赦しえぬものへの赦し、ロビン西『ソウル・フラワー・トレイン』
ロビン西『ソウル・フラワー・トレイン』全1巻(エンターブレイン/2008年4月)
◆「赦しは赦しえぬものだけを赦す」「赦しえぬものの赦しという謎のなかには、法政治的なものが接近することも、まして我有化することもできない、ある種の「狂気」がある」(ジャック・デリダ「世紀と赦し」)
◆トマス・ド・クィンシー、シャルル・ボードレール、ジャン・コクトー、ヴァルター・ベンヤミンが執着してやまなかった麻薬陶酔の夢幻世界を、大阪的風土のアンチ・ヒーローのアンチ・ヒロイズムの世界と融合させ、異様なまでのハイテンションで物語を味読する快楽に人を誘う大著『マインド・ゲーム』(飛鳥新社/2004年)からの沈黙を破り、待望のロビン西の小品集成が、エンターブレインからついに刊行。
◆全6編の短編集『ソウル・フラワー・トレイン』は、大阪を舞台とする平凡な学生群像劇にとどまらず在日コリアンとの共生という(知られながらも)語られざる大阪の現実を盛り込んだ「MONKEY」、同じく大阪を舞台に中学校入学とともに疎遠になった男女の一夜限りの再会を情感豊かに描いた「銀河鉄道走ろう」、表題作の「ソウル・フラワー・トレイン」、東京・中央線のモデルチェンジに取材して中央線車両を擬人化しながらも不思議なことに一級の人情噺に仕上げられると同時に、中央線文化圏が大阪文化圏にどこかで一脈通じることを感じさせる「さらば201系」、不器用な一家の不器用な死に様のなかに感傷的な家族愛を探る「虹のマリちゃん」、死を目前に控えた老夫婦がかつての愛車=走馬灯に身を任せて過去を搭乗の一瞬のうちに想起する「陸翁」と、いずれ劣らぬ傑作からなる作品集。
◆いずれの作品も熟読ないし再読に値する名品揃いといえるが、なかでも「ソウル・フラワー・トレイン」(『アフタヌーン』1995年4月号(講談社)が初出)は、本書の角書きにある「大阪叙情短編集」という枠組に収まりきれない、ある真摯なテーマを提出している。そのテーマ、「赦し」は、ことにこの作品のなかでは、大分に居を構える父親「天本薫」が通学のため大阪で一人暮らしを始めた一人娘「天本ユキ」を訪問するところから展開される。
◆父親は広島で乗りあわせたスキンヘッドのチンピラ男「立花君」の案内で大阪・天王寺を案内され、天王寺動物園、串カツ屋、通天閣の夕陽を一望し、ストリップ小屋を覗いたあと、ようやく娘に再会。再会を懐かしむのも束の間、あまりにも美しく変わってしまった娘の姿、娘にどこかで遭ったことがあるという「立花君」の不可解な言葉、ストリップ小屋の名物芸「花電車」で使われていたラッパと習字道具を娘の部屋で発見したことから、父の心は千々に乱れる。
◆翌朝、妙な憶測を振り払うように大分に戻ることにした父親だが、ふたたび「立花君」に会い、懸案の娘の現在の素性について問い質し、真実を聞く。それを確かめるべく二人で向かった先は、前日のストリップ小屋。そこで出逢ったのは、女子大生トップスター「天城ユキ」としてステージに姿を見せた娘の姿。しばらくは身を硬くして微動だにしなかった父親は、股間に挟んだ筆でリクエストされた文字を書く「花電車」の時間になった途端、「立花君」の制止を振り切って、手を上げ身を乗り出し自らリクエストを申し出る「暴挙」に打って出る。父親とのありえない「再会」を前にして戦く娘に、しかし父親は「頑張れ!!/ユキ! 頑張れ……」と声を張り上げつづける。
◆ここに、まず第一の「赦し」の情景があらわれる。父による娘への「赦し」。心魂込めて育てた娘の信じがたい姿を前に、「安心したっちゃ、元気そうで愉快にやっとんのじゃな」と娘をいたわり己をなぐさめた父親としての定型句を伝えた前日から一転し、「立花君」とともに向かったストリップ小屋で動揺したのも束の間に見せた「暴挙」は、「立花君」の言葉通り「自分を傷つける」行為、自分に懲罰を与えることで娘に「赦し」を与える行為ともいえる。ただ、娘を信じたいという親子愛ゆえの人情にあふれたこの「赦し」は、やや奇矯なシチュエーションをともなうものの、理解しがたいものではない。
◆そして、博多行の新幹線に乗りこむホームで別れを惜しむ父親に「立花君」は、父親のバッグから10万円を盗んだことを涙ながらに告白する。が、父親はそれを聞いた直後、ゆっくりとほほえみ、あれはガイド代だと思っていると告げ、そのまま大阪を後にする。
◆したがって、ここには、第一のそれよりも奇妙で不可解な第二の「赦し」の情景があらわれる。第一の「赦し」が、感情に左右されて懲罰なしにはありえないという意味で、人知の枠内で展開されるという限界を抱えていたのに対し、第二の「赦し」は、法的にも道徳的にも赦しがたい行為にもかかわらず、これを赦す。すべてを知りつくしたような父の笑顔と悔悛の涙に暮れる「立花君」との非対称のポジションは、なぜ赦すのか当事者たちもわからないままに和解へのプロセスがすでに進行しているという、「赦し」において最も不可解であると同時に最も本質的なポイントを踏まえている。……「赦しとはしたがって狂気であり、奥深くへと突き進んでいく、だが灯に照らされながら、不可知の夜のなかへ……私に赦しを請うが、私が理解し私を理解する誰かにたとえ私が「私は君を赦さない」と言うとしても、そのときに和解のプロセスは始まっていたということになる」(ジャック・デリダ「世紀と赦し」)。
◆「赦し」の二つの情景から時は過ぎ、大分の家でそのときのことを回想する父親は、妻とともに農作業に精を出しながら、約束した娘の帰省を妻とともに待ち望む。そして「あの日 約束した通り ユキは今日 帰っちくる」という言葉とともに、娘が寄港する船着場に妻と向かう。
◆あえて不均衡なバランスに造形された人物デッサン、展開に軽快なテンポをもたらす大阪方言、より緩やかな感情移入を導くノイズが排されたコマの絶妙な配置(たとえば、111、115、118、150、157頁)、そして「赦し」の情景。複数の要素がポリフォニックに折り重ねられた本作が、この短編集の代表作であるばかりでなくロビン西の代表作でもあることは、信じがたい「赦し」までも現実のものとする人間悲喜劇を生みだす桃源郷としての(幻想の)大阪を造形したという点でも、もはや疑いようがない。
+SIGHT内関連記事コメントをどうぞ