【溝口敦「池田大作ドキュメント 堕ちた庶民の神」(三一書房、81年6月刊)】 |
【佐野真一「池田大作野望の軌跡」(「現代」85年11月号)】(全文は110〜141ページにわたる) |
【溝口】14ページ
「他の宗教団体と比べても、霊友会、立正佼成会、成長の家、天理教、東本願寺、西本願寺に大きく水をあけ、また宗教関係以外の諸組織には、比較すべき対象を持たな
いほどに巨大だった 」
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【佐野】111ページ下段
「霊友会、立正佼成会、PL教団など他宗団の公称数に大きく水をあけており、比較すべき対象をもたないほどの巨大組織であることは疑いをいれない」 |
【溝口】173ページ
「それらは彼の知的能力の高さを例証するものではない。指導者に絶対必要とされる才能は、非凡な知性や高貴な性格、独創性ではなく 」 |
【佐野】112ページ中段
「池田の権力の源泉は、世上いわれるように類まれなるカリスマ性でもなければ、信仰者としての教義理解力の深さでもない。ましてや高潔な人格などではさらさらない 」 |
【溝口】8ページ
「かつて池田は日本最大最強の組織である創価学会のうえに君臨して「天皇にかわる時の最高権力者」と自らを規定し、あるいは池田組閣を夢見、また華々しい海外著名人との「民間外交」によって、ノーベル平和賞の受賞を真剣に望んだ人物である。」 |
【佐野】113ページ中段
「かつてこの人物は“池田内閣”構想に真剣な思いをめぐらせ、さらには、おびただしい数の海外著名人との“民間外交”活動によって、いまなおノーベル平和賞受賞を夢想する人物である。」
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【溝口】13ページ
「自らを最高権力者と規定するという、池田の国家を遠望する気概を滑稽化しなかったのは、彼のすでに持つ権力の強大さであった」 |
佐野】113ページ中段
「池田のこうした構想を滑稽化から救っているのも信者の圧倒的な数の力なのである」 |
【溝口】176ページ
「現在、石田は、横浜・神奈川区の、一階が六畳と四畳半に台所といった小住宅に万年床を敷き、胃を三分の一切除したにもかかわらず、昼間から焼酎を飲む生活を送っているという」 |
【佐野】113ページ下段
「訪ねるべき人物は、その一室に万年床を敷き、胃カイヨウの手術後にもかかわらず、昼間から焼酎を飲む毎日を送っているとも聞かされていた」 |
【溝口】149ページ
「石田の聖教新聞への登場は目立って減っていった。彼は大石寺での夏期講習会の講師を担当し、組織面から教学面に移されつつあった。それは、「学会きっての理論家」(「聖教新聞」32年10月4日)と評される石田の悲劇だった」 |
【佐野】114ページ上段
「聖教新聞紙上で「学会きっての理論」との賞賛を浴び、学会のエリートコースを邁進していたその石田が、なぜ不遇の身をかこつことになるのか」
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【溝口】185ページ
「池田は三十二年においてさえ、まだ、石田を、「信頼できるといって、これ程立派な人はいない。俺の兄貴だもの 」(『聖教新聞』32年10月4日)と、評していたほどである。」 |
【佐野】114ページ下段
「かつて池田は石田を「信頼できるといって、これほど立派な人はいない。俺の兄貴だもの」 などと聖教新聞紙上で持ちあげ、内部文書では「真友」とまでいい切ってみせた。」 |
【溝口】30ページ
「池田大作は昭和三年一月二日、東京府荏原郡入新井町大字不入斗のしがない海苔製造業者・池田子之吉、妻・一の五男として生れた。」 |
【佐野】115pページ上段〜中段
「池田大作は昭和三年一月二日、東京府荏原郡入新井町大字不入斗の海苔養殖業者・池田子之吉、妻・一の五男として生まれた。」 |
【溝口】33ページ
「しかし、池田家の困窮は庶民の一般的な水準にとどまるものではなく、それも年とともに加圧されていく不運なものであった。池田は六番目の子で、池田家は彼が末子としても、すでに大世帯だったが、池田出生後も年ごとに子は加わり、文字通り貧乏人の子沢山という状況を現出していた。すなわち五年に六男、六年に七男、九年に八男、十三年に二女が、それぞれ相ついで出生している。」
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【佐野】115ページ中段
「池田家の経済的逼迫は、貧乏人の子沢山を地でいく状況によってなお一層拍車がかけられた。池田は六番目の子だが、池田出生後も年ごとに子は加わり、昭和十三年にはあわせて十子という大世帯となっていた。」
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【溝口】40ページ
「池田は母親っ子であり、母への愛は彼の心を満し、彼の資質とあいまって、その言動を鋭さに欠けるものにし、劣等感はいまだ発動しないバネにとどまっていた。 」 |
【佐野】 116ページ下段
「池田の同級生たちは口をそろえて、エピソードのない男、目立たない男と指摘したが、池田の境遇からくる劣等感は、少なくともこの時代までは、いまだ発動しないバネにとどまっていた。」 |
【溝口】46ページ
「池田は父祖伝来を単純再生産して庶民のままで終る人間であった。実際、池田の出生から青年期までには、彼の保持した権勢をうなずかせる何の萌芽も認められない。」 |
【佐野】117ページ下段
「池田にもまた不羇と慰安のうちに生を終える一庶民としての生活があったはずである。だが、彼はその道を選ぼうとはしなかった。」 |
【溝口】44ページ
「終戦は池田になに一つ明確な展望を与えなかった。彼は新橋の昭文堂印刷で文選工をつとめるかたわら、二十年九月、当時、あまり評判の芳しくなかった旧制東洋商業学校(現、東洋商業高校)夜間部の二年に編入学した。それは大志あってのことではなく、いずれは家を出る者として、せめて算盤、簿記でも身につけておこうといった小市民的な処世の知恵にすぎなかった。」 |
【佐野】117ページ下段
「昭和二十年九月には、新橋のちっぽけな印刷工場で文選工をつとめるかたわら、旧制東洋商業学校(現・東洋商業高校)夜間部に入学したものの、それとて展望をもっての行動ではなかった。」 |
【溝口】245ページ
「また池田の詩にしたところで、小器用さは認められるとしても、その意識はせいぜい明治の段階にとどまり、世界は円満に自己完結しているのだった。」 |
【佐野】118ページ中段
「なんらの批評を加える必要もないという意味では完全に自足した世界を描いているとはいえるかも知れない。」 |
【溝口】122ページ
「水滸会の教材には『水滸伝』『モンテ・クリスト伯』『永遠の都』『三国志』『太閤記』『レ・ミゼラブル』等が使われた。これらはいずれも、不信と自信喪失の現代小説より前期の、血わき肉躍る情熱と行動の書といった点で共通しており、たしかに新興宗教幹部という一種の社会運動家を育成する教材としてはふさわしいものであった。 」 |
【佐野】118ページ下段
「池田は若き日の愛読書として『三国志』『水滸伝』『レ・ミゼラブル』『モンテ・クリスト伯』などをあげているが、これらはいずれも正義と悪という単純な図式と、血わき肉躍る物語という点で共通しており、たしかに庶民をオルガナイズする新興宗教組織の幹部が身につける素養としてはふさわしいものだったかも知れない。」 |
【溝口】50ページ
「インタビューでの池田の回答は、いくつか細かな事項が、一般に行なわれている説と相違するが、宗教学者・日隈威徳はもっとも事実に近く、かなり率直なものと見ることができるとしており、少なくとも池田の当時のいつわらぬ心境を察知するには十分である。(池田に関する資料は発表年時の古いものほど、ことに会長就任前のものほど、信憑性が高いといえる。) 」 |
【佐野】119ページ上段
「池田自身が宗教学者のインタビューに答えて入信前の心理や座談会の模様、入信までの経緯や信者としての生活を語ったものだが、その後に粉飾を施されて出版された自伝や回顧録にはみられない率直さがにじみでている。」 |
【溝口】41ページ
「結核にむしばまれた体を養うに足りる食料はなく、医薬品は不足し、池田の手当は『健康相談』という雑誌を唯一のたよりとするばかりで、とどこおりがちであった。」 |
【佐野】119ページ下段
「妻妾同居の家に生まれ、生活苦を味わい、結核の療養さえ「健康相談」という雑誌を唯一のたよりにしなければならなかった若き日の池田は、いわば貧・病・争のかたまりともいうべき存在であった 。」 |
【溝口】70ページ
「過大なばかりか卑劣な、現在の彼の見得や外部指向を前にすれば、インタビュー時の彼の無知は、いっそ初々しいものとさえいえる。尊大な大物風への「人間革命」の結果は悲惨としかいいようがない。」 |
佐野】119ページ下段
「次に続く記述も現在の大物風を吹かせた池田からは遠く懸隔し、その小心さはいっそ初々しくさえ感じられる。」 |
【溝口】70ページ
「この「バチ」は、「御本仏日蓮大聖人のご生命の満ちみちた大御本尊を絶対境とする生活は、他の小神・邪神・小仏の利益や罰とは、天地の相違があり、利益も大であるが、これに背く厳罰も明らかであり、背けば大阿鼻地獄へ堕する者となる。御本尊の右の御かたに苦悩乱者頭破七分」と、のちの『折伏教典』にある、会員に予め言い渡される予防拘禁的な威迫を意味する。」 |
【佐野】121ページ上段
「ここにあるのは、「(御本尊に)背けば大阿鼻地獄へ堕す者となる。御本尊の右の御かたに苦悩乱者頭破七分」と『折伏教典』に書かれたバチ論であり、」 |
【溝口】 81ページ〜82ページ
「二十三年、またしても戸田は、雑誌なら定価改訂でインフレに対応できようという、変りばえしない思惑から、雑誌の発刊を決意し、雑誌を主、単行本を従とする経営に方針転換した。まず『冒険少年』を、ついで婦人雑誌『ルビー』を創刊し、」 |
【佐野】121ページ中段
「池田の入社した日本正学館は、設立当初、中学生相手の通信教授を経営の柱にしていたが、間もなく『民主主義大講座』などの単行本出版、婦人誌「ルビー」、少年誌「冒険少年」などの雑誌出版へと経営転換を図っていった。」
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【溝口】83ページ
「同年五月から池田は『冒険少年』の編集を手がけはじめ、原稿とりに野村胡堂や西条八十、挿絵画家などの家を訪ね、また時に山本紳一郎というペンネームで穴埋め記事を書いたという。」 |
【佐野】121ページ中段〜122ページ上段
「池田はここで、大八車を引く「小僧」時代を経たのち「冒険少年」編集部に配属された。時に山本紳一郎というペンネームで穴埋め記事を書いたというから、」 |
【溝口】86ページ
「彼らは貧窮のなかで、いっそう身を寄せあい、時に叱られながらも、猥雑なまでに密着した。」 |
【佐野】122ページ中段
「池田と戸田との関係が猥褻なまでに密着するのは、昭和二十五年秋に設立された大蔵商事時代からである。」 |
【溝口】88ページ
「戸田には己の弱所を口にして憚らない率直さはあったものの──おそらくそれは「この世に遊びにきた」(戸田『講演集』上)という彼の行動的、快楽主義的な空無観に通じる一種の達観と関連したものであり、そうした率直さの点では池田よりはるかに上だが──、内省的な深みはまったく欠けていた。」 |
【佐野】122ページ中段
「一切の気取りを排した一種の空無観にも通じていたが、内省的な深みにおいては牧口とは比ぶべくもなく、 」 |
【溝口】88ページ
「戸田にインタビューした大宅壮一は彼の印象を「如才がなく、ぬけめのなさそうなところは、小さな印刷屋や製本屋のオヤジ、でなければ、地方の小学校校長か役場の収入役といった感じである。……そういえば金貸しにもむきそうな面がまえである」(『婦人公論』32年10月号)と記した。 」 |
【佐野】122ページ中段〜下段
「戸田をインタビューした故大宅壮一はその印象を、「如才がなく、抜け目のなさそうなところは、小さな印刷屋や製本屋のオヤジ、でなければ、地方の小学校長か役場の収入役といった感じである。そういえば金貸しにも向きそうな面がまえである」と記した。 」 |
【溝口】102ページ
「池田はまた債務の取り立てで「病人の寝ている布団をはぐ」こともしたといわれている。池田ののちの回顧「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どおしてこんないやな仕事をするのかと思った」(『社長会記録』43年2月10日)が、その業務の非情さを裏づけていよう。」 |
【佐野】123ページ中段
「池田はのちに「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どうしてこんないやな仕事をするのかと思った」(「社長会記録」第九回・四十三年二月十日)と語っているように、出資者を募るだけではなく、債務の取り立てでも中心的役割を果たしたことをうかがわせており、寝ている病人のフトンをはぐことまでしたという風聞にリアリティを与えている。」 |
【溝口】116ページ〜117ページ
「池田はこのころのこととして、後にこう述べている。「私は、四年で重役だ。給料は、まもなく社長を抜いた。私は、当時で、二〇万円とっていた。社長は、四万八千円だ。(略)北条、森田、竜、原島、小泉、辻──全部、おごってあげたんだ」(48年10月初旬、東京で、内部文書) 」 |
【佐野】123中段
「池田の大蔵商事における辣腕ぶりは、次の内部文書(四十八年十月初旬・東京)の発言にも反映している。
「私は四年で重役だ。給料は、まもなく社長を抜いた。私は当時で、二十万円とっていた。社長は四万八千円だ(略)。北条、森田、竜、原島、小泉、辻──全部、おごってあげたんだ」」 |
【溝口】117ページ
「池田が戸田のもとに勤めた最初は昭和二十四年一月の日本正学館であり、それからほぼ四年たった二十七年十月、彼はたしかに大蔵商事の取締役に就任している。昭和二十七年時、大人の理髪料金は高くて百四十円、大卒公務員初任給は五千円に満たず、社長・和泉覚の四万八千円は現在(昭和56年)の約七十七万円に相当し、まずまずの高給だが、それにもまして池田の二十万円は月給三百二十万円程度にはあたるとみられ、信じがたいほどの高額である。」 |
【佐野】123ページ中段〜下段
「池田が戸田のもとに勤めた最初は昭和二十四年一月の日本正学館であり、それからほぼ四年たった二十七年十月、彼はたしかに大蔵商事の取締役に就任している。この当時の大卒公務員の初任給が五千円に満たなかったことを思えば、池田の二十万円という給料はまことに驚異的である。」 |
【溝口】47ページ
「彼は戸田に確信を注入されてはじめて強者への道を歩みはじめ、その時、彼の過去の貧困や病弱、劣等感や勤勉等、挫かれた経歴と資質が意味を持ち、彼を立身出世に駆り立てる原動力に変った。彼の凡庸さは、確信という核を付与されて、時代と場にかなった、一種の広さと平衡感覚に変質する。宗教だけが池田のぱっとしない特性を働かせる分野だった。」 |
【佐野】124ページ中段
「戸田の「大確信」の直接的注入が、池田の過去の貧困や病弱、複雑な家庭環境などからくる劣等感にはじめて意味を与え、池田を強者への道、立身出世へと駆り立てていくのである。」 |
【溝口】155ページ
「きょう四百万部を発行し、三大紙に迫る同紙の基本は全て石田によって作られた。」 |
【佐野】124ページ下段
「公称四百五十万部を発行し、三大紙に迫る同紙の基本はすべて石田によってつくられたといっても過言ではない。」 |
【溝口】155ページ
「石田は少年時、池田とちがって級長、副級長をつとめ、秋田県大館中学、芝浦高専へと進んだが、学校を出ても就職しようとはせず、毎日、江戸川区平井の加藤六段道場で将棋をさしていた。」 |
【佐野】124ページ下段〜125ページ上段
「石田はここから芝浦工専(現・芝浦工大)に通ったが、昭和二十四年に卒業してからも就職しようとせず、加藤恵三六段という将棋指しが、江戸川区平井で開いていた町道場に通っては、終日、盤を囲んで暮らすという毎日を送っていた。」 |
【溝口】152ページ
「石田の家族はほぼ全員が創価学会の幹部だった。母親・つかは本部婦人部長、妻・栄子は青年部参謀、妹・明子は元女子部第三部隊長で秋谷城永の妻、弟・幸四郎は男子部第四十七部隊長(現、公明党副書記長)である。だが、彼らは閥をつくるには非力で、単に有力な家系にとどまっていた。」 |
【佐野】125ページ中段
「ちなみに、石田の二人の兄弟は、妹の明子が秋谷栄之助(現会長)に嫁ぎ、弟の幸四郎は現在、公明党衆議院議員の椅子にある。また、母・つかは初代の本部婦人部長をつとめた。」 |
【溝口】156ページ
「『御書』初版が発刊されたとき、戸田は、 夫婦して 御書つくらんと 生れきし 七百年の 今日ぞうれしき との歌を石田夫妻に贈った。」 |
【佐野】125ページ下段〜126ページ上段
「二十七年四月、日蓮正宗立宗七百年を記念する『御書』の初版が発刊されたとき、戸田は、「夫婦して 御書つくらんと 生れきし 七百年の 今日ぞうれしき」との直筆の歌を、その扉に書きつけて石田夫妻に贈った。」 |
【溝口】119ページ
「石田の支部長起用に際し、戸田は支部員の前で次のように訓話した。「富田君(前小岩支部長・富田作十)は今迄実に良く働いた、全く見て居て涙ぐましい程働き続けたが、誰もこれについて行かない、地区部長も班長も誰も一緒にやろうという者が無かった。これを見て居た私も考え抜いたが今度は腹を実行に移した、私は昔から小岩を愛して来た、今もそうです、今日から次男(石田次男)に支部旗を渡した、次男にやりたい放題の事をやらせる、誰もついて来なくても良い、俺と次男と二人で支部旗を握って起ったんだ、小岩に誰も居なくなって、俺と次男と二人だけになってもかまうものか。文京(支部)ではこんなことはいわなかった。しかし、小岩は事情が違う。常泉寺の門前に二人が小岩の支部旗を握って立てばそれで良いのだ。小岩は今日からそのつもりで居れ。 」 |
【佐野】126ページ中段
「石田の支部長起用に際し、戸田は支部員の前で次のように訓話した。「私は昔から小岩を愛してきた。今もそうです。今日から次男(石田)に支部旗を渡した。次男にやりたい放題のことをやらせる。誰もついて来なくても良い。俺と次男と二人だけになってもかまうものか。文京(支部)ではこんなことはいわなかった。しかし、小岩は事情が違う。常泉寺(戸田第二代会長の推戴式は向島にあるこの寺で行なわれた)の門前に二人が小岩の支部旗を握って立てばそれで良いのだ。小岩は今日からそのつもりで居れ」 |
【溝口】110ページ
「四月二十八日、大石寺で宗旨建立七百年記念慶祝大法会が挙行された。その前日から戸田は創価学会員約四千名を引きつれ、大石寺に乗りこんでいた。彼は単に式典に参加するだけでなく、それを創価学会の力を誇示し、日蓮正宗支配の橋頭堡にしようと計画し、「狸祭り」といわれる暴力事件を敢行した。狸とは日蓮正宗の老僧・小笠原慈聞をさした。小笠原は戦時中、日蓮正宗の身延への合同を策し、神本仏迹論(神が本体で仏はその影)を唱えていた。戸田は創価教育学会弾圧の発端は彼が作ったとし、その責任を問う形で彼をデモンストレーションの犠牲に供した。」 |
【佐野】127ページ下段
「昭和二十七年四月、立宗七百年を記念する大石寺への登山において、創価学会は「狸祭り」事件という暴力事件を起こす。狸とは日蓮正宗の老僧・小笠原慈聞のアダ名で、小笠原は戦時中、日蓮正宗の身延派への合同を策し、神本仏迹論(神が本体で仏はその影の意)を唱えていた。戸田は、戦時下における創価学会弾圧の発端は彼が作ったものとして、その責任を問う形で、小笠原を下着姿にしてかつぎあげ、牧口常三郎の墓前でリンチを加えた。 」 |
【溝口】141ページ
「が、この三時間後、的場は池田に呼び出されて裸にされ、近くの御塔川原に放りこまれる。青年部員がかわるがわる的場に馬乗りになって的場の顔を水の中につけ、池田はポケットに手を入れて見下しながら、指揮したという。」 |
【佐野】128ページ下段
「池田は、学会に批判的だった僧侶・的場正順に対するリンチ事件を画策。池田に呼び出されて裸にされた的場は、池田に指揮された青年部員にかわるがわる馬乗りにされ、顔を何度も川の水につけられた。 」 |
【溝口】132ページ〜133ページ
「”小樽問答”の席上、学会側司会者として終始万丈の気焔を吐き、異彩を放ったのが池田参謀室長だ。特に開会にあたり小平、辻の両討論者を紹介するに先立ち自己の大確信を六、七分間にわたり一席ブッテ、身延派信徒の心胆を寒からしめたことである、それが終って『簡単ですが──』と、結ぶあたり、すでに敵をのんでる不敵さ、肝ッ玉のデカサに唯感嘆の声を禁じ得ない 」(『聖教新聞』30年3月20日)
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【佐野】129ページ上段〜中段
「このときのもようを「聖教新聞」(三十年三月二十日)はこう伝えている。
「”小樽問答”の席上、学会側司会者として終始万丈の気焔を吐き、異彩を放ったのが池田参謀室長だ。特に開会にあたり小平(芳平)、辻の両討論者を紹介するに先立ち自己の大確信を六、七分間にわたり一席ブッテ、身延派信徒の心胆を寒からしめたことである。それが終って『簡単ですが──』と、結ぶあたり、すでに敵をのんでる不敵さ、肝ッ玉のデカサに唯感嘆の声を禁じ得ない 」 |
【溝口】131ページ
「渉外部長は、池田が戸田の死没前、最終的に達成した最高の地位であり、以後、変化といえば栄転と兼任以外になかった池田のトントン拍子の出世も打止めになった。この渉外部長の職によって池田は本部部長の末席を汚し、そのランクは鈴木一弘につぐ第十四位となった。 」
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【佐野】130ページ上段
「これに対して池田のNo14は、池田が戸田の死没前、最終的に達成した最高の地位だった 」 |
【溝口】137ページ
「大阪事件は牧口、戸田と二代つづいた下獄を連想させ、会長をめざす池田にはプラスに作用した。 」 |
【佐野】131ページ上段
「すなわち、大阪事件は牧口、戸田と二代つづいた下獄を連想させ、会長に野心を燃やす池田にはプラスに作用した。 」 |
【溝口】139ページ
「戸田は男子部幹部二十五人のになう、池田の考案になったという車駕にのって、自身、「広宣流布の儀式の模擬試験」と意義づけた歓迎大会にのぞみ、次のように述べた。」 |
【佐野】131ページ中段
「池田が考案したという車駕にのってのぞまなければならなかった。 」
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【溝口】149ページ
「池田だけが会長空席期を、会長着任をめざす事前運動の期間ととらえ、野心的に動きまわった。」 |
【佐野】132ページ上段
「池田にとって会長空席期は会長就任への事前運動期間に他ならなかった」。 |
【溝口】152ページ
「石田はあまりに戸田にかわいがられ、彼の下で出世しすぎていたのかもしれない。彼が二十九年に原島宏治や和泉覚、森田悌二、辻武寿等の先輩を飛びこえて理事に就任したことは、決して彼らの好感するところではなかっただろう。」 |
【佐野】132ページ中段
「思えば、石田はあまりに早く出世しすぎたのかも知れない。彼が、原島や和泉、辻などの先輩を追い抜きかねない勢いで理事に就任したことは、彼らの嫉妬を生んだ。」 |
【溝口】152ページ
「また彼の早すぎる出世は青年部からの断絶を彼にやむなくさせてもいた。戸田の死後、彼は彼を強力に擁護する同僚も、熱心に押し立てる部門をも失っていた。 」 |
【佐野】132ページ下段
「石田の早すぎる出世は必然的に、青年部との断絶も生んだ。 」 |
【溝口】117ページ
「(略)北条、森田、竜、原島、小泉、辻──全部、おごってあげたんだ 」 |
【佐野】133ページ下段
「池田が内部文書で「北条、森田、竜、原島、小泉、辻──全部、おごってあげたんだ 」 |
【溝口】149ページ
「石田の地盤低下は九月の『折伏経典』改訂版の刊行でさらに追いうちをかけられた。同版の編集は小泉を中心に教学部で進められ、改訂前との主な相違は、石田の書いた第一章生命論が、戸田の講演筆記と入れ替えられたことにあった。」 |
【佐野】134ページ下段
「石田の「聖教新聞」への登場は目立って減っていった。三十三年九月に行なわれた『折伏経典』の改訂では、石田の書いた第一章の生命論がばっさりと切られ、戸田の講演筆記と入れかえられた。 」 |
【溝口】163ページ
「前青年部員の要職占拠により、古参幹部は後退し、古参幹部に繰り入れられた石田も後退した。石田は聖教新聞編集部長の職を秋谷に追われ、実権のない主幹にタナ上げされた。また彼の妻・栄子は青年部参謀から本部婦人部常任委員に移され、彼の母・つかも婦人部長を柏原ヤスに譲り、婦人部最高顧問に祭りあげられねばならなかった。 」 |
【佐野】134ページ下段〜135ページ上段
「この青年部の要職占拠で古参幹部は後退し、古参幹部に繰り入れられた石田も後退した。石田が聖教新聞編集部長の座から実権のない主幹にタナあげされたばかりか、妻・栄子も青年部参謀から本部婦人部常任委員に移された。また石田の母・つかも婦人部長を柏原ヤスに譲り、婦人部最高顧問に祭りあげられた。」 |
【溝口】17ページ
「会員は四十年十月の四日間に、彼らの生命保険や銀行預金をあらそって解約し、質屋や古道具屋のつけ値を暴落させて、また殺人や自殺をひきおこして(新宗教新聞社『創価学会犯罪白書』)当初の建立資金三十億円の約十二倍、三百五十五億円を献金したのだ。 」 |
【佐野】136ページ中段
「会員たちはわずか四日間のうちに、自らの生命保険や銀行預金をあらそって解約し、質屋や古道具屋のつけ値を暴落させて、当初の建立資金目標額三十億円の約十二倍、三百五十五億円を献金したのだ。 」 |
【溝口】197ページ
「この機構信仰は創価学会も同様で、四十五年八月一日現在、戸田時代には五〜七名であった理事が千七百十九名と驚異的にふえ、そればかりか戸田時代にはなかった総務七十六名、副理事長百八十六名、理事補二百六十二名まで任ぜられていた。」 |
【佐野】138ページ上段
「戸田時代には十人を超すことのなかった理事職も、池田以降は乱発され、昭和四十五年のピーク時には三千人にも達し、」
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【溝口】156ページ
「かりに戸田が今すこし永らえていたなら、はたの者がどのように非難しようと、石田を後継者に指名しただろう。そして石田が会長になっていたなら、創価学会は華々しさに欠けても、いかにも宗教らしく発展しただろうし、電話盗聴や替玉投票、出版妨害などを少くともひき起こすことなく、世間の風当りも弱まっていたにちがいない。」 |
【佐野】138ページ中段
「仮に、その石田が会長になっていたら、創価学会はハデさには欠けるかも知れないが、堅実な発展をたどっていったかも知れない。」 |