しかしこの後、「生活保護制度への真摯な議論」は、少なくとも政治の場では一度も行われることがなかった。そして、8月10日、社会保障と税の一体改革関連法が成立した。
この12月16日の衆議院選挙に向けて、のいほい氏は、今、どのように考えているのだろう?
「国会議員が名指し批判なんてありえない!」
生活保護バッシングへの怒り
開口一番、のいほい氏は、
「誰かを悪者にして社会を変えるのはやめたほうがいいと思います。『虐げられた自分たち(がいるの)はあの人達のせいだ』というロジックは、そろそろやめにしたほうがいいと思うんです」
と語りはじめた。どういうことなのだろう? もう少し、のいほい氏の話に耳を傾けてみよう。
「それは、弱者の論理です。今、みんな弱者になりたがっている気がします。弱者になることで、誰かを叩くフリーハンドを入手できるという考えに陥っています。だから、みんな、自分がこのポイントで弱者であると、極限にまで表現しますよね」(のいほい氏)
確かにそうだ。「恵まれない私、それなのに、不当に恵まれているあの人」という論理が、今ほど大きな顔をしている時期はないかもしれない。
意外かもしれないが、障害者であり、電動車椅子を利用している筆者も、日々、そのような不満をぶつけられる。一般に、障害者手帳の取得は容易ではない。その後も、車椅子などの補装具交付・公的ヘルパー派遣を受けることなどの一つひとつに、多大な時間とエネルギーを費やしての交渉が必要である。筆者は約4年にわたり、障害のある身で、生業に使うことも、職業生活を発展させることに使うことも可能だったはずの時間とエネルギーを、そのような交渉に費やすことを強いられた。そうしなくては、生存も日常生活も不可能だっただからだ。しかし、成功したからといって、問題が解決してしまうわけではない。
必要な障害者福祉を得ることに成功すると、次は、その何もかもが羨望の対象になる。羨望の主はしばしば、筆者に比べれば、どのような意味でも弱者とは言えないであろう健常者たちだ。筆者は未だに、そのような羨望をぶつけられるたびに悲しみを覚える。「何かがおかしい」とは確信できるのだが、相手の感情が羨望へと動いてしまうことに対する対策は何もない。
引き続き、のいほい氏の言葉に、耳を傾けてみよう。