統一教会2世=雉も鳴かずば・・氏の勝手な言い分






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ネットで何か史料を見つけたらしく、いきおいこんで、 「雉も鳴かずば・・」こと「統一教会2世」さんが、

「いくつかコメントさせていただきたいと思いました。 」と書き込んで来たのは、8月7日だった。

その頃・・・というか?今もそうだが、私は異常なほど忙しい生活を送っており、

「歓迎しよう。

ただ、現在私は異常に忙しく(以前からそうだったのだが)平均睡眠時間は3時間しかとれていない。

その合間に記事を書いたりしているので、他人の記事もたまにしか、読まないし、自分の記事を読み返す暇もない事が多い。 」


と返事した。

ところが、翌日、彼は、長いコメントを2つに分けて送ってきた。

「いくつかコメント」どころでは無かった訳だ。


了承ありがとうございます。ではまずは韓国側の『嘘や誇張』からはじめたいと思います。

確かに『ご自身で探してください』は乱暴な物言いだったと思うので、いくつか提示したいと思います。

まずはインフラの整備ですが、日本がインフラの整備を行ったこと自体は韓国側のWkiにも韓国の国史教科書にも書かれており、有無に対する議論はほぼありませんが、その捉え方に議論があります。
韓国のWikiでは「インフラの整備は民族資本の略奪が目的であった。」とかかれており、(→http://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%BC%EC%A0%9C_%EA%B0%95%EC%A0%90%EA%B8%B0#.ED.97.8C.EB.B3.91_.EA.B2.BD.EC.B0.B0_.ED.86.B5.EC.B9.98.EA.B8.B0_.28.EB.AC.B4.EB.8B.A8_.ED.86.B5.EC.B9.98.EA.B8.B0.2C_1910.EB.85.84_.7E_1919.EB.85.84.29)

さらに脚注にはWikiの記事のほとんどが、高校の現代史の教科書からとなっています。つまりこれは韓国で広く一般的に教えられている内容ということです。

しかし、インフラの整備が略奪が目的なら、ソウル駅などの外観を立派にする必要がありません。最低限の鉄道網と舗装道路があればいいはずです。

Wikiには「日本統治時代の朝鮮」という記事で、日本語と韓国語で多くの違いがありますが、一つには統治前の南大門と統治後の南大門の写真があり、日本が新しく作ったものとして、百貨店、銀行、京城駅(ソウル駅)の写真があります。(→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE#.E7.B5.8C.E6.B8.88)

これらは意図的に隠しているだけで、嘘をついているとまではいえません。ですが彼らはおなじくWikiで「40%の土地を収奪した」としていますが、これは嘘です。(→http://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%86%A0%EC%A7%80%EC%A1%B0%EC%82%AC%EC%82%AC%EC%97%85)

かんごさんのタイトル「二世さんへ」で出された「日本人が全耕作地の半分を所有した」とされる資料ですが、これはおかしくないですか?
単に「~町以上、~名」では具体的に日本人がどの程度の田畑を持っていたのかわかりません。

実際に『朝鮮近代社会経済史 全錫淡他著 龍渓書舎』によると朝鮮の耕作地は日本の土地調査の結果、約424万町になったとありますが、かんごさんの資料では全部足しても17万町ぐらいにしかならず、資料としての規模が局地的過ぎます。50町以下はほとんど朝鮮人だったかもしれません。50町以下といっても約50ヘクタールですから、かなりの規模ですよ?わかるのは、50町~1000町以上の規模の水田を持つ地主の中で、日本人はその半分ぐらいを所有していた、ここまでです。計算してみても約6万町で、全体の424万町からすると、これをもって日本人が全耕作地の半分を所有したというのは説得力に欠けます。

そもそも「40%が収奪された」という韓国の主張は、日本の土地事業で接収された耕作地は13万町と、主人のいない未墾地を90万町を接収した物を足して、さらに日本の土地調査事業で424万町に増える前の268万町という大まかな予想面積から計算して、103万/268万=約38%=約40%収奪した!!というものです。これを高校の教科書にのせています。コメントが長いので2回に分けます。
2012-08-09(03:29) : キジも鳴かずば URL : 編集
No title
一次資料ではないですが、許粹烈という人の調査した、【日韓歴史共同研究委員会報告書】  「日帝下朝鮮経済の発展と朝鮮人経済」という論文で、このようなデータがあります。→http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/003/141/70/N000/000/002/132256937341813102646.JPG

これをみると、かんごさんのおっしゃる日本人地主も、その所有は最大で40万町ほどで、全体の10%ほどです。全耕作地の半分というのは嘘です。ちなみにグラフで跳ね上がっている部分は日本と朝鮮半島で大豊作の年となり、いわゆる豊作貧乏から土地を手放した地主から、資金力のある日本人地主が買い取ったからと言う事です。

さらに日本人地主が5割の高い小作料を取ったと韓国のWikiでは書かれていますが、→http://ko.wikipedia.org/wiki/%EB%8F%99%EC%96%91%EC%B2%99%EC%8B%9D%EC%A3%BC%EC%8B%9D%ED%9A%8C%EC%82%AC#.EB.8F.99.EC.B2.99.EA.B3.BC_.ED.86.A0.EC.A7.80_.EC.88.98.ED.83.88

5割の小作料は、確かに1割~2割の現代の感覚からするとぼったくりですが、戦前の日本でも大体5割でした。特に朝鮮人を差別したわけではありません。逆に小作どころか、農奴であった人々を小作制度を導入することによって、農奴を解放したのも日本です。当然、地主などの特権階級からは猛反発され、新聞にも民度からして時期早々と書かれています。
→http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00490441&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

→http://133.30.51.93/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00474619&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

さらに朝鮮人地主の小作人に対する暴虐を指摘する一次資料もあります。
→http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00487333&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00487333

韓日関係において、摂理上の日本の罪は確かにあると考えています。しかしそれが韓国の嘘まで容認する理由にはなりません。本当の有効は、それこそかんごさんの好きな『真実』から築かれるものだと思うからです。韓国の嘘はまだいくつかあるので、続きます。
2012-08-09(03:30) : キジも鳴かずば URL :



注意、韓国の歴史学者に対して、経済学者達が、いろいろと文句をつけたのは事実である。しかし、それがどんな論争だったのか?彼は知らない。実は私もよく知らないのだが、「ひとすじに行く」氏が詳しかったのでいろいろと聞いた事がある。

ところで何が「実際は・・・」なんだろうか?文章が意味不明なのだが・・・



そこでこうコメントしている。


これに答えるには、いくつか調べる必要があるでしょう。

歴史学者もいろいろいるので、使う統計資料も違うからです。

ただどのくらい調べてみたのか教えていただきたい。

1910年には、日本人地主の数は急激に拡大し、地主数2254人、6万町歩にも達した・・・というのは共通認識と言う事でいいかな?

10年から18年の土地調査事業の際に所有申告しなかったがために土地を奪われ、3万3937件の訴訟が起こされているが、それも共通認識でいいかね?

「森林法」の制定により、申告のない森林は国有となり、160万戸が厳冬に薪もとれなくなったというお話があるのだけれど、それは認める?

こうして耕地を奪われ林野の共同利用から締め出された農民の怒りが、3.1運動を点火させた・・・・という文脈で捉えないと3・1運動の原動力が判らない。

それから、17年公布の水利事業によって、事業費が払えない地主たちのかなりの土地が奪われたそうだ。これは知ってるの?




正直な感想を言わせてもらえば、彼の文章は、いろんな部分が間違っており、ネットで検索して急ごしらえで歴史を知った人間の特徴的な文章であった。しかし、動機はどうあれ、情熱には応えておくべきだろう。

インターネットを主体に歴史を検索すれば、当然の事ながら、「ネット右翼=嫌韓厨=歴史修正論者」の歴史観を吸収する危険が高い。

実際に《新しい歴史教科書をつくる会》の杉本氏のホームページに書いある事や、3多摩地区の成員らしい「たまねぎ屋」氏の主張がそのまま盛り込まれていた。






それは後で指摘したし、本人も認めている。

さて、はっきり言えば、私は彼のコメントの全てを読んでもいなかった。

第一に「いくつかコメントさせていただきたい」と彼は書いており、だから了承したわけだ。簡単なものなら答えるつもりだったが、彼はよっぽど暇らしくて、翌日から長い文章を書いてくている。

私は電車の中で(携帯で)読んでいたのだが、そんなものを全て、読んで答えるほど暇は無いからだ。

さらに義務もないだろう。

しかし、それなりに対応しようとは思っていた。

ところが彼のコメントは序々にヒステリックな色合いを帯びていく。



あげきの果てに「いついつまでに、第一次史料をとりそろえろ」と言う。

この辺りが限界なのだろう。

自分で、国会図書館に通って史料を探る努力をした事もないので、それがどれほど、大変なことかわからないらしい。

もちろん、彼にしてみれば、自分はネットで検索しただけなのだから、そんなに大変ではないだろう。

私はそのための時間も無いし、まあ基元節までに暇を見つけてやれればよい方かも知れないと思っていた。

今年は多分無理である。





さて、今日、私は久しぶりに時間がある。

そこで、彼のコメントについていくつか問題点を指摘しよう。


①自分の出あったものが総てではないという事



 朝鮮半島の全耕作面積の半分を日本人地主が所有した」というかんごさんの主張はどの資料を使ってもありえません



たいして調べた事もないくせに、なぜ、そう言い切れるのか?まるで理解できないところである。



これから調べてみてあげようと述べているのであって、この問題は総督府の所有した(耕作)土地がどのくらいであったか?・・が問題となるだろう・・・と私は思っている。

9万町歩説はおそらく、李氏王朝から接収した面積を元に計算したはずである。しかし、測量がいいかげんで、「隠し畑」「隠し田」が多くあったので、それを接収したとしたらそれはいかなる史料があるのだろう?増えた土地のいくらかが、隠し畑であったが、「隠し畑」「隠し田」は例え、持ち主がいても、申告はしないだろうから、そのまま接収されたと考えられる・・・。

また、水利事業が終わった頃、全羅北道、全羅南道を合わせて、大地主は日本人7人に対して、朝鮮人1名であった。これはネットの中にも史料あったと記憶しているが、現在のところ探していない。「半島の耕作地の全体の半分近く」はどこかで読んでいるのだが、全羅道は穀倉地帯なので、「コメの生産農家の半分近く」であったかも知れない。その場合勘違いだろうから、訂正文を書く事を約束しよう。

しかし、さほど史料を漁ったわけではなく、たまさかネットで、知った事が完全に正しいような態度の彼には、私の方が失望している。

いや、期待はしていなかったはずだ。

私の中ではすでに「郭グループ」に関しては終わった話なのだ。彼らが「M&m氏を糾弾して凱歌を挙げた」時、彼らは自らを墓場に葬ってしまったのである。






②バカらしくて・・・・

韓国側の主張に嘘があるというのは認めていただけますか?



そんな事は、昔から知っているが、だから何なのだろう?

昨日今日、歴史を調べてきた訳ではない。

「ウソ」というが、

例えば、文鮮明先生にも、「日本は930回も韓国を侵略した・・・」と言う御言葉がある。

それは、真実とは言えない。仲のよかった百済を助けるための出兵した、古の 斉明天皇の時代の出兵や、神話時代の神功皇后が行ったとされる新羅出兵を入れて、さらに倭寇の全てが日本側のものだったとしても、どんな数え方をしても930回にはならない。

しかし、私は、どうでもいいと思う。

それだけ、苦しめたのだと文師は言いたい訳だろう。

細かい数字はどうでも良いと思われているはずだ。

そして日本が韓国人をかなり苦しめたのは事実だからである。




③比較の上では・・・

日本の韓国併合に対して、「それはまれにみる善政であった」とか「日本はいいことをたくさんした」などと言い張る人間よりも、真実に近い。

そして、『新しい歴史教科書をつくる会』の教科書が検定の際の何十箇所も訂正したように、間違いだらけの記載が多いのに、その彼らが、指摘する韓国の教科書の間違いの全てが正しい訳がないのである。


そもそもこの

韓国側の主張に嘘があるというのは認めていただけますか?



・・・だが、自分で韓国の歴史教科書を読んでもいないくせに何を言っているのだろうか?

と聞きたいものだ。




④ ただの言いがかりである・・

たとえばある食口がこのかんごさんの主張を見て、「半分も奪ったなんて!!」と清平でこれについての先祖の非道を泣いて悔い改めたとします。それを後から、半分というのは嘘だったと知ったら、総合的に日本の韓国に対する罪を悔い改めることができても、確実にもやもやしたものが心に残り、本当の意味での悔い改めを妨げます。かんごさんの記事が真実どころかつまずきの石になりかねません。



私は最初から、自分は統一教会員でさえないと書いているはずである。

キリスト教徒であり、その私の主張を読んで、「これは統一教会の主張だ」と思う人間がいる訳か??

「この2世さんは頭がおかしい人なのか?」と私は思った。

そんな事よりも、「顕進に従うな」と言う文鮮明師の命令を知っているはずなのに、顕進氏にくっついている自分たちを悔い改めるべきである。

おそらくそれはもはや難しくなっているはずだが、もし清い涙が流れるなら、全てが善に転換するだろう。

しかし、彼らは多くそうしないだろう。




⑤ 第一次史料は解釈が必要である。ちゃんと「永井論文」を読むように・・・

歴史を調べた短さを批判されていますが、真実は真実で、虚偽は虚偽でしょう?長く調べると同じ資料の内容が変わったりするんですか?長く研究していたら太陽が西から昇ったり、カラスが白くなったりするんですか?『資料』はいつも変わらずそこにあります。研究者の研究時間は関係ないと思います。



歴史の第一次史料は、解釈が必要である。

例えば、1906年に朝鮮にいた日本の憲兵が人口調査をして朝鮮の人口は900万人強だ・・・という第一次史料があるのだが、しかしこの史料は信用されていない。


なぜなら、その4年後にやはり人口調査が綿密に行われており、その史料では、人口は4年前の2分の3倍になってしまう。

どんなベビーブームでもこんな事は起こらないし、ベビーブームがあったという記録もない。

つまり、この900何十万人という史料が間違いだと考えるのが、正しい見解だろう。そういう訳でこの史料をそのまま信用している専門家は一人もいない。

しかし一次資料ではあるのだ。


だから、専門家ではない研究者には、引用する人がいるので、面倒くさいが、否定しなければならなくなる。

ちなみにウィキにこれが、さも事実であるかのように掲載されていた時期もあった。



⑥ 2世さんは「研究者」らしい

ところで「研究者の研究時間は関係ないと思います」と書いているが、自分は歴史を研究したと言いたいのだろうか?

千冊くらいは、日本や韓国の歴史の本を読んでみてから、そんな事を書いて欲しいものだ。

『世界の歴史』や『日本の歴史』は読んでいるのか?

ネットで調べたくらいで”研究者気取り”では笑われるだけだろう。




さて、今日はこれくらいにして置こうか?

続きは次回に暇な時間があったら書こう。 

多分、2週間したら、暇も作れるだろう。

軍慰安婦関係記事を書く「条件」は、明日で終わるので、いずれ特集を組んでみようか?








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「夫役」(ぶやく)という奴隷制度





その昔、(旧)浦和市東部から川口市北部の水田地帯には「見沼」という大きな農業用水用の溜池がありましたが、これは日照りになれば簡単に干上がり、雨が続けば近隣の水田を飲み込む厄介な存在でした。また江戸中期には米需要の増大により、江戸近郊の農村は米の増産が求められていました。

そこで徳川吉宗の命を受けた「井沢弥惣兵衛」という旗本は、「見沼」を干拓し新田を開発しました(これが「見沼田んぼ」という、旧大宮~浦和地区から川口市へまたがる水田地帯になりました)。さらに「見沼代用水」という、利根川を水源として埼玉県を南北に縦断する総延長約60kmの用水路を建設しました。

しかし、驚くべきことにこの大事業はなんと約半年間でほぼ出来上がってしまったそうです!これは近隣の農民を無給の労働によって総動員した成果だと思われます・・・・。



明治以前の日本には、夫役(ぶやく。負役・賦役とも)という「労働課役」がありました(もちろん日本だけではないが)。労働の対価として賃金が支払われるのではなく、納税の一環として労働力を提供させられるシステムがあったのです。たとえば白土三平の超大作「カムイ伝」では、農民がこの強制労働に借り出されるシーンが度々登場します(ちなみに、農民を厳しく監視する役が「非人」という被差別階級でした。徳川幕府は被支配層を分断する巧妙なシステムを構築していたのです)。江戸時代の民衆は「年貢」だけでなく、この奴隷的労働にも苦しめられていたのです。

明治維新によってこの制度は消え去りましたが、それから40数年後、ユーラシア大陸の一部に植民地を獲得した日本は、初期段階に於いてその地の民衆に対し、この「夫役」という実に東洋的な、つーか封建社会的なシステムの適用を復活させたのです。



もちろん、

江戸時代の「夫役」による「見沼代用水」の建設などの公共事業が、農業を発展させ、ひいては農民の生活向上にもつながる(はずの)ものであったように、

日本が朝鮮半島にて行なった「夫役」の行使による公共事業も、朝鮮を近代化し、且つ又朝鮮人の生活向上にも役立つ(はずの)ものであったと思います。多分。

しかし「夫役」に動員された民衆の苦痛は耐えがたいものだったのです。



・・・・・

反骨の士である“耕堂”中野正剛は、著作「我が観たる満鮮」(大正四年五月二十八日 政教社)にて、

「夫役」の実態をレポートしています。



・・・・試みに一歩地方へ踏出せば憲兵に対する怨嗟の声は、至る所の巷に充てり。余は先日湖南線視察の途次、其第一日を大田に暮らしたるが、忽ち同地に於て憲兵の弊の一例を発見したり。大田の市街を西に去りて公州に向ふの一道路あり、当時よりの商習慣によりて可なりの往来あり、夙に坦々たる大道となれり。然るに忠清南道の警務部長は大田橋より見渡して、之と並行する他の直線道路を設けたり。其理由とする所は、当来の道路が屈曲蛇行するは、前方を直視するに不便なりと云ふ一事に帰せり。

(中略)

而して此道路を開くには、人民の土地を没収し、人民に負役を課せざる可ならず、其困難は警務部長が机上に鉛筆を弄して、直線道路を書くの比に非ざるなり。然れども斯の如き人民の怨嗟は毫も上に達せられず、且又人民の為に苦痛を訴えんとする新聞紙もなし。是に於てか警務部長は軍隊的に其成績を報告して曰く、大田より公州に向ひて直線道路を開く、一路坦々軍隊の通過に対しては、別して便利を興ふと。総督は遂に此れ以上の報告を得る能はず。

大田にて憲兵専制の実例を目撃せし余は、世人の憲兵に対する怨嗟の、決して偶然ならざるを感じたり。然れども更に南下して江景に到り、諸種の事情を見聞するに及びて、余が曩に(さきに)大田にて目撃せしが如き事例は、此地方一円に行はるる尋常茶飯事なるを知り、喫驚禁ずる能はざるに至れり。

(中略)

且又同地方を巡覧して憲兵の施設を見れば人民が憲兵に対して積怨を抱くの、決して無理ならざるを首肯し得べきものあり。曩に(さきに)大田に於て示せし例の如く、憲兵が机上にて計画せし道路を目し俗に鉛筆道路と言ふ、鉛筆道路は鮮地内随所に之を発見し得べし。憲兵の之が開設を命ずるや、頗る厳格にして、先ず任意に道路の経由すべき地域を決定し、人民に命じて其土地を寄付せしむ、而して後愈々工事に取懸かるや、再び命令を発して負役を募るなり。 百姓は自己の田地を没収せられ、剰へ自己の労力を提供して、自己の田地を潰すを怨めども、如何せん官憲の命ならば、之を拒むに由なきなり。中に最も可憐なるは、一日一食をすら難しとする鮮人が、弁当を携帯して、終日無賃にて駆使せらるるの一事なり。彼等の或者は三里、五里、十里の遠方より召集せられたる有り、固より極貧の民ならば労役に出でたりとて宿屋に泊る資力なく、終日爪を囓りて労役したる後、夜は果敢なき露宿の夢を結ばざる可からざるなり。嗚呼斯くの如き細民の苦痛何の機関によりてか、之を仁者に訴へんや(P-52~55)




・・・・このように、運悪く道路建設予定地に住んでいたものはその土地を没収され、その上道路建設のための無償強制労働に動員されていたのです。こうした民衆への圧迫は1919年の3.1独立運動の呼び水の一つとなりました。この点について、運動を弾圧していた「朝鮮憲兵隊司令部」自身が指摘していますので少々引用します。



㊙ 大正八年 朝鮮騒擾事件状況

大正八年六月憲兵隊長警務部長会議席上報告、朝鮮憲兵隊司令部

(昭和44年9月20日発行復刻版・極東研究所出版会)



★忠清南道   九.鮮人間に唱へらるる不平及希望(P-394)

1.日韓併合を今尚不平とし韓国の復讐を希望するもの

2.賦役の多きを非難するもの



★全羅北道   一.不平(P-396)

17.夫役賦課に対し其の負担大なること、出役に際し甚しく酷遇すること、殊に近年労銀高騰の際の夫役は苦痛とする所なりと言ふ者多し



★慶尚北道 (P-404)

五.道路修繕に要する賦役は古来の慣習なるも往時は居住地の附近に於て少数日の賦役に過ぎさりしに、新政に於ては遠隔の地に長時日に亘り賦役を課せらるる如きは苦痛に堪えず、往々農繁期を顧慮せられざるは殊に然りとす

六.道路改修に際し無断にて田畓を道路敷に使用したる後寄付を強制せらるるは不条理なり、殊に小作農の田畓を無償収用せられ貧民の家屋を毀壊せらるるが如きは、人民を窮境に陥らしむること著大なり(倭館張吉相の如きは慶尚南北道に於て道路に収用せられたる田畓三百八十斗落にして悉く事後承諾を強ひられたりと云ふ)。又寄附したる田畓に対し数年に亘り課税せらるることあり



★慶尚南道   一.不平事項 (P-412)

10.國力に副はざる急激の施設を為すため夫役の使用甚だしく現下朝鮮の状況は貧富の懸隔甚だしく、夫役に出るものは多く貧困者にして其の日の生活費を需むるに急なるものにして夫役代納金を納むる余力なきものなることは勿論なり、而して此の夫役は年中を通すれば数十日の日数となり細民は益々生活難に追はるるに至る



★咸鏡南道  二.希望 (P-428)

6.近来賦役を課せらるること多し、今少しく其の度数を減せられたし




・・・このように「夫役」とは単に民衆に苦痛を与えるだけではなく、その生活基盤を根底から破壊するものだったのです。また没収した田畑からも「数年に亘り課税」していた事例もあったそうですが全く鬼畜にも劣る所業と言えるでしょう。



日本にとって明治維新とは封建制度との決別であり、近代化の幕開け・・・だったはずです。しかし欧米を模倣してユーラシア大陸の一部に待望の植民地を得た途端、「夫役」というあきれるほど前近代的な奴隷制度を導入してしまった面に着眼すれば・・・封建の世から全く何の進歩も無かったかのようです。

しかし植民地獲得競争に遅れて参入したこの国は、「夫役」を欠かすことは出来なかったのでしょう。「國力に副はざる急激の施設を為」そうと思い立ったため、「夫役」なくして朝鮮を植民地経営することは不可能だったのでしょう。全く日本には植民地経営など身の程をわきまえぬ行為だったのです
プロフィール

Author:くろだかんご
易経は「世界は大いなる変容のプロセスである」という
今世界はかってないスピードで大きく変わりつつある。
そして生まれるはずの理想の世界に日本をいち早く到達させ、世界をリードするモデルとしたい。このブログもそのための一環である。

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