幸
沢 おふざけで、この草書を楷書風に翻訳してみると… …なんと、新字体の「沢」に見えるじゃないか。(じつは見えるように書いたのだけど) ?K?@???@?w?@site:http://www.kabipan.com/language/japanese/shodo/29.html - Google ????
駅
全3ページの論文であるらしい。
中文科技期刊数据库 > 期刊导航 > 语言研究 > 2004-3
- 语言研究 2004年 第3期目录
- “睪”旁为“尺”探源 何华珍 (pp.93-95)
?言研究(刊期) - ?普期刊?源整合服?平台 - Linguistics Study
摘要 考之敦煌写巻,
因此,周先生説道:“我国清初文献中出現的 ‘駅’、‘釈’二字,还(=還)是漢語自己的簡省写法,是借用了日本漢字的写法? 記之,以{広?質?}高明。”
而我国的石经、敦煌本、吐魯番本則无一省 “睪”为“尺”. “睪”旁?“尺”探源 在??? - ?普??服?整合平台
何て書いてあるのかなあ、、
敦煌本の写本か何かで “睪”が“尺”になっていったってこと?
敦煌本?吐魯番本は何だといっているのかな 省略してないってこと?
【Abstract】 It’s widely accepted among the Japanese academic community that the character component "睪" is the simplified form for "尺" , as shown by such Japanese characters as "釈" "訳" "択" "沢" "駅". This simplification has been traced down to Dunhuang Records, though not a common practice then, and is found to be adopted by later classics compilers, eventually entering THE LIST OF COMMON CHINESE CHARACTERS, hence established as a Standard Japanese character.
試訳
日本の学界では、旁"睪"の簡略体が"尺"との考えが広く受け入れられている。その日本漢字例を挙げれば "釈" "訳" "択" "沢" "駅"。
この簡略化は 当時一般的には行われていなかったもの Dunhuang manuscripts(敦煌写本/敦煌文献/敦煌文書/敦煌本とも。)までさかのぼることができ、
それが のちの編纂者によって見出され、
ついには《常用漢字表》にも入ることとなり
今の日本標準漢字の成立へとつながった。
“睪”旁?“尺”探源 - 中国学?期刊网?出版??それは、日本の学界中に広く受理されます、文字、構成要素「?」
"釈""訳""択""沢""駅"のような日本の特徴によって示されるように、"尺"のための簡易慣用字体です。
この単純化はツンホワン・レコードまでトレースされました、が、ない、一般的慣習、その後、また、THE LIST OF COMMON CHINESE CHARACTERSを結局入力して、後の古典コンパイラーによって採用されると分かった、従って標準の日本の特徴として確立されました。
エキサイト 翻訳
“睪”旁?“尺”探源 in C-DBLP!【若干補正した】
日本学界以为,凡从“睪” 之字省作“尺”,如“釈”、“訳”、“択”、“沢”、“駅”等,乃倭俗所为。 考之敦煌写卷,“睪”旁为“尺”,省“澤”为“尺”,已见鳞爪。 日本历代典籍,承而用之,广而推之,直至进入《常用汉字表》,成为日本的现行规范汉字。
訳文(エキサイトのを参考に補正中)
日本の学界は、一般に“睪”を簡略化して“尺”とし、例えば“釈”、“訳”、“択”、“沢”、“駅”など、日本が俗っぽくてしたことだと思っています。 試験する敦煌は書いて巻いて、旁“睪”を“尺”に、省の“沢”は“尺”に、すでに事の断片に会いました。 日本の歴代の典籍、被って使って、広くおして、至って《常用漢字表》に取り入れられ、日本現行標準漢字にいたっている。
中国語翻訳 - エキサイト 翻訳
http://en.wiktionary.org/wiki/%E7%9D%AA
http://en.wiktionary.org/wiki/spy_on
睪:この字の構造は罒
罒:これは目を横にしたもの。
幸は 手足を広げた形?
白川の"幸"は 手かせだか(足かせだか?)の刑を執行されている最中の形とされていたはずだった。
あるいは、こう書けるかも、、 … つまり、白川説ならば日本常用字体が字源に忠実、「夭+屰」説ならば どちらかといえば 中華系常用字体のほうかなあ、、 - 葉仮名raycy - KliologY手錠の刑なら「しあわせ」 : 筆文字制作 筆 の 幸 = Fude - Sachi =それでもやはり にほんの 幸せの点画長さバランスのほうが 美しいと感じてしまう、、ご多幸を・・・ - 霊犀社2
だがこの 睪となった場合には、
解釈の旧字“釋”の“睪”:“罒”は目と頭 死体を捌(さば)いたときの形としているようだ。
成り立ちで知る漢字のおもしろ世界@amazan動物・植物編: 白川静著『字統』『字通』準拠 - 伊東信夫 - (2007/4)
raycy 「獣の死体^ ^睪 37 野獣の爪かたなうしつのつまり、「解」は、はじめ、 1 の意味としてつくられたものだつたが、やがて、 2 — 3 と、使われ方が拡がっていつたのである。そのために、神事の道具とするために、牛から角 2012/11/30
http://b.hatena.ne.jp/raycy/20121130#bookmark-122240390
白川静さんと遊ぶ漢字百熟語@amazan - 小山鉄郎 - (PHP新書)(2009/12/16)
raycy 「選択」(驛)の場合の「睪」は解きほぐれて長く続く状態となったもののことです。つまり「駅」とは「翻訳」の「訳」(譯)とは「ある言語を一つ一つ解体して別の一一ー- 1 語に改めること」です。「駅」す。この「睪」を 2012/11/30
http://b.hatena.ne.jp/raycy/20121130#bookmark-122239942
そして それに連なって?
語源を知って読みたい漢字@amazan - 正しい日本語研究会 - -2009/7/24
raycy 「エキ「睪」は常用漢字では省略形の「尺」の形で書かれますが、「択」「駅」「訳」「沢」は、「次へ次へとつながる」ことに関連した ... 擇(択ごは「睪十. ? (手)」で、次々と引き立てた容疑者の中から犯人を選びだすこ 2012/11/30
http://b.hatena.ne.jp/raycy/20121130#bookmark-122239790
目配せして 逮捕する?
漢字起原の研究@amazan: 國定讀本に據りて - 漢字起源の研究 : 国定読本に拠りて 語言研究会 編 1934
raycy raycy 「なほ睾の字は 3 と率との合字にて目くばせして罪人を捕へること 0 辛は報の條下で說明したや略字として沢と書くのは尺が睪の音に近い ...」 2012/11/30
http://b.hatena.ne.jp/raycy/20121130#bookmark-122240210
何华珍 ( 何 華珍 ), 「“睪”旁为“尺”探源 」, 语言研究 , 2004年9月 第24巻 3期, pp.93-95
何?珍 ( 何 華珍 ), “睪”旁?“尺”探源, ?言研究 > 2004-3 在???- ?普??服?整合平台 - 葉仮名raycy - KliologY
"釈" の起源
https://docs.google.com/drawings/d/1Ybac_QyLrKfKA8Kg3hZy-TloTESspG9n9rCJHbZuhWU/edit
次のうちの幾つかは
釈
訳
沢
駅
敦煌本にも あったらしいということのようで、
◎古同" "ってことに なることもあるかも
言𠬤
言 | 又 キ |
日本霊異記には 尺迦 これはけっこう古そう。
日蓮直筆にも 尺迦
日本国内の釈が いつごろから確認できるか、、
新井白石の『同文通考』巻四「省文」には、「釈」の項目があって、「按娑婆論釋迦作尺加。佛氏因造釈字。」なんてアヤシゲな事が書いてある。これが本当か嘘か……
「沢」の新字体は誰が作ったのか | yasuokaの日記 | スラッシュドット・ジャパン
どこかに書いてあったが、 "尺"の発音 "シャク"があるのは 釈沢駅択訳とかのなかでは ほぼ釈だけのようなので、中国語の発音がどうだか知らないが、"釈"に焦点が当てられがちになろう。
文化庁 | 国語施策・日本語教育 | 国語施策情報 | 国語施策沿革資料http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/joho/sisaku/enkaku/pdf/12_left_300.pdf
文化庁 | 国語施策・日本語教育 | 国語施策情報 | 国語施策沿革資料 | 漢字字体資料集(諸案集成2・研究資料)「沢訳釈駅択」 の 「尺」 は, すべて 「睪」 に代わるものである。 「釈」 以
外の字にシャ クの音はないが, 元来 「釋迦」 等を 「尺迦」 等と略記した習慣
に始まって, これらの同系に広く及んだのである。 (ただし, 当用漢字以外
の字では, 必ずしもこの略体を要しなかったらしく見える。)
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:u7YkroRJS4gJ:www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/joho/sisaku/enkaku/pdf/12_left_300.pdf+&hl=ja&gl=jp
これって 釈迦の意味かな、、違う文脈のもあるかな?
books.google.co.jp/books?id=sJHmAAAAMAAJ
寇宗奭 - 1195 - スニペット表示 - 他の版
... 克其王 l |円孔浅皆肛胡心|朱,薙果。、女几搬撹を實鳥芋香核廃子皮襲尺加巳甜子|枇杷桶抽 I1 ・しん I ...
books.google.co.jp/books?id=HeMxAQAAMAAJ
L ^ |伏 _ 婚也|黨`】| |(lll| | I 惠 l ) |孔|詞翅隧至安來池尺加劉柬軍也守險要張繃〝隨後~泰肺略懶水哥黑夜琴險開道喈哼萊噱也乏若到安缸水〔破縮必矣 o 君恙勿憂或書曰誓難甩行數里灑知賊未追五扣諧′貫尺批既劉未助根嘯翼〈也安慕以絕歸路遞軍〝士 ...
淨土三部經音義集: 四卷
books.google.co.jp/books?id=QP5IAAAAYAAJ
Shinzui - 1236 - スニペット表示
洋血去申臀珀叩倣恤立日侯工十八出經-棚州曲柳云占況國去們片甲」士心亡| . -赤可向斷贓無欲取尺加-之名|韶葉曹| i 也外珊瑚汁洲底有.切韻日珊瑚貝翻轍蛾.硫攔丁珠出靂壇葛盤,出石云叉之碧 i 海珊大案魄匹味自甘咆博灰乎歌; " " "無似瑚清雌韻姐鋼 ...
”???” - Google ????
釈迦 尺迦
釈尊 尺尊
日本霊異記 尺迦 google:日本霊異記 尺迦 -hatena -yasuoka
漂流大海敬稱尺迦佛名得全命縁 google:漂流大海敬稱尺迦佛名得全命縁 -hatena -yasuoka
日蓮かんたら 尺迦 http://b.hatena.ne.jp/raycy/20121129#bookmark-122157698
是尺迦儀式也次燈明迦葉等只限一番 google:是尺迦儀式也次燈明迦葉等只限一番 -hatena -yasuoka
尺尊
別人 尺尊公主 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BA%E5%B0%8A%E5%85%AC%E4%B8%BB
チベット仏教とは、チベット語系仏教を指し、チベット仏教と通称され、俗称はラマ教と呼ばれ、中国仏教の重要なブランチである。
7世紀初め、仏教は前後してネパールと中国の中原地区からトバンに伝わり、ソンツェン・ガンポは前後してネパールの尺尊公主、唐朝の文成公主と結婚した。尺尊公主と文成公主はそれぞれ仏像をチベットにたずさえていき、公主に従って来た職人たちはラサで有名なチョカン寺、ラモチェ寺を建立し、一緒に来た仏教の僧侶たちは仏教の経典をチベット語に翻訳し始めた。
[??º????] goo ?????????????
講釈を講尺と記したがわから来てる説もあるような。
[11]には、「沢(澤)・訳(譯)・釈(釋)・駅(驛)などは、中国には見かけない。「●(澤のツクリ)」を「尺」に略したわけは、古記録には「講釋」を「講尺」と書いているものがあるから、それに「●(釋の「へん」)」をつけて「釈」とし、それが、すべての「●(澤のツクリ)」のついた略字に応用されたもののようである」(p.92)とある。
no titleno title
草書系? 幸、 睪 、 - 葉仮名raycy - KliologY
漢典に
- 訳 ◎ 古同“译”。 http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE8ZdicA8ZdicB3.htm [zdic.net]
とあるので、あるいは、"訳" が 中国側に古くに あったのか どうなのか、
コメント#2280529 | 「沢」の新字体は誰が作ったのか | スラッシュドット・ジャパン
「漢典」って具体的に何ですか? コメント#2280761 | 「沢」の新字体は誰が作ったのか | スラッシュドット・ジャパン
「漢典に “ …… [zdic.net] ” と あるので、」
Zdic.net 汉典
Zdic.net ?典 :: Add-ons for Mobile
もし私に、サイト"漢典" http://www.zdic.net の"訳"の項が 何を参照・依拠しているのか(あるいは 誤記か、) 具体的な出典まで判っていれば、私もそれなりに書いていたでしょうに、。
あるいは、"訳" が 中国側に古くに あったのか どうなのか、
コメント#2280529 | 「沢」の新字体は誰が作ったのか | スラッシュドット・ジャパン
こんな書き方はせずに、。
なんで Reコメント者である私に覚束ない定かでないっぽい話に 詳細を問う質問で返してくるのかなあ、、
しゃあないなあ、、"漢典"サイト管理者に問い合わせ確認 できるものかどうか、、
联系我们
字典中 訳 字的解?お問い合わせ
Google 翻訳
問い合わせ文面検討中、、
漢典 御中
貴サイト 重宝いたしております。
さて、
"訳" の解説に
訳 ◎ 古同“译”。
字典中 訳 字的解?
とあります。 普通は "訳" は "日本漢字" と扱われることが多いと思います。
"訳" を "古同“译”" とした根拠を お教え願いたい。
Hello administrator of zdic.net
Zdic.net says "訳" is " ◎ 古同“译” " .
● 訳
◎ 古同“译”。
字典中 訳 字的解?
It seems usually to be said that "訳" is of "日本汉字".
If "訳" is "◎ 古同“译”" , would you show me the source you write so ?
Which dictionary or book or so are you referring to, for writing the article of "訳"?
Yours.
→回答は来ていないが "訳"の解釈記述が 書き換えられていた。◎ “譯”的日本簡體漢字。
● 訳
yì ㄧˋ
◎ “譯”的日本簡體漢字。
字典中 訳 字的解?
旧記述は 訳 ◎ 古同“译”。
黒澤貞次郎がニューヨークに出る時期 - 葉仮名raycy - KliologY(二一) 1896年ニューヨルク在留中に「エリオット、ハッチ」の工場で段々と研究をつづけ (黒沢貞次郎『タイプライターの沿革』)
タイプライターの歴史近代デジタルライブラリー - タイプライターの沿革1896年ごろに 黒沢貞次郎がシアトル近辺に居たであろうアリバイ確認のできていない期間が いまのところ あるのか ないのか、、 - 葉仮名raycy - KliologY
講演録の体ではあるが 貞次郎自身が著者兼発行者 発行所が黒沢商店 印刷所:黒澤工場印刷部ということで、それなりに校正 されているだろうし、
記憶に頼って書かれていたりしたら とか うっかりミスの可能性だって無いでもないが、
1896年ごろに 黒沢貞次郎がシアトル近辺に居たであろうアリバイ確認のできていない期間が いまのところ あるのか ないのか、、 - 葉仮名raycy - KliologY私の日記にも書いたのですが、
『The Seattle Daily Times』1897年12月18日p.3の記事「Japanese Tried for Insanity」による限り、黒沢がこの頃までシアトルにいたのは間違いない。それは、シアトルの日本人YMCAの記録とも一致する。
黒沢貞次郎の伝記 | yasuokaの日記 | スラッシュドット・ジャパン黒沢貞次郎がニューヨークに渡ったのは、1898年になってからのことだと思われます。
ノート:黒澤貞次郎 - Wikipedia
「1896年ニューヨーク在留中」が もし わざと事実とたがえて 書かれてあるのだとすれば
どのような意図からであろうか、
苦心の歳月を演出するためだろうか、
近代デジタルライブラリー - タイプライターの沿革
前略 John Litz様
貴殿ご作成の資料、大変重宝して利用させていただいております。
さて、
とくに、1897年12月18日の記事。これが 安岡孝一大先生の黒澤貞次郎の所在に関する推定:
これらの推定根拠として 重用されております。
私は この記事の内容を いまだ確認しておりません。
記事内容の文言から どのように推定されるものか、なにか 記事中に手がかりがないか 私なりに読んでみたいと思っております。
草々
Dear John Litz.
Thank you for your kindness, you showed the name of (Teijiro) Kurosawa on the Seattle (Daily) Times and the Seattle P.-I.
In the article on December 18, 1897 of the Seattle Daily Times, how about had Teijiro Kurosawa been mentioned?
To read and check the article, what should I do? To ask for it to MOHAI's library?
というか、 唯一回答をいただいたことのあるワシントン(州立)大図書館司書のかたに 資料へのアクセスルートを聞いてみるか、どうか。ご親切に さらに付け込むようになってしまうのは 申し訳ないが、、
Hello head librarian of UW
> University of Washington Libraries
I'm surveying the activity of Teijiro Kurosawa, in North America, while 1891 or 1893 to 1899.
the large factory of the Elliott & Hatch Book Type Writing Co.
They have a young man from Tokio , Japan, and he printed me several specimens of the Japanese language, The AMENIA Times - 葉仮名raycy - KliologY
1896年ニューヨルク在留中に「エリオット、ハッチ」の工場で段々と研究をつづけI stay in New York in 1896 and went on to study at the factory gradually "Elliott & Hutch" Google 翻訳黒澤貞次郎著『タイプライターの沿革』 昭和2年 発行者:黒澤貞次郎,発行所:黒澤商店,印刷所:黒澤工場印刷部 - 葉仮名raycy - KliologY
John Litz showed us all, the indexes of articles on papers around Seattle, mentioning to Kurosawa.
A list chosen from Litz's indexes concerning to Kurosawa was attached to the bottom.
Especially, I want to know the content of the article: December 18, 1897, The Seattle Daily Times.
I'm afraid it to bother you farther, but I don't have any idea other than to talk to you to know the key to approach to the source.
Wouldn't you mind to give me any suggestion to access to the content of the article?
HARD DRIVE TO THE KLONDIKE: PROMOTING SEATTLE DURING THE GOLD RUSH: Footnotes for Chapter Three - Klondike Gold Rush - Seattle Unit National Historical Park
- 33 "Our Commercial Supremacy," The Seattle Daily Times, December 18, 1897, p. 24.
- 34 "The Alaska Steamship Co.," The Seattle Daily Times, December 18, 1897, n.p., Museum of History and Industry.
Is it a good way to ask this to the MOHAI's library?
Chinese and Japanese in the Seattle Post-Intelligencer — UW LibrariesChinese and Japanese in the Seattle Times — UW LibrariesChronologies of articles made by John R. Litz of Seattle - 葉仮名raycy - KliologYJapanese YMCA, 418 Jefferson St. シアトルに居たかもしれない時期 居なかったかもしれない時期 - 葉仮名raycy - KliologY
name of paper year month&day Teijiro Kurosawa was in Seattle or out page of article article title & name of Japanese Seattle P. I. 1894 3/10 might in P.8 The Japanese Celebrate The Emperor's Silver Wedding Made the Occasion of Patriotic Exercises (Charles Akiyama, J. Yamaguchi, Mr. Kudo, Y. Shibayama, T. Kurosawa, Mr. Siubata at Japanese Y.M.C.A., 418 Jefferson St.) Seattle P.I. 1895 2/12 might in P.3 Cheers For Japan Japanese Residents Hold a Three-Fold Celebration Exulting in Their Victory (Mr. Nakagawa, Mr. Kawahara, Mr. Kurosawa, Mr. Yamaguchi, Mr. Soto, Mr. Nakayama) Seattle P.I 1896 2/13 might in P.3 Gifts to the Gods Chinese Residents Celebrate Their New Year's Only Joss House in Seattle Where it is and What it Contains-The Japanese, Too Have a Celebration (Kawara, Nakayama, Yamaguchi, Kurosawa, Shebayama, Nakamura) Seattle P.I 1896 3/24 might in P.8 Brevities (T. Kurosawa, Secy, of Japanese Y.M.C.A. officiated at Chouzo Fukura funeral) Seattle P. I. 1896 12/30 might not in P.8 A Jap Christmas Festivities of the Orient Transplanted in this City (Japanese YMCA, 418 Jefferson St., J. Yamaguchi, Mr. and Mrs. Sato) Seattle Daily Times 1897 6/7 might in P.2 Will Banquet the Visitors (K. Komatzuzaki, Chas. Sasaki, M. Tsukano, Y. Ozawa, M. Furuya, I. Kudo, Takemi, M. Morita, Suzuki, Yamatoya, Z. Tsuchiya, U. Iwama, Kurosawa, Z. U. Yamamura) Seattle Daily Times 1897 12/18 might in P.3 Japanese Tried for Insanity (Oka Mansaku, mentioned: Teijiro Kurosawa, Mrs. K. Nishii, Klondike Restaurant)
新井白石の『同文通考』巻四「省文」には、「釈」の項目があって、「按娑婆論釋迦作尺加。佛氏因造釈字。」
『同文通考』では、「釋→釈」が「譯→訳」「擇→択」「懌→𢗜」「澤→沢」「驛→駅」にも類推された旨が書かれており、
「沢」の新字体は誰が作ったのか | yasuokaの日記 | スラッシュドット・ジャパン
旧字 | 新字 | 中国語 |
---|---|---|
澤庵 | 沢庵 | 泽庵 |
釋迦 | 釈迦 | 释迦牟尼 |
翻譯 | 翻訳 | 翻译 |
google:同文通考 釋 釈 -yasuoka -hatena
又佛を仏に作り、〈梁鐵鑊銘〉釋迦を尺加に作れるは、〈婆娑論〉支那にて古く行はれしなれど、佛を仏に作るに由りて、拂を払に作り、又釋を釈に作りて、更に澤を沢に作り、擇を択に作るは、我邦の俗字なり
佐藤誠実「字体考」
尺加の先例が中国にあったかどうか、 婆娑論にあったかどうか、、
漢典 www.zdic.net では、
"仏" "払" ともに 中国に 古くはあったということになっているような。
|
|
だが "釈" は 無かったことになっているみたいなのだが、、
訳 択 𢗜 沢 駅
おや 訳だけは 「◎ 古同“译”」とある。
● 訳
yì ㄧˋ
◎ 古同“译”。
字典中 訳 字的解?
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𢗜
对不起,该话题不存在或您没有权限查看
字典中 ? 字的解?申し訳ありませんが、このトピックが存在しないか、または表示する権限がありません
Google 翻訳
シアトルにて 一定程度暮らしが立つようになった黒沢貞次郎 Teijiro Kurosawa。
黒沢貞次郎の暮らしぶり。寝床 ねぐらは どこ?
【妄想】
シアトルを一応の拠点とした東征というか東進、、 ニューヨーク下見偵察から転居へ、、
これは 参考文献には 挙げづらいかな、、『新東亜建設を誘導する人々』 pp.595-605, 。 やがて 国民学校令の施行に反対。 - 葉仮名raycy - KliologY
The AMENIA Times - 葉仮名raycy - KliologY
シアトルの日本人YMCAの記録
黒沢貞次郎の伝記 | yasuokaの日記 | スラッシュドット・ジャパン
シアトル二紙への日本人登場記事の内容
John Litz氏作成リスト中の主としてKurosawa関連記事の本文
Chronologies of articles made by John R. Litz of Seattle - 葉仮名raycy - KliologY
サンデー毎日だかの 黒沢英二の、
黒沢英ニ「ある発明王の哲学 I 父黒沢貞次郎の一生を語る」『サンデー毎日」一九五三年三月一日号一四 I 一五べ—ジ
英語研究 46(3)
研究社出版株式会社,研究社出版株式会社 [編] 研究社出版 1957-03
新しいウインドウが開きます 国立国会図書館デジタル化資料
雑誌
英語研究 45(10)
研究社出版株式会社,研究社出版株式会社 [編] 研究社出版 1956-10
新しいウインドウが開きます 国立国会図書館デジタル化資料
雑誌
英語研究 45(11)
研究社出版株式会社,研究社出版株式会社 [編] 研究社出版 1956-11
新しいウインドウが開きます 国立国会図書館デジタル化資料
雑誌
英語研究 36(4)
研究社出版株式会社,研究社出版株式会社 [編] 研究社出版 1943-07
新しいウインドウが開きます 国立国会図書館デジタル化資料
雑誌
英語研究 46(1)
研究社出版株式会社,研究社出版株式会社 [編] 研究社出版 1957-01
新しいウインドウが開きます 国立国会図書館デジタル化資料
雑誌
英語研究 45(12)
研究社出版株式会社,研究社出版株式会社 [編] 研究社出版 1956-12
新しいウインドウが開きます 国立国会図書館デジタル化資料
雑誌
英語研究 46(2)
研究社出版株式会社,研究社出版株式会社 [編] 研究社出版 1957-02
新しいウインドウが開きます 国立国会図書館デジタル化資料
「黒沢英二」 - 葉仮名raycy - KliologY
Wikipediaでの出典、 確認 追加 (予定) - 葉仮名raycy - KliologY
『留岡幸助日記』 - 葉仮名raycy - KliologY
- 黒沢貞次郎4-510,5-162,179,255
私の日記にも書いたのですが、
『The Seattle Daily Times』1897年12月18日p.3の記事「Japanese Tried for Insanity」による限り、黒沢がこの頃までシアトルにいたのは間違いない。それは、シアトルの日本人YMCAの記録とも一致する。
まあ、そういうわけで、黒沢貞次郎に関しては、これまでの伝記では明らかになっていなかった部分も、そこそこ登場させる予定だ。 黒沢貞次郎の伝記 | yasuokaの日記 | スラッシュドット・ジャパン黒沢貞次郎がニューヨークに渡ったのは、1898年になってからのことだと思われます。
ノート:黒澤貞次郎 - Wikipedia
1897年12月18日の記事の頃に 黒沢貞次郎がシアトルに居たとすれば、それは 新発見かもしれません。
黒澤貞次郎が 1897年後半まで 生活拠点を Seattleに置いていたらしいとは いえるのかもしれない。
だが、1896年等1898年以前の ある期間に ニューヨーク(やシカゴElliott旧宅?)やらに出たことがなかった とまでいえるか。もし数ヶ月から一年程度の空白期間 ― 黒沢貞次郎が シアトルに居た記録の はっきりしない期間 ― があるとすれば、そのあたりの 黒沢貞次郎のアリバイが 無いことには ならないか。
Japanese YMCA, 418 Jefferson St. シアトルに居たかもしれない時期 居なかったかもしれない時期 - 葉仮名raycy - KliologY
もちろん、 その間にニューヨークに行っていた という証拠にはならない。せいぜい傍証候補。
ただし、一応 本人の証言のWeb引用として
黒澤貞次郎がニューヨークに出る時期 - 葉仮名raycy - KliologY(二一) 1896年ニューヨルク在留中に「エリオット、ハッチ」の工場で段々と研究をつづけ (黒沢貞次郎『タイプライターの沿革』)
タイプライターの歴史
近代デジタルライブラリー - タイプライターの沿革
っていうのが あるにはある、。
Teijiro Kurosawa might narrate he had been in New York at 1896, which is difficult to be proven. By the way, had there been any period while he had been absent from Seattle or not? - 葉仮名raycy - KliologY
シアトル二紙には、 1896年4月ごろから1897年5月ごろまでは Kurosawaの名がないようだ。(John Litz氏資料による。)
そんな黒澤貞次郎は、
1899年6月には 米紙から直接に取材を受けていたようだ。
代理店のようなものの機能が重要であったろう。
もし黒沢が エリオットハッチに 1896年から就業していて 1897年にシアトルに戻っていたとしたなら エリオットハッチの宣伝なり修理調整なりを やらせていたかもしれない 任されていたかもしれない と 妄想してみる、、
そんな黒沢の生活が一変したのは、1897年7月17日、蒸気船ポートランド号がシアトルに到着した時からでした。
Sanseido Word-Wise Web [三省堂辞書サイト] » 黒沢貞次郎(1)
これに続く記述との 黒沢の生活との関連やらが ちょっと見えにくい、、
Teijiro Kurosawa might narrate he had been in New York at 1896.
(二一)
で、1896年ニューヨルク在留中に「エリオット、ハッチ」の工場で段々と研究をつづけ、1898 年の末には機械らしきものが出来上りました。
タイプライターの歴史
This is difficult to be proven that Kurosawa had been in New York around 1896.
Or, it may take time long and long..
By the way, had there been any period that he had been absent around 1896 from Seattle or not?
This is necessary condition if he had been in New York around 1896.
Japanese YMCA, 418 Jefferson St. シアトルに居たかもしれない時期 居なかったかもしれない時期 - 葉仮名raycy - KliologY
By those papers, (the Seattle P. I. and the Seattle Daily times)
April,1896 to May 1897 might be possible that Kurosawa had been absent from Seattle.
There might be other source..
Associate Professor Koichi Yasuoka says there are some records of Japanese YMCA, which say about the period.
『The Seattle Times』1897年12月18日p.3の記事「Japanese Tried for Insanity」による限り、黒沢がこの頃までシアトルにいたのは間違いない。それは、シアトルの日本人YMCAの記録とも一致する。
黒沢貞次郎の伝記 | yasuokaの日記 | スラッシュドット・ジャパン
How does it say?
Teijiro Kurosawa might be a secretary of Japanese YMCA at March 1896 and late 1897.
So, when anything had done at Japanese YMCA, the name of the secretary: Kurosawa might appear if he stayed in Seattle.
1898年のSeattle City DirectoryだかにKurosawa, Teijiroが載っているらしい。
Twitter / raycy: I just found an interesting ...黒澤貞次郎がニューヨークに出る時期 - 葉仮名raycy - KliologY
1897年後半あたりのTeijiro Kurosawaは Japanese Y. M. C. A. をねじろとしていたのであろうか? Res. 418 Jefferson..
1896年3/24のT.Kurosawa および1898年版DirectoryのSecy. sec から 黒澤がこの時期 シアトル日本人YMCAのSecretaryだったかもしれないことが うかがわれる。
Chinese and Japanese in the Seattle Post-Intelligencer — UW LibrariesChinese and Japanese in the Seattle Times — UW LibrariesChronologies of articles made by John R. Litz of Seattle - 葉仮名raycy - KliologY
紙名 | 年 | 月日 | 黒沢貞次郎はシアトルに居たか居なかったか | 記事ページ | 記事見出し および 日本人名等 |
---|---|---|---|---|---|
Seattle P. I. | 1894 | 3/10 | 居たかも | P.8 | The Japanese Celebrate The Emperor's Silver Wedding Made the Occasion of Patriotic Exercises (Charles Akiyama, J. Yamaguchi, Mr. Kudo, Y. Shibayama, T. Kurosawa, Mr. Siubata at Japanese Y.M.C.A., 418 Jefferson St.) |
Seattle P.I. | 1895 | 2/12 | 居たかも | P.3 | Cheers For Japan Japanese Residents Hold a Three-Fold Celebration Exulting in Their Victory (Mr. Nakagawa, Mr. Kawahara, Mr. Kurosawa, Mr. Yamaguchi, Mr. Soto, Mr. Nakayama) |
Seattle P.I | 1896 | 2/13 | 居たかも | P.3 | Gifts to the Gods Chinese Residents Celebrate Their New Year's Only Joss House in Seattle Where it is and What it Contains-The Japanese, Too Have a Celebration (Kawara, Nakayama, Yamaguchi, Kurosawa, Shebayama, Nakamura) |
Seattle P.I | 1896 | 3/24 | 居たかも | P.8 | Brevities (T. Kurosawa, Secy, of Japanese Y.M.C.A. officiated at Chouzo Fukura funeral) |
Seattle P. I. | 1896 | 12/30 | 居なかったかも | P.8 | A Jap Christmas Festivities of the Orient Transplanted in this City (Japanese YMCA, 418 Jefferson St., J. Yamaguchi, Mr. and Mrs. Sato) |
Seattle Daily Times | 1897 | 6/7 | 居たかも | P.2 | Will Banquet the Visitors (K. Komatzuzaki, Chas. Sasaki, M. Tsukano, Y. Ozawa, M. Furuya, I. Kudo, Takemi, M. Morita, Suzuki, Yamatoya, Z. Tsuchiya, U. Iwama, Kurosawa, Z. U. Yamamura) |
Seattle Daily Times | 1897 | 12/18 | 居たかも | P.3 | Japanese Tried for Insanity (Oka Mansaku, mentioned: Teijiro Kurosawa, Mrs. K. Nishii, Klondike Restaurant) |
Preceding Titles:About The Seattle press-times. (Seattle, Wash.) 1891-1895 - Chronicling America (The Library of Congress)
- The Seattle press. (Seattle, Wash.) 18??-1891
- Seattle times. (Seattle, Wash. Ter.) 188?-1891
準備中 | |
私の日記にも書いたのですが、黒沢貞次郎がニューヨークに渡ったのは、1898年になってからのことだと思われます。ただ、これを私が書くと、どう考えても独自研究なので、「ページ」の変更は、どなたかの判断におまかせいたします。--安岡孝一(会話) 2012年9月1日 (土) 06:15 (UTC)
ノート:黒澤貞次郎 - Wikipedia
大先生が 判断材料としているものは
Sanseido Word-Wise Web [三省堂辞書サイト] » 黒沢貞次郎(1)
『The Seattle Times』1897年12月18日p.3の記事「Japanese Tried for Insanity」による限り、黒沢がこの頃までシアトルにいたのは間違いない。それは、シアトルの日本人YMCAの記録とも一致する。 黒沢貞次郎の伝記 | yasuokaの日記 | スラッシュドット・ジャパン
だれが この説の当否を判断するにせよ、
これらも必要になろう。
が私は まだ、これらに たどりつけていない。
伝記のたぐいでは、『タイプライターの沿革』にある 1896年からの かな等タイプライターの研究への着手、、
1896年ニューヨルク在留中に「エリオット、ハッチ」の工場で段々と研究をつづけ、1898 年の末には機械らしきものが出来上りました。
タイプライターの歴史
これを採れば、1896年にニューヨーク在留していたことになる。
他方 1898年のSeattle City DirectoryだかにKurosawa, Teijiroが載っているらしい。
Twitter / raycy: I just found an interesting ...
これを採れば 1897年後半ごろのある時期には Seattleにいたということになろうか。
これら両方が採れて つなげてよいのならば、かつ、Seattleの新聞記事にKurosawaが登場する時期を考慮すれば、
Wikipediaの記述では
黒澤商店ビルの建設
黒澤貞次郎:版間の差分 - Wikipedia
とされていた。 だが、
池田弥三郎『銀座十二章』@amazan 朝日文庫版 39ページ (表紙写真は 旺文社文庫版)
多少、無味乾燥にはなるが、一つの記録として、この銀座六丁目西側の店々を、A、明治三十年1897頃、B、大正十三年(震災の翌年)、C、昭和六年と、列記しておこう。
AとBとは例の『明治銀虧帖』とその付録とにより、Cは『大日本職業別明細図』によった。
A 明治30年1897頃 お茶漬け・出前仕出し鰻めし十銭より・福えびす。御結納調進師・鰹節鶏卵乾海苔・大阪屋保坂勘兵衛。両替屋・刀剣附属赤銅四分の一類取引所・近藤光之助。洋風家具製造所・西洋夜具並に室内装飾品・丸屋松嶋藤太郎。唐筆墨・清国各港雑貨販売店・義昌堂木曽庄七。内外煙草直輸入・北米デリーッチ公社製品専売店・菊水商店西村弁吉。… B 大正13年1924 タイプライター。日本食堂・松本楼。中野商店。新築中。メガネ・つる喜。… C 昭和6年1931 黒沢商店、小松食堂、湯浅エハガキ、今井室内装飾、岩崎メガネ店、…
今井室内装飾 昭和に復活?それも銀座六丁目あたりで、。 あるいは 破産していたのかもしれない。だが もともと 破産には至らず、、 土地店舗の整理売却どまりであった可能性も あるかどうか、、
銀座尾張町の今井商店が悲境に落ちた時,碌々商店の取引関係で,債権者会議に【引用注:碌々商店の共同創業者】野田君出席して, 地所家屋を処分して整理するということになり、碌々で買ってはどうかと言われたそうである。機械屋(【引用者注:碌々商店のこと。】)に銀座の表通りは必要がない, 黒沢さんに好適だと思ってお話をして、この銀座の御店が出来ることになったのである。
黒澤貞次郎 資料
野田正一君と私【引用者註:中村幹治】が共同で数寄屋橋に開店した碌々商店 黒澤貞次郎 資料野田正一が 正しそうだ、、 中村幹冶は共同創業者か、、 碌々商店が債権者であったかどうかは不明。取引関係ということなので 債務不履行 不渡り手形くらった?なら 債権者なのかな、、
碌々産業 - Wikipedia
経営理念|碌々産業株式会社|高精度高速小径微細加工機、特殊加工機、プリント基板加工機の製造・開発
債権者会議はあったようなので 破産は、、 というか "丸屋"も気になる、、 その、、1906年当時の土地割りがどうであったのか、、
準備中 | |
John R. Litzさんへの連絡先が 判りません、、Guides — UW LibrariesNotice Copyright 2005 All Rights Reserved This Document may not be copied in part or in whole without written permission from John R. Litz of Seattle. Chinese and Japanese in the Seattle Post-Intelligencer — UW LibrariesChronologies of articles made by John R. Litz of Seattle - 葉仮名raycy - KliologY
暦順 Japanese & Chinese 人名登場記事項目リストの(部分)引用掲載希望者は 書面での承認を取り付けるように とあったので、まずは、当該リストの掲載先である(州立ではないほうの じゃなかった) UWワシントン(州立)大学図書館に Litz氏へのメール先を問い合わせておいた。昨日 その回答があり メール送信が可能な運びとなったわけである。
パーミッションを乞うメールさえ送れば済むところだが、ちょっと余計なことをしてみとこうか、、
『The Seattle Times』 は、通称としてならば そう呼んでもよいのであろうが、厳密には"The Seattle Daily Times."な時期であった可能性がある。… ⇒ 典拠提示者は 紙面・文面を直接には確認していないのかも、。 - 葉仮名raycy - KliologY
To verify some articles of APKY's , I am surveying an article that is quoted in his.
和文で だらだら長々と書けば、経緯はこうだ。
当ブログは 安岡孝一大先生的な(ご本人や あるいは その他の人のうち 発話傾向がにそれに類似した人類一般における)言論発出過程の分析を 主たるミッションとしております。そして 典型例としての安岡孝一大先生の発言の検証を試みることにも なっているわけです。
安岡孝一大先生は 黒澤貞次郎の生涯について記述しておられます。
そのなかで
黒澤貞次郎が
などを推定するために、当時の"The Seattle Press-Times", "Seattle Times", "The Seattle Daily Times"だかの記事を参照しておられます。
貴殿の成された Chronologies of the articles
the Seattle Post-Intelligencer
Seattle P.L 1894
- 3/10 " P.8 The Japanese Celebrate The Emperor's Silver Wedding Made the Occasion of Patriotic Exercises (Charles Akiyama, J. Yamaguchi, Mr. Kudo, Y. Shibayama, T. Kurosawa, Mr. Siubata at Japanese Y.M.C.A., 418 Jefferson St.)
Seattle P.I. 1895
- 2/12 P.3 Cheers For Japan Japanese Residents Hold a Three-Fold Celebration Exulting in Their Victory (Mr. Nakagawa, Mr. Kawahara, Mr. Kurosawa, Mr. Yamaguchi, Mr. Soto, Mr. Nakayama)
Seattle P.I 1896
Chinese and Japanese in the Seattle Post-Intelligencer — UW Libraries
- 2/13 P.3 Gifts to the Gods Chinese Residents Celebrate Their New Year's Only Joss House in Seattle Where it is and What it Contains-The Japanese, Too Have a Celebration (Kawara, Nakayama, Yamaguchi, Kurosawa, Shebayama, Nakamura)
- 3/24 " P.8 Brevities (T. Kurosawa, Secy, of Japanese Y.M.C.A. officiated at Chouzo Fukura funeral)
Chronologies of articles made by John R. Litz of Seattle - 葉仮名raycy - KliologY"The Seattle Daily Times"
Seattle Times 1897
Chinese and Japanese in the Seattle Times — UW Libraries
- 6/7 P.2 Will Banquet the Visitors (K. Komatzuzaki, Chas. Sasaki, M. Tsukano, Y. Ozawa, M. Furuya, I. Kudo, Takemi, M. Morita, Suzuki, Yamatoya, Z. Tsuchiya, U. Iwama, Kurosawa, Z. U. Yamamura)
- 12/18 “ P.3 Japanese Tried for Insanity (Oka Mansaku, mentioned: Teijiro Kurosawa, Mrs. K. Nishii, Klondike Restaurant)
これによれば Kurosawa を含む人名, T. Kurosawa, Teijiro Kurosawa などが 数度にわたって出てきております。
とくに1897年12月18日のSDTの記事、 これをとどめとして 安岡孝一大先生は 黒澤貞次郎の生活拠点が この頃まで西部シアトル近辺にあったと、(また エリオット氏との面識はまだなかったとも たぶん) 推定・確信なさっていらっしゃるようです。
これの当否を検討するうえで 貴Chroniclesが ナビしてくれています。
で、それを示すために Kurosawaを含む数項目をWeb引用させていただいたわけです。
1900年だっけか 以降の記事であれば archiveで 閲覧できるのかもですが、それ以前の記事は シアトル歴史産業博物館で ってことになるのかな、、
NISHII KIU, Propr Klondike Restaurant, 205 1st Av S, Tel Black 1821
Res 422 Washington.
Seattle city directory ... 1901. - PT Search - Full View | HathiTrust Digital Library
『The Seattle Times』 は、通称としてならば そう呼んでもよいのであろうが、厳密には"The Seattle Daily Times."な時期であった可能性がある。… ⇒ 典拠提示者は 紙面・文面を直接には確認していないのかも、。 - 葉仮名raycy - KliologY『The Seattle Times』1897年12月18日p.3の記事「Japanese Tried for Insanity」による限り、黒沢がこの頃までシアトルにいたのは間違いない。
黒沢貞次郎の伝記 | yasuokaの日記 | スラッシュドット・ジャパン
【引用文】 「この頃まで」
【私の意見】 「まで」はどうか。
【私の意見】「この頃」は 言えたとしても、
金銭的な面や 休暇取得やら出張旅費やら職業上・勤務上での制約はあろうが、
もし、その時点:1897年12月18日 にシアトルにいたとしても たとえば その1ヶ月前ならば ニューヨークにでも 日本にさえ いることも 可能性としては残る。
アリバイ証明には どのような交通手段をもってしても ある地点Aにある時刻に 所要時間内で到達することが不可能なB地点に居たことを立証するのが常套であろう。
たとえば セールスに ニューヨークからシアトルまで出張してきていた、、ってなことも 筋立てとしてだけならば 描くこともできよう。
どこからエリオットとの関係ができたか
いつからエリオット&ハッチタイプライターに就業したか
休暇 あるいは出張?
年 \ ストーリ | A | B | C |
---|---|---|---|
1894ないし1895年ごろ | シアトルあたり西部からニューヨークあたり東部へ | シアトルあたり西部からニューヨークあたり東部へ | |
1894ないし5年ごろ | エリオット氏宅家事手伝い | エリオットら工場の清掃をやっていた | |
1896年 | 工場勤務となりまずは清掃から、徐々に日本文字処理の研究も | 工場勤務となる | |
1898年末ごろだか | ひらがなタイプライターの実験機 | ひらがなタイプライターの実験機 | |
1899年6月 | 取材に対し ひらがなタイプライターのデモ機で実演 | 取材に対し ひらがなタイプライターのデモ機で実演 |
黒沢貞次郎の伝記 | yasuokaの日記 | スラッシュドット・ジャパン
私は 現時点では 文面を確認していない。
John R. Litzによる 記事見出し及び登場人名 によれば、
Chronologies of articles made by John R. Litz of Seattle - 葉仮名raycy - KliologYSeattle Times
1897
12/18
“ P.3 Japanese Tried for Insanity (Oka Mansaku, mentioned:
Teijiro Kurosawa, Mrs. K. Nishii, Klondike Restaurant)
Chinese and Japanese in the Seattle Times — UW Libraries
この摘要だけでは どんな内容が書かれているのか不明。 " mentioned: " と あるので、言及? あるいは 裁判の証言?なんだろう?
文面の内容いかんによっては、「黒沢がこの頃までシアトルにいたのは間違いない。」の根拠にならない場合もあろう。
『The Seattle Times』1897年12月18日p.3の記事「Japanese Tried for Insanity」による限り、黒沢がこの頃までシアトルにいたのは間違いない。
黒沢貞次郎の伝記 | yasuokaの日記 | スラッシュドット・ジャパン
なぜならば、紙名が 異なっている可能性があるからである。
実物の紙面を見ているならば、紙名が視認できようからである。
1891年創刊時は"the Seattle Press-Times"。Seattle times. (Seattle, Wash.) Vol. 25, no. 266 (May 11, 1895)-v. 29, no. 44 (Nov. 20, 1896). 。 1896年に買収みたいになって 改名されて 1966年ごろまで "The Seattle daily times" に なってたみたいだ。
History
The Seattle Times originated as the Seattle Press-Times, a four-page newspaper founded in 1891 with a daily circulation of 3,500, which Maine teacher and attorney Alden J. Blethen bought in 1896.[3][4] Renamed the Seattle Daily Times,
The Seattle Times - Wikipedia, the free encyclopedia
The Seattle daily times
Vol. 29, no. 45 (Nov. 21, 1896)-v. 89, no. 72 (Mar. 13, 1966).
Suspended Nov. 19, 1945-Jan. 12, 1946; July 16-Oct. 18, 1953.
Library of Congress LCCN Permalink sn86072007
About The Seattle daily times. (Seattle, Wash.) 1896-1966 - Chronicling America (The Library of Congress)
HARD DRIVE TO THE KLONDIKE: PROMOTING SEATTLE DURING THE GOLD RUSH: Footnotes for Chapter Three - Klondike Gold Rush - Seattle Unit National Historical Park
- 6 "Seattle Business Men Continue Their Cheering Reports of the Improved Condition of Trade," The Seattle Daily Times, August 1898 [complete date illegible], Museum of History and Industry, Seattle.
- 15 "Seattle Merits the Outfitting Trade," The Seattle Daily Times, November 13, 1897, p. 11.
- 17 Want Ads, The Seattle Daily Times, August 6, 1897, p. 6.
- 18 See, for example, Want Ads, The Seattle Daily Times, March 18, 1898.
- 25 "What Merchants Say," The Seattle Daily Times, July 31, 1897, n.p., Museum of History and Industry. See also advertisements throughout The Seattle Daily Times, 1897-1898.
- 33 "Our Commercial Supremacy," The Seattle Daily Times, December 18, 1897, p. 24.
- 34 "The Alaska Steamship Co.," The Seattle Daily Times, December 18, 1897, n.p., Museum of History and Industry.
- 41 "Boats for the Yukon," The Seattle Daily Times, August 5, 1897, p. 2.
- 44 "Dogs in Alaska," The Seattle Daily Times, July 31, 1897, n.p., Museum of History and Industry.
- 46 "At the Yukon Dog Yard," The Seattle Daily Times, November 11, 1897, p. 8.
- 49 "At the Yukon Dog Yard," p. 8. See also "Bureau of Information Doing a Successful Business in Advertising Seattle, The Seattle Daily Times, January 26, 1898, p. 5.
- 52 "Horse Mart Established," The Seattle Daily Times, July 23, 1897, p. 8; "Equine Market is Empty," The Seattle Daily Times, October 1, 1897, p. 5. See also Tappan Adney, The Klondike Stampede (New York: Harper & Brothers, 1900), p. 18, for a discussion of the poor condition of many of the horses shipped to the Yukon.
- 54 Want Ads, "For Sale -- Large Goats," The Seattle Daily Times, February 13, 1898, p. 18.
- 59 "Seattle 'A Hot Town,'" The Seattle Daily Times, October 7, 1897, p. 5.
- 65 "Last Night Was Lively," The Seattle Daily Times, August 6, 1897, n.p., Museum of History and Industry
- 67 "Police Protection," The Seattle Daily Times, September 1, 1897, n.p., Museum of History and Industry.
- 68 "A Seige of Petty Larceny," The Seattle Daily Times, November 6, 1897, n.p., Museum of History and Industry.
- 74 "Seattle Has Its Fiends," The Seattle Daily Times, February 3, 1897, n.p., Museum of History and Industry; "Ran Away From the Mission," The Seattle Daily Times, September 6, 1897, n.p., Museum of History and Industry.
- 75 "He is a Human Devil," The Seattle Daily Times, October 7, 1897, n.p., Museum of History and Industry.
"Quarters of the news editor", one a group of four photos in the brochure Seattle and the Orient (1900) collectively captioned "The Seattle Daily Times—Editorial Department"
Editing - Wikipedia, the free encyclopedia
Beautifully Conservation framed with a black and walnut frame, this is an actual Seattle Daily Times newspaper cover from Tuesday, August 14, 1945. The paper announces that "JAPAN SURRENDERS! CEASE FIRE ORDERED" stating, President Truman announced at 7 p.m. E.W.T. that night of the Japanese acceptance of unconditional surrender terms.
The Seattle Daily Times, August 14, 1945
http://nl.newsbank.com/nl-search/we/Archives/?p_product=HA-SE&p_theme=histpaper&p_action=keyword
RE: MTL to be re-tried for insanity - L Verge - 09-08-2012 12:52 PM
I am aware of a book project that deals with the exact same topic, but I'm not sure how far along it is.
I should have also mentioned that our education staff at Surratt House Museum frequently does classroom presentations (or on-site after class tours) that feature a mock trial of Mary Surratt. The lead-in to it presents as many pro- and con- facts as possible. Unfortunately for Mrs. Surratt, most of the time, the children (5th-8th graders) find the lady guilty.
It is also an excellent means for bringing across the idea of modern gang members being responsible for what other gang members might do. Unfortunately, we are right outside D.C., and there is a significant gang presence in certain pockets of the area.
MTL to be re-tried for insanity - Printable Version
黒澤貞次郎 - Wikipedia
初等教育を中退した黒沢は、日本橋の薬問屋へ丁稚奉公に出され、そのまま年季明けまで勤めます。1893年、年季明けと同時に黒沢は、横浜港からノーザン・パシフィックの蒸気船で、ワシントン州タコマに向けて、単身、旅立ちました。新天地アメリカで見聞を広めたい、という思いがあったようです。16日間の航海中に、足のケガがもとで生死の境をさまよい、九死に一生を得た黒沢は、それを機に敬虔なクリスチャンとなりました。
Sanseido Word-Wise Web [三省堂辞書サイト] » 黒沢貞次郎(1)
乗船記録か何かで チェックできたのであろうか。
All Immigration & Travel results for Teijiro Kurosawa
California, Passenger and Crew Lists, 1882-1957
Passenger Lists
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Name: Teijiro Kurosawa
Birth: year
Departure: location
Arrival: date - San Francisco
Honolulu, Hawaii, Passenger and Crew Lists, 1900-1959
Passenger Lists
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Name: T Kurosawa
Birth: year
Departure: location
Arrival: date - Yokohama, Japan
Honolulu, Hawaii, Passenger and Crew Lists, 1900-1959
Passenger Lists
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Name: T Kurosawa
Departure: location
Arrival: date - Hickam Air Force Base, Honolulu, Hawaii
California, Passenger and Crew Lists, 1882-1957
Passenger Lists
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Name: T Kurosawa
Birth: year
Departure: location
Arrival: date - San Francisco
California, Passenger and Crew Lists, 1882-1957
Passenger Lists
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Name: T Kurosawa
Birth: year
Arrival: date - San Francisco
New South Wales, Australia, Unassisted Immigrant Passenger Lists, 1826-1922
Passenger Lists
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Name: T Kurosawa
Birth: year
Departure: location
Arrival: date - Sydney, New South Wales
UK Incoming Passenger Lists, 1878-1960
Passenger Lists
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Name: Mr T Kurosawa
Birth: year
Departure: location
Arrival: date - Plymouth, England
Teijiro Kurosawa - Ancestry.com
準備中 | |
『留岡幸助日記』 - 葉仮名raycy - KliologY
Teijiro Kurosawa on News Paper in N. Y. - 葉仮名raycy - KliologY
The AMENIA Times - 葉仮名raycy - KliologY
「黒沢英二」 - 葉仮名raycy - KliologY
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2012年8月)
出典 [編集]
- 「タイプライターの沿革」(和文印刷電信機施設技術官講習会教本 黒澤貞次郎著 昭和2年5月29日発行)
- 「わがクラブの歴史」(東京ロータリー倶楽部発行)
- 「吾等が村」(黒澤商店・黒澤工場発行機関紙)
- 「サンデー毎日 昭和28年3月1日号」毎日新聞社
【確認中】
日本語と事務革命 - 61 ページ 梅棹忠夫 - 1988 -
(註)黒沢英ニ「ある発明王の哲学 I 父黒沢貞次郎の一生を語る」『サンデー毎日」一九五三年三月一日号一四 I 一五べ—ジ毎日 ... 「黒沢英二」 - 葉仮名raycy - KliologY黒澤貞次郎 - Wikipedia
- 「明治・大正・昭和 世相史」社会思想社(昭和42年6月15日初版)
- 「商店建築 1976年8月号 No.10」商店建築社
- 「日刊建設工業新聞 第9811号」(昭和55年12月5日発行)
- 「RC造オフィスビルの先駆--銀座・黒沢ビルについて--」日本大学理工学部教授 近江 栄 研究室発行(昭和55年日本建築学会秋季大会発表資料)
- 「新東京物語 異都発掘」集英社文庫 荒俣 宏著
- 「芸術新潮」新潮社 (1987年4月号)
- 「くろさわ物語」黒澤張三著
399 ページ
カナモジカイ会員たちは、教育界がしめした反応のつめたさに、いたく失望したようである
。弘法大師崇拝者の発明じつは、カナモジのタイプライターには、もうひとつべつの系統
の発想があった。それは、黒沢式タイプライターである。黒沢貞次郎は、一八九〇〔明治 ...
400 ページ
梅棹忠夫, 石毛直道 400 四—一五べージ一九五三年三月毎日新聞社(註)黑沢英二(著
)「ある発明王の哲学 I 父黒沢貞次郎の一生を語る」「サンデ—毎日」三月一日号第三二
#第一 0 号一でも、電電公社で採用しているタイプライタ—は、カナモジカイ式とは ...
梅棹忠夫著作集 - 梅棹忠夫, 石毛直道 - Google ブックス
日本語と事務革命 - 61 ページ
books.google.co.jp/books?id=leA1AQAAIAAJ
梅棹忠夫. い。もちろんおたがいにしらなかったから、両者はキ—ボ—ドの配列がちがう。第一次大戦で、日本の産業界はわきたった ... (註)黒沢英ニ「ある発明王の哲学 I 父黒沢貞次郎の一生を語る」『サンデー毎日」一九五三年三月一日号一四 I 一五べ—ジ毎日 ...
『サンデー毎日」一九五三年三月一日号一四 I 一五べ?ジ - Google 検索
- Ralph W. Hidy 教授のグレート・ノーザン鉄道社史研究(Manuscript) : 3 "Great Northern Railway and the Northwest" : Manuscript by Ralph W. Hidy and Muriel E. Hidy : 3 森 杲(たかし)
CiNii 論文 - Ralph W. Hidy 教授のグレート・ノーザン鉄道社史研究(Manuscript) : 3143(535)
ダンピングがもたらした最低料金は,94年,太平洋岸からセントポールまで10ドル,シカゴまで18ドル,ニューヨークまで25ドルを記録した。その後(94年末)になってようやくユニオン・パシフィック,ノーザンパシフィック,グレート・ノーザン3社の協定が実現する226)。
1893年1月7日、大陸横断鉄道としてセントポールとシアトルの間で貨物営業を開始した。ヒルは、これをもって路線建設の終了を宣言した。しかし、開通してもとくに輸送品がなく、そのような状況の中でUPやNPとの対抗上、運賃を低く抑えた。UP、NPは、さらにそれに対抗していく。そうこうするうちに悪循環に陥り、1893年恐慌により、UPとNPが破産した。それでもなお、ダンピング競争は続き、1890年当時の約4分の1にまで値下がりした1894年末になってようやく3社の運賃協定が成立した。[4]
- 参考文献
CiNii Articles 検索 - Ralph W. Hidyグレート・ノーザン鉄道 - Wikipedia
1894年 (シアトル等?)太平洋岸からセントポール=ミネアポリスまで10ドル、シカゴまで18ドル、ニューヨークまで25ドル。 - 葉仮名raycy - KliologY
1894年にニューヨークまで25ドルだったことがあるところを見ると、また 3社の競争がもっとも厳しかった時期であろうことをみると、弔辞だかの記述と良く合致した条件となっている。
「ニューヨーク行きの鉄道が三線共に競争をはじめ」 - 葉仮名raycy - KliologY弔詞 中村 幹治
ニューヨーク行きの鉄道が三線共に競争をはじめ,東へ東へ二十五弗という宣伝であったから
黒澤貞次郎 資料
この1894年末までにニューヨークまで移動したってことも 考えられないでもないかな、、
でもそうすると
黒澤貞次郎がしばしばシアトル地方紙や 日本人シアトルYMCAの記録にも 登場しているようなので、
ニューヨーク or シカゴと シアトル とか 東部と西部を しばしば往復していた? ってなこと ありうるか??
西海岸シアトルにしか 黒澤貞次郎が安堵できる まとまった日本人コミュニティは 無かったのかな?
エリオットは 1890年ごろは シカゴに住んでいるようだった。
GEORGE CRAWFORD ELLIOTT, OF CHICAGO, ILLINOIS,
ininventor:”GEORGE CRAWFORD ELLIOTT” - Google Search
Elliott and Hatchは 1898年から?
the Elliott and Hatch Book Typewriter Company of New York (1898-1902).
oz.Typewriter: On This Day in Typewriter History (XCVII)
足掛け10年を 満8年 プラス アルファ月(prior 先立つ) プラスアルファ月(after 後に続く) として、、
1901年 6月、エリオット・ハッチブックタイプライター10台余りと同社日本総代理権をもって帰国。
生い立ち
黒澤貞次郎は東京日本橋に生れた。小学校を出てすぐ、十六歳でアメリカに渡った。
その間にどういう手ずるといきさつがあったか知らぬが、向うで最初に職を得たのは、ニューヨークの或るタイプライター 製造所で、それについて、自ら語るところはこうだ。
「その頃はまだ、アメリカでもタイプライターは新製作品で、一般的にはそれほど実用化していなかった。しかし、私は その将来性を見て取って、一所懸命に修繕や組立てについて勉強した。本当の仕事は工場内の掃除掛りであったが、 掃除毎に出て来るタイプの部分品とか、釘、姻鋲などを集めて工場長へ差出していたのが信用を博して、だんだん仕事の 重要部分が覚えられる方へ廻して貰えた。そして、足掛け十年のうちに、タイプーライター製造の技術をすっかり修得する ことになったのである。
(「新版富豪物語」 岩倉実三 月刊「オール生活」1953年2月号 タイプライターとともに五十年)
黒澤貞次郎 資料
小さな私が昼間一生懸命大人と一緒に働いて一ドルの銀貨に変ります、併しそれでは到底自分がこの村で望んで居った事が 出来相に有りませんでした。何分物が高くてその日一日で一ドルの銀貨が解け消えて仕舞うものですから、それで私も 考えさせられて今度は少し余裕を作る為、昼の労れを推して夜の仕事をも働らく様に致しました。
で可成りな日を過してようやく自分の願が適う日が参りました。
丁度その時その村にも春が訪れて参いりまして暖かな太陽が私の前途を祝福してる様にポケットの中には苦しんで働いた力が 重く恵ぐまれて居りました。
吾等が村
旅立ちは春。初めての春?
1893年春? 1894年春? 1895年春? 1896年春? 1897年? 1898年?
1890年には 100ドルぐらいかかっていたであろうニューヨーク行き運賃は 1894年には一時的にであろうか25ドルになった。その前年 1893年にも 一時的には激安期間があった模様、、
25ドルならば 数ヶ月で貯蓄できたか、、
ならば 1894年ならば ニューヨーク方面へ行く切符代の条件は 整っていたであろうか。まあ1893年ごろから、、
プラス 数か月分の生活費?
google:"rate war" site:http://www.gnry.net/lookingback/ -hatena
google:"rate war" site:http://www.gnry.net/lookingback/lb1893.html -hatena
1893, 23 June: Another Cut In Rates
St. Paul, June 21 — The rate war between the Northern Pacific and Great Northern railways has already reached serious proportions. The Great Northern's $35 rate from St. Paul to Seattle went into effect on Sunday and the Northern Pacific's cut to the same amount on the following day. The Northern Pacific has now made another big slash by knocking off $10 from its first class and $7 from its second class through rate. General Passenger Agent Fee gave the rival line the regular legal notice that beginning with the 25th inst. the Northern Pacific will sell first class tickets for $25 and second class tickets at $18 to all points on Puget Sound and to Portland. The Great Northern at once announced that its Pacific coast rates would be $25 and $18 after June 25. In its notice to the transcontinental lines the company says, "We hold ourselves ready to attend a conference upon this question with view of adjusting the situation at anytime and place that may suit the convenience of the interested parties."
Great Northern Railway Looking Back 1893
1894, 25 January: New Rates In Effect
The new railroad passenger rates are of interest to many persons who contemplate visits. Agent Selvage has furnished The Columbian with the following rates effective Jan. 1 from Columbia Falls to:
1st Cls. 2d Cls. St. Paul........ $45.55 $29.35 Chicago......... 56.10 40.85 New York........ 75.50 56.85 Boston.......... 77.50 59.85 Baltimore....... 72.85 52.55 Grand Rapids.... 61.40 46.25 Kansas City..... 50.46 42.55 St. Louis....... 52.00 42.00 Detroit......... 63.50 46.85 Montreal........ 74.00 55.85 Toronto......... 68.45 51.85 Cincinnati...... 61.80 46.85 San Francisco... 67.50 ro'nd tripThese rates are slightly higher than those prevailing during the greater part of 1893.
Great Northern Railway Looking Back 1894
1894, 30 November: Cheap Fares May Go Lower
Portland Nov. 24: The statement is published here today that all transcontinental lines entering this city have been cutting the rate on passenger business to the east for some time past. A cut has been made on tickets to St. Paul, the regular rate being $40, and the rate to eastern points, which was $61.50, has been cut down $10. If matters are not adjusted at the meeting in Chicago Monday, the Northern Pacific threatens to put into effect an $18 rate to St. Paul.
Other Roads Looking Back 18941894, 30 November: Have Averted The Rate War
Portland, Nov. 27: Railroad lines entering Portland agree to maintain the scheduled fares.
It is understood that all the railroad lines entering this city have signed an agreement to maintain passenger rates, thus averting what a few days ago threatened to become a serious rate war. It has been known for some time that rates were being cut, and three days ago an afternoon paper published a full history of the prevailing war, including the price of tickets, showing cuts ranging from $5 to $10. The Great Northern, Southern Pacific, O. R. & N. and Canadian Pacific are parties to the agreement.
San Francisco, Nov. 24: General passenger agent Goodman of the Southern Pacific wired today from Chicago that commencing Tuesday November 27, a continuous trip rate would be given from all common California point viaa Ogden, Mojave, Barstow, Deming and El Paso, to Chicago for $54 first class and $49.50 second class. This is a cut of $3 from the present rates.
1898年としているものが 多いようだが、、
google:(Elliott and Hatch) 1895|1896|1897|1898|1899| -hatena
Cronologia / Time Line - prehistoriadelainformatica
1894 Crary, Crown, Edison-Mimeograph, Elliott-Fisher, Hartford No. 1, Remington No. 6, Victor. 1896 Smith-Premier #4, Williams #2, Blickensderfer #6, Elliott-Hatch, Granville Automatic, Lambert, Oliver, Remington #7, Wellington.
the Elliott & Hatch Book Typewriter (1895?)http://www.mediaartlab.ru/books/east/look/english_version/texts/DEAD_MEDIA.htm
1897 in Rome representative
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/~matsuoka/gissing/newsletter-journal/journal-31-3.pdf
WRITING MACH. CO. v. ELLIOTT & HATCH BOOK-TYPBWRITER 00.
(Circuit Court of Anceals, Second Circuit May 9, 1901.)
No. 125.
Patent — Validitt — Infeingement.
The Crary patent, No. 477,517, for improvements In typewrlting ma-
chines designed for printing in boolts of record, claim 1, contains a single
novel feature, consisting of a mechanical connection between the table
on which the boolj rests and the leaf-supporting platen by whlch the lat-
ter can be adjusted at whatever élévation may best suit the thicliness
of the book, and rigidly held In such place. Held not anticipated, and
valld, and, in view of the prior condition of the art, sustains a construc-
tion broad enough to cover any such means of adjustment, and, as so
construed, is not infringed by a device which Is adjustable to and from
the table, and where its platen is a swinging plate, w^hich, when it is
supported on the open boolt, reçoives the type mechanism, but Is kept in
its place by the support it receives from the book.
Appeal from the Circuit Court of the United States for the South-
ern District of New York.
Appeal from a decree of the circuit cour_ for the Southern dis-
trict of New York (106 Fed. 507), which dismissed the complainant's
bill in equity for an alleged infringement of claim 1 of letters pat-
ent No. 477,517, dated June 21, 1892, and issued to Joseph M. Crary,
as inventer, for improvements in typewrlting machines. The com-
plainant is the owner of the patent.
D. Walter Brown, for appellant.
Thomas Ewing, Jr., and P. T. Dodge, lor appellee.
Before WALLACE and SHIPMAN, Circuit Judges.
SHIPMAÎf, Circuit Judge. On January 3, 1891, the inventer,
Crary, flled his application in the patent office for an improved type-
wrlting machine, and letters patent therefor. No. 477,353, were is-
sued to him on June 21, 1892, the date of the patent in suit, for
which he had filed an application on November 13, 1891. Each in-
vention was especially intended for printing in large books of rec-
ord, and in such a machine the use of a flat platen or plate is neces-
sary to support the leaf to be printed and to remove the curvature
of the leaf created by its attachment to the back or hinge of the
WRITING MACH. CO. V. KLLIOTT & HATCH BOOK-TÏPEWRITER CO. 629
book. The platen of 477,353 was stationary, and the book was ad-
justed to the platen; that is, was moved upon the table up or down
as the varying thicknesses of bocks required. This method was ob-
viously inconvénient, required fréquent handling of heavy books,
and the study of the inventor resulted in the improvement described
in claim 1 of the patent in suit, which, speaking very generally, con-
sisted in the combihation with other éléments of a platen adjust-
able to and from the table top. This improvement was a substan-
tial, independent, and distinct subject of invention, but the com-
plainant is in errer in supposing that the patent is to be examined
without référence to the state of the art as disclosed by the inven-
tor's earlier invention. Ten months after he had applied for a pat-
ent for a typewriting machine with a flxed platen, he made applica-
tion for the improvement now in controversy. As a matter of fact,
it was an improvement upon the senior invention, and was the in-
troduction into book-typewriting machines of an adjustable leaf-
supporting platen connected with and co-operating with the other
parts of the machine. Crary apparently originated the improvement,
but it was, strictly speaking, a secondary invention, for it performs
the function previously performed by the stationary platen, although
It performs it in a much better way than had been accomplished
by its predecessor. Walk. Pat. § 359. It was a substantial and
meritorious invention, and was not limited to the détails of the
mechanism shown in the spécification. The mechanism of claim 1
is described in the opinion of the circuit judge as foUows:
"To a stationary table is adjustably connected a rigid, fiât, leaf-supportlng
platen. This platen is connected to the table, as shown in the spécifications
and drawings, by four slotted links, which at their upper ends are pivoted to
ears of the platen. Said links are slotted, and slide and oscillate on rods sup-
ported below the table top. Clamp nuts enable the operator to fix the platen
at any helght above the table, thus adjusting it in a rigid position at whatever
élévation may best suit the thickness of the book which lies upon the table."
The spécification says that:
"The platen, by means of the links, is adjustable to the thickness of the
book upon the table, and is then flxed rigidly by the clamp nuts. Where a
portable table is not desired, any stationary table may be used to support
the book-printing device, and the links may in such case be used Independently
of the tie-rods by setting them at any suitable angle with the platen, to sus-
tain the latter at a suitable height above the table to suit the thickness of
the book; the links, when adjusted, being clamped rigidly to the ears, C, by
the screws U'. The links, with such construction, merely rest by their ends
u.pon the table top which supports the book, but serve as adjustable legs to
set the platen above the table top at a suitable distance to place the book
beneath the platen."
It thus appears that the platen, after adjustment, is rigidly clamp-
ed at its four corners by the clamp nuts, and is a rigid, flat surface,
upon which the type mechanism is entirely supported, and in this
respect the device différa from the invention of 477,353, in which
the type mechanism was supported wholly on the bed which re-
çoives the book. Claim 1 is as foUows:
"(1) In a typewriter, the combinatlon with a table and Its supports of &
flat platen adjustable to and from the table top, type mechanism, and meana
supported wholly upon the platen for moying the type mechanism transversely
and longitudinally over the platen, as and for the purpose set forth."
630 108 FEDERAL REPORTER.
In the defendant's machines, which are made substantially in
accordance with tlie description contained in letters patent 'No.
620,125, dated February 28, 1899, and issued to Walter P. Hatch and
Frédéric W. Hillard, the platen is loosely hinged by hooked lugs
to a vertically adjustable bar upon a frame at the back of the ma-
chine, called a "lift frame," upon which, as a pivot, the upper end
of the platen turns, and, if the book does net inten'ene, the lower
end will rest upon the table. When the machine is in use, the open
book is placed in position, the platen is turned down upon it, and
can be turned back when a new leaf is to be written upon. "The
machine bedplate is likewise hooked upon this same bar, and the
bar, being lifted into engagement with it, serves also as a con-
venient hinge about which the machine bedplate with its type mech-
anism may be tumed up and eut of the way for the purpose of
arranging the book for writing, or turning the pages. ïhe adjusl-
ment of the platen dépends consequently upon the thickness of the
underlying portion of the book, and is directly determined by the
thickness of this underlying portion and any blocks which may be
placed under the book." The question of infringement turns very
much upon the point of the conformity or nonconformity of the de-
fendant's adjustable platen to the corresponding platen described in
the patent in suit. The defendant's device is, in a certain sensé,
adjustable to and from the table, — that is, the upper end of the
platen swings on the vertical adjustable bar on the lift frame, and
the lower end loosely rests on the table; but it is not the adjust-
able platen of the complainant's patent, which is rigidly clamped
at its four corners to the table, capable of being moved from the
table top, "and there retained in place rigid, and in a proper plane
to receive the impact of the type," and which is kept in place by
its attachment to the other parts of the machine. The defendant's
platen is a swinging plate, which, when it is supported on the open
book, reçoives the type mechanism, but is kept in its plane by the
support it receives from the book, and the book is really the thing
which supports the type mechanism. The decree of the circuit
court is aiBrmed, with costs.
Federal Reporter (F1), Volume 108
The AMENIA Times, Saturday, June 24, 1899.
This week the writer spent a couple of days in the city and during the time went over to Brooklyn and took a look through the large factory of the Elliott & Hatch Book Type Writing Co., and among the many improvements is a typewriter in the Japanese language. They have a young man from Tokio , Japan, and he printed me several specimens of the Japanese language, and among them was the Japanese national hymn, and then translated into English. Talk of the confusion of tongues at the tower of Babel Methinks that Japanese would be enough to confuse everybody. While there the young man promised to print some and send me for the benefit of the readers of The Times, which will be sent to that office, where all will have a chance to read and inspect.
They have already got out machine in French, German and Spanish, but this is the first attempt of any one to get out a Japanese alphabet. I was shown a Japanese hymn book direct from the mission at Tokio. The notation was the same as ours, but the hymn proper was in Japanese. To me it was quite interesting and the thought came back that truly it was our mission to evangelize the world. The stirring melodies of P. P. Bliss, Moody and Sankey, and other American evangelists and composers, are the priritual songs of far distant lands and the isles of the sea.
Syracuse NY Post Standard 1908 - 1634.PDF
...sur- * v 1 **: ;sr* . *.,* ?\ « V ^ t&i "*ViiL^I^ MMMEALD Teijiro Kurosawa *f Tokio, Importer of American Type- writers. Comes to Syracuse ...
...the frlendlieat relations are desired by our people." So said Teijiro Kurosawa of Toklo. who spent yesterday In Syracuse on his way around the world. Mr. Kurosawa is an Importer of type- writers and offlctj appliances and ...
...vlslt- *r^ London, i'arla, Brussels, Berlin and Moscow. Mr. Kurosawa said that this was his second trip to the t ...
...In your country and there Is nothing to It" Mr. Kurosawa said that Japan was tak- ing from America necessary goods ...
296156
夜学の卒業式の日、来賓である黒澤商会社長の黒澤貞次郎がその能力を惜しんでアメリカ留学を薦めて費用の寄付を申し出た。1915年(大正4年)に丸善を退社した間宮は1年間アメリカに留学して、図書館の重要性に気付いた
間宮不二雄 - WikipediaSyracuse NY Daily Journal 1916 - 1642.PDF
...that. The crack drill team of a volunteer rtre company » * TEIJIRO KUROSAWA. Twelve thousand miles from his Nip- ponese home. Fujio Mamlya ...
...came In contact with the head of the Japanese concern, Kurosawa. from the otiice Teljlro Kurosawa. No. while he was Identified with another 1 and 2 ...
...a year was on typewriter concern In New York City. Kurosawa was at that time a student in Columbia University and ...
...to se- cure a situation that would be self- sustaining. Kurosawa applied to Mr. Eylar for a position and was put ...
237865
http://fultonhistory.com/Newspaper%2014/New%20York%20NY%20Herald/New%20York%20NY%20Herald%201896/New%20York%20NY%20Herald%201896%20a%20-%201103.pdf#xml=http://fultonhistory.com/dtSearch/dtisapi6.dll?cmd=getpdfhits&u=ffffffff8b21f67a&DocId=3853460&Index=Z%3a\Index%20U-F-P&HitCount=5&hits=17e4+17e5+17e6+17e7+1dfe+&SearchForm=C%3a\inetpub\wwwroot\Fulton_New_form.html&.pdf
1896年ごろには ヴェンチャーキャビタルだか何かを介してか、まだ 資金を募っていたのかも、、
1901年6月の帰朝で (米国滞在?)本邦を離れること足掛け10年?ならば 1891年7月以降 1892年ごろ、大甘で1893年5月ごろまでの渡航ということになりそうだが、、 - 葉仮名raycy - KliologYその間にどういう手ずるといきさつがあったか知らぬが、向うで最初に職を得たのは、ニューヨークの或るタイプライター 製造所で、それについて、自ら語るところはこうだ。
「その頃はまだ、アメリカでもタイプライターは新製作品で、一般的にはそれほど実用化していなかった。しかし、私は その将来性を見て取って、一所懸命に修繕や組立てについて勉強した。本当の仕事は工場内の掃除掛りであったが、 掃除毎に出て来るタイプの部分品とか、釘、姻鋲などを集めて工場長へ差出していたのが信用を博して、だんだん仕事の 重要部分が覚えられる方へ廻して貰えた。そして、足掛け十年のうちに、タイプーライター製造の技術をすっかり修得する ことになったのである。
(「新版富豪物語」 岩倉実三 月刊「オール生活」1953年2月号 タイプライターとともに五十年)
黒澤貞次郎 資料
(二一)
で、【暦年順に 勝手に整序】
- 1896年ニューヨルク在留中に「エリオット、ハッチ」の工場で段々と研究をつづけ、
- 1898年の末には機械らしきものが出来上りました。 電信用という考えがなかったのでその書体は「ひらかな」でありました。
- 1899年6月 【勝手に追加事項】ニューヨーク州?の軍関係?の地方紙?の取材を受け 記事になる。楽譜の音符に添えて歌詞をタイプしているみたい? なら横書きかもだが、違うかなあ、、?
The AMENIA Times
Thursday, June 22, 1899. The AMENIA Times - 葉仮名raycy - KliologY
- 1899年7月 逓信省の方に始めて和文タイプライターをお見せしたのは明治三十二年(1899)七月ニューヨルク市を訪れた逓信技師梶浦重蔵氏でありました。
- 1899年9月 明治三十二年(1899)九月三日、 時事新報がその紙上でかなもじタイプライターの発明を紹介しましたのを縮小複写して次頁に掲げます。 当時東京盲唖学校長小西信八氏はわざわざ書信を寄せられて奨励して下さいました。又同氏は故男爵前島密氏にもこの発明を紹介して下さいました。
- 1900年7月 続いて翌三十三年七月逓信技師大岩弘平氏にもお見せした、その時同氏は、白重して大成せられる様、大いに奨励してくれました。 またカタカナ機を作る様、注意をしてくれました。
- 1901年2月 それから六ケ月の後カタカナ機が出末ました。 当時ニューヨルクを訪れた逓信省参事官、現錦鶏間祗候松永武吉氏にも御見せしました。
(二三)
タイプライターの歴史
- 1901年2月 最初のカタカナ機は明治三十四年(1901)二月に作り上ました。
- 1901年6月 して、同年の六月に帰朝しまして我国に於ける最初のタイプライター業を開きましたのが此工場の始ま りであります。
エリオット氏宅の家事手伝いは やったのかどうだったか、、
タイプライターの職に目をつけていて、 1896年 当時まだ工場の立ち上げ 創生期にあったエリオットタイプライターに職を得たか。
ただし まずは清掃員として。
クロサワタイプライター
もくじ
「19才 ヨコハマ タツトキ」と裏書のある写真
生い立ち
満18歳
picture endorsed that 18 years old leaving from Yokohama
Childhood
太平洋岸に上陸してまず,芋ほりをやった・・・ そのうちに農事の手伝いよりも鮭漁の方が収入がよいというので更に北上して働いていた
黒澤貞次郎 資料
「でようやく着いたのが丁度今夜の様な冷たい月が出始めた夕方でした。その時分西海岸のNと言えば小さな淋しい漁村に 過ぎませんでしたから、夜に入ってもあちこちにチラチラと貧しいランプの明りが見える位でした。
空いている腹とポケットを押えて出会った村人に尋ねました。
「村で私が働らく様な所を御存じ御座いませんか」
するとその村人は私の姿を繁々と見つめました。もっともその時私は十七そこそこの小さな子供でしたから不思議も 御座いません。間も無く村人は親切にSと云う漁場を尋ねる様にと教えてくれました。で一夜を過すと早速その所を訪れて その日からそのS漁場にて働らく事に成りました。
一体その昼の仕事はと言えば御存知の鮭を缶詰にするのです。今と違ってその時分は可成りな労力が働らく人々に 課せられて居りました。夜の方はと言えば、是は又昼間仕事の材料にする鮭を舟から陸へと上げるのが夜の仕事と 定まって居りました。
吾等が村
Panic of 1893: Seattle's First Great Depression
By J. Kingston Pierce, November 24, 1999
HistoryLink.org- the Free Online Encyclopedia of Washington State History
シアトルは 1889年のシアトル大火からの復興途上にあり、 その復興資金の多くを東部(や欧州?)の金融資本に依存していたため 東部(や欧州?)金融の好不調によっては 資金の引き上げによる資金ショートにも及びやすい環境にあった、。東部(や欧州?)金融市場の好不況の動向に敏感な 資金繰り環境であった。
「会社が一つに統合され」ってのが、The Union Typewriter Companyの設立(1893年3月30日)のことを言ってるんだとすると、「19世紀末の大不況」ってのが、いったいどの「大不況」を指しているのか、私にはさっぱりわからない。
たとえば1893年の大不況は、6月27日(火)の株価大暴落に始まったものだから、The Union Typewriter Companyの設立より後のことだ。
The Union Typewriter Companyの設立 | yasuokaの日記 | スラッシュドット・ジャパン
兆候と 原因、、
過剰設備だか過剰投資だか 過当競争状態に タイプライター業界が陥っていそうなことは 当時の鉄道業界と そう変わりなかったのではないか、、 ないしは それ以上に?
One of the first signs of trouble was the bankruptcy of the Philadelphia and Reading Railroad, which had greatly over-extended itself, on February 23, 1893,[2] ten days before Grover Cleveland's second inauguration.[3] Upon becoming President, Cleveland dealt directly with the Treasury crisis,[4] and successfully convinced Congress to repeal the Sherman Silver Purchase Act, which he felt was mainly responsible for the economic crisis.[5]
Panic of 1893 - Wikipedia, the free encyclopedia
銀の政府買い支えの廃止だかが 直接の 市場暴落の引き金になったようにも みえる、、
1890年の不況は、ロンドンのBaring Brothers破綻(1890年11月8日)が一つのヤマだが、アメリカではそう大きな不況になっているようには思えないし、
The Union Typewriter Companyの設立 | yasuokaの日記 | スラッシュドット・ジャパン
1890年のが そう響かなかったように見えていたのも あるいは 銀の買い支えのせい等も あったのかも、、
企業は 倒産 大変動とならぬように? 先回りして動こうとする、、だが それを果たせていなかったところ 漏れたところ そういった備えをしていなかったところから 先に 倒産していく?
この「大不況」期に もし Union typewriter として トラストしていなければ その幾つかは 倒産していたのかもしれない。 結果的には トラスト5社は1890年代を生き延びたようだが 他の社は どうだったのだろうか 私は知らないが、、
あるいは、 トラストを組むこととなったうちの数社の体力が相当に弱っていたからこそ トラストの提案に乗り トラストが実現した?
あるいは 倒産してから 5社統合するってな順序を お望みですか?
1894年3月9日、明治天皇の銀婚式を、黒沢たちは日本人YMCAで祝いました。
1895年2月11日の紀元節には、黒沢たちは日本人YMCAで戦果を祝いました。
Sanseido Word-Wise Web [三省堂辞書サイト] » 黒沢貞次郎(1)
『The Seattle Times』1897年12月18日p.3の記事「Japanese Tried for Insanity」による限り、黒沢がこの頃までシアトルにいたのは間違いない。
黒沢貞次郎の伝記 | yasuokaの日記 | スラッシュドット・ジャパン
Guides — UW Libraries
Notice
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from John R. Litz of Seattle
Seattle P.L 1894
3/10
" P.8 The Japanese Celebrate The Emperor's Silver Wedding
Made the Occasion of Patriotic Exercises (Charles
Akiyama, J. Yamaguchi, Mr. Kudo, Y. Shibayama, T.
Kurosawa, Mr. Siubata at Japanese Y.M.C.A., 418
Jefferson St.)
Seattle P.I. 1895
2/12 P.3 Cheers For Japan Japanese Residents Hold a Three-Fold
Celebration Exulting in Their Victory (Mr. Nakagawa,
Mr. Kawahara, Mr. Kurosawa, Mr. Yamaguchi, Mr. Soto,
Mr. Nakayama)
Seattle P.I 1896
2/13 P.3 Gifts to the Gods Chinese Residents Celebrate Their
New Year's Only Joss House in Seattle Where it is and
What it Contains-The Japanese, Too Have a Celebration
(Kawara, Nakayama, Yamaguchi, Kurosawa, Shebayama,
Nakamura)
3/24
" P.8 Brevities (T. Kurosawa, Secy, of Japanese Y.M.C.A.
officiated at Chouzo Fukura funeral)
Chinese and Japanese in the Seattle Post-Intelligencer — UW Libraries
Seattle Times
1897
6/7 P.2 Will Banquet the Visitors (K. Komatzuzaki, Chas.
Seattle Times
74
Sasaki, M. Tsukano, Y. Ozawa, M. Furuya, I. Kudo,
Takemi, M. Morita, Suzuki, Yamatoya, Z. Tsuchiya, U.
Iwama, Kurosawa, Z. U. Yamamura)
12/18
“ P.3 Japanese Tried for Insanity (Oka Mansaku, mentioned:
Teijiro Kurosawa, Mrs. K. Nishii, Klondike Restaurant)
Chinese and Japanese in the Seattle Times — UW Libraries
シアトル航路
シアトル航路
- 1892年 この航路の最初の開設はノーザンパシフィック汽船会社(Northern Pacific Steamship CO., NPS)で1892年、タコマ-横浜間、タコマでNP線と連帯契約を結んでのことであった(業績低迷のため1898年に撤退)。
- 1896年 続くは日本郵船会社で1896年、横浜-シアトル間、シアトルでGN線と連帯契約であった。
黒澤貞次郎がアメリカにわたったのは、
1891年やら 16歳やらっていう説から ある、。
渡米時点は 1993年ってことでいいのかな?なら18歳ぐらいだが、、16歳? 17歳? (数えで)19歳? 21歳?
yasuokaの日記 「Elliott宅に住み込みで働いていた、という伝記の記述」 - 葉仮名raycy - KliologY
1893年、年季明けと同時に黒沢は、横浜港からノーザン・パシフィックの蒸気船で、ワシントン州タコマに向けて、単身、旅立ちました。
Sanseido Word-Wise Web [三省堂辞書サイト] » 黒沢貞次郎(1)
弔詞 中村 幹治
ニューヨーク行きの鉄道が三線共に競争をはじめ,東へ東へ二十五弗という宣伝であったから
黒澤貞次郎 資料
シアトルとタコマ、ここを出発点として3つ大陸横断鉄道線が運営されていた。
シアトル航路
- 1887年 ノーザンパシフィック鉄道
- 1893年 グレートノーザン鉄道
- 1909年 最後のミルウォーキー鉄道(Chicago Milwaukee & St.Paul Railway, CM&SP/ CMSP&P)は1909年の開通であった。
1909年になって 最後の三線目が シアトルorタコマへと繋がったような、、
三線ともに競争をしているとしたならば シアトルではなののかも。(シアトルならば 1909年以降?)
地点エックス、、 そこから ニューヨークあたりまで 25ドル。
それは フィラデルフィアとかか、、それではすでに 東すぎ。 もっと西部の どこか?
そんな黒沢の生活が一変したのは、1897年7月17日、蒸気船ポートランド号がシアトルに到着した時からでした。ポートランド号は、カナダのクロンダイクから、大量の金塊と、採掘者たちを載せて戻ってきたのです。
Sanseido Word-Wise Web [三省堂辞書サイト] » 黒沢貞次郎(1)
狂騒のシアトルを後にして、金採掘者たちとは逆方向に、大陸横断列車で東海岸へと来たのです。
Sanseido Word-Wise Web [三省堂辞書サイト] » 黒沢貞次郎(2)
東海岸行きの乗車賃が格安になっていたことは ありうる かも、、
これのことかな、、
弔詞 中村 幹治
紐育では家事手伝いに廻るうちエリオット氏に気に入られ同家に継続して働くことになり、…
http://kurosawa.pagesperso-orange.fr/document.html#
「住み込み」とは 書いてないようだが、、
弔詞 中村 幹治 …、 一年ばかり過ぎると学校へ通わしてやるということであったが,… http://kurosawa.pagesperso-orange.fr/document.html#"スクールボーイ"様式での勤務/就学形態になることを勧められた、、というふうに 簡約できるのではないか
黒沢がGeorge Crawford Elliott宅に住み込みで働いていた、という伝記の記述も、残念ながら私は採用していない。1900年6月の国勢調査では、ブルックリン30区のElliott宅に住み込みの「servant」は全て未婚女性で、黒沢は別のマンハッタンの個人宅にいるからだ。もちろん、この時点でも、黒沢はElliott & Hatch Book Typewriter Companyに勤続している。住み込みをやめて会社だけ続ける、というのも、ありえるとは思うが妙な話だ。あるいは黒沢は、Elliott宅に住み込みを頼んだが、男性だったためにそれは断られ、代わりに会社で働くことを提案されたのではないか、という妄想も湧くのだが、これはあくまで妄想に過ぎない。とにかく、住み込みに関しては裏が取れないのだ。
黒沢貞次郎の伝記 | yasuokaの日記 | スラッシュドット・ジャパン
1893年、年季明けと同時に黒沢は、横浜港からノーザン・パシフィックの蒸気船で、ワシントン州タコマに向けて、単身、旅立ちました。新天地アメリカで見聞を広めたい、という思いがあったようです。16日間の航海中に、足のケガがもとで生死の境をさまよい、九死に一生を得た黒沢は、それを機に敬虔なクリスチャンとなりました。
アメリカ西海岸に着いた黒沢を待っていたのは、来る日も来る日も続く重労働でした。当初はタコマ周辺の日本人入植地で、芋掘りなどの農作業に従事していましたが、翌年にはシアトルに移り、鮭の缶詰工場で働きはじめました。昼は鮭を缶詰にして、夜は漁船から鮭の水揚げを手伝うのです。移民の黒沢がお金を貯めるには、重労働を続けるしかありませんでした。それでも黒沢は、日曜日や時間の空いた時には、たいていジェファーソン通りの日本人YMCAに顔を出していました。
日本人YMCAには、さまざまな形で、日本の情報が入って来ていました。そこは同時に、黒沢自身が、日本人としての自分を見つめ直す場所でもありました。1894年3月9日、明治天皇の銀婚式を、黒沢たちは日本人YMCAで祝いました。8月に日清戦争が開戦すると、シアトルにおいても、日本人と中国人の間に微妙な緊張感が漂いましたが、それでも1895年2月11日の紀元節には、黒沢たちは日本人YMCAで戦果を祝いました。
Sanseido Word-Wise Web [三省堂辞書サイト] » 黒沢貞次郎(1)
年季明けの年、そして アメリカ西海岸に着いた年を 1893年とするか 1896年とするか。
シアトルの日本人YMCA
CONDOLENCE SPEECH by Mr. Kanji Nakamuraなど | 安岡孝一大先生説 | |
1891(M24) | 1891(M24)渡米、シアトルを中心に職を変え、 <朝日選書『近代日本の異色建築家』><MATSU様より情報提供>http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kurosawa_t.html | |
? | 16才の時シアトルに渡り、(黒澤貞次郎さんの追憶 大内誠三) | |
? | 十六歳、待望の地ニューヨークにきてみると、見るもの聞くもの珍しくないものはなかった。(所得税長者番付第一位のタイプライター王・黒澤貞次郎氏 甲賀一郎) | |
? | 黒澤貞次郎は東京日本橋に生れた。小学校を出てすぐ、十六歳でアメリカに渡った。 明治三十四年(数え二十六歳)、アメリカでもそろそろ一般実用化の域に入ったタイプライターを土産に、彼は十年振りの 日本へ帰って来た。(「新版富豪物語」 岩倉実三)http://kurosawa.pagesperso-orange.fr/document.html#%E6%96%B0%E5%AF%8C%E8%B1%AA | |
? | もっともその時私は十七そこそこの小さな子供でしたから不思議も 御座いません。(秋の夜の集い YI生 1922年11月号)http://kurosawa.pagesperso-orange.fr/oragamura.html#%E7%A7%8B%E3%81%AE%E5%A4%9C | |
1993年 | 「19才 ヨコハマ タツトキ」と裏書のある写真 (数え年)19歳で渡米、シアトルへ http://kurosawa.pagesperso-orange.fr/oitachib.html | 1893年、年季明けと同時に黒沢は、横浜港からノーザン・パシフィックの蒸気船で、ワシントン州タコマに向けて、単身、旅立ちました。 |
1994年 | (太平洋岸からニューヨークまで 最低料金25ドルを記録。) http://kygaku.g.hatena.ne.jp/raycy/20121114/1352823558 | |
1996年? | かくして年期が明けて二十一の徴兵検査がすむと愈々お店の番頭格に出世するので羽織袴を作ってくれるのが吉例である。(「弔辞」) | ‐ |
1996年? | 太平洋岸に上陸。ポテト堀り、サーモンフィッシングなどをしていた (「弔辞」) | ? |
1996年? | 時あたかもニューヨーク行きの鉄道が三線共に競争をはじめ,東へ東へ二十五弗という宣伝であったからこの時とばかりニューヨークに向った (「弔辞」) | ? |
1996年? | ニューヨークで家事手伝いをして回るうちに エリオット宅に継続して働くことになり、(「弔辞」) | ? |
1998年12月 | 黒澤貞次郎、ニューヨークに居る | |
1997,8,9年ごろ? | 一年後ぐらいに 学校就学への援助提案を受け それを断り 代わりにエリオットタイプライター社への雇いいれを申し込む(「弔辞」より勝手に改変) | |
1997,8,9年ごろ? | エリオットタイプライターに就労 | エリオットタイプライターに就労か。 |
1999年? | エリオットタイプライターに就労か。 | |
1900年6月国勢調査 | - | エリオットタイプライターに就労中。住み込みではない。 |
CONDOLENCE SPEECH
by Mr. Kanji Nakamura
In New York, Kurosawa-san started to work for Mr. Eliott’s household doing house chores.
no title
弔詞 中 村 幹 治
紐育では家事手伝いに廻るうちエリオット氏に気に入られ同家に継続して働くことになり、
http://kurosawa.pagesperso-orange.fr/document.html#
明治初期の建造物の基礎に 石灰セメントが使われているものがあったとのこと。
TAKATAKATAKA 2012/11/05 14:30
最近、明治初期の建築の基礎から石灰コンクリートを採取する機会があり、日本建築総合試験所で分析を依頼しました。どうやら、日本最古級の石灰コンクリートとの報告が公表されました。日本建築総合試験所のホームページの機関誌GBRCからダウンロード出来ます。
2012-11-05 - 葉仮名raycy - KliologY
石灰コンクリートとは なんぞや?
GBRC150号(10月号) GBRC 最新号のご案内
一般財団法人日本建築総合試験所:機関誌「GBRC」
詳しくは 挙げられていた この GBRCの文献を見るということで、 あとは その落穂ひろいなど、、。
明治7年に竣工した旧大阪府庁舎の基礎に見られた石灰コンクリート(PDF;2.5MB)吉田夏樹 (一財)日本建築総合試験所 p.35
表-7 石灰・セメント・コンクリートの技術発展 および旧大阪府庁舎の建築に関わる出来事 より
年 出来事 1872-1873(明治5~6) 東京の深川清住町に工部省のセメント工場が建設される。 1875(明治8) 宇都宮三郎が工部省セメントの品質改良に成功する。11)
愛知セメントから購入した極微ポルトランドセメント
Sanseido Word-Wise Web [三省堂辞書サイト] » 黒沢貞次郎(7)
Portland cement was developed from natural cements made in Britain in the early part of the nineteenth century, and its name is derived from its similarity to Portland stone, a type of building stone that was quarried on the Isle of Portland in Dorset, England.
Portland cement - Wikipedia, the free encyclopedia
In 1824, Joseph Aspdin patented a similar material, which he called Portland cement, because the render made from it was in color similar to the prestigious Portland stone.
Cement - Wikipedia, the free encyclopedia
アルサクレイグ島の同義語 - 類語辞典(シソーラス)
準備中 | |
大阪市交通局ホームページから。確認理由はホームページに詳しく出ている。
番外 大阪市電の溝型レール、発見される? - 我が人生の垢
google: 大阪市電に使われたと思われる、古いレールが発見されました! -hatena
「PHX R 08 OMER」 大阪市交通局|大阪市電に使われたと思われる、古いレールが発見されました!
?"はてな" か !"びっくり"マークか、。 どちらも 断定しきれていないという点に注意を払った表現になっている。
9ポンドレール/yd.(4.5キロ/mぐらい?)だかや もっとずっと重い67ポンド段付レールにモルタルを塗る? 結束での安定のためでは なさげだなあ、、 - 葉仮名raycy - KliologY「M.C.P」がフェニックスというのも Webでは なかなか だどりつきがたい - 葉仮名raycy - KliologY「日本における鉄道用レールの変遷」およびその「第2報」は、公開されておりました。 “B.IA” 1よりは アイらしい、、あるいはローマ数字の壱、 - 葉仮名raycy - KliologY西野 保行,小西 純一,淵上 龍雄 日本における鉄道用レールの変遷 -残存する現物の確認による追跡(第2報)- 3 1983 126-135
段型レールのいちばん古いものは、
(172)M.C.P.-1903-1.
(173)PHOENIX R 1904
で、前者は1月から4月まで各月のものがある。
東武鉄道で跨線橋の部材として使われているものや、旧黒沢ビル(東京・銀座)の基礎から出てきたものは、東京市電気局の資料3)に「旧市街」(東京市街鉄道のこと)として示された図-1に示す67ポンドのものとぴったり一致する。これは都電から発生した
(174) PHOENIX R 1908
と同断面なので、このあたりまで続いたと思われる。
日本土木史研究発表会論文集
TAKATAKATAKA 2012/11/04 16:55例によって 『建築雑誌』第137号「鋼鐵基礎、曽弥達蔵」、これ まだ見てません。 "モルタル"説の来歴 - 葉仮名raycy - KliologY
建築雑誌、第137号の「鋼鐵基礎、曽弥達蔵」の171ページには、 2012-11-03 - 葉仮名raycy - KliologY
ttp://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?SID=kindai&searchWord=%E5%BB%BA%E7%AF%89%E9%9B%91%E8%AA%8C
このペースでいくと、『建築雑誌』137号は 明治三十一年五月ごろかな。
学会紹介/日本建築学会
More important was his "rail-grilage" (or "grillage") technique of reinforcing concrete with steel rails to construct a "raft" on which the building would be constructed. This was part of the solution to constructing heavy buildings on soft soil, and it ...
Tragedy in the Chicago Fire and Triumph in the Architectural Response
google:"rail grillage" foundation construction -hatena
"rail-grillage" technique,
d. construction techniques- To make buildings more fire-proof, John Root used hollow tile to cover structural beams. He also developed the "rail-grillage" technique, which became an industry standard for years. It allowed heavy buildings to be built on soft soil by using a "raft" foundation made by reinforcing concrete with steel rails.
Natalie’s American Lit Blog: OutlineNatalie’s American Lit Blog: Search results for rail-grillage19. John Wellborn Root (1850-91), a founder of the Chicago School style, created two new innovations that were important for office buildings and skyscrapers. To make buildings more fire-proof, he used hollow tile to cover structural beams. He also developed the "rail-grillage" technique, which became an industry standard for years. It allowed heavy buildings to be built on soft soil by using a "raft" foundation made by reinforcing concrete with steel rails. Rail grillage was better than normal masonry footings because masonry footings couldn't support the weight of tall buildings. (15)
Natalie’s American Lit Blog: Notecards
注3)「THE MEANING OF ARCHITECTURE」 John Wellborn Root著の中に紹介されている筏基礎
○基礎/ 黒沢貞次郎が渡米していた期間はシカゴ派の最盛期であり、しかも大半をシカゴとニューヨークとの間で過ごしていた事実と、鉄道レールが使用されたという噂からシカゴ派の作品にしばしば見られた「筏基礎」(図③)を用いているのでは、と憶測されてきた。
CiNii 論文 - RC造オフィスビルの先駆 : 銀座・黒沢ビルについて-その2
解体により判明した基礎は大別して上部と下部に分けることができる。下部は松杭・算盤木・御影石等で捨土台が築かれており、その上部にRC造の基礎が施されていた。図4に示したようにRC造の基礎は井桁状に組まれ、ここに鉄道レールが並置されている。この部分のみを取り上げれば、シカゴ派との類似について比較検討することができよう。
TAKATAKATAKA 2012/11/04 16:55</ここまで。2012.11.04 TAKATAKATAKAさまより 大(だい)関連情報>
モルタルかセメントかについて、その目的など、次の資料が参考になるのでは。
建築雑誌、第137号の「鋼鐵基礎、曽弥達蔵」の171ページには、シカゴの建築条例によると、鐡梁の間を充たすコンクリートは極密着して・・・・その鐡梁は必ず防腐剤を塗るべしセメントで塗るならば・・・との記述があります。 2012-11-03 - 葉仮名raycy - KliologY
、と 引用させていただきました。が、(シカゴ派とも関係あるのかな)、鉄骨造の話かもですかね、、 鉄梁だと のちの時代になれば 耐火モルタル吹き付けとかもあっただろうが、この当時は 耐火モルタル塗り仕上げ?
例によって 『建築雑誌』第137号「鋼鐵基礎、曽弥達蔵」、これ まだ見てません。
いままでのところ "セメント液"説 と "モルタル"説をみつけた。
"セメント液"説 | "モルタル"説 |
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吾等が村 建築生の記述は 工程順に 作業手順に沿って順に書かれてあるようにもみえる、、
基礎の 発掘現物見取り配筋図を確認してみる必要があるが、 現在文化の日から11月5日まで ciniiメンテナンス中のため確認できず。
【引用者による改行の追加 ここまでが基礎工事における サンドリ部?の溝付レールに関する記述と解釈してみました。って それで いいんだっけか、、】
- レールは、サンドリに組まれて
明治世相百話 - 214 ページ 山本笑月 - 2005年, (初版?は 1936年?)
材木堀や川筋に到着した大角小角を、サンドリに積んだり、筏に組んだり、長鈎一本で自由自在、客があれば番頭と一緒に堀へ行って、目当ての材木を引き出し、たった一本の上へ乗って足でその角材をぐるぐる回して見せる。これが角乗りといつて川並得意の ... ???x?????????????????p???p???@?T???h???@?? - Google ????材木堀や川筋に到着した大角小角を、サンドリに積んだり、筏《いかだ》に組んだり、長鉤一本で自由自在、客があれば番頭と一緒に堀へ行って、目当ての材木を引き出し、たった一本の上へ乗って足でその角材をぐるぐる回して見せる。これが角乗りといって川並得意の芸、浮いている代物だから下手《へた》をすると仰向けに自分がざんぶと水の中、そこでこの角乗りは平素練習を怠らなかった。 山本笑月『明治世相百話』「木場に残った江戸風景 今はそれも夢の跡」 - 網迫の電子テキスト新着情報 - 楽天ブログ(Blog)
- 一、三、五、のコンクリート
How to DIY
- グリレージとか 洋式基礎とか
- 「グリレーヂ」
建築雑誌、第137号の「鋼鐵基礎、曽弥達蔵」…… 「グリレーヂ」についても、165ページに記載されており、縦横に組まれたもの(鉄材や木材)と言う意味だそうです。 2012-11-03 - 葉仮名raycy - KliologY吾等が村
- 砂利は二回洗い、砂まで洗うと言う始末
- 砂利,砂は 川砂利 川砂であったろうか?
- 砂利は 豆砂利とあったので 川砂利であったのだろう。ん?
- 豆砂利、、海砂利、川砂利、山砂利、火山砂利、 http://www.kentikulink.net/architectjiten/ag16.html
- 砂は? まあ 普通なら川砂であったろうが、、
TAKATAKATAKA非常に興味深く、読ませていただいております。モルタルかセメントかについて、その目的など、次の資料が参考になるのでは。
建築雑誌、第137号の「鋼鐵基礎、曽弥達蔵」の171ページには、シカゴの建築条例によると、鐡梁の間を充たすコンクリートは極密着して・・・・その鐡梁は必ず防腐剤を塗るべしセメントで塗るならば・・・との記述があります。また、「グリレーヂ」についても、165ページに記載されており、縦横に組まれたもの(鉄材や木材)と言う意味だそうです。参考になればと思います。
raycyTAKATAKATAKAさま ご教示ありがとうございます。シカゴ派だかの影響 といったことが うわさされておりましたが、シカゴの建築条例が米国内において 先導的であったかかどうかによっては、黒澤建築への シカゴの影響の度合いが 推し量れるかもしれません。「グリレーヂ」、早速 拙記事に反映させました。http://kygaku.g.hatena.ne.jp/raycy/20121103/1351951595 「サンドリ」は 材木の積み方の呼び名のようでもあり、さしずめ「グリレージ」が "積み方"とすれば その和名に相当しそうなのが 「サンドリ」なのかな と。 『金属』、ようやく先週金曜に借りてきました。まだ ちらっと見た程度ですが、レール側面のカラー写真もあり、また 交通博物館の方だかが レールの歴史に触れていたり、 国産レールの歴史的なことまでふれてあるよう、。 非常に参考になりそうです。って 私 いったい何を調べてるんだか、自身 良くわからなくなってて、?。 とりあえず 御礼まで。
9ポンドレール/yd.(4.5キロ/mぐらい?)だかや もっとずっと重い67ポンド段付レールにモルタルを塗る? 結束での安定のためでは なさげだなあ、、 - 葉仮名raycy - KliologY確認したかったのは黒澤商店ビル 施工前処理としての錆び落としの程度。 それと 鉄筋代わりの古レールに「セメント液を塗る」とはどういうことか。 あと 思いつきメモなど - 葉仮名raycy - KliologY”ん?感”が湧いたのは 「(鉄筋の代用)古レールの錆び落とし」(これは カンカン々々と (浮き錆び落とし?)実際になされていたようであるが、)や 「粗骨材に煉瓦を砕いて」(これが使われたのは 圧縮強度をさほど要しない装飾的部分(コーニス等)のみっぽい) - 葉仮やがて根切も出来上り基礎工事が始まると驚いたね、何百本かの長い外濠電車の線路から外した古レールが持ち込まれて毎日毎日 カンカン々々と錆落し、往来の人達ちは何をやってるかと盛んに節穴から覗き込んだ、そうして清潔になったレールは、サンドリに組まれて、 一、三、五、のコンクリートで固められた、何の事はない鋼骨の入れてある人造石の素敵もない大きいステだ、西洋ではグリレージとか 洋式基礎とか言うのだそうだ、而て柱下は二重にも三重にも固められて地中から柱となる鉄筋が建てられた、丸棒は一寸から二分まで それぞれ配置された、何れもよく錆を落しセメント液を塗り 丁寧に組立てたものだ。
吾等が村
セメント液を英語で cement slurryっていうらしい。
セメント液の英語・英訳 - 英和辞典・和英辞典 Weblio辞書
技術用語|セメントミルク - astamuse(アスタミューゼ)
"cement slurry-coated rebars" って処理も 一応は想定できるようである。
おや? cement slurry-coated rebars - 葉仮名raycy - KliologY
ちなみにモルタルとは、
技術用語|モルタル - astamuse(アスタミューゼ)
これじゃあ かえってわからん。
ノロっていうものもあるようだ。
モルタルをなぜ塗った?、、なぜ 古レールにモルタルを塗って使ったのだろうか。
9ポンドレール/yd.(4.5キロ/mぐらい?)だかや もっとずっと重い67ポンド段付レールにモルタルを塗る? 結束での安定のためでは なさげだなあ、、 - 葉仮名raycy - KliologY鉄筋の代用品には、東京鉄道から払い下げられた古レールを、錆を落とした上にモルタルを塗って使いました。
Sanseido Word-Wise Web [三省堂辞書サイト] » 黒沢貞次郎(7)
第1期工事は43年に完成。この時、貞次郎氏の二女が誕生し、ちょうどビルの角ができたので名前は〈すみ〉と付けられる。第2期工事は44年完成。三女が誕生し、ビルのまん中が出来たので、〈なか〉と命名。
そして、銀座通り側第3期工事は、大正元年、当時京橋区尾張町2丁目と称されている地に、待望のビルの全てが完成する。この時、三男が誕生。尾張町で生まれた三男ということで、〈張三〉と名付けられる。
「私は〈ちょうぞう〉と申してますが、もしかしたら〈はりぞう〉だったかも知れませんね」と張三氏。
銀座15番街 加盟店紹介
…大きな特徴は、第3期工事部分内において、コンクリートの基礎下部部分を、大谷石積みで代用させている箇所の存在である。(D通6~10) この箇所は土地収得の際、最後まで残ったという声を黒沢商店の方より耳にした。おそらく着工が第3期の他の部分より遅れたためと思われるが、今後重ねて調査する必要があろう。
CiNii 論文 - RC造オフィスビルの先駆 : 銀座・黒沢ビルについて-その3
「D通6~10」といえば 角地っぽいが、。
「角地」の「角」は、建設当初段階では 取得できていなかった可能性がある。
黒澤商店ビルの建造が 地上げしつつ進行した可能性? しかも 「角地」部分は 第3期工期入り後の?いよいよ最後の最後の取得? - 葉仮名raycy - KliologYというか、第2期工事進行中には 第3期工事予定部分に瓦屋根っぽい2階建ての建物が建っているようだ。
【仮説とういか思いつきメモ】D通り???だかの歩道側には 電話ボックスだかの小屋が建っているようだし、 なにか 歩道側に深くえぐって掘り返すような 長いレールの埋設敷設コンクリ打設は できない事情があった? - 葉仮名raycy - KliologY第1期工事完成(1910年12月28日)し、第2期工事進行中
銀座黒澤商店
google:尾張町 site:kurosawa.pagesperso-orange.fr/
1906-7年
(明治39-40) 銀座表通り(尾張町2-1、現、銀座6-9-2)に土地を取得、それに隣接した尾張町2-2/3へ店舗を移す。
生い立ち
弔詞 中 村 幹 治
初めてお目にかかったのは明治三十八年頃京橋弥左衛門町かにお店を持っていられた時、 野田正一君と私が共同で数寄屋橋に開店した碌々商店が発展の為新肴町に移転し、僅か六七軒の隣家となって エリオットプックタイプを一台分けて頂いたのが最初の縁で、懇親を加え君の手づからの西洋料理に招かれた記憶がある。
銀座尾張町の今井商店が悲境に落ちた時,碌々商店の取引関係で,債権者会議に野田君出席して, 地所家屋を処分して整理するということになり、碌々で買ってはどうかと言われたそうである。機械屋に銀座の表通りは必要がない, 黒沢さんに好適だと思ってお話をして、この銀座の御店が出来ることになったのである。
黒澤貞次郎 資料
黒澤村(2):日本IT書紀:So-netブログ表現間に、微妙に差異を感じるが、: 「崩壊」と 「柱に亀裂が入ってしまったり屋根が抜け落ちたりして、取り壊しを余議なくされた」。「輸入品のカタログ販売ならば、即座に再開可能でした」 - 葉仮名raycy - KliologY
事務能率増進運動で、黒澤の事業は順調に拡大した。そのため、弥左衛門町の店が手狭まになった。そこで黒澤は1907年(明治四十)、東京市京橋区尾張町2丁目213番地(現中央区銀座6丁目)に土地を求め、本社を移転するとともに、2年後に鉄筋コンクリート造・3階建ての本社ビルを建設した。このビルは関東大震災の火災にあったものの焼け残り、不思議なことに第二次大戦末期の空襲でも生き残った。
銀座6丁目に本社の用地を購入する際、地主は黒澤を信用しなかった。
「ならば、対価は現金で支払おう」
といっても首をたてにふらなかった。
このことを聞いた高峰譲吉は、千葉県野田の豪商・茂木佐平治に話を持ちかけ、茂木が黒澤の保証人となった。だけでなく、茂木の縁者である北川家が黒澤に資金を提供もした。タカジアスターゼの原料が醤油のモロミであったことから、高峰は茂木と懇意な関係にあった。茂木左平治といえば、「茂木八家」と称される北総きっての豪商であって、これから10年ののち、「野田醤油」(現キッコーマン)を興す人物である。
さらにいうと、これが縁で黒澤は……
卷之六游魚:日本IT書紀:So-netブログ
B.から Bを頭文字とするBurbachなら そうかもと思うだろう。 なんでProvidenceと思えたか? - 葉仮名raycy - KliologY記法および表現:「 オススメ 」 は "返歌"であるか? - 葉仮名raycy - KliologYOne か アイか。 壱か I(アルファベットのアイ)か ?(ローマ数字の壱)か。 もしくは"エ"のような? - 葉仮名raycy - KliologY「日本における鉄道用レールの変遷」およびその「第2報」は、公開されておりました。 “B.IA” 1よりは アイらしい、、あるいはローマ数字の壱、 - 葉仮名raycy - KliologY西野 保行,小西 純一,淵上 龍雄 日本における鉄道用レールの変遷 -残存する現物の確認による追跡(第2報)- 3巻 1983 126-135
(4)工事用
非常に珍しいものとして旧黒沢ビルの基礎から出てきた、現状の実測で4.35kgの
という超軽レールがある。現状で底面幅1 1/2" × 高さ1 25/32"という寸法で、B.は軽レールを多くわが国に入れているブルバッハ社の略ではないかと思われる。
日本土木史研究発表会論文集
歴代の鉄道用レールの種類(断面規格) / Shapes of rails at Japan
小黒ら(1980/9) http://ci.nii.ac.jp/naid/110004094749 では 底面幅38×高さ44であった。
9ポンドといえるかもしれないが、だとしたら 少し痩せている?
4.4 kg/Metre Steel Rail
まあ 誤差範囲かも、、
高さが 若干 減っているかもしれない、、
トロッコレールの方は、「B.1A」という刻印が認められるだけで、どういう来歴なのかよくわからないのだ。化学分析の結果、段付レールとは組成が全く異なっているし、そもそも車輪接触面に摩耗がない。刻印からすると、八幡製鉄所のものでないのは明らかで、輸入品(可能性としてはドイツBurbach社製9ポンドレール)ということになる。
黒沢ビルのトロッコレール | yasuokaの日記 | スラッシュドット・ジャパン
磨耗でないとしたら 腐食か? コンクリート中の腐食で無いとしたなら、 コンクリート打設前の 長期保管期間による錆か? だとしたなら 軽探団の説:
トロッコレールらしきものの刻印は "B.IA" アイらしい。(それがもしアイではないとしたなら 壱:ローマ数字の一) - 葉仮名raycy - KliologY軽探団「ビルの壁面から飛び出したレールの正体は一体何なんだろうか?」 - 葉仮名raycy - KliologY黒沢ビルのトロッコレール | yasuokaの日記 | スラッシュドット・ジャパン銀座黒沢ビル レール -hatena - Google 検索軽探団トップビルの壁面から飛び出したレールの正体は一体何なんだろうか?
では左の細いレールは何に使われていたのであろうか?サイズを計測してみると以前に当HPで「史上最細レール」として紹介した山口県の榎山炭鉱の柵に利用されているものとほぼ同じサイズであったが、こちらの方がレール頭がやや狭い。これは機関車を使用しない超簡易トロッコのレールサイズと言える。説明文にはこれ以上の記載がないので、ここから先は推測になるが、外濠線の敷設工事や道路の整備工事等で使用されたレールではなかろうか?
黒沢ビル(東京都)
《データ》◇レール頭幅15mm・高さ45mm・底面幅40mm(実測値)[調査日:2010.03.23]
何かの施工工事用に 仮設で 短期間敷設されることを繰り返したような? 施工工事用トロッコのレールか?
あるいは 営林署のような場所で使った?
津軽鉄道発売の「レールキーホルダー」。金木営林署から譲り受けたものだそうで
レールキーホルダー - 葉仮名raycy - KliologY
あるいは 日露戦後不況で 在庫していたレールが鋼材として出てきた?
米国恐慌の余波で東京株式市場が大暴落。わが国初の経済恐慌起こる。 1908年[ザ・20世紀]
鉄筋コンクリートエ事 建 築 生 1923年1月号 鉄筋コンクリートエ事では僕等は元老の仲間株だ、今でこそ猫も杓子も鉄筋だが銀座のお店が東京での最初の新式建築で、 而して僕等が施工したのだ。 起工は明治四十二年十月十八日と記憶して居る、工事は店の西北隅から始まって、板囲いが済んだ時「さあ工事を始める、 基礎から棟上げまで木材は一つも用いない、悉皆コンクリートで造るのだ」と、聞かされて狸の土舟でもあるまいし随分思い切った設計だと、 実は少しく気味が 悪かったが、やっつけろと始めたものだ。 今でこそセメント会社は二割の三割のと大配当をやって居るが、その頃は不況続きで、銀座の角店が鉄筋コンクリートで建てられると聴き、 よい広告になる、何千樽でも無代でお使い被下と申込んだそうだ、義侠の主人がそれは気の毒、余計儲けがなく共、五分の純益を見て 売ってくれとようやく承知させた、代価は当時の 市価より一割も高かったそうだ、其の上、板囲いにセメントの広告までしてやった、 今、憶えば隔世の感がある。 吾等が村
黒沢張三の張、、銀座尾張町の用地収得の経緯に関して、、 - 葉仮名raycy - KliologY弔詞 中 村 幹 治
初めてお目にかかったのは明治三十八年頃京橋弥左衛門町かにお店を持っていられた時、 野田正一君と私が共同で数寄屋橋に開店した碌々商店が発展の為新肴町に移転し、僅か六七軒の隣家となって エリオットプックタイプを一台分けて頂いたのが最初の縁で、懇親を加え君の手づからの西洋料理に招かれた記憶がある。
銀座尾張町の今井商店が悲境に落ちた時,碌々商店の取引関係で,債権者会議に野田君出席して, 地所家屋を処分して整理するということになり、碌々で買ってはどうかと言われたそうである。機械屋に銀座の表通りは必要がない, 黒沢さんに好適だと思ってお話をして、この銀座の御店が出来ることになったのである。
黒澤貞次郎 資料
1906年、京橋区尾張町1丁目で室内装飾業を営んでいた「今井商店」が破産。その債権者の一人であった野間正一氏から土地家屋の買取りを頼まれ、取得する。(2012年9月4日 (火) 00:26時点における版 Tobewest3) 黒澤貞次郎:版間の差分 - Wikipedia
碌々のガソリン機関車キット rokuroku
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- 暮しの民俗誌 - 第 9 巻 - 89 ページ
暮しの民俗誌 - 第 9 巻 - 89 ページ
クヮパラカバン店。久保田扇店。高,黒沢商店。小松食堂。湯浅ュハガキ。今井室内装飾。岩崎メガネ店。ヨシノャ靴店。不二家店。空地。料理,銀座食堂。空地。空地。酒食料,三浦屋。時計,大西錦綾堂。洋服,沢田。洋品,美濃常支洋菓子,不二家。家具.義昌堂。第十銀行支店。空地。尾張町郵便局。柳行李,桑原。空地。日本.タイプライタ—。日本食堂.松本楼。中野商店。新築中。
銀座十二章 - 42 ページ
運動具店五木田。クヮバラカバン店。久保田扇店。高橋ステッキ。銀座食堂。サロンドテパン。菊ノヤ靴店。不二家洋菓。義昌堂。菊水和洋タパコ。ダイヤモンド会社。郵便局。 0 黒沢商店。小松食堂。湯浅ェハガキ。今井室内装飾。岩崎メガネ店。ヨシ三浦屋。
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4.モルタル充填式継手 『鉄筋の継手』- 鉄筋をつなげる継手:日本建築構造技術者協会
黒澤貞次郎の伝記系Webの 黒沢村ミニコミ機関紙『吾等が村』には 「セメント液を塗り」ってあったはず、、
鉄筋の代用品には、東京鉄道から払い下げられた古レールを、錆を落とした上にモルタルを塗って使いました。
Sanseido Word-Wise Web [三省堂辞書サイト] » 黒沢貞次郎(7)
私はこれを あるいは 鉄筋代用の丸鋼に 取っ掛かりの毛羽をつけるためにモルタルを塗って 結束でしっかり止まるようなための 結束用に表面異形化する措置ってことも ひょっとしたら あったのかな、、と読んでしまっていた。
そうじゃないな 丸鋼の話じゃない、レールだ。 それも トロッコレールや 東京電気鉄道(外濠線)で使っていた軌道用のレールかな、、。そんなののために 表面に毛羽をつける意味は ぜんぜん感じられない。レールじゃ結束固定は 特に柱用途とかで 縦に垂直につなぐ場合など 無理そう。じゃ なんで? 鉄骨造の耐火モルタル吹付け施工とかならともかく、、 、、鉄筋コンクリート造なんだから。
施工を コンクリート打設 一発で決めるのが 黒沢商店工法の信条。 なんでわざわざあらかじめ鉄骨にモルタル塗ったりするだろうか。
工期の非常にゆっくり目な黒沢商店の施工、、コンクリート打設までの防錆対策、、このぐらいならば ありえそうな気もする。だが それならば アルカリ性液の薄塗り? たとえば セメント液(上澄み程度?)を薄塗りする?ってなので 充分ではないか? ってかそれも邪道な気もするが、、
"cement slurry-coated rebars" って処理も 一応は想定できるようである。 鉄筋への "セメント液" コーティングについて (cf. モルタル コーティング?) - 葉仮名raycy - KliologY
確認したかったのは黒澤商店ビル 施工前処理としての錆び落としの程度。 それと 鉄筋代わりの古レールに「セメント液を塗る」とはどういうことか。 あと 思いつきメモなど - 葉仮名raycy - KliologYやがて根切も出来上り基礎工事が始まると驚いたね、何百本かの長い外濠電車の線路から外した古レールが持ち込まれて毎日毎日 カンカン々々と錆落し、往来の人達ちは何をやってるかと盛んに節穴から覗き込んだ、そうして清潔になったレールは、サンドリに組まれて、 一、三、五、のコンクリートで固められた、何の事はない鋼骨の入れてある人造石の素敵もない大きいステだ、西洋ではグリレージとか 洋式基礎とか言うのだそうだ、而て柱下は二重にも三重にも固められて地中から柱となる鉄筋が建てられた、丸棒は一寸から二分まで それぞれ配置された、何れもよく錆を落しセメント液を塗り 丁寧に組立てたものだ。 吾等が村”ん?感”が湧いたのは 「(鉄筋の代用)古レールの錆び落とし」(これは カンカン々々と (浮き錆び落とし?)実際になされていたようであるが、)や 「粗骨材に煉瓦を砕いて」(これが使われたのは 圧縮強度をさほど要しない装飾的部分(コーニス等)のみっぽい) - 葉仮
他の箇所でも「セメント液」っていう言葉が使われていて、
鉄筋工事で今でも忘れないのはお店の二階の床を打った日だ、その前日「明日は大コンクリ、仕度はよいかい」と、 材料は勿論のこと人夫の手配もその部署もすっかり調って「晴」の天気予報に勇みに勇んだ。
明くれば当日、薄暗い中に月島の家を出掛けて銀座に来てから全く明かるくなった、天候は予報通りの好天気で工事を始めた、所がさぁ大変!!! 仕事も半分の十一時頃から曇り始めた、雲足の速さたちまち墨を流した様な暗さになるとやがてゴロへゴロへと鳴り出したと同時に 大雨沛然として車軸を流す有様、雷鳴ますへ激しくなり遂には向う横丁の三十間堀に落雷したほどの大騒ぎであった。
折角打ったコンクリートは遠慮なく流れ始める、階下ヘはセメンの瀧が落下する、この天変地異の真最中、平気の平左で 「セメント」!!!「砂」!!!「砂利」!!!と号令勇ましく仕事を継続して主人公が上を下ヘと配給してくれる角砂糖のセメント漬けに なったのをほうばりながら、とうへ床を打ち上げた勇気には恐らく鬼神も泣いたであろう、実際仕事が終った時は僕等は勿論主人公も 佐藤さんもセメント液でびっしより濡れ、二目とは見られぬ姿であった、楠君も其時分はまだ可愛いゝ小僧さんで大いに手伝ってくれたものだ。
また建築生の自慢話でお聞き苦しい、否お読み苦しい所は御勘弁を願う、が実際コンクリートエ事の急所は、 水を注がれたセメントが硬化を始めぬ前にちゃんと練りまぜたものを仮枠の中に入れ掲き固めて仕舞うのにある。
吾等が村
雨で流され 型枠からあふれ 階下へ滴り流れ落ちてくる 打設中のコンクリートの上澄みやセメント(粉エマルジョン?)が雨水と渾然となった液のことであろう。
壁面に突き刺さったレールのうち、<勝手に 一部箇条書き化>
- 段付レールの方に関しては、小黒康弘・三橋博巳「黎明期の鉄筋コンクリート構造」(『施工』1981年4~6月号)に詳細な報告があって、1903年ドイツPhoenix社製で東京鉄道から払い下げを受けたものだ、という見当がついている。
- しかし、トロッコレールの方は、「B.1A」という刻印が認められるだけで、どういう来歴なのかよくわからないのだ。
- すなわち、このトロッコレールは、日本国内の軽便鉄道か何かに使うべく輸入されたものが、実際には使われずに、黒沢が買い取ったものである可能性が高い。しかし、それがどこなのかがさっぱりわからない。うーむ…。
</勝手に 一部箇条書き化>
黒沢ビルのトロッコレール | yasuokaの日記 | スラッシュドット・ジャパン
ここで なんで来歴の話になってきているかというと、
トロッコレールが 東京鉄道から払い下げられたものかどうかが不明なためであろう。
鉄筋の代用品に使われたレールには 段付レールにも形状が2種類あるため、プロファイル別で見れば 都合3種類あったことが 小黒ら(1980-09)に報告されていた。
One か アイか。 壱か I(アルファベットのアイ)か ?(ローマ数字の壱)か。 もしくは"エ"のような? - 葉仮名raycy - KliologY○レール/ …鉄道レールは2種類あることが判った。また、…トロッコレールらしきものも梁・スラブ・基礎から発見され、…
鉄道レール(A)およびトロッコレールには刻印がみつかっており、それぞれドイツ・フェニックス社製、ベルギー・プロビデンス社製の輸入品であると思われる。注1)ここに紹介したレールが何れも組積造にみられた補強材としてではなく、RC造の主要構造材料として用いられたことは言うまでもない。
CiNii 論文 - RC造オフィスビルの先駆 : 銀座・黒沢ビルについて-その2
注1) 交通博物館・上田資料課長よりの資料による。
先の記述が
ならば 包摂関係に問題は無いが、 トロッコレールまで含めると 先の記述では 入手経路表示として 正確性を欠いているかもしれない。
段付レールの 2種類のShapeのほうは どちらも東京鉄道からの払い下げ調達?の可能性もあろうか、少なくとも片方は その可能性が高そうである 東京市街鉄道の資料と断面が一致しているらしい。
「M.C.P」がフェニックスというのも Webでは なかなか だどりつきがたい - 葉仮名raycy - KliologY「日本における鉄道用レールの変遷」およびその「第2報」は、公開されておりました。 “B.IA” 1よりは アイらしい、、あるいはローマ数字の壱、 - 葉仮名raycy - KliologY西野 保行,小西 純一,淵上 龍雄 日本における鉄道用レールの変遷 -残存する現物の確認による追跡(第2報)- 3 1983 126-135
段型レールのいちばん古いものは、
(172)M.C.P.-1903-1.
(173)PHOENIX R 1904
で、前者は1月から4月まで各月のものがある。
東武鉄道で跨線橋の部材として使われているものや、旧黒沢ビル(東京・銀座)の基礎から出てきたものは、東京市電気局の資料3)に「旧市街」(東京市街鉄道のこと)として示された図-1に示す67ポンドのものとぴったり一致する。これは都電から発生した
(174) PHOENIX R 1908
と同断面なので、このあたりまで続いたと思われる。
日本土木史研究発表会論文集
だが、トロッコレールのほうは 調達先が 東京鉄道払い下げ品かどうかが 断定できていない状態にある。
それで
うーむ…。
黒沢ビルのトロッコレール | yasuokaの日記 | スラッシュドット・ジャパン
鉄筋を セメント・スラリーでコーティングするっていう腐食進行抑止施工は あるらしい、、
海っぺりとか塩害地域での施工対策?
効果のほどは 評価中?
corrosion rates of cement slurry-coated rebars
Emerald | Anti-Corrosion Methods and Materials | Evaluation of coated rebar validity of short-term accelerated corrosion tests in relation to long-term field evaluation
cement slurry-coated rebars - Google Scholar
ScienceDirect.com - Cement and Concrete Composites - Effect of prior damage on the performance of cement based coatings on rebar: macrocell corrosion studies
TAKATAKATAKA2012/11/05 14:30raycy様、鋼鐵基礎送りましょうか?それにしても、検索力は凄いですね。三越大阪店(横川民輔)の基礎がシカゴ形式の基礎という事で教えていただいたものです。いろんな記事、非常に興味を持ってみて,調べております。有難うございます。
別件ですが、最近、明治初期の建築の基礎から石灰コンクリートを採取する機会があり、日本建築総合試験所で分析を依頼しました。どうやら、日本最古級の石灰コンクリートとの報告が公表されました。日本建築総合試験所のホームページの機関誌GBRCからダウンロード出来ます。