CHAPTER02

Chapter02 偽装疑獄のサクリファイス


子どもの頃、家の屋根の上から落ちそうになって泣いたことがある。
8、9歳の頃だっただろうか。
その頃わたしはまだ日本の地方都市に住んでいた。パパとママも仲が良かった。家は田舎だったけど、3階建てのキレイな家だった。
その日わたしは、パパに『重いものも軽いものも落ちる速さは一緒』という話を教わった。有名なガリレオの実験――ピサの斜塔から大きな鉄球と小さな鉄球を落とすっていう奴だ。
わたしは『そんなわけないよ』と反論した。
するとパパは言った――『まあ、お前には難しくて、まだ分からないだろうけどな』――
わたしはむくれた。
『お前には分からない』なんて、言われたくなかった。
だからわたしは、家の屋根で実験をすることにした。
重い石と軽い石のふたつを用意する。
それを屋根の上に持ってあがって、同時に手を離す。
一階の地面には受け取る用のコップが2つと、その2つのコップ両方にまたがるように置かれた、パスタの乾麺があった。
もし重い石と軽い石が同時に落ちるのなら、地面のパスタの乾麺は同時に2箇所に石が落ちてきて、2箇所で折れるはずだ。
けれど重い石のほうが先に落ちれば、パスタの乾麺はそこで折れてコップに入り、軽い石はパスタに当たらずそのまま落ちる。
いま考えると頭の悪い、誤差が出まくる実験だ。
けれどわたしは本気だった。
パパに「すごい」と言ってもらいたかった。
だからわたしは、みんなが寝静まった夜に、誰にも気づかれないように屋根裏部屋から屋根にのぼり、あらかじめ用意していたパスタ実験装置の上に石が落ちるよう、ぐっと身を乗り出した。
それがいけなかった。
ちゃんとした実験になるように、限界まで屋根から身を乗り出したわたしは、バランスを崩した。
あっ、と思った瞬間には、屋根のむこう、なにもない空間に飛び出していた。
体から重力が消えた。
全身のあらゆる細胞から恐怖がどっと吹き出した。
落ちる――
わたしはなにもない空中でもがいた。
雨どいの横どいに手があたって、はじかれた。
その拍子に樋受け金具がはずれ、曲がり、わたしの服に刺さった。びりびりっ、とひどい音がした。
気がつけばわたしは、雨どいの金具に服をひっかけたまま、あやうい姿勢で空中に吊り下げられているのだった。
下は真っ暗な闇。

今になっても思う。あれは危なかった。3階建ての家だ。高さは相当なものだ。落ちれば確かに、運が悪ければ命を落としていただろう。
けれどその時のわたしは、自分がここから落ちて、100パーセント死ぬのだと思った。確信していた。
ああ、わたしは地面に打ち付けられ、顔面の骨と背骨を折り、下のコップが割れてガラスが体中につきささり、ついでにパスタの麺もつきささって、死ぬんだ――
嫌だ――
泣こうと思った。助けを呼ぼうと思った。
けれど声は喉から出なかった。ただひゅうひゅうという風切り音がもれるばかりだった。死神に喉をつかまれているから声が出ない――そんなふうに思った。
いやだ。
いやだいやだいやだ。
死ぬのは、死ぬのだけは、絶対にそれだけはいやだ。
わたしは心の中でさけんだ。頭の中がその思いで張り裂けそうだった。
科学についてもっと知りたいとか、パパにほめられたいとか、そういう願いはすべて吹き飛んでいた。
ひとつの強烈な願いの前に、それらはワラのようにあっけなく消えた。
ただ、生きたい――
死にたくない――
消えたくない――
ただ息を吸って、心臓を動かして、この世に、ここに居たい――
頭の中がその強烈な願いのために破裂しそうだった。
――結局、わたしは数十秒で助け出された。
雨どいが壊れる音を聞きつけて、パパが起きてきて、助けてくれたのだ。
そのときのわたしは、確実に死というもの――存在の消滅というものを、間近で見つめた。
そして死もまた――わたしを間近で見つめたのだ。


わたしと岡部は、金網にもたれかかって、隣り合って座っていた。
ふたりで、空を見ていた。
ながいながい、岡部の話が終わった。
――世界線。
――アトラクタフィールド理論。
――SERNによるディストピア。
――繰り返すタイムリープ。
――そして、まゆりの死。
まゆりが、死ぬ?
厨二病もほどほどにしなさいよ。
いくらなんでも、話が大きすぎる。
「つまり、こういうこと?」
わたしは岡部を見て、言った。
「タイムリープマシンが完成した日、まゆりが死んだので、タイムリープをして死を避けようとした。けれど何度やっても世界線の収束によってまゆりの死は回避できなかった。実は未来人だった阿万音さんの力も借りつつ解決策を探ると、その世界線――α世界線を“なかったこと”にするしかないと分かった。そのためにはIBN5100を使ったSERNへのハッキングが必要。だから何度もタイムリープして、今まで送ったDメールをキャンセルし続けた――あんたが体験した出来事は、つまりそういうこと?」
「――そうだ」
そうだ、か。
ばかばかしい。
あんたの厨二病にはもうついてけないわ。
――そう言って、無視してしまうこともできた。
けれど。
ヴィクトル・コンドリア大学でわたしが師事した、初老のレナード教授の言葉を思い出す。
『気をつけなさい。理解できない現象に直面したとき、ひとは自分の世界を守ろうとするものです。そんな時はクリス、コペルニクスを思い出しなさい。コペルニクスに天動説を突きつけられた当時の学者たちは、地球が中心であるという自分のイメージを守るために、計算上の仮説であるエカント点をいくつも重ねたむちゃくちゃな理論を構築していった。その結果、わけのわからない天文体系をつくってしまった。
気をつけなさいクリス。エカント点にエカント点を重ねてはいけない。時として常識は科学の発展を妨げる。現象を見たら、それをそのまま受け入れなさい。そして理由を考えなさい。
頭をひねって数式をこねくりまわすのが科学者ではないのだよ。子どもの目で見て、静かに耳をすませ、ただありのままを感じる。これが科学者にいちばん必要なものなのです』
紅茶とチェスが大好きなレナード教授。脳科学の世界的権威であり、わたしのもうひとりのおじいちゃん。
――レナード教授、それはこの場合にもあてはまるのですか?
死にそうな顔の厨二病患者の言うことを、そのまま信じろ、と?
「IBN5100なら――ラボに今でもあるわ。わたしと岡部で、運んだんじゃない。あれは岡部が何度もタイムリープをして世界線を“変え”て、必死に手に入れた結果だというの?」
「……信じられないのは分かる。だが、本当だ。萌郁、フェイリス、ルカ子のDメールによって、ラボにあったはずのIBN5100が“ラボに届かなかった”世界に変化してしまった。それを元に戻すため、俺は3人にメールの内容を聞きだし、それをキャンセルするような内容のDメールを過去に送った。そして今、ここにいる」
そしてわたしの知る限り、Dメールを送ったのは実験のためのロト6と、あとは外れの橋田のメール、まゆりのメール、くらいだ。わたし自身はDメールを使ったことはない。
「疑うのも無理はない。なにしろすべての物的証拠は“なかったこと”になっているんだ。俺が嘘をついてない証拠はは何もない。すべては俺の頭の中の出来事だ。だが、それは今の話が空想だからじゃない。世界線を変えて“なかったこと”になっただけなんだ――」
わたしは、考える。
ただ目の前にある出来事だけを、子どもの目で。
しずかに耳を澄ます。
感情に流されてはいけない。
イメージでものごとを決めつけてはいけない。
ここで“岡部を信用する”というのはたやすいけど、信用とは思考停止の延長。
わたしはそれを許さない。
考えろ。
「――ひとつ教えて、岡部」
「ああ……なんでも訊いてくれ」
「今の話が、わたしに『伝えたかった』こと?」
「いや……確かに伝えたかったが、全てではない。ほんとうに伝えなくてはならない事実は、もうひとつある。だがそれは、お前が俺の言うことを信用してくれてからだ」
なるほど。
「紅莉栖よ……俺の言うことを、信じるか?」
「信じるわ」
「なっ……ほ、本当か?」
「ええ。信用する。あなたが言ったことは実際に起こり、そして“なかったこと”になった。そうね?」
「ああ……だが、どうして?」
「信用する根拠は3つあるわ。まず、あなたの話に今のところ論理的矛盾がないところ。タイムリープマシンの説明をしてから1日しか経ってないのに、そこまで矛盾のない現象を妄想するなんて、岡部には無理ね。わたしでも難しいもの」
「そ……それはどうも」
「ふたつめは、マイフォークの話とか、アメリカに持って帰る本の話とか、ところどころわたしが岡部に話したことがない話がまじっているところ。まあ適当にあわせただけ、って可能性もあるけど、ちょっと考えにくいわね」
「そうだ。ほかの世界線の紅莉栖も、それで信じた」
「そしてみっつめ。これは根拠というより合理的判断に近いんだけど――あんたが言ったことを証明する方法は、ちゃんとある」
「そ――それは?」
「あんたの話が本当なら――まゆりは3日後の夜に、死ぬ。どんなに安全な場所にいても、不可解な形で死ぬ。その瞬間、あんたの主張は完全証明される」
「ああ――確かに、その通りだ」
「でもわたしは、その確かめるためだけに、3日待つ気はない。まゆりが死んで証明されても、何も嬉しくない。そうなるくらいなら、死ぬ前に信じたほうがマシ。だからわたしは、岡部の言うことを信じる」
「そうか」
岡部はため息をついた。ほっとしたのだろう。
少しだけ荷物を降ろしたようだった。
それを見て、わたしは自分の直感が正しいことを悟った。
――やっぱり、岡部はいま、耐え切れないほどの荷物を背負っている。
大きく、重く、自分ではどうしようもない荷物。押しつぶされないように耐えるのが必死な大荷物だ。とてもどこかに持って運べるようなものではない。さっきついたため息は、それがほんの1グラム軽くなったことでついたため息。軽くなった1グラムのせいで、かえって荷物全体の重さがきわだってしまうような、そんなため息だ。
わたしの右脳と左脳が独立して動き続ける。
岡部の表情を見守りながら、同時に、冷静にロジックを組み立て続ける。
岡部のあまりに重い荷物。
まゆりの死の回避。
α世界線からβ世界線への移行。それがもたらすもの。
……………………。
「紅莉栖、冷静に聞いてくれ。俺はこれまで、何度もタイムリープしてきた。そのほとんどは、この世界線で行ったタイムリープだ。俺はここで、少しづつダイバージェンスメーターの数字を変えてきた。だがもう限界だ。これ以上メーターを変えるには、やはりIBN5100でSERNにハッキングをかけるしかない」
「……なら、それをすればいいじゃないの。橋田なら、それができるんでしょう?」
「……駄目なんだ」
岡部の表情が、壊れる。
岡部が、ひび割れる――
反射的にそう思った。
「SERNのディストピアを回避するには、俺がラジ館で送ったメールの記録を消去するしかない。だが、それをすると、それをすると、お前は――」
割れる音。
ガラスにひびが入るような音。
岡部が、割れる。
駄目だ。
この岡部は駄目だ。
壊れる。
壊れてしまう。
わたしはその予兆、精神が破断する直前の超音波、のようなものを感じ取った。
――駄目だ。
その一言は、言わせない。
岡部にそんな残酷な言葉は言わせない。
だからわたしは、覚悟を決めた。次の一言を言うための。

「その世界では、わたしが死ぬ――そうでしょう?」

岡部はぽかんとしていた。
「違うの?」
「驚いたな……紅莉栖。なぜそれが分かった? いや、推理したのか……さすがだ。他の世界線でも何度か説明したことがあるが、お前は俺が何度も順序だてて説明しないと、そのことを理解しようとしなかった。この世界戦の紅莉栖は、特に頭がいいのか? それとも別の要因があるのか」
「推理よ。ハッキングで消そうとしているメールの内容は、『牧瀬紅莉栖が刺された』。つまりβ線では、岡部が刺されて死んだわたしを見ている。だからβ線に戻ったら、わたしは死ぬ」
「……そうだ。しかもβ線には、タイムリープマシンがない。だからまゆりのケースと違って、タイムリープを繰り返して死を回避することができない。死んだら、それっきりだ。そう思って俺は、α世界線にいる状態のまま、お前の死を回避できないか、何度もトライしてみた。Dメールも送った。だが無理だった」
「Dメールの性質を考えると、当然でしょうね。岡部の話を総合すれば、『Dメールが届く世界線を選ぶことはできない』っていう、当然の推察に行き着くもの。無限にある世界線から、β線に選択的にメールを送れる確率は無限分の1%、すなわちゼロね」
「他の世界線の紅莉栖もそう言っていた。だからそれを回避する方法をずっと探して、7000回以上もタイムリープを繰り返した――」
「そして、結論は?」
「……無理だ」
「…………」
お前にとっては――死亡宣告に、なる。
ついさっき岡部が言った言葉。
それは、冗談でも比喩でも何でもなかった。
この男はいま、こう言ったのだ。
”いろいろ試したが、お前の死を回避することはできない。お前は必ず死ぬ”
一瞬、ひやりとした気配を感じた。
すぐに、人間の気配ではないことに気づく。
足元に広がる闇、いつでもすぐそこにある暗黒――その中からこちらを見る、ぎょろりとした、目。
死は、いつでもわたしを見つめている。
わたしを覗きこんでいる。
死と目があう。
そいつは言う。
“私はここにいるぞ――”
わたしは息が止まりそうになる。

「何度も試した。無理だ。もう限界だ。いろんな手を使ってまゆりを守ろうとした。海外に高飛びもした。大学病院に入院させて心臓麻痺から救おうともした。ボディーガードを雇ったりもした。そのどれもが、まゆりを救うには至らなかった」
だとしたら。
この男は、幼馴染のまゆりが死ぬところを、何度もその目で見ているのだ。
何千回も。
脳の中にちらばる、何千ものまゆりの肉片と血。
どうやって岡部は、それに耐えたのだろう。
「なあ、クリスティーナ。俺はしょせん、ただの学生なんだよ……。狂気のマッドサイエンティスト? 鳳凰院凶真? そんなの全部、妄想だ。設定だ。気付かなかっただろ?」
……いや、誰でも気づくと思うけど。
「俺の目の前にある選択はふたつ……まゆりを助けるか、紅莉栖を助けるか。どちらかを選べば、どちらかは見殺しだ。両方救う道はない。何千回も試して、それがようやく分かった。そしてそれは紅莉栖、別世界線のお前が導き出した結論でもある」
別の世界のわたしか。
その別の世界のわたしと、今ここにいるわたしが違う見解を持つ確率は、どれくらいなんだろう?
「その別世界のお前は言った。『心配するな』と――世界はひとつとは限らないと。俺が認識する世界と、お前が認識する世界が、別物だっていう可能性だってある、と」
「なるほどね……その別世界のわたしが何を言いたかったのか、なんとなく分かるわ。あんたの話だと、その能力――“リーディング・シュタイナー”だっけ? それが現在、どの世界線にあるかを認識する、ただひとつの方法。それはつまり、あんたの主観と能力が“β世界線――わたしが死んでいる世界線”と“α世界線――わたしが生きている世界線”のうち、前者を選ぶ、それがわたしの死、ってことになるけど、それは果たして、普遍的にすべての人の認識に適応されるものなのか、ってことよね」
「そうだ。たとえて言うなら、俺は山手線を使って移動し、お前は湘南新宿ラインを使う。ダルは京浜東北線に乗る。まゆりは新幹線に乗る。そんなふうに、『今ここにある世界線』すらも、いくつもに枝分かれしているんじゃないか、と。お前はそう言っていた」
「そうね。……少なくとも、岡部の言っているアトラクタフィールド理論がすべてじゃないことは確か。それは客観的に採られたデータを使ったものじゃない。あくまで岡部の主観から見れば、辻褄があっている、というだけ。わたしの認識している世界から見ればはべつのわたしだけの理論があるかもしれないし、たとえば岡部、あんたの主観がβ世界線に行ってしまっても、わたしの主観はここにとどまるかもしれない。わたしの主観も、いつかは“リーディング・シュタイナー”に変わるかもしれない。なぜなら岡部に“リーディング・シュタイナー”があることは確実だけど、わたしに“リーディング・シュタイナー”がないことは、岡部、あなたの主観からでは絶対に確認できない」
「……確かに、そうだ。“リーディング・シュタイナー”は、本人以外には見ることができない」
「だから、あなたの悩みは、前提条件が間違っている」
ということを、別世界のわたしは言いたかったのだろう。
だが、そこにわたしは、べつのメッセージを読み取る。
あまりに多くの、『かもしれない』。
それは証明する側の人間が使う言葉ではない。
科学系の討論で、わたしは何度もこの立場をとってきたことがある。
この世界の人なら誰だってあるだろう。
『でも、こうかもしれない』『でも、そうじゃないかもしれない』『こういう考え方も存在するのでは』――
それは証明する側の言葉ではなく、証明させない側の言葉だ。
岡部の言葉を否定したいだけだ。
なにかを証明しようとしているわけじゃない。
それは、メッセージだ。
論理的証明ではない。
ただの主張だ。
それらの理論が含む、わたしからのメッセージ。
『あなたは、わたしを――』

「ねえ岡部」
「なんだ?」
「その話を、わたしにしたってことは――」

『あなたは、わたしを、殺しても、いいよ――』

「ああ、そうだ」
岡部は急に年老いてしまったような、しわがれた声で、言った。

「俺は、α世界とβ世界のどちらを選ぶか、もう決めてきた」

「……そう」
「お前に話したのは、そうしないと卑怯だと思ったからだ。俺がこれからする選択を、お前は知っていなくてはならない。知っておいてほしい。けれど、もう、これは、決めてきたことなんだ。フェイリス、ルカ子、萌郁――俺が何度も踏みにじってきたみんなの思いを、無駄にしないための、償い、なんだ」

「そう……分かったわ」
そう、言った。
まるで、他人事のように。
「あなたは、わたしが死ぬ世界線を、選ぶのね」

岡部は無言で肯定した。
「すまない、紅莉栖。俺に力がないばっかりに……」
おそらく何千回、いや何万回と繰り返されてきたであろう、岡部の謝罪。
「謝らないで。あなたが決めたことに、わたしがとやかく言うつもりはない。心配なんてしてもらわくていい」
「駄目だ。とても許されることじゃない。これは――俺のエゴが生み出した、わがままな結論だ。一生かかっても、許されるわけが、ないんだ」
ああ……
仕方ない。
本当はこんなこと、言いたくないんだけど。
「ねえ岡部。世界線が切り替わる瞬間って、どんな感じがするんだろう?」
「……なんだ、急に? それが今の話と、どういう関係が――」
「いいから。世界線が切り替わる瞬間、岡部の場合は“リーディング・シュタイナー”が発動して、とつぜん別の世界に来たように見える。でもアトラクタフィールド理論によれば、それは岡部だけの例外。“リーディング・シュタイナー”を持たない普通の人からすると、その記憶が書き換えられる。いわば『別人』になるわけよね」
「おそらく……そうだ。それがアトラクタフィールド理論、2036年のスタンダードとされた理論だ」
「ではわたしは、β世界線に移行した瞬間に、死の苦しみを受けるでしょうか?」
「それは……ノーだろう。存在そのものが消えるんだ。痛みや苦しみなんかの感情も一緒に消える」
「そう。そしてわたしは、消えたことを認識できるでしょうか?」
「同じ理由から、できない、と思うが」
「そして私は、それを不幸と感じるでしょうか?」
「お前が……何と言おうとしているのか、分かるよ。でも駄目だ。お前が不幸と感じるから駄目なんじゃない。お前が消えるから駄目なんだ」
「岡部の主観にとって?」
「違う……お前にとってだ」
「……ねえ岡部。わたしの意識は未来にあるわけじゃないよ。過去については記憶があるから、完全に無なわけじゃないけど……わたしにとっての意識は、たった今、ここなの。
未来にわたしはいない。わたしをつくってきたこれまでと、今この瞬間にだけ、わたしはいる」
岡部は首を横に振る。
考えられないわけじゃない、考えたくないだけなんだ。
でも教える。
考えてもらわなくてはならない。
「たとえばDVDのテレビアニメのキャラが、活躍している途中でDVDの電源を切られ、もう一度つけられたとして、アニメキャラは自分が『一瞬死んでいた』ことを認識できる? TVゲームのキャラが旅の途中で一度電源を切られ、そのまましばらく電源を入れられなかったとして、それを悲しむことができる?」
「それは……今おまえがいる、そのことと、お前がいずれ消えてしまうそのことは、それほど差がないと……言いたいのか?」
「そうよ。これが証明。思考実験による証明。ふたつの仮定に対して、同じ入力をして、同じ出力が得られたのなら、少なくともその条件下では、ふたつの仮定は等価なの」
これが『別の世界線のわたし』にはできなかった証明。
証明をさせない立場ではない。
証明する立場からの発言。
――たとえそれが、自殺者の論理でも。
「それでも……俺は覚えている。お前がいたことを。そして、俺の手でお前を消してしまったことを」
「でも、他の人は忘れている。わたしが生きていない世界に慣れている。それなら、それで、いいわ」

『あなたが覚えていてくれるのなら』。

その言葉を、わたしは言わなかった。


†  †  †


「さあ、行きましょう! なに辛気臭い顔をしてんのよ!」
「行くって、お前、どこへ……」
「本当のことを言うとね、わたしね、ひとつだけ――」
ぴたり。
言いかけて、止まる。
「ひとつだけ? ひとつだけ、何だ?」
岡部が疑問そうな顔でこちらを見てくる。
                                ――言ッテハイケナイ。
「――ひとつだけ、心残りがあるのよね。心残りっていうか、気に入らないことが。消える前に、それくらいさせてもらってもいいでしょう?」
「心残り? 何だ、教えてくれ。お前がしたいことがあるのなら、俺は何だって――」
その頭を、エビフライではたく。
「ごおっ!?」
まさかシリアスな展開からかっとばされるとは思っていなかったのだろう。岡部は痛みと驚きで目をまん丸にして、硬直して震えている。
「なっ……何をする貴様っ、突然……」
「辛気臭い顔してるからよ。岡部のくせになに真面目くさってるんだか」
「しかし、人が生きるか死ぬかの話をしてるときに、こんな……おおっ、き、来たっ、だんだん痛くなってきたぞおおっ……!」
後頭部を押さえて、岡部はうずくまった。
「わたしが気に食わないのわね岡部、今のあんたのリアクションよ。あんた、今何でどうはたかれたか、さっぱり分かってないでしょう?」
「分かるわけないだろ……っ、7000回タイムリープしてきたが、この痛みは未体験ゾーンである……っ!」
「あのねえ。わたしはね、今日説明したのよ。この子の名前はエビフライくんで、あんたの頭をひっぱたくためだけに買ったツッコミグッズだってね。でもあんたは、それをぜんぜん覚えてない」
「それはっ……仕方がないであろう。“リーディング・シュタイナー”の欠点は、前の世界線のことを覚えている代わりに、今の世界線でこれまで何があったかが、分からないのだから」
「そう。だから嫌なの。あんたはねえ、今日のお昼、わたしとデートしたのよ」
「でっ……デートっ!?」
「そう。しかもあんた、わたしとデートがしたいからお願いです今日一日だけでもつきあってくださいお金は全部出しますから、ってわたしに土下座までして泣きついてきてね」
「土下座! 土下座なんて父親にもしたことないぞ……」
「まあそこまで言われたら? 慈悲深い紅莉栖さんとしては、好きでもない岡部のためにデートするくらいのことは、してあげてもいいかなーと? 思わなくもなかったわけですよ」
「なるほど。それは何というか……すまんかった」
「でもあんたはそれを覚えていない。わたしに貸しができたことさえ覚えてない。それが気に入らないのよ。こんな状態で、満足して成仏できると思う?」
「成仏という表現がどうかはともかくとして……それでは、どうすればいい?」
私の頭脳が素早く論理を計算する。
「そうねえ。もう一回やりましょうか。デート。そうすれば岡部も、わたしの慈悲深さをあらためて思い知るでしょうから」
「もう一回、って……そりゃあ構わないが、デートにはもう行ってしまったのだろう? 今日はもう遅いから明日にするとしても、一体どこに――」
「この服」
「ん?」
「この服。よーく見ておきなさいよ。あんたのチョイスにしてはまあまあで、わたしもそれなりに気に入ったりしてるんだから。もう一回やりなおしたとしても、これだけはもう一回、おんなじものを買ってもらってもいいかな、って思うわけよ」
「もう一回、同じもの……? おい助手よ、お前は一体何を」
「乙女にとってはねえ、今日という日は一日しかないの。なかったことになりましたから、はいそうですか、なんてわけにはいかないのよ。それが、でっ、デート、とかだったらなおさらよね。あ、勘違いしないでよね! これは一般論。わかる、一般論? べっ、べつにあんたとのデートだから大事とか、そういうんじゃないんだからね!」
「居合い抜きのように突然放たれるツンデレ台詞」
「うるさいっ! とにかく、わたしはあんたにちゃんと覚えていてもらいたいのよ。わたしの貸しを。β世界線に行ってもね」
「お前……別の世界線にいる人間にまで、貸しを押し付けていくつもりか……? 言ってることは分かるが、論理的に考えてなんの得もないぞ」
「いいのよ、わたしは消えるんだから、べつの世界線にそれくらいの情報を残したいって思ったって、バチはあたらないでしょう? ……それに、消えるわたしだけ覚えてて、消えないあんたが覚えてないなんて、くやしいじゃない」
「フッ、分かった。お前の言うとおりにしよう。それで俺は、何をすればいい?」
わたしはニヤリと笑って、言った。

「……もう一回、今日をやり直すのよ。タイムリープでね」


†  †  †


すごかった。
えらいことだった。
もうそれはそれは、筆舌に尽くしがたい、未体験ゾーンの大惨事だった。
叫びだすのも無理はないわ。絶叫するのも無理はないわ。
つまり……タイムリープ。
タイムリープで、わたしの記憶は過去へ飛んだ。
8月14日の12時10分に、わたしは自分の記憶をタイムリープさせた。
自分で作ったものだし、岡部が何度も成功させているそうだから不安はなかったけど、それでも一抹の不安はあった。
岡部に一瞬だけ先にタイムリープしてもらい、数秒送れてすぐにわたしもタイムリープした。
うまくいくと思った。
けれど、不安もあった。
問題はふたつ。
ひとつは、タイムリープマシンが正しく動作するか、という問題。
自分で作ったものだから性能に自信はあったし、岡部は何度も成功させているから物理的な要因は大丈夫だろうと思ったけど、アトラクタフィールドの選択にはじかれて、なにか重大な問題が起きてもおかしくない。
まあこれは、予想以上に到着時の衝撃がきつくてヤバくてグロかった、ということを除けば、きちんと正常にクリアされた。
もうひとつの問題は、ふたり同時にタイムリープすることはできるのか――つまり、岡部と同じ世界線にリープすることは可能か、ということ。
たとえば、岡部が私より先にタイムリープして、わたしが同時にタイムリープするのではなく、10秒待ってタイムリープしたとしよう。先にタイムリープした岡部は10秒のあいだ、わたしが追いかけてくるのを待つことになる。そのとき岡部の隣にいるのは過去のわたし。タイムリープを一度もしたことのないわたしだ。わたしはきっと、岡部が非通知の着信を取ったとたん叫びだしたことで、びっくりすることだろう。一方、未来のわたし――岡部がタイムリープした後10秒間待っているわたしは、『岡部がタイムリープしてきてびっくりした』わたしではない。わたしにそんな記憶はない。
つまり、世界線がずれるのだ。
その状態でわたしがタイムリープしたとしても、岡部とまったく同じ世界線にたどり着けるかは不明。別の世界に飛ばされて、わたしたちは永遠に離れ離れ――ってこともありうる。
けれどこちらに関しては、あまり心配していなかった。
理由は2つある。
まず第一に、岡部には“リーディング・シュタイナー”があるから。岡部→わたし、の順でタイムリープすれば、たとえ岡部がタイムリープで世界線を変え、わたしのタイムリープでさらに世界線が変わってしまったとしても、岡部は記憶を継続できる。だからわたしが到着した世界線でも、岡部は今隣にいる岡部だ。
第2に、ほぼ同時にタイムリープすれば、違う世界線に着いて岡部とはぐれてしまう、という可能性は、きわめて低いと考えられるから。
世界線の変容は、ごくごく近距離であれば、すべての人の記憶は書き換えられず、継続される。
これは過去のDメール実験で証明されている。
過去の実験を思い出すと――橋田が、『フェイリスさんのカードゲームに勝ちたいから』と言って過去にDメールを送ったことがあった。その結果どうなったか。橋田の負けは動かず、つまり過去は変わらず、かつ(ここが重要なんだけど)橋田は送信したという記憶を失ったりはしなかった。
厳密に言えば『Dメールを送信した橋田』と『Dメールを受け取ったけど、カードゲームに負けた橋田』は別人であり、別の世界線にいると思われるため、記憶が継続しない可能性がある。でもそうはならなかった。
Dメールはたとえ失敗したものであっても、着信の過去を変えるわけだから、ほんの少し世界線を変動させる。
だからもし世界線理論が厳密なら、『Dメールを送った』という記憶を持っている人は、存在しないことになる。
もし厳密なら――。
そう、でもわたしはDメールを送った事実を覚えている。
ここから何が証明できるか。
アトラクタフィールド理論は厳密ではない。
そこには『あそび』のようなものがある。
その『あそび』とは、つまり、こうだ。
ごくごく近距離の世界線移動であれば、誰もが“リーディング・シュタイナー”を発動できる――。
橋田がDメールを送ったことを覚えていて、受信したことを覚えていないのは、まさしくリーディング・シュタイナーと同じ現象だ。
じゃあ、橋田にも“リーディング・シュタイナー”の能力がある?
いやいや。
“リーディング・シュタイナー”はやっぱり、岡部だけの能力だ。
というか、岡部の能力は、他の人よりもすさまじく強い。
一般人は近距離用リーディング・シュタイナー。
岡部は遠距離もこなせるリーディング・シュタイナー。
この『近距離』の世界線移動がどれくらいなのか、よくわからないところだけど――少なくとも『人の死』や『SERNのディストピア構築』は強固で、岡部の“リーディング・シュタイナー”でないと記憶継続できない。けれど『メールの受信』や『まゆりが撃たれて死ぬか/心臓麻痺で死ぬか』といった過程の話は、世界線距離が小さいため、一般人も記憶が継続する。
おそらくこの『近距離』とは、世界線変動率を示す機械、ダイバージェンスメーターに表示されない桁外の小さな小数点のことを指すのだろう。
さて。
この話――『近距離用』リーディング・シュタイナーが何を意味するのかといえば、世界をあんまり派手に変えなければ、岡部がタイムリープした到着先と、わたしがタイムリープした到着先は、同じものとして扱っていい、ということ。
物質的にはどちらかが違う世界線にたどりついた可能性があっても、記憶が継続されているので、ほとんど問題はないのだ。

はたして。
わたしがたどり着いた先に、ちゃんと岡部は、先にタイムリープしていた。
「早かったな、助手よ」
先に着いて待っていた岡部は、そんなことを言った。
「当たり前でしょ」
冷静に言っているつもりだけど、正直、足はふらふらだし、頭には星が散っている。
タイムリープの後遺症だ。
よくこんなのに7000回も耐えられたな……
「別の世界線にはぐれたらどうしようかと思ったが……幸い、迷子にならずに済んだようだな、クリスティーナよ」
「ふふん。わたしの理論は完璧よ」
「それはそうと、なかなか派手な絶叫であったぞ。蘇りし者《ザ・ゾンビ》として、なかなか貫禄のある絶叫であった」
「ばっ……」
わたしは叫ぼうとして、そこがどこなのかに気がついた。
秋葉原クローズフィールド。
往来にはたえまなく休日の人たちが行きかっている。ぞろぞろと、ずらずらと。
みんな、こっちを見ている。
「……これ、ひょっとして、わたしたち」
「そうだ。お前の絶叫ソロコンサート、その一部始終を聞き届けた聴衆たちだ。おおよそ10秒くらいは拝聴していただいたかな。喜べクリスティーナよ、お前の絶叫は、俺の全力フルスロットルの『フゥーハハハハハ!』よりも、ちょっと多いくらいは注目を集めていたぞ」
「うううううううそでしょ!?」
視線。
痛い視線。
異様なものを見るというより、けったいな出し物を見るような、好奇心の視線。
ああ、ああああ。
岡部の厨二病より注目されてたって?
あのイタい、自分でやるくらいなら安楽死を選ぶ厨二病より、わたしが、上?
自我がほ、崩壊する。
ああっ、だめ、は、は、恥ずかしいっ……!
「い、行くわよ岡部! こっ、ここここは危険なのよ! さあ早くっ!」
「ちょっ、紅莉栖、手を、手をひっぱるなこらっ、おわっ、おおおおおおおっ!?」
わたしたちは、疾走するふたつの弾丸となって、秋葉原の街並みを駆け抜けたのだった――。


†  †  †


その後のわたしたちは、おおむね一回目と同じようなルートをたどった。
UPXでランチをたべた(わたしが忠告し岡部はミートソースからカルボナーラに変えた)。
カジュアルファッションの店でさっきと同じ服を買ってもらった(今度は値段の高さにぶつぶつ言われた)。
スタベでコーヒーを飲みながらだべった(アトラクタフィールド理論について議論をした)。
わたしはその間、ずっとひとつのことを考えていた。
死ぬということについて。
消えるということについて。
そして今――ラジ館の屋上で夕日をながめている。
傾いた夕日が、秋葉原をオレンジに染めている。
まるでオレンジ色の水中にいるみたいだ。
わたしと岡部は、フェンスにもたれかかって、並んで夕日を見ている。
キレイだった。
これ以上キレイなものはこの世にはないと思った。
「……どうだった?」
岡部は夕日のほうを見たまま、わたしにそう尋ねてきた。
「どう、とは?」
「いや、つまりだな。俺はうまくやれていたか?」
「うまく? うまくやれていたか? マジレスすると、岡部が女の子相手にうまくやれたことなんて一度だってないわけだが」
「うぬっ……痛いところを! し、しかし今回は大丈夫だろう。なにしろ前回俺がやりとげたことを、そのまま同じにやればいいだけなのだからな! どうだ? 俺の対応はパーフェクトだっただろう!」
「ああ、前回。前回ね。あんた、まだそんなこと信じてたのか」
「な……なに?」
「ふふふん。前回なんてない。嘘よ。わたしとあんたがデートするのはこれが最初。あんたがわたしに服をプレゼントした、なんてのも嘘。そんなお金、貧乏学生のあんたが出せるわけないだろ」
「な……」
さすがの岡部も絶句していた。
「ほ……本当か?」
「いやいや、必死にデートのエスコートをするあんたは、なかなか面白かったわよ。いやいや、岡部倫太郎さん、リア充への道はけわしいですなあ?」
「なんとっ……騙されていたというのか、この俺がっ……!」
「そーゆーこと。あんたがわたしに借りをつくってた、なんていうのも嘘。だから……」
夕暮れどきのひときわ強いビル風が吹いてきて、オレンジ色のわたしたちを揺らした。
「だから……わたしのことを気にしなくても、いいのよ」
「…………紅莉栖」
沈黙が落ちた。
岡部は下を向いたまま、なにも言わない。
岡部の指がにぎりしめている金網が、がしゃんと揺れた。
「……っ……!」
何かが聞こえた。
岡部がなにかを、言おうとしていた。
「……にっ……!」
がしゃん、と金網を強く揺らす。
「本当にっ……! ほかに道は、ないのかっ……!」

岡部は、泣いていた。

男の人が本気で泣くところを見るのは、これがはじめてで。
泣いている岡部は、本当に辛そうで。
わたしは、胸をしめつけられる。

「ないのかっ……紅莉栖っ! お前……天才少女だろう! まゆりも助かり、お前も無事……そんな選択肢を、見つけられないのか!」
わたしには、答えられない。
「何も悪くないのにっ! まゆりを助けるため、何度も、何度も! 俺を助けてくれた紅莉栖を! こんな形で死なせるなんてっ……!」
岡部は何度も金網に体をたたきつけた。
金属がこすれる音が、夕暮れの空の中に消えていく。
「わたしも助かり、まゆりも死なない選択肢……」
岡部はそれを欲している。
心の底からそれを欲している。
7559回もタイムリープを繰り返して探したんだ。
繰り返しが1回1日だとしても、21年分。
21年間、同じ気持ちをすり減らさないまま抱き続けて、それでも答えが出なくて、ここにいるんだ。
その気持ちは半端なものじゃない。
できればその気持ちに、答えてやりたい。

「でもあんたは、もう心に決めている。心に決めて、この世界線に来ている」
「…………」
「わたしがタイムリープしてきた岡部に会うのがはじめて、ってことは、萌郁さんをDメールで助け、この世界線のあるアトラクタフィールドに来てから、一度も8月14日には戻っていなかった、ってこと。つまり、あんたは今回、7559回目にして、いつもと違う行動をとったってことになる。それは、わたしに――何も知らない、最初のわたしに、自分の決めたことを、これからとる行動を、認めてもらいたかった、ってことじゃないの?」
「…………」
岡部は顔をふせているけど、顔を見なくても分かる。
図星なのだろう。
「どうして……こんなときでもお前は、全部分かってしまうんだ……」
「怖いなら、わたしに会いに来なければよかったんだ」
ぴしりと、はねつけるように、言う。
「紅莉栖……何を、今そんなことを言ったって……」
「だってそうでしょう? どうしてわたしにわざわざ説明しに来たの? 重荷になるなら、わたしに黙って、さっさとハッキングしちゃえばよかったんだ! そうすればあんたはこんな辛い場面に出くわさずにすんだし、わたしも……」
わたしも……こんな辛い思いをせずに、済んだんだ。
死ぬことは、怖い。
当たり前だ。
死っていうものは、誰もが平等に心の底のほうに抱える、闇。
闇の中からのぞく、目。
ぎょろりと。
わたしを覗きこむ。
死ぬということ――
消えてなくなるということ。
岡部の前では『今生きているということと、この先消滅するということは、現時点では等価』なんて理屈をぶってみたけど。
そんなものは、ただの理屈。考え方のひとつでしかない。
心の中の闇、死ぬという怖さ――
死の瞬間、それにとらわれたとき……わたしは思うに決まっている。
『いやだ、死にたくない!』
『死ぬのは怖い、死ぬのは嫌だ!』
『誰か、助けて――』
その時――わたしが助けを求める『誰か』っていうのは、きっと、岡部だ。
岡部。
おかべりんたろうに、ころされるということ。
体が震える。
わたしの意志と関係なく、震える。
ふるえがとまらない。
いま、いまふるえちゃ、だめなのに――

あの言葉、あの言葉を、言ってしまいそうだ――

「……駄目だ。やっぱりできない」
ああ。
駄目だ。
岡部に、わたしのふるえを、みられてしまった。
「紅莉栖、お前を犠牲にするなんて駄目だ。誰よりも頑張ったお前を殺して、それでまゆりも俺も幸せになれるはずがない。そんな犠牲のもとに成り立ったβ世界なんて間違ってる。なにか別の方法はないのか、本当にないのか――!?」
怒りのままに、岡部は金網に拳をたたきつける。
何度も、何度も。
「ないのか、ないのか、ないのか、ないのか、ないのか、ないのか、ないのか、ないのか、ないのか、ないのか、ないのか、ないのか、ないのか、ないのか、ないのか、ないのか! 2人とも救う方法は何かないのか! くだらない残酷なやりかたで俺たちを苦しめるこの世界を出し抜く方法は何かないのか!」

ああ――
岡部がわたしのために、こんなにも苦悩している。
こころが、あふれそうになる。
心の容量が、今日一日だけでいっぱいになってしまう。
死ぬかもしれないわたしと、死なせまいとする岡部。
完璧な世界。
完璧なふたり――

言ってしまいそうになる。
のどもとからあふれでてしまう。
あの言葉が。
一度目のタイムリープの前、あのときに、言ってしまいそうになったあの言葉。

――本当のことを言うとね、わたしね、ひとつだけ――
――ひとつだけ? ひとつだけ、何だ?――
――ひとつだけ、ねえ、ひとつだけ――

わたしの目から、涙があふれる。
心がひびわれて、あふれでたみたいに。



――ねえ、ひとつだけ、あるんだ、方法が。



――ふたりとも、たすかる、方法が。


わたしは、泣いた。
心がおさえきれずに、泣いた。
つぎからつぎへと、涙があふれでてくる。
とめられない。
バカ、だめだ、わたし。
泣くやつがあるか――
いちばん大きなくるしみを背負っている岡部の前で、泣くやつが、あるか――

わたしは――心をきめた。
言おう、ほんとうのことを。
言おう、だいすきなひとに。

言おう――

そのとき。
2010年の8月14日の午後19時18分。
そのとき。
世界が夕暮れにつつまれていた、
わたしも岡部も泣いていた、
そのとき。


着信が、鳴った。


――――。
――――――――。
これ……、
これ、って……。

わたしは反射的に自分のケータイを見た。
でも、違う。
わたしの着信音じゃない。
岡部のケータイ。
いつも岡部が着信の音楽にしている、安っぽい電子音の、
――Beginning of Fight――。
「これは……」
岡部がうなるように言った。
息が止まりそうになっているのを、無理矢理吐き出した、そんな声で。
「非通知着信、だ……」

「な、何よ……こんなときくらい、ケータイの着信、切っときなさいよ」
わたしは涙を隠す。
こんなときに。着信だなんて。
「いや、このタイミングで非通知をかけてくる知り合いなんて、俺にはいない。可能性がいちばん高いのは、おそらく……」
もちろん、分かっていた。
これは、ただの着信なんかじゃない。
あの機械ができてから、『非通知の着信』はわたしたちにとって、まったく違う意味を持つようになった。
つまり。
未来の記憶が送られてくる着信。
タイムリープ着信――。

「ど、どうするの? 岡部、着信、してるわよ」
「わっ、分かっている! 待て、どうしてこのタイミングなのだ? 今まさにSERNへハッキングをかけようか決めつつある、今のタイミングなのだ?」
「わからないけど、今出て、いいの? いま決めようとしてることが、この瞬間が、消えちゃったりしないの?」
「しかしっ、現に着信はある。何度もピンチを救ってくれた着信だ! この着信を受け取る行為をしぶったら、『俺はタイムリープ着信をとらないかもしれない』という可能性を作ってしまったら、タイムリープ自体の価値が下がってしまう!」
「でも、言ったでしょ。時を越えて受信されてくるのは、ただのコピーされたデータ。人の命が乗ってるわけじゃない。今はいったん切って、後でもう一度かかってくるのを待っても――」
「駄目だ、それでは駄目だ。ほんとうに次かかってくるか分からない。それにっ、情報が減るわけじゃない。これから先の未来の記憶を“思い出す”だけだ!」
岡部は、ケータイの着信ボタンに指を伸ばす。
「このタイミングだ、きっとハッキングに何か問題があったに違いない! SERNが対策を講じてきたか、俺の身に予想外のなにかがあったか――とにかくこれは、有用な情報に違いない!」
「でっ、でも――」
「ひょっとしたら紅莉栖、お前が助かる方法を教えてくれる電話かもしれないじゃないか! ええい、早くしないと切れてしまう、すまん紅莉栖、出るぞ!」
あ――。
岡部は着信ボタンを押して。
力強く押して。
ストレート型のケータイを、耳に当てて。
迷いなく当てて。
そして。
そして。
そして――

停止、した。




「お……か、べ?」
いま彼の耳には、送話口から発信された神経パルス信号が、0.02アンペアほどの微弱な放電現象として叩きつけられているはずだ。
その信号がこめかみ付近の大脳側頭葉にある海馬傍回に、記憶情報として上書きされているはずだ。
そのはず、そのはずだ。
そのときの、記憶を上書きする電流が脳のほかの部位も刺激し、わけのわからない感覚に襲われるけど、すぐに、すぐに落ち着いて記憶を――
記憶を、思い出す――

10秒経った。

岡部は、なにも言わない。

「おかべ……ねえ?」
岡部はケータイを耳に当てたまま、時間を止めている。
さっきの例でいくと、電流に頭をシェイクされる苦痛で、数秒のあいだはひどい絶叫がとまらないはずだ。
絶叫が……
絶叫……は?

どくんと、地面が脈打つ。
確かだった地面が、ぐにゃりとゆがみ始める。
これまで正しいと思っていた前提、正しいと思っていた理論が、
わたしの前で、ゆがみはじめる――
「ねえ、岡部!」
わたしは叫んでいる。さけんでいる。
「ねえ岡部、冗談はやめて! 返事をしてよ!」

岡部は、腕をおろし。
ゆっくりとわたしを見て。
その目で、わたしを見て――


「あえれあ?」
と、言った。

ぐにゃり。
岡部がゆがむ。
地面がゆがむ。
わたしは、頭のどこかで、もうすべてを理解している。
なにがおこったか、冷静に論理を組み立てている。
でも、脳は理解していても、心が、わたしの心が、いまの事態についていけない。
わたしは走り出そうとしている。
どうやら岡部のもとに、駆け寄ろうとしているらしい。
けれど、その速度はおそろしく遅く、体が前に進まない。
駆け出すために蹴る地面が、水のようだ。
岡部は、わたしから視線を、はずし、
どこも見ていない奇妙な表情のまま――

――哂った。
「あえへるぉらえりぇれげえらぁぃえろうろろろおぅっ、とぅろあっ?」

「岡部っ!!!」
わたしは走る。
岡部に追いつこうとする。
その体から岡部だったものが抜けとんでいくのを、抑えようとする。
けれど。
「あれうおうどぅくくすうめ、にゃあんどかぺえぇれすげ、ありぇ、うりゅう、おぅぐぉう――」
岡部は、倒れる。
無表情で、倒れる。
わたしは、間に合わない。
岡部の、体が、電池の切れたオモチャみたいに、回転して、回転して、膝から、くずれて、倒れるのを――
わたしは、止められない――

岡部は痙攣したまま仰向けに倒れた。

「いやああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」



頭が割れる。
呼吸がとぎれる。
いま起こっていることに、体が、ついていかない――
わたしは岡部に駆け寄る。倒れた岡部に手を伸ばす。
岡部は――
岡部は。
もう、この世界を見てはいなかった。
「岡部っ、ねえ、どうしちゃったの? 何があったの、冗談ならやめてよ、ねえ!」
手が震える。
岡部を抱き上げる。
「ねえ、岡部!」
岡部の手をとる。
頬をさわってみる。
あたたかい。
心音も――ちゃんとある。
息も、している。
死んでるわけじゃない。
けど、それはただ、死んでいないだけ。
「いやだよ岡部、嘘だと言ってよ! こんなのってないじゃない、何十年もひとりで頑張ってきたあなたが、こんなふうに、こんな――」
岡部の、目は――
岡部の目は、深淵だった。
まっくろ。
それは闇。
なにも映していない。
なにも見てはいない。
その目は、まるで夢に出てくる、死、そいつがもつ眼球の輝きにそっくりで――

「あははははははははははは。余興は楽しんでもらえたかしら?」

そいつの声が、した。

「誰……っ」
わたしは屋上を見回す。
必死に、声の主を探す。
けれど、だれもいない。
どこにもいない。
「誰なの……っ、出てきて!」
「ここにいるよ、ミス牧瀬?」
わたしは、上を見た。
フェンスの上――
いつの間にか夕日が落ち、空の低いところに青白い月がかかっていて、
その月を背負って、そいつは、いた。
わたしは目を細める。
小さい――あまりに小さい体が、金網フェンスの上の鉄棒にまたがって、揺れている。
130センチあるかないかの身長。
そいつが、金網の上に腰掛けて、足をぶらぶらとさせていた。
小さい体。
髪を両側でくくったお下げ。
人形のポシェット。
「そんな……あなたは……」
ありえない。
そんなことはありえない。
「いい夜だねえ。そうは思わないかい、ミス牧瀬?」

天王寺、綯。

「どうしてあなたがここに……岡部に何をしたのっ!?」
「何もしていないさ。何もしていない。ほんのすこし、ほんの0.02アンペアほどの超微弱電流をある場所に軽く流しただけ。冬場にセーターを脱いだようなものさ。あは、あははははははははっ」
天王寺綯が哂う。
あどけない顔で。
悪魔の哄笑を。
「綯ちゃんっ……いえ、綯! なんてことを、あなた、なんてことを……!」

「う……あ……」
岡部がかすかに呻いた。
岡部の顔をのぞきこむ。目は開いているけど――
「あ、ああ……うあ……ぅ、うえ、げ」
――駄目。見て、いられない。
体は無事だけど、心が――心が壊れてしまっている。
わたしは岡部の手をとって、状態を確認する。
脈拍はある。安定もしている。痙攣や不随意運動もない。瞳孔反射もあるようだ。
けれど、目はわたしを見ていない。なにも見ていない。
――VR実験のラットに、似た症状を起こしたものがあったことを、わたしは思い出した。
身体的に異常はなく、脳波も正常に見えるのに、いっさいの自発的活動がないのだ。

タイムリープシステムが対象とする側頭葉近傍には、記憶をつかさどる海馬傍回のほかに、ものの意味をつかさどるウェルニッケ野も隣接している。
脳科学者でなくても分かるように、『意味』は『記憶』とセットになってはじめて利用可能になる。だから海馬傍回とウェルニッケ野はそれぞれ、ふたつセットで働くようにできている。
もし海馬に強いノイズ電流が入って記憶がやられれば、記憶から情報を引き出して使っていたウェルニッケ野も機能を停止し、この世界からあらゆる『意味』が消失することになる。
それは人間が知性を獲得する以前の世界。
見るもの、聞くもの、文字、言葉、あらゆるものから意味が剥奪された世界。
たとえ机を見ても、それが机には見えず、ただの原子のかたまりにしか見えなくなる。
それは暗闇を見ているのとなにも変わらない。
そして外にある世界にも、今ここにいる自分にも意味を見失い、人は暗海を漂う原生生物に戻される。
岡部はいま、限りなく魂の死――脳死に、近い状態にあった。

「これをしたのは、あなたね、天王寺綯」
「さすが天才少女、一瞬で事態を把握したか」
天王寺綯は満面の笑み。
「世界線だアトラクタフィールドの収束だとかいう、大きいもと戦っている奴は、きまって足元がおろそかだ。非通知電話の恐ろしさについて、考えたことすらなかったに違いないんだから。――いや、違うか。ミス牧瀬、貴女は知っていたかもしれない。だが、知ってて、黙っていた。結果どうだ? ミスター岡部は、無残、仲間の作った技術によって殺されてしまいました! あは、あはははははははははは!」
「岡部に、なんの情報を流し込んだの!? 岡部にダウンロードされた記憶は、誰の、何!」
「あははは。これだよ。いらないから、貴女にあげる」
天王寺綯が、なにかを投げた。
その何かは、私の足元に落ちて、バキンと音を立てて、一度跳ねた。
転がってきたそれを、拾い上げてみる。
「こ……これ……」
それは、目覚まし時計だった。
さして変わったところのない、レトログッズショップで売っているような、昔のアメリカ製アニメキャラの、目覚まし時計。
異様なのは、それに――ヘッドフォンのようなものが装着されていることだ。
それは一件、片手で持ち上げられるほどのサイズの目覚まし時計に、成人用の大きなヘッドフォンがかぶせられているように見えた。
だが、それは、ただのヘッドフォンではない。
シリコンで覆われた電極パッドが9チャンネル、金属のプローブがむき出した電極パッドが18チャンネル。
合計27チャンネルの3体測距と、空間内位置を補測定するためのジャイロスコープ。
……信じられない。こんな残酷なことをする人間がいるのか。
それはタイムリープマシンだった。
ただし脳の神経パルスを測定する、送信機だけを取り出した、タイムリープマシンのごく一部のみ。
それでも――神経パルスをVR技術で電波にして、誰か別の人に向けて飛ばすことくらいはできるはずだ。
「あなたの発明はじつに偉大だよ、ミス牧瀬。誰もが見落としているようだが、その記憶のデータ化・復号システムは、タイムマシン自体に勝るとも劣らない大発明だ。なにしろ人の記憶をデータ化して取り出し、好きなときに戻せるのだからね。じつに偉大な発明だ――そう、殺人兵器としてね」
――こいつ。
本当に、岡部がかつて別の世界線で出会った、天王寺綯か?
残酷だ。
こいつは残酷すぎる。
「目覚まし時計に脳波なんてない。あるのはただの単純な電子回路、つまり巨大なノイズでしかない――こんな、ただの雑音を、無意味なノイズでを、岡部の脳に、入れたのか……!」
目覚まし時計は笑っていた。
「オキロー。オキロー。アサダゾー。オキロー。オキロー。チコクスルゾー。オキロー。オキロー。アサダゾー。オキロー。オキロー。チコクスルゾー」
電極のあいだで、目覚まし時計はプログラムで決められた言葉を繰り返し続ける。
とうぜん、人の脳の微妙な電流など期待できない。そこにあるのはごくごく単純なコンピュータ回路だけ。脳とは似ても似つかない。
落下の衝撃でどこか壊れたのか、目覚まし時計は満面の笑顔でノイズだらけのセリフを再生し続ける。
「オキロー。オキキローオキローキロー。チコクスス、チコココクススススススルルゾオオオオオオオオオオアオアアアアアアアアアアアーオキキキキ、キゾゾオゾオオオアオオアオオオオアアーーーーー」
ぞっとする。
岡部の記憶に、今、こいつが上書きされたのだ。
狂った目覚まし時計。
人間ですら、動物ですらない、ただの単純電子回路――。

わたしの中の正しい感情が、さあっと駆逐されていくのが分かった。
岡部の昏倒。恐怖。今の状態についていけない恐れ。正体不明の敵。
そんな些細な感情は、わたしの中に芽生えた新たな感情に、なぎ払われて消滅してしまった。
それは怒りではなかった。それは悲しみではなかった。
わたしを駆動する新たな感情は。
はっきりと、憎悪。

お前が、岡部の心を、殺したのか――!

わたしは岡部をそっと横たえて立ち上がる。
小娘みたいに泣きじゃくっていては、こいつに勝てない。
天王寺綯を睨みつける。
「目的は何?」
「ほほう。てっきり泣いて命乞いをするかと思ったが、なるほどさすがは『タイムマシンの母』だ。肝が据わっている」
「その呼び名を知っているということは、やはりあなたは、未来から――」
「そう。アタシは天王寺綯。自己紹介は必要ないな? ただしアタシは、2036年の未来からタイムリープしてきた。未来のミスター岡部からタイムマシンの研究データを奪ってね」
「こんなことをして、あなた、何がしたいの? 岡部を憎んでるの? 岡部を殺したいんだったら――」
「違うよ。アタシはね、ただ貴女に本気を出してもらいたいだけだ、『タイムマシンの母』、ミス牧瀬。そして本気の貴女を倒し、アタシが真の時間の支配者になる」
「何を――」
何をいっているんだ、こいつは。
分からない。
分からないが、それならそれで、やりようはいくらでもある。
まずは、揺さぶること。そして相手から情報を引き出す。
「分かったわ――降参する。あなたに従う。あなたにはかなわない。あなたが真の時間の支配者よ」
わたしは両手を上げ、抵抗を諦めた――ふりをする。
タイムリープの最も有効な活用法は、1回目で情報を収集して2回目で行動する、というコンボだ。
ここではとにかく下手に出て相手から可能な限りの情報を引き出し、後でタイムリープして、さっきの着信を阻止するべき。
わたしの左脳が自動的に策略を練り続ける。
だが。
「ふふ、下手に出て油断させておき、タイムリープして先ほどの着信を“なかったこと”にするつもりだね、ミス牧瀬? 短時間でおそるべき頭の回転の早さだ――と言いたいが、残念、無駄だよ。ミスター岡部の記憶死は『二次世界線結節』と呼ばれる手法で、キャンセルできないようにしてある。何度繰り返しても、彼は着信に出てしまうだろう」
――読まれている。
この敵は、強い。
岡部も経験したことのない、タイムリーパーとの戦い。
わたしたちも知らないタイムリープ、そしてアトラクタフィールド収束を熟知しているだろう。
危険な戦いだ。考えるまでもなく。
岡部を見る。
目は開いている。
まばたきもある。
自発呼吸もある。
けど魂は、あの岡部の魂はもう、ここにはいない――
わたしを消すまいと必死に方法を探した岡部。
照れながらも最後のデートにつきあってくれた岡部。
その岡部は、もういない。
ならば、絶望は後にとっておけ。
脳の回転速度を最大にしろ。
相手の言葉の裏を読め。
戦いはもう、はじまっている――
「二次世界線結節とは、何?」
「簡単に言えば、世界線の収束を人工的に起こす方法、かな。普通、世界戦が収束を起こすのは、人の死や大災害といった、世界に与える影響の大きいものだけだ。だが、小さな出来事もこの方法を使えば、収束によりキャンセル不可能にできる。言い換えれば『イベントを世界に固定する』ことができる」
「その、固定する方法は?」
「知りたいかい?」
天王寺綯は、にいっと笑った。
優越者の邪悪な笑み。
「教えて、あげない」
――くっ。
抑えろ、怒るな。冷静に頭を回転させろ。敵が情報のうえで優位なのは仕方がないことだ。
「ではわたしをすぐに殺さない理由は?」
「いい質問だ。その質問が来なかったら、貴女との対決も退屈になるところだった」
天王寺綯は両手を広げる。夜空を手中に抱く、時間の支配者のように。
「ゲームをするためだ」
「……ゲーム?」
「そう、貴女とアタシの、知性を競うゲームだ。設問者はアタシ。回答者は貴女。賭け金は岡部倫太郎の生命。ゲームの内容は、簡単。岡部倫太郎のケータイに、3人の人間が非通知電話をかけた。電話の内容はご存知の通りの、記憶を破壊するノイズメモリー。この3人を見つけ出し、ノイズメモリーの送信を阻止できれば、貴女の勝ち。ミスター岡部の記憶破壊は“なかったこと”になり、貴女は彼に再会できる」
どうやって――と言いかけて、すぐにその方法に気づく。
「つまり、タイムマシンの使用を、認めるということね」
「もちろん。だがこのアタシに、ちゃちな『やり直し』が通じると思うな」
天王寺綯は、王侯貴族のように両手を広げた。
「ノイズメモリーを送った3人を『送信者』としようか。『送信者』は、同じ時間――8月14日の午後19時18分に、ノイズメモリーを送信するよう指示している。だが同時に、作戦中止の合図も伝えてある――そうだな。中止指示の言葉は何でもいいのだが、岡部倫太郎の言葉にあやかって、こうしよう。『エル・プサイ・コングルゥ』というメールが来たら、作戦は中止。こう伝えよう。なに、今からタイムリープで、アタシが伝えてくる」
なんて人を食った奴だ。
吐き気すら覚える。
「――あなたが、本当にそれを3人の送信者に伝えるという、保証は?」
「おいおい、信用しろ。不正はしない。そんなことをしては、ゲームが楽しくなくなる」
「あなたは岡部をこんな風にした。そんな奴のことを信用しろというの?」
「騙すつもりなら、ミス牧瀬、はじめから貴女も殺している。貴女だけ生かしたのは、本気の貴女と、ゲームを楽しみたいからだ。……まあ、信じなくても、それはそれで結構。ほかにミスター岡部を助ける方法がなくなるだけだ」
くそ、やっぱり最後はそこか。
こいつの言うことは正しい。結局今のわたしの立場では、こいつの言うことを信じるしかない。
天王寺綯の言うことを総合すると、3人を見つけ出して、メールアドレスを聞き出せれば、わたしの勝ちってことか。
――もちろん、無条件に奴の言葉を信じるつもりは、全くない。
どこかで裏をかく。ゲームのルールの『外』に出てやる。
そのチャンスを見つけるまでは、ゲームに乗ったフリをする。
「必要なことは聞いたか? 聞いたな。では、健闘を祈る。ちなみにこの時間に再度タイムリープし、もう一度アタシと話そうとしても無駄だ。この時間ここにアタシが現れるのは、この世界の一度きり。そして最後に、ブラウン管工房の42型テレビの裏に、いいものを置いておいた。挑戦者への、ちょっとしたプレゼントだ。探してみたまえ」
「まっ……待って! なぜゲームなの、なぜわたしなの? あなたは一体、何をしたいの?」
「それもまた、ゲームの一部だ。自ら答えを出したまえ。――アタシは天王寺綯であって、天王寺綯でないもの。SERNであってSERNでないもの。アタシは時の支配者。この世界線の王。アタシはタイムパラドックスの中に棲むもの。“タイムマスター”。……それではお嬢さん、御機嫌よう」
そう言うと、天王寺綯は金網のフェンスの上で、大きく手を広げた。
その体がゆっくり傾き、後方に体重がかかって、そのまま、下に――
落ちた。
「なっ……!」
慌てて駆け寄る。
金網越しに、天王寺綯が落ちていった先を見る。
――ここはビルの屋上。そして天王寺綯が落ちていったのは、はるか下の地面まで、なにもない空間。
自殺――!?
そう思って下を見下ろしてみたけど、ビルの下には、何かが落ちた形跡はない。
地面を歩く人たちが驚いている様子もない。
途中の7階とか6階にうまく着地したのか、それとも――
『時の支配者、この世界線の王』――
わたしは急に寒気を感じて、震えた。
冷たく青白い月光の下には、破壊された屋上と、わたしと、もの言わぬ岡部。


それから岡部を背負ってラボまで帰った。
岡部の体は死体のように重かった。
岡部を背負って帰る途中、わたしは急に何もかもが悲しくなって、何度も泣いた。


†  †  †


ラボには、誰もいなかった。
ひとけの絶えたラボに、植木鉢の下に隠してある鍵を使って、勝手に入る。
大通りから離れているせいで、夜になればこのあたりは誰も通らない。車の音もしない。遠くのほうで、ビルに反響してくもった列車の走行音が、がたんがたん、がたんがたん、と通り過ぎていく。
誰もいなかった。わたしは、ひとりだった。
苦労して岡部の体をラボのシャワー室に押し込んだ。シャワー室の扉の外からガムテープで目張りし開かないようにしてから、『故障中。危険、開けるべからず。紅莉栖』という張り紙をした。
そこまでの作業を終えると、わたしはずるずると、壁にもたれたまま座り込んでしまった。
もう二度と、立ち上がれる気がしなかった。
ここまで岡部の体を背負って歩いてきた体は熱を持っていて、思い通りに動かなくなっていた。
ズタズタだ。
それ以上に心がやられていた。
頭がしびれて、思うようにはたらかない。
天王寺綯に対する憎悪はあったけど、それより心が疲れきってしまっていた。
このまま眠って、何日もだらだらと過ごしてしまおうか、と少しだけ考える。
それはそう悪くない考えのような気がした。
岡部は記憶死してしまった。敵の正体はまったく分からないけど、とにかくここから事態が悪化することは考えにくい。
時間はあるのだ。
なにしろわたしには、タイムリープマシンがある。同じ日を『繰り返す』ことを厭わなければ、行動時間は無限にあるのだ。もう何日か休息して、それから『今』に戻って、やり直したっていい。
いろんなことがありすぎて、疲れてしまった。
少しだけ、休みたい――。
さっきの反動からなのか、わたしの頭は完全にはたらくことを忘れていた。
脳が熱を持っている。
いいじゃないか。わたしは結構がんばった。たぶんこれから、また戦わなくてはならないのだ。少しくらい、休んだって、いいじゃないか――。
わたしは目を閉じた。
ラボの窓からはいってくる青い月光が、まぶたに影を落とした。
わたしは――そのまま――眠って――

ケータイが鳴った。
わたしは驚いて跳ね起きる。
いつも使っているわたしのケータイが、着信を告げている。電話だ。
すわ非通知か、と身構えたけど、ディスプレイを見ると『椎名まゆり』の文字。
それでもおそるおそる、電話に出る。
「――もしもし?」
「あー、クリスちゃん。こんばんは。トゥットゥルー☆」
「ど、どうしたの? こんな遅くに」
「あのねえ、クリスちゃん、今、ラボにいる?」
一瞬、どきりとする。まゆりもラボにいるのか? この近くにいるのか?
「え……ええ。いるけど。それがどうかした?」
「……あのねー、まゆしぃね、今家にいるんだけどね。ラボに、忘れものをしてきちゃったかもしれないのです。昨日まで作ってたコス衣装のね、ボタンが今みると、ひとつ足りなくてー。ひょっとして、ラボのソファのあたりに、落ちてないかな?」
「待って。探すわ」
疲れた体をひきずって、なんとか立ち上がる。
暗くて探しにくい。電気をつけなくちゃ。
「まゆり。なくしたボタンって、どんな形?」
「あ、えーっとね……うーんとね……」
と、そこでなぜか言いよどむまゆり。
「うーん、丸いやつ、だったかな……?」
「色は?」
「えーとね、たぶん……白っぽかったかな」
まゆりの曖昧な記憶をもとに、コスプレのボタンとやらを探す。
床に転がった未来ガジェット(別名ガラクタ)をどかしたり、ソファをひっくり返したりして探したけど、どうもまゆりの言うボタンは見つからない。
「ごめんなさいまゆり、見つからないみたい」
「…………」
電話口の向こうで沈黙するまゆり。
ありゃ、黙っちゃった。大事なボタンだったのかな。
「……あのね」
まゆりの、消えそうな声。
そこでようやく、まゆりの声がいつになく沈んでいることに気がつく。
「……あのね、クリスちゃん。死ぬ夢とかって――見たこと、ある?」
死ぬ、夢?
「あのね……いまね、わたし、怖い夢を、みたんだ。それで起きたの。夜のビルのね、屋上から、どんって、突き落とされるの。それでね、地面にばあん! って叩きつけられるショックでね……目が、覚めたの……」
今度こそ本当に、心臓が跳ねた。
ひやりとした感触が背中に走る。
まゆりは今までの世界線の記憶を、おぼろげに覚えているかもしれない、と岡部は言っていた。
けれど岡部の教えてくれたまゆりの死のバリエーションに、今の話――『ビルから突き落とされる』というパターンは、ない。
岡部が言い忘れていただけなのか、それとも――
「ごめんね……クリスちゃん。あのね、ボタンを忘れたっていうのはね、嘘なの。オカリンに電話したんだけど、出ないんだ……。ねえ、オカリンどうしてるの? クリスちゃん、知らない?」
「……………………………………………………知らないわ」
嘘をつくのに、全身のエネルギーを使わなくてはならなかった。
まゆりは、そっかー、とため息をついた。
「ねえクリスちゃん、死ぬって……まゆしぃが夢で見たような感じ、なのかなー。クリスちゃん、脳とか、そのあたりの研究してるんだよね。聞いたこと、ない?」
「…………」
死ぬということ。
消えてなくなるということ。
脳科学の分野に、臨死体験を扱った研究ジャンルが、ないわけではない。
けれど死んだときそのものの感覚質(クオリア)について、なにか実定的な実験に成功した研究は、存在しない。
『死ぬ』ということに関して、人間の科学は、驚くほどなにも分かっていない。
――そんな研究があったら、わたしの心もどれだけ楽だったか。
わたしは死ぬことについて、なにも知らない。一度も死んだことがないからだ。
でもわたしはこんなにも、死をこわがっている。
そして、まゆりも――
「ねえクリスちゃん」
「なに?」
「わたし、もうすぐ死ぬのかな」
「……っ!?」
驚いた。
言葉が出ない。
確かにまゆりは、3日後に死ぬ。
まゆりが死を予知している? この世界で、あと3日で自分が死ぬことを、何らかの方法で――察知している?

――世界線移動には、『遠距離』と『近距離』がある。
『近距離』の場合であれば、すべての人は“リーディング・シュタイナー”の能力があるかのように記憶を保持できる。

わたしの頭のなかで、いくつもの仮説が組み立てられていく。
もしかして――だとすると――

「まゆり……落ち着いて、聞いて」
「……どうしたの?」
「いい? これからわたしが話すのは、ぜんぶ本当の話。難しいから詳しくははぶくけど、科学的にちゃんと立証された、正しい答え。だから、信用して。――まゆりは、死なない。夢で見たようにビルから突き落とされて死ぬことは、絶対にない。わたしがそうさせないから。いいわね?」
「…………」
まゆりは、電話口のむこうで、数秒のあいだ、黙っていた。
「……うん。わかった。科学的に立証、されてるんだ。クリスちゃんが言うなら、間違いないね。……えへへ、わかった。信じる」
「なにも心配いらないわ。それじゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ、クリスちゃん。トゥットゥルー☆」
電話は切れた。
わたしは座り込む。
…………。
……やはり、立ち止まれない。
わたしは、ついさっきまで、電話に出る前に自分が考えていたことを思い出していた。
――何日かぼーっと過ごしてから、タイムリープで戻ってやりなおせばいい。これ以上事態は悪くならないんだから、休んだっていい。
「馬鹿か、わたしは?」
ひとり声に出して言ってみる。
「お前は救いようのないアホだな、牧瀬紅莉栖」
自分を罵倒する。ほんとうに、大馬鹿としか思えない。
相手はタイムリーパーなのだ。それもこちらよりずっと経験豊富な。こちらが時間を一度跳ぶたびに、なにを仕掛けてくるか分からないのだ。
それなの――ぼーっとしてればいいか、だって?
まゆりの、命が、かかっているのに?
そう、冷静に考えれば、今回のタイムリープは「ここぞ」という時にしか使えないのだ。かなりのリスクを伴う。
簡単に言えば――たとえば今、わたしのケータイに非通知着信がかかってきたとき、わたしはその電話を受ける勇気があるか? ということだ。
考えるまでもない、無理だ。危険すぎる。
非通知は、非通知ゆえに、それが未来のわたしからのタイムリープなのか、それともノイズメモリーが乗った罠着信なのか、区別がつかない。
だとすれば、このまま何も考えずタイムリープをかけても、おそらく過去のわたしは着信を取らないだろう。
そしてタイムリープマシンを完成させるよりも前、非通知に対して無防備なわたしに電話をかけようとしても、成功する可能性は微妙だ。ふつう、わたしは非通知着信は取らないようにしている。失敗する可能性が高い。
おそらく相手はそれを見越して、岡部にあんなアタックをかけたのだ。こちらの行動を縛るために。
計算されつくしている。
「一筋縄じゃ……いかない、相手か」
だが、だとすれば。
だとすればなおさら、この『1回目』の今日を、無駄に過ごすわけにはいかない。
もちろん相手の策の裏をかいてタイムリープする方法は探すつもりだ。けど理想は、タイムリープなしでこの勝負に勝つこと。
なにしろ、この勝負には岡部とまゆり、ふたりの命がかかっている。
まゆりを助けるには、岡部をもとにもどす必要がある。
まゆりが生きる世界線までちゃんと跳べるのは、岡部しかいないからだ。
そして岡部しか、SERNの攻撃の裏をかける人間はいない。
――ひとつ、迷いがあるとすれば。
岡部は、わたしを『殺す』決意を、すでに固めている。
――つまり、これからわたしがやろうとしていることは、わたしを殺す手助けをすることだ。
死ぬ。
死ぬ。
死ぬ。
死の影。暗闇からわたしの心の奥までじっと覗きこむ、命なきものたちの王。
――それでも。
わたしは、やらなくてはならない。
無理矢理、自分にそう言い聞かす。
岡部が必死にもがいて出した結論なのだ。わたしがそれを裏切って、どうする?

いつか岡部がたとえ話をしていたのを思い出す。
タイムリープをゲームにたとえると、それはまるでリセットボタンを押して同じ時間を繰り返すようなものだ、と。
ゲームでは、都合の悪いことが起これば、リセットしてセーブポイントからやり直すことができる。
普通のテレビゲームだったら昔いくつかやった。岡部のたとえは、うなずけるところがある。
都合の悪いことが起こってリセットをかけると、そこまでの経験や入手アイテム、まわりの人々の記憶は消えるけど、プレイヤーの記憶だけは消えない。経験として残る。だからもう一度やりなおすときには、さっきの都合の悪い出来事を回避するように、より良い選択をとることができる。岡部のタイムリープは、それに似ている。
けど――そのたとえ話を聞きながら、わたしはそのとき一人、考えていた。
そのたとえでいけば、岡部、あんたが死んだとき、世界はどうなるの――?

もしこれがゲームだったら、プレイヤーが死ねば、ゲームオーバーになる。そしてセーブしたところからやり直しだ。
では、このタイムリープシステムの中で、岡部が死ねば? 時間をもどしてやりなおすことは、できるのか?
――わからない。だけど、できないとも言い切れない。
なぜなら、岡部以外の誰かが、時間を巻き戻して、岡部の死を回避すればいいからだ。
――誰か? ちがう。
誰かじゃない。
もちろんそれは、わたしだ。

プレイヤーは岡部。リセットボタンはタイムリープマシン。そして、ゲームオーバーになった岡部を、セーブポイントまで戻す役割、それがわたし。
もしわたしという機能――『セーブポイントまで岡部を戻す』機能が正しく機能するなら、もはや岡部は神に等しい。勝てない敵なんて存在しない、無敵だ。なぜなら、死んでもやり直すことができるのだから。ゲームが必ずいつかクリアできるように、岡部もいつかは必ず目的を達成できる。
――やってやろうじゃない。
わたしは立ち上がった。気づけば疲れはどこかに飛んでいた。

馬鹿らしいが、わたしがこれからする仕事を一言で言うのなら、こういうことになる――
岡部を神にするだけの簡単なお仕事。


†  †  †


とはいえ、やっておく価値のあるタイムリープが、ひとつだけあった。
着信拒否の心配がなく、確実にタイムリープできる時間。そして岡部の死が最も回避できる可能性の高い時間。ここにピンポイントで跳ぶ。これは今後の作戦を決めるうえで、どうしてもやっておかなければならない跳躍だった。
その時間とは――ふたりがラジ館の屋上にのぼってから、岡部がノイズメモリー着信で記憶死を起こす前の、数十分のあいだ。
ここにわたしの記憶を飛ばす。
この時間ならわたしは非通知を見ても、罠とは思わないはず。
そしてタイムリープ着信だと気がついて、確実に電話を受けてくれるはずだ。
タイムリープを慎重にする意味もこめて、わたしはこれを『ファーストリープ』と呼ぶことにした。
「でも……」
正直言って、この『ファーストリープ』で岡部を助け出せないはず、ないんだよな。
論理的に考えて、失敗なんてありえない。
『ファーストリープ』でやることは、非常に明確だ。
――タイムリープしたら、岡部のケータイを奪って、壊す。
これだけ。
岡部に「タイムリープについて重要なチェックをするから、ケータイを見せて」といえば、岡部は必ず応じてくれるだろう。それを岡部が拒否するとは思えない。
そしたら、岡部が何かするより早く、おもいっきり叩き折る。
あるいは数時間じゃ見つけ出せないくらい遠くに投げたっていい。ビルの屋上だ、それはそれは遠くに飛んでくれるだろう。
岡部は怒るだろうけど、そこは粘り強く説得する。仮に説得が失敗しても、岡部が無事ならそれでいい。
『世界線の収束がはたらいて、どうしても岡部がケータイを渡してくれない』『収束のせいで、投げようとしても失敗する』――そんなことが、ありうるだろうか?
ないとわたしは思う。
人の死とは違う。
そもそも、『岡部が記憶死する』という事実に、世界線の事象収束が起こるはずがないのだ。
アトラクタフィールドが確定させているのは岡部が死ぬ日だけ。
死ぬまでの過程、人生は確定していない。
死ぬまでのあいだ、楽しく過ごそうと、意識不明のまま過ごそうと、世界からすればどっちだっていい。
つまり岡部の記憶死は、経由してもしなくてもいい、世界からすればどうでもいい一経過事象のはず。
その証拠に、岡部のこのひとつ前の世界線では、8日の午後19時18分にノイズメモリー攻撃を受けていない。
『前回の世界線ではノイズメモリーを受けておらず、今回の世界線では受けた』――これが意味することはひとつ。ノイズメモリーの受信有無は、いわゆる『近距離』の事象なのだ。人の死や大規模災害のような、不可避の事象ではない。世界からすれば、あってもなくてもいいことなのだ。だから岡部の記憶死は、回避可能。
これまでの話を一言でまとめると、こうだ――『ファーストリープは必ず成功し、岡部の記憶死をかなり高い確率で回避できる』。
もちろん、失敗するかもしれないという懸念はある。懸念のいちばんの理由は、“タイムマスター”天王寺綯のあの自信だ。
こんな簡単な策を、彼女が見落とすはずがない。
岡部を助けるのにタイムリープを使っていいなら、誰だって岡部の死を直接回避するに決まっている。
だけど、天王寺綯にも手落ちはある。
それは純粋数学論的問題だ。天王寺綯がすべての世界線に対策を施せるかというと、答えは『不可能』である。なにしろ世界線は無限にあるのだ。比喩ではなく、本当に数字上の無限。そのすべてに対策を施すには、文字通り無限の時間が必要になる。当然、人の手でできることではない。
だから、希望もあった。勝算もあった。
軍師は、勝てない敵になんとか勝つ策を見つける人のことを言うのではない。そんな軍師は二流だ。一流の軍師は、最小コスト、最小リスクで敵を100パーセント確実に倒す、そういう策を多数そろえることができる人間だ。
そういう意味で、わたしの考えた策は、最も理想の一手に近かった。
――だが。


†  †  †


結局わたしが『跳んだ』のは、もろもろの事前準備や情報収集を終えた、次の日の昼だった。
タイムリープ機能のついた『電話レンジ(仮)』の使用法を、あらためて確認しておいた。ついでに『スーパーハカー』こと橋田をラボに呼びつけて、X68000の転送プログラム設定について簡単にレクチャーしてもらった。
今後タイムリープマシンにどういう改造が必要になるか分からない。そのために、ひとりで転送プログラムをいじれるようにしておきたかった。幸い、アメリカの研究室で簡単な実験プログラムを組む経験はあった。すでにほとんど組みあがっているシステムを改造するくらいなら、わたしひとりでも何とかできるだろう。
「ほんとにタイムリープするん? オカリンも連絡つかんし、いきなり本番で大丈夫?」
「ええ。自分で組んだシステムだから、自信はあるわ」
いぶかしむ橋田には『自分の組んだシステムをテストする必要があるから』と作り話をしておいて、強引にタイムリープに協力してもらった。
時間は8日の午後19時08分。岡部にノイズメモリー着信がある、10分前だ。
ヘッドギアをかぶる。胸の前で小さく十時を切った。
――大丈夫。岡部は何千回も成功しているし、わたしも一度体験した。問題は、タイムリープした後で、うまく岡部の記憶死を回避できるか、だ。
わたしには祈る神様はいなかった。
だからそのかわり、今いちばん神様に近い男に、祈った。
――お願い、うまく飛ばさせて。
青い放電が電話レンジ(仮)から放たれはじめる。
空気が振動する。重力が裏返る。世界が吹き飛ぶ。猛烈に暴れ狂う黒い紫電ののなかに、わたしは、飛び込んでいく――

――ぁぁぁぁあぁああああああああああっ!?
脳が衝撃に揺さぶられる。
今は過去で未来は今で明日は昨日で宇宙の始まりがこの瞬間この時で――!?
海馬が、ウェルニッケ野が、視床下部が痙攣する。脳脊髄液が沸騰する。大脳皮質がめくれかえり意味が消失し体勢感覚が切り刻まれ扁桃体が腐り落ちる――!?
ああ、ああああ、ああああああ。
――あ、ああ。
世界の振動が、おさまっていく。
わたしは肺の中にたまっていた空気を、吐き出した。
衝撃がおさまると、そこは、あの時と同じラジ館の屋上。
ビル群の奥に消えた夕暮れ。薄暮が夜空の一隅をオレンジに染めている。青と紫とオレンジに染められた空の下。
逢魔が刻。
「――だ、大丈夫か、クリスティーナよ?」
その声に、一瞬、びくりとする。
驚いたからじゃない。
嬉しかったからだ。
もちろん――分かってた。この時間に来るということは、もう一度、
もう一度、岡部に会えるということ――

「あ――お、岡部」
「クリスティーナ、今の着信は何だったのだ? まさかお前、お前もタイムリープを」
「岡部、おねが、いがあるの」
タイムリープの影響で足がふらつく。でも今は強引に無視する。
「ほんもののお願い。真剣なお願いよ。もし聞いてもらえるなら、わたしは何だってする。岡部がしてほしいことなら、なんだってしてあげる。だから、ね、お願い。ひとつだけ、聞いてほしいことがあるの」
「な、何だ、どうした、真剣な顔をして」
「携帯電話を、渡して」
「な――」
さすがの岡部も絶句したようだ。
それはそうだろう。今の岡部にとってケータイは生命線。タイムリープの根幹を支えるとても貴重なツールだ。一瞬とはいえ、手放すなんて論外。別の世界線でわたしが『絶対にケータイを手放すな』と言ったそうだけど、それも効いているはず。
もしその理屈でケータイを手放すことを拒否されたら――世界線が前回と同じように、岡部が着信を取るという事実に収束したら――
ここが一番の難点。立ちはだかる世界の収束意志。でも、ここさえクリアすれば。
「お願い。説明はきちんとする。でも時間がないの。このままだと、大変なことが起こる。あなたにとっても、世界にとっても。そして――まゆりにとっても」
「ま、まゆり!?」
岡部の顔色が変わった。やっぱりまゆりの名前が出ると、岡部は反応が違う。
それはつまり――そういうことなんだろう。
まゆり。岡部の中で唯一の存在。助けなくてはならない存在。
わたしの心が、一瞬だけ、揺れる。
――今はそんなこと考えてる場合じゃない。
「ぜんぶ説明するから、お願い。時間がない。手遅れになる前に、早くケータイを、わたしに渡して!」
岡部の表情が、緊張に固まる。
すぐには選択できないんだ。少し考える時間がほしいと、その顔は語っている。
「お願い、考えてる時間の余裕はないの。――お願い、岡部――」
「……まゆりを、助けるために必要なんだな?」
「そうよ! お願い!」
「……お前の言うことに間違いなんてあるはずない。もちろん、渡すよ」
岡部は神妙な面持ちでうなずいた。
「ありがとう……助かる」
岡部が白衣のポケットからケータイを取り出す。クリムゾンレッドのストレート型ケータイ。
それをわたしのほうに向かって差し出す。
これを受け取れば、受け取りさえすれば、すべてが――
わたしは一瞬が惜しくて、待っていられずに駆け出した。
岡部のケータイを、わたしは、受け取らなくては――
あと3メートル。
2メートル。
1メートル。
わたしは、岡部の、ケータイを、

受け取った。

同時に、後頭部に衝撃。
「っあ……!?」
足がもつれ、屋上のタイルに倒れる。顎に衝撃が走って、まぶたに星が散る。
視界がぐらぐら揺れている。
同時に、手にも衝撃。握っていたケータイが手を離れ、タイルを転がっていく。
けっ……ケータイが……っ!
岡部のケータイは3メートルほど滑っていって、フェンスの金網に当たって止まった。
ケータイを……拾わ、いや、捨てなくちゃ……!
わたしは何とか立ち上がろうともがく。けど、わたしの背中に、何か重いものが乗った。
「あぶねえあぶねえ。ホントにケータイ受け取ろうとしやがったよ、このアマ」
知らない男の声がする。若い男だ。
「悪いけどそのケータイを受け取らせるわけにはいかないんだよなあ。そういう依頼だからね。まさかホントにそうなるとは思わなかったがな。エスパーか? あの依頼人」
わたしは男の声を無視して立ち上がろうとする。
「おっと、動くな。肋骨を踏み折るぞ」
「っ……ぐ、っ!」
背中の重みが増す。肺から空気が押し出される。焼けるような背中の痛みが強くなる。
ようやく現状を理解した――わたしの背中に、男の足が乗っていて、体重をかけられているのだ。
「きっ、貴様……何者だ! 紅莉栖から足をどけろ!」
「すまないね白衣のニイチャン。自慢のカノジョに痛い思いをさせちまって。でもこれも仕事なんだ、仕事。カノジョがニイチャンのケータイを受け取ったりしない限り、オレだってこんな手荒な真似、したくねーんだけどよ」
言葉とは裏腹に、へらへらと楽しそうな男の声。
「まあそんなわけで? カノジョがケータイを受け取らないように、そこのドアの影から見張ってた、ってワケ。覗き趣味? まあ固いこと言うなよニイチャン、かはははは」
「紅莉栖から、足を離せ! 貴様、ただでは済まんぞ」
「やれるもんなら、やってみな、っと」
わたしの顔の横で、ざく、と嫌な音がした。
「大事な彼女のカオに傷つけてもいいってんならな。ほら男みせてみな、カッコいいぜ、ニイチャン」
「くっ……!」
わたしの顔の横に刺さったのは、ナイフ。
映画で軍隊が使っているのを見たことがある。幅広で、刃渡りは20センチほどはある。刺さったら痛そうどころか、場所が悪ければ死ぬ可能性もありそうだ。
「貴様……許さんぞ」
「おお、こえーこえー。で、どうする? カノジョの顔にナイフがぶっ刺さるとこ、見たい?」
「くっ……!」

そのとき。
着信が鳴った。

「っ……!?」
「おっと、電話だぜ。ニイチャンのケータイだ。……出な」
タイルの上に転がっている岡部のケータイが、着信を告げている。
来てしまった。
「駄目、岡部、出ちゃ駄目!」
わたしは踏みつけられた足に構わず叫んだ。
「絶対に出ちゃ駄目、それは罠よ! タイムリープを装った、敵の、罠……っ」
「うるせえぞアマ。囀るな」
背中にかけられた体重が重みを増す。
圧力で、背骨と肋骨がぎしぎしと軋む。
「死にさえしなきゃ何してもいいって言われてんだよ。大事なカノジョの指ぜんぶ切り落としてから、無理矢理電話に出させてもいいんだぜ?」
「駄目っ……絶対に、わたしは、どうなっても、いい、から、着信に、出ちゃ、だめ……っ、ごほっ」
「やめろ! 紅莉栖から足をどけろ!」
「どけてやるよ。あんたが電話に出りゃあな」
肺が痛い。
骨が折れそうだ。
内臓が悲鳴をあげている。
でも、そんなの、関係ないから無視だ。
このままじゃあ……収束、してしまう! 同じことの、繰り返しだ!
情報を、少しでも情報を! 岡部を思いとどまらせなくちゃ!
「その電話は……記憶を破壊する、ごほっ、ノイズ着信、わたしはそれを、取らせないために、タイムリープをして、っ」
「うるせえ、黙れと言ってる」
首筋に冷たい痛み。
「っ!」
「一言も喋るんじゃねえ。喋ったら、耳、切り落とすぞ」
冷たい刺激は痛みに変わり、左の耳を痺れさせる。
ナイフの先端を数ミリ、耳の付け根に差し込まれたようだ。
目の横を、つーっと、血の筋が流れていく。
痛い、痛い、痛い――
――でも痛みとか関係ない!
「おね、が、岡部……どうせ、どうせわたしは、もうすぐ消える、いなくなるからっ」
そう。どうせわたしは、もうすぐ消える。
岡部に消される。
岡部は一度、その決断をしたんだから――ここでわたしを見捨てることだって、できるはず――!
「あーあー、すげえカノジョだな。こんだけ言ってもまだ喋るか。しゃあねえ。気は進まねえけど」
男はナイフをしまい、別の何かを取り出す。
耳元にさっきより大きくて冷たい、何か重いものの感触。
それは大きくて重い、プロの大工さんが使うような、大ぶりな――ハンマー。
「依頼人のガキが言ってたんだわ。何でもあんた、殺そうとしても殺せねえんだと。だが、耳の上の頭蓋骨と脳をハンマーで叩き割ると、たとえ死ななくても、二度とタイムリープとかを送信することも受信することもできなくなる、って言ってたぜ。……まあ何のことかサッパだけど」
ぞっとした。
ハンマーで、頭蓋骨と脳を、何だって?
確かにわたしが死ぬ日はもっと未来と決まってるから、今日は何をされても死なないだろう。
そして確かに脳の海馬辺縁を破壊されれば、死ななかったとしてもタイムリープを二度と使えないだろう。
「やっ、やめろ……待て!」
岡部が叫ぶ。
「頼む、ケータイは取る! 電話にも出る! だからやめてくれ、紅莉栖を傷つけるのは、やめてくれ……!」
わたしの胸がしめつけられる。
ああ、岡部。わたしを助けようと必死な岡部。
でも駄目なんだ。わたしを助けるなんて選択、しちゃ駄目なんだ。
生きているべきは岡部。岡部じゃないと、世界は救えない。まゆりは救えない。
たとえ、そう、たとえ、わたしの頭蓋骨が砕かれて……わたしのこの脳みそがぐちゃぐちゃに潰れたって……わたしは、もうすぐ死ぬ人間、だからここで、何をされたっていい、たとえ……頭を、叩き割られたって……!
叩き割られたって……!
血。
脳漿。
まきちらされる肉と骨と臓物の幻臭。
「ごめ……ごめん岡部」
わたしは震える声で言った。
声が震えていた。手も震えていた。膝も震えていた。体全体が震えていた。
言ってはいけない台詞。
――ああ。
「ごめんね、岡部……」
怖い。
怖い。
脳を叩き潰されて、生きていられるはずがない。
いや、わたしが死ぬ日はもっと未来だから、脳を叩き潰されたって死ぬことはない。だけど、頭をそれだけ徹底的に破壊されれば、タイムリープができないどころか、意識不明の脳死は確実だ。
これからわたしは少なくとも2036年まで、誰にも顧みられることなく、意識不明のまま、ただ死ぬのを、待ち続けることになる。
死ぬ。
脳をめちゃくちゃに破壊されて、緩慢に、死ぬ――
世界が真っ暗になる。いつもは光に追われて隠れていた闇が、わたしの心の中に巣くう『死』の恐怖が、ずるずると這い出してきて、わたしの心を陵辱する――
『死』がわたしに語りかける。優しい声で。
――死ぬのは怖いか? ――死ぬのは怖いか? ――死ぬのは怖いか? ――死ぬのは怖いか? ――死ぬのは怖いか? ――死ぬのは怖いか? ――死ぬのは怖いか? ――死ぬのは怖いか? ――死ぬのは怖いか? ――死ぬのは怖いか? 
「ごめん、岡部……」
わたしは泣いていた。
「ごめん岡部……たす……けて……」
岡部はうなずく。
ぜんぶわかったから、何も言うな、というように。
「心配するな紅莉栖。心配いらない。何も心配いらないから」
岡部は落ちていたケータイを拾い上げる。その画面には非通知着信の文字。
岡部はひとつ深呼吸をして、わたしを見た。
その目は、どこまでも優しげで。
「大丈夫だからな、紅莉栖。俺がぜんぶ、なんとかするから」
そして岡部は通話ボタンを押して、
「もしもし」
電話に出た。
そして。

「…………」
無表情のまま、手足をばたつかせることすらなく、ゆっくり、倒れた。

「……っ!!!」
そんな……
そんな……っ
ひどい、こんなのひどい、最低じゃないか……!

頭の中を激情が暴れまわる。
なんて、なんて最低なんだ、わたしは……!!
岡部がこうなることを分かっていて――分かっていて、止められなかった!
いや違う! わたしが殺したんだ! 出れば死ぬ着信、それをみすみす、岡部に出させた! しかも言うに事欠いて『たすけて』だと? ぜんぜん論理的じゃない。わたしが死んででも、岡部を助けるべきだったんだ……!
最低だ……
また岡部を、助けられなかった……

「まさか……ホントに死んだのか……」
若い男が呆然とした声を出した。
顔は見えないが、まさか自分が人殺しに加担するとまでは思っていなかったのだろう。
「っ……う、電話か」
男のポケットから電子音が鳴った。わたしの背中から足を外すことなく、男が電話に出る。
「ああ、あんたか……おいどういうことだ、白衣のやつ、動かねえぞ! 話が違うじゃねえか、まさか死んだんじゃ……あ? ワケ分かんねぇこと言うんじゃねーよ!」
男は自分のケータイで誰かと話している。
電話相手の声までは聞こえないが、その相手には察しがついた。
「くそ、仲間にも報告しねえと……ンだと、俺たちを誰だと思ってやがんだ、そんなくだらねえ脅しには引っかからない……あ? 女に代われ? チッ、くそ、あんたの頼みなんか二度と聞か――ちっ、そうかよ、しゃーねー、くそ」
調子に乗るんじゃねーぞ、と電話相手にクギをさしてから、男はわたしにケータイを差し出した。
「依頼人のガキが、お前に話があるってよ」
……そう来たか。
天王寺綯だ。
わたしのことを笑いに来たんだ。
でも、冷静にならなくては。情報を引き出さなくては。
わたしは、震える声をけどられないように息を整える。
冷静に、冷静に、冷静に……
男はわたしが通話できるように、うつぶせの私の耳にケータイを押し当てた。
「……もしもし」
「あはは、さっそく苦戦しているようだね」
……世界最低のクソヤローの声がした。
わたしは考えるより早く叫んでいた。
「Fuck, Shit, Son of a bitch! 許さない、絶対に許さない! あんたなんか死ねばいいんだ! このAssholeのBastardのFuckin' douche bagが! 絶対に後悔させてやる、こんなことをしたことを一生後悔させてやるからな!」
「おお、怖い怖い。落ち込んでいるかと思ったら、結構元気じゃないか。だがこれで分かっただろう、わたしにタイムリープ勝負を挑むのは無謀だと。この前も言ったように、ミスター岡部の記憶死は、『二次世界線結節』という手法で、回避不能にしてあるのだよ」
「その……くそったれた『二次世界線結節』について……教えなさい……!」
「もちろん、教えてあげない。それを貴女が考えられるかも含めた『ゲーム』だからね」
くそっ。前回から一転、情報をシャットアウトしにきている。
完全に――この女の、手のひらの上ってことか――!
天王寺綯を甘く見ていた。
ちいさい小学生の女の子に見えるけど、その中身は何千回もタイムリープを繰り返した、老獪な――そう、マッドサイエンティストそのものだ。
岡部の厨二病に出てきたマッドサイエンティスト・鳳凰院凶真なんて比較にならない。タイムリーパーから能力を奪うためにハンマーで頭蓋骨を叩き割るなんて、並の神経では考えつかない。
最悪の敵だ。
たぶん何度タイムリープしても、岡部のケータイを捨てる試みは失敗する。
今よりもっと前の時間にタイムリープしたところで、今この時間になれば何らかの邪魔が入って、岡部は着信を取らざるをえない状況に追い込まれるだろう。
早い話、誰かを人質にして『電話に出なければ人質を殺す』と脅せばいい。
岡部はきっと出る。
たった今、わたしのためにそうしたように。
手詰まり――
「つい先ほど――貴女からすれば昨日、アタシが言った言葉を繰り返そう。このアタシに、ちゃちな『やり直し』が通じると思うな――くっくっく、あはははははははははは……」
笑いたいだけ笑うと、通話は一方的に切れた。
「さて、生意気な依頼主の仕事も済ませたことだし、オレっちは退散するぜ。おっと、それからニイチャンは……ニイチャンは、オレが殺したわけじゃないからな。勝手に電話に出て、勝手に死んだんだ。勘違い、すんなよ」
無理におどけたふうの男の声。
殺しまでできるほど、肝の太い男ではないようだ。
けど――岡部がやられてしまったことには、変わりはない。
岡部。
わたしを助けようと、ノイズメモリーを受けた岡部。
先回のときとは状況が違うけど、結果として、同じように岡部は記憶死してしまった。
天王寺綯の言う『二次世界線結節』というのは、本当のことと考えたほうがいい。いくらタイムリープをしたところで、岡部の記憶死は避けられないだろう。着信を妨害しようとしたら、必ず監視している天王寺綯の手下が脅しにかかり、岡部は必ず電話を受けてしまうようになっている。必ず記憶死を起こすようになっている。
――でも、なぜ?
本来収束の対象じゃない事象を、収束の対象であるかのように『世界を騙す』方法なんて、あるのか?
いや――考えるのは後だ。
今はこの状況を、どうにかしないと。ハンマーとナイフと情報を持った男が、すぐそばにいる。
「お願い……あなたが殺したことは、言わない。だからわたしは、見逃してほしい」
「あぁ? だからオレが殺したんじゃねえって言ってるだろうが!」
慌てた男の声。顔までは見えないけど、これで顔を見られていたらもっと混乱しているだろう。
「い、いいか。オレっちはこのままずらかるけどよ……今あったことを、もし警察にチクったりしたら、承知しねえぞ。今度こそてめえの頭をかち割るからな。わ、分かったか?」
「いいわ。あなたの声も覚えたし、もうすぐわたしの仲間がここに駆けつけることになってるけどね」
「なっ……!」
もちろん、ハッタリだ。だが効果はあったようだった。
「てっ、テメーこのアマ、オレたちを誰だと思ってやがんだ。俺たちはヴァイラ……いや、とにかく、オレたちに下手な脅しは通用しねえ。返り討ちにしてやるからな!」
男の声が焦ったように背中から離れる。
……重かった。それにやたらトゲのある靴裏だったのか、背中の踏まれていた部分が、ずきずきと痛い。
「い、いいか!? オレのせいじゃねえ、オレが殺ったんじゃねえからな。わ、分かったな!」
男はドアに向けて、後ずさりはじめる。
――オレが殺ったんじゃない、だって?
――オレのせいじゃない、だって?
どの口が――
どの口がそれを言うかっ!
「うおっ!?」
わたしは飛び起きると、男に向けて突進した。
男が油断していたせいだろう。わたしの体重でも、低い姿勢で体当たりすると男はバランスを崩し、尻餅をついた。もみくちゃになって、タイルの上を転がる。
「が……っ、何しやがる!? やっ、やめねえかこいつっ」
男は怒りよりも混乱と当惑が勝っているようだ。ほとんど抵抗らしい抵抗をしてこない。
「あんたが、あんたが! あんたが岡部を殺したんだ!!」
「くっ……そ、離れねえか、このクソアマ、ちくしょう、てめえっ」
男のポケットからナイフが転がり出る。床の上を滑る。男がそれを見てハッとする。わたしはナイフに手を伸ばす――
男はわたしの顔を見て、わたしが本気であることを悟ったのだろう。顔をひきつらせる。
「くっ、そ、離れろ!」
男がわたしを押し飛ばす。わたしの体が男から離れて、2、3歩後ろに下がる。
「い、イカレてやがんぜ、この女……男相手に取っ組み合いするか、フツー……」
「そうよ。あんたがわたしの彼氏を殺したの。――だからあんたにも、それ相応の対価を支払ってもらうわ」
「ひっ……」
わたしは足元に転がっていたナイフを手に取る。先端が相手の喉のほうを向くように、ナイフを高めに構える。
「さあ、選びなさい。耳をそぎ落とされたい? それとも頭蓋骨をハンマーで割られたい?」
「……くっそ、次はただじゃおかねえからな!」
男は負け惜しみの捨て台詞を残して、屋上のドアを開け、走り去った。

「…………」
静寂が戻った。
乾いたビル風が、屋上を吹き抜けていく。
……疲れた……。
わたしは脱力して、フェンスの金網に、背中からもたれかかる。
わたしが実行した『ファーストリープ』。
その作戦のために、岡部は、またもノイズメモリーを叩き込まれ、『記憶死』してしまった。
覚悟していたことだ。
一度すでに経験したことでもある。
けれど、知らずに死なせてしまうのと、わかっていて死なせてしまうのでは、こんなにも辛さが、違うものなのか――
「岡部……」
岡部を見る。
岡部は目を見開いたまま、口を開いたまま、耳にケータイを押し当てたまま、ぴくりともせず、固まっている。
まるで時間を止められたみたいだ。
ファーストリープの犠牲は大きかった。
岡部の着信を妨害することはできなかった。
これはつまり、天王寺綯が言っていた“ゲーム”に付き合うしかないことを意味している。だけど、この広い秋葉原のなかで、どこの誰が『送信者』の3人なのかすら分かっていないのだ。
はじめから、分の悪すぎる勝負。
……でも。
「岡部……ごめんね……」
声に出して言ってみる。
もちろん、岡部は反応しない。
「ごめんね……わたしのために、二度も、こんな目にあわせちゃって……」
辛い。
泣き出してしまいたい。
考えることをやめて、岡部の体に抱きついて、もういやだもう逃げたいと泣き喚きたい。
……でも。
わたしはのろのろとケータイを取り出すと、電話番号をプッシュした。
呼び出し音数回のあと、相手が出る。
「――橋田? うん、わたしよ。紅莉栖。……ええ、大丈夫。ちょっと疲れただけ。今ラボにいる?」
岡部の2回目の犠牲をはらった、『ファーストリープ』。
岡部を救う第一段階となる、作戦は――
――成功した、ことになる。
「ねえ橋田。ケータイの端末から、その持ち主を特定できる? 名前は何で、どこに住んでるか、とか。……うん。そう、できるのね? 分かった、今すぐラボに行く。待ってて」
わたしは自分のケータイを切った。
そしてもう一方のケータイを見る。
わたしが持っているそれは、ディープブルーの折りたたみケータイ――天王寺綯の部下である男が持っていた、そしてつかみ合いになった時ポケットからこっそり盗み出していた、男のケータイだった。

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