National language classes in national colleges of technology must be a part of munufucturing education. In this paper, "general culture" and "fringe skill" are distinguished as guaranteed significance of general education. Guiding method of national language classes satisfying both of significance is considered. Guiding units construction in current textbooks aproved by the Ministy of Education and Science is criticized, and nem type of spiral process is proposed.
Key words:national language classes, guiding process, verbal expression, manufucturing education, fringe skill
0.はじめに
福井高専では、平成12〜13年度の2年間にわたり、「ものづくり」教育の現状と新しい在り方について」というテーマで教育方法改善プロジェクトを主管し、一定の成果をあげることができた。筆者もこのプロジェクトの委員として、国語ないし一般科目教官の立場からの提言を行ってきた。さらにその提言をふまえ、平成14年8月の教員研究集会において、「ものづくり教育の一端を担う国語科教育の方途」という題目で発表を行った。これらの報告書に拙論が掲載されているが、紙数その他の制約から、概説にとどまった。
本稿は、これらを発展させ詳述・敷衍し、ものづくり教育としての高専教育のなかであるべき国語科の指導過程の概要について、筆者自身の実践をベースとして構築し、提言するものである。
1.ものづくり教育のなかの一般科目
一般に、「一般科目」(「一般教育」「一般教科」「総合科目」などと呼ばれる場合もあるが、ほぼ同概念であろう。本稿では「一般科目」の語を用いておく)は、「専門科目」の対立概念ととらえられてきたのではないか。ただ、「一般科目」と「専門科目」との関係が、正しく共通の認識となっているとは言いがたい。
大学教育における一般科目の意義について、1)のような記述がある。
1) 大学教育の中心は専門教育であり、教育課程の他領域はそのための準備教育である。専門教育の狭さは、専門教育自体の中で感じられることによって、教授・学習の領域が外に拡げられるという、内からの動きによって克服されるべきものである。専門教育以前に、専門教育以外に、専門教育との関係が不明確なままに「一般教育」を行うから、無目的な、たるんだ教育になるのである。
(『大学の授業』宇佐美寛 1999 東信堂 P161 傍点原文)
同じ高等教育機関における一般科目のあり方として、参考にすべきであるが、これがそのまま高専に適用できるわけではない。なぜならば、高等教育機関とはいいながら、高専は実質的に後期中等教育に相当する教育内容をも担うのであり、「一般科目」はかなりの部分においてその教育内容を担当しているからである。
所属校では、平成12・13年度の二年間にわたり、「「ものづくり」教育の現状と新しい在り方について」というテーマでの教育方法改善プロジェクトを主管した。このうち、筆者も委員であった人文・社会科学系WGの成果として、「七五三のオートポイエーシス」を提言している(『国立高等専門学校協会 教育方法改善プロジェクト 「ものづくり」教育の現状と新しい在り方について 最終報告書』 2002 福井工業高等専門学校)。高専教育において、三年(高校卒業資格取得)・五年(本科卒業)・七年(専攻科修了)という三つの「出口」を、いずれもスタンダードなものとして設定し、七年全体の連続性を保ちつつも、五年・三年それぞれの到達目標を明確に定める、というものである。そうすることで、学生の学習状況・進路決定の多様性に対応するための基盤をなし、今後の「生き残り」の糧とするのである。
三年での「出口」をも想定するとすれば、少なくとも低学年の「一般科目」は、高等学校普通科の指導とかなり通じることになる。ほとんどの場合、三年の「出口」は進路変更を意味するからである。つまり、専攻の如何にかかわらず、高等教育を修めた者に当然に求められる「一般教養」が高専の「一般科目」に担わされることになる。従って、先の『大学の授業』が批判するような、「専門教育との関係が不明確な」指導内容も、高専の「一般科目」には当然に含まれる。そのような内容を指導しつつも、「無目的な、たるんだ」教育にしないための方策が高専の一般科目の指導者には求められているのである。
「一般教養」は、「一般科目」の名の由来でもあり、「一般科目」本来の役割である。しかし、「専門科目」の基礎となったり、「専門科目」の内容を充実させるための媒介となる知識や技術を得させる役割をも担っている。この知識や技能を「周縁技能」と呼ぶことにする。
高専の「一般科目」は、「一般教養」と「周縁技能」とを並行して保証しなければならない。このことは概括的には認識されている。各高専のホームページなどで一般科目等のあり方を公式に述べている文章を参照すれば、そのことが確認できる。
例えば、所属校の福井高専は、ホームページの中で、一般科目を2)のごとく規定する。
2)一般科目教育では、豊かな教養を身につけ、立派な技術者として、また一市民としてよりよく生きるための教育を目指します。
(『福井工業高等専門学校ホームページ』 「学科紹介(一般科目)」)
「立派な技術者として」は「周縁技能」の、「一市民として」は「一般教養」の保証を意識して書かれている、と言ってよいだろう。たまたま所属校の例を挙げたが、全国各高専の同様のページの記述を見たところ、こうした記述が一つの典型と言ってよい。ただ、この例のように、「一般教養」と「周縁技能」とが単に並列した記述が多く、両者の関係はつまびらかでない。
そのなかにあって、木更津高専のサイトには、3)のように踏みこんだ記述がある。
3) 一般科目は、広い視野と人間的な豊かさを深めるための教養科目と、専門技術を学ぶための基礎となる理数系科目に分かれています。教養科目は5年間を通して学びますが、低学年では、国語、英語、体育、歴史、芸術などの基礎的な教養科目を学び、高学年では、英語の他にドイツ語や中国語といった外国語、哲学、社会学、経済学、法学、心理学などの、より幅広く深い教養を身につけるための科目を学ぶことができます。
理数系科目は、普通科の高校に比べ授業時間数も多く、3年生までに多く配置されていますが、それは低学年のうちに十分な基礎力を養い、高学年での専門領域の授業に備えるためです。
(『Kisarazu N.C.T Homepage 』内 「充実のカリキュラム」)
一般科目における「一般教養」と「周縁技能」との分担についての認識は、このあたりが大勢なのであろう。
しかし、3)のように「周縁技能」の保証を〈理数系科目〉に限定し、その他の教科を〈教養科目〉として専ら「一般教養」の保証をするもの、と見なす認識は、これからのものづくり教育において、妥当なのかどうかは大いに疑問である。
そも従来高専で行ってきた工学(工業)教育を、「ものづくり教育」ととらえなおすことの意義は何であるか。それは、技術や理論の知識だけではなく、発想力・創造力をも視野に入れ、価値の多様化に対応できる技術者を育てる、という、高専が恐らくは今後果たしていかねばならぬ役割を実現する途を拓く、というところにある。
洋服のメーカーが野菜の販売を手がけ、「脱ダム宣言」が出された県では建設業者が林業への転向をもさくしている、というのが現在のわが国である。専門を細かく分化するのではなく、ゆるやかな広がりを許容するものへと変化していく。この傾向は今後ますます強くなることであろう。
送り出す人材がこうした社会で有用な存在であるためには、高専の教育課程は複雑系理論に言う〈ゆらぎ〉のような状態である必要があろう。高専という学校制度自体が中等教育と高等教育、普遍的教育と専門的教育の間でゆらぐ存在である、とも言え、この存在のありようにふさわしい教育課程を創出する必要がある。そうすることで、高専の可能性は高まるはずである。
「ものづくり」という和語にして平仮名の命名には、まさに境界を曖昧にした〈ゆらぎ〉の自由さが意図されている。そのなかにあって、「一般科目」の内実もまた、ゆるやかな発想で構築すべきである。従って、3)のごとく、「一般教養」と「周縁技能」とを教科単位で峻別する認識のしかたは、適切でないのである。一般科目の全ての教科に「一般教養」の要素と「周縁技能」の要素とは併存しえる。
例えば、美術科において、通説的な絵画史などは「一般教養」の範疇に属するであろうが、造形の技術や色彩感覚は、ものづくりの「周縁技能」ともなりえるであろう。あるいは、地理科において学ぶ日本の各地方の地勢と、それに基づいて発展した産業の沿革と現況に関する知識は、「一般教養」でもあると同時に、ものづくりを生業としようとする者にとっては、より深い知見が要求され、「周縁技能」とも見なしえるであろう。ものづくりはそれが行われる地域の文化や自然条件に根ざしてしか存在しないからである。
確かに、数学科や物理科の教科内容は、そのほとんどが「周縁技能」に相当する。しかし、これはたまたま一般に「一般教養」とされる部分についても直接実用に供されるのがものづくりという専門領域の特性だ、ということである。
ただ、「専門科目」の関係者が「一般科目」に強く期待し、具体的に要望するのは、主に「周縁技能」の保証についてであろう。「周縁技能」のつみかさねが不十分であれば、「専門科目」の理解度に歴然たる悪影響をおよぼすのであるから、当然である。
その一方で、「一般科目」の関係者は、主に「一般教養」の保証の方に矜持を抱いている。そして、高専の教官がその道の研究者であることから必然的に、できることならそれぞれの教科に関する学問を体系的・網羅的に講義したい、と願っている(もちろん実際には主に時間の制約で、少なくとも網羅的に講義することは無理である)。
この意識のくい違いが、そのまま「一般科目」のかかえるジレンマである、といってよいであろう。しかし、両者が自らの主張に拘泥していては、「一般科目」の問題は前進しない。「専門科目」の関係者は、「一般科目」の中の「周縁技能」に直結し、自らもあかるい(ことによっては自ら授業することもやぶさかではない)、数学科や物理科(ときに英語科)についてのみ、つまみ喰いのごとく論じるのではなく、「一般科目」全体の「周縁技能」を体系的にとらえるべきである。あるいは、ものづくりにとっての「一般教養」の意義を問いなおすべきである。「一般科目」の関係者は、ものづくりに活きる「一般教養」のありかたと、ものづくりの「周縁技能」とを各教科でいかに重ね合わせて指導しえるか、という火急の課題にとり組むべきである。
高専の「一般科目」の意義と可能性について論じた書に『こんな授業を待っていた 高専実践事例集』(1994
工藤圭章編 高等専門学校教育方法改善プロジェクト)がある。4)に同書から「一般科目」の意義に関する記述(座談会記録)を引用する。
4) 田畑 そうですね。急にいわれると困るんですが、基礎的・基本的なことという、今、工藤校長が言われたことに全く賛成なんです。ただ、私たち一般科目の教師にとって、基礎的・基本的なものというのは何かということを考える必要があると思っています。私は、特に、一般科目がめざす、基礎的・基本的なものを、今まで同じ学齢であるがために、高等学校の生徒が学びもつ知識というふうに捉えがちなところがあったのではないか、という気がするんです。そうした実状に対し、かなり以前から、私はそうではないのではないかと考えてきました。
つまり、高専の場合の基礎的・基本的なものというのは、高等学校の生徒が、その時期に、身につけるような同じ知識の量を指すのではなく、五年間という限られた時間のなかで、身につけねばならない、例えば、色々な物の捉え方、考え方を涵養するような内容にあるのではないかということです。
(座談会記録「一般科目は魅力がいっぱい」『こんな授業を待っていた 高専実践事例集』 P243-244 この発言は田畑勉 下線引用者)
先にも触れたが、高等学校普通科と高専の「一般科目」とで教科内容(〈知識〉としての内容)が同様のものになるのは自然であり、それ自体を否定する必要はない。異なるのは〈知識〉を習得させる目的である。高等学校普通科では、最も直接には大学受験への対応を、本来的には中等教育を修めた者に相応しい「一般教養」の習得を、さらに間接的には大学の修得内容の土台作りを、それぞれ目的として指導されることが多い。これに対し、高専の「一般科目」の指導目的が〈色々な物の捉え方、考え方を涵養する〉という、これからの技術者に切実に求められる資質を育成するところにある、ということである。
同じ指導内容であっても、指導目的が異なれば、指導方法は当然に異なってくる。「一般科目」の教科ごとに、指導目的に合致した指導方法を開発することが必要とされているのである。
2.国語科の指導内容と指導方法
では、「一般科目」をめぐる問題点は、国語科においてはどのようにあらわれるのであろうか。そして、いかにしてそれを克服して、前章に述べた「一般科目」の役割を、国語科において実現するべきなのであろうか。
まず、国語科の教科内容について検討しておく。
現行の高等学校用の国語科の教科書の単元構成をみる。例として5)にT社版教科書「国語U」の目次を掲げる。国語教科書の構成として、特に突出した特徴があるものではなく、典型的な例と言ってさし支えない。
5)現代文編
一 随想
言葉と表現 1 文末の工夫
二 小説(一)
三 評論(一)
四 詩
言葉と表現 2 話し方の工夫
五 言語と表現
六 短歌と俳句
七 さまざまな文章
言葉と表現 3 文体と文章
八 日本語
九 小説(二)
言葉と表現 4 敬語の働き
十 評論(二)
言葉と表現 5 指示語の役割
古文編
一 日記
古典を読むために 1 「すなり」と「するなり」
古典を読むために 2 「の」の一つの用法
二 随想・説話
古典を読むために 3 完了の助動詞
三 物語
古典を読むために 4 「なりけり」
古典を読むために 5 敬語
四 俳諧・浮世草子
古典を読むために 6 切れ字と季語
漢文編
一 中国の史話
二 中国の文学
三 中国の思想
この単元構成が高等学校の国語教科書として妥当かどうか、についても、考察に値する問題であるが、今これは措くことにする。
この教科書の単元構成に従って授業することは、本稿で考察しているものづくり教育の中での国語科の指導としては適切ではない。
〈現代文編〉においては、〈随想〉・〈小説〉・〈評論〉・〈詩〉・〈短歌〉・〈俳句〉という、文章のジャンル別に単元が立てられている。しかし、これらジャンルの相互関係は明らかではない。〈一〉〜〈三〉の〈随想〉→〈小説〉→〈評論〉という流れも、何ゆえそういう順序になるのか、明確ではない。
ものづくりの「周縁技能」である国語科学力は、文章ジャンルでいえば、論理的文章に関わるものといってよいであろう。
ものづくりの過程は、多くの場合共同作業である。この作業の前ないし途中には、携わるメンバー相互間のコンセプトを共有し、確認しあうためのコミュニケーションが必要となる。その意志疎通の媒介となる言語のありようは、まさに論理的文章の読解と表現の過程である、といえよう。また、ものづくりは相手意識や需要意識があって初めて成立するものである。これらの意識を得るためには、広汎な内容にわたる文章の読解によって見識を得る必要があるであろう。この文章も、ジャンルを選ばないとはいえ、その多くは論理的文章ということになる。
こうしたことを考えても、論理的文章の読解や表現をを「周縁技能」として位置づけることに、大方の異論はないものと思われる。すると、最終的な目標を論理的文章の読解・表現におき、その他のジャンルの文章などの扱いを、それに向けて段階をつけていくような指導過程を組み立てる必要があることになる。
5)の教科書の教材構成のいま一つの問題点は、読解と表現とが結びついていないことである。学習指導要領において、国語科の内実は、〈表現〉〈理解〉の二領域と〈言語事項〉とから成るものとされている。筆者はこれらの関係について6)のように述べた。
6) われわれが実際の生活の場、つまり言語の実践の場で言語を受容することによって得られる言語のありさまが、蓄積され、類型化されると、原理として獲得されることになる。その原理が、自分が言語を表出するときに適用される。自分の表出とその効果によっても、言語の原理は獲得することができる。この原理がまた、次に受容する時に適用され、より確かな受容ができる。このように、伝達手段としての言語は、表出と受容、実践と原理とが常に支えあっている。
国語科教育においても、この支え合いがうまく活きるように、二領域と「言語事項」を関連づけた指導が望まれる。(後略)
(「高等学校国語表現における「描写」の指導」中村〓秀 『国語科教育』第三十九集
1992 学芸図書 P131-132)
6)で述べたことについて図示したのが【図表1】であり、これは6)の引用論文の図1と同じ図である。
しかし、これまで国語科の指導では、この二領域一事項の関連を意識した指導計画や指導方法が採られることは少なかったし、教科書の単元構成もそうはなっていない。
5)で並んでいる単元の文章ジャンルは、その読解がメインとなっている。確かに、各単元の終わりには〈学習の手引き〉などと称する演習が付随して置かれており、その中には〈表現・言語〉という項目も立てられている。しかし、例えば〈現代文編〉の〈一 随想〉の〈表現・言語〉は、7)の通りである。
7)1 次の言葉をあいだに挟む形で用いた短文を作ってみよう。(小問略)
2 この文章の終わりの一行「(中略)」の表現の効果について話し合ってみよう。
これらは、間接的には表現に活かすことのできる内容ではある。しかし、〈1〉では教材文章中の語句の意味と用法を確かめており、やはり読解の助けとなることを主眼とした問いである。また、〈2〉は読解の結果の交換であり、他人の読解をも聞くことで、自らの読解を深めることはできる。しかしやはり読解の範疇の内である。
いくつかの単元にある〈言葉と表現〉という副単元についても同様である。例えば、やはり〈一 随想〉に付随する、〈言葉と表現 1 文末の工夫〉である。ここでも、読解教材文章の中から文を抜き出し、その表現効果を解説している。〈言語事項〉の抽象化みを意識した演習問題も設けられてはいるが、体系的なものにはなっていない。副教材相互の配列も、書き言葉と話し言葉に関するものが交互に並べられているが、特に全体を体系化しようとした意図をよみとることはできない。
〈古典編〉になると、〈古典を読むために〉という、あまり内容を明確にあらわさないタイトルの副単元となり、文法事項がやはり体系的でなく並ぶばかりで、表現につながるような単元はない。さらに〈漢文編〉にいたっては、副単元はなく、〈三 中国の思想〉というような、なぜこれが国語科の単元のタイトルであるのか、首を傾げざるを得ないタイトルの単元さえある。一般に、古文や漢文については、表現へのつながりを意識した単元構成は、教科書にはほとんどみられない。
6)に述べたように、本来読解と表現とは原理を介してつながらなければならない。読解力を育成するためには、まず具体的な文章を読解することが必要であるが、しかる後に文章が述べられるしくみがいったん原理として抽象化されてこそ表現に活かすことができる。個別の文章の表現をいくらとりたてて詳しく指導しても、当該文章の読解は深まっても、普遍的な表現力の育成にはつながりにくい。
ある文章を読解したなら、その読解によって習得した文章の原理を活用して、自ら文章を表現する。文章を表現したなら、そこで身についた原理を活用して、さらに深い読解に挑む。その繰り返しが国語力をトータルに練り上げていくことになるのである。この過程が内包されていない教科書の単元構成に沿って指導過程を組みたてても、ものづくりに活きる国語科指導にはならない、ということである。
もちろん、この批判には反論があり得る。高等学校の国語科の中には、おもに選択科目としての授業として「国語表現」という領域が設けられている。表現については、その領域において特化した指導を行うのだから、「国語T」・「国語U」の内容は、表現のウエイトが低くてもいいのである、という反論である。
しかしながら、読解で学んだことはは直ちに表現に活かされるべきである。読解と表現とが別の授業で指導されると、原理の蓄積の場がなくなる。ある程度の表現力がついた段階で、表現に特化した演習として「国語表現」を位置づけるのならば、意義のあることである。しかし、表現力をつけていくという段階では、同じ授業の中で読解と連携して指導していくことが適切である。従って、高等学校の入門期にあたる「国語T」、その発展学習たる「国語U」では、読解と表現とが同じウエイトで、しかも有機的な関連を保ちつつ指導されるべきである。
なお、とにかく本を読ませ、その本の感想文を書かせる、ということを繰り返せば、表現力がついていく、という俗説が一般に流布しているようである。しかし、これも教科書の単元構成と同じ問題を孕んでいる。感想文を書く、という営みは、どこまでも個別の書物(文章)に関する認識を深め、読解そのものを確かにするのであり、原理への抽象化には逆行するものである。従って、普遍的な表現力育成の指導方法としては不適切なのである。
ここで、前説に述べた、「専門科目」の関係者と「一般科目」の関係者との「意識のくい違い」からくる「ジレンマ」を、国語科の場合に限定して考察してみよう。
国語科の教官の大半を占める国文学者にとっては、あくまで「一般教養」として、上古から近現代に至るまでのわが国のさまざまな言語作品、とりわけ文学作品を教材としてとりあげ、主に読解もしくは鑑賞というかたちで学生をこれらに触れさせることが国語科指導の王道である、という意識は、根強くまた自然なものであると思われる。『源氏物語』・『枕草子』・『徒然草』・『土佐日記』などの古典文学作品、『史記』・唐詩などの漢文学作品は、伝統的に国語科の主軸教材として教科書にも収録されてきた。多くの国語科教官は、これらの読解指導に大きな意欲と矜持を抱いていることであろう。
しかし、「専門科目」の関係者からみれば、これらの指導はあまり歓迎に値しないであろう。一般に、これらの作品の読解が「周縁技能」としての国語力につながる、という印象は薄く、そのような指導をする時間があるなら、むしろ論文執筆法など「周縁技能」の指導に時間を割いてほしい、というのが本音としての国語科への要求ではないか。ただ、それらの著名な文学作品に学生が全く触れないまま卒業していくのも、どこか不自然な気がする、ということから、あまりその要求を顕然とさせずにいるのではないか。
その結果、限られた時間数のなかで、いずれつかずの指導が行われるのが実状であろう。「一般教養」と「周縁技能」のいずれをも切り捨てるに忍びないのは確かである。もし「一般教養」を切り捨てたとすれば、高等教育を修めた者に社会から当然に要求される教養が保証できないまま卒業生を送り出すことになる。一方で、「周縁技能」を切り捨てたとすれば、国語科と「専門科目」との関連性、連続性はいよいよ低くなり、カリキュラムの正当性も低下するばかりか、教官相互の協力態勢や意欲が稀薄となり、学習目的が不明確な授業となり、学生の学習意欲にも問題が生じる。かといって、限られた時間で双方を両立させようとすると、いずれもが目的を達しない半端な指導に終わるであろう。
前節に述べた、「一般科目」のジレンマは、国語科においては以上のようにあらわれることになるのである。
3.国語科の指導計画
ここまでの考察に基づき、具体的にものづくり教育のなかの国語科の指導計画の全体像をデザインしてみる。
筆者は、従来の研究において、「描写」概念(及びその対立概念である「説明」)を軸にして、文章表現論を構築・考察してきた。「描写」と「説明」との対立は、【図表2】のごとく、文章表現の多岐にわたるレベルについて対応関係をもつ、表現分析においては極めてポルテの大きな概念群なのである。
およそどのような文章も、「描写」と「説明」とが役割を分かちあい、絡まりあいながら展開していくものであるが、文章のジャンルによって、「描写」と「説明」とが担当する役割と、相互の関係は異なる。従って、「描写」のあり方から文章ジャンルを整理し、序列づけることができる。「周縁技能」であるべき論文が属する説明的文章は、「説明」が主軸となり、多くは「描写」がそれを補完する文章種である(「描写」が全くない論理的文章もあり得る)。また、物語的文章は、多くは時間の経過に伴うできごとのすがたの変転をあらわす「描写」が主軸となり、「説明」がそれを補完する文章種である。そして、その中間に、「描写」「説明」のいずれが主軸であるか決めがたく、両者がせめぎあいながら展開する、随想的文章が位置づけられることになろう。
具体的で感覚的な表現方法である「描写」の方が、抽象的で思弁的な表現方法である「説明」よりも、学生にはとっつきやすいであろう。また、個人差は大きいものの、昨今の学生の生活には読書という行動がほとんど見られず、本の形をしたものを読むとすれば、多くの場合コミックである。コミックの大半は物語が展開している。さらに、「一般教養」の代表格である文学作品の多くは物語的文章である。「一般教養」から「周縁技能」へと学習をミまり絞られていく過程をかたちづくるとすれば、物語的文章がその初めの段階にくることになる。
これらを考え合わせ、物語的文章→随想的文章→説明的文章という大まかな指導計画の流れを成すことにする。
所属校では、「国語」という授業は1〜3年に2単位ずつ配当されている。4年には「国語表現」があるが、これは実用的な実地の表現演習である。5年には「国語講読」があるが、これは選択必修科目であり、全ての学生が履修するわけではない、発展学習である。従って、一般に考えられるところの国語の授業は1〜3年の「国語」のみである。
そうなれば、指導計画の大まかな流れである、物語的文章→随想的文章→説明的文章を、学年に対応させるのが妥当である、ということになる。もちろん、三つのジャンルを通じて、指導内容に連続性をもたせたい。【図表3】に、3年間の「国語」の指導内容の流れを概要として示す。それぞれの学年について、主題・構成・叙述という文章の三レベルについて力をつける単元構成を形成していくことになるが、これは次稿に譲ることとする。【図表3】の横方向は、学年のなかで繰り返しながら指導していくことになる。そして、縦方向も、これまでの学年で学習したことをふまえ、つみ重ねることになる。
なお、従来の教科書の単元構成では、各ジャンルの文章を年に一〜二回ずつ読解していく、というスパイラル式の構成となっていた。これを【図表3】のように解体することには、8)に代表されるような懸念もあることであろう。
8) 螺旋的・段階的に指導することは、教育方法の原則である。この原理を軽視した結果、学力が低下したといっても過言ではない。いきあたりばったりや刹那主義の授業は、子供たちの学習意欲をも喪失してしまうばかりでなく、教師に対する人間不信を招くことにもなる。
今最も重要な実践課題は、獲得すべき国語力の基礎・基本は何かを明確にすることである。ところが、学説や主義・主張によって、その解釈もまちまちで、国語科で何を指導するかが不明の授業が展開されているのではないかと危惧する。
(「螺旋的系統「基礎・基本・統合発信力」の指導改革で,国語学力を向上」瀬川榮志 『教育科学
国語教育八月号 623号』 2002 明治図書 P99)
しかし、本稿の提案は、まさに8)の後段に類する現状の打開するための解体である。読解と表現とを結んで深めていくには、ある程度の時間をかけて、一つの文章種を学んでいく方が、学習効率は高い。性質や表現目的の異なる文章種がいれかわりたちかわり出てきたのでは、学生も混乱しよう。
むしろ、主題・構成・叙述の各レベルの学習が、学年を追って文章種に応じ昂まりを見せていく、ということが新たなかつ大きな意味でのスパイラル構造となるのである。
〔付記〕 筆者が所属した平成12・13年度教育方法改善プロジェクト「ものづくり」教育の現状と新しい在り方について」(福井高専主管)人文・社会科学ワーキンググループにおける議論が、本稿をなすに至った原動力となった。関係諸氏に謝意を表する次第である。
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