CHAPTER05
Chapter05 想像界のアルケミスト
りんかい線の電車は意外に乗客が少ない。
車窓は背の低い建物が並ぶ住宅街の景色を映し出している。
いつの間にか時間は夕暮れ時。
西から降り注ぐ太陽の光が、電車の中をオレンジ色の水の中みたいに見せている。
がたんごとん、がたんごとん。
音が遠い。
がたんごとん、がたんごとん。
電車に揺られる。
――まるでべつの惑星に来てしまったみたいだ。
オレンジ色の車内。
音のない異世界。
そしてわたしの手には、血まみれの拳銃。
ハンカチで血糊をぬぐっても、むせかえる血の匂いは消えない。
このひどい匂いを乗客に気づかれないかと、不安になる。
客観的に考えれば、ちゃんと拭いたし、服の下に隠しているし、気づかれることはないだろう。
でも消えないこの圧倒的な異物感と違和感。
ここまで逃げれば、スナイパーも簡単には追ってこれないだろう。
人の目もあるし、ここで襲われる可能性は低い。
でも、これで安全な場所はこの日本のどこにもないことが分かってしまった。
いつ襲われてもおかしくない。
身を守るものはこの拳銃ひとつ。それでも限りなく心もとない。
――分かってる。わたしは戦いの最中なんだ。安全な場所なんて、あるわけない。
天王寺綯との戦いも、いよいよ佳境だ。
状況を整理しよう。
わたしの目的、勝利条件は、岡部の記憶死を“なかったこと”にすること。
そのためには、天王寺綯の仕掛けた“ゲーム”に勝利する必要がある。
天王寺綯の目的は、わたしを“成長”させ、タイムマシンを超える発明をするような超天才にすること。それで世界を変え、最終的にはSERNを滅ぼすこと。
最後の戦いは、天王寺綯との勝負。
もちろん、天王寺綯の目的とわたしの目的が一致することはありえない。
なぜなら、岡部が復活すれば、岡部はその日のうちに、β世界線へと世界を『改変』させるからだ。
そこにはそもそもタイムリープマシンがない。タイムリープマシンを作るはずのわたしが死んでいるのだから。
したがって、『タイムマスター』天王寺綯の存在そのものが“なかったこと”になる。
――分かりやすく言い換えれば、こうだ。
わたしの目的と、天王寺綯の目的。
叶えられるのは、どちらかひとつだけ。
秋葉原駅から出たら中央通りを進み、末広町駅の交差点を蔵前橋通りへ左折。次の信号の一歩手前の路地を入ると、大檜山ビルという古い雑居ビルがある。その2階に岡部が立ち上げた未来ガジェット研究所、通称“ラボ”は居を構えている。
そこに近づく前から、尋常でない雰囲気が伝わってきた。
ラボの周囲には、何台もパトカーが止まっているからだ。
警官が大檜山ビルの周囲に何人もいる。興味本位で集まっているらしい野次馬も何人かいて、ラボ周辺はざわついていた。
警官のひとりに手短に話して、関係者のひとりであることを伝える。
ラボの中に入ると、中はひどい有様だった。
薄型のコタツテーブルはひっくり返って脚を上にさらしている。ソファセットはナイフか何かでびりびりに裂かれている。冷蔵庫は横倒し。扇風機は首が折れて床にだらしなく伸びている。
部屋の端には、床に座り込んで顔に氷嚢をあてている橋田の姿があった。
「橋田!」
「おお、牧瀬氏……無事だったすか。よかった」
立ち上がろうとすると、体が痛いのか、顔をしかめる。
座ってて、とジェスチャーで示し、横に腰掛ける。
「何があったの?」
「ワケわからん。てゆーかあいつら何? いきなりラボに柄シャツ短パンとか、ポロシャツにジーパンとかの男が5人くらい押しかけてきたと思ったら、ラボを荒らしだしたんだお。信じられん。止めようとしたらいきなり殴られるし。結局、いろんなもの壊して引き上げていったお」
「そう……でも、命があって何よりだわ」
安心した。
これで橋田まで殺されていたら、わたしはどうしていいか分からなかった。
「イノチて。そ、さすがにそれは大げさじゃね?」
大げさなんかじゃない。
さっき、わたしの目の前で人が死んだ。
橋田だって、殺されていてもおかしくはなかった。
「被害は?」
「僕の魔改造ハイパーPCもやられたお。丸ごと持っていかれたお。許さない、絶対にだ! ……ああいうのって保険とか保障でお金戻ったりするのかなあ」
部屋の中を見てまわる。
まゆりの作ったコスプレ衣装も、床に投げ出されて転がっていた。
倒れたゴミ箱から、違和感。近づいて、拾い上げる。
「何これ?」
これは――宝くじ?
宝くじやTOTOのチケットが何十枚もゴミ箱に捨てられている。しかも全部違う種類だ。いずれも外れだったらしく、半分に破られて捨てられている。
「こんな宝くじ、誰か買ったの?」
「いや、昨日まではなかったと思うお」
「誰かがDメールで宝くじを当てようとしたのか?」
「だとしたらとんだ間抜けだお。全部外れっぽいし、それ」
……SERNがここに来て、電話レンジでDメールを送って宝くじを当てようとでもしたのだろうか。
だとしたら、しょうもないな。
――電話レンジ。
そうだ、タイムリープマシンは無事……!?
急いで開発室に向かう。
そこには、ほとんど何もなかった。
橋田の愛用PCも、岡部の作った未来ガジェットも消えていた。
そして。
「何てこと……やられた……!」
部屋の中央に鎮座していたはずの。
電話レンジ(仮)さえも、消えてなくなっていた。
そんな……。
あれが、なければ。
タイムリープできない。
『やり直し』ができない!
時間をさかのぼり時をやりなおす装置。
わたしたちが持つ、唯一のアドバンテージ。
電話レンジ(仮)がなければ、岡部はβ世界線に行けないし、そもそも岡部の記憶死をキャンセルするDメールを送れない。
世界を、救えない。
わたしは開発室の床の穴を覗き込む。
少し前、岡部が床の一部をくりぬき、下のブラウン管をリモコンで操作できるようにしていたのだ。
ラボの下、1階のブラウン管工房の店内をのぞくと、やっぱり荒らされていて、42型ブラウン管テレビも――なかった。
盗まれたのだ。
電話レンジ(仮)も、42型ブラウン管テレビも。
タイムリープマシンのシステム自体が、盗まれてしまった。
誰に?
決まっている。
天王寺綯――。
くそっ。
頭が煮立つ。
「ちょっ、牧瀬氏、どこ行くん?」
「取り返さなくちゃ、タイムリープマシンを!」
「取り返すって、あいつらに持ってかれた電話レンジ、どこにあるか分かるん!?」
「分かるわけないでしょ!」
それでも、取り返さなくてはならない。
あれがなければ、岡部は復活できない。
あれがなければ、β世界線に行けない。
あれがなければ、まゆりを救えない――!
わたしは白衣を手に取り、走り出す。
† † †
ラボを出て、駅のほうへ。
走る、走る。
あれだけ重いブラウン管テレビを運んでいるんだ。そう簡単に遠くまで移動できるはずがない。
息があがる。
目の前がふらつく。
そういえば朝からろくに食べてない。
でも走るのをやめられない。秋葉原の町を、縦横に走る。
<「よせ、落ち着け紅莉栖。見ていられないぞ」>
「ちょっ……岡部!?」
突然の声に、わたしは慌てて立ち止まる。
岡部の声。
テストの時に助けてくれた、未来の岡部の声だ。
「何やってたの! 今まで返事もしないで! あんたどんだけ、わたしが不安だったか……!」
<「それについてはすまん」>
「すまんじゃないっ! 何してたんだ一体! 返答次第じゃ、ただじゃおかないからな!」
<「盗まれたタイムリープマシンの、行方を追っていたのだ」>
え?
マジで?
じゃあ……
「タイムリープマシンのありかが分かるのか!?」
<「当たり前だ。そもそもこの通信システムは、音を拾う場所を局所場指定し、その場所の環境光を音波に復元することで通信を可能としている。当然、指定する場をずらせば、原理的には地球上のどこでも、音を拾うことができる」
「それって……そんなの、最強の盗聴器じゃない!」
<「そうだ。何しろ俺は、狂気のマッド、マッドサイエンティストとか何か、そういう類のアレだからな」>
何でいまつっかえた。
「なに恥ずかしがってんだ。鳳凰院凶真のくせに」
<「さ、さすがにこの年齢になって狂気のマッドサイエンティストとか、真面目に言うのは少し恥ずかしいのだ」>
「それで狂気の天才マッドサイエンティスト、世界に混沌をもたらす鳳凰院凶真さんが、わたしの呼びかけに出やがらなくて、なんとなくわたしが独り言をつぶやいてるアレな人に見えちゃったのも、そっちの捜索が忙しかったからか?」
<「そ、そうだ、だからそんな恥ずかしいキーワードを連呼するのはよせ。これでもかなり頑張っていたのだから」>
まあ、そうか。
仕方ない、許してやることにしよう。
「それで、タイムリープマシンの場所は分かった?」
<「うむ。引越し用のトラックで運ばれ、先ほど民家に運ばれていくのが確認できた。中の様子まではノイズが多く、詳しくスキャンできないが、今も間違いなく民家の中にある」>
「なるほど」
直接行って確かめるしかないというわけか。
「どっちに行ったらいい?」
<「まず、その目の前の信号を左折だ。200メートル進むと、歩道橋がある。それを渡るのだ」>
鬼が出るか、蛇が出るか。
† † †
歩くという行為は、人間の脳に適度な刺激を与える。
数百メートル歩いたことで、わたしの頭はいくぶん冷静さを取り戻した。
今のうちに、確認しておきたいことが山ほどある。
まず、ダイバージェンスメーターを確認する。
凾cIVERGENCE=0.99999999999032%
前回より、024ポイント上がっている。
橋田鈴教授が死んで、かつ2番目のノイズメモリー着信をキャンセルして、ようやくプラス24ポイントか……。
「岡部、聞こえる?」
<「あ? ああ」>
「質問その1」
<「何だ?」>
「そっちは今、何年の何月?」
<「何だ、そんなことか。こちらは2025年の8月だ。SERNの管理統治は完成し、俺は奴らから逃げながら地下活動を行っている。平たく言えばテロリストだな。今この音声を送っている地下基地も、いつラウンダーに襲撃されても不思議ではない」>
やっぱり岡部は未来でテロリストなのか。
最初に聞いたときは実感湧かなかったけど、今でもやっぱり実感は湧かないな。
「質問その2。2010年に起こった、今わたしが解決しようとしてる事件――『岡部記憶死事件』は、そっちの未来でも起こった?」
これはかなり重要な質問だ。
もし岡部がすでに助かっているのなら、わたしと天王寺綯との戦いは、わたしの勝利で終わっていることになる。
その勝敗をあらかじめ知ることができる。
「どうなの、岡部?」
<「……正確なところは分からない。だが、俺が記憶死の着信を受けたのは、確かなようだ。俺の記憶は2010年までしかなく、その次の記憶は13年後の2023年。SERNの隔離病棟で目が覚めた。ある人の手引きで俺は病棟から脱走し、地下活動に入った。その頃はSERNはタイムマシン開発を完了していて、世間では牧瀬紅莉栖は『タイムマシンの母』として崇拝の対象になっていた」>
「ってことは、つまり……」
岡部が目覚めたのは2023年、ってことは。
『失敗』。
『敗北』。
わたしはこの戦いで、岡部を目覚めさせることは、できない?
つまり……無駄骨……?
<「だが、そう悲観的になることはない。Dメールにしろ、タイムリープにしろ、そしてこの『タイムテレパシー』にしろ、過去に干渉する行為は、必ず世界線を微妙に変動させる。逆に言えば、送信元である世界線と、送信先である世界線は、必ず別物になっているのだ。でなければタイムパラドックスが発生するからな。俺のいるこの世界では、岡部倫太郎が目覚めたのは2023年だったが、お前のその世界でも同じとは限らない」>
確かに、そうだ。
2010年の岡部自身が証明してみせたように、過去は、そして未来は変えられる。
希望を失うのは早すぎる。
けど、さすがにちょっと、こたえるな――。
落ち込んでいる場合じゃない。情報を入手しないと。
幸いテスト以降のわたしは脳の回転がすこぶる良い。必要な情報は残さず入手してやる。
「質問その3。わたしは2025年ではどうなってる? 橋田や、まゆりは元気?」
少し、言いよどむ間があった。
<「まゆりは……2010年の16日、午後7時39分に死亡した。世界線の収束は防げなかった。橋田はフランスのSERN地下監獄に、パートナーの阿万音由季と共に投獄されている。そして牧瀬紅莉栖、お前は、タイムマシンを発明後、――行方不明だ」>
「行方……不明? 理由は?」
<「分かっていない。公式に姿が確認されたのは2年前、SERNの記念式典に姿を現したのが最後だ。お前はこちらの世界では神に等しい伝説的存在だからな。滅多に人前に姿を現さない。――だからお前が今どこで何をしているのか、知る人間はいない。だが、SERNの発表では、牧瀬紅莉栖は『死亡』したとされている。死因は病死。だが、タイムマシンの開発が完了し用済みになったために殺されたのではないか、という見方が一般的だ」
わたしが、死んでいる――。
もちろん、予想していたことだ。
だけど、33歳まで生きられないと言われると、辛いものがあるな……。
<「……すまない」>
岡部の声は、ぽつりと力なく地面に落ちた。
<「すまない、紅莉栖。お前を助けることができなかった。本当に、お前さえ生きていれば――お前と再び、会うことさえできれば――俺は本当は、SERNの体制転覆なんてどうでもいいんだ。テロリストの謗りを受けようと構わない。ただ、お前さえ生きていてくれれば――」>
「岡部……」
お前さえ生きていてくれれば。
その言葉に、胸がじんわり温かくなる。
「……ちょっ、おま、恥ずかしいからそういうのやめなさいよ! べっ、別にわたしは、あんたに心配なんてしてもらわなくても一向に構わないんだから!」
<「すまない、紅莉栖……」>
岡部は消え入るようにそうつぶやき、静かになった。
しんみり。
………………。
……いかん。しんみりしている場合ではない。
なんか頬が熱い。どうにかしないと。
「と、ととところで岡部、さっき気づいたけど、声、あんた声がわたしの知ってる岡部とまったく同じなんだけど。15年も経ったんだから、少しくらい声が変わっててもおかしくないんじゃない?」
<「あ――ああ。それか。確かに今の声は15年前と少し違うが、それではお前にすぐ信用してもらえるか分からないからな。音声変換機で、声を若い頃の岡部倫太郎に変換してある」>
なるほど。
その配慮、必要だったか?
もっと何か気をつけるべきポイントがあるような気がする……。
「まあ、岡部は何年経っても岡部ってことか。少し安心した」
<「どういう意味だ」>
「べっつに。何でもありませんことよ」
そういえば。
「ねえ、岡部。ちょっと聞きにくいことなんだけど……」
<「何だ?」>
「そっちの時代では、パパは、元気?」
パパ。
ドクター中鉢。
牧瀬章一。
タイムマシンの母の肉親なら、SERNに目をつけられていてもおかしくないけど……。
<「ああ、中鉢博士か……そういえば、父親なんだったな? 彼は存命だ、心配いらない」>
「ホント?」
そっか、パパは生きてるのか……
わたしが死んで……パパ、どうしてるかな。
悲しんでくれてるかな。
心にちくりと痛みが生じる。
「パパは、どうしてる?」
<「表向きには、行方不明だ」>
行方不明?
表向きには?
「どういうこと?」
<「タイムマシンの母であり、SERN体制の象徴的存在である牧瀬紅莉栖――その父親である中鉢博士もまた、この時代では神格化されている。それは逆を言えば、SERNに反対する組織には命を狙われやすい、ということだ。中鉢博士はあるテロリスト集団に誘拐されて、行方不明。その行方をSERNも追っている」>
「て、テロリストに誘拐されてる……?」
<「と、いうのは表向きの話だ。実はそのテロリスト集団というのは、俺たち『ワルキューレ』のことなのだ」>
「へ?」
つまり、どういうこと?
「え、つまり、岡部が、パパを……誘拐した、ってこと? 何それ?」
<「それはSERNの公式発表。実際のところは、SERNから逃亡した中鉢博士を、『ワルキューレ』が匿ってる、というのが真実だ。中鉢博士は逃げてきたんだよ、SERNから。そして俺たちと行動を共にしている」>
「え……? パパと岡部が、同じ組織の仲間!?」
それを聞いて、ある考えがよぎる。
でも……
そんな、勇気が……
「岡部……いま、未来のパパと、話せる……?」
なにを話すかなんて分からない。
まだ嫌われていたらどうしよう。
でも、ひょっとしたら……
<「……すまない、紅莉栖。中鉢博士はべつの重要な任務で遠方にいる。今話すことは、残念ながらできない」>
「そ、そう……」
自分でも、意外なことだったけど。
わたしはすごくがっかりしていた。
未来のパパ。どんなふうになってるんだろう? 2025年には59歳だ。ちょっとは丸くなってるかな。
わたしのこと……許してくれてるかな。
「ねえ、岡部」
<「何だ?」>
「わたしね、パパにひどいことした」
――二度と電話をかけてくるな。
――どこまで私を愚弄すれば気がすむのだ。
「ホントはね……分かってた。パパが言っていることは全部ほんとうのこと。アメリカに留学して、いろんな勉強をして、わたしはパパよりもっとすごい人たちが世界にはたくさんいることを知った。ううん、パパはわたしが思ってるほどすごい人じゃなかった。どこの国にもいる、ごく普通の名の売れない無名物理学者にすぎなかった」
<「紅莉栖……」>
「でも……それでも、パパはパパ。わたしにとって最高の科学者。わたしの生き方を決めた、『この人みたいになりたい』って、人生で最初に思わせた人。だからわたし……パパともっと物理の話をしたかったんだけど……それでかえって、傷つけちゃったのかも」
<「紅莉栖……中鉢博士は、お前のことを」>
「言わないで! きっとわたしまだ、パパに嫌われてる。分かってるの、それだけのことをしたんだから」
数ヶ月前。
パパが日本で、タイムマシン発表会をやるから見に来い、って誘ってくれたときのこと。
わたしは……すごく、がっかりした。
心底落胆した。
ホントは誘ってくれて、日本に来いって言ってくれて、すごく嬉しかったのに。
いや、だからこそ。
『タイムマシンを発表する? なに考えてるの、パパ?』
電話口での、わたしの無遠慮な攻撃の言葉がよみがえる。
『いいパパ。タイムマシンなんてできるわけないの。ワームホール、仮想のエキゾチックマター、木星サイズの反重力物質、どれかひとつでもパパに用意できる? 世界の誰もまだ見つけてないのに……タイムマシンなんて、空想上のお遊びなの。そんな馬鹿馬鹿しい内容の記者会見で、パパが恥をかくとこなんか……わたし、見たくないんだけど……』
パパは激怒した。
『お前に何がわかる』、『タイムマシンは実現可能だ』、『私の長年の悲願なのだ』、そう言って怒り狂った。
今なら分かる。
当たり前だ。
パパは橋田鈴教授から、タイムマシンの作り方を教わっていたんだ。
ひょっとしたら、橋田教授がタイムトラベラーだってことも、うすうす知っていたかもしれない。
――そんなパパに、わたしはひどいことを言った。
タイムマシンが実現できない、なんて。
今のわたしは、タイムマシンを当たり前のように何度も使っているっていうのに。
「ねえ岡部……未来のわたしは、パパと仲直りできたかな?」
<「そ、それは……」>
「あんたは言ってたわね。わたしは将来『タイムマシンの母』として、SERNでタイムマシンの研究をするって。未来のわたし――牧瀬紅莉栖が、SERNの研究者になった理由、なんとなく分かるんだ。そりゃあ監禁されてたとか、みんなを人質にされたとか、あるんだろうけど……たぶん、わたしには帰るところがないのよ。わたし、今もそうだけど、日本に帰る家がない。迎えてくれる家族もいない。どこにも、わたしを受け入れてくれる場所なんてない……だったら、SERNに監禁されてでも、誰かに必要とされてる研究をしたほうが、マシ……」
<「そんなことはないぞ紅莉栖」>
「……え?」
<「中鉢博士はお前を嫌ってなんかいない。行方不明になったお前の身を心配していた。たぶんお前のことを、許してくれていると思う」>
え……?
<「自分はどこにも帰る場所がないなんて言うな。お前にはちゃんと家族がいる。不器用だが、ちゃんと受け入れてくれる父がいる。いつでも帰ればいい。父はきっと、お前を待っているぞ」>
「そ……そうね。ありがとう……岡部」
頬が熱い。
なんだか岡部が、一瞬……パパみたいな気がした。
パパが近くにいてくれるような気がする。
やだなあ、もう。
ちょっと元気出ちゃったじゃないか。
やれる。
戦える。
そんな気がしてきた。
<「さあ、目的地が見えてきたぞ」>
角を曲がれば、小さな民家が見えてくる。
† † †
「ここは……」
立ち止まって、その家を見る。
場所からすると、新御徒町駅から徒歩で5分ほど。
なんでもない住宅街の一角に、ひっそりと平屋の家が建っている。見るからに年季の入った、集合長屋のようなたたずまい。
塀はなく、小ぜまい敷地いっぱいに、防音効果の少なそうな板張りの壁面が並んでいた。
この家は、岡部の話の中で聞いたことがある。
阿万音鈴羽こと橋田教授が、10年前まで住んでいた家屋。
そして彼女が行方不明になってからは、ブラウン管工房店長と娘の天王寺綯がふたりで暮らしているはずの家屋だ。
つまり――天王寺綯の実家。
「ここに、タイムリープマシンが……」
考えてみれば、当然の話だ。
天王寺綯は、SERNの命令系統とは別の意図で動いている。
ひょっとしたらSERNと対立さえしているかもしれない。
だとすれば、潜伏できる場所はそう多くない。あれだけデカブツの42型ブラウン管テレビとタイムリープマシンを保管するなら、なおさらだ。
天王寺綯が自宅にタイムリープマシンを持ち込んだのだとしても、何の不思議もない。
「岡部、近くに見張りかスナイパーがいないか、確認できる?」
<「もちろんだ。少し待て」>
数十秒経ってから、岡部が声をかけてきた。
<「近くにスナイパーはいない。ここまで運んできた連中は、どうやら海外の傭兵部隊で、ラウンダーではないらしい。そいつらも去った。ノイズが多くて詳しくは分からないが、家の中にいるのは2、3人だ」>
「了解。……便りにしてるからな、岡部」
岡部との未来通話は、わたしの奥の手。
このホットラインが勝負の鍵を握る最後の武器。
この通話があれば、橋田鈴教授のときのようなクイズ形式の勝負なら、必ず勝てる。
逆に言えば、このホットラインを敵に気づかれてはならない。
「そっちはどう? 準備は、いい?」
<「少し待て。基地の警戒装置が騒がしい……いや、OKだ。準備、いいぞ」>
「……? どうした?」
<「いや、こちらは今ワルキューレの秘密基地にいるのだが……表のほうでなにやら騒ぎがあったようだ。心配ない、計器の誤作動のようだ」>
「大丈夫? いったん通信を切る?」
<「……いや。一度接続を切ると、その時代その世界線に再接続するのに、丸一日かかる。このまま行こう」>
……よし。
なら、あんまり時間もない。行くか。
地獄へ。
すべての終わりが待つ、ラストダンジョンへ。
† † †
ノックはしなかった。
天王寺家はシンプルな畳敷きの二間で、居間のすぐ奥には大きな仏壇があった。
大きな座卓とタンスがあるくらいで、他にはこれといった家具もない。
隣室にはこぢんまりした子供用の勉強机が見え、赤いランドセルが転がっていた。
どこからどう見ても、なんの変哲もない下町の古屋だ。
ここにタイムリープマシンがあるなんて、なんだか冗談みたいだ。
<「紅莉栖、6時の方向の床下に、通路のような空間がある。見えるか?」>
どれどれ。
その方向を見ると、古い仏壇。
棚には『橋田鈴』、そして『天王寺綴』の名前。
――天王寺綯の、母親だろうか。
よく見ると、仏壇の隣の床に、何か重いものを引きずったような跡。
ピンときた。
仏壇に軽く手を合わせてから、仏壇をゆっくり横にずらしていく。
――なるほどね。
仏壇があった場所の床には畳がなく、そのかわり錆びた鉄製の板が嵌まっていた。
板を外すと、冷たい空気が上がってきた。
――地下階段だ。
「よくまあ普通の民家に、地下室なんか作ったな……」
たぶんこの世界線にしかない地下室なのだろう。
人ひとりがようやく通れそうな地下室への階段は、薄暗く、先が見えない。
はっきり言って薄気味悪い。
そうでなくても、先の見えない戦いなのだ。
だから躊躇する?
まさか。
ケータイのライト機能をオンにする。闇に階段が浮かび上がる。
階段に足をかけた。かつん、と湿った音。
かつん、かつん、かつん。
長い階段を下っていく。
――闇のなかで、なにかが身じろぎする。
闇の中に、わたしの恐怖が映る。
引き返せ、とその闇は言う。
この先でお前はきっとひどい目にあうぞ、と語りかける。
知ったことか。
――しばらく進むと、闇の中から、なにか音が聞こえてきた。
子どもの断続的な悲鳴のような。老人の心臓の鼓動のような。
音のつらなり。途絶えることなく聞こえてくる。
――階段の奥のほうからだ。
音は一定の調子でリズムを刻んでいる。
何の音だろう?
階段の奥には重い鉄の扉。
扉には『Welcome』という札がかけられている。ふざけた歓迎。
息を吸う。
止める。
覚悟を決める。
息を吐く。
扉に手をかけて、ゆっくりと開いていく。
† † †
部屋に入ってすぐ、音の正体が分かった。
子どもの悲鳴に聞こえた高い音は、管楽器のブレス音。
老人の心臓の鼓動に聞こえたものは、ドラムと弦楽器の低いリズム。
潮騒のように近づいては去っていく音楽の連なり。古い70年代の、4ビートのアコースティック・ジャズだった。
……ジャズ?
なんで?
部屋を見る。
小さな劇場くらいの広さはある地下室は薄暗く、海底の中のように青い。いくつもの机と丸椅子が置かれている。部屋の奥には飴色のカウンター。壁の棚にはいくつものお酒のボトルが置かれている。
部屋の隅には今どき映画の中でしか見ないようなネオン色の古いジュークボックスが置かれていて、それが静かに70年代のマイルス・デイヴィスを流している。
総じて……一言で言ってしまえば、そこはジャズ・バーだった。
何、これ?
新御囲地町駅から徒歩で5分、天王寺家の地下室には、古風なジャズ・バー?
とんだ穴場スポットだ。穴場すぎて誰も気づかない。
それに加えて何か、場違いな、生臭い匂いもどこからか漂ってくる――
「気に入っていただけたかな」
子どもの声に、振り返る。
「IBN5100が開発された1975年は、『ジャズの帝王』マイルス・デイヴィスが引退した年でもある。知っているかな、ミス牧瀬? 70年代は電気と電波が大幅に発達した時代だ。皆自宅のラジオでジャズを聞きはじめた。昔ながらのやり方でジャズ・バーでのセッションを続ける帝王マイルスの音楽に、誰も見向きもしなくなった。晩年のマイルスは、ジャズ・バーの片隅で音楽を聴きながトランプに興じることが多かったそうだ。こんなふうにね」
人影が、部屋の隅の丸椅子に座って、机の上でトランプを弄んでいる。
その表情はなぜか物憂げというか、退屈そうだ。
天王寺綯。
頭の両側で髪をくくった天王寺綯は、ピックステッチ処理の高級スーツに身を包んでいた。まるで一昔前のバーテンダーか、カジノディーラーのような装いだ。
「天王寺綯……っ!」
ついに。
ついに再会した。
「思ったより早かったね、牧瀬紅莉栖。あの程度の刺客では、君には容易すぎたかな」
ふたりの送信者。
4℃。
橋田鈴教授。
橋田鈴教授の最期――死ぬ直前の苦悶の表情を思い出して、唇をかみ締める。
熱くなるな。
冷静になれ。
「ふざけるな天王寺綯! あんただけは許さない! 岡部を返せ! 橋田教授を帰せ! この世界を……めちゃくちゃになってしまったこの世界線を、元に戻せ……っ!」
喉の奥から激情が洩れた。
暴走するわたし自身の感情に、すべてを持っていかれそうになる。
「あはは、いいね。絶好調じゃないか。そうでなくては困る」
海底のような薄青い照明のなかで、天王寺綯は不気味に笑った。
「実際、時間をすべて意のままにできると退屈でね。未来のことがすべて分かる。どこに危険があるか、どうすればうまくいくか、あらかじめ知っている。そしてどんな行動も、予測可能な収束範囲のなかに収まってしまう」
これは新種の苦痛だよ、と天王寺綯は笑った。
「じゃ、新鮮な感覚を味あわせてあげるわ。今すぐキャンセルDメールを送りなさい。退屈さも記憶も何もかも吹き飛ばしてくれるから」
「あはははは。だがそれでは、貴女とのゲームが楽しめないね」
天王寺綯は新しい箱からトランプを取り出してシャッフルしはじめた。
「この瞬間をどれだけ待ったか。実はこのゲーム、貴女との直接対決だけは、最初の1回だけにしようと決めているんだ。勝負の決まったゲームほど退屈なものはないからね」
「それを……信じろ、と?」
「貴女にとっては願ったりだろう? もしこのゲームをアタシが一度プレイ済みなら、貴女に勝ち目はない。でも初めてなら、いろいろと策を弄することができる」
もちろんだ。
もしこの天王寺綯が『2回目』であれば、わたしがどうやったって、相手はわたしの手を見抜いてくる。勝ち目はゼロだ。
問題は、それをどうやって確認するか、だが――
「おいおい、信じて欲しいな。アタシはゲームがしたいだけだ。他のどの世界線よりも優れた頭脳と判断力を持つこの世界の牧瀬紅莉栖と、本気で全力で、持てる力をすべて出して戦い、勝つ。それだけがアタシの望みだ」
「……その言葉が真実であることも含めた『ゲーム』だと思っていいのね?」
「誓うよ。アタシは1回目のアタシだ。神に――いや、そんな曖昧なものより、死んだ母に誓おう」
…………。
……どうすべきか。
迷う。
天王寺綯に嘘をついている様子はない。
本当のことを言っているようにも思う。
もし。
もし天王寺綯がタイムリープしてもう一度このゲームを経験済で、今回が2回目なのだとしたら、その前の1回目でも勝ってなくてはおかしい。負けていれば岡部に記憶を飛ばされているはずだからだ。
第一、タイムリープしてまで勝ちたいのなら、このゲームをそもそも開催しなければいい。
いったん、この思考は保留。
天王寺綯にタイムリープをさせないよう、厳しく見張るか、何か手を打つしかない。
――電撃のようにある考えが脳を走った。
ある。
わたしはそっと、さっきラボで身につけた白衣の中を探る。
その下に――
さっき橋田鈴教授から受け取った、拳銃を隠している。
どうなる?
今この瞬間、天王寺綯を、撃ち殺したら――どうなる?
拳銃ならアメリカで何度か撃った。
安全装置をはずして、撃つ。1秒もかからない。
拳銃はオートマチック式のグロッグ26。この距離なら絶対に外さない。
ここで天王寺綯を射殺し、のんびりとキャンセルDメールを作り、送る。
もしこの天王寺綯が本当に『1回目』なら、今わたしが銃を持ってるなんて夢にも思わないはずだ。完全に油断してるはず。
どうする。やるか。
答えは一瞬で出た。
――やる。
もはや倫理なんて関係ない。
やるか、やられるかだ。
わたしは一歩下がり、そっと白衣の下に手を入れる。
やる。
撃つ。
殺す。
殺す。
「どうした、ミス牧瀬? ずいぶん怖い顔をしているな」
関係ない。
橋田教授にしたのと同じことを、お前にも味わわせてやる。
いくぞ。
わたしは素早く手を伸ばし、拳銃を――
がりっ。
後頭部に痛み。
「動くな」
なにか硬いものが、わたしの後頭部に当てられている。
一瞬で全身が冷える。
「両手を挙げろ」
振り返るまでもない。
銃口がわたしの頭に、つきつけられている。
背後の誰かによって。
「おいおい、ガーディアン。お客は丁重に扱うんだ。君の目の前にいるのは、世界で最も貴重な脳の持ち主なのだから」
天王寺綯が苦笑している。
――誰だ。
わたしはそっと振り返る。
そこに立っていたのは、一言で表現するなら、フル装備の装甲歩兵だった。
防弾・防刃チョッキに全身を覆うアーマーパッド。防弾・耐ガスのフルフェイスヘルメット。手には軍用のM4カービン銃。
顔は見えない。性別も年齢も不明。声も、マスクにこもって持ち主がどんな声なのか全く分からない。
「紹介しよう。アタシのガーディアンだ。腕利きの傭兵で、特に要人護衛では国内最高級の腕前を持つ。ゲームの立会人だよ。無粋だが容赦してくれたまえ」
汗がつたう。
全く気配がなかった。
さっきまで部屋の隅の暗いところに、黙って立っていたんだ。
でも同じ部屋にこれだけ重装備の人間がいて、気づかないものか?
少し動いただけで装備の金属が触れて音が立つはずなのに。
ガーディアンと呼ばれた兵士は、わたしに自動小銃を向けたまま、ぴくりとも動かない。
不気味すぎる。
だけど、考えてみればこの勝負は牧瀬紅莉栖VS天王寺綯。ゲームの途中で暴れ出せば、体格的に勝つのはわたしだ。武力的な抑止力を用意するのは当たり前。
……くそっ。
「銃を下ろせ、ガーディアン」
天王寺綯が命じると、兵士は銃口を下げた。その動きにもほとんど気配がない。
「おかしな動きをしなければ、危害は加えない。安心したまえ」
「……ずいぶんと不気味な用心棒を傍に置いているのね。ヘルメットの下の顔は、シュワルツネッガーそっくりのロボットかしら?」
「ふふ、だが実力は折り紙つきだ。後ろの箱を見るといい」
振り返る。
暗闇の中、部屋の壁のそばに、大きな木箱が置いてある。
何か白いものが突き出している。
それが何か頭が理解した瞬間、吐き気がこみ上げる。
部屋に入ったときから感じていた生臭さの正体が、分かってしまった。
木箱のなかに、人がひとり、入っていた。
青と白の服。金髪に碧眼。欧州風の顔立ちの男。服の胸には小さくSERNの文字。
「アタシが本部から強奪したタイムマシンを追って、フランスくんだりから日本まで出張してきた未来SERNのタイムパトロールだ。アタシの周囲をうろちょろ嗅ぎまわるものだから、尋問して殺してやった」
「うっ……」
ぐちゃぐちゃだった。
折れた体の部分からは尖った骨の断面が露出していて、筋肉繊維が骨に引っかかって赤黒い液をしたたらせている。
顔はかろうじて男性と分かるのみで、年齢もなにも分からない。それくらいひどく腫れあがっている。
「退屈な男でね。いくら拷問しても『何も知らない』の一点張りだ。だから殺したのさ。――もっとも、SERNのタイムパトロールは本部の犬だから、自分たちの任務の理由なんて知らされているはずがないのだけどね。実にあっさり死んだよ。家族の名前を呼びながらね。あは、あははははは」
ひどい……。
「あなた……本当に人間なの? 人の痛みってものが、理解できないの?」
「馬鹿な。アタシは痛みのスペシャリストだ。誰よりも痛みについて詳しい。だからこそ、こういうことができるのだよ。痛みの本質を教えてやろうか? 『痛みが発生するには必ず、痛みを与える側と痛みを受ける側の2人がいて成立する。そのうち痛いのは1人だけ』――これを知っている人間だけが、痛みを与える側に立てる。奪う側に立てるというわけだ」
あはははははははは、という天王寺綯の高笑い。
――やっぱり、こいつは危険だ。
和解なんてできない。
妥協点を探すなんて、とても無理だ。
それと同時に、体中を生理的な拒否感が駆け上がる。
――もし、わたしも、こんなふうに、されたら。
皮がはがれる音。
腱が千切れる音。
骨が砕ける音。
幻の痛みが、ぞわぞわと皮膚をはい上がる。
――分かってる。
天王寺綯と勝負するってことは、そういうことなんだ。
決して無傷で帰れると思わないほうがいい。
負けて『残念でした、じゃあまた』と明るく見送ってくれるはずがない。
嫌だ。
全身を殴られて折られて潰されて削られて輪切りにされて、死ぬなんて――
――震えるな。
震えるな、わたしの手。わたしの体。
今だけは、戦うために力が必要なんだ。
強がれ。
表面だけでもいい。
「ふざけるな」
声が震えそうになるのを、意志の力で押さえ込む。
「こんなくだらないものを見せるためにわたしをここに呼んだのか? だとしたらガッカリだな。あんたの目的は何? わたしとの勝負か? それとも無関係な雑魚キャラをいたぶって殺すことか?」
木箱を蹴りつける。
すまん、中の人。
「ガキっぽい自己満足のためにこんな所で遊んでる暇があったら、無敵の時間操作能力とやらで今すぐ望みの世界を作ったらどう、『タイムマスター』さん? それとも何、SERN転覆とか、世界に混沌をもたらすとか、ポーズだけの厨二病? だとしたらとんだお笑いね。ははっ、今日のブログに書くいいネタができたわ!」
「……ちっ」
天王寺綯が舌打ちをする。
一瞬だけ凶暴な素の表情が現れ、すぐに消えた。
「……SERN転覆の話は、学者先生から聞いたのか。ふん……橋田鈴教授の洗脳装置が機能していなかったのは知っていたが、あえて泳がせていたのは失敗だったな」
天王寺綯はにやりと笑った。
寒気のする笑みだ。
「そうだ。アタシの目的は、SERNなんていう下らない統治機関をぶっ壊すこと」
「……なぜ?」
「なぜってって? 奴らのやり方に脳が沸きたつほどムカつくからだよ。2036年で、最も重い刑罰を知っているか? それは死刑ではない。2036年に死刑制度はない。最大の刑罰は『防止刑』と呼ばれている。罪を犯した者は、SERNのタイムリーパーが過去に飛んで、殺人や破壊を起こす、その前に逮捕・監禁されるんだ。事前に『防止』されるわけだな。一見効率が良さそうに見えるが、その実、人の自由意志を根幹から否定する、最悪の刑さ。あんな世界では人間は生きているとはいえない」
「……どういう意味?」
「分からないか? 道を歩いているとある日突然、何の前触れもなく逮捕されるんだ。何の罪も犯していないのに。理由を聞くと『未来に罪を犯す予定になっているから』と言われるというわけさ。こんな不条理な話があるか? これが冒涜でなくて何だというんだ。人は自分の意思で、罪を犯すか犯さないかを決める。未来から来たとかいう胡散臭いタイムパトロールに決められるわけじゃあない」
「……そう。ご高説、痛み入るわ。残念だけど、これっぽっちも理解できないわね」
「べつに理解してもらおうなんて思っていないさ。だがミス牧瀬、貴女は必ず世界を混沌に導く。予言するよ。貴女は貴女自身の知力と自由意志で、SERNを破壊し、世界を混沌の渦に叩き込むだろう。貴女が世界と友人たちを救おうとすればするほど、貴女は世界にとっての敵になる」
わたしは首を横に振る。
こんな妄想話を聞きに来たんじゃない。
「いいわ。これ以上議論していても始まらない。わたしは必ず岡部を助ける。そして岡部の力で、あなたが存在した事実ごと、このイレブンナインの世界線を“なかったこと”にする。妥協の余地なんてないし、あなたの予言も当たらない。さあ、ルールの説明をして」
「さすがにたくましい女だ。いいだろう」
天王寺綯はトランプを机に置き、上から2枚を引いて表向きに置いた。
「掛けたまえ」
天王寺綯は椅子を指す。
テーブルをはさんで天王寺綯の向かいにある椅子だ。
ガーディアンが静かに椅子を引いた。
できるだけ余裕のあるゆっくりとした足取りで、椅子に座る。
本当は心臓が千切れそうなくらい緊張している。
強がれ。
余裕、余裕だ。
「実を言うとね、ずいぶん悩んだ」
天王寺綯が笑う。
「貴女との最終勝負は何がいいだろうか? 最後のバトルを飾るにふさわしいゲームは? できるだけ普遍的な勝負がいい。かつ、推理や駆け引きがなくては貴女に勝ったとはいえない。さて、いろいろ悩んだが、結局はある考えに落ち着いた――『昔からあるゲームほど、よくできている』」
天王寺綯はシャッフルしていたカードを上から2枚引くと、わたしのほうに投げてよこした。
1枚が表向き。もう1枚が裏向き。
「そのカードが貴女の運命だ」
カードを見る。一見したところ、なんの変哲もないただのトランプカードみたいだけど。
「さて、カードの種類は何かな?」
「……1枚はスペードのキング。もう1枚は裏返しで読めないな」
「その裏返しの1枚は、この世界線が貴女に選ばせた、運命のカードということだよ」
「……わけが分からない。ちゃんと説明しろ」
「せっかちだな。――2036年のラウンダー部隊には、ある種の迷信というか、ゲン担ぎがある。アトラクタフィールド理論がごく一般的に認知されている時代だ。いつ命を落とすともしれない前線の兵士にとって、アトラクタフィールドの理論はまさに悪魔。『どうあがいても死ぬときは死ぬ』という思想は、兵士たちの心を蝕んでいった。そこで誰からともなく考えられたのが、このカードゲームだ」
天王寺綯は自分の側にもトランプカードを配った。表向きに1枚、裏向きに1枚。
「兵士たちは危険な任務の前や、負ければ多くのものを失う決闘のときは、このカードゲームを行う。そしてこう考えるわけさ。『もし自分が将来無事で、タイムマシンを使える立場になっていれば、このトランプに必ず介入して、合図を送ってくれるはずだ』――つまり、賭けるか、降りるかのね」
「ギャンブルにタイムマシンを組み合わせることで、自分の将来を予言しようってこと?」
「運命を知ることのできない愚かな人間の、ささやかな抵抗さ。そこで使われたのがこのゲームだ。起源は16世紀後半のヨーロッパ。最強の手札がスペードのエースとジャックであることから、このゲームはこう呼ばれるようになった」
机のカードを指で叩く。
「ブラックジャック」
ブラックジャック。
わたしも基本的なルールくらいは知っている。
確か、カードの数が合計21になるよう手札を揃えるゲームだ。
「簡単にルールを説明しようか」
天王寺綯の説明を簡単にまとめると、こうだ。
このカードゲームは、手札の合計数を21に近いほうが勝ちという、単純なルールのゲームだ。
カードの数は、2〜10はそのまま2〜10の数字として数える。絵札(ピクチャ)はK(キング)、Q(クイーン)、J(ジャック)は10と数える。A(エース)は、手持ちカードの合計が21を超えない範囲で11と数え、超える場合は1として数える。つまり、Aは他のカードより特に強いわけだ。
ゲームの流れは、まずプレイヤーが賭け(ベット)額を提示する。それが終わると、ディーラーがカードを2枚配る。1枚は表向き、もう1枚は裏向き。裏向きの1枚は、手札の持ち主しか見ることができない。
次のアクションの選択肢は2つだ。カードをもう1枚引く(ヒット)か、引かない(スタンド)かだ。
プレイヤーはカードを好きなだけ何度でも引くことができる。この時の新たなカードも裏向きで、相手プレイヤーには見ることができない。
ただし、手札が21を超えてしまうと即負け(バースト)となってしまう。21まで数字を近づけなければならないが、調子に乗ってカードを引きすぎるとバーストしてしまうわけだ。
さらに、このゲームオリジナルルールがある、と天王寺綯は言った。
「普通はディーラー対プレイヤーの戦いだけれどね、今回はプレイヤー対プレイヤーの特別ルールでプレイする。でなければ勝負にならないだろう? 心配いらない、ルールはほとんど一緒だ。ただし、ただし、ヒット・スタンドの選択をした後、賭け金の見直しができる。さらに賭け金を積む(レイズ)か、賭け金をそのままにする(チェック)かを選べる。すると次のプレイヤーは、宣言された額と同じまで賭け金を乗せる(コール)か、さらに上積みする(レイズ)か、ゲームから降りる(サレンダー)かを選べる。まあここはポーカーと似ているな。ただし、コインの残り枚数が足りなかった場合のみ、手持ちのコイン全額を賭けることでコールできる。全員がコールかチェックすると手札を開示。いちばん21に近かったプレイヤーが勝利だ。場の賭け金をすべて手に入れられる」
――ということは。
脳内で情報が組み合わせられる。
このシステムだと、相手プレイヤーに見えているのは最初の1枚のカードだけ。
そして勝つ方法は、数字で勝つか、相手を降参(サレンダー)させること。
なら、これは単なる確率の――つまり運の勝負じゃなくなってくる。
いかに相手を出し抜き、裏をかけるかの、知能で上回ったほうが勝つ、騙しあいのゲームだ。
となれば……
「ふぅん。で、どうなったら勝負がつく?」
「お互いに与えられた資金はコイン10枚。このコインを奪いあい、ゼロになったほうが負けだ」
「10枚? なんだか少なすぎるような気がするけど」
ブラックジャックの1試合はものすごく短い。
たとえ1試合1枚の最小賭け金だったとしても、早ければものの数分で勝負がつく。
「そうでもないさ。とにかく、やってみるのが早い」
天王寺綯は新しいカードケースの封を切って、不要なジョーカーを抜く。
「一応断っておくが、このカードは新品・未開封証明つきの、ラスベガスのカジノで正式採用されているタイプのものだ。事前の仕掛けやイカサマは不可能。まあ、アタシがイカサマなんてする理由がないけどね」
天王寺綯がシャッフルしたあと、わたしも丁寧にシャッフルする。そして上から2枚、カードを引く。
そうして戦いは始まった。
最初は、なにげなく。
それが死地への第一歩だったと後になってようやく気づくような、さりげない第一歩だった。
「……これは」
手札を見る。
ハートの2、クラブのキング。
合計数は12。
……まるっきりのクズ手札じゃないか。
幸先が悪いな。
一方の天王寺綯の手札は、表向きカードがハートのクイーン。裏向きは何か分からない。
だから相手の手札は、わたしと同じようにクズ手札かもしれないし、エースの入った21ぴったりの最強手札――いわゆるナチュラルブラックジャックかもしれない。
そこまで考えて、電撃のようにある考えがひらめく。
――そうだ。
今日のわたしはすごい。冴えまくってる。
――数秒で、天王寺綯を叩き潰す、必勝の策を思いついた。
この勝負、必ず、勝てる。
「言い忘れたが、最初のカード配布のとき、最初に1枚のコインを賭ける。これは必須だ」
渡されたコインを眺める。500円玉より少し大きく分厚い金のコインだ。
じっくり観察するけど、べつだん変わったところのない普通の金貨だ。イカサマの入る余地はなさそう。
「さてミス牧瀬、最初のベットはどうする?」
手は勝負にならない最悪の手札。当然ここは――
「そうね。ここはレイズ、コイン3枚」
「レイズ……!?」
天王寺綯の顔色が変わる。
<「お、おい紅莉栖! 今まで黙って聞いていたが、それはさすがにまずいんじゃないのか?」>
いきなり通信が頭の中に響いた。岡部だ。
<「お前の手札、とても勝負にならないクズ手札じゃないか。みすみす賭け金をドブに捨てるようなものだぞ? しかも持っているコイン10枚のうち1+3で4枚も賭けて……これで勝負が決まってしまわないか!?」>
うっさいなあ。
分かってるわよ。
そう、この手では勝負にならない。
21に近いほうが勝つゲームで、数字がわずか12。事実上の最低点札だ。
――が。
「…………」
天王寺綯が、考えている。
カードをじっと見つめたまま、顎に手を当てて考えている。
天王寺綯には、わたしの手札が最低には見えていない。
むしろ高得点の、勝負に値する札に見えているはずだ。
なぜなら、天王寺綯に見えているのはわたしの手札の一方。クラブのキングだけ。もう一方は裏向きで見えない。
おそらくその裏向きのカードが、天王寺綯には強いカード……絵札やエースといった強力カードに見えていることだろう。でなければ初手からいきなり3枚レイズなんてしてくるはずがない。
「さあ、あんたのターンよ天王寺綯。わたしと同じく3枚賭ける? それとも勝負を降りる?」
「……初手から厳しい手を打ってくるな。いきなり余裕が吹き飛んだよ」
じっと考え込む。
「確率で考えれば、伏せられたカードが絵札かエースである確率は16/52……だが……いや、しかし……」
かなり長考してるな。
「長いなあ。すぱっと決めたらどうなの?」
「そう急くな……いや、ここは様子を見よう。降りる。サレンダーだ」
天王寺綯がカードを開く。ハートのクイーンと、クラブの9。
合計19か。なかなか悪くない手だ。どちらかというと勝負の手だな。
「悪いわね、タイムマスター」
わたしは自分の手札を開く。
もちろん、数字は12。
「……な、12、だと……!? いきなりコイン4枚も賭けておいて、最低手!?」
「あら、わたしって基本的に根性悪いの。知らなかった?」
「……はは、なるほど、そうか……そうでなくてはな」
これでわたしは賭け金であるコイン1枚を手に入れた。
現在のスコアは11対9。
<「全く……ヒヤヒヤしたぞ。お前はてっきり厳密計算された確率論で動くと思っていたが……それにしても、もし相手が乗ってきていたらどうするつもりだったんだ? 相手が降りても得るコインは1枚。負ければ失うのは4枚だ。分が悪すぎやしなかったか?」>
(「そりゃそうよ」)
わたしは小声で岡部に答える。
部屋にはけっこう大きなジャズの音が流れている。
口を隠して、小声で話せば気づかれないだろう。
(「だって、レイズ3枚はコインを手に入れるためにしたんじゃないんだもの」)
<「コインを手に入れるためじゃ、ない!? じゃあ何の」>
(「ひとつは、観察」)
天王寺綯は、どういった種類のギャンブラーなのか。
それが知りたかった。
冷徹な数学理論派か? 売られた喧嘩は買うギャンブラー派か? 裏の裏を読む心理戦派か?
それを知っているのと知らないのとでは、勝負にあきらかな差が出る。
この後、ここ一番の勝負どころで、その差は必ず生きてくる。
「よろしい……気を取り直して、次の勝負だ」
天王寺綯がふたたび手札を配る。
次のこちらの手は、表向きがスペードのクイーン。裏向きがダイヤの9。
合計は19。
さっきとはうってかわって、なかなかの優秀手。
一方、天王寺綯の手札はハートの8と裏向きの何か。
……ここは……。
「レイズ。コイン1枚」
わたしは金貨を1枚、テーブルの中央にすべらせる。
「……ほう。ふたたびレイズか。なかなか強気なレディだ……と言いたいところだが」
わたしと同じように、天王寺綯もテーブルに1枚のコインをすべらせる。
「コールだ。またアタシを罠にはめようという魂胆が見え見えだぞ。同じ手は食わない」
得意そうな顔の天王寺綯。
わたしの策略を見抜いたつもりなのだろう。
(「岡部、頼みがあるわ」)
わたしは極力小声でささやく。他の誰にも聞こえないように。
天王寺綯は気づいていない。隣の兵士も気づいていない。
部屋のジャズの音量にかき消されて、誰にも聞こえないらしい。
好都合だ。
<「……なんだ?」>
岡部の声。
(「相手の手札の期待値計算、できる?」)
<「期待値……計算?」>
(「そう。今相手が持っているカードの点数が、何点である可能性が高いか」)
確率の計算。
あらゆるカードゲームの必勝法。
原理的には相手のカードが強いか弱いかの計算は、厳密に数学的な手続きで決定できる。
こういう単純だけど計算数の多い確率計算は、コンピューターがやったほうが圧倒的に早い。
<「よし、任せろ。相手の見えているカードが8、そしてさらに手札を引かないところをみると、バースト負けの可能性のない11以下の数字は排除できる。最小12から最大18までの間で最も可能性の高いカードは……18だ」>
(「まだ少し計算が甘いな。相手がこちらのカードを見て、それでも勝てると思っている数字だっていうことを計算条件に入れないと。つまり、天王寺綯の数字の中央値とわたしの中央値を比較して、天王寺綯の中央値のほうが高くなるような条件、そしてもう1枚追加でカードを引いたときの中央値が21を超えてしまう、そういう条件でもう一度計算よ」)
<「全く――人使いが荒いな。少し待て、計算条件を入力する――よし、出た。天王寺綯の手札の期待値は、18.375だ」
ふぅむ。
この確率なら、勝負だな。
「じゃあ勝負しましょう。カードオープン」
お互いの手札を開く。
こちらの手は19。
相手の手は18。
わたしの勝ちだ。
「ふむ……貴女は心理戦にも長けているようだね。こういう駆け引きにはいくらか自信があったのだが……」
「ふふん。あんたの手の内くらい、お見通しよ」
もちろん、そんなわけはない。
わたしには天王寺綯の考えなんて読めない。
でも、読めなくていいのだ。
これがわたしが最初にベット4枚という、ぶっとんだ賭けかたをした、ふたつめにして本命の理由。
心理戦をキャンセルできるのだ。
世の中にはこういう駆け引きのゲームは心理戦が大事で、心理戦が優れた人間がこういう勝負にすべからく常勝するという不思議な固定観念がある。
だけど、そんなものは幻だ。
確率論に勝てる心理戦なんて存在しない。
最初の戦いでわたしが4℃とのカードゲーム勝負で示したように、心理戦がどんなに下手だろうが、いきあたりばったり作戦で勝率を最低50%にすることができる。
どんなに巧みな心理戦を操る人間でも、この技にはかなわない。
本当のプロは心理戦なんて使わない。
本当の勝負は心理戦からは遠い、確率や計算で決まる。
けれどわたしは最初に露骨なブラフ――心理戦をやるポーズを見せた。
これで天王寺綯の頭には、強くインプットされたはずだ。
『これは心理戦である』『相手は確率論では動かない』という――誤った認識が。
実際にはわたしは心理戦なんて、これっぽっちも信じていない。
あるのはジャンケンで『いまからグーを出すよ』と言ったときにも似た、不自然な緊張があるだけだ。
裏の裏の裏の裏の――という読みあいにはキリがない。
けれど天王寺綯はその、キリのない読みあいの泥沼に足を突っ込んだ。
わたしのベットは強い手札の表れかもしれない。いや、そう思わせるブラフかもしれない。いや、そう思わせて実は裏の意図があるのかも――
そうやって自分を自分で翻弄して、最終的には確率的に分の良くない勝負を仕掛ける。
確率に勝てるわけがないんだ。
そんなこと神さまにだってできない。
確率を支配したものがこの世界を支配する。
そしてわたしには、確率を瞬間で算出する、岡部という強いブレインがついている。
さらに、そのことを天王寺綯は知らない。
いくら何でも、厳密な確率計算を、暗算だけでこの短時間のあいだにやっているとは思わないだろう。
ゆえに、この勝負、わたしが――勝つ。
その後。
<「相手の手札は期待値17.7845。ベット目一杯で勝負すべきだ」>
<「強気の手だ。期待値は20.0125。ここは素直に降りるべきだな」>
――岡部の計算の力を借りて、わたしはその後もコインを増やしていった。
勝率は6割から7割。
当然負けることもあるが、全体で見れば有利なゲーム運びといえる。
正直、順調だ。
こういう確率勝負で怖いのが、1回で10枚全額賭けるような博打ゲームになること。勝率8割だろうと9割だろうと、運がなければその1発で沈むこともありうる。
だからわたしは、できるだけ回数を稼ぐように、少ないベット額でじわじわとコインを増やしていった。
勝負の回数が多いほど、偏差は小さくなり、勝率は真の確率に近づいていく。物理統計学の基本。
9ゲーム経過して、コイン差は14対6。
そろそろ勝敗が見えてきた。6枚なら、1、2ゲームで一気に吸い取ることも可能な枚数だ。
ここが勝負どころ。
ミスするわけにはいかない。
岡部の確率計算が頼りだ。コンピューターの計算スピードで、このまま押し切ってやる。
そして次のゲーム。
カードが配られる。
わたしの合計数は14。相手はハートの9と裏向きのカード。
(「岡部、ここでもう1枚引くか降りるか、確率ではどちらが有利?」)
このカード配分だと微妙なところだ。
ここは計算で確実に有利なほうを取っていきたいが……。
けど。
(「岡部?」)
岡部からの返事がない。
これまではなかったことだ。
一体どうした?
<「…………」>
通信からは沈黙。
「どうしたミス牧瀬、手が止まっているが?」
「……っ」
岡部からの返事がない。
だけど、これ以上止めていると怪しまれる。
となれば――
――暗算しか、ない。
時間もないし、暗算ではおおよその計算になってしまうけど、仕方がない。
相手の手札の期待値を暗算する。隠れた手札の可能性をを順番に足していくと(20+11+12+13+14+15+16+17+18+19×3)÷13、はおよそ15弱。となればこのまま勝負しても勝てない。
「ヒット。もう1枚引くわ」
わたしのもとにもう1枚のカードが来る。
数字は――ダイヤの5。
合計数は19。
微妙な数字だけど――バーストしなかっただけでも良しとするか。
「くっくっく、ではアタシもヒット、もう1枚引こう」
くっ。
さらにややこしくなった。
カードを1枚引くごとに期待値は6弱ほど上がる。確率からいけば、この勝負は降りたほうがいい、ということになる。
けどまだだ。
天王寺綯がもう1枚引いたということは、引く前はバーストするリスクの少ない、弱い数字を持っていた可能性が高い。
そのことも加味して再計算、したいけど――コンピューターと違って人間の頭では、わたしの暗算能力をもってしても2、3分はかかる。
それでは怪しまれる。
確率計算をしていることがバレてしまう。
分からない勝負は――降りたほうが、得策か?
わたしは手札を置いて、サレンダーを宣言、しようとしたその時。
<「勝負できるぞ紅莉栖」>
岡部の声。
<「カードを1枚引いたことから予想される相手の手札の期待値は18.445。勝てる」>
(「ちょっ……! いたなら返事しなさいよ!」)
<「すまない。ちょっと立て込んでいてな」>
(「立て込んで、って……そっちで何かあったの?」)
<「ああ。どうやら基地に侵入者が……いや、なんでもない。心配するな」>
侵入者?
(「大丈夫なの? 逃げたほうがいいんじゃない?」)
<「……いいや、もうすぐ勝負がつく。それまでは持ちこたえられるさ」>
お互いのカードをオープン。
わたしが19。天王寺綯は18。
また勝ちだ。
「よしっ……!」
またコインを1枚手に入れた。勝負は15対5。
このまま押し切ってやる。
その瞬間、強烈な違和感。
――なにかがおかしい。
――わたしは勝っている、はず。
――これ以上なく、わたしは今押しているはず。
コインの数を見る。間違いなく15枚ある。ルール上なんの問題もないやりかたで、わたしは勝ってきている。
それなのに、なんだ、この違和感は。
違和感の正体がわからないまま、次のゲームがはじまる。
わたしのカードはクラブの7とスペードの5。さらにもう1枚引くと、ダイヤの8。
手は20。相当強い手だ。
天王寺綯のカードはスペードのジャック。
これなら確率92%で勝ちか引き分け。ここらで勝負をかけるべきだろうか。
――また違和感。
そうだ。違和感の正体。
(「岡部、この試合、いま何ゲーム目?」)
<「今か? 今は……11ゲーム目だ」>
(「試合をスタートしてから、何分たってる?」)
<「おおよそ……25分だ」>
――長い。
しかも11ゲームもプレイして、コインの移動がまだ5枚しかない。
なぜか。
原因はあきらか。どちらもコインを1枚づつしか賭けてないからだ。
1ゲームあたりの額の移動が小さいから、試合が大きく動かない。
もちろん、半分それは計画通り。
ゲームの回数が多いほど、確率論を使うわたしの作戦が威力を発揮する。だからわたしはあえて、1ゲームに賭けるコインの数を少なくしている。
――でも、天王寺綯がそれにつきあう理由はない。
むしろ大きく賭けて、今までの負けを取り返すべく動くはずだ。このままではジリ貧なのだから。
では、なぜ?
それが分からない。
何だ? このゲーム、まだわたしの知らない何かがある……?
「どうしたミス牧瀬、表情がすぐれないが? ――ヒット。もう1枚引く」
これでカードは3枚と3枚。
天王寺綯のカードがわたしより強い確率は、それでも2割ほどしかないはずだ。
(「どう岡部、確率計算はできる?」)
<「…………」>
(「岡部?」)
そのとき。
パァン!!
「……!?」
思わず立ち上がる。
な……
何、今のは……
じゅ、銃声?
部屋の中を見回す。
誰も一歩も動いていない。
ガーディアンも、直立不動のまま動いていない。その手も銃を持っていない。
「どうした、ミス牧瀬? いきなり立ち上がって」
静かな天王寺綯の声。
「い、今……」
銃声が。
そう言おうとして、わたしは口をつぐんだ。
違う。
今のはこの部屋で鳴った銃声じゃない。
天王寺綯もガーディアンも、表情になんの変化もない。
聞こえてないんだ。
これは――
未来の銃声。
岡部のいる2025年から聞こえてきた、銃声だ。
通信している岡部の近くで、銃声が……!?
「ミス牧瀬、椅子に賭けたまえ。貴女のベットのターンだ」
今すぐ岡部に呼びかけたい。
状況を確かめたい。
でもここで声をあげてしまえば、目の前の天王寺綯に確実に気づかれる。
岡部の存在に気づかれたら、対策をされて、わたしの優位が消えてしまう。
心が揺れる。
でも、動揺は一瞬だった。
とにかく、平静を装うのが第一。未来の岡部に直接干渉することなんてできない。
平常心だ、平常心。
「こ、ここは……スタンド」
わたしは手札をテーブルに伏せる。
こんな状態では、とても大きい勝負に出られない。まずは現状維持だ。
様子を見る。
「ふうん、なるほど……ではそろそろ、動かせていただこうかな」
テーブルの上に、コインがばらまかれる。
「レイズ、コイン4枚」
「……!?」
レイズ!? このタイミングで!?
「そっ、そんな、4枚って……あんたの所持金、ぜんぶじゃないか!」
これで負ければ、天王寺綯は全額を失い、自動的に敗退する。
勝負を決める、最後のゲームになる……!
「どうして……今までコイン1枚しか賭けなかったのに、今になって何故……」
「さあ。何故だと思う?」
「な……何故」
「簡単だよ」
天王寺綯は大きく両手を広げる。
「今この瞬間、勝負が決まったからだ。アタシの勝ちとして、ね」
「な……!?」
パァン!!
さらに銃声。
ま、また、銃声……!?
なにかが起こっている。
この部屋と、未来とで、何かが。
「悪いね、牧瀬紅莉栖」
天王寺綯が優しい声を出す。
「実は、全部知っていたんだよ。貴女は――時間跳躍通信を使っているな」
な……
何だって!?
「さあ、今どうなっているか説明したらどうかな、2025年の誰かさん? それともこのまま、撃たれて死ぬか?」
<「に……」>
通信。
ノイズの混じった、岡部の声。
<「逃げろ、紅莉栖……」>
「岡部!? どうしたの、何があったの!?」
「2025年のミスター岡部は拘束させてもらったよ。貴女たちの通信を逆探知して、秘密基地の場所を特定したんだ」
「ど……どうして、そんなこと」
「分かりきったこと。もともと、この勝負の目的のひとつは、未来のミスター岡部を発見し、捕獲することだったのさ」
ほ……捕獲……!?
「い、一体。どういうことなの……?」
<「そいつの言葉に耳を貸すな……逃げろ、紅莉栖……」>
「ちっ」
天王寺綯の舌打ち。
机の中から、小さいイヤホンマイクを取り出して、呼びかける。
「ラウンダー部隊。そいつを少し黙らせるんだ。銃で殴って、大人しくさせろ」
直後、がつん、という鈍い音。
<「がっ……!」>
「や、やめて! 乱暴しないで!」
「それは貴女の心がけ次第だね、ミス牧瀬」
「……分かったわ。大人しくする。だから暴力はやめて」
<「駄目だ……にげ、ろ……」>
さらに殴る音。
金属で殴る音、悲鳴、踏みつける音。
<「ぐあっ……がはっ!」>
「やめて!」
「そのくらいにしておけ」
天王寺綯がマイクに話しかけると、音はぴたりと止まった。
「岡部、大丈夫……!?」
<「…………っ」>
「策士策に溺れるとはこのことだね、ミス牧瀬」
天王寺綯が勝ち誇った笑みをうかべる。
「君たちが時間を越えて通信していることは、とっくに分かっていたのだよ。その特性上、時間跳躍通信は、比較的簡単に逆探知できる。だからアタシたちは、勝負を続けるフリをして、その発信源であるテロリストの基地の場所を割り出し、襲撃をかけたのさ。細工はりゅうりゅう、というわけさ」
「そ……んな……」
わたしたちは、踊らされていただけだっていうのか。
天王寺綯の手の上で。
そういえば、通信の中で何度か、岡部が『基地が騒がしい』『侵入者がいるかもしれない』って繰り返してた。
あれは……天王寺綯の手下が、潜入していたのか……!
「未来にいるその男は実に用心深くてね。なかなか尻尾をつかめない。見つけてもすぐに遠くに逃げる。それは彼が、滅多に外部と連絡をとらないためだ。だから今回のように、長時間の通信をする機会など滅多にない。それを利用させてもらった」
「賭け金を少なくして、勝負を長引かせたのは、そのため……!?」
「その通り」
なんてことだ。
何もかも天王寺綯にコントロールされていたんだ。
勝負を長引かせれば、岡部が長時間通信せざるを得なくなる。そのぶん逆探知もしやすくなるし、岡部に逃げられる心配も少なくなる。
わたしはまんまと、天王寺綯の策略に引っかかったんだ……!
「あはははは、ショックだろうね、牧瀬紅莉栖? ではそんな貴女のために、せめてもの慰めになる情報をプレゼントしてあげよう。貴女が今まで通信していたその男は……」
<「やめろ! 黙れ! 言うな天王寺綯!!」>
「その男は、岡部倫太郎ではない」
…………。
え…………?
どういう、こと……?
「あなた、今、なんて言ったの……?」
<「聞くな紅莉栖! そいつの言うことは嘘だ!」>
「あはははは、通信傍受機をセットしたから、今なら君の声が聞こえるよ? 嘘つきよばわりとは酷いじゃないか。君は岡部倫太郎ではない。これはまぎれもない事実だ」
<「違う……っ、私は、岡部、倫太郎……っ」>
「あはは、無駄な強がりだね。そんなこと言っても、本当かどうかはすぐに分かる。君の変声装置を切ればいいだけだ」
<「なっ……や、やめろ」>
「破壊しろ」
天王寺綯が命令する。
金属が打ち下ろされる音。連続した銃声。
なにか硬い配線か基盤が割れる、ばきんという音。
<「…………っ」>
「さあ、改めて自己紹介だ、未来の誰かさん?」
沈黙。
「言え! 牧瀬紅莉栖がどうなってもいいのか!」
長い、沈黙。
そして、搾り出すような、小さな音。
<「…………ない、紅莉栖……っ」>
その、声。
<「すまない、紅莉栖……すまないっ……」>
その声。
聞き覚えがあるその声。
忘れられるわけがない。
たとえ何百何の時が流れても、聞き間違えるわけがない。
聞きなれた声。
「そんな……」
わたしの頬を、涙が一筋、つうっと流れる。
「パ……、パパ………………?」
† † †
天王寺綯は、歪んだ笑みのまま言葉をつむぐ。
「良かったねえミス牧瀬。大事な恋人でなくて。君たち親娘はお互い憎みあっていたのだろう? ならば父親がどうなろうが、気に病むことなんてないじゃないか。いやあ良かった良かった」
「どうして……パパが……?」
言葉に力が入らない。
なにがなんだか分からない。
いったい、なぜ?
パパはどうして、岡部のふりを?
「パパ、ねえ、教えて。……どうして岡部のふりをしていたの? ……どうしてわたしを助けようとしたの? パパは……わたしが……憎かったんじゃ、ないの?」
「だ、そうだが、中鉢博士。娘の質問に答えてやりたまえ」
<「……私は……」>
そして、未来の中鉢博士は――わたしのパパは――ゆっくりと、語りはじめた。
<「本物の岡部くんは……1ヶ月前に……死んだ。記憶を破壊されて、意識が戻らないまま……SERNの犯罪者収容病院で、息をひきとった。ほぼ同時期に、タイムマシンの母、牧瀬紅莉栖の病死が発表された」>
パパは、噛み締めるように語り続ける。
<「わたしには信じられなかった……実際、噂では紅莉栖は死んだのではなく、消されたのだと……用済みになったためSERNに始末されたのだという情報もあった。だとしたら、紅莉栖を救う方法はひとつしかない……タイムマシンを使って、死そのものを“なかったこと”にする方法だ」>
死そのものを“なかたこと”にする。
2010年の現在で、岡部がまゆりの死に対してやろうとしたことと同じだ。
<「だが、2025年では、タイムマシンの使用はSERNに禁止されている。だから私は……SERNと戦っている反乱軍、ワルキューレに接触した。反乱を支援するかわりに、ワルキューレが独自に開発した時間超越装置のいくつかを、使わせてもらうことにした」>
パパが……反乱軍に……
わたしを、助けるために……?
<「その過程で、岡部くんのこと、2010年に起こったタイムマシンをめぐる事件のことを知った。岡部くんの能力のこと、橋田鈴教授の正体、色々なことを知った。紅莉栖が……SERNに脅されて、タイムマシンを作らされていたことも……それまで私は、何も知らなかった……たった一人の、娘のことなのに……」>
パパの声が、潤んでいる。
<「……紅莉栖を救うためには、2010年に起こった出来事を変えるしかないということが分かった。だが2025年のワルキューレには、人の肉体ごと時間跳躍できるタイムマシンが、まだない。私にできることは、この時間跳躍通信、タイムテレパシーを使って、紅莉栖に助言を送ることくらいだった……」>
「だったら……どうして」
わたしの声も潤んでいる。
「どうして、素直にパパだって言ってくれなかったの……?」
<「すまない……紅莉栖、私にはその資格がないのだ。父親などと名乗る資格が。今でもはっきり覚えている……電話で言ったあの台詞……『お前を育てたことを後悔している』……そんなことを言う男に、父親の資格などない。お前は私を恨んでいるだろう。だからきっと……素直に正体を明かせば、拒絶されると思って」>
「そんな……わたしは、そんなこと……」
頭が混乱している。
正直、いまだに信じられない。
でも頭のどこかでは、冷静に今の状況を分析している自分がいる。
思えば、通信の岡部にはいくつか不自然なところがあった。
一度、彼の友人である橋田至のことを、愛称の『ダル』ではなく『橋田』と呼んだことがあった。
それに、この天王寺裕吾の家に案内してくれたときも、それが誰の家か知らない様子だった。
「あははははははは、いいねえ、感動の親子愛だ! お互いのことを思っていて、そのせいで誰も救われないというのが実にいい!」
天王寺綯の甲高い哄笑が地下室に響く。
「あははははは、中鉢博士はねえ、さっきのトランプゲームの途中、通信を切って逃げることもできた。秘密基地に侵入者がいることは彼も知っていたはずだからね。でも彼はそうはしなかった。……何故だと思う?」
まさ、か……。
「もちろん、貴女を守るためだ、ミス牧瀬。貴女を勝負に勝たせるため、未来の彼はあえて逃げなかった。時間跳躍通信は、一度接続を切ると再接続に非常に時間がかかるからね」
「そんな……じゃあ、まさか、パパが捕まったのは……」
「その通り。貴女のせいだ。中鉢博士が捕まったのは、そしてこれから殺されるのは、貴女のせいなのだよミス牧瀬」
「……っ、こ、殺……!?」
「そうだ。彼はルールを乱した。卑劣なイカサマで、アタシの勝負を汚そうとした。その罪のために、牧瀬博士は今日、粛清される」
「や、やめ……て、お願い、何だってするから、パパを、殺さないで……!」
<「紅莉栖……逆らうな。私が死ぬのは仕方のないこと……当然の罰だ。だが……お前は違う。お前はまだ、負けたわけではない。戦って、勝て。そして未来を変えろ」>
「やめて、お願い! 勝負なんてどうだっていい、わたしはどうなったって構わない! だからお願い、パパを殺さないで! パパを助けて!」
「あはははは、いいねえミス牧瀬。お別れの瞬間はこうでなくては。……さて中鉢博士、何か言い残すことはあるかい?」
<「…………」>
「駄目よパパ! 逃げて! そこから逃げて!」
<「なあ紅莉栖……お前がまだ7つか8つの頃、高熱を出して寝込んだことがあったな……」>
「パパ……どうして今、そんな……っ」
<「私は取り乱してな……お前をかついで、何か所も病院を走った……車なぞ持ちあわせていなかったから、街を走り回ったよ……このままでは、愛しい我が娘が、私の誇りの娘が、死んでしまうかもしれないと思って……日が暮れるまで、病院のドアをたたき続けた……。思えばあの頃は……何もかもがシンプルだった……」>
「やめて、パパ……今そんなこと、言わないで……」
<「紅莉栖……最後にどうしても、お前に言っておかなくてはならないことがあるんだ……私がついた、嘘のことを……『お前を育てたことを、後悔している』と言ったあの言葉……あれは嘘だ。私は、18年間、お前を育ててきたことを……後悔したことなんて、ただの一度だって、ない」>
涙があふれる。
パパ。
わたしのパパ。
分かってた。そんなの分かってた。
わたしのことを育ててくれたパパ。
研究を続けるかたわら、論文の翻訳や大学研究手伝いの仕事で、生活を支えてくれたパパ。
アメリカへ留学する学費だって、けっきょくはパパが全額出してくれた。
生活は苦しかったはずなのに。
研究のために、資金はいくらあっても足りなかったはずなのに。
パパがいなかったら、わたしは今まで、生きてさえいられなかったのに――
いつの間にか、甘えていた。
当たり前にそこにいるという事実に、甘えていたんだ。
あげくにケンカして……パパの夢であるタイムマシン研究を……『馬鹿馬鹿しい』なんて……言ったりして……
「ごめんね……ごめんね、パパ……」
<「紅莉栖……運命に負けるな。お前は天才だ。私なんかより……ずっと優秀で、最高の科学者だ……お前なら、未来を変えられる、幸せな未来に……」>
「パパ! お願い、パパを助けて!」
天王寺綯はその言葉を待っていたかのように、満面の笑みを浮かべた。
「ミス牧瀬、父親を助けて欲しいか?」
「お願い、パパを助けて! わたしは何だってする、あなたの言うことを何だって聞くから!」
にやりと笑う天王寺綯。
「いいだろう。中鉢博士は殺さない」
「ほ……本当に……?」
「ああ、嘘だ」
そしてイヤホンマイクに向かって、
「殺せ」
乾いた銃声が何発も響く。
体が跳ねる。
「……っ!」
体じゅうの血液が止まる。
頭が真っ白になる。
「殺したか? ――そうか。よくやった、ご苦労。撤収しろ」
イヤホンマイクを外す天王寺綯。
世界が歪んでいる。
音がうまく聞こえない。
心臓が痛い。
世界に存在するなにもかもが痛い。
パパが死んだ。
わたしのせいで。
「いやあ、実に愉快な催しものだったね。やはりタイムマシンは素晴らしい。時間を越えて、こんなにも素晴らしいドラマを見せてくれるのだから」
天王寺綯が何かを言ってる。
何?
言葉の意味が分からない。
胸が痛い。
パパが死んだんだ。
他のことは何も耳に入らない、何も――
「さあ、ゲームを続けようか、ミス牧瀬」
こともなげに天王寺綯が言った。
その瞬間、世界の色が変わる。
――何だと?
視界が染まる。
悲しみが裏返った。
裏返った先は、
――狂気。
この女、今なんと言った?
ゲームを続けようか、だと?
パパが死んだのに?
何事もなかったかのように?
――違う。
パパは死んだんじゃない。
殺されたんだ。この女に。
天王寺綯。いかれた時間超越者。
許さない。
許さない。
絶対に許さない。
その瞬間から、わたしは狂気に足を踏み入れたのかもしれなかった。
「いいわ。ゲームを続けましょう」
喉から憎悪をしぼり出すように、わたしは言った。
「やる気になっていただけて嬉しいよ、ミス牧瀬。それでは君のターンだ。アタシの賭け金は5枚。さあ、この大勝負、受けるか、受けないか?」
心の底から楽しそうな、天王寺綯の表情。
快楽殺人者め。
不思議な感覚だった。
体中の血が煮えたぎっているかのように憎悪に染まっているのに、頭の一点だけが凍りついたように冷静だ。
冷静に、この女を地獄に叩き込む方法を模索している。
――必ず、後悔させてやる。
パパを殺したことを。
このゲームを始めたことを。
「勝負しない。コイン3枚払って降りるわ」
机の上に3枚のコインを投げる。
「……ほう。頭に血が上っているかと思ったが、ずいぶん冷静じゃないか。実に結構。感情に任せて頭の回転を鈍らせるようでは、時代を変える天才にはなれないからね」
天王寺綯はカードを開く。
スペードのジャックと、クローバーのエース。
合計点数は21。
――最強の、ナチュラルブラックジャックだった。
わたしの20の手札でも、勝負すれば負けていた。
そうすれば、さらにコインを奪われ、勝負は振り出しに戻るところだった。
「実にいい判断だったようだねミス牧瀬。さすがは――」
「黙れ。御託はいい。――次の勝負よ」
「……いいだろう」
次の手札が配られる。
わたしのカードはダイヤのジャックと裏向きの1枚。
天王寺綯のカードはスペードのエースと裏向きの1枚。
「おっと、最終局面でアタシもついているな……最強のカード、エースじゃないか」
天王寺綯は裏向きのカードもめくって、数を確認する。
「……これは勝負のときだな。よし、手札はスタンド。そして賭け金はレイズ、さらに3枚だ」
――これで賭け金は最初の1枚とあわせて4枚になった。
大きい勝負だ。
「そう」
わたしはコインを指でつまんで、テーブルの中央に投げる。
「じゃあわたしはレイズ、さらに6枚」
「れっ……」
天王寺綯の顔色が変わる。
「レイズだと……!?」
場のコインは12枚。
得点差は12対8。
「ありえない! 勝負を捨てたか牧瀬紅莉栖!」
机を叩く。コインが鳴る。
「どうして? わたし何かルール違反したか?」
「いっ……違反ではないが、こんなもの正気の沙汰ではない!」
天王寺綯がテーブルのカードを指差す。
「確かにルールの上では、相手の手持ち額より大きい数字を賭けることもできる。だが意味がない! たとえ場のベット額が12枚だろうが100枚だろうが、アタシは手持ち全額の8枚で勝負することができる。だが牧瀬紅莉栖、貴女は負けたら12枚支払わないといけないんだぞ。その瞬間ゲームが終わる、貴女の負けが決定する!」
「そうね。でも意味がなくても、ルール上できるんだから、反対されるいわれなんてない」
「そ……それにもうひとつ、決定的におかしいことがある」
天王寺綯はわたしのカードに指をつきつける。
「牧瀬紅莉栖、お前は! カードが配られてから、一度も! 自分の裏向きの手札を、見ていない!」
――そう。
そのとおりだ。
わたしは自分の手札を確認していない。
だから、自分が何点の手札を持っているのか、分からない。
「それこそ、ルールの範囲内ね。自分のカードを見るかどうかなんて、あんたに指示される理由はないわ」
「勝負を捨てたか……? それともショックで頭がおかしくなったか、牧瀬紅莉栖!」
わたしは首を横に振る。
「なんとでも思ってもらって結構。だけどわたしは本気よ、どこまでもね。これは一種の、心理戦よ。あなたの好きな心理戦」
わたしは両手を広げる。
「さあ、この勝負、受ける? 点数でリードするわたしを1発で沈める、二度とないチャンスだと思うけど?」
「くっ……」
歯軋りする。
そりゃあ悔しいだろう。
天王寺綯の価値基準からすれば、わたしの行動は到底理解不能なはず。
「こんな……見え見えの罠に……アタシが、引っかかるとでも……?」
「罠でけっこう。降りるならコイン3枚で済むわ。早くそうすればいい。でもそうすればコイン差はさらに開く。勝負するチャンスはますます減る」
「……まさか……別の世界線の中鉢博士と、まだ通信支援を……? いや、それはない。逆探知システムに反応がない。ミス牧瀬は、たったひとりでこのゲームを受けている。それは間違いない……」
天王寺綯がぶつぶつと独り言をはじめる。
はっと顔をあげる。
「まさか、何かイカサマを……!? カードに傷かなにかをつけて、カードの裏を把握しているのか!?」
「そんなわけないでしょ。カードはさっき封をあけた。その後カードを配っているのは、全部あなたじゃない。わたしはカードに指一本触ってない。この状態で傷なんかつけられるわけがない」
「で、では、一体……」
「さあね」
わたしは腕を組んで、待ちのポーズ。
「さあ、早くして。この勝負、受ける? それとも逃げる?」
天王寺綯は、逡巡している。
目がきょろきょろしている。
見えない答えを探しているんだ。
額には汗が浮いている。
「コールがないってことは、降りるってことでいいのね? オーケー、それならそれでいいわ」
「ま、待てっ」
「待て? どれだけ待てばいいの? タイムマスターが聞いてあきれるわ。タイムリープを使ってないときは、ただのヘタレなの?」
「くっ……!」
天王寺綯の視線に激しい炎がともる。
「いい、だろう……! その挑発、乗ってやろう……わたしの手は強い、自分の手札も見ない奴が勝てるわけがない! 負けろ牧瀬紅莉栖! そして全てを失うのだ!」
「…………」
勝負の時だ。
泣いても笑っても、これが最終勝負。
4℃。
橋田鈴。
そして天王寺綯。
3度にわたる『送信者』たちとの勝負の結末が、このカードで、決まる――
お互いの指が、それぞれ相手の裏返しのカードをつまむ。
ゆっくりと、スローモーションで、カードが表にされる。
そのカードが示す、勝負の、結末は――
天王寺綯のカードは、スペードのエースと、クローバーの9。
合計数は、20。
そして、わたしのカードは、ダイヤのジャックと――
「なっ……何いいいぃぃぃっ!?」
天王寺綯が思わず立ち上がる。
「こんな、馬鹿な……何故だ!」
天王寺綯が表にした、そのカードは――
――ダイヤのエース。
つまり、ダイヤのジャックとダイヤのエースで、合計点は――
――21。
「一度も見ないで賭けたカードが、最強のナチュラル・ブラックジャックだとおぉぉぉっ!?」
天王寺綯が机を叩く。
「ありえない! 貴様……どこでイカサマをした! どうやった! こんなことが、自然に起こるわけがない!」
「そう思うなら、好きなだけ調べていいわ。わたしは構わない」
「くっ……!」
天王寺綯はカードをひったくり、顔に近づけていろんな角度からじっと観察した。
どこかに傷か目印がないか探しているのだろう。
あるわけない。
わたしはイカサマなんて、これっぽっちもしていないんだから。
「ない……どこにも……」
「あるわけない。いい加減認めたら? 自分が負けなんだ、ってこと」
「一体……何を……どうやったのだ……! 教えろ! 納得できない! おいガーディアン! この女を拘束しろ! 撃っても構わん!」
命令を下されたガーディアンは……動かない。
直立不動のままだ。
「おい、何をしている! さっさとこいつを締め上げろ! イカサマを白状させるんだ……!」
「どうやらガーディアンには分かっているみたいね。わたしがイカサマも何もしてない、ってことが」
「そんな馬鹿な……! そんなことがあるわけがない、イカサマもなしに、カードも見ずに勝つ、など……」
やれやれ。
見苦しいことこの上ない。
「わたしは確かにイカサマはしてないわ。カードが何かなんて一度も見ていない。けどわたしには分かっていたの。自分のカードが何で、あなたのカードが何かが、はっきりとね」
「何……!」
「このタイミング、この一戦が勝負どころだった。今まで、あなたが時間稼ぎのために1コインづつ賭けるような時間のかかるゲーム展開をしていなかったら、こうはならなかったでしょうね。勝負はもっと早くついていた。そうなればわたしが勝つかどうかは分からなかった。だからこれは、あなたのミスでもあるんだからな、天王寺綯」
「どういう……ことだ」
「わたしがこの手を思いついたのは、ついさっき。だから思い出せるかは少し自信がなかった。でも我ながら大したものね、こうやってピタリでカードを当てられているんだから」
「カードを……『思い出せる』……?」
「そう。わたしがやったのは、とてもシンプルな方法。誰でも思いつけて、そして誰もやらない方法」
「何……」
「ブラックジャックには、必勝法がある」
「必勝法……だと……?」
「そうよ。この必勝法は誰にも見破れない。なぜなら、カードには手も触れず、ただ見るだけ、なんだから――」
わたしはにっこり笑う。
「必勝法の名前は、カード・カウンティング」
「……! まさか、牧瀬紅莉栖、お前は……」
「そうよ。全て記憶し、並べ替え、確率を算出した。今までに出たカード、使われたカードの数を全て記憶したのよ」
カード・カウンティング。
それは昔からあるブラックジャックの必勝法だ。
ブラックジャックは数あるカジノ・ゲームの中で、唯一必勝法が存在するゲームだと言われている。
それがカード・カウンティング。
通常のカード・カウンティングのやり方は、こうだ。
基本的にブラックジャックでは2〜6のカードは弱く、7〜9は普通、そして絵札とエースは強い。
ゆえに既に出たカードが何かをカウントし、2〜6が出ればプラス1点、7〜9ならゼロ、絵札とエースが出ればマイナス1点とカウントする。
これを何回も繰り返していけば、プラスのポイントが高くなっていくにつれ、残ったカードには強力なカードが多く含まれる、ということになる。
普通のブラックジャックではカードが強いとプレイヤーに有利に、ディーラーに不利にはたらくため、プラスのポイントが高くなった時点で大きく賭ければ、儲かる可能性が高まる、ということになる。
――でもそれは普通のルールのブラックジャックの話。
今回のように、プレイヤー対プレイヤーの場合は、賭けの条件が同じため、ポイントが高まるだけでは有利・不利がつかない。
だからわたしは、カード・カウンティングの仕組みをもっとハイレベルに上げた。
つまり、出てきたすべてのカードの数字を完全記憶する、という方法だ。
これをすれば残りのカードが何か分かる。
ラストのゲームは12ゲーム目。
天王寺綯がゲーム数の引き伸ばし作戦に出たために、当初用意されたカードの山はかなりの量が消化されていた。
そしてこのゲーム、天王寺綯自身が宣言したとおり、使用されるカードは一度も人の手に触れたことのない新品のカードのみ。
そのうち最後の12ゲーム目に残されたカードを、これまでのカードを完全カウントし、逆算した。
可能性があるのは、9と、エース2枚と、ジャック。
この組み合わせのうち、エース1枚が天王寺綯に、ジャック1枚がわたしに配られていることまでは外から見えた。
とすると、伏せられたカードは9か、またはエース。
けれど天王寺綯は自分のカードを見て、ヒットを宣言しカードを引かなかった。
もしエースだとすれば、エースとエース。エースは1にも11にもなる強力な手札だが、ふたつ組み合わさったところで12にしかならない。これは事実上の最弱手だ。もしそうなら、天王寺綯はヒットを宣言しないはずがない。
そこから逆算して、今の手札を予想した。
後は簡単。
自分の手札をあえて見ないことで天王寺綯を挑発し、勝負に乗ってこさせる。
もし自分の手札を見たうえで12枚ベットという乱暴な賭け方をすれば、相手は必ずこちらのカードが超強力だと見抜いたことだろう。そうなればサレンダーを宣言し、ゲームを降りてしまう。
そうなればもう一度賭けなおし。必勝のタイミングを逃してしまう。
そこで手札を伏せたうえで、8枚でなく12枚賭けるという無茶をする。こうすれば相手は、『枚数で負けているが、一発で逆転勝ちできるかもしれない』という誘惑に負けて、勝負に乗ってくる。
ここで普通の心理戦であれば罠を警戒するところだが、今回はそうはならない。わたしが手札を見ていないために、ブラフの発生のしようがないのだ。
つまり、わたしはまたしても心理戦をキャンセルした。
心理戦をキャンセルし、まともな確率勝負に見せかけることで、12枚賭けという無茶な賭けを成立させたのだ。
「……というわけ。分かった?」
「そん、な……今まで出たカードを全て記憶する、だと……? それも最初から狙ってではなく、後から思い出す形で……?」
天王寺綯は震えている。
信じられないのだろう。無理もない。
「もしそれが本当だとしたら……牧瀬紅莉栖は、目の前に起こった事象を、ほとんど記憶しているということになる……一体どれだけの記憶容量があれば、そんなことができるのだ……?」
普通の人間は、見たものを端から忘れていく。
記憶容量に限界があるためだ。
普通の人間が見たものをすべてそのまま丸暗記していると、5分の情報で記憶容量がパンクしてしまうと言われる。
忘れるとは、人間が脳容量を節約するために覚えた機能なのだ。
「馬鹿だなあ、あんた。可能かどうか、だって? 可能に決まってる」
そしてわたしは宣言した。
「わたしを誰だと思っている?」
天王寺綯がへたり込んだ。
「アタシが……負けた……?」
「負けよ。さあ、約束は守ってもらうわ。最後の送信をキャンセルさせてもらう。岡部への電話に使ったケータイを渡しなさい」
茫然自失の天王寺綯。
その唇から、言葉が漏れる。
「…………る」
「何?」
「……ことわ、る」
首を振る。机を叩く。
「ことわる、ことわる! 送信はキャンセルしない! アタシは記憶を失いたくない! ただの小学生に戻りたくない!」
「なっ……」
なんて奴だ。
駄々をこねはじめたぞ。
「約束が違うじゃない。勝負は勝負、約束は守る、じゃなかったの?」
「くっ……それでも断る! キャンセルはしない! つ、次のゲームだ、次のゲームで勝てば、考えてやっても……」
わけの分からないことを言いはじめた。
でも。
「…………」
考えてみれば、これってけっこうピンチだ。
『賭けの約束を守らない』という手は、最低だが効果が高い。
わたしには手の打ちようがなくなる。
天王寺綯は、約束を守らなくても、失うものがないからだ。
この可能性を考えていなかったわけじゃないけど……
手持ちの拳銃で脅すか?
――いや、すぐ隣にガーディアンがいる。
撃ちあいになったら、重装備のガーディアンのほうが絶対有利。
――くそ。
そのとき。
予想外の人物から、声が発せられた。
「ゲーム・イズ・オーヴァー。勝負は終わりよ、おチビちゃん」
女性の声だった。
今まで直立不動だったガーディアンが動いた。
自動小銃をなめらかな動きで構えた。
「え?」
自動小銃、軍用のM4カービン銃をした。
腰だめに構え、銃口を――天王寺綯に向けた。
天王寺綯に向けて、引き金をしぼって――
撃った。
セミオート弾が3発、マズルフラッシュと共に吐き出される。
弾丸は右回り螺旋回転を描き、至近距離で天王寺綯の頭蓋骨に穿孔。
皮膚の弾性限界、頭蓋骨の破断限界をやすやすと超え、大変形、断裂、破砕。
そして当たり前のように、天王寺綯の頭がはじけとんだ。
――――な、
――――な、なに――?
天王寺綯の小さな体は弾丸の慣性に引きずられて椅子の上で半回転。
着弾した箇所、耳の上あたりから斜め上に血と脳漿を噴き出しながら、大きく跳ねる。
「えぁげ」
天王寺綯が言った。
意図のある言葉じゃない。
脳への衝撃が信号に変換されて、肺と喉が自動的に震えているだけ。
そしてすぐ静かになった。
椅子の中央に、自分の頭から噴き出した血液の中に没するようにして、死んだ。
――死んだ。
わたしはその光景を、言葉一つ発することもできず、ただ見ているしかなかった。
――なにかが起こった。
――わたしの見ている目の前で、何かが、途方もなく重大な何かが起こったのだ。
でもそれを脳が受け付けない。うまく認識しない。
ガーディアンがなぜ雇い主の天王寺綯を撃つのか、なんてまともな疑問も浮かんでこない。
ただ目の前で人が天王寺綯が憎むべき敵があっさり何の前ぶれもなく部下に撃ち殺されたことに、衝撃を受けていた。
「何を……」
わたしは下らない質問を発することしかできない。
「何を……した、の?」
ガーディアンは銃をおろした。
死んだ天王寺綯のほうにはもう興味がないようだ。
フルフェイス防弾メットのせいで表情はわからないけど、なんだか笑っているような気がした。
「…………うふふふ」
ガーディアンが哂った。
それは、女の声だった。
――女?
「かわいそうな綯ちゃん。ねぇ、そうは思わない? 死ぬ運命にない日に殺されるなんて。アトラクタフィールドに関係なく、運命とはなんの関係もなく殺されるなんて。ねぇ」
――間違いなく、女の声だ。
それも若い。
「な……何? あなたは……天王寺綯が雇った、傭兵、のはず、でしょ?」
「そう。それが世界線の選択。でも世界だってね、見落とすことくらいあるのよ?」
そう言ってガーディアンはヘルメットを脱いだ。
ヘルメットの下から出てきたのは、若い茶髪の女だ。
わたしより少し上。22、3歳くらいだろうか?
――知らない女性だ。
ストレートの長い髪を、後ろでポニーテールにまとめている。
顔は――おそろしく整っていて、綺麗。
大きな瞳。整った鼻梁。卵をさかさにしたような整った輪郭。ピンクの唇。
まるでモデルのようだ。
どことなく日本人離れしている。
欧米人とのハーフか何かだろうか?
「久しぶり……は変かしら? 牧瀬紅莉栖さん。――いえ、ここはクリスティーナと呼ばせてもらおうかしら?」
――クリスティーナ?
その呼び方は。
――誰だ。
この女は誰だ。
「私は……あなたなんか、知らない。誰、なの……どうして天王寺綯を、こんなにあっさり」
女は笑った。
どこか妖しさを感じさせる微笑。
「あなたは私に会ったことがあるわ……そして忘れてるわけでもない。あなたは覚えてる。私と会ったことを。さあ、思い出してごらんなさい? 私は誰?」
そ……
そんなこと言っても、ぜんぜん知らない顔だ。
会ってたらこんな綺麗な人、忘れるわけない。
ガーディアンの女は防弾スーツを脱いで、迷彩柄のアーミーシャツだけになった。
無骨な防弾スーツを脱いでみてはじめてわかるけど、腰が高くて、体の曲線がすごく色っぽい。
「じゃあこうしましょう? 『私が誰か』当てられたら、あなたが今一番したいこと――キャンセルDメールを送らせてあげる」
「――!?」
「あら、あなたなら簡単でしょう? 抜群の記憶力を持つ天才少女、ですものねぇ?」
女はにこにこ笑う。
「そんなこと言われても、あなたの顔なんて、わたし見たことが――」
――いや違う。これは絶好のチャンスだ。
考えろ。
顔を見たことがないからといって、会ったことがないとは限らない。
考えろ。
考えろ。
それでキャンセルDメールが送れるなら、考えるべきだ。
「…………」
「ヒントをあげるわ。今までに出てきた情報の中にはいて、まだ姿を現していない人物、ぜったいに出てこなくちゃおかしい人物がひとりいるの。みんなその人物をすっかり忘れてるみたいだけど」
出てこなくちゃいけないのに、まだ出てきていない人物……?
岡部倫太郎。
牧瀬紅莉栖。
橋田鈴。
天王寺綯。
「…………!」
いる。
一人、いる。
そういう人物が。いなくちゃいけない人物が。
「分かっ、た…………」
「あら、素敵」
……でも、だとしたら。
なぜ?
なぜ天王寺綯を殺した?
その人物が殺していい相手じゃない。
いったい何が起こっている?
「それではクリスティーナ、回答を、どうぞ」
覚悟を決めて、息を吸い込む。
そして言う。
「あなたは――天王寺綯ね」
「エクセレント」
女が手を叩いた。
「ま、今までの難問をクリアしたんだもの、これくらいは気づいてもらわなくちゃ、つまらないわ」
天王寺綯。
死んだはずの少女。
その少女が、わたしの目の前にいる。
少女とは似ても似つかない、成熟した姿になって。
でも。
よく見れば、共通した部分がいくつか見つかる。
鮮やかな栗色の瞳と、欧米風の顔立ち。
もともと、天王寺裕吾はフランス人のハーフ。娘の綯はクォーターにあたる。
「あなたは……過去に跳んだほうの、天王寺綯だ」
わたしは推理を続ける。
「タイムマスターとなった天王寺綯は……一度SERNのタイムマシンを奪って2000年に過去遡行し、橋田鈴教授に接触した。でもその物理タイムマシンは1人乗りで、1人しか2010年に戻ることはできなかった。だから、『過去に戻った天王寺綯』という記憶データを持った橋田鈴教授だけが、2010年の今に戻ってきた。橋田鈴教授は、そう言ってた」
「その通りよ」
ここまでは、橋田鈴教授から聞いた話だ。
そしてここからは、単純な引き算。
「――ということは、2000年には、物理的に天王寺綯の肉体が残ったはず。自殺でもしない限り、その天王寺綯は、普通に、生きていかなきゃならない。その結果、この現代には、少女の天王寺綯と、10年の時間を生きて成人した天王寺綯が、ふたりいることになる」
そして成人した天王寺綯は、今回の事件のすべてを知っている。
だとすれば、なにもせず見てるだけ、なんてことは考えられない。
「そうよ。なかなか凝った趣向でしょう? そしてこれが、おチビちゃんが何も気づかなかった理由」
そう言って大人の綯は――血だまりの中で死んでいる少女の頭を掴みあげた。
死体が揺れる。
大人の綯はなにを気にするふうでもなく、死体の髪の毛を掴んで顔を上げさせると、まぶたを引きおろした。
まぶたの中に、黒い粒のような機械が埋まっている。
「洗脳、装置……」
「そ。おチビの天王寺綯は操られていた、ってわけ。本人も気づかないうちにね。本人は、自分が考えた計画を遂行してるつもりだったわよ? さすがにその計画が、他人に――っていうか自分自身に――操られた結果だなんて、夢にも思わなかったでしょうけど。ふふ、お気の毒」
「じゃ、あなたが――この事件の――黒幕」
すべてを仕組んだもの。
ほんものの『タイムマスター』。
この女が――岡部を記憶死させ、橋田鈴教授を助けておいてまた殺し、未来のパパを殺させた。いろんな人たちの運命を乱した。
その首謀者。
この女が。
「あなたが……首謀者……っ!」
「あらら、怖い顔。嫌ね、私はただおチビちゃんの計画に相乗りしただけ。ちょっと目的を変えさせてもらっただけよ? 首謀者だなんて、そんな人聞きの悪い」
よく言う。
洗脳しておいて、用済みになったら殺したくせに。
こういうのは相乗りなんていわない。
『計画を乗っ取った』っていうんだ。
「あなたの目的は、何……! いえ、そんなこと関係ない。さっきあなたは『正解したらキャンセルDメールを送らせてあげる』と言ったな。そしてわたしは正解した。約束は守ってもらうわ」
「あらあら、見かけによらずがめついわね、クリスティーナ」
「わたしをクリスティーナと呼ぶな!」
激昂して叫ぶ。
「わたしを……クリスティーナと呼んでいいのは………………1人だけだ……!」
「あら、怖い」
本物のタイムマスターは、わざとらしく両手を挙げた。
「それに、キャンセルDメールは送らせてあげられないわ」
くそっ!
またそれか!
「約束を、破るのかっ……! わたしは正解しただろっ……!」
「いいえ。あなたは半分しか正解してないもの、クリスティーナ」
「なぜなら、私は、天王寺綯じゃないから」
――は――?
今度こそ、何を言っているか分からない。
彼女は天王寺綯だ。
いちど過去に戻って、年齢を重ねた天王寺綯だ。
さっき自分でもそう認めたじゃないか。
「分からない……支離滅裂もいいとこだっ……!」
「そうでしょうね。でもこれは、ほんとうのことよ。では問題、私は誰でしょう?」
「…………」
答えられるわけがない。
彼女は天王寺綯だ。
それ以外の何者でもない。
「ではヒント。天王寺綯の計画を実行して、いちばん喜ぶのは誰?」
――喜ぶ人物?
天王寺綯の目的は――わたしを、牧瀬紅莉栖を成長させること。
わたしの脳に負荷をあたえて、より知能の高いわたしを作ること。
そして、『タイムマシンを超える発明をさせる』こと……。
……………………。
いや。
分からない。
そんなことをして得をする人物?
そんな人物、いるはずない。
「分からないかしら? では次のヒント。天王寺綯はアトラクタフィールド理論にとても詳しい。自分で“時の支配者”って名乗ってたくらいだもの。――そんな彼女の計画を、時間理論を利用して乗っ取れる人物は? 綯の裏をかける人物は? 綯よりもはるかに、時間理論を詳しく、知り尽くしてる人物は?」
……………………。
いや。
それでもやっぱり、分からない。
そんな人物、いるはずない。
わたしには答えられない。
「まだ分からない? それじゃ次のヒント」
タイムマスターは、部屋の隅からヘッドフォンを持ってきた。
合計27チャンネルの3体測距と、空間内位置を補測定するためのジャイロスコープ。
タイムリープマシンの入力装置である、ヘッドフォンの改造品だ。
「これ、いい装置よね。誰が作ったのかしら? すごくいかしてるわ」
……………………。
分からない。
わたしには、分からない。
分かるわけがない。
「全く、駄目ねぇ。それじゃ、最後のヒントよ」
タイムマスターは、わたしの耳元に近づく。
唇が触れるくらい耳に近づけてから、そっと、優しく、つぶやいた。
「マイフォーク」
…………!!!
そんなこと、あるわけない。
そんなこと、あっちゃいけない。
もしそれが本当だったら――
だとしたら、
わたしが今、相対しているこの人物は――
天王寺綯の計画を『乗っ取った』、この人物は――
ほんとうの、タイムマスターは――
その女性は最初と同じ言葉を、もう一度言った。
「久しぶり、は変かしら? クリスティーナ」
わたしの胸の奥で、なにかがこわれる。
目の前の景色の意味が一変する。
世界の色合いが失われる。
足元がガラガラと音を立ててくずれる。
「そん、な……」
そんなのって。
そんなのって、ない。
ひどいじゃない。
そんなの、あんまりじゃない。
「ショックだった、かしら? ごめんなさいね。でも分かるわ、その気持ち」
真のタイムマスターがこともなげに言う。
「『タイムマシンを超える発明』って……何のことだと思った?」
わたしは答えられない。
答える力がない。
「それはね、クリスティーナ。もうすでにあなたが発明してたものだったの。この装置。タイムリープマシンの一部。人の記憶を抜き出してバックアップし、好きなときに戻せる装置、つまりこのヘッドフォンのことよ」
タイムマスターは、持っているヘッドフォンを、いとおしそうに撫でた。
「タイムマシンなんて、しょせんは欠陥品の発明よ。情報や人を過去に飛ばしても、飛んだ先はそこはもう別の世界線。厳密な意味では、過去を変えることはできないの。たとえどんな高性能なタイムマシンでもね。――でもこの装置は違う。人という種の可能性をまったく変えてしまう」
タイムマスターは優しげに語る。
「予言しましょうか。あなたはこれから先の未来、記憶の書き込み機能の改造にとりかかるわ。そして数年のうちに、脳の器質限界を超えるの。――ひらたく言えば、今までできなかった『記憶データを、まったくの別人に書き込む』っていう実験を成功させるのよ」
やっぱり、そうか。
そうなのか。
「そしてあなたは、自分が近いうちに死ぬことも、すでに知っている。そうでしょう? だからあなたは、過去に記憶データを送ることで、死を回避しようとするわ。あなたは自分の発明した装置で記憶を取り出し、過去の天王寺綯に記憶を書き込む。そして天王寺綯+牧瀬紅莉栖というふたりの人物の記憶を持った、新しい人物――真のタイムマスターが誕生する」
あああ。
馬鹿な。
あっちゃいけない。
そんなこと、あっちゃいけないのに。
否定できない。
わたしはそれを否定できない。
将来そんなことを絶対にしないって、言い切れない。
そんな――
じゃあ、今回の事件は――
岡部の記憶死に端を発する、この一連の事件は――
目の前の女が。
他でもない。
牧瀬紅莉栖が、仕組んだっていうの――?
心のかたちが崩れる。
もう何も分からない。
何を信じていいのかも分からない。
何が正しいのかも。
何をすべきなのかも。
わたしは一体誰で、何をする人物で、何をしたいのかも――
分からない。
なにも分からない。
――わたしは牧瀬紅莉栖。
1992年7月25日生まれ。
血液型はA型。ヴィクトル・コンドリア大学院卒業。
脳科学研究所の研究員。
隠れ@ちゃんねらーで、SF小説とラーメンが好き。
世界初の、タイムマシンの発明者。
それが、わたし。
わたしを形づくる情報。
そしてわたしの望みは――岡部を助けること。
そう思ってた。
そう思い込んでた。
でも――
「さて、すべてを知ったあなたに、選ばせてあげるわ」
タイムマスターがにっこり笑う。
「ここにすべてがある」
タイムマスターは、部屋の一隅、カーテンのかけられた壁に向かった。
ラボの実験室のあるアコーディオンカーテンに似ている。
カーテンをさっと引くと、そこに岡部がいた。
「岡……部……」
岡部はぐったりと座り込んでいる。
意識はないようだ。
背中のほうで手を縛られて、背後の壁にくくりつけられている。
岡部が座っているのは、大きな42型ブラウン管テレビ。
そしてその隣には、電話レンジ(仮)。
タイムリープ調整用のX68000。
岡部に、テレビに、タイムリープマシン。
ラボから盗まれたものは、最初からぜんぶ、この部屋にあったんだ。
「この部屋には、ラボのタイムリープマシン環境を完全に再現してあるの」
タイムマスターの声。
その声も、どこか遠くから聞こえるようだ。
「タイムリープマシンはスタンバイ状態で、いつでも使うことができるわ。情報圧縮はブラックホールのかわりに時間跳躍通信を使ってるから、SERNへの直通光回線もいらないの。マシンの調整にちょっと手間取ったけど、なんとかなったわ。ま、昔とった杵柄ってやつかしら。ふふ」
タイムリープマシンが――使える。
今すぐに。
でもそれは、何を意味してる?
「これからあなたに、一度だけタイムリープマシンを使わせてあげる。好きに使いなさい」
…………。
…………何だっ、て?
「タイムリープマシンを使って、あなたの望みをかなえなさい。さあ、あなたは何がしたい? 世界をどうしたい?」
「どう、して?」
自動的に質問が口からもれた。
「どうして……タイムリープマシンを使わせる?」
「さあ、どうしてかしら。考えてみたらどう、その自慢の頭脳で?」
「…………」
分かるわけがない。
相手はわたしの上をいく人物なんだ。
理解できるわけがない。
いや、そもそも。
それ以前の問題だ。
わたしには――
「わたしには、どうしようもない。どうせ全ては収束するんだ。どうせわたしはいつか記憶を過去に送って『タイムマスター』になる。そこにわたしの自由意志はない。いえ、人間に自由意志なんて、はじめからないのよ」
未来は収束する。
起こるべきことは必ず起こる。
わたしが今どう思おうと、きっとわたしはタイムマスターになる。
そして岡部を――殺す。
わたしに『選ぶ』なんて贅沢、許されない。
『選ぶ』なんて、錯覚だ。
わたしはちゃんと『選んだ』つもりでも、未来のわたしがすでに『選んだ』ことを、なぞってるにすぎないんだ。
なのに。
なのに、どうして。
「なのに、どうしてあなたは……わたしを試すようなことをするの……牧瀬、紅莉栖」
牧瀬紅莉栖は笑う。
母親みたいに。
「あなたの選択に興味があるからよ、クリスティーナ。あなたは未来は決まってるって言ったわね。私もそう思うわ。でも、タイムリープマシンだけが、その未来を覆せる」
…………。
そうかもしれない。
過去を変えられるのは、今と未来を変えられるのは、タイムリープマシンだけだ。
目の前の女性――牧瀬紅莉栖が言うことは、正しいかもしれない。
「でも、あなたは……わたしが今からどういう選択をするか、知ってるのでは?」
「厳密な意味では知らないわ。わたしが経験した世界線の『過去』では、全く同じことが起こったわけじゃないから。でもねぇクリスティーナ、あなたのことは、手に取るように分かるのよ。あなたがどう動くかなんて、ぜんぶ私の計算のうち。そうなるように全てを仕組んだんですもの。だからこそ興味があるの、あなたがどう行動するのか、ってことに」
「そんなの……残酷だ、わたしにいったい、何を選べって言うんだ……」
もはや、この闘いの意味は180度変わってしまった。
岡部の記憶死をキャンセルすれば勝ちだと思ってた。
そうすれば、あとは岡部がすべてうまく解決してくれると。
でも、問題はそんなに簡単じゃなかった。
タイムリープで、他ならない、わたしを変えなくちゃならない。
ひょっとしたら、うまくいくかもしれない。
でも世界線が大きく変動して、わたしがわたしじゃなくなるかもしれない。
そもそも、世界線を変えること自体が、わたしの意志ではできないかもしれない。
わたしは選択できる?
選択して、欲しい未来をつかみとることができる?
わからない。
だとしたら――やることは、ひとつだけ。
牧瀬紅莉栖が、引き止めるように声をかける。
「ひとつ、ためになることを教えてあげるわ。セクシー牧瀬センセイの、ワンポイントレッスン。世界線が無限にあるのはもう知っての通りだけど、そのなかにもいくつか、変り種と呼べるものがあるの。他からの観測干渉をいっさい受け付けない独立した世界線『シュタインズゲート』もそのひとつ。あとは、人の生死を管理する世界線、それから世界線自体がぶつぶつに千切れた不連続の世界線、なんてものもある。わたしはその世界を『エンドレスナイン』と名づけた。――理由はすぐに分かるわ」
…………。
そんなものが、今わたしがしようとしている決断になにか関係があるのか?
わたしはのろのろと、タイムリープマシンに歩みよる。
牧瀬紅莉栖は、何も言わずにそれをじっと見ている。
――岡部が、そこにいた。
何も言わず、眠ってるみたいに座ってる。
わたしは岡部の体を抱きしめた。
何も言わず、力いっぱい抱きしめた。
「岡……部……!」
岡部は抱きかえしてこない。
ぴくりとも動かない。
それでも抱きしめる。
腕の中に岡部のぬくもりがある。
でも、それだけ。
岡部は抱きかえしてこない。いつもの軽口を叩かない。
わたしの名前を呼んでくれない。
胸が割れそうになる。
だから無理矢理に、唇を押しつけた。
唇はほのかに温かい。
でも、それだけだった。
岡部はキスを返してくれないし、なにか言ってもくれない。
こんな世界に――
こんな世界に、なんの意味がある?
わたしはタイムリープマシンをセットする。
目標日時は2010年の8月14日、12時10分。
わたしが生まれてはじめてタイムリープしたときの、目標日時。
42型ブラウン管テレビを点等させる。ヘッドギアをかぶる。
こんな世界は“なかったこと”にしなきゃ。
こんな世界は“なかったこと”にしなきゃ。
こんな世界は“なかったこと”にしなきゃ。
「それがあなたの選択?」
牧瀬紅莉栖が無表情で問う。
わたしは答えない。
確かなこと。
それをわたしは求める。
そしてひとつだけ、確かなことがある。
――あの時。
岡部とかわした最後の言葉。
今はもうはるか昔のことのように思えるラジ館の屋上で、わたしが言おうとした言葉。
言えなかった言葉。
岡部は、わたしかまゆり、どちらか一方しか救うことはできないと言った。
そしてわたしは、気づいていた。
気づいていて、言わなかった。
方法があること。
ふたりとも助けることのできる方法があること。
それは、停止。
それは、時間の否定。
永遠に、ふたりで、過ごすこと――。
それを、する。
電話レンジを起動する。
青白い光。
ほどなくそれはうねり狂い、黒の混じった紫電を放出しはじめる。
空気の焦げる匂い。
わたしはマシンの送信スイッチに手を伸ばす。
一度だけ、牧瀬紅莉栖を見る。
牧瀬紅莉栖は、無表情でわたしを見ている。
あなたがそうすることはとっくに知ってましたよ、とでも言いたげな表情だ。
――そう、牧瀬紅莉栖はわたしと同じ行動をすでに取っている。
だからわたしがこうすることは、すでに織り込み済み。
でも同時に、牧瀬紅莉栖は決して、これからを知ることはない。
なぜなら、未来には永遠にたどり着かないから。
これが答え。
わたしは岡部といっしょに、生きる――
タイムリープマシンを起動する。
装置が起動し、わたしの脳を持っていく。
さよなら、世界。
さよなら、牧瀬紅莉栖――
時間がわたしを包み、世界が裏返り、あらゆるものが後方へ流れていき――