第8講 【憲法からみる日本政治の展開】 (1) 大日本帝国憲法の制定とその特徴


T:大日本帝国憲法の制定

ペリー来航が開国につながり、不平等条約もあいまって国内の混乱を呼び、幕府に対する弱腰外交の批判が高まり、倒幕運動を引き起こし、大政奉還に至った。これは中学の歴史で学んだはずだ。これにより、江戸幕府は崩壊し、近代国家へ向けた政治・経済・社会的な改革が進む。いわゆる明治維新である。この流れで、明治政府が成立し、倒幕運動の中心だった薩摩・長州藩出身の者たちによる藩閥専制政治が展開されることとなる。これらの藩出身の有力者が天皇の下に政治的実権を掌握していく。さて、幕府が倒れる前後では、民衆の生活はどう変わったのか?たしかに文明開化と呼ばれるように、欧米の華やかな文化が流入し、都市部の人々の生活は激変したかもしれない。では、政治面ではどうだろうか?統治者が徳川家から薩長の有力者に代わった。でも、これって民衆からしてみればどうであろうか?支配者が代わったに過ぎない。支配する者、される者がいる社会で、民衆は支配される側にあることに何ら変わりはない。代わった薩長は、選挙により選出された代表者ではない。幕府を倒した勢いで、そのまま10代の若い天皇を担ぎ上げて政治の実権を実質的に握っているに過ぎない。その権力に正当性はない。また、憲法を制定し、そこに示されたルールに基づいて政治を展開しているわけではない。民主主義に近付いたわけでも何でもない。民衆にとってみれば、為政者が代わっただけで、正当性のない権力に政治を独占されている状況には変わりはないのだ。


ただし、そのような状況が長く続いたわけではない。鎖国による遅れを取り戻すため、富国強兵を目指し、積極的に国を開けば、欧米の先進の技術・モノ・が入ってくる。…が、国内の変化はハード面だけにとどまらない。その中では、必然とソフト面でも変化が起こるのだ。自然と欧米から最先端の情報や思想も入ってくる。また、それが良いものであれば、広めようとする者が国内から登場してくる。そう、遅かれ早かれ、欧米の民主主義思想は日本に伝わることになるのだ。そして、やがて日本人は、自国の政治が欧米の政治とあまりにかけ離れていることに気付く。ルソーの『社会契約論』を訳し、フランス流の天賦人権論を国内に広めた中江兆民は有名だ。そのほか、『学問のすすめ』・『文明論の概略』など多くの名著を残し、慶応義塾を創設した福沢諭吉も同時代に活躍した啓蒙思想家だ。


やがて、1870年代半ばから、藩閥政府に対して、憲法制定や議会開設を言論によって要求した自由民権運動が始まる。その中心となったのは?民撰議院設立建白書を発表した板垣退助らだ。この運動は次第に熱を帯び、全国的に展開される。このような中で、私擬憲法(民間人が作成した憲法草案)の作成活動が活発化する。1880年、東京五日市の千葉卓三郎ら農村青年が書き上げた五日市憲法や、1881年に発表された植木枝盛の日本国国憲案は有名。特に、植木枝盛、彼の草案は、権利や自由の詳細な規定や抵抗権などが明記されており、現代に通じる民主的な内容であったと評価される。このような全国的な運動に対して、政府はどのような対応をしたか?新聞紙条例や集会条例などを制定し、そのような運動を弾圧していたが、運動の高まり、広がりを受け、1881年、国会開設を公約するに至る。そして、そのような民主的な政治を展開するためには、政治にルールを定めておかなくてはならないから、国会開設に先立って憲法を制定しなくてはならない。…が、日本には今までに憲法なるものが存在したことがなかったのだから、いきなり作れといっても作れるわけがない。そこで、明治政府は、伊藤博文らを憲法調査のためヨーロッパへ派遣した。一方、板垣退助は自由党を結党、大隈重信は立憲改進党を結党するなど、来る立憲政治に向けて着々と準備を進めた。


そして、1889年、プロイセン憲法(現ドイツ)を模範に、大日本帝国憲法(明治憲法)が制定された(施行は翌1890年)。なぜ、各国の憲法を調査した結果、プロイセン憲法をモデルとすることにしたのか?それは、明治政府が民衆の民主主義要求の叫びを受け入れつつも、天皇主権を理想としていため、君主に強い権限を認めていたプロイセン憲法を参考に起草したのだ。ゆえに、大日本帝国憲法は、民定憲法ではなく、君主(天皇)が国民に授けたという形をとる欽定憲法なのである。欽定憲法であり、国民主権でないことから、為政者次第で、その後の日本の立憲政治は、絶対主義的にも民主主義的にもどちらにでも転ぶ要素はあったのだ



U:大日本帝国憲法の特色

第1条:大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

第3条:天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラズ

第4条:天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

これらの条文から天皇主権であることがはっきりと読み取れる。天皇は統治権の総攬者である、とも書いてある。「総攬する」とは、あらゆるものを一手に握る、ということ。つまり、天皇は、立法権・行政権・司法権の全てを統括する者という位置付けだ。では、議会や内閣、裁判所の存在意義とは…。


<帝国議会>

天皇の立法権の協賛機関という位置づけ。法案審議などは形だけで、最終的な決定権は天皇にあり、その意味で、議会は同意の意思表示的な機関に過ぎないということだ。なお、帝国議会は貴族院と衆議院の二院制。貴族院は、その名前から分かるとおり、非民選である。皇族や華族、多額納税者など天皇から任命のあった者が議員となった。そして衆議院が民選議院である。とは言うものの、当初の選挙権は、15円以上の国税を納める25歳以上の男子という条件をクリアした者にだけ与えられ、それは全人口の1.1%に過ぎなかったというから、民主主義というにはあまりにお粗末である。納税額という制限がなくなり、25歳以上の男子普通選挙が実現するのは1925年のことである。


<内閣>

各大臣は、天皇の行政権の輔弼機関という位置づけ。「輔弼する」とは、補佐するということである。ここでもやはり、最終的な行政権は天皇自身にあり、内閣やそこに属する各大臣はあくまで飾りなのだ。そして注意したのは、ここでの内閣とは、イギリスの議院内閣制のところで学習したようなものではないということ。各大臣は天皇が個別に直接任命するため(もちろん首相も)、議会が選んだメンバーではまったくない。内閣は、天皇の任命により誕生しているのであって、議会の信任を受けて誕生しているのではない。したがって、議会に対して責任を負わなくてよいのである。だから、大日本帝国憲法下では、議会の信任に左右されない超然内閣が続くのだ。


<裁判所>

天皇の名において裁判を行う機関。当然、違憲立法審査権など持たない…。


<枢密院>

あまり聞きなれない機関だが、大日本帝国憲法下では枢密院と呼ばれる機関が置かれた。簡単に言えば、天皇の最高諮問機関である。大政治家や有識者で構成され、天皇の政治に対するアドバイザー的存在で、政治を大きく左右した。こんなものが議会や内閣を超えて、天皇の一番近いところに存在したため、内閣の政治や議会政治の健全な発展の妨げとなったことは言うまでもない。


<天皇大権>

大日本帝国憲法では、主権者である天皇に対して、帝国議会の了承なしに自己の判断で決定できる、政治上の大権を広範囲にわたり認めていた。例えば、陸海軍の統帥権(陸海軍の指揮・命令権で、軍部の司令官の輔弼を受けて統帥した。これに関しては内閣も議会も直接関与できなかった)、緊急勅令(天皇の発する命令で、法律と同等の効力を持った。帝国議会閉会中など、緊急を要するときなどに天皇の独断で発せられた)、独立命令(緊急勅令同様、天皇の発する命令で、法律と同等の効力を持った。法律のない領域について、議会を通さずに発する命令)などが挙げられる。そのほか、憲法改正の発議、宣戦布告、講和、条約締結も天皇大権事項だ。


<国民の地位と人権保障は?>

この大日本帝国憲法は、天皇主権であることから、国民を主人公に置く現在の日本国憲法とは対極にある憲法だと思っていい。では、憲法上、国民はどのような地位として扱われ、人権はどの程度保障されていたのだろうか?欽定憲法の性格上、諸権利は主権者たる天皇が恩恵的に国民に与えたという思想に立つ。したがって、市民革命期の欧米で活躍した啓蒙思想家の主張や、現在の日本国憲法などにおける、「人権は人間が生まれながらに持つ、侵すことのできない永久の権利」という発想は皆無である。憲法上、国民は「天皇の臣民」、つまり天皇の従者という形で位置付けられた。日本国憲法では自由権一つをとっても、国民の自由を侵さないよう、かなり詳細に広範囲にわたりその保障が列記されているが、大日本帝国憲法では、「人権は天皇が臣民に恩恵的に与えたものに過ぎない」という発想だから、臣民に保障された人権は、かなり範囲は狭く限定的であった。しかも、憲法に記載されている人権であっても、事後的に法律を制定して人権を制限することが可能であった。これを「法律の留保」と表現している。事実、大日本帝国憲法では居住・移転の自由、信書の秘密保障、信教の自由、言論の自由、集会・結社の自由などの自由権が認められていたものの、帝国議会が制定した法律によってその自由が奪われることが少なくなかった。1925年制定の治安維持法などはその代表的な悪法だ。天皇制に否定的な平等社会を目指す社会主義者を取り締まるという名目で、国民を思想的に統制し、政府の行政に対する反論を封じていった。国民が政治に対して意見を述べたり評価したりすることができないということは非常に恐ろしい状況だ。民主的な手続はあくまで選挙までであり(もっとも健全な選挙活動も阻害されている)、その後の政治が悪政であっても、国民はそれに従わざるを得ず、国政は政府の思いのままである。ファシズムが合法的に台頭したのも無理はない。この点で、法律の留保は、ドイツで発達した法治主義の傾向と類似する。治安維持法の他、それに先立って制定された1900年の治安警察法や、太平洋戦争を目前に控えて制定された1938年の国家総動員法なども、憲法が保障した人権を制限したという点で、同様の性格を持つ。大日本帝国憲法は、アジア初の近代憲法ではあったが、国民を臣民と位置づけ、立法による人権制限を認めた内容であったため、欧米の人権宣言文書や近代憲法と比較し、極めて不十分なものであったと言わざるを得ない。これが、後に国内外に多大な迷惑をかける軍国主義の台頭を許すことになるのだから…。



V:大日本帝国憲法下での政治体制の変遷


<大正デモクラシー>

自由民権運動の流れを受け、憲法を定めて立憲政治をスタートさせたはずだったが、出来上がった大日本帝国憲法が上記のような内容のものであったため、結果的に国民の人権を侵害する軍国主義が台頭することとなった。しかし、大正時代、一時的にではあるが、憲法の専制的な運用・解釈を批判し、憲法が民主主義的に運用され、議会政治が台頭するという場面もあった。大正時代における民主主義的改革を要求する運動や風潮を大正デモクラシーと呼ぶが、その時期の出来事について、大まかに確認していきたい。


大正に入って間もない、1912年、まずは尾崎行雄(当初は立憲改進党・立憲政友会に所属し、政党政治家として活躍、戦時中もファシズムに抵抗、「憲政の神様」と称される)や犬養毅(後の五・一五事件で暗殺される)らが中心となって第一次憲政擁護運動(第一次護憲運動)を展開した。超然内閣を批判し、ときの第三次桂太郎内閣打倒に力を注いだ。桂太郎といえば山口県(旧長州藩)出身の大政治家である。彼らは藩閥政治の打破と、憲法の民主主義的運用を叫んだ。そして、この運動は、軍部・藩閥官僚勢力の維持に努めていた桂太郎を退陣に追い込むことに成功する(大正政変)


その後、1918年、ついに本格的政党内閣が誕生する。原敬内閣だ。大日本帝国憲法下では、基本的には議会の信任云々ではなく、諸大臣は天皇からの任命であったが、ここにきて、そういった超然内閣から、議会の支持を得て誕生する政党内閣へ変化する。衆議院の第一党であった立憲政友会の総裁であった原敬は、軍部・外務大臣以外はすべて自党のメンバーで組閣した


しかし、1924年の清浦内閣の誕生は、護憲派を再び刺激する。清浦内閣は政党から大臣を抜擢せず、貴族院中心に組閣した、いわば超然内閣であった。せっかく本来の民主主義のあり方である議会政治が芽生えてきた矢先、議会軽視の傾向が再び強まるのではとの危機感から、第二次憲政擁護運動(第二次護憲運動)が起こる。この運動は、打倒清浦内閣、普通選挙実現に向けて力を注いだ。結果的には、総選挙において、護憲三派(憲政会・政友会・革新倶楽部)の勝利で、第一党となった憲政会総裁の加藤高明が護憲三派連立の政党内閣を組閣することに成功する。


加藤高明内閣は、誕生の翌年、1925年に男子普通選挙法を成立させる。これにより、今までの財産制限(一定の納税額に達した者にのみ選挙権を付与)は撤廃され、身分・財産に関係なく、25歳以上男子みなに選挙権が付与された。しかし、これだけで加藤内閣を評価することはできない。なぜならば、男子普通選挙法成立の直前に、あの悪名高い治安維持法も成立させているからだ。普通選挙が実現したとしても、治安維持法があっては、それは言論の自由のない選挙運動が展開される。選挙演説も警察官立会いのもとに行われるから、演説内容も気を使わなくてはならなくなる…。普通選挙が展開されれば、無産市民の中から社会主義思想を標榜するような勢力が力をつけるのではという懸念から、国体の変革や共産主義者を取り締まる名目での立法であったのだが…、このあたりが大正デモクラシーの限界とでも言えようか…。


大正デモクラシーとは、何であったか?日露戦争終了後から満州事変以前までを大正デモクラシー期と捉えたとしよう。この時期の日本は本当に民主的な国家であったと評価することは軽率である。あくまで「民主的な風潮が部分的に見受けられた」と見るのが適切であろう。先に述べたように、同時期には治安維持法の制定により思想統制は厳しさを増すようになるし、対外的には韓国併合を行い、朝鮮半島を正式に植民地支配下に置いている。後のファシズム台頭の下地が着実に進行しつつあったのだ。君主主権の大日本帝国憲法の民主的運用の限界を見ることができる。


さて、教科書に登場するので、最後に大正デモクラシー期の政治学者、東京大学教授であった吉野作造を紹介しておこう。彼の思想は、国民主権までは要求せず、大日本帝国憲法やそれに基づく天皇主権の下でも、国民生活に配慮した政治は可能であり、政党内閣や普通選挙の実現は可能であるというもの。いわゆる民本主義と呼ばれる思想だ。“democracy”を訳す際、国民主権を前提とした「民主主義」という語は使えず、天皇主権を黙認した上であえて「民本主義」という語を用いた点は、ひとまず当時の憲法を尊重している姿勢が見受けられる。それでも、民主的社会の構築を望む意思が強く伝わってくる思想である。


<全体主義・軍国主義>

以上のように、大日本帝国憲法の内容を見れば、大正期のように民主的に運用されていた面が見受けられることのほうが奇跡であり、デモクラシーはいつ崩れてもおかしくはなかった。もっとも、世界は帝国主義時代のただ中であり、デモクラシー崩壊の背景は、主権者天皇一人の暴走というよりは、軍部の台頭が大きい。昭和期に入り、天皇の持つ統帥権の独立を盾に軍部が台頭し、政治の主導権を握るようになるのだ。軍部の指揮権を一人の人間に委ね、議会や内閣を通さずに軍隊が行動できたということは、大きな落とし穴であった


1931〜33年に満州事変が起こる。中国東北部へ日本の関東軍が入り込み、満州国を作り占領した侵略行為である。以後、日中戦争、太平洋戦争という、いわゆる15年戦争へ突き進んでいくことになるのだが…。満州事変については、政府はもとより、天皇さえも無視して、天皇の名において関東軍が独自の判断で引き起こしている。1931年9月の時点で、当時の若槻禮次郎内閣は、関東軍から事前に何の連絡も受けていなかったことからも、軍部の暴走ぶりがうかがえる。統治権の総攬者天皇と、その天皇を輔弼する大臣や政府が、軍部にうまく丸め込まれてしまったと言えばそれまでだが…。当時のそういう政府の無能さを辛口に指摘することもできるが、そもそも最高法規たる憲法に欠陥があったわけで、文民統制が機能していなかったことの証である


国内においても、軍部は政治に対する発言力や影響力を強引に強化していく。1932年、海軍将校らによるクーデタ、五・一五事件が起こる。これにより犬養毅首相は暗殺される。これが大正時代に一時的に芽生えた政党内閣の終焉である。外交問題を温厚に話し合いで解決しようとする政治家たちは、軍人には生ぬるく映ったり、もどかしさがあったに違いない。もっとも、軍人の多くは貧しい農村の出身である。昭和恐慌の打開策として満州を新天地として本気に考えていた節もあるだろう。次いで1936年には、陸軍将校らによるクーデタ、二・二六事件が起こる岡田啓介首相は何とか難を逃れるが、国会などが軍部により占拠された。このようにして、統帥権を持たない議会や政府は軍隊にストップをかける術を持たず、しだいに軍部が政界に入り込んでくるようになる。1938年には国家総動員法が成立し、1940年には全政党が解散し、大政翼賛会が成立する。こうして太平洋戦争に突き進んでいったのである…。





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