JR日光駅:駅舎の設計者が判明 追跡10年、郷土史家が近く発表
2012年12月14日
100年の謎に終止符−−。ネオ・ルネサンス風デザインで大正元(1912)年に改築されたJR日光駅舎の設計者は当時の鉄道院技手、明石虎雄であることを、日光市の日光近代史研究家、福田和美さん(63)が突き止めた。設計者は著名外国人建築家の名前が挙がっていたが、福田さんは先月「鉄道院の設計と考えるのが妥当」とする調査結果を出していた。謎を追い続けて10年。さらに調査を徹底し、近く結果を発表する。【浅見茂晴】
福田さんは03年に県教委がまとめた「栃木県の近代化遺産」で日光地区を担当したが、日光駅舎の設計者は分からずじまいだった。鉄道博物館を含め、さまざまな資料を洗ったが、設計者名はなかった。帝国ホテルのフランク・ロイド・ライトら著名な外国人の説もあったが、福田さんは設計の特徴の違いなどから除外。残った手がかりは駅舎完成当時、施工業者や棟梁(とうりょう)の氏名を記した「棟札」にあった、肩書のない「明石虎夫」という人物だった。
当初は駅舎の工事を発注した当時の政府機関・鉄道院の責任者だろうと思ったという。ところが、鉄道関係の資料にもこの名前は見当たらず「万策尽きた」と思った後だった。
11月下旬、偶然、日本建築学会の大正末期の資料を見ていたところ「明石虎雄」の訃報(ふほう)記事を発見。肖像写真も確認した。しかも主な業績の中に「日光停車場」とあった。
さらに調べたところ、旧東京高等工業学校(現東京工大)を卒業していたことが判明。「虎夫」の「夫」は「雄」の誤りだったことも分かった。
◇鉄道院技手・明石虎雄の「デビュー作」
愛媛県宇和島市出身で、東京高等工業学校を規定通り3年で卒業。鉄道院に入り、日光駅を設計した。22歳ごろの「デビュー作」だった。だが駅舎完成の数年後、家業を継ぐため退職。地元で建設会社などを起こし、宇和島市内の小中学校や銀行、工場など多くの建築物を設計、施工した後、23(大正12)年に若くして死去した。
福田さんは宇和島市にも問い合わせたが、終戦間近の空襲で資料が紛失したらしく、明石の設計したと思われる建物数カ所も設計者は不明とされていた。
福田さんによると、当時の新聞などを調べたところ、日光駅舎の改築を報じる記事は少なかったという。