラをいじめねえでくんろぉ――こええ、都会のおなごはこええ、こええべ! んだことなら田舎で実家の田植えさ継いでえたほうがマシだったべ! ひい、こだいなこたあ、もう耐えられね!」
「よしよし」
わたしは慈母のように微笑み、鈴木イサオの言葉に頷いてやる。
周囲の男たちは、もはや怪物か人格支配の人体実験を見ているような表情。恐怖で逃げることもできないといった様子。
「ひ、ひでえ……イサオくんが、いや人間が、こんなに破壊されるところ、はじめて見たぜ……」
「ごめんなイサオくん、オレいま、自分じゃなくてよかったって思ってるぜ……」
「黙らっしゃい」
「ひいっ」
壁の端に逃げる男たち。
「さて、黒い貴公子4℃さま」
わたしは鈴木イサオにむきなおる。
「わたしのお願い、聞いてほしいんです。わたしがして欲しいこと、知ってますよね。さっき言いましたもの。お願い、聞いてくれますか?」
4℃は椅子に座った格好のまま仰向けに倒れ硬直している。目は天井を見ているようだけど、何も見ていない。その固まった口が、はい、と動いて、喉からかすかに空気のもれる音がした。
「では4℃――いや、鈴木イサオ。そこに正座しろ」
「へあっ!?」
「いいから、とにかく正座。話はそれから」
「え、でも……」
「正座。早く」
「………………………………………………はい」
すごすごと正座する鈴木イサオ。
あとなぜか命令してないのに一緒に正座するその他の男たち。
「いいか? よく聞け。わたしは鬼じゃない。あんたたちに酷いことをするつもりは全くない。できれば穏便に、お互いが得になるような道を探せたらいいなと思っている。だが謝れ」
「へ?」
「まず謝れ。わたしに謝れ。だってもへったくれもなく謝れ。誠心誠意、平身低頭して謝れ。全てはそこからだ」
「あ、謝るって、具体的には何に」
「考えるな、謝れ」
「は、ご……ごめんなさい」
頭のネジがひとつ飛んだように、鈴木イサオはあやまりはじめた。
「ごめんなさひごめんなさひ、もうしませんオラが悪かっただ、おねげえですから許してください」
「すいませんでした姐さんっ」
額を床にすりつけて謝る鈴木イサオと、なぜか一緒に謝るその他男たち。
まあ、こんなものでしょう。
「じゃあいいわ。わたしも鬼じゃないし、あなたたちの気持ちは伝わったしね。では本題に戻りましょう」
いよいよ言いたかったことが言える。
さっきからずっと我慢してたんだから。
「分かってるわね? わたしが本当に言いたかったのは、つまり――」
「つまり?」
「お腹減った」
全員の目が点になり、へ? という口の形で首がきっかりナナメ15度に傾けられた。
外で蝉が鳴いていた。


とても素晴らしいことに、この溜まり場は炊飯部屋もあるようで、そこにちょっとしたキッチンがあるのだった。ナイスだった。米を炊いてもらって、茄子のお漬物と一緒に食べた。びっくりするくらい美味しかった。ちょ、ただのごはんがこんなにおいしいなんて、どういうことなの? ついでに言うと、わたしが食べている間じゅうヴァイラルアタッカーズの面々はしゅんとうなだれた状態で正座し、ひとことも話さなかった。
わたしは最後にお茶を飲むと、ほっと息をついた。
「はあ、おいしかった。お米と漬物とお茶って、こんなにステキな食材だったのね」
「フッ、その米は俺の実家で採れた米だ。おふくろが毎年送ってきてくれるだ……くれるのだ」
若干ながらテンションを取り戻しつつある鈴木イサオ。
「さあ、お腹も満足したところだし、帰ることにするわ」
全員が驚いて、えっ、帰るの!? という顔でわたしを見た。
「部外者がいきなり邪魔して悪かったわね。わたしがいなくなれば、昨日までと同じ時間がはじまるわ。その時間、楽しんでね。ヴァイラルアタッカーズの皆さん」
わたしは立ち上がって、出口に向かって歩く。
全員がそれを目で追う。
……出口のドアノブに手をかけて、わたしは立ち止まった。
振り返る。
「最後に。別れの手土産に、わたしの欲しいものをくれる?」
鈴木イサオを見る。
鈴木イサオ――『元』黒きカリスマ・4℃は、ポケットから1枚の紙を取り出した。
「こいつのことだろ。俺のメールアドレスが書いてある――持っていけ。もう俺には何の執着もねぇ。好きに使え」
その紙には、タイプライターで打ったみたいな文字でこう書いてあった。
TheDoorIntoSummer@abboldman.com。
見たことのないドメイン。予想していたことだけど、鈴木イサオが普段使っているケータイのアドレスではなく、今回の『送信者』としての仕事のために専用に作られたアドレスなのだろう。
そうたずねると、鈴木イサオはゆっくりとうなずいた。
「そうだ。俺はそのアドレスに届いたメール以外の指示には従わないよう言われていた。もっとも、そのアドレスにメールが来ることはなかったが……」
「このアドレスが届くケータイ、持ってる?」
「ああ」
「持ってきて」
「……ああ」
鈴木イサオは奥の部屋から無骨な折りたたみケータイを持ってきた。
「見せて」
新品のケータイだ。設定とかぜんぜんされてない。このときのために、ラウンダーが用意した専用ケータイ、ってことか。そりゃそうだな、誰かの使っているケータイだと橋田にハッキングで調べられるかもしれないもの。
さっそく、ケータイの履歴を調べてみる。
メール送信履歴、なし。
メール着信履歴、なし。
電話着信履歴、なし。
電話発信履歴――1件あり。発信日、8月14日の午後19時18分。
岡部のケータイに非通知着信があった時間だ。
このケータイで、ノイズメモリーが送られた。なるほどな。
橋田に電話をかける。
奥でエロゲーか何かの音。もうそういうのは気にしないことにして、電話レンジ(仮)の準備をお願いした。
何をするつもりなのか不安げに尋ねる橋田をごまかしながら、わたしはメールの文面を作成する。

[Date] 8/15 12:11 [To]TheDoorIntoSummer@abboldman.com
[Sub] [Temp]
[Main]エル    プサイ   コングルゥ

それにしても締まらない文面だな……。
ケータイのメール作成画面に文章を打ち込みながら考える。このメールを8月14日の19時より前に送れば、『送信者』としての鈴木イサオの仕事は“なかったこと”になる。それはいい。当初から予定していたこと。このメールを送らなくてはなにも始まらない。
けど、問題がひとつある。
このメールを送ったら、わたしや鈴木イサオは、記憶の修正を受けてしまうのではないか? そしてこのメール送信を忘れてしまうのではないか?
絶対にないとは言い切れない。
でも、わたしの予測が正しければ、記憶は修正されない。このメールを送っても、世界線移動は起きない。
それが天王寺綯のデザインした“ゲーム”の趣旨であり、彼女の意図だからだ。
『岡部が記憶死しない世界線』から『記憶死した世界線』のあいだには、ほとんど世界線に差がないことが分かっている。ダイバージェンスメーターでいえば少数点以下6桁よりも小さい微小移動だ。
だとすると、『記憶死を起こした送信者が3人の世界線』から『記憶死を起こした送信者が2人の世界線』との距離は、もっと近いことになる。これだけ距離が近ければ、記憶の修正を受けない。わたしも鈴木イサオも、あたかも“リーディング・シュタイナー”を持っているかのように振舞うはずだ。
でなければ、“ゲーム”が成立しない。
だけど――それはあくまで予測。
仮説だ。
そんなに単純なものなのか?
世界線の距離って、そんな事実の差異だけで決まっているものなのか?
「鈴木イサオ、ちょっとお願いがあるんだけど」
「お、俺の名前は鈴木イサオでは……」
「ふうん、そお? じゃあ何? 雷ネットの強さに見合ったような、かっこいい名前?」
「う゛……うお……」
包丁でお腹を刺されたみたいに悶える鈴木イサオ。
アホが苦しむ様子を見るのは面白いなあ。
「わたしの名前は――ううっ、鈴木イサオ」
またちょっと泣いている。
「それで鈴木イサオ、ちょとお願いしたいことっていうのはね。このメールを送ったあとに、わたしはこう聞くわ。『あなたはヘッドギアとケータイを使って、誰かに電話を発信した?』ってね。あなたはそれにイエスかノーかで答えて。わかった?」
鈴木イサオはきょとんとした。そりゃそうか。
「何言ってんだ、そんなのイエスに決まってるじゃねぇか。さっきそう説明したぜ。今聞かれようが後で聞かれようが100年後に聞かれようが答えは同じだ」
「そうね、いい答えよ。でも必ず答えて。わかった?」
「…………」
てっきり素直に『いいぜ』と答えるかと思っていたのに――意外なことに、鈴木イサオは真剣な顔で何かを考え込んでいる。迷っているという感じ。ありゃ、まだ心の折り加減が足りなかったかな?
「構わねぇ。だが、俺からもひとつ頼みがある」
めずらしく真剣な表情で頼んできた。
「何?」
「そのメールを送信する前に、もう1回勝負してくれ」
あきれた。
何かと思ったら。
「……ひねりつぶし方が足りなかったかしら?」
「違ぇ、ひねりつぶされた、十分ひねりつぶされたっつうの! そうじゃねえ、ちゃんとした真剣勝負をあんたとしたいんだよ」
「今までのは真剣勝負じゃなかったと? ふうん、興味深い仮説だな、それは。――駄目よ、わたしがあなたと勝負するメリットがない。もうメールアドレスはもらった。そしてわたしは忙しい。こんなところ、もう1秒だっていたくない」
「もちろん、タダとは言わねえ。べつの情報を賭けてやるよ」
「へえ?」
今の鈴木イサオに、これ以上聞かなくてはならない情報があるとは思えない。けど一応聞いてみる。
「どんな情報?」
「2人目の、『送信者』についてだ」
ひっくり返った。
な……
「何ですって!?」
「こいつは教えちゃいけねえことになってる。あのガキも、俺が知ってることには気づいてねえはずだ」
「あなた、『送信者』が3人いることを知ってたの!?」
「いや、3人とかは知らねえ。だが俺以外にもそういう奴がいるってのは知ってる。情報ってのは、もうひとりの『送信者』が――今どこにいるか、だ」
なんてことだ。
この終わりぎわでこの男、とんでもない情報を出してきた。
もし本当に知っているなら、それこそ締め上げてでも聞き出さなくちゃならない情報だけど――
いや。
ここは慎重に慎重を重ねるべきだ。
この話の全体像が見えない。
「あなたが『2人目』の居場所を本当に知っているという確証がない。そんな話、とても信じられないもの。それがあなたのブラフだったら、わたしには勝負を受けるメリットがない」
「なるほどな。じゃあこうしよう。勝負に勝っても負けても、あんたには『2人目』の情報を教えてやるよ。あんたはただ、もう1回デュエルするだけでいい。こいつならどうだ?」
それなら……わたしが失うものは何もない。
勝負さえすれば、勝っても負けても情報は手に入る。
わたしにとってはこの上なくおいしい、有利すぎる条件だ。
でも――だからこそ怪しい、とも言える。
――罠か?
わたしはさらに質問を重ねる。
「それで、あなたが得るものは何?」
「何もねぇな。ただ、今の俺には失うものは何もねぇ。グランドチャンピオンでもねぇし、ヴァイラルアタッカーズのリーダーをする資格もねぇ。ただの東北生まれの若造っつうわけだ。誰かさんのおかげでな」
あらあら。殊勝になっちゃって。
「何もねぇ今の状態で、あんたと戦いてぇ。そしたら俺に何が足りないのか、分かる気がするんだよ」
全く。
ちょっと強く叩きつぶしすぎたかな。
脳みそにあるものが全部ふきとんで、別人みたいになっちゃった。
しかも馬鹿さがさらにグレードアップしている。
馬鹿すぎるな、全く――。
「いいわ。好きにするといいわ。その勝負、受けてあげる」
「――フッ、後悔するなよ」
「もちろん負ける気はないけど。わたし勝負に負けるの大嫌いだから。あと、また同じ条件でやってもつまらないから、ひとつ条件を加えましょう」
「条件だと?」
「適当に打つの、やめる。サーバマスに入っての勝利は、今回はなし。そのかわり、今回は一回勝負ね」
「はあ……? テメェ、何考えてんだ? そんなルール採用しちまったら、テメェの常勝パターンが……」
そう。
そのルールを使うと、わたしが圧勝した、計算による勝利が使えなくなる。
どう妨害しても必ずサーバマスに先にたどり着いてしまう、いわゆる『詰み』のルートを作ることでわたしは4℃を倒してきた。
その勝利パターンはいわば、相手の裏読みを必要としない、心理戦による勝負から『逃げる』戦法。
「わたしも同じよ。この戦いで失うものなんて何もない。でもこのままじゃ、あなたに勝ったことにならない。このゲームの本来の姿である心理戦から逃げるような戦法じゃあね。ここで残るのは、ただあなたが負けたっていう結果だけであって、わたしがこのゲームで勝った、ってことにはならない。だから折角だし、真正面からの心理駆け引きで、あなたをぶっ潰すのも、面白いかなあ――って」
「フッ、クックック、そいつは最高にクレイジーだぜ、紅きワイルドキャット」
うへぇ笑った。なんか嬉しそうだ。
「テメェも相当イカレてやがる。このグランドチャンピオンの俺に、正面きって挑もうなんてな。十分だ。勝利報酬なんていらねぇ。テメェに勝つ、それだけで俺の翼は黒い輝きを取り戻す」
「調子に乗るなよ、鈴木イサオ」
わたしも笑ってやる。
「あんたの領分である心理戦でも叩きのめして、実家の農家で米づくりしてればよかったと思うくらいその鼻っ柱へし折ってやる」
「フッ、ならば始めようじゃねぇか、終わりのはじまりを」
お互いにカードを並べる。コインで先攻後攻を決める。
「行くぞ紅きワイルドキャット――デュエル・アクセス!!」


1時間。
2時間。
3時間。
4時間。
5時間経った。
ごっ……5時間……。
「な、長い……もう、駄目、勘弁して……」
「――ふっ、なかなかやるじゃねえか、テメェ。褒めてやるぜ、ここまで俺の黒き孔雀のヘビーロックな翼に抵抗するとはな……。たった1戦でこれほどまでに長い戦いを、俺は知らねぇ。あの頭脳集団『イディヨナ』との決勝戦でも、こんなに長引かなかったぜ……」
目の前がぐらぐらする。
頭の奥がジンジンとしびれる。耳から脳にコンクリートを流し込まれたみたいだ。脳漿が原油にでもなった感じ。
タイムリープした時だって、こんなに疲れなかったぞ。
そしてこいつ――鈴木イサオ。
強い。
強いなんてものじゃない。ほとんど詐欺だ。わたしの作戦はぜんぶ読まれている。
わたしたちはたった1戦、1回の勝負を決めるのに、5時間もかかっていた。たかがカードゲームに、5時間て。
取り巻きのヴァイラルアタッカーズの面々は、とっくの昔に帰ってしまっているし。
勝負は一進一退、お互いが相手の手札の内を読みあい、カードを取るのに慎重になったものだから、まるで防御主体の将棋のように、自陣のサーバマスをリンクカードで固めて、敵陣にウィルスカードを潜りこませる、という戦法になった。
チェスの勝負は、お互いの腕が上がるほど、決着までの時間が長くなるという。それは1ターンに費やす思考時間が長くなるからというよりは、相手の動きをより遠くまで読むために、勝負を動かす決定的な転機がなかなか訪れないからだそうだ。
――だけど、それもとうとう決着した。
戦いは、終わったのだ。
「最後の一手――あれがどうしても納得いかない。どうして? どうしてウィルスカードだとバレているカードを一度下げたの? あれでわたしの手は5ターンは遅れた。理由が知りたい」
「ヘッ、雷ネットの上級テクさ。光速回線《ラインブースト》のついたウィルスカードを中央に配置して、攻守の要にするんだよ。取りづらいウィルスカードのほうが自由にボードを動けるからな」
「じゃあ後半で、わたしが中盤にサーバマス前に飛び込んだカードが、ウィルスカードと見抜かれた理由は?」
「テメェのクセを見抜いたのさ。テメェはここぞという時、必ず裏をかく。論理ガチガチの人間だからこそ、論理的にありえない手札を切り札にしてくる。俺はそう読んだのさ。どうやら当たっていたようだな」
――ことごとく読まれている。
鈴木イサオ――夏のグランドチャンピオンシップ優勝者。
もっとわたしが練習を重ねてから挑めば、もっと違った結末になったのかもしれない。
ここに、勝負は――あった。
体じゅうが砂に置き換わったみたいな疲労感。でも、それはそれで中々悪いものじゃなかった。
「フッ、テメェがどうしてもと言うんだったら、もう1戦してやってもいいぜ」
「冗談じゃない。こんな疲れるゲーム、二度とやるもんですか。あー、当分頭なんて使いたくない」
ほんと、もう休みたい。
「次は負けるかもね」
「余裕こきやがって。だが事実は事実だ――」
5時間にわたった、超長期戦。
その決着は。
「で、勝負の結果は?」
「ああ。素直に認めねえとな。――――参りました」
鈴木イサオが頭を下げて、ようやく勝ったんだ、ってことが実感できた。
カードの配置が少しでも違っていれば負けてもおかしくなかったし、どこかで読み違いがあれば結果はまったく逆だっただろう。
けれど究極の心理戦、つまり裏の裏の裏の裏の裏を読み続ける駆け引き戦は、つまるところ確率2分の1の確率戦に近似していく。わたしはその勝ちと負けの間にある不確定領域に勝負を持ち込むことで、互角の駆け引きを可能にした。
最後に僅差で勝ちを拾えたのは、幸運もかなりあるだろう。
「だがこのままじゃ終わらせねぇぜ――次のグランドチャンピオンシップは冬だ。テメェが出てくるんなら、俺も全力で戦える。今回の雪辱は、それまで取っておいてやる」
「何度でもかかってきなさい。――と言いたいところだけど、きっと無理ね。わたしその頃、もうここにいないもの」
「はぁん? 勝ち逃げする気か」
「違うわ――」
わたしは冬にはここにはいない。
それは秋葉原にいないって意味でも、日本にいないって意味でもない。
冬には、この世のどこを探しても、わたしはいないのだ。
「…………」
「ふん、まあいい。用がないならとっとと帰れ。テメェのせいで、俺は当分公式戦からは姿を消して、いちから修行のし直しだ――ところで、さっき言ってたメール。送るんだろ? ……送って何か質問するとか言ってたじゃねぇか。早く送ったらどうだ?」
「ああ、あれね――」
わたしは自分のケータイの送信履歴を開いて、画面を鈴木イサオに見せてやる。
「もう送ったわ。ゲームしてる間にね。これよ」


[Date] 8/15 12:21 [To]TheDoorIntoSummer@abboldman.com
[Sub] [Temp]
[Main]エル    プサイ   コングルゥ

「いつの間に……」
「そして質問の必要はなくなったわ。今のあなたの言葉でね」
やはり、鈴木イサオは記憶の修正を受けていない。
Dメールは多かれ少なかれ必ず世界線を変える。ただし微小な世界線移動であれば、人の記憶は修正を受けることがない。このメールのことを覚えているということは、Dメールは大きな過去改変――『遠距離』の世界線移動をしていない、ということに。
とすると、あと確かめるべきことはひとつだけ。
「さっき見せてもらった、非通知発信をしたケータイを見せて」
鈴木イサオは素直にケータイを渡した。無骨なシルバーのケータイ。この仕事のためだけに用意されたのだろう。その発信履歴は、こんなふうになっていた。

電話着信履歴――なし。
電話発信履歴――なし。
メール送信履歴――なし。
メール着信履歴――1件。受信日、8日午後19時00分。

電話の発信履歴がなくなり、メールの着信履歴が新たに現れている。
メールの内容は、見るまでもなかった。
「よかった――うまく、いった」
体から力が抜ける。
思わず、少し涙ぐんでしまった。
この成功は大きい。あまりにも大きい。
岡部を生き返らせる3人の『送信者』のうち1人に勝った、という以上の意味がある。
この世界改変は、かなり多くの情報をもたらしてくれた。
世界線の『移動距離』の証明。“リーディング・シュタイナー”がなくても過去は変えられるという事実。
そして何より、原理的にはこれで岡部を生き返らせることが可能だ、と証明された。
岡部を助けるこの戦いでいちばんのネックは、Dメールを使って戦っているうちに、世界線修正によりわたし自身が戦っていたという事実を忘れてしまう、ってことだった。
それは傍から見たらすごくマヌケな結論なんだろうけど、わたしにとっては最悪の事態だ。
でもこれで、慎重に世界線を選べば、記憶を保持したまま岡部を助けることができるかもしれない、という光が見えてきた。
もちろんあの天王寺綯がこのまま何もせず見ていてくれるとは思えない。妨害工作をしてくるだろう。
けれど、科学者を甘く見てもらっては困る。
「じゃあ約束を守ってもらう番ね。『送信者』の情報を教えなさい」
「…………ああ、そうだな、教えてやるよ」
「オーケー。その前にのど渇いたわ。麦茶ある? ああいいわよ気にしなくて。冷蔵庫から勝手に取るから」
「テメェ、人のアジトを親戚の家か何かみてぇに……まあいい、教えてやるよ。2人目の送信者はなあ、電話をかけてきたんだよ。俺にな」
「……何よぬるいわね、この麦茶。で、電話番号は?」
「あ? 電話番号?」
「あなたの電話番号よ。その電話の相手は、どうしてあなたのケータイにかけて来れたのか。番号を誰かに教えた?」
「知らねぇ。誰にも教えてなんかねぇよ。そいつは言った。チビガキの言うことを信じるな、ラウンダーを信じるな、装置を使って電話をかけるのはよせ、ってな」
「……変な要求ね」
「ま、断ったがな。俺は誰の指図も受けねぇ」
「天王寺綯のお金にはほいほい釣られたくせに……で、そいつが『送信者』だって分かった理由は?」
「理由も何も、自分から言ったのさ。その電話を発信する奴は他にもいる、自分もその一人だ、だから俺は電話発信しちゃならねえ、ってな。電話発信しても俺の為にならねぇとか、説教臭いこと言ってやがった」
……どういうことだろう。
わたしの中の『送信者』のイメージと会わない。
送信するなと説教した?
『送信者』はラウンダーで、天王寺綯の手先じゃなかったのか?
「その男はどんな声?」
「いや、ボイスチェンジャーで声を変えてやがった。年齢も性別もさっぱりだ。ひょっとしたらチビガキの自作自演かもな」
「……さっき、その『送信者』の居場所を知ってるって言ったわね。その場所は、向こうから教えてきたの?」
「ああ」
……だとすると、罠だろうか。
わたしをどこかに誘い込もうとしてる?
「だとしても、聞かないわけにはいかない、か……で、どこにいるって?」
「あ? ああ……まあ、それはな」
「何? もったいつけるな。早く言いなさいよ」
「ちょっと信じられねぇような所だからな。あんまり信用しすぎないほうがいいと思うぜ」
「いいから」
鈴木イサオはさんざん迷ったあと、その場所の名前を言った。
「その『送信者』が言った、自分のいる場所っつうのは、その、実は、『●●●●●』なんだ」
はっ……
はあああああああああああああああああああああああああああああ!?

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