安倍晋三の血脈
8月9日(水)長崎の被爆から61年目の夏。東京は台風の影響で午前中は雨。夕方、竹村文近さんに鍼を打ってもらう。紀伊国屋書店でプリーモ•レーヴィの『アウシュビッツは終らない』(朝日新聞社)と牛村圭の『「戦争責任」論の真実』(PHP研究所)を買った。代々木に出て「馬鹿牛」。最近は「森伊蔵」などよりずっと「兼八」が美味しい。駅前で「新左翼」と呼ばれてきたセクトが演説をしていた。マイクを持つ中年男性は、眼の前に置いた紙に書かれた文章を読んでいるだけ。これでは何も伝わってこない。言葉に実感がないからだ。政治の貧困は街頭にもあれば永田町にもある。ここ数日、携帯電話に小泉首相が15日に靖国神社に参拝することを仄めかしているとの速報が送られてくる。中国や韓国政府が反対しているからとか、昭和天皇が本心では反対していたようだというレベルの問題ではない。そもそも小泉首相は靖国問題が何であるかがほとんどわかっていない。憲法問題でいえば20条第3項の政教分離の原則に照らしても首相が公式参拝するべきではない。「心の問題」「死者に区別はない」というのも詭弁で、そもそも死者を区別してきたのが靖国神社であることは、たとえば西郷隆盛が祀られていないことからも明らかである。だいたい小泉首相の靖国参拝は、この人物の特徴を示すパフォーマンスにほかならない。首相就任までに参拝したのはたったの一回だけとの指摘がある。政治記者は「総理は在任前にどれだけ参拝したのですか」と聞いてみたらいい。信念からの参拝などではないのだ。野中広務さんに小泉評を聞いたとき「本当に変人で、何をやるかわからない、他人から指摘されるほどにその反対の言動を取る」と語っていた。財界や諸外国が参拝に疑義を呈するほど、意地で行動する可能性があるーーそれが小泉純一郎という人物なのだ。
その後任としてもはや確定的ともいえる安倍晋三だが、内閣を支える外相と官房長官は靖国神社に参拝すべきでないというのも「常識」だったはずだ。その安倍が「こっそりと」4月15日に参拝していたことも、政治家の行動として情けない。安倍の祖父である岸信介は、首相に就任し、アメリカを訪問する前にアジア諸国を電撃的に訪問し「アジア重視」を謳った。原彬久•東京国際大学教授が20数回の聞き取りをしてまとめた『岸信介ーー攻勢の政治家』(岩波書店)は、岸が社会主義ソ連の経済政策に学んで「満州国」の管理を行ったことなど興味深い記述が多い。安保条約の締結など、その実際行動への賛否は別にしても、政治家にとってバランス感覚がいかに必要かを考えさせるのだ。祖父の安倍寛は、東條英機首相に対して軍備拡大反対の立場を取ったことでも知られている。父である晋太郎も外相時にアメリカを重視するからといってアジア諸国との関係をないがしろにすることはなかった。もっとも岸や安倍晋太郎は韓国を重視し、反共の立場から統一教会=国際勝共連合を支援する立場を取っていたことは、現実的には政治を歪めることではあった。その統一教会に対して「公安に監視される対象とは距離を置きます」とは安倍晋三がわたしに語ったことである。「裸のプリンス」などと揶揄したり、出来合いの評価定規を当てはめて外からの批判をいくら加えても、安倍本人に届きはしない。多くの政治評論家や政治ジャーナリストは自己満足的な批評に終っていることを自覚すべきだ。安倍晋三は自分を作り上げてきた「血脈」をどう咀嚼するのだろうか。
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