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黒川殿

 投稿者:管理人  投稿日:2012年12月 7日(金)04時28分19秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  当室の趣意に関係しない食品添加物の危険性について類々詳細に述べられている様でありましたが、
最終、その危険性と創価偽本尊の危険性とを対比して、その害毒なりを述べられましたので、前段
食品添加物に関する記事記載についても、全文を掲載する事と致しました。
 

食品添加物と創価偽本尊

 投稿者:黒川和雄  投稿日:2012年12月 6日(木)21時16分18秒 p2035-ipbfp4305osakakita.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  さて私は数品の食品添加物の危険性を紹介させて頂きました。

コーヒーフレッシュ、コンビニのおにぎり、スーパーで売られている安物のミートボール…。

これらのニセ商品を私たちは「本物」と思い込み「買わされている」のであります。

そして「美味しい!」と!!

これは創価のニセ本尊にも通じますね。創価員曰く、「君たちがニセという本尊で僕は功徳をもらっている、だからニセではない!」と・・・。

一連の創価員の功徳というものは食品添加物と同じであり、「功徳風味のニセ功徳」ということです。

但し、食品の場合は毎日食べ続けるわけではありません。しかし信仰というものは深く自身の心の中に入り込み、自身の生命を犯し続けるのであります。功徳風味のニセ功徳を食べ続けると、どうなるでしょうか??

大聖人様はこのように仰せであります。

「過去・現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣・万民、始めは事なきやうにて終(つい)にほろ(亡)びざるは候はず」」(聖人御難事)

最後には地獄に堕すということです。保田妙本寺も同じです。正信会、顕正会も同じです。

 

スーパーで売られているミートボール、実はドッグフードに使用される廃肉だった!!

 投稿者:黒川和雄  投稿日:2012年12月 6日(木)21時14分37秒 p2035-ipbfp4305osakakita.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  そんなミートボールは一体どのように作られているのでしょうか?

実は、材料の肉は、鶏や牛、豚の解体時に出るクズ肉を使用しており、
牛や豚であれば、足回りの肉などがそれに当たります。

モモ肉がかろうじてステーキとして加工可能なのに対して、
そういったクズ肉は、水分を多く含み、旨味も少なく、
とても人間が食べれる代物ではありません。

そのため通常はドッグフードなどに使われているものなのです。


一方鳥肉はというと、卵用の鶏が年をとってあまり卵を
産まなくなった廃鶏を使用します。

成長しきった鶏は、身体は大きくても肉質は硬く、
油分はとても少なくなってます。

しかし、これらのミンチを混ぜ合わせると、
瑞々しい質感を持つ肉へと変貌してしまうのです。

ここから味付けなどのために、大量の食品添加物の出番です。

恐るべし、食品加工産業です。

(参考)「ニセモノ食品」作り最前線 別冊宝島
ttp://tenka99.com/kiken/cat15/cat18/1_6.html

■■■■■■■■■■

そのミートボールは、あるメーカーが安く大量に仕入れた「端肉」(牛の骨から削り取る、肉とはいえない部分。元の状態では、形はドロドロで、水っぽいし、味もなく、ミンチにもならないもので、現在は、ペットフードに利用されているもの)を使って、何か作れないか、とい依頼で、安部氏が開発したものです。

彼は、このどうしようもないとても食べれないシロモノに、卵を産まなくなったくたびれた鶏のミンチ肉を加え、さらに増量し、さらに、「組織状大豆たんぱく」を加え、味付けは、「ビーフエキス」と「化学調味料」を大量に使用。さらに「ラード」「加工でんぷん」「結着剤」「乳化剤」「着色料」「保存料」「ph調整剤」「酸化防止剤」をうまく加えて、ミートボールを作ってしまいます。

コストを抑えるために、市販のソースやケチャップは使わず、「氷酢酸」を薄めて「カラメル」で黒く色をつけたものに「化学調味料」を加えてソースもどき」を作り、ケチャップも「着色料」「酸味料」「増粘多糖類」をうまく調合して、「ケチャップもどき」も作ります。

本来なら、産業廃棄物となるべきクズ肉を、彼が「魔法の粉」である添加物を大量に投入して、舌においしい「食品」に仕立て上げたわけです。

このミートボールは、スーパーでも売値が1パック100円弱。安い!あまりにお買い得な価格!

笑いが止まらないほどの大ヒット商品となり、そのメーカーは、この商品だけでビルが建ったといわれるほどだったそうです。

ようするに、およそ30種類もの添加物を加えて作った「添加物のかたまり」のもうけでビルが建つほどだったわけです。

生産者の視点にたった、苦心の末での工夫の結果ともいえるこの「ミートボール」は、開発者の彼にとって誇りだったそうです。

ところが、ある日、猛烈サラリーマンのせめての家族へのサービスとして、3歳になる娘さんの誕生日には、早々に会社から帰宅して、めずらしく家族みんなで食卓を囲み、お祝いすることにしたようです。

食卓にはご馳走が並び、そのなかには、ミートボールの皿もあったようです。何気なく、それをひとつつまんで口に放り込んだとたん、彼の心は凍りつき、血の気が引いてしまいます。

なんと、そのミートボールは、彼が添加物を大量に使って開発した自信作のミートボールそのものだったのです!

安部氏は添加物のプロなので、食品にまじっている100種類ほどの添加物を、瞬時に舌で識別できます。

安部氏の奥さんによれば、有名な大手メーカーのものだから安全だと思って安心して買っており、ふだんから子どもたちが好きで取り合いになるくらいとのこと。

安部氏は、真っ青になって、あわてて、「これは食べちゃいかん!」とミートボールの皿を両手で覆ってしまい、胸がつぶれるような思いをしたといいます。

廃物同然のクズ肉に大量の添加物を投入して作ったミートボールを、わが子が大よろこびで食べていたという現実。

「ポリリン酸ナトリウム」「グリセリン脂肪酸エステル」「リン酸カルシウム」「赤色2号」「赤色3号」「赤色102号」「ソルビン酸」「カラメル色素」などのあふれるような添加物を、自分の愛する子どもたちが平気で摂取していたという事実。

そのとき、安部氏は、いままで「生産者」と「販売者」の立場でしかものを見ていなかった自分のあさはかさを知り、自分の家族も、また「消費者」であった現実を思い知らされます。

とにかく、親として、自分が開発したこのミートボールは、自分の子どもたちにはゼッタイに食べてほしくないものである、ことを思い知った安部氏は、夜も眠れぬほど、悩み苦しみ自問自答したあげく、きっぱりと、添加物の会社をやめる決心をしたといいます。

へたをすると人を殺傷する軍事産業と同じで、人を殺傷して、懐をこやす死の商人と同じように思えてきて、このままでは畳で死ねないと思いつめたそうです。

でも、いわゆる会社人間のほとんどは、「でも、食っていくためにはしかたがない…」といいわけし、保身をはかり、臭いものにふたをして、知らぬふりをするのではないでしょうか。現実には、そういうケースがほとんどといっていいでしょう。それが、多くのサラリーマンの世界です。

この点で、さすが将来の会社役員として確実に出世したに違いない安部氏の、自分をごまかさない勇気と決意と実行力は、たいしたものだと思います。サラリーマンには、なかなかできることではありません。彼は、自分の保身のために、嘘はつけなかったわけです。
・・・

安部司氏は、元は、バリバリの食品添加物の開発者件トップセールスマンであった方で、現場から、われわれが知らず知らずのうちに安心して口にしている市販の食品の裏事情を現場から知り尽くしている人だからです。

その安部氏が、食品添加物の神様とまで、食品業界で評価されながら、キッパリその仕事をやめる決断をするには、それなりの事情があったようです。

安部氏は、化学を大学で専攻されていますから、化学物質についての専門的な知識にも精通している人です。

さて、皆さんは、私たちは、1日に平均どれくらいの添加物をいつのまにか口にしていると思われますか? また、それは1年でどれだけの添加物を摂ることになる想像がつきますか?

正解は、1日に平均10グラム。10ミリグラムじゃないですよ。10グラム。

年間で、なんと4キロになるそうです。(ただし、英国BBCの、ある女性ジャーナストによりますと、先進諸国では、1年に7キロという説もあるようですが。)

それもいつのまにかそれだけの食品添加物としての化学物質を摂っていることになるわけです。驚きですね。

安部氏は、食品添加物の神様と呼ばれたくらいですから、会場の机に用意した数十種類もの添加物を、サッサッと手際よく混ぜて、あっとうまに、誰がなめてみても、「とんこつのスープ」にしか思えない味をその場で作るのもお手のものです。「とんこつ」など一切使いません。そういうものがインスタント食品などであたりまえに平気で使われている。誰もそういう事実を知りません。

たしか彼によれば、現在、1500種類以上の食品添加物が使われているそうです。

添加物は、まさに魔法の粉で、暗い土色のタラコの現物が、一晩、添加物の液に漬けておくと、たちまち赤ちゃんの肌のようなぷりぷりのタラコに変身してしまうといいます。

「とんこつ」なしで、「とんこつスープ」を見事に作ってしまったり、古びた色の悪いタラコを、たちまちきれいで色鮮やかなタラコに変身させてしまう魔法の粉。

そういう添加物は、「食品を長持ちさせる」「色彩を美しく仕上げる」「品質の向上させる」「味をよくする」「生産コストを下げる」などという、生産者から見ても、消費者から見ても、非常に便利でよさそうな利点がありますが、その光の背後には、たとえ合法な添加物であっても、人体に対しての害悪や毒性、さらには、添加物が食卓を崩壊させる、という闇の部分は、便利さと経済効率優先のまえに、ほとんどかえりみられていないのが現状のようです。

ttp://www40.atwiki.jp/inkyo/pages/55.html
 

コニビニ(スーパー)の「おにぎり」 毒がいっぱい!こんなものを我々は食わされているのだ!!

 投稿者:黒川和雄  投稿日:2012年12月 6日(木)21時12分47秒 p2035-ipbfp4305osakakita.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  日本全国津々浦々にあるコンビニ。

コンビニって、本当に便利です、スーパーよりちょっとお高いですけどね。

コンビニで売れるお惣菜の開発に、
各コンビニの司令塔は知恵を絞っているようです。

私もJRで東京や大阪にいくときなどJRのコンビニでサンドイッチやおにぎりを
買って食べちゃいます。

でも、コンビニで買ったおにぎりの包装の裏を見るとビックリしてしまいます。

昆布の佃煮のおにぎりなら、

・調味料(アミノ酸等)、グリシン、カラメル
・増粘多糖類、ソルビット、天草、ステビア
・ポリリジン

といった食品添加物です。

また、おにぎりのご飯自体にも、

・アミノ酸などの化学調味料や酵素(美味しくする為)
・グリシン(保存性を高める為)
・乳化剤、植物油(パサパサ感をなくし、艶を出す等)

などの食品添加物が使われたりしています。

しかし、このおにぎりに含まれている食品添加物に
次のような危険性があるとしたら、どうするでしょう。

買う前にやっぱり考えちゃいますよね。

調味料(アミノ酸等)はグルタミン酸ソーダのことで、
とり過ぎると中華料理症候群となったりします。

カラメル色素は、マウスの染色体異常試験で、
若干の遺伝毒性が見られています。

ステビアは甘味料として用いられるものですが、
動物実験では、催奇形性、胎児毒性は認められていませんが、
弱い変異原性が認められています。

ポリリジンは保存剤として用いられるものですが、
ラットに5%を混ぜたエサを3ヶ月投与した実験で、
体重増加の抑制、血糖値・血中アルブミン・
血中トリグリセライド・血中リン脂質の減少、
肝臓・甲状腺の臓器重量の減少、白血球の減少が認められています。

「今日はご飯を炊くのが面倒だから」と言って、コンビニでおにぎりを買ってきたら、
もうそれだけで10種類近くの食品添加物を摂取してしまいます。

特に、育ち盛りの子供さんに、仕事が忙しいからなどと言って、
コンビニのおにぎりを食べさせるのは考えものです。

自分の子供には食品添加物の危険性に晒したくないものです。
ttp://tenka99.com/kiken/cat8/cat10/post_1.html
 

【衝撃】コーヒーフレッシュ 実はサラダオイルだった!

 投稿者:黒川和雄  投稿日:2012年12月 6日(木)21時11分13秒 p2035-ipbfp4305osakakita.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  喫茶店やファーストフードでコーヒーを頼むと、机におかれたコーヒーフレッシュや砂糖を無意識のうちに利用していることがある。ああ、サービスの一環で無料で使い放題状態になっているのだなと考える方も多いのだが、冷静に考えるとおかしな話だ。砂糖や塩ならまだしも、ミルクを成分としたコーヒーフレッシュが何故無料なのか、またなぜ、コーヒーフレッシュがそこまで日持ちをするのか、これにはとんでもないからくりが存在した。

安部 司氏の『食品の裏側―みんな大好きな食品添加物』によると、コーヒーフレッシュが無料で使い放題状態で配られている本当の理由が記載されている。結論を申し上げるとコーヒーフレッシュは『ミルク』ではない。また『乳製品』でもない。では何かと言うと

『植物油に水を混ぜ、添加物で白く濁らせ、ミルク風に仕立てたもの』

だと言う事だ。つまりコーヒーフレッシュをドバドバとコーヒーに混ぜて使うということはすなわち、サラダ油をコーヒーの中に突っ込み『わたしゃミルク使わなきゃコーヒー飲めないんだわ』と、あたかもミルクを入れているような錯覚を楽しんでいるにすぎないと言うのだ。

ちょっと待って、それは詐欺ではないのか?と感じる方もいるかもしれないが、これは詐欺ではない。実はコーヒーフレッシュの原材料を見ると一言も『ミルクを使っています』とは言っていないのだ。ちなみに主な原材料として以下があげられる


・乳化剤
・植物性油脂
・増粘年多糖類
・PH調製剤
・着色料
・香料

乳化剤とは、界面活性剤の事で何故入れるかと言うとサラダ油と、水が混ざりにくい問題を解消するためだと言う。増粘年多糖類とはミルクのような、とろみを出す液体。
これらを混ぜて作ったなんちゃってミルクが『コーヒーフレッシュ』なのです。

今後もし、コーヒーの中に本当のミルクを入れたいと考える方は、敢えて別途ミルクを注文するか、カフェオレのようにもともとミルクが入っている商品を注文するしかなさそうだ。

【記事参照】
食品の裏側―みんな大好きな食品添加物:安部 司著
 

秋晴れ殿

 投稿者:管理人  投稿日:2012年12月 5日(水)10時37分56秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  >例えば、信州の老人をネット学会員は、各々の掲示板において、様々なことを書き込みされてるの
>を見ました。鋭い分析、そして学会員が学会員を斬ってます。そういった意味で見抜くというのも
>訓練であれば、見抜いた上で、当該本人の相手方に対してどう接していくかも訓練です。
>少しは伝わったかどうか、このあたりでご理解頂ければ有難いのですが。

つまりは『斬る』とは『相手を破折する』との意でありますね。ならば以降、相手を破折する行為に
対して『斬る』という表現などは止めた方がよろしいと思います。記述の背景にもよりますが、相手
に対する破折叱責を『斬る』という表現にされては、その破折行為そのものが「悪」であると誤解さ
れるでありましょう。本より我々は創価の外道義を「斬って」いるのではありません。破折し叱責し、
教導しているのであります。

>>日蓮大聖人がイエスキリストを尊敬する、という概念を蔓延させる事が、御貴殿の云われる
>>(学会の)奥深い哲学なのか、其の事も併せて説明頂きましょう。

>このような意味あいではありません。あくまでも自身の境涯革命の観点からの書き込みです。

はて、其の様な意味合いではない、とはどういう事でありましょう。上記の内容をして御貴殿は
「あくまでも自身の境涯革命の観点からの書き込みです」などと申しておりますが、上記の内容、
つまり「日蓮大聖人がキリストを尊敬する」とは、御貴殿らの王者である池田名誉会長が述べたもの
であります。自身の境涯革命の観点から書き込まれたものではありません。又、日蓮大聖人がイエス
キリストを尊敬する、などという教えが、自身の境涯革命につながる、などと本気で思っているので
あれば、其れこそは邪義邪想であります。

自称・庶民の王者、池田太作に云く「もしも日蓮大聖人とイエスが話し合ったならば決して口論など
にはならず、民衆に尽くす生き方に対して、尊敬の念を抱いたのではないか」と。
                           (聖教新聞 平成17年6月10日付)

本より、日蓮大聖人が外道者と『口論』などされる筈もなく、其れこそは即刻『折伏』を為される事
でありましょう。尚、池田が云う『民衆に尽くす生き方』などは、其れこそ日蓮大聖人御在世当時、
彼の極楽寺良観の「民衆」に対する慈善行為に同意するものであり、其れこそ日蓮大聖人は其の様な
良観の「民衆に尽くす生き方」に対して、尊敬の念など抱く訳がないのであります。

果たして当方の言い分と、王者池田の言い分と、一体どちらが正しいか。其の様なことは日蓮大聖人
の御書をしっかり学んでおれば容易に判るというものであります。

>>果たして、御自らの手作りの組織をして「いつでも解散をお命じ下さい」とは如何なる事であり
>>ましょうか

>申し訳ありませんが、このようなことは組織において公式に未だかつて聞いたことがありません。
>従って、管理人さんの認識の誤りではないでしょうか。
>文面を拝するに破折というよりは怨嫉のように聞こえてくるので、聞き流すことにします。

いや、聞き流すも何も、上記の事は、戸田先生がはっきりと申された事であります。
其の事実に対して『このようなことは組織において公式に未だかつて聞いたことがありません』と
御貴殿が云うとなれば、其れこそは「隠ぺい」されているという事でありましょう。本より当方の
認識の誤りなどではありません。恩師戸田先生が日淳上人の御前ではっきりと宣べられた、学会組織
としての存在意義であります。さても、その事実を述べる当方をして『怨嫉のように聞こえる』とは
如何なる事でありましょうや。

恩師が云く『将来、もし学会が大きくなって、宗門に圧力をかけたり、あるいは内政干渉をする様な
ことがあったら、いつでも解散をお命じください』と。
                                            (昭和31年8月10日・岡山妙霑寺の入仏落慶法要)

今一度、秋晴れ殿に於かれては、上記に示された恩師の真たる誡言を噛みしめるべきであります。

>最後に法華講員にも様々な方がおられるということ、お話ありがとうございました。
>私の知り合いの法華講員の方も常識があり、穏やかな方です。
>いつか、機根が整ったら信心の話をする予定です。

果たして其の「常識」なりが、慈なくして詐(いつわ)り親しみ、其れをして彼が怨(あだ)とならぬ様、
気を付けて行かねばなりません。まして、邪法を以って和を結ばんとするなどは論外中の論外である
と云う事を、先ずは心得るべきでありましょう。

兎も角、貧民救済に尽力した極楽寺良観の「生き方」に対して、日蓮大聖人が尊敬の念を抱くなどと
云う池田太作の妄言に対しては、御貴殿も『其れはおかしい!』と心の底から思うべきであり、その
真っ当な疑念が湧いてこないうちは、他者に対して信心の話などしてはなりません。

先ず以って御貴殿がやるべき事は、現創価学会が構える邪説を摧(くだ)く事であり、十字架の勲章を
貰って悦に入る御貴殿の大将こそを叱るべきであります。

曰く『慈なくして詐り親しむは、即ち是彼が怨なり、彼が為に悪を除くは、即ち是彼が親なり』と。

今こそ破邪顕正の勇気を持って、創価学会の外道義を内部から呵責して参りましょう。
 

管理人さまへ

 投稿者:秋晴れ  投稿日:2012年12月 4日(火)01時34分29秒 EM111-188-51-147.pool.e-mobile.ne.jp
返信・引用
  >組織の中において、斬ることはいとも簡単にできます。古くの学会はそうでした。
>しかし、もう一重奥深い哲学を学会は目指したと私の経験からは感じております。

はて、曾(かつ)ての学会がいとも簡単に斬った、とは、どの事を以って言われているのでしょう。
出来れば教えて頂きたい。

======================================

書き込みを誤ったようです。これでは伝わりませんね。申し訳ありません。
これは、例えば、先輩から後輩に、また破折(同志、また他宗派など)、様々など場面において、
責める、攻める? 表現方法が見つかりませんが、例えば、信州の老人をネット学会員は、各々の
掲示板において、様々なことを書き込みされてるのを見ました。
鋭い分析、そして学会員が学会員を斬ってます。そういった意味で見抜くというのも訓練であれば、
見抜いた上で、当該本人の相手方に対してどう接していくかも訓練です。少しは伝わったかどうか、
このあたりでご理解頂ければ有難いのですが。従って

>日蓮大聖人がイエスキリストを尊敬する、という概念を蔓延させる事が、御貴殿の云われる(学会の)
奥深い哲学なのか、其の事も併せて説明頂きましょう。

このような意味あいではありません。あくまでも自身の境涯革命の観点からの書き込みです。

=========================================
>当方は学会二世、つまりは「福子(ふくし)」と言われた二世でありますが、功徳を受けた姿、宿命を
転換した姿など、数多く見て来ましたし、又、自分自身に於いても「これは御本尊様の功徳だ!」と
実感した事などは両の指でも足りません。しかし、利益が在ろうとも、邪宗に居てはならないのであ
ります。立正佼成会の婦人部員が、真っ黒い釈迦立像本尊を背にして「三億の資産を築きました!」
「不治と言われた胃癌が完治しました!」と涙ながらに体験発表しようとも、それはあくまで邪宗の
利益であり、其れを以って正義とは言わないのであります。抑もこれこそは日蓮大聖人の御教えでは
ありませんか。だから小生は煩(うるさ)く云うのであります。


同感です。数日前にも書き込みましたが現世利益小さな功徳。或いは、魔の通力ということもあります。
宿命転換、境涯革命、これこそが本筋です。

======================================
>教義とは、机上で論ずるものではなく、その信心を以って「心肝に染める」ものであります。
而して、その「行」の真価がより一層増していくのであります。
御教示ありがとうございます。

=========================================
>当方は、恩師戸田先生の御遺訓を厳守したが故に、池田創価学会から離れたのであります。
つまり、現在の創価学会に残留する会員たちこそが、戸田先生の御遺訓に逆らう違背者なのであり
ます。

管理人さんの一貫されている姿勢と理解しています。理解した上で、戸田の命より大切な組織という戸田先生の指導に従い、学会を護るべきだったのではと書き込みさせて頂きました次第です。つまり、以前にも書き込みましたが、戸田先生の御指導は、様々にあります。
全ては聖教を遡っていけばいいことなのでしょうが、大変な作業です。
それはさておき、戸田先生の意。これこそが大事な点で、管理人さんは、御返信にあります御指導をチョイスされた。管理人さんはそういうお方です。理解しています。

>果たして、御自らの手作りの組織をして「いつでも解散をお命じ下さい」とは如何なる事でありまし
ょうか

申し訳ありませんが、このようなことは組織において公式に未だかつて聞いたことがありません。従って、管理人さんの認識の誤りではないでしょうか。
文面を拝するに破折というよりは怨嫉のように聞こえてくるので、聞き流すことにします。
そういった意味あいではないのであれば、申し訳ありません。

最後に法華講員にも様々な方がおられるということ、お話ありがとうございました。
私の知り合いの法華講員の方も常識があり、穏やかな方です。
あまり信仰は好きではない。ただ親が入信しているからと仰ってましたね。
その方の一家は苦難だらけで心配をしています。元凶はその方の父親のようです。
おそらく、そちらの法華講員の方々にも迷惑をかけていることは創造出来ます。
信心以前の問題です。
信心の話はあまりするのは、やめた方がよいと、その方の愚痴を聞いております。それだけでも心がすっとするそうです。
先日はお子様にケーキをお土産に持っていきました。喜んで下さいましてね。私も、なにより嬉しかったです。
いつか、機根が整ったら信心の話をする予定です。




 

秋晴れ殿

 投稿者:管理人  投稿日:2012年12月 2日(日)13時45分4秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  >管理人さんは、法華講としてごく普通の思考なのでしょうか。
>大変に為になります。
>法華講の方々といっても千差万別で、学会人と同じように様々な方々が在籍されている
>ようです。

法華講員には、元から法華講員であった方と、創価学会を脱会して法華講に入講した方と、大概
(おおむね)、その二通りの方々が居ります。存知のごとく、当方は後者の方であります。本より、
その中に於いても色々な方が居りますが、その殆どの方は穏やかな人たちであり、街宣車に登り、
拡声器を片手に辻説法する講員などは一握りであり、朝のラッシュの駅前で、選挙演説よろしく
創価批判を大声で訴える講員なども一握りであります。本より当方は、そういう「やり方」には
賛成出来ません。それは何故か。つまりは、曾(かつ)ての創価学会が部隊を中心にして大折伏戦を
展開した時に於いても、其の様な「街宣車演説」や「駅前辻説法」などと云う「手法」は使わず、
ただ会員一人一人が、其れこそ『一対一』の折伏行を以って実践していたからであります。

つまり、曾(かつ)てタテ線組織(部隊長・隊長・班長・分隊長)の時にでさえ択ばなかった強折の
手法を、今にして寺院支部を中心とする法華講員が、わざわざ駅前にノボリを立てて声高々に辻説法
をするなどは、其れこそ、彼のオウム真理教の街宣車活動に類近し、幸福の科学の布教演説にも類似
する応に法を下げた行動であり、崇高たる日蓮大聖人の仏法と、軽薄な新興宗教との峻別を、法華講
員自らが一緒くたにしてしまう様な、そういう誤った印象を世間に与えてしまう事を、小生は心から
憂いているのであります。言うまでもなく、折伏行は「活動」ではありません。其れこそは「修行」
であります。修行に目立つも目立たないもありません。まぁ、これ以上は申しませんが、つまりは
法華講員にも色々な方が居るという事であります。

尚、現在の創価学会に所属する会員の中に、日蓮大聖人を本仏とせず、二箇相承を偽書とし、その他、
御義口伝・本因妙抄・百六箇抄・御本尊七箇之相承などを排斥する会員なとが居りますが、これらの
者共は、先に述べた街宣車の上で叫ぶ法華講員よりも以下の人種であり、それら教義違背の大罪は、
「折伏の手法」以前の「信心の問題」である、という事を、ここに断言しておきましょう。

>組織の中において、斬ることはいとも簡単にできます。古くの学会はそうでした。
>しかし、もう一重奥深い哲学を学会は目指したと私の経験からは感じております。

はて、曾(かつ)ての学会がいとも簡単に斬った、とは、どの事を以って言われているのでしょう。
出来れば教えて頂きたい。又「もう一重奥深い哲学を学会は目指した」と御貴殿は言われるが、
日蓮大聖人がイエスキリストを尊敬する、という概念を蔓延させる事が、御貴殿の云われる(学会の)
奥深い哲学なのか、其の事も併せて説明頂きましょう。

>私は世の中を出来うる限り観たいと念願し、様々な角度からの視点を持つようにしています。
>従って、あまりこの手の話(学会の誹謗文を書いた作家の両腕が曲がった)は耳から耳に流して
>おります。

御貴殿をして、様々な角度からの視点を持つのも結構でありますが、覩(み)るからして胡散臭い
地涌やフェイクなどは、それこそ両腕が曲がった、と騒ぎ立てる下劣な怪文書でありますから、
そういうモノに対しては、其れこそ正確なる視点を以って、創価学会員である貴殿らが先ずは憂慮
の念を示すべきである、と小生は思っております。

>もともと、私は一世です。そういった意味では創価の世界だけで生きてきた方々とは少し思考が
>違うかもしれません。では、何故、学会に在籍するのか?それは功徳があるからです。現世利益は
>小さなものです。宿命転換出来るからです。これこそが真実です。

当方は学会二世、つまりは「福子(ふくし)」と言われた二世でありますが、功徳を受けた姿、宿命を
転換した姿など、数多く見て来ましたし、又、自分自身に於いても「これは御本尊様の功徳だ!」と
実感した事などは両の指でも足りません。しかし、利益が在ろうとも、邪宗に居てはならないのであ
ります。立正佼成会の婦人部員が、真っ黒い釈迦立像本尊を背にして「三億の資産を築きました!」
「不治と言われた胃癌が完治しました!」と涙ながらに体験発表しようとも、それはあくまで邪宗の
利益であり、其れを以って正義とは言わないのであります。抑もこれこそは日蓮大聖人の御教えでは
ありませんか。だから小生は煩(うるさ)く云うのであります。

>教義は、ともすると机上で論を弄ぶ。或いは優越の念。自己満足の世界です。
>行があるからこそ教学も生きてきます。信、行、学は一体です。

教義とは、机上で論ずるものではなく、その信心を以って「心肝に染める」ものであります。
而して、その「行」の真価がより一層増していくのであります。

>法華講、学会と世代も随分変わりました。しかし、これこそ戸田先生のこの宗教に対する絶対なる
>確信です。どうして戸田先生の手作りの組織を放棄されたのでしょうか。
>戸田の命よりも大切な組織ですよ。
>どのようなことがあとうとも、それを昇華して管理人さまにおかれましては、学会を護ることが、
>戸田先生の意を自身の使命として生きるべきだったのではないでしょうか。

当方は、恩師戸田先生の御遺訓を厳守したが故に、池田創価学会から離れたのであります。
つまり、現在の創価学会に残留する会員たちこそが、戸田先生の御遺訓に逆らう違背者なのであり
ます。

恩師、総本山六十五世日淳上人に対して申さく『将来、もし学会が大きくなって、宗門に圧力をかけ
たり、あるいは内政干渉をするようなことがあったら、いつでも解散をお命じください」と。
                     (昭和31年8月10日・岡山妙霑寺の入仏落慶法要)

果たして、御自らの手作りの組織をして「いつでも解散をお命じ下さい」とは如何なる事でありまし
ょうか。「いつでも」とは「突然」の意も其の中に入るでしょう。而して後年、学会は御山に圧力を
かけて日達上人を悩まし、そしてとうとう、日達上人の御遺志を受け継がれた日顕上人(御隠尊猊下)
の御決断によって「いつでも解散をお命じ下さい」との恩師の御意向のとおり、御宗門は学会に解散
を命じられたのであります。つまり、恩師が命よりも大事な組織を放棄したるは、実に池田太作その
者であり、今にして創価残留を決め込む、御貴殿ら末端会員なのであります。真(まこと)に残念でな
りません。さても『学会を護ることが、戸田先生の意を自身の使命として生きるべきだったのではな
いでしょうか』とは、実に「解散破門を命じられた学会に残らない事こそが、戸田先生の御意を継ぐ
者の努めである』と言い換えるべきでありましょう。本より解散破門を命じられた創価学会には教義
など初手から無かったのでありますから、恩師の申し様はまったく正しかったという事であります。

兎も角、秋晴れ殿には、その冷静なる視点をもって、先ずは現創価学会の欺瞞を見抜き、池田家世襲
の互助会組織から、一刻も早く脱会される事を願ってやみません。
 

管理人様へ

 投稿者:秋晴れ  投稿日:2012年11月30日(金)02時04分0秒 EM114-48-10-78.pool.e-mobile.ne.jp
返信・引用
  こんばんわ。

早速に、長文を有難うございました。

さて、創価人とは知り合いが言っていたのを耳にしたものです。それは、さておき。

管理人さんは、法華講としてごく普通の思考なのでしょうか。
大変に為になります。
法華講の方々といっても千差万別で、学会人と同じように様々な方々が在籍されているようです。

>日頃から組織の中を見渡すに、一体どこが外道であるのか、
そしてどこが変質なのか、其れこそ、周りの会員とのつながりの中で、これが外道義なのか、これが
邪義なのかなど、実感できないとも思います。そこにはいつもと変わらぬ仲間がいて、いつもと変わ
らぬ会合があって、たまには気の合う同志と、食事などもする事でしょう。本より学会組織というも
のは、そういう「隣(となり)組」的な連帯が根本なのであり、だからこそ、御山から破門されても、
その殆どの者が組織に残ったのであります。それこそは「教義の正当性」よりも、日ごろ付き合って
いる「仲間」を優先した結果なのであります。

>兎も角、普段の生活に密着した組織活動に於いて、外道だ、邪義だ、と言われようとも、その日常の
中で実感するなどは、むずかしい事でありましょう。だから邪宗というものは怖いのであります。


仰りたいことは、よく理解出来ます。常に組織というものは魔が競っております。
親しむということが仇になることもあります。しかし、私は斬ったりはしません。
これこそが、忍耐に忍耐を重ね、訓練の経過を得てきたものです。

従って、>本より、その事は学会上層の大幹部たちは承知してい
る処(ところ)であり、だからこそ破門に際して、教義の正当云云よりも、恩だ、仇だ、という人情を
前面に出して、内心は喜びながら、御山から仕打ちを受けた被害者として振る舞ったのであります。
言うまでもなく、そういう演出などは、最も池田太作が得意とする所であります。


これは、管理人さんが学会時代の心の経験を通し、個人の感じたものと受け止めざるを得ません。
組織の中において、斬ることはいとも簡単にできます。古くの学会はそうでした。
しかし、もう一重奥深い哲学を学会は目指したと私の経験からは感じております。

>曾(かつ)て、小生が学会員の時、彼の「創価学会を斬る」で有名な藤原弘達などは、誹謗文を書いた
ために両腕が曲がってしまった、などと云う話が、まことしやかに組織の中で広まっておりました。
そして当方は其れを信じておりました。『ウソも百回言えば本当になる』とは、応にそういう事なの
であります。果たして御貴殿も、そういう「ウソ」の被害者になっているのではありませんか?
本よりこれも、初手からの日蓮正宗信徒として現創価学会から離れたればこそ見えるのであります。

私は世の中を出来うる限り観たいと念願し、様々な角度からの視点を持つようにしています。
従って、あまりこの手の話は耳から耳に流しております。
ただ、何にしても怨嫉は福運は消します。そういう観点からは考察出来ます。
ただ短絡的に学会の悪口を言ったから、どのこのとは、あまりにもお粗末過ぎるというか、
因習深い田舎を彷彿させるのは私だけでしょうか?
もともと、私は一世です。そういった意味では創価の世界だけで生きてきた方々とは少し思考が違うかもしれません。
では、何故、学会に在籍するのか?それは功徳があるからです。現世利益は小さなものです。
宿命転換出来るからです。これこそが真実です。
教義は、ともすると机上で論を弄ぶ。或いは優越の念。自己満足の世界です。
行があるからこそ教学も生きてきます。信、行、学は一体です。
凡夫の身では、この宗教に実際に力があるか、ないか。その一点しか判別することは出来ないのです。
そのようなことは戸田先生が仰っていたことではないでしょうか。
法華講、学会と世代も随分変わりました。しかし、これこそ戸田先生のこの宗教に対する絶対なる確信です。
どうして戸田先生の手作りの組織を放棄されたのでしょうか。戸田の命よりも大切な組織ですよ。
どのようなことがあとうとも、それを昇華して管理人さまにおかれましては、学会を護ることが、
戸田先生の意を自身の使命として生きるべきだったのではないでしょうか。
もう一度申しますが、斬ることは簡単です。確かに勇気もいったことでしょう。しかし、それは
戸田門下生として本筋ではありません。


 

味噌糞一緒の談合宗団

 投稿者:管理人  投稿日:2012年11月29日(木)13時31分54秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  今時、神道国家に於ける強制法もない、此の自由社会に於いて、未だ己(おのれ)の保身を目論み、
本迹入り乱れての談合宗団。して、其の大元締めたるは、頭の上に座布団を乗せた「日蓮大菩薩人形」
(由来は、大聖人が小松原の法難で眉間に傷を負われた時、そこを通りかかった老婆から綿頭巾を供養
されたという伝説による)に向かって、頬のこけた髭面(ひげづら)の修法師が和風カスタネット(木釼)
を打ち鳴らし、宗内に温存せる九識霊断法を用いて呪(まじな)いを行い、無智な信者たちを誑かす、
言うまでもない、彼の身延山久遠寺、其の一凶一寺である。

して、此の身延山久遠寺は、今や日蓮宗の総本山であるが、抑も、此の「日蓮宗」という宗名は、
明治九年(1876)、他門派による抗議の中「日蓮宗一致派」から強硬に改称されたものである。

さても、一々の学者僧によって、今も尚、其の教義が変転流々する一致派身延山久遠寺。そして、
其のような蝙蝠(こうもり)教団に群がる、保身諤々(がくがく)の邪宗団。

今此に、其の破廉恥なる烏合宗団の実体を明記しよう。


【日蓮聖人門下連合会 加盟各派】

日蓮宗(身延門流・民部日向・一致派)
日蓮本宗(富士門流・大夫日尊・勝劣派)
顕本法華宗(日什門流・玄妙日什・勝劣派)
本門法華宗(四條門流・肥後日像・勝劣派)
法華宗陣門流(日陣門流・円光日陣・勝劣派)
法華宗真門流(本隆寺派・常不軽日真・勝劣派)
法華宗本門流(日隆門流・慶林日隆・八品勝劣派)
本門佛立宗(元日隆門流/仏立講・長松日扇・勝劣派)
日本山妙法寺(出家者による新興宗教・藤井日達)
国柱会(元身延僧による在家新興宗教・田中智学)
京都日蓮聖人門下連合会


【おもな共同事業】

日蓮聖人伊豆法難700年記念行事(昭和35年)
日蓮聖人龍口法難700年記念大会(昭和45年)
日蓮聖人降誕750年慶讃「聖伝劇日蓮」明治座公演(昭和46年)
《日蓮聖人700遠忌記念事業》
日蓮聖人劇・日蓮聖人展(昭和56年)
青年の船(昭和57年3月26日~4月5日)
「オラトリオ日蓮聖人」発表演奏会(昭和57年4月22日)

叡山開創1200年記念法要(昭和62年)
「大日蓮展」(立教開宗750年記念事業。平成15年)
「日蓮と法華の名宝展」(『立正安国論』奏進750年記念事業。平成21年)


小笑。最早ここまで来れば、味噌糞一緒の談合宗団と揶揄されて当然であろう。

さても、上記に示した「九識霊断法」などは、高佐日煌(日蓮宗霊断師会創祖・小西法縁連合会会長・
昭和四一年死去)が考創したものであるが、今や身延日蓮宗に於ては、それら霊断法を用いる「霊断師」
が、荒行を経ていない僧侶の上に君臨して、祈祷師よろしく呪(まじな)いをするのである。
して其の「霊断師」には「一級霊断師」というのがあって、それら「一級の霊断師」が各寺院の住職
となり、訪れる信者を前にして、其の信者を専門に守る守護神(倶生霊神)に対して霊断を用い、
其の信者の運命を切り開くと言うものである。

小笑。何とも訝(いぶか)しい情景ではあるが、抑も、其のような霊断法など、日蓮大聖人の仏法には
存在せず、まして、荒行を終えた髭面の修法師の存在など、大聖人が御教示さる文底独一本門の大法
からして、まったく邪義邪法の態である事は、間違いないのである。

しかも、其のような邪義を構える一致派身延に、北山本門寺(興門)・京都要法寺(尊門)・小泉久遠寺
(郷門)などの富士門流が組するなどは、一体お前らは、何の資格があって、富士門大石寺に文句出来
得るか。少しは、身の程知らずという事を覚えなさい。そしてお前らは、恥というものを知りなさい。

日蓮大聖人に曰く『本迹の相違は水火・天地の違目なり』と。(新編 1236)

果たして、お主らが本尊義を語るには、まだまだ百年は早いという事である。

して、お主らが先ず学ぶべきものは、日蓮大聖人門下として、其の持する教義教説の厳守継続こそが、
法統連綿の第一であり、宗勢の維持などは、其の第二である、という信念である。

さても、其の法義厳守・違背厳戒の精神の下、幾百万の信徒を教導破門に附した我が日蓮正宗の英断
こそは、実に日興上人が、脇見せる日尊師を破門に附した、其の厳格なる大精神に即するものであり、
此の大精神こそが、我ら興門正統・富士大石寺に於ける根肝なのである。

而して、日興上人由来の北山本門寺の坊主どもは、其の大精神こそを、先ずは其の腐った肝に叩き込
むべきである! そして即刻、一致派身延の呪縛から離脱すべきである!

興統法縁? 笑わせるものでない!

曰く『日蓮御房は師匠にてはおはせども余りに強(こわ)し、我等は和(やは)らかに法華経を弘むべしと
云はんは、蛍火が日月を笑ひ、蟻塚が華山を下し、井河が河海をあなづり、烏鵲(かささぎ)が鸞鳳を
わらふなるべし、わらふなるべし』と。(新編 583)

重ねて云おう。お主らは今こそ、上記御金言の御意を其の肝に銘じなさい。
そして、其の烏合の体たらくを恥じなさい。

よろしいか。

味噌糞一緒の宗団では、其の持する教義も味噌糞一緒の教義となるのである。
 

阿部日ケ~ン(院政)へ

 投稿者:管理人  投稿日:2012年11月28日(水)18時54分7秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  おお、よく来た。

待っておったぞ。

>あのー

鼻笑。何だ。

>阿部日ケ~ンが見られない書き込めないように処置した上でなにを吼えているんですか?

はぁ? 閲覧出来得たから投稿したのであろう。何? 書き込めない処置?

書き込めているではないか。哀。

それにつけても、自分の事をして『阿部日ケ~ンが見られない書き込めない』などと言っておる。

相も変わらず、仁(ひと)をからかう性根の曲がった奴ではある。

まぁよい。小生に対して『何を吠えているんですか?』などと、生意気な事を言うものではない。

兎も角、前(さき)に詰問した内容について、須らく返答しなさい。

先ずは其れからである。
 

秋晴れ殿

 投稿者:管理人  投稿日:2012年11月28日(水)18時52分51秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  当方からの厳しい呵責文言に対して、終始一貫、其の様に温厚な御対応をされるは、まこと秋晴れ殿
の人間性でありましょう。きっと所属する組織に於いても、皆から好かれている事でありましょう。
本より、学会組織というものは、その末端に於ける横のつながりが強固であり、言い換えれば其れら
強靭な末端組織が、上層の職業幹部を支えているのであります。仍って、それら末端組織に於いて、
皆から好かれる事は、活動家は本より、組織幹部からしても、尊敬されるものであります。

ただ惜しむらくは、そういう御貴殿が、変質して外道となった現創価学会に未だ其の身を置いている、
という事であります。そうは言っても、日頃から組織の中を見渡すに、一体どこが外道であるのか、
そしてどこが変質なのか、其れこそ、周りの会員とのつながりの中で、これが外道義なのか、これが
邪義なのかなど、実感できないとも思います。そこにはいつもと変わらぬ仲間がいて、いつもと変わ
らぬ会合があって、たまには気の合う同志と、食事などもする事でしょう。本より学会組織というも
のは、そういう「隣(となり)組」的な連帯が根本なのであり、だからこそ、御山から破門されても、
その殆どの者が組織に残ったのであります。それこそは「教義の正当性」よりも、日ごろ付き合って
いる「仲間」を優先した結果なのであります。本より、その事は学会上層の大幹部たちは承知してい
る処(ところ)であり、だからこそ破門に際して、教義の正当云云よりも、恩だ、仇だ、という人情を
前面に出して、内心は喜びながら、御山から仕打ちを受けた被害者として振る舞ったのであります。
言うまでもなく、そういう演出などは、最も池田太作が得意とする所であります。

兎も角、普段の生活に密着した組織活動に於いて、外道だ、邪義だ、と言われようとも、その日常の
中で実感するなどは、むずかしい事でありましょう。だから邪宗というものは怖いのであります。

>管理人さんは、関東出身ですか?私は関西出身です。ここも関係性があると存じます。
>関東と関西では、歴史的に違います。

当方は関東人でありますが、祖父母と母親(すべて故人)は、関西以西の人間であります。

>かつての聖教新聞は目を通したことがありませんが、管理人さんの書き込みされる戸田先生の
>指導も、確かにあったと認識しておりますが、同時に宗門に対する批判的な記事もあったかと
>存じます。

勿論、そのことは承知しております。

果たして、信徒を見下し、私利に走る僧侶などは、今もって猶(なお)、我ら在家からして許される
ものでありません。まして、いつぞや、東日本大震災の直後に於いて、宮城か福島か忘れましたが、
我が宗門の僧侶が飲酒運転で事故を起こした、などという情報がありましたが、其の様な事はとん
でもない事であり、絶対に許されるものではありません。こういう不埒な僧侶などは白五条の袈裟を
身に纏う資格などはありません。本より、恩師はそういう僧侶の姿勢に対して呵責したのであり、又、
その証拠があったからこそ叱責したのであります。

しかし、その恩師の僧侶に対する呵責が、学会を破門にした宗門に当て嵌まるとは、到底思えません。
其れよりも何よりも、写真を捏造して御隠尊を貶め、その自らが偽造した写真を本にして恩師の指導
よろしく僧侶を非難するなどは、其れこそ信仰者として有るまじき行為であると、小生はここに断言
するものであります。果たして、そういう事実について、御貴殿は組織から聞いておりますか?
果たして、写真は偽造であった、などとは聞いていないでしょう。それどころか御隠尊猊下は芸者と
ドンチャン騒ぎをしていた、などと今だに聞かされているのでしょう。つまりは、そういう「やり方」
こそが創価学会なのであります。

曾(かつ)て、小生が学会員の時、彼の「創価学会を斬る」で有名な藤原弘達などは、誹謗文を書いた
ために両腕が曲がってしまった、などと云う話が、まことしやかに組織の中で広まっておりました。
そして当方は其れを信じておりました。『ウソも百回言えば本当になる』とは、応にそういう事なの
であります。果たして御貴殿も、そういう「ウソ」の被害者になっているのではありませんか?
本よりこれも、初手からの日蓮正宗信徒として現創価学会から離れたればこそ見えるのであります。

>創価大学には、図書館がございまして、古くの、といってもこの図書館が開設された頃から今まで、
>また、これからも保管されています。
>また、創価大学の図書館以外にも聖教新聞の発刊当初からのものを保管され、また閲覧できる機関
>も探せばあるやもしれません。これら、全てに目を通せば戸田先生が何を云わんとしていたのか、
>正確に見えてくるかと存じます。

ならば先ず、創価大の宮田教授に、それこそ創価大の図書館に行って、恩師戸田先生の本尊義および
信心指導を勉強するように言いなさい。

>管理人さんが固執という言葉を嫌われるのであれば、大変に失礼を致しました。
>管理人さんの歩まれた歴史というのを私は知りません。
>管理人さんが固執ではない。もっと大きな意義のものと言われているということを尊重させて頂き
>ます。

謙虚な申し様、痛み入ります。

本より、ネットでの破折叱責などは、あくまで相手が持する邪義を破すものであり、それに付随して
相手を「お前!」と叱るものでありますが。而して、その相手、又はその一人一人が歩んできた人生
をバカにして軽蔑する、などという事はあってはなりません。あくまでも「それは其れ」であります。

>現世利益という小さなものを云っているのではありません。少し誤解があるようです。
>ただ、管理人さんの考える仏法は勝負も、また偏っているようには個人的には思います。

果たして『仏法は勝負』なる意味を、財力や地位や名誉の取得を以って解釈するは、大義を矮小する
意味に於いて間違っている、という事であります。尚、当方は御貴殿の『すべては結果』と云う認識
について其れを「現世の利益」と捉えたものであります。

>軟語とはどういうことか。これは御書にも明確に書かれています。確かに、強いて呵責する事。
>慈悲のあってのものであるからこそ軟語です。ただ、一歩間違えると修羅界、勝他の念です。

応に同感であります。しかし、邪教信者、とりわけ奸智に長けた者や、からかい半分の者、そして、
慇懃無礼な者や、己(おのれ)の立場を隠匿して批判ばかりする臆病者などには、日蓮大聖人の御教示
にならって『お前!』『貴様!』『莫迦者!』と叱責する様にしております。しかし根底はあくまで
『慈折』であります。

>個人的には、この一念の差が自身の成仏の道への天下の分かれ道だと、浅はかな信心の私では、
>そう考えます。

いや、仰せの通りでありましょう。

日蓮大聖人に曰く『氷は水より出でたれども水よりも凄冷(すさ)まじ。青き事は藍より出でたれども
重ぬれば藍よりも色まさる。同じ法華経にてはをはすれども、志(こころざし)をかさぬれば他人より
も色まさり利生もあるべきなり』と。(新編 897)

>浄土宗、真言宗、佼成会というのは行き過ぎです。
>日蓮曼荼羅本尊に限定されます。

而して、現創価学会が配布している所謂(いわゆる)『日寛上人の本尊』は、元信者であった学会員達
が作った本尊であり、其れこそは、旧来から寺の住職と仲の良い、強信な八百屋のおやじが、その寺
に安置してある本尊を拝借して、知り合いの印刷会社の社長に頼んで十体ほど印刷し、自分も含めた
親類縁者にその本尊を配り歩くと同じ事なのであります。さても其れこそは、浄土宗や真言宗や立正
佼成会の本尊を拝む事よりも、はるかに罪の重い所業であります。つまりは似ても似つかぬ手書きの
紙幣など使うよりも、実際の紙幣を巧妙に印刷して使用する方が、その罪は重いという事であります。

尚、昨今の学会員などは、真筆の本尊であれば、それが身延の寺に安置されていようとも、それを拝
むと言っております。つまり、身延日向が持つ本尊を、日興門流の信徒が其れを拝む、という事で
あります。果たして其れらの行為は謗法となるのか。其の様なことは、恩師の指導を心肝に染めて
おれば、容易に判断できるというものであります。しかし、現在の創価学会員はそれが理解できない。
だから小生は現在の創価をして邪義外道と呵責しているのであります。

したがって、

>ただ、言えることは、どのような人であろうが、創価という大きな船に乗っている以上は、
>その時は分からなくとも結果、宿命転換の軌道にあります。ただその殆どが、私も含め素直では
>ないのか回り道です。

という御貴殿の申し様は、興門正統からして全く以って的の外れたものであり、そもそも邪宗という
魔船に搭乗している事自体が回り道であり、其れこそ宿命の転換などは思いもよらず、ただ悪道へ堕
するのみとなるのであります。与同罪とは真(まこと)に恐ろしいのであります。

>信州の老人も、創価にいる限りは大丈夫です。無茶苦茶ですが、必ず大丈夫です。
>実は守られてます。そのような人も沢山見てきました。
>信州に老人も同志です。これが、創価人の本来の心根です。
>最近のネットの創価の方々もです。

なんと心優しい御仁であるのか。信州老人や阿部日ケ~ン(院政)などとは大違いであります。
因みに『創価人』という言い方はあまり聞いた事がありませんが、現在では其の様な表現をする
のでしょうか。当方などは『学会人』と言っておりました。

>さすがに創価幹部をしていた方ならこれくらいの境涯の幅の広さは持ち合わされている。からこそ、
>今、富士門流に在籍されていても、そこは創価時代の薫陶で持ち合わされているかと分かっていま
>す。だからこそ、どのような富士門流の同志に対する姿勢も違う。だからこそ、宗派は違えど信頼
>しています。

本より、仏法正義に於いて邪義を呵責するは、これ富士門流の正統たる証しであり、学会精神も実は
そこに在るのであります。言っておきますが、立正佼成会の庭野日敬の葬式に出席する学会幹部など、
恩師からすれば獅子身中の蟲であります。少しは恥を知りなさい、と言ってあげなさい。

尚、当室管理人として御信頼を戴く事は、まこと光栄な事でありますが、今後とも『破邪の蘭室』の
名のとおり、邪義破折・正義顕揚の意気を益々持って、厳しく対峙して参りたいと思っております。
 

Re: 阿部日ケ~ン(院政)へ 【再告】

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2012年11月28日(水)12時08分56秒 125-15-220-229.rev.home.ne.jp
返信・引用
  > No.44488[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

> 其れも併せて答えよ。
>
> 其れにしても「こそこそ」などと。…呆笑。お主の目ん玉は節穴か?
>
> 兎に角どーでもよいから、迅(はや)くこっちに来なさい。
>
> 何をとぼけておるのだぁ。呆。しらを切っている場合ではないだろう。
>
> 言っておくが、お主などは創価学会員としての資格などはない。
>
> この小生が、その理由を教えてやるから、迅くこっちに来なさい。


あのー 阿部日ケ~ンが見られない書き込めないように処置した上でなにを吼えているんですか?
 

Re: 秋晴れ殿

 投稿者:秋晴れ  投稿日:2012年11月28日(水)01時10分33秒 EM114-48-51-233.pool.e-mobile.ne.jp
返信・引用
  > No.44486[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

理解が出来ました。未だかつて創価に固執される訳が。
管理人さんは、戸田門下生。全てはここに集約されています。私は池田門下生です。
管理人さんは、関東出身ですか?私は関西出身です。ここも関係性があると存じます。
関東と関西では、歴史的に違います。

かつての聖教新聞は目を通したことがありませんが、管理人さんの書き込みされる戸田先生の指導も、確かにあったと認識しておりますが、同時に宗門に対する批判的な記事もあったかと存じます。
創価大学には、図書館がございまして、古くの、といってもこの図書館が開設された頃から今まで、また、これからも保管されています。
また、創価大学の図書館以外にも聖教新聞の発刊当初からのものを保管され、また閲覧できる機関も探せばあるやもしれません。
これら、全てに目を通せば戸田先生が何を云わんとしていたのか、正確に見えてくるかと存じます。
ここで、断言的に「こうだ」というのも早計なような気がするので、私は、ここでは破折しません。

管理人さんが固執という言葉を嫌われるのであれば、大変に失礼を致しました。
管理人さんの歩まれた歴史というのを私は知りません。
管理人さんが固執ではない。もっと大きな意義のものと言われているということを尊重させて頂きます。


> >人其々に慈悲の表現は違うことは理解しています。
> >しかし、相手に伝わらなければ結果、無意味です。
> >仏法は勝負であり、全ては結果ではないのでしょうか。
>
> 時に於いては、例え相手が拒絶しようとも、強いて呵責する事も必要でありましょう。
> 而して、当室のような破折掲示板に於いては、特に其れらの呵責などが有効となるのであります。
> 本より仏法は勝負でありますが、その得られた勝敗の価値は、我ら凡下の眼をして完知できるので
> しょうか。果たして、鏡忍房日暁と工藤吉隆は東条景信に殺され、熱原の純粋なる信者たちは、
> 平頼綱によって斬首されたのであります。果たして真なる『結果』とはどういう意味でありましょう。
> もしや御貴殿が云う処の「仏法の勝負(全ては結果)」が、財力や健康や地位や名誉という可見の世界
> のみをして判断するものであるならば、それこそ鏡忍房も工藤吉隆も神四郎も皆、非業堕獄の徒輩と
> なってしまうでありましょう。『仏法は勝負』などと軽く云うものではありません。

いえ、現世利益という小さなものを云っているのではありません。少し誤解があるようです。
ただ、管理人さんの考える仏法は勝負も、また偏っているようには個人的には思います。
軟語とはどういうことか。これは御書にも明確に書かれています。確かに、強いて呵責する事。慈悲のあってのものであるからこそ軟語です。
ただ、一歩間違えると修羅界、勝他の念です。
個人的には、この一念の差が自身の成仏の道への天下の分かれ道だと、浅はかな信心の私では、そう考えます。



>
> >悪くいえば、我を押し通しておられるようにも見受けられます。
> >これは極論ですが、創価がどうであれ、富士門流がどうであれ、信心がしっかりしていれば
> >宿命転換は出来ます。結果、必ず出来ると実感します。
>
> 我を通しているのではありません。仏法の正義を以って邪義を呵責しているのであります。
> その精神は、創価に限らず、一致派の身延も含めた邪宗日蓮宗に対しても同じであります。
>
> 尚、御貴殿が云う処の『創価がどうであれ、富士門流がどうであれ、信心がしっかりしていれば宿命
> 転換は出来ます』との主張は間違っております。其れこそは浄土宗であれ、真言宗であれ、佼成会で
> あれ、各々の信心がしっかりしていれば大丈夫、という理論になってしまいます。果たして其れらの
> 邪論は、彼の信州老人が言っていたものであります。此に重ねて言いましょう。創価学会の本尊など
> は、すべてが糸の切れた凧本尊であります。仍って宿命転換などは出来得ません。尚、これらの破折
> は己(おのれ)の『我』を通して言っているのではありません。正義を本にして破折しているのであり
> ます。どうか御貴殿には誤解の無きよう。
>

了解致しました。
もう少し、ここは整理する必要性があるようです。
私も、現実の中で様々な人と対話させて頂いております。
その中で、率直に言うと、現時点ではそのように感じております。
ただ、浄土宗、真言宗、佼成会というのは行き過ぎです。
日蓮曼荼羅本尊に限定されます。
現場では魔が競います。まだまだ、本質を見抜いていく訓練は続きます。
ただ、目先ではなく10年、20年経過信心していかずしては、凡夫の目にはまったく分からないことは多々あります。
ただ、言えることは、どのような人であろうが、創価という大きな船に乗っている以上は、その時は分からなくとも結果、宿命転換の軌道にあります。ただその殆どが、私も含め素直ではないのか回り道です。
信州の老人も、創価にいる限りは大丈夫です。無茶苦茶ですが、必ず大丈夫です。実は守られてます。そのような人も沢山見てきました。
信州に老人も同志です。これが、創価人の本来の心根です。
最近のネットの創価の方々もです。

おそらく、こういった精神は管理人さんは持ち合わせているかと存じます。さすがに創価幹部をしていた方ならこれくらいの境涯の幅の広さは持ち合わされている。からこそ、今、富士門流に在籍されていても、そこは創価時代の薫陶で持ち合わされているかと分かっています。だからこそ、どのような富士門流の同志に対する姿勢も違う。だからこそ、宗派は違えど信頼しています。



 

阿部日ケ~ン(院政)へ 【再告】

 投稿者:管理人  投稿日:2012年11月27日(火)20時25分12秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  >すでに阿部日顕が正本堂を破壊し大御本尊を創価学会が護る意義は反故になってしまっています。

>全国の法華講員にも知られされないまま、法要もせず日蓮正宗の根幹である板曼荼羅をこそこそ
>正本堂から持ち出し破壊。

はて「大御本尊を創価学会が護る意義」とは、如何なる意義なのか。加えて其の『意義』とは、
安置される場所によって変化するものなのか。お前は其れに答えよ。

加えて『日蓮正宗の根幹である板曼荼羅』とは、お前らが云う処の「大御本尊」とは別のモノで
あるのか。して、別のモノであるならば、お前が云う処の「大御本尊」は何処(どこ)にあるのだ。

其れも併せて答えよ。

其れにしても「こそこそ」などと。…呆笑。お主の目ん玉は節穴か?

兎に角どーでもよいから、迅(はや)くこっちに来なさい。

何をとぼけておるのだぁ。呆。しらを切っている場合ではないだろう。

言っておくが、お主などは創価学会員としての資格などはない。

この小生が、その理由を教えてやるから、迅くこっちに来なさい。

加えて、便所の落書き(怪文書フェイク)をベタ貼りするヒマがあったら、先ずは小生からの詰問に
対して、速やかに答えなさい。よろしいか。

言っておくが、無視を決め込んで取り合おうとしない今のお主の姿は、社長からの大叱責に怯えて、
社長室のドアノブの前で狼狽(うろた)える、出来の悪い小心平社員の其れと同じである!!

よいか! これが最後の呼び出しである。

来ずんば遁走と見なす。
 

同じ穴の狢(むじな)を破す【再掲】

 投稿者:管理人  投稿日:2012年11月27日(火)03時32分18秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  邪宗日蓮宗(本成寺派)の坊主に云く、

*********************************************************************************

日蓮系の既成宗教と新興宗教の中に、「日蓮本仏論」を主張する教団が複数ある。しかし、
それらの教団が主張する「日蓮本仏論」は間違っている。その理由は「偽書」を論拠として
いるからである。その代表的な偽書とおぼしきものに、「産湯相承事」「百六箇抄」がある。
これらはすべて偽書である。

①「産湯相承事」は、口伝書といわれる。日蓮聖人が入滅に際し、日興にだけに言い残した
 秘伝であるという。その内容は「日蓮は天上天下の一切衆生の主君なり父母なり師匠なり」
 「日蓮は無量劫の能報者(能化)なり」、というものである。しかし、日蓮入滅の時には
 日昭、日朗、日興などを始め、多くの門弟などが池上に駆けつけて来ている。その中で、
 上記の内容を日興一人に言い残した、ということはあり得ない。また、「聖人の言わく、
 此の相承は日蓮摘摘一人の口決唯授一人の秘伝なり、神妙神妙と言い給いて留め畢んぬ」と
 書いてある。すなわち、日興にだけ言い残すものである、という意味である。
 また「日興之を記す」とも書いてある。

これは明らかな偽書である。内容も信じることはできないものである。日蓮聖人は、ブッダを
ないがしろにするようないことを書いた「御書」は一つもない。聖人は、それほど傲慢な人で
はない。

さらに、「日蓮は無量劫の能報者(能化)なり」ということを聖人はいうはずがない。
「観心本尊鈔」に「仏すでに過去にも滅せず未来にも生ぜず、所化もって同体なり」といっている。
すなわち、能化たるブッダも教化されるわれわれ所化の生命も同じである、という意味である。
能化はブッダ一人で、それ以外の人々は聖人自身を含めてすべて所化だと思っていたのである。
「自分は能化だ」というような不遜なことを聖人が言うはずがない。

また、臨終前後のことは、「御遷化記録」として残っている。その内容は「宗祖の御一代記」
「本弟子六人の定」、「御葬送次第」、「御遺言」、「輪番帳」、「御遺物配分」などであるが、
聖人滅後の翌年(弘長六年正月)に六老僧がそれぞれの内容を確認した上で花押(署名捺印)を
裏判している。その「御遺言」の中に、上記のようなことは書かれていない。第一、そんな遺言
などあるはずがない。

以上の理由で、「産湯相承事」は日興の名をかりて後代の誰かが作った偽書と言わざるを得ない。
この「産湯相承事」は、「史伝書」として現在にいたるまで伝えられているが、「死人に口なし」
といわれるように、日興滅後に作られた偽書である。

②「百六箇抄」は、「法華本門宗血脈相承」といわれる。「本因妙の教主本門の大師日蓮 謹んで
  之を結要す万年救護写瓶の弟子日興に之を授与す云々」とある。

しかし、日蓮聖人は「法華本門」という言葉を使ったことはあるが「法華本門宗」といったことは
一度もない。

また、日蓮聖人が「大師」という場合、「天台大師」か「釈尊」ことを意味している。あるいは
朝廷から賜る「大師号」のことである。聖人が「現身に大師号もあるべきか」言ったたことがあるが、
自分のことを「大師」と言ったことは一度もない。

さらに内容であるが、第13に「天上天下唯我独尊は日蓮これなり」と書かれている。
これは笑止千万な話しである。聖人はそんなに傲慢な人ではない。そんな言葉は他の御遺文のどこ
にも出てこない。

さらには、この「百六箇抄」(法華本門宗血脈相承)は、「相伝」の中の「法門相承」の
一つとして扱われている。「御書」として扱われていない。さすがに気が引けるのであろう。
これらの理由から「百六箇抄」も偽書であると断定せざるを得ない。日蓮本仏論を言い出し
たのは日寛上人で、その前後にこれらの偽書は故意に作られたのであろう。

以上のような偽書をもって「日蓮本仏論」を展開しても、正当な論理とはなりえない。
「日蓮本仏論」は完全に間違っている。

*********************************************************************************

小笑。

其れにしても、上記の物言いなどは、創価学会員の金原某等の文句と同じであって、一瞬、目を通し
たならば、似非学会員が論じているのではないか、と読み間違えるほどである。

先ずはこの坊主、百六箇抄をして「法華本門宗血脈相承」などと言っておるが「法華本門宗血脈相承
(事)」は本因妙抄の事を言うのであり、百六箇抄は「具謄本種正法実義本迹勝劣正伝」である。
坊主よ、彼の松岡禿人と同様、初手から間違ってどうするのか。知ってか、知らずか、何とも恥ずか
しい事ではある。

さて、この坊主は『産湯相承事』をして偽書と断言しておるが、日蓮正宗第五十九世・日亨上人は、
当該相承書については巻末の日付・御名判の部分にのみ、後人の偽托として二線を引かれているだけ
で、本抄全文に対しては一線すら引かれていない。

加えて、当抄が載る富士宗学要集第一巻相伝信条部の緒言を見るに、当産湯相承書には、本因妙抄と
同じく「日蓮大聖人ヨリ日興上人ヘ伝」と日亨上人が記されているとなれば、文献莫迦が何処ぞの
文献を拾って来ては、偽書だ、偽作だ、と騒ぎ立てるまでもなく、当方に於いては、この富要第一巻
相伝信条部の緒言を以って、粛々と真偽確定の文献の拠と為すものである。

『正史料を顧みずに、みだりに臆説を加えて為にする筆を弄するもの、いまに絶えぬは、憂うべきこ
とである』とは、実に日亨上人の御断言であるが、其の御本人が産湯相承書をして「日蓮大聖人ヨリ
日興上人へ伝」と記(しる)されているのであるから、我ら富士門信徒として今更嫌疑に及ばずである。

しかし、いつも思う事だが、上記の様な文献莫迦の連中が口を尖らせて言うセリフに『この表現は、
今まで使われた事がない』『大聖人がそのような事を言われる訳がない』というのがある。哀笑。

莫迦よ。

其れが真の理屈ならば、大聖人が初めて用いられた表現こそも、其の時点に於いて『今まで使われた
事がない表現』となるではないか。果たして、お前等の屁理屈からすれば、其れら初出の文言は全て
偽作誑惑の言という事になるではないか。

大聖人曰く『今末法に入りぬ。人毎に重病有り。阿弥陀・大日・釈迦等の軽薬にては治し難し』と。
                                   (妙密上人御消息)

何と、釈迦は軽薬にて治し難し、と仰せになる。

はて、初出の文言は全て誑言という其の屁理屈は正しいのか。
いや、後の後になって、其の大事を初めて明かす事も在るのである。

まして、末法の御本仏、日蓮大聖人をして、其の御最後の砌に於いて、甚深の諸法門を示される事、
此れ無きにしに匪(あら)ずや。

果たしてお前等は、其の可能性さえも否定するか!
果たしてお前等は、其の可能性を完璧に覆せるか!

どーか! 出来まいて! どのように息巻こうが、その全てが単なる考察であろうが!

ったく、初めて聞いたから其れは嘘だ!?

哀笑。莫迦者!!!

お前等の様な、そういう幼稚な頭で相伝書を疑うから、日蓮正宗に於ける超八独一の法門を理解出来
ないのである!

加えて、現創価の面従腹背の違背者どもに言おう!

よいか!

今更、二箇相承が偽作だの、本因妙抄が偽書だの、百六箇抄が日尊に与えられた血脈抄だの、日興跡
条々事が後世の創作だのと、今になってお前ら創価学会員が、其れこそ学会本部の公式教学にさえも
違背して、其れら富士大石寺の相伝法義に難癖をつける事自体、破門されし者の後付の屁理屈理論な
のであって、元を正せば、其れら相伝書の内容については恩師・戸田先生の教学指導の下、我らが旧
創価学会青年部は、其の示された相伝書の内容をして、正統・富士門流の奥義と確信したのである。

仍って、其の培われた学会教学は、時の猊下による処断が如何様になろうとも、其の伝持された教学
の奥底は些かも変わるものではないのである。第一、其れら将来に於る体制組織の変動によって、
白が黒になってしまう様な相伝教学を、恩師自らが命を張って御講義される訳がないのである。

恩師云く『相伝なき流々・学者等の編纂した書は観心本尊抄を始めその他種種の重要なる御抄に於て
大聖人の御真意に叛く読み方をなし、或は誤をその儘伝え又は偽書を真書となし、真書を偽書と歪曲
する等読者を迷わすこと甚しく、到底之を信頼する事が出来ない上、最も重要なる血脈抄・本因妙抄
等日蓮正宗門外不出の御抄は已に上梓を見た如何なる御書全集にも掲載されず、宗祖の御真意を拝せ
んとひたすら念願する者として久しく遺憾の念を抱かしめていたのである』と。

よいか! 相伝書というものは、写本・加文を問わず、そこに示された内容が、如何に宗祖の御真意
に適っているかが重要なのであり、単に写本・後加文をもって偽書と判ずるは応に無知の盲断と言う
べきものである!

現創価の者どもよ。

今更、弁哲の太刀持ちをするでない!

ったく、一致派身延、加えて本成寺派の誹謗疑難に同ずるとは、お前等こそは邪宗日蓮宗の其れと
同じ狢という事ではないか!

少しは恥を知りなさい!
 

秋晴れ殿

 投稿者:管理人  投稿日:2012年11月26日(月)21時24分51秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  >こんばんわ。
>管理人さんは、どうして、ここまで創価に固執するのですか?
>まったく理解が出来ません。

戸田門下生として、そして元牙城会一期生として、そして又、元創価班二期生として、恩師の御遺訓
を反故にした首魁・池田太作の大凶を破すは、これ恩師の大信心を仰ぐ者としての責務であり、その
大凶に未だ組する現創価学会員への予同罪について呵責するは、旧創価学会青年部員として、当然の
正義であります。したがって『固執』などと云う小さなものではありません。

>人其々に慈悲の表現は違うことは理解しています。
>しかし、相手に伝わらなければ結果、無意味です。
>仏法は勝負であり、全ては結果ではないのでしょうか。

時に於いては、例え相手が拒絶しようとも、強いて呵責する事も必要でありましょう。
而して、当室のような破折掲示板に於いては、特に其れらの呵責などが有効となるのであります。
本より仏法は勝負でありますが、その得られた勝敗の価値は、我ら凡下の眼をして完知できるので
しょうか。果たして、鏡忍房日暁と工藤吉隆は東条景信に殺され、熱原の純粋なる信者たちは、
平頼綱によって斬首されたのであります。果たして真なる『結果』とはどういう意味でありましょう。
もしや御貴殿が云う処の「仏法の勝負(全ては結果)」が、財力や健康や地位や名誉という可見の世界
のみをして判断するものであるならば、それこそ鏡忍房も工藤吉隆も神四郎も皆、非業堕獄の徒輩と
なってしまうでありましょう。『仏法は勝負』などと軽く云うものではありません。

>悪くいえば、我を押し通しておられるようにも見受けられます。
>これは極論ですが、創価がどうであれ、富士門流がどうであれ、信心がしっかりしていれば
>宿命転換は出来ます。結果、必ず出来ると実感します。

我を通しているのではありません。仏法の正義を以って邪義を呵責しているのであります。
その精神は、創価に限らず、一致派の身延も含めた邪宗日蓮宗に対しても同じであります。

尚、御貴殿が云う処の『創価がどうであれ、富士門流がどうであれ、信心がしっかりしていれば宿命
転換は出来ます』との主張は間違っております。其れこそは浄土宗であれ、真言宗であれ、佼成会で
あれ、各々の信心がしっかりしていれば大丈夫、という理論になってしまいます。果たして其れらの
邪論は、彼の信州老人が言っていたものであります。此に重ねて言いましょう。創価学会の本尊など
は、すべてが糸の切れた凧本尊であります。仍って宿命転換などは出来得ません。尚、これらの破折
は己(おのれ)の『我』を通して言っているのではありません。正義を本にして破折しているのであり
ます。どうか御貴殿には誤解の無きよう。

>宿命転換をかけて闘っている方々は、その信心の先輩に巡り会いたいのです。
>理屈で勝負しているうちは、本当の宿命転換、罪障消滅の信心には、ついには巡り会えないのでは
>ないでしょうか。菩薩行は深い。宜しくお願いします。

其の御主張については同感であります。
本より、信行学こそ大事であり、その求道心こそが第一であります。

秋晴れ殿には、今後も何か申されたい事があれば、大いに御投稿願いたいものであります。
 

Re: 浅薄の義を笑う

 投稿者:秋晴れ  投稿日:2012年11月26日(月)00時56分40秒 EM111-191-93-13.pool.e-mobile.ne.jp
返信・引用
  > No.44483[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

こんばんわ。
管理人さんは、どうして、ここまで創価に固執するのですか?
まったく理解が出来ません。

人其々に慈悲の表現は違うことは理解しています。
しかし、相手に伝わらなければ結果、無意味です。
仏法は勝負であり、全ては結果ではないのでしょうか。

追伸、管理人さんの性格は少しは理解しております。
管理人さんらしいお書き込みです。

しかし、悪くいえば、我を押し通しておられるようにも見受けられます。
これは極論ですが、創価がどうであれ、富士門流がどうであれ、信心がしっかりしていれば宿命転換は出来ます。結果、必ず出来ると実感します。

宿命転換をかけて闘っている方々は、その信心の先輩に巡り会いたいのです。
理屈で勝負しているうちは、本当の宿命転換、罪障消滅の信心には、ついには巡り会えないのではないでしょうか。

菩薩行は深い。宜しくお願いします。



 

阿部日ケ~ン(院政)へ

 投稿者:管理人  投稿日:2012年11月23日(金)13時43分46秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  >すでに阿部日顕が正本堂を破壊し大御本尊を創価学会が護る意義は反故になってしまっています。

>全国の法華講員にも知られされないまま、法要もせず日蓮正宗の根幹である板曼荼羅をこそこそ
>正本堂から持ち出し破壊。

小笑。

はて「大御本尊を創価学会が護る意義」とは、如何なる意義なのか。加えて其の『意義』とは、
安置される場所によって変化するものなのか。お前は其れに答えよ。

加えて『日蓮正宗の根幹である板曼荼羅』とは、お前らが云う処の「大御本尊」とは別のモノで
あるのか。して、別のモノであるならば、お前が云う処の「大御本尊」は何処(どこ)にあるのだ。

其れも併せて答えよ。

其れにしても「こそこそ」などと。…呆笑。お主の目ん玉は節穴か?

兎に角どーでもよいから、迅(はや)くこっちに来なさい!

よいか! しらを切っている場合ではないぞ!!
 

浅薄の義を笑う

 投稿者:管理人  投稿日:2012年11月22日(木)17時03分53秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  昨今つくづく思うに、我ら正統・富士門流の信徒が、お主らの創作教義を破折するに、
どの様な文証を出されても邪魔になる御文などは無いのである。しかし、お前ら学会員が
富士大石寺の法義を破すには、いろいろと邪魔になる文証が立ちはだかるのである。

仍ってお主ら学会員は、其の立ちはだかる文証・傍証をして、有るや無いやと騒ぎたて、
其の取り外しに汗を流すのである。

諸君。何とも浅ましい限りではないか。哀笑。

まさに小生からして、お主らの其の懸命なる痴態には、まこと同情さえ覚えるのである。

小笑。

七百余年と五十余年。しかも其の五十余年の内、約四十年間、創価学会は、我が富士門流の
教義に依存していたのである。

何て事は無い。其れを今に思えば、現創価学会による創作教義の歴史などは、たかが二十年に
過ぎないのである。

しかも最近、そんな創作教義を標榜する創価教学の意向にも逆らって、何と、学会員一人一人が、
それぞれ自由な発想教義を持ち合せて、我ら富士の立義に盾突いて来るのである。小笑。

何とも早、一体誰が真面(まとも)な学会員で、一体誰が擬似会員なのか。そして誰が平成三年以降に
入会した小会員なのか。哀笑。

管理人たる小生も、今となっては、即座に見分けが付かぬ程であるが、腐っても宗教団体に所属する
信徒であるならば、少しは同じ教学を持して、我らの正義に挑んで貰いたいものである。

大聖人曰く『外道は仏経をよめども外道と同じ。蝙蝠(こうもり)が昼を夜と見るが如し』と。

又曰く『鳥にもあらず、ねずみにもあらず、梟鳥禽・破鏡獣のごとし』と。

果たして、こんな鵺(ぬえ)が如き浅薄な徒輩らが、我ら富士門の教学に盾突くなどは論外として、
抑も幼稚な此奴(こやつ)らに、邪宗教義などを破折できるものなのか。小笑。

創価学会員、歓喜して云く、

『歓喜は我らにくちづけと葡萄酒と死の試練を経た友を与えた。快楽は虫けらに与えられ、そして
智天使ケルビムは神の御前に立つ』と。

哀笑。

本より、こんな外道かぶれの者共に、たとえ幼稚なる邪宗教義と雖(いえど)も、其れに対する破折
など、出来よう筈もない。

其れよりも何よりも、身延の本尊であろうが、什門の本尊であろうが、曼荼羅とあれば、何でも
拝もうとする、其の節操のなさよ。哀笑。

ったく、そんな腐った教団に、最早、邪宗教を破折する余力など残っている訳がない。

果たして、これらの者に残っているのは、嘗(かつ)ての破門劇に喜びながら怒った、応に蝙蝠鳥
(こうもり)が如き心情と、其の滅裂な心情を土台にした、浅薄な悪口しかないのである。

何と悲しい事であろうか。何と情けない事であろうか。

果たして是れが、恩師戸田先生が命よりも大事とした、創価学会の成れの果てであるのか!

古人云く『十室の邑には、必ず忠信の人有り』と!

今や恩師の御遺訓に忠する者など、外道礼賛の池田教に居る筈もなく、其れら十室の忠信の友は、
すべて池田を見限って、創価学会から離れたのである。

見るに残るは、へばり付いた滓(カス)ばかり、とは、小生のみが思う事でもあるまいて。

ったく、何とも情けない限りである。

池田太作に云く!

『もしも日蓮大聖人とイエスが話し合ったならば、決して口論などにはならず、民衆に尽くす生き方
に対して、尊敬の念を抱いたのではないかと拝察する』と。

お前らは、先ず、この池田太作の狂言こそを何とか致せ!

よいか! 仏法を語るなどは、其れからの事である!!
 

追伸

 投稿者:黒川和雄  投稿日:2012年11月21日(水)00時03分7秒 p5198-ipbfp1901osakakita.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  it turns out that the guy who I am replying to is a kempon hokke priest lol


相手は顕本法華宗の坊主ということです。アハハ
 

Re: 顕本法華宗(妙満寺)の出鱈目(デタラメ)を破す

 投稿者:黒川和雄  投稿日:2012年11月21日(水)00時00分12秒 p5198-ipbfp1901osakakita.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  管理人さんへのお返事です。

これは大変参考になりました。
今イギリス人の法華講員がイギリス在住の顕本野郎と法論をしております。相手は恐らく日本人と思われます。

大月天氏の破折をそのままコピーして送付するように伝えたところです。

感謝、感謝!
 

下郎の戯言を破す!

 投稿者:管理人  投稿日:2012年11月20日(火)13時49分59秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  応に其の性根にして下郎たる、怪文書引用の痴人に申そう。

お前は、以下の事に答えなさい。

>「お会式」を行う。日顕と日如、この二人の贅沢な普請道楽

正統・富士門流の御会式の奉修を指して、両猊下の普請道楽とする、その確たる証拠を提示しなさい。
加えて、両猊下の道楽とするならば、御先師・日達上人、及び日淳上人等が奉修された御会式などは、
お前からして普請道楽ではなかったのか。其の差異と、其の差異たる証明を此(ここ)に明示しなさい。

>お会式は本来、法華講員から供養を集めるのが目的の一つ

御会式の本来が、講員信徒から供養を集めるのが目的の一とする、其の本来たる確証を提示しなさい。
加えて、其の一つの目的以外の目的が如何なるものか『目的の一つ』と述べた以上、其の他の目的を
此に提示しなさい。

>そのため、各末寺の坊主や講中幹部らは、お会式に学会員を騙して誘い出し、
>法華講に入講させようと虎視眈々と狙っているのだ。

『騙して誘い出す』とは如何なる事か。その詳細な事実を提示しなさい。
加えて『虎視眈々』とは如何なる事を以っての表現か。其の確たる事例を此(ここ)に提示しなさい。

>そして、御影堂(今は仮御影堂)での説法の際、法主が「助番僧」の執拗な要請に応じて、高い台
>の上に登って説法するのも無意味な演出に思われる。

して『無意味な演出』とは、誰から見て無意味なのか。お前は其れを答えなさい。
果たして、其れがお前本人であるならば、其れこそはどうでもよい事である。
一人で愚痴るものではない。呆。

尚、お前は、其の腐った脳髄を以って、当宗御会式の儀式儀礼を侮蔑しておるが、抑も、御歴代上人
の御高座(腐ったお前の言い方からして「高い台の上に登る事」)に於ては、そこにラーメン屋の親父
が坐ったり、八百屋の息子が坐ったりしてはならないのである。勿論、お前も同じである。つまり、
「してはならない」とは、其の儀式そのものが成り立たない、という事をして云うのである。つまり
其れこそは、結婚式の司会者を新郎が行ない、新婦への指輪交換を新郎の父親が行なってはならない、
という事である。云うまでも無く、これも、しっかりとした儀式儀礼の一端なのである。

さてもお前は、其の様に儀式儀礼を莫迦にしておるが、物事には、仕来りというものがあるのであり、
その仕来りを継承し、時代に即して其れを荘厳し、以ってより一層の遵守を誓いたるは、我ら信仰人
ならずとも、我ら日本民族として、至極当然たる伝統文化の意識なのである。

其れに引き替え、お前の様な者などは、それら文化秩序や儀礼規則に舌打ちして、其れこそ大相撲の
力士などは、タキシードを着て相撲を取っても構わない、などと素っ頓狂な事を平気で云う人種なの
である。そうであろう。鼻笑。

さても一体、お主は「何人(なにじん)」であるのか! 少しは日本人として襟を正しなさい!

>このお会式の様式は、本紙でもこれまで再三、指摘した通り、江戸時代の寛永九年(一六三二年)
>に造像読誦論者の謗法坊主・日精が大石寺の法主になって京都・要法寺流の邪義を持ち込んだこと
>に始まる。

果たして、御会式とは、元々遠忌法要からくるものであるから、それらの法要は日精上人以前より行
われていた事は当然である。尚、日蓮正宗第五世・日時上人に於いては、日蓮大聖人第百遠忌法要を
弘和元年(1381年)八月に奉修されている。して、其れらの法要儀式に於いて、時代の経緯と共に荘厳
されるは、何度も云うが至極当然の事であり、其れが日精上人の御代になって形成されたとしても、
別段、何の不思議も無いのである。又、其れらの儀式儀礼が時代の経緯によって荘厳されるなどは、
別に当宗に限った事でもない。

尚、当山御会式の様式が、京都要法寺から持ち込まれた邪義である、という断言について、其の様式
が邪義たる証明を此(ここ)に明記しなさい。加えて当山の様式が、何れの宗義から比して邪義である
のか、其の本元の宗義を此(ここ)に示しなさい。

重ねて『本紙』とは一体何ぞ。編集人は誰か。本紙発行ともなれば、其の発行元があるであろう。

お前は其れを申せ!!

>このようなお会式を宗門では春の「虫払い」と共に主要な二大行事と宣伝しているが、形骸化した
>死せる仏教を象徴する儀式にすぎない。
>こんな仏法上、無意味な儀式に参列しても歓喜も感動もなく、勿論、功徳など何もない。

鼻笑。其れはお前の主観であろう。其れにしても「御虫払会」「御会式」の二大法要をして、無意味
な儀式とはのぉ…。呆笑。何とも浅薄な思考ではある。

>毎年十一月に「御大会」と称して大石寺で行う行事は京都・要法寺の猿真似なのである。

其の「猿真似」の証拠を提示しなさい。

>また、再三紹介してきたが、お会式の様式だけではなく、「日蓮正宗」という名称にしても、京都・
>要法寺の邪僧が考えた「案」を盗用しているのである。

云うまでも無く、日蓮正宗の公称は、明治四十五年(大正元年)、単立「日蓮宗富士派」からの改称で
あり、京都要法寺は「日蓮宗興門派」から戦中の身延合同を経て、戦後の昭和二十五年「日蓮本宗」
へと改称したものである。

して、其の京都要法寺が「日蓮本宗」と改称する三十八年前に、我らは日蓮正宗と名乗ったが、其の
日蓮正宗の改称より三十八年も遅れて改称した「日蓮本宗の僧侶」が、其の三十八年も前に、しかも
同じ京都要法寺が所属する興門派から離脱して十二年も経っている「日蓮宗富士派」に「正宗」の名
を考案して、其の名を富士派に冠させた、という事実について、其の事を此にしっかりと順次を踏ん
で証明して貰おうではないか。果たして、其の京都要法寺の僧とは誰の事ぞ! お前は其れを申せ!

●日蓮正宗は明治四十五年(大正元年)
●日蓮本宗は昭和二十五年

果たして是れは、何を意味するのか。お前の其の軽い少脳で、しっかりと考えてみなさい。鼻笑。

しかし、いつも思う事だが、ことの事実をしっかりと見聞せず、一部の事柄を以って、全てを断定し、
又は其れを歪曲して侮筆する其の腐った性根と魂胆を見るにつけ、応に出所不明の怪文書たる、其の
無軌道と無責任に対して、小生は心底から憤りを感じるものである。まして、其の事を何も感ずる事
なく、まるでロボットの様に、矢鱈、あちこちに貼り付ける、其の無能な会員どもを、小生は心より
憐れむものである。

果たして、創価学会も地に堕ちたものではある。哀。其の様な低劣な文書を以ってしか、己の正当を
主張出来ぬとはのぉ…。まったく何とも情けない話ではある。哀笑。

さて! 下郎よ。

上記の詰問に対して、須らく返答すべし! よろしいか!!
 

顕本法華宗(妙満寺)の出鱈目(デタラメ)を破す

 投稿者:管理人  投稿日:2012年11月20日(火)13時45分6秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  妙満寺に云く、

『信仰する上でご本尊を決して誤ってはならない』
『拝むのは日蓮上人像でもなく、御位牌でもない』
『本宗信徒が拝むべきはお曼荼羅のご本尊である』
『他宗のお札なども仏壇の中に祀ってはいけない』

加えて、

『曼荼羅の中の神、菩薩を取り上げて礼拝の対称にするのは誤りだ』

などと言う。

鼻笑。

果たして、その様にたくましく豪語する本迹勝劣の真似事宗団が、己(おのれ)の教線を拡大するに、
何故、一致派身延の門下連合に組し、各イベントに於いて、其の協力協賛を得ながら、布教活動する
のであるか。

言っておくが、一致派身延などは、お前ら顕本が嫌う、曼荼羅中の一神一菩薩などを一々取り出して
拝んでおるぞ。

さてもお前らが云う処(ところ)の「鬼子母神や大黒天の神像・掛け軸を拝んではいけない」との教義
からして、明らかに矛盾しておるでないか!

だから小生は言っておる。

お前ら顕本法華宗などは、抑も本尊義に於いて出鱈目(デタラメ)であると!

本より、其の様な事は、本多日生の本尊義に於ける右往左往からして最早明白なのである!

そんな顕本法華の邪僧が云く、

>曼陀羅本尊は観心の法門、信行に必要なものですから、もし観心の法門に熟さない一般の信徒を
>対象とするならば、世間的な仏像形式も可と考えるべきでありましょう。

鼻笑。

本より、こういう戯れ言を並べる事自体がに本尊義に迷っている、という事であり、本尊は勝れたる
を用いるべし、との日蓮大聖人の御金言、つまり今時末法に於ては最高の本尊を即時に、しかも終始
一貫用いる、との御金言に背くものである。

はてさて『世間的な仏像形式も可』などと、ダブついたオレンジ色の袈裟を纏いながら、莫迦な事を
云うものではない。

ったく、其の〝世間的な仏像形式も可〟とは如何なる法義から摘出したものか。其の法義的根拠を此
に述べてみよ。哀笑。

加えて『観心の法門に熟さない一般の信者』とは、末法正機の下種からして、一体どの様な衆生を指
すのであるか。呆笑。

さても『観心の法門に熟さない一般の信者を対象とするならば、世間的な仏像形式も可と考えるべき
でありましょう』などと、つまりはお前等からして仏像は曼荼羅受持までの方便だと言うのか。
つまり何だ、結局、釈迦仏は方便という事か。おかしいではないか。釈迦仏はお前等からして末法の
御本仏ではないのか。鼻笑。

ったく、是れこそが、妙満寺に懐柔された本多日生の本尊雑乱の残態と云う事である。

因みに、玄妙は曼荼羅本尊の事をして『即身成仏之亀鏡也』と云っておるぞ。
果たして、此の『即身成仏之亀鏡也』の本尊は、観心の法門に熟さない一般の信者には不用という事
であるか。呆。

何とも訝(いぶか)しい顕本よ。上記の矛盾だらけを何とか致せ!

そんな顕本法華の信者に云く、

>久成釈尊を表わすのに脇士を副えるとなると経済的にも大きな負担にもなるし、
>今後の事を考える時、その点紙幅の御本尊ならば何の問題も無いわけである。

小笑。

何だ、今度は経済的負担を理由にして、仏像よりも紙幅の曼荼羅を優先するなどは、さっきの
『観心の法門に熟さない一般の信者は仏像形式も可』という教義からして、何とも可笑しな話で
はないか。小笑。

ならば、観心の法門に熟さない一般の信者、つまりお前らが云う処(ところ)の曼陀羅本尊に即さない
信者が、経済的負担を以って脇士仏像さえも安置出来ぬとなれば、一体、それらの信者は何を拝めば
よいのだ。

鼻笑。いやはや、なんとも滅裂な本尊義ではある。哀笑。

加えて久成釈尊の脇士を替えるに、其の択んだ曼荼羅本尊の相貌の中に、当の釈尊自体が脇士となっ
ていたら、お主等は一体どうするのだ。 その場で気絶でもするのか? 小笑。

日蓮大聖人曰く『此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に
立つべし』と。

はてさて、本多日生も、相変わらず草葉の陰で迷っている事であろう。

鼻笑。ったく適当な連中ではある。
 

バカなカキコを発見

 投稿者:黒川和雄  投稿日:2012年11月18日(日)16時04分37秒 p5198-ipbfp1901osakakita.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  バカが言うには、

中華人民共和国の体制は社会主義市場経済でありまして、これを外道と読んでしまいますと、
市場経済を導入している日本で暮らす黒氏も外道になってしまいます。


支那は言わずと知れた共産独裁国家であり、その最高指導者が日本を訪れた際、わざわざ車で胡錦濤の滞在するホテルまで自から出向き「胡錦濤閣下、私、お会いできてうれしいです!」と言い、ペコンペコンとドタマを下げた池田太作ということだ。従って「外道に頭を下げた」と言っているのである。

時の猊下が時の最高権力者頭を下げるか! 莫迦も程々にせよ。

まぁ、外道同士、これからも仲良くせよ。
 

阿部日ケ~ン(院政)へ

 投稿者:管理人  投稿日:2012年11月14日(水)03時47分23秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  其れにしてもお主、相も変わらず下らん文書をベタベタ貼っておるよなぁ。哀
一体お主の脳髄はどーなっておるのだ?

見れば何やら、当方の呵責に対してブツブツ言っている様であるが、兎に角、こっちに来なさい。
何度も言っているだろう! いい子ぶって他人の事を評論している場合ではないぞ!

重ねて言うが、追放者に対する投稿の遮断は大概(おおむね)解除しておる。だから安心して投稿しな
さい。思うに一日中パソコンに噛(がじ)り付き、あちこちの掲示板に顔を出しているのだろう。
其れからすれば、別に今更、当室への投稿を拒む理由もなかろうて。

何? 当室から追放された人間として、今更お邪魔出来ません、とな。小笑。
よい、その様な気づかいは無用である。又、その件についてのみ律儀になる必要もない。

何? 当室から追放しておいて、今更投稿しなさい、とは勝手すぎるとな。小笑。
いや、勝手ではないぞ。これこそは管理人の権限である。其れよりも何よりも、こっちに来い! と
呼ばれる理由が、創価学会員のお主には有るのである。

言っておくが、当室に於いては「お前の母さんデーベーソ」なる類(たぐい)の投稿は皆無であり、
又、その様な程度の低い投稿は、管理人として許すものではない。したがって何処(どこ)ぞの掲示板
よりは、十倍真っ当である。だから安心してこっちに来なさい。

尚現在、当室は管理人による「確認後掲載」を採っておるが、此の処置は、あくまで所属不明者及び
串投稿による荒らし行為を除外する為の処置であり、お主の様に其の身柄がはっきりと『創価学会員』
となっておれば、当室管理人は其れらの投稿文を確認した時点に於いて、速やかに掲載する事にして
おる。況(ま)してや、お主の場合はこっちが呼んでいるのであるから尚更の事である。

よろしいか。では待っておるぞ! 
 

太宰治 人間失格 所感

 投稿者:黒川和雄  投稿日:2012年11月12日(月)13時42分30秒 p5198-ipbfp1901osakakita.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  友人から太宰治の「人間失格」を頂戴した。まぁ、読書の秋ということでこの文庫本を読んでみた。古本屋で購入したのであろう¥200円と書いてあった<笑。
非常に有名な短編であり、たいがいの人は完読済みか名前だけでも知っているだろう。

粗筋は「太宰治 人間失格」で検索して頂ければ簡単に分かるであろう。読後感であるが、一体この小説のどこに文学的価値を見いだせるのか? はなはだ疑問である。大聖人様の仏法を信仰している自分には到底理解は出来ぬ代物だ。

東北の豪商の家に生まれ、やがて東京の大学に進学した。生活費は実家からの仕送りで賄い、画家、漫画家を自称、マルクス研究会に同席したが、何をしても格好だけ。どこに行っても孤独感だけが付きまとう。従って人に合わせるために自己を偽り、作者の言葉でいえば「道化」を演じ人を笑わす。しかし自分の本心とは乖離している。

本来内向的な性格であるが女だけには奇妙にもてる。あちこちの女が自分に好意を持ち、やりまくる。そして心中を計るが自分は助かり余生を送る。最後には実家から絶縁され、安い酒に溺れ挙句の果てヒロポン中毒患者となる・・・、まぁ、こういう筋書きであるが、まさに人間失格と言っていいだろう。

これは著者、太宰治のことを小説にしたものであるが、この人物に一文の仏法が分かっていればこういう人生は回避できたはずである。

小説の中で太宰自身が言っているが「狂人」の心を描いたものである。これが文学かい? 文学性がどこにあるのか?甚だ疑問である。

以上であるが、この小説に文学性を認めるという方がおられれば是非投稿して頂きたい。

 

捏造・法主本仏論を摧破す

 投稿者:管理人  投稿日:2012年11月10日(土)18時13分21秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  云うまでも無く「法主本仏論」なるものは、創価学会が作り上げた邪説であり邪論である。

大体、少しでも智慧が回れば、日蓮正宗の御歴代上人が「末法の本仏である」などと云う阿呆な論説
など、思う浮かぶものではない。哀。

そうすると、創価の小者共は、口を揃(そろ)えて言うのである。

「俺たちが言っているのではない。日顕宗が言っているのだ」と。鼻笑。

先ず言って置くが、此の世に「日顕上人の宗教(日顕宗)」なるモノは存在しない。

其れは何故か。其の宗教の根本に於いて、小生が曾(かつ)て創価学会員として学びし富士門教学と、
現在の日蓮正宗教学が、全く以って同一だからである。つまり、破門以前の過去から現在の今日まで、
日蓮正宗は日蓮正宗の儘であり、其れこそは、お前達が「日蓮大聖人直結の御正師」と仰ぐ日寛上人
の御教示を、一寸の乱れなく堅持しているのが日蓮正宗なのである。

其れよりも何よりも、其の「大聖人直結の御正師」の御訓戒に背き、日蓮大聖人の御本仏たるを懐疑
する学者を庇(かば)い、絶対妙の範疇をも超えて、学術研究の目を以って仏法を推し量らんとする、
其のお前らの性根こそを何とか致せ。

小生から言わせれば、其れら謗法容認の体たらくこそが「池田教」の態勢ではないのか。

ったく、其の様な蝙蝠(こうもり)教団が「法主が本仏などと言っている日顕宗は邪宗だ」などと口を
尖らして言っておる。哀笑。

大体、日蓮正宗の御歴代上人が「本仏」とは如何なる事か。云うまでも無く、末法の御本仏たるは
日蓮大聖人、唯御一人である。

しかし、お前らは「法主が御本仏だ、と日顕宗が言っている」と云う。

何処(どこ)だ。何処にそういう教義があるのだ。

まさか、此の事か。

『本宗の根本は、戒壇の大御本尊と唯授一人血脈付法の御法主上人であります。具体的には、御法主
上人の御指南に随従し、御本尊受持の信行に励むことが肝要です。何故ならば、唯授一人の血脈の当
処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体に在(ま)しますからであります。したがって、この根本の二つに
対する信心は、絶対でなければなりません』(大日連/平成3年9月号87頁)

小笑。

おいおい、一体此の何処に「法主こそは本仏である」と記(しる)されておるのだ。

お主ら、大丈夫か? 頭。

よろしいか。上記の内容とは、唯授一人血脈の当処、つまり、日蓮・日興血脈の次第に於ける一切の
仏法は、其の後の日目上人、そして又、中興の両祖たる日有上人、日寛上人以降の御歴代上人に相伝
されている事を云うのであり、又、其の伝持される御内証を以って、大御本尊を御書写奉る尊行を宣
べているものである。仍って、其の行(御本尊書写)を為す尊体は須らく、戒壇の大御本尊とは不二で
あると説くは、応に当然の理(ことわり)ではないか。

日寛上人、当家法則文抜書を以って申さく『末法の本尊は日蓮聖人にて御坐すなり。然るに日蓮聖人
御入滅有て補処を定む、其次々に仏法を相属して当代の法主の処に本尊の体有るべきなり、此の法主
に値ふは聖人の生れ替りて出世し給ふ故に、生身の聖人に値遇し結縁して師弟相対の題目を声を同く
唱へ奉り』と。(研教9─740頁)

応に師弟は相対にして不二である、という理(ことわり)を領解出来なければ『不二の尊体』の意など
解かろう筈もないのである。小笑。だからこそ、お前らは、大日連に掲載された、所謂「能化文書」
の内容を以って大騒ぎするのである。ったく、而二の上の不二を理解せずにして、一体何の本門教学
であるのか。本当に大丈夫か? お前らの頭。

御本尊七箇之相承に曰く『代々の聖人悉(ことごと)く日蓮なりと申す意なり』と。

うむ。応に御本尊書写に於ける御判形こそが、而二にして不二なる師弟の深義なのである。

而して「代々の聖人悉(ことごと)く日蓮なり」とは、応に日蓮大聖人をして宣示されたものであり、
又、だからこそ、御自らと同じくして、つまり、其の悉(ことごと)くに於いて『代々の聖人』と仰せ
になられたのである。しかし、御開基日興上人已来、我が日蓮正宗に於いて『聖人』と呼ばれる御方
は居らず、其の代々の総ては『上人』なのである。

つまり、此れこそが而二にして不二なる、師弟の尊体と領解すべきものなのである。

而して『不二の尊体』とは、其の唯授一人の大義が、戒壇の大御本尊に帰一する事からして、決して
間違った表記ではないのである。

本因妙抄、支吾なき一文にして曰く『又此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相
承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり』と。(新編 1684)

仍って類聚翰集私に曰く『然るに日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む。其の次ぎ其の次ぎに仏法相属
して当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり』と。(富要第二巻・308)

仍って日寛上人は、其の正義たる文意を以って当家法則文抜書に御記文せしむ。

曰く『末法の本尊は日蓮聖人にて御坐すなり。然るに日蓮聖人御入滅有て補処を定む、其次々に仏法
を相属して当代の法主の処に本尊の体有るべきなり』と。

尚又、日寛上人の御誕生より遡(さかのぼ)ること二十三年前、細草壇林を開壇せしむ法詔寺日感師が
申さく、

『大石寺は金口の相承と申す事候て、是の相承を受く人は学不学に寄らず生身の釈迦日蓮と信する信
の一途を以て末代の衆生に仏種を植えしむる』と。(聖典765)

はてさて、此れらの御文証を以て、一体、どの御文が『法主こそが本仏である』と説かれておるのか。

お前らは、能く能く心読すべきである。

いや、お主らの其の、蝙蝠(こうもり)の様な二心で、更には蜻蛉(トンボ)の様な複眼で、何(いか)に
上記の御文証を拝読しようとも『法主は本仏なのだー!』としか読めないのであろう。鼻笑。

応に『馬鹿』とは、此の事をして云うのである。哀笑。

恩師が云く『血脈相承といって、我々の御法主様に法水の容器は違うが、その内容は一滴も漏らさず
に来ているのです。だから御法主様だけが、御本尊様をしたためることのできる仏様なのです』と。

仍って恩師が申さく『有り難くも、本日は、御本山の猊下(日昇上人)のお出ましを願い、畑毛の猊下
(御隠尊日亨上人)のお出ましを願って、我らとしては、これ以上の名誉はない。来年の今日までの間
に、本当に功徳をつかむ覚悟で、自分の悩みの心に、大御本尊を目の前に浮かべ、両猊下を拝もうで
はありませんか。それでは、私が導師となります。南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経』

                       (昭和29年5月3日、創価学会第十回総会)

はてさて、此等恩師の指導をして、一体、どこが『法主は本仏なのだー!』と宣べられておるのか。

実に恩師の上記に於ける指導は、全く以って、御本尊七箇之相承の御文に一致し、そして左京阿闍梨
日教師の御文にも一致し、其れこそは、お前らが文句する「能化文書」の内容にも一致するのである。

応に、御法主上人を日蓮大聖人としてお仕(つか)えしたるは、恩師の大信心たる証拠であり、而して、
其の事を以って「法主は末法の御本仏だー!」などと云う馬鹿な解釈をするは、今やお前ら残留会員
のみなのである。

哀笑。ったく、お前らの脳髄は、本当に腐っておるのか。呆。

『新猊下(日淳上人)を大聖人としてお仕(つか)え申し上げ、広布への大折伏にまっすぐ進んでいく』
との恩師の御信条こそは、応に唯授一人血脈相承と本門戒壇の大御本尊との不二なる尊体を以って、
成り立っていたのである。

さても、以下の文言は、一体誰の文言であるのか。

『遣使遣告であられる御法主上人猊下は、日蓮大聖人様であります!』

『御本仏日蓮大聖人の遣使還告であられる、血脈付法の御法主日顕上人猊下云云』と。

果たして一体、是れはどういう事であるか。お前らからして「永遠の指導者」たる三代会長、つまり
自分の事をして『庶民の王者』と自慢している池田太作が、上記のように宣言していた事は、実に今
『法主本仏論』なる造語を以って富士大石寺に投石する現創価の矛盾を示すものではないのか。呆。

つたく、日蓮正宗の御歴代上人に於いて『この私こそが御本仏であり、釈迦日蓮である』などと宣言
された上人が居られるのか。云うまでも無く、富士大石寺に於いては、古今に於いて一度たりとも
『法主の私こそが大聖人様だ』などと、時の猊下が言われた事などないのである。

果たして小学会員よ。もし、そういう御歴代上人が居るというならば此に即答してみせよ!

『法主本仏論』

応に此れこそは、創価学会の造語であり、其の貧弱なる読解力によって『不二の尊体』の深意を理解
出来なかった珍釈なのである。

小笑。何とも、笑える話ではないか。

云く、

「本宗における厳粛なる法水瀉瓶唯授一人の血脈は、法灯連綿と、代々の御法主上人に受け継がれて、
今日に至っております。あくまでも、御本仏は、日蓮大聖人様であらせられ、唯我与我の御法主上人
のご内証を、大聖人と拝すべきなのであります」と。(聖教新聞 昭和五十四年五月四日付)

お前らは、今一度、上記の正釈を学びなさい。

そして、『「法主は本仏なのだー!」と日顕宗が言っている』などと云う、出鱈目(デタラメ)な文句
などは、即刻にやめなさい。観ていて、とても恥ずかしい。其の蝙蝠(こうもり)と不二の痴体が実に
実に恥かしい。呆。

東大学者・松岡某に云く、

『「法主信仰」を日興上人以来の大石寺の伝統に仕立て上げたのは、法詔寺日感である』云々。

小笑。

ったく、この様な戯れ言を信じて、博士は素晴らしいと感嘆する、小会員の信心こそが哀れである。

『法主本仏論』

さても馬鹿に付ける薬は最早ない、と云う事か。呆。
 

秋晴れ殿

 投稿者:管理人  投稿日:2012年11月10日(土)15時13分47秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  >管理人さんの受け止め方、了解しました。
>私としては、そういうことではないのですが.............
>上手く、伝えられそうにはありません。

いいえ、秋晴れ殿の仰言(おっしゃ)りたい事は理解しております。
今時の学会員と云うよりも、日蓮正宗信徒の破折掲示板に投稿する学会員の中に在って、秋晴れ殿は
所謂(いわゆる)、御本山からの破門を勝ち取る為に、わざと御本山を挑発し、望み通りに破門を通告
されると、一転『話し合いを拒絶して、一方的に破門するとは何事か!』と会員向けに喧伝し、其の
恨み節を以って『魂の独立おめでとう』と狂喜した、所謂『怨念の猿芝居』に毒されていない学会員
であると、小生は思っております。又、正宗信徒の掲示板に投稿する学会員の中に在って、本門戒壇
の大御本尊に疑念せず、血脈の次第たる二箇相承を日蓮大聖人の御正意と真読し、日寛上人が示さる
富士門教学を正義と捉えている由。応に其れこそが池田太作が演じた怨念の猿芝居に毒されていない
証拠であり、又、其れこそが本来持(たも)つべき創価学会員の姿なのであります。さても御本山が、
創価学会を破門したるは、実に恩師戸田先生からの申し出を実行したまでの事であり、別に理不尽な
判断でもなければ、其れこそ嫉妬心による破門、などという笑い話のような理由で破門したものでも
ありません。果たして秋晴れ殿こそは、そういう正着な判断をされる御方である、と小生は思ってお
ります。願わくば、破門後に配布された日寛上人の偽本尊だけは決して拝まぬよう、心がけて下さい。

>ともあれ、創価大の宮田氏に対する創価学会の対応を懸念されていること、了解しました。

果たして懸念などは疾っくの昔に通り越し、今では現創価学会の「教学」に対するだらしなさに呆れ
返っております。ともかく『日蓮(大聖人)が末法の本仏などというのは後世の創作である』と唱える
創価大学教授の邪説に対しては、断固、組織として厳重注意すべきものと警鐘するものであります。
されば何故の警鐘か。実に宮田が唱える『日蓮本仏排斥論』の黙認こそ、将来の創価学会学に於ける
教義変更への布石ではないか、とも云えるからであります。而して取って代わるは『凡夫本仏論』。
秋晴れ殿、ご注意されよ。騙されてはなりません。恩師の本尊義こそを厳守されよ。これこそが、
曾(かつ)て正義に浴した創価学会の、唯一残された最良の選択なのであります。

兎も角も、秋晴れ殿には御賢察あれ、と申して置きましょう。

其れでは又、御投稿の折に。

 

誤解があるようなので

 投稿者:秋晴れ  投稿日:2012年11月 9日(金)03時05分13秒 EM111-191-80-0.pool.e-mobile.ne.jp
返信・引用
  管理人さんへ

>さて、謗法とは何でありましょうか。
>また、縁起とは何でありましょうか。
>概念の違いで大きく違ってきます。
>突き詰めていえば、生命で感得したものが違うのです。
>ですから、同じ大聖人の御文を拝しても人夫々に感じ方も違うのです。

つまりは、其の者の境涯によって、モノの見方が変わってくる、と云う事でありましょうか。
つまりは、夫々(それぞれ)の境涯によって、本尊も教学も、夫々種々の解釈が在って正解、と云う
事でありましょうか。

なるほど。

だから創価学会に於いては、日蓮大聖人は末法の本仏ではない、という概念が存在し、日寛上人は
途中の人師に過ぎない、という概念が存在し、二箇相承も本因妙抄も百六箇抄も、そして御義口伝も
みんな偽書である、という概念が存在するのですね。

なるほど。

したがって、創価大の宮田が「日蓮(大聖人)は、末法の本仏ではない」と言おうが、別にそれは其の
者の概念であるから、謗法とは云えない、という事なのですね。

========================================

管理人さんの受け止め方、了解しました。

私としては、そういうことではないのですが.............

上手く、伝えられそうにはありません。

ともあれ、創価大の宮田氏に対する創価学会の対応を懸念されていること、了解しました。

 

秋晴れ殿

 投稿者:管理人  投稿日:2012年11月 8日(木)16時47分17秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  >さて、謗法とは何でありましょうか。
>また、縁起とは何でありましょうか。
>概念の違いで大きく違ってきます。
>突き詰めていえば、生命で感得したものが違うのです。
>ですから、同じ大聖人の御文を拝しても人夫々に感じ方も違うのです。

つまりは、其の者の境涯によって、モノの見方が変わってくる、と云う事でありましょうか。
つまりは、夫々(それぞれ)の境涯によって、本尊も教学も、夫々種々の解釈が在って正解、と云う
事でありましょうか。

なるほど。

だから創価学会に於いては、日蓮大聖人は末法の本仏ではない、という概念が存在し、日寛上人は
途中の人師に過ぎない、という概念が存在し、二箇相承も本因妙抄も百六箇抄も、そして御義口伝も
みんな偽書である、という概念が存在するのですね。

なるほど。

したがって、創価大の宮田が「日蓮(大聖人)は、末法の本仏ではない」と言おうが、別にそれは其の
者の概念であるから、謗法とは云えない、という事なのですね。

果たして「御書を拝するに人夫々(それぞれ)に感じ方が違う」となれば、身延や佼成会などが御書
を拝するに、その「感じ方」さえ御貴殿は容認される、という事でありますか。

言うまでもなく、我ら興門正統に於いては、それら邪宗信徒が拝する御書の解釈などは、すべて謗法
である、と断ずるものであります。して其の基準こそは、日蓮大聖人が示された文義を深読する事に
より成るものであり、其の示された文義を正しく読むは、これ極理の師伝が在って始めて為し得ると
いう事なのであります。したがって、師伝がいい加減である身延などは、其れこそ学者坊主などが、
夫々好き勝手な考察を行い、それら勝手解釈などを放任しているのであります。

応に、そのだらしない姿こそは、創価大の宮田が説く邪説を黙認する、現創価学会の姿に重なるもの
でありませんか。つまり、その姿こそが不相伝の其れであり、その姿こそが、極理に不明な邪宗教団
の姿なのであります。さても、その姿をして恥ずかしいと思わば、早速に創価学会教学部は創価大に
対して注意すべきであります。『日蓮大聖人が末法の本仏ではない、とは何事か!』と。

>今回、痛烈に感じたものはやはり、実践を根本に御書の全編拝読です。
>学問は所詮、机上です。この五濁悪世を知り、末法を知り、苦悩し悩み、その中で実践し、教学を
>研鑽するが基本です。全ては信、行、学の実践ですと痛烈に感じます。

ならば尚更の事、創価大に所属する教授の邪説を、一刻も早く呵責する事であります。

>慢心や冥利に囚われている行為は、実に愚かなことと思います。
>双方、破折といいつつも、大聖人から言わせると。破折にも到底及ばないかもですよ。

本より、その内容によりましょう。当然、呵責と悪口は別のものであります。

>この大聖人の仏法は、本当に人間革命できるという確信が芽生えはじめてきています。
>本当にこの仏法は素晴らしい。
>大聖人の仏法に巡り合えて感謝、感謝の毎日です。

して、其の大聖人を『末法の本仏ではない』と言い放っている者が、創価大学の教授を務め、その者
を放任しているのが、現創価学会でありますから、先ずは其の事について異を唱えるべきであります。
『日蓮大聖人の仏法を信ずる』とは、そういう事でありましょう。

>追伸
>昔、私は大月天さんに、学会に帰ってきませんかと書き込みしたことがあります。
>思い出されても、hnは大月天さんの心の中で留めて頂きますようよろしくお願いします。
>大月天さんは、私は信頼しています。このようなことを書かなくとも胸中に留めておいて頂ける
>ことでしょう。最後に、対話できてなつかしかったです。ありがとうございました。

当方が組織に戻ったとしても、当方は恩師からの教学指導を厳守する者でありますから、当然に排斥
されるでありましょう。つまり、それだけ現創価学会は、教学に於て堕落している、という事であり
ます。

ともあれ、当方に対する御信頼の弁、すべては胸中に留め置きましょう。
又いずれ、投稿される事を期してやみません。
 

管理人さま

 投稿者:秋晴れ  投稿日:2012年11月 6日(火)23時26分0秒 EM1-112-47-228.pool.e-mobile.ne.jp
返信・引用
  いつもながら、ご丁寧にご返事をありがとうございます。
さすがに昭和の元創価幹部、素晴らしい御境涯であられます。

早速、読ませて頂きました。管理人さん、いや大月天さんらしいお書き込みでした。

>謗法は責むべし。これが我が正統・富士門流の法義であり、恩師戸田先生から頂いた教訓であります。

全ては、このお書き込みに集約されているようです。
さて、謗法とは何でありましょうか。
また、縁起とは何でありましょうか。
概念の違いで大きく違ってきます。
突き詰めていえば、生命で感得したものが違うのです。
ですから、同じ大聖人の御文を拝しても人夫々に感じ方も違うのです。
今回、痛烈に感じたものはやはり、実践を根本に御書の全編拝読です。
学問は所詮、机上です。この五濁悪世を知り、末法を知り、苦悩し悩み、その中で実践し、教学を研鑽するが基本です。
全ては信、行、学の実践ですと痛烈に感じます。
共々に、本当の信仰に辿りつかんことを願うばかりです。
慢心や冥利に囚われている行為は、実に愚かなことと思います。
双方、破折といいつつも、大聖人から言わせると。破折にも到底及ばないかもですよ。

大月天さんに、初めに、こちらでお世話になりお会いしたときよりも、私も随分、歳を重ねてまいりました。少しは落ち着いてきたようです。と、ともに芯は強くなりました。
若いときは振り回されていたこと多々でしたが、動じなくもなってきました。
全ては、頑固なまでの信心のおかげです
この大聖人の仏法は、本当に人間革命できるという確信が芽生えはじめてきています。
本当にこの仏法は素晴らしい。
大聖人の仏法に巡り合えて感謝、感謝の毎日です。

追伸
昔、私は大月天さんに、学会に帰ってきませんかと書き込みしたことがあります。
思い出されても、hnは大月天さんの心の中で留めて頂きますようよろしくお願いします。
大月天さんは、私は信頼しています。このようなことを書かなくとも胸中に留めておいて頂けることでしょう。
最後に、対話できてなつかしかったです。ありがとうございました。
 

秋晴れ殿

 投稿者:管理人  投稿日:2012年11月 5日(月)17時51分59秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  >かなり前になりますが、管理人さんの一言に救われて事があります。hnは変えましたので、管理人
>さんには私が誰だか思い出せないと思います。
>管理人さんにはかなり前になりますが、本当にありがとうざいました。

はてさて、誰でありましょうか。

かなり以前で、しかもHNを変えられているとなれば、もはや察しも付きませんが、文末に丁重なる
感謝の言を頂戴したとあっては、果たして、誰であったろうか、と今にして思い返しております。

はてさて、誰でありましょう。

いや、これ以上の詮索は致しますまい。HNを変えられた、という事は、つまりは、其れを願っての事
でありましょう。存知のごとく、ネットに於ける破折に於いては、相手が見えない分、そこに記され
ている文面こそが、其の者の命の表れと理解し、其の示された内容が邪であれば破し、正であれば佳
しとするを以って破邪顕正と成すのであります。而して其の意行の功力は、対面・非対面を問わず、
この法界に遍満して、必ず己(おのれ)自身の身に返って来るのであります。

見れば宮田の見解について御返答を頂いている由。それでは早速、内容に入りましょう。

>>つまり「検討」して「考えに至った」つまり、そういう「結果に至った」事を宮田は述べている
>>のであって、本より御貴殿が云う処の「研究の結果」なのである。
>>仍って是れこそは「検討」の類(たぐい)に入るのではなく「論証・結論」の分野に入るのである。
>>つまりは「検討する」を通り越して、宮田は「それ以上」の論決を示した、という事になるので
>>ある。

>そう認識しています。その上で宮田氏自身考察されたものとして認識認しております。

上記の当方の文に対して「そう認識しています」という事は、創価大の宮田による「日蓮本仏排斥論」
とは単なる研究・考察の類(たぐい)ではなく、もはや其れは論証した上での結論である、という当方
の見解に同意した、と云う事になります。勿論、其れこそが正解であり、賢明な認識であると思いま
す。而して御貴殿が云う処の「その上で宮田氏自身が考察されたもの」という「その上での考察」と
は、つまり「結論を出した上での考察」との解釈になりますから、其の点については事が順逆となり、
御貴殿の認識自体に矛盾を生じます。考察はあくまで結論を見出すまでの過程である、と云う事を、
先ずは理解すべきであります。

>管理人さんは、頑なまでに律儀なお方だとよく知っております。学会幹部時代に本山にて御書講義
>をされた際に、ご自身の生命を内証されて、怖くなった。立派です。本当に立派です。それは、
>ある意味尊敬しております。

はて、其の事を知っておられるとは…。いや、詮索は止めておきましょう。

>ただ、こうであらなければならないという、管理人さんの思い込みは、少し懸念もあり、
>心配もしています。

そうでありますか。しかし「こうであらなければならない」との信仰姿勢は、本より日蓮大聖人の
仏法に適うものであり、正邪の判別に於いて「こうでなくてもよい、そうでなくてもよい」と云うの
では、其れこそ立正佼成会の庭野日敬の葬儀に、副会長などの幹部を参列させる現創価学会のそれに
同類する、という事になってしまうのであります。

日蓮大聖人曰く『日蓮御房は師匠にておはせども余りに強(こわ)し、我等は和(やは)らかに法華経を
弘むべしと云はんは、蛍火が日月を笑ひ、蟻塚が華山を下し、井江(すいこう)が河海をあなづり、
烏鵲(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)をわらふなるべし、わらふなるべし』と。(新編 583)

小生からすれば、和(やは)らかに任せて「こうでなくてもよい、そうでなくてもよい」と言いながら、
日蓮大聖人は末法の本仏ではない、などと論決し、其の一方では智天使ケルビムなどを讃嘆しながら、
金ピカの釈迦像が横たわる立正佼成会の本部に、創価学会の現理事長・正木正明などが、教祖の葬式
に参列する、という恥態こそが大問題なのであり、其れこそ、懸念や心配どころではありません。

謗法は責むべし。これが我が正統・富士門流の法義であり、恩師戸田先生から頂いた教訓であります。

>管理人さんは、ご自身の今までの人生の経緯から、根底では創価学会員に対して心配されている。
>創価の先輩として、ご自身の立場から本当に心配されている想いは伝わっております。

そう感じて頂けるのであれば、小生として本望であります。

>しかし、様々な縁起があります。こうでなければならないという型にこだわりすぎるという考えは
>私は捨てました。我々、凡夫には分からない縁起というものがあるようです。
>仏のみ知る。そう私は考えております。

果たして、信仰信条に於いて『こうでなければならない』という姿勢と、各々それぞれが持つ「縁起」
などは、一応は別の意味でありましょう。しかし、其の根本に於いては、己(おのれ)自身の因縁こそ、
『こうでなければならない』という不動の信仰心が在ってはじめて、其の変革が成るのではありませ
んか。応に日蓮大聖人の仏法は、其の一点に在ると小生は確信しております。しかし到底、凡智では
計り知れない御本仏の御境涯。果たして、その御境涯を創価大の一教授が「本仏ではない」と計るは、
これ浅識謗法の正体であると見抜く事こそが、大聖人の仏法を信ずる者としての第一の務めではない
ですか。小生は其の事を言っているのであります。

>宮田氏のこの結論に対する答えは、出発点が上記のとおり、管理人さんと違うのです。
>これでは話はどこまでも噛み合わないこと必至です。
>管理人さんも、それは、理解されていることと思います。

宮田の結論(日蓮本仏排斥論)については、その過程の考察がどうあれ「日蓮(大聖人)は末法の本仏と
いうのは後世の創作である」という結論については、噛み合うも合わないも、大いに破折すべき邪言
である、と理解するものであります。果たして、これら謗法に対する小生の「こうでなければならな
い」という認識は間違っておりますか。本より、正義と邪義が噛み合うなどは、仏法からして有り得
ないのであります。いや、そんなことはない、と言われるのであれば、日蓮大聖人の御教示から其の
事を示して頂きましょう。

>ただ、私も、宮田氏の論理構成は理解できますが、それが直ちに「法本尊のみの本尊」こそが日蓮
>(大聖人)の教えであり、いくらなんでもまずいなとは思いますがね。

そうでありましょう。しかし、そういう邪義邪説を唱える者が、創価大学の教授を務めているのであ
ります。つまり、そういう現状について、創価学会員諸氏はなぜ黙認するのか、なぜ呵責しないのか、
其の事を申しているのであります。果たして『「法本尊のみの本尊」こそが日蓮(大聖人)の教え』な
どと、任用試験にも出ない根本教義の部分から間違っている邪説を、創価大の教授が公然と唱えてい
る事自体、現創価学会の教学に対するだらしなさが見えて来るのであります。

>ネットで、創価は池田本仏論に持っていくための前段階として、日蓮本仏論を否定しているふしが
>あると書き込みを見たことはありますが、それはありませんよ。
>しいていうならば、ネットにいる創価の人の中には独自で仏法を研鑽しだした人が最近いるようだ
>なといったところでしょうか。

いや、一般のネット投稿者が投稿する事と、創価大学の教授が論文する事を一緒くたにしてはなりま
せん。本より、ネット創価員などは、皆が皆、勝手な手前教義を披露しておりますが、創価大の教授
などが「日蓮(大聖人)は末法の本仏ではない」「法本尊のみが日蓮(大聖人)の教えである」と叫んで
いる事に対しては、学会本部及び学会教学部は黙認すべきではありません。而して黙認の継続こそは、
創価学会に於いて「日蓮本仏排斥論」を容認する事となるのであります。容認せずんば破折すべし。
これが戸田門下生たる小生の『こうでなければならない』という信仰姿勢であります。

>しかし、いいじゃないですか。回り道も。大きく成長した暁にはそれも大きな財産となることを私
>は確信します。私もそうですから。

果たして『結論』(日蓮大聖人は末法の御本仏であり、受持せる御本尊は人法一箇の御本尊である)を
学習している者が、一体何の回り道でありましょう。其れこそは疑念であり不信ではないですか。
学術研究であれば、仏法正義の根幹にさえ、疑念疑問を抱いてもよい、というのでしょうか。
応に其れこそ、日蓮大聖人が一番嫌われる『学者』の姿勢であります。

兎も角、創価大の宮田の『日蓮本仏排斥論』は須らく邪義であり邪説である、という事を、此に断言
するものであり、又、其の認識については、創価学会も共有すべきものと、此に強く申しておきます。
 

Re: 邪説を唱える創価大教授を呵責すべし

 投稿者:秋晴れ  投稿日:2012年11月 5日(月)02時02分6秒 EM1-112-249-238.pool.e-mobile.ne.jp
返信・引用
  管理人さんへのお返事です。

>
> 宮田云く「私は日蓮本仏論という教義が日蓮、日興、日目、日道にはまだなく、日蓮御影崇拝ならび
> に釈迦仏造立否定という日蓮正宗に伝わる化儀から、その化儀を正当化する理論として日蓮本仏論が
> 形成されてきたと考えている」と。
>
> つまり「検討」して「考えに至った」つまり、そういう「結果に至った」事を宮田は述べているので
> あって、本より御貴殿が云う処の「研究の結果」なのである。

>
> 仍って是れこそは「検討」の類(たぐい)に入るのではなく「論証・結論」の分野に入るのである。
> つまりは「検討する」を通り越して、宮田は「それ以上」の論決を示した、という事になるのである。

そう認識しています。その上で宮田氏自身考察されたものとして認識認しております。

管理人さんの言われる気になる点は以下がすべてだと思います。


> >創価学会の公式な教学は、専ら教学部の担うところであり、宮田幸一氏もそのような理解の上に
> >あって論考を述べられていると、文面の上から思うところであります。従って、宮田幸一氏の論考
> >をもって創価学会の公式の教学とのお考えは捨て置いて頂くのが宜しいかと存じます。
>
> 当方は創価大の宮田が云う処(ところ)の「日蓮本仏排斥論」が創価学会の公式教義である、などとは
> 言っていない。そういう「創価大学の教授が主張する邪説」に対して創価学会員の誰一人もが呵責し
> ようとしない、其の「見て見ぬふり」の現状を責めているのであります。果たして学会をやめた者と、
> 日蓮本仏論の排斥を試みる者と、一体どちらが重罪であるのか。これこそは研究する、しないの問題
> ではありません。事は大聖人を末法の仏とするか否かの根本教義の問題なのであります。して、其の
> 根本教義を覆そうとする学者が創価大学の教授とあらば、先ずは創価学会員として注意叱責するが、
> 信仰者及び信仰団体としてのアイデンティティーではないですか。小生は、その事を言っているので
> あります。
>
> 果たして御貴殿は、こういう「邪説」を唱える創価大教授を注意しないのですか、さても「研究大い
> に結構」と日蓮本仏論排斥の「研究」を容認するのですか。先ずは其の事、創価学会の公式教義に則
> って御答え頂きたい。

管理人さんは、頑なまでに律儀なお方だとよく知っております。学会幹部時代に本山にて御書講義をされた際に、ご自身の生命を内証されて、怖くなった。立派です。本当に立派です。それは、ある意味尊敬しております。ただ、こうであらなければならないという、管理人さんの思い込みは、少し懸念もあり、心配もしています。
もともと、管理人さんは、大悲大慈のお方です。古く、かなり前になりますが、管理人さんの一言に救われて事があります。hnは変えましたので、管理人さんには私が誰だか思い出せないと思います。
管理人さんは、ご自身の今までの人生の経緯から、根底では創価学会員に対して心配されている。創価の先輩として、ご自身の立場から本当に心配されている想いは伝わっております。
しかし、様々な縁起があります。こうでなければならないという型にこだわりすぎるという考えは私は捨てました。我々、凡夫には分からない縁起というものがあるようです。仏のみ知る。そう私は考えております。
全ては御仏智と。
目上の方に対し失礼かと思いますが、申し訳ありません。


>
> >追伸
> >上記、管理人殿があげられた文言は、日蓮御影本尊論の説明があって、はじめて上記論考の趣旨が
> >完成します。従って、管理人殿のいう
> >はて、創価学会の本尊は何時から法本尊のみとなったのでしょうか。
> >との主張は、その趣旨、論点からは、また違ったものと思われます。
>
> ならば、宮田が云う処の「創価学会だけが日蓮の教えの通り法本尊のみを本尊としているという点に
> 求めることができる』という「法本尊のみの本尊」とは如何なる本尊であるのか、しかも宮田は其の
> 「法本尊のみの本尊」こそが日蓮(大聖人)の教えであり、創価学会だけが其の教え(法本尊のみを本尊
> とする)を守っている、とも言っている。果たしてこれは事実であるのか。して、もし違うと云うので
> あれば、事は宗教の根本である本尊義であるから、其れこそ創価学会員として破折すべきではないか。
>
> 其の事も併せてお答え頂こう。

はい。まずはこの問題は下記に管理人さんの書き込みにあるとおり、

> 尚、当宗に於いては、御影様をして「御本尊」という認識はない。爾して「尊崇」の対象ではある。

すなわち、宮田氏のこの結論に対する答えは、出発点が上記のとおり、管理人さんと違うのです。
これでは話はどこまでも噛み合わないこと必至です。
管理人さんも、それは、理解されていることと思います。
ただ、私も、宮田氏の論理構成は理解できますが、それが直ちに「法本尊のみの本尊」こそが日蓮(大聖人)の教えであり、いくらなんでもまずいなとは思いますがね。
ネットで、創価は池田本仏論に持っていくための前段階として、日蓮本仏論を否定しているふしがあると書き込みを見たことはありますが、それはありませんよ。
しいていうならば、ネットにいる創価の人の中には独自で仏法を研鑽しだした人が最近いるようだなといったところでしょうか。
しかし、いいじゃないですか。回り道も。大きく成長した暁にはそれも大きな財産となることを私は確信します。
私もそうですから。

最後に、管理人さんにはかなり前になりますが、本当にありがとうざいました。
 

現創価構成員の無礼を叱る!

 投稿者:管理人  投稿日:2012年11月 4日(日)14時54分5秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  講員、創価構成員に対して云く、

『戸田総講頭の指導を心して読む可し』

現創価構成員、受けて云く、

「我々は既に日蓮正宗の信徒ではないからね、信徒であれば、その宗義には従わなければ
ならないが、今は別ものなんだよ(笑)』

……いやいや、笑っている場合ではないぞ。

よいか。恩師戸田先生は、一往は信徒としての立場で指導しておるが、実に其の内容こそは、
日蓮大聖人の仏法を根本に指導しているのである。

其れを正宗の信徒であったから、恩師は正宗の教義を言っていたに過ぎないとは、まさに恩師の
指導に対する冒涜である! 学会員として即刻、取り消しなさい!

恩師に云く『日蓮大聖人の真実の教えは、独一本門といい、文底秘沈というも、みな一閻浮提総与の
三大秘法の大御本尊を根本とした教えでなくてはならない。今日末法に於ては、富士大石寺にこそ
あれ、他にはないのである』と。(戸田城聖全集3-83)

はて、此の恩師の指導のどこが日蓮正宗に従った発言なのであるか。違うだろう!
恩師は御自らの御意志に依って、日蓮大聖人の仏法こそは、富士大石寺に有るを悟られたのである!
だからこその入信であり、だからこその指導なのである!

其れを「恩師も正宗の信徒であったから、その宗義に従わなければならなかったが、今の創価学会は
別物となったから、当時の恩師の指導などは最早関係ない」との言い分は、応に恩師の指導に対する
冒涜であり、恩師の御遺訓に唾するものである!

恩師に云く『(日蓮大聖人は)民衆の幸福の為に、大御本尊様を広宣流布せよと、ご命令になったので
あります。しからば、こういう事が一応考えられる。「日蓮宗というものが数たくさんあるんだから、
どの宗旨が広宣流布してもよいじゃないか」と一応は考えられる。だがそれは、ほかの宗旨に対して
ご命令はないのです。我が日蓮正宗のみに、広宣流布のご命令があるのです。こう言うならば、戸田
は、自分が日蓮正宗だから、日蓮正宗を好きで贔屓(ひいき)している、そうだろうと皆様はお考えに
なるかもしれません。しかし、あらゆる哲学的に、或いは歴史的に、或いは実証的に説明はつきます
が、ごくやさしく、そして解かりやすく、申し上げますれば、仮に身延としてもよろしゅうございま
しょう。それらが仮に広宣流布したとします。その時に日蓮大聖人様の御遺言があります。それは、
必ず広宣流布するとその時に、天皇陛下が御本尊様を戴きたいというに違いない、勅使を御本山へ
必ず出すであろう。その時に、御本尊様がなかったらば困るであろうから予がしたためておく。
そして、紫宸殿へ飾るべし。これを紫宸殿御本尊様(師資伝授之御本尊)と申し上げております。もう、
広宣流布ができることを、ちゃんと、仏様ですからご承知で、ご用意がある。身延が広宣流布したと
して「おまえのところに紫宸殿御本尊様があるならもってまいれ」と陛下からいわれたとして、身延
はもって行けない。どこにその紫宸殿御本尊様があられるか。富士大石寺の御宝蔵に、厳然とあるの
であります。これをもって、仏勅は「日蓮正宗でいたせよ。日蓮正宗のみは、本当に日蓮大聖人様の
教義を清く守って、必ず広宣流布の時まで進めよ」とのご仏勅なのであります』と。

                      (昭和29年10月9日 仙台支部第八回総会)

して、今のお前らは別物だと云う。

つまりはお前らこそが、恩師の御遺訓にも違背する逆賊の徒輩であるという事が、ここに明白となる
のである。

その逆賊が恩師を侮蔑して云く、

『戸田先生は、その当時は日蓮正宗の信者だったから、日蓮正宗に御世辞を使っていたのです。
本心は、組織発展の為に日蓮正宗を利用していただけです。つまり、戸田先生は、当時の日蓮正宗と
学会員を上手く騙していただけです』と。

さてもこれが創価学会員のセリフであろうか。

何とも悲しい事ではあるが、そうと言いながら、其の恩師をして『永遠の指導者』と祀り上げるので
あるから、現創価の欺瞞と両舌には、ほとほと呆(あき)れるばかりである。

さて、今一度、現創価の残留者に云おう!

お前らは今こそ、恩師戸田先生に対して、其の醜態を詫びなさい!

そして、其の裏切り行為を、富士大石寺に眠る恩師の墓前にて涙謝しなさい!

よろしいか!

これこそが、恩師の大指導を今以って堅持する、旧創価学会青年部員からの叱責である!
 

六條本圀寺を破す

 投稿者:管理人  投稿日:2012年11月 4日(日)14時30分53秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  昨今、見渡すに、我ら正統・富士門流に対して疑難中傷する徒輩らに於いては、自らが所属する門流
について、正々堂々、其の正義の完璧を主張する者皆無にして一人も居らず、但、我ら宗義の相伝を
疑々し、文句し、小脇に抱えた古文書をまさぐっては、裏付けがどうの、証拠がどうの、と騒ぎ立て
るのである。鼻笑。ならば一体、お前らが身を置く門流の何処が、絶対唯一のものであるのか。
其れこそ、お前らが小脇に抱える古本を以って、自身門流の絶対正義を此に宣言すべきである!

見るにお前らの所業は、己(おのれ)の邪臭に蓋をして、我ら興門正統の小荒を捜さんとする、まこと
浅ましい根性であって、其の醜態の奥には、自らが持ち得ない、宗義の統一性に対する妬みと、其の
一貫性に対する劣等感が渦巻いているのである。そして其の性根は、小荒探しによる反抗反発の憤念
となって、文献収集という熱病に憑りつかれて往くのである。鼻笑。何とも哀れな姿であるよな。

さて、其の一件を挙げて見れば、我が富士大石寺に御格護さる、本門戒壇の大御本尊をして偽作後作
と侮言する者の中に、一致派六條門流・京都本圀寺の信徒が紛れ込んでいるのである。

さて、一致派六條門流とは何か。して、其の本圀寺四代・妙竜院日静とは何者なのか。

其れこそ、毎々、重箱の小荒を突かれる我らからして、其れら六條門流の正体を、此に知らしめたい
と思うものである。

して、一致派六條門流とは、摩訶一日印の弟子・日静が開いた門流であり、本圀寺とは、其の日静が
京都六條に移建した寺院である。

本より、本迹一致派の言い分は、玄義に於ける『本迹異なりと雖(いえど)も不思議一なり』という釈
を基とするものであり、其れこそは、借用の取捨と勝劣の判釈を、同一の見解として混同するもので
あり、其の混義は『本迹の相違は水火・天地の違目なり。例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違
あり。(中略) 而るを本迹を混合すれば水火を弁へざる者なり』(新編 1236 真蹟)という、日蓮大聖人
の勝劣義に違背せんとする邪義である。

仍って、一致派六條門流の徒輩らが、其れら邪義を覆し、上記、日蓮大聖人が御教示されるところの
本迹勝劣義について、其の正答を顕記できない以上は、我ら興門正統の相伝書たる本因妙抄の一節、
『今日熟脱の本迹二門を迹と為し、久遠名字の妙法を本と為す』との大義に対して、指一本も触れる
資格など有しないのである。言っている意味、解かるよな。哀。

して、其の六條門流の日静は、京都本圀寺を日伝に、越後本成寺(摩訶一開基)を日陣に与えたのであ
るが、本圀寺の日伝は、本迹一致の立場から、法弟日陣(勝劣派陣門流派祖)と対抗するのである。

ならば六條の邪徒よ。先ずは、我ら富士門の宗義に対して吠える前に、お主ら本圀寺に徹底反抗した
越後本成寺派の邪義こそを、日静の教義からして此に顕示すべきでないか! そういう足下の腐臭を
片づける事なく、我ら七百年来の伝法に対して疑々するなどは、其れこそ身の程知らずの莫迦者が為
す恥行である!

先ずは、其の事を肝に銘じなさい。よろしいか。

して、現在の本圀寺(圀の字は、水戸光圀公の由来による)などは、身延一致派日蓮宗の大本山と成り、
日向門流の足下にひれ伏しているが(ひれ伏していない、と言うのであれば、身延の邪義を破折しな
さい!)、果たして、其れが本圀寺開基・摩訶一日印の本意であるのか。先ずはお前らの小脇に抱えて
おる古本を以って、其の正統性を証明すべきであろう。

果たして何故、摩訶一の末裔が日向門流の足下に甘んじておるのか。

よいか。そういう事をしっかりと明記して始めて、我ら興門正統に対してモノが言える、というもの
である。其の事を能く能く覚えておきなさい。果たして、派祖の訓戒を厳守し給う寺門であるのか、
そして、現在はどうなっておるのか。其れこそ、先代本圀寺貫首を指して『聖人』と尊称するならば、
其れら『聖人』に対する違背は、須らく宗義の破壊を意味するものではないか。よいか。お前ら六條
門流の者らは、そういう宗義の統一性に対する姿勢を持って初めて、摩訶一の本意に沿うものと領解
しなければならないのである。して、其れが何故に身延派なのであるか。

お前らは、其れを説明しなさい!

尚、現在の本圀寺などは、燕尾帽子(もうす)を被ったオレンジ袈裟の『大和尚』が、座布団を被った
紫袈裟の日蓮大菩薩坐像を先頭に、一塔両尊四士、其の他置物を陳列して拝んでいる様であるが、
果たして其れが、日蓮大聖人の御遺訓にして、摩訶一の遺誡に即しておるのか。して其れらの陳列が、
足下に伏している日向門流の本尊陳列と、どこがどう違って、どこに優劣があるのか。して優劣が無
いとなれば、何故お前らは、六條門流を未だに名乗っておるのか。そういう事をはっきりしなければ、
大石寺がどーの、戒壇の大御本尊がどーのと、其れこそ、お前らの滅裂本尊義からして何百倍も統一
性の有る我ら富士門に対して、文句のこれっぽっちも言える資格など無いのである!

尚、本圀寺の分寺、本満寺などは、今では十界曼荼羅を本尊とし、其の本満寺八世日乾などは、其れ
ら十界曼荼羅を本尊(根本尊崇)としない身延山久遠寺に晋山し、日蓮宗僧侶が邪宗信徒から布施を受
けても良いとする所謂「受派」の先鋒となり、本圀寺日伝已来の軟派教義を、其れこそ日向身延の軟
義に組み重ねた張本人なのである。

兎も角、お前らがやっている事は、複合教義・門派混同・本尊形式滅裂の、所謂、雑乱教学の醜態で
あり、又、だからこそ、あれやこれやと、末寺修徒などが、自分勝手な教説を作り上げて、文献莫迦
よろしく、想像や妄想を捻(ひね)くり回して、その格好を整えるのである。鼻笑。

よいか!

先ず以って、あの大和尚の帽子を何とかしなさい!
そして、大聖人の人形が被っている座布団を何とかしなさい! (被る文証を出しなさい!)
そして、大聖人と大菩薩。そして日朗菩薩と摩訶一聖人、そしてお前らの大和尚と聖人との違目を、
しっかと答えてみなさい! 果たして伝師の資・日尚聖人とは何ぞ! 圓師の資・日澄聖人とは何ぞ!
而して、伊藤日瑞上人とは何ぞ!! 日圓大和尚とは一体何ぞ!!

さても、本圀寺と云えば、織豊時代の永禄十二年(1569)、三好三人衆らが、将軍足利義昭を襲撃した、
所謂、殺人未遂現場の寺院でもある! しかも遡(さかのぼ)れば、本圀寺などは彼の天文法華の乱に
於いて灰燼と帰した寺院でもある! 果たして、そういう物騒にしていい加減な寺院の檀信徒ずれが、
我が正統・富士門流の小荒探しをする、其の性根の腐り様よ!

お主らは先ずもって、其の体たらくを恥じなさい! そして、現今、日蓮正宗末寺のすべてに於いて、
御法主上人御書写御本尊による、其の統一性の大義に対し、お主らが露呈する本尊雑乱と教義混濁と
勝手教学の体たらくについて、先ずは赤面し、そして悔悟し、其れら邪宗形態から脱皮せる小蟲に先
ずは成って、それから我ら多宝富士大日蓮華山大石寺の甚深なる相伝教義に文句すべきである!

よろしいか!

今更、日向身延の足下にひれ伏している様では、法華のほの字も語る資格などはないのである!!
 

痴論の応酬

 投稿者:管理人  投稿日:2012年11月 3日(土)16時27分48秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  凡(およ)そ、相手の立場を貶める方策として、旧来から金銭に拘わる問題、男女間の問題、加えて、
其の相手の家庭内の問題等について、あれやこれやと喧伝し、其の悪口中傷を以って、相手の権威と
信用を失墜させる事が、其の第一番の早道とされて来た。

特に、其の両者の関係が、宗教団体及び其の信徒会員ともなれば、互いの所属する宗教団体の首脳に
ついて、其の権威と信用を公然に於いて貶める事が、相互の組織と、其れに所属する信徒会員の信義
信条について、其の弱体と離反を助長させる最も有効な手段として活用されるものである。

しかし、こういう手段を取る事、つまり相手の醜聞(スキャンダル)を題材にして攻撃する事自体、
其れが互いの宗教団体、及び其の信徒会員の間にて盛んに行われているとすれば、何とも寂しく、
又、余りに情けない事であると、小生は思うものである。

加えて其れら醜聞の喧伝を、正統・富士門流たる富士大石寺の信徒等が、もしも好んで実行している
とすれば、誠に残念でならないと思うものである。

本より、此の様な醜聞を矢鱈口にして、相手への悪口中傷を並べ立てるは、抑もが相手の脅威を恐れ
ての行動であり、加えて其の相手の教義信条に対して、其の反論の限界を自らが露呈している事にも
なるのである。

遡って其れらの一番のよい例が、彼の重須日浄等の悪口であろう。

日浄云く『大石寺九世の日有上人はライ病で死んだ』という。

又、大輔阿闍梨(東光寺僧)からの伝聞として日辰の祖師伝に云く、

『大石寺四世の日道は、佐渡で日代の本尊を焼いたら、其の焼煙が面に当たりライ病になった』と
いう。

加えて云く『大石寺十二世日鎮は狂気となり、現在(当時)の十三世日院は、中風となり痴人のようで
ある』などという。

折りしも、この東光寺僧からの伝聞を祖師伝に著した日辰などは、其の当時、富士大石寺十三世・
日院上人から親交の拒絶を受けていたのである。

果たして其の「腹いせ」なのか、日辰は其の日院上人に対して『中風だ!痴人だ!』と祖師伝に敢え
て記入したのである。

凡そ、こういう醜聞(スキャンダル)の類は、初手から喧伝する側に効力があるものであって、突然、
其れを言われた側は、其の真偽の説明に追われるのである。そして、沈黙すれば反論不能と周囲から
目され、反論すれば都合のよい言い訳と判断されるのである。

加えて、其の醜聞の対象が各自教団の首脳に関する事と相成れば、少なくとも、信徒会員の信仰心に
対して泥を塗る事が出来るという事である。

言うまでもない。

こういう悪口中傷の類こそ、単なる『腹いせ』の類であって、其の宗教人としての相互の精神に於て、
何ら慈悲も教導もない単なる痴論の応酬であるという事を、其々の該当者は痛感しなければならない。

あの者がどーだ、此の者がどーだ、金だ、女だ、病気だと。

ったく、小生からして、こういう材料をして相手を貶めんとする心性こそ、真の仏法を学する者とし
て、最も恥ずべき心性であって、特に富士大石寺の信徒に於いては、其の事を心底より痛感すべきで
ある。

日蓮大聖人曰く『なにとなく我が智慧は足らぬ者が、或はこづき、或は此の文を才覚として謗り候な
り。或はよも此の御房は弘法大師にはまさらじ、よも慈覚大師には超へじなんど、人競べをし候ぞ。
かく申す人をばものしらぬ者と思(をぼ)すべし』と。

果たして、其の『人競(くら)べ』を選択して『勝った、負けた』と喜憂し、其の『人競(くら)べ』を
以って仏法正義の判別に傾斜するなどは、凡そ可見に囚われた小学の持ち主の行為なのであって、
まして其の勝敗の材料が『腹いせ』の感情を基とした醜聞の大小に在るなどは、凡そ仏法正義を顕揚
する信徒として、まこと赤面の至りであると、此に断言するものである。

大聖人曰く『南条七郎五郎殿の御死去の御事、人は生れて死する習いとは、智者も愚者も上下一同に
知りて候へば、始めて嘆くべし驚くべしとわ覚へぬよし、我も存じ人にも教へ候へども、時にあたり
て夢か幻か、いまだ弁へがたく候』と。

果たして、此の上野殿御返事(平成新編1496頁)の内容をして、

追申『此の六月十五日に見奉り候ひしに、あはれ肝ある者かな、男なり男なりと見候ひしに、又見候
はざらん事こそ悲くは候へ』との御文を拝すれば、南条七郎五郎(南条時光の弟)が其の男なりを以て、
身延に御坐します日蓮大聖人の許に参詣した後、なんと其れから3ケ月も経たぬうちに亡くなったの
である。七郎五郎、若干16歳の早世であった。

はてさて、聞こえて来るぞ!

醜聞(スキャンダル)を好物とする修羅族の声が…。

『元気であった16歳の若者が、その僧侶と会ってから3ケ月もしないうちに急死するなど、おかし
いではないか! そんな宗教はインチキだよ! きっと其の僧侶は、その七郎五郎があまりに美男子
だったので、嫉妬心を燃やして呪詛したんだよ! だから七郎五郎は急死したんだ!』

果たして、又もや聞こえて来るぞ!

『実は其の僧侶はね、日頃から念仏無間などと批判しているが、実は何と夜な夜な念仏を唱えている
んだぜ。この俺がこの耳で確かに聞いたんだ! だから間違いない!』

よいか! 修羅ども!

こういう、ある事、ない事を喧伝し、それら悪口を以って己(おのれ)の正義を顕揚するなどは、応に
汚水を以って己が清流を穢す痴行である事を能く能く知るべきである!

弁哲云く『六十四世日昇は養鶏で蓄財した』と。

哀笑。

ったく、此の様な馬鹿げた話しを、対論の場に持ち込むこと自体、此の者の頭の程度が知れるという
ものである!

当室の管理人として此に言おう!

各々、特に富士大石寺の信徒に於いては、其の正義宣揚に於いて其の持する法義を以って其れを示し、
相手への悪口中傷を以って己(おのれ)の正義と為す可からず!

本より、地涌・フェイク等のデフォルメ中傷の権化たる創価外道の怪文書などは、今更相手にする
価値も無し!

まして、其れら怪文書の内容を好んで貼り付ける者共の修羅の心性こそを、我らは哀れむべきである
と、此に強く思うものである!

恩師云く『奴等はねえ、馬鹿だから、学会の発展は組織だ組織だと言ってるんですよ。
本当は、御本尊様の御利益だと言うことを知らないのですよ』と。

果たして、此の恩師の御指導が、今にしてまこと奥深い内容である事を、特に創価の修羅の者共は
理解できまいて。否、理解したくもない、のであろう。鼻笑。

ったく、痴論の応酬に毒された可哀想な連中ではある。
 

素晴しい体験をご紹介させて頂きます。

 投稿者:黒川和雄  投稿日:2012年11月 2日(金)16時12分40秒 p7141-ipbfp4501osakakita.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  これはある法華講員さんの体験というか、発見です。

兎角我々凡夫は、御本尊様に向かい勤行・唱題というと、「・・・を叶えて下さい。・・・になるようにお願いします。」等々、「功徳を頂くこと」をお願いする姿勢があるわけですが、この方はそのような勤行の姿勢からもう一歩踏み込み勤行・唱題とは「欲しい」から「捧げること」ではないか?と問い掛けられました。これは素晴しい発見だと思いますので、ご紹介いたします。

■■■■■■■■■■某法華講員さんの書き込み■■■■■■■■■■


最近、読経唱題(勤行)を申し上げていく姿勢を、「祈ること」中心から「捧げること」中心に変えました。 なぜかと言うと…今の私の抱える眼前の悩み苦しみは、確かに個人の人生の文脈の上から認識するならば、大きな悩みなのでしょうが、仏様の側から言うと果たしてどうなのかな?と。 仏様は、私が無始以来、六道輪廻を何回となく繰り返してきたことを誰よりもよくご存知であるはず…。 ならば、せめて読経唱題を申し上げている最中は、悩み苦しむ姿を捨てて、我が身を仏様に委ねる気持ち、捧げる気持ちに徹してみようと。 まだ文献にこの姿勢の正当性を得ることはしていませんが、だんだん読経唱題の際に雑念が湧かなくなってきているのは確かです。

■■■■■■■■■■私の回答■■■■■■■■■■

「文献にこの姿勢の正当性を得ることはしていませんが」とございますが、二座の御観念文をご覧ください。「本尊供養」とあります。供養とは仏様に捧げることです。

宗務院、御観念文の解説【二座】より転載。

【通釈】本尊供養


    法華経本門の寿量品の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、

   久遠元初、自受用報身如来の御当体、十界本有常、事の一念三千、

   人法一箇、独一本門戒壇の大御本尊に南無し奉り、今その御威光が

   倍増せられ、広大なる御利益に浴することに御報恩謝徳申し上げま

   す。




毎朝、私たちは御本尊様に対し、題目の御供養をさせて頂いています。〇〇様の「捧げること」ということです。そして、今、御本尊様のその御威光が倍増され更に広大なる御利益に浴することを祈っているわけです。


素晴しい発見ですので、法華講員の皆さんとシェアーさせて頂きたく存じます。


 

黒川殿

 投稿者:管理人  投稿日:2012年11月 2日(金)14時48分59秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用 編集済
  >保田妙本寺の信徒さんの情報では、保田妙本寺は現在、
>本堂=大聖人の御影像のみ、これを人本尊としています。
>法本尊=曼荼羅本尊、これには万年救護の本尊があり、信徒には日興上人の形木本尊を拝がませて
>いるということです。

そうでありますか。

果たして、自らの手で質屋に入れた本尊を、今にして「法本尊」と崇め奉るのも異様でありますが、
一応は御本尊の御前に御影様を御安置する化儀などは守っている様ではあります。

尚、御影様(日蓮大聖人の御尊像)を尊崇する化儀は、日興上人の代から連綿として伝わっているもの
であります。爾して、其れを以って曼荼羅御本尊を不要とするものではありません。つまりは曼荼羅
御本尊が在っての御影様という事であります。因みに邪宗日蓮宗に於いては、曼荼羅御本尊を掲げず、
ただ日蓮大聖人の木像を安置している寺も多々ある由。果てして大聖人を『末法の仏』としない邪宗
日蓮宗が、その仏ではない木像のみを祀って、一体何の功力を求めるや。小笑。

小生から言わせれば『大聖人の木像のみを祀るならば、其れこそ仏様として拝みなさい』と云う事で
あります。勿論、我が日蓮正宗に於いては、日蓮大聖人が末法の御本仏であろうとも、御影様のみを
安置している寺院などは一つもありません。つまりは、そういう甚高なる化儀を邪義外道の妄信者共
には理解出来ないのであります。

>人本尊と法本尊を別々に祀るようですが、もはや精神が真っ二つに割れているようです。

御影様を「人本尊」とする化儀は、あくまで日蓮大聖人が御本懐たる十界互具の大曼荼羅が厳在して
成り立つものであり、我ら興門正統に於ける究極の御本尊は、あくまでも人法一箇の大御本尊であり
あります。

尚、創価大の宮田などは『創価学会だけが日蓮の教えの通り法本尊のみを本尊としているという点に
求めることができる』などと言い『「法本尊のみの本尊」こそが日蓮の教えであり、創価学会だけが
其の教え(法本尊のみを本尊とする)を守っている』などと言っております。小笑。

これこそ『精神真っ二つ』の典型でありましょう。哀。

果たして「法本尊のみの本尊」とは一体何ぞや。

そういう事を先ず創価学会教学部は説明するべきであります。又、その事をして宮田に厳しく問い質
すべきであります。『あれは教授の研究だから…』では済まされない、重大な本尊義なのであります。
 

法本尊というと保田妙本寺を思い出しますね。

 投稿者:黒川和雄  投稿日:2012年10月31日(水)13時26分58秒 p7141-ipbfp4501osakakita.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  保田妙本寺の信徒さんの情報では、保田妙本寺は現在、


本堂=大聖人の御影像のみ、これを人本尊としています。

法本尊=曼荼羅本尊、これには万年救護の本尊があり、信徒には日興上人の形木本尊を拝がませているということです。

離脱以後、何がどうなっているのか、無茶苦茶です。

究極の本尊さえ定まっていない様子です。

人本尊と法本尊を別々に祀るようですが、もはや精神が真っ二つに割れているようです。

では、

 

邪説を唱える創価大教授を呵責すべし

 投稿者:管理人  投稿日:2012年10月31日(水)05時02分24秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  はて、小生からの詰問に対して、創価学会員「秋晴れ」殿から返事が来ていない様であるが…。

よろしい。

今一度、秋晴れ殿からの反論に対する、小生からの詰問を此に記そう。

*********************************************************************
【再掲】

>さて、本論考は創価学会の現在の会則にも見られる日蓮本仏論に関して主に検討する。とあ
>るように、いかにも学者らしい研究結果を述べたものであり、それ以上でも、それ以下でも
>ないと理解致しました。

さても検討とな? はて、そうであるならば、以下のような結論染みた事などは申しますまい。

宮田云く「私は日蓮本仏論という教義が日蓮、日興、日目、日道にはまだなく、日蓮御影崇拝ならび
に釈迦仏造立否定という日蓮正宗に伝わる化儀から、その化儀を正当化する理論として日蓮本仏論が
形成されてきたと考えている」と。

つまり「検討」して「考えに至った」つまり、そういう「結果に至った」事を宮田は述べているので
あって、本より御貴殿が云う処の「研究の結果」なのである。

仍って是れこそは「検討」の類(たぐい)に入るのではなく「論証・結論」の分野に入るのである。
つまりは「検討する」を通り越して、宮田は「それ以上」の論決を示した、という事になるのである。
従って「(宮田の研究は)それ以上でも、それ以下でもない」との御貴殿の理解は、申し訳ないが半解
という事になる。

>創価学会の公式な教学は、専ら教学部の担うところであり、宮田幸一氏もそのような理解の上に
>あって論考を述べられていると、文面の上から思うところであります。従って、宮田幸一氏の論考
>をもって創価学会の公式の教学とのお考えは捨て置いて頂くのが宜しいかと存じます。

当方は創価大の宮田が云う処(ところ)の「日蓮本仏排斥論」が創価学会の公式教義である、などとは
言っていない。そういう「創価大学の教授が主張する邪説」に対して創価学会員の誰一人もが呵責し
ようとしない、其の「見て見ぬふり」の現状を責めているのであります。果たして学会をやめた者と、
日蓮本仏論の排斥を試みる者と、一体どちらが重罪であるのか。これこそは研究する、しないの問題
ではありません。事は大聖人を末法の仏とするか否かの根本教義の問題なのであります。して、其の
根本教義を覆そうとする学者が創価大学の教授とあらば、先ずは創価学会員として注意叱責するが、
信仰者及び信仰団体としてのアイデンティティーではないですか。小生は、その事を言っているので
あります。

果たして御貴殿は、こういう「邪説」を唱える創価大教授を注意しないのですか、さても「研究大い
に結構」と日蓮本仏論排斥の「研究」を容認するのですか。先ずは其の事、創価学会の公式教義に則
って御答え頂きたい。

>追伸
>上記、管理人殿があげられた文言は、日蓮御影本尊論の説明があって、はじめて上記論考の趣旨が
>完成します。従って、管理人殿のいう
>はて、創価学会の本尊は何時から法本尊のみとなったのでしょうか。
>との主張は、その趣旨、論点からは、また違ったものと思われます。

ならば、宮田が云う処の「創価学会だけが日蓮の教えの通り法本尊のみを本尊としているという点に
求めることができる』という「法本尊のみの本尊」とは如何なる本尊であるのか、しかも宮田は其の
「法本尊のみの本尊」こそが日蓮(大聖人)の教えであり、創価学会だけが其の教え(法本尊のみを本尊
とする)を守っている、とも言っている。果たしてこれは事実であるのか。して、もし違うと云うので
あれば、事は宗教の根本である本尊義であるから、其れこそ創価学会員として破折すべきではないか。

其の事も併せてお答え頂こう。

尚、当宗に於いては、御影様をして「御本尊」という認識はない。爾して「尊崇」の対象ではある。
だが、あくまで「尊崇」の対象であって、我らが帰命する根本尊崇こそは、言うまでもなく人法一箇
の曼荼羅御本尊であります。

************************************************************************

以上ではあるが…。果たして、秋晴れ殿からの返答は来るのか。

今にして当室管理人は、其の答えの内容こそが大いに楽しみであるが、本より、其の内容については
学会歌の「威風堂々の歌」に有るが如き、破邪顕正の剣を振り翳(かざ)しての御返答である事を此に
期待するものである。

よろしいか、秋晴れ殿。

今こそ、日蓮大聖人は末法の御本仏ではない、という説を唱えるは謗法ですか。と幹部に訊きなさい。
そして、謗法である、と幹部が答えたならば、創価大の宮田を何とかして下さい、と言いなさい。

そして、謗法ではない、と答えたならば、それでは身延の釈迦本仏論(日蓮菩薩説)も謗法ではない、
と云う事ですか、と訊きなさい。よろしいか。

其の幹部の返答によって、現創価学会の日蓮大聖人に対する正義・不正義が見えて来るのであります。

日蓮大聖人が曰く『仏を下げ経を下す。此(これ)皆、本尊に迷へり』と。(新編 554)

仍って曰く『若し仏法を行ずる人有って、謗法の悪人を治罰せずして観念思惟を専(もっぱ)らにして
邪正を簡(えら)ばず、詐(いつわ)って慈悲の姿を現ぜん人は諸の悪人と倶(とも)に悪道に堕つべし』と。
                                       (新編 405)

学術に名を借りた仏法への違背は須らく謗法である、という事を、日蓮大聖人直結の信心を自負する
創価学会員は、今こそ其の心肝に叩き込むべきである。
 

先の訂正  兼 主張。

 投稿者:法華講のおばちゃん  投稿日:2012年10月29日(月)12時52分44秒 dae141a4.tcat.ne.jp
返信・引用
  ★創価学会、池田大作 顕正会浅井親子 あの者たちは、
日蓮正宗から破門になったものだ。

あの者たちは、破門された腹いせに、会員を巻き込ンだ。
救える力など全くないのだから、会員は、たくさん集めて、似非本を買わせ、金ずるや、選挙の票ずるにされていると見たほうが、良い。

結局今残っている学会員は、要するに、一度も、大御本尊様が何たるものか理解ができていなかったというべきか。

本尊に迷うとは!!!

今からでも遅くはない。大石寺に戻り、信心をやり直すべき。

★戻り方は、
①知り合いの法華講員に連絡し、日蓮正宗のお寺に行く。法華講の知人がなければ一人でもいいが・・・縁ある人が一緒のほうがより良い。なければここの板に、連絡ください。

②ご住職様に、今までの不信心を詫びる。

③二度と間違いはしないという誓いを、ご本尊様にする。
もう一度ご本尊様を頭に授かるのである。
 

管理人さんありがとうございます。

 投稿者:法華講のおばちゃん  投稿日:2012年10月29日(月)03時59分20秒 dae141a4.tcat.ne.jp
返信・引用
  管理人様のお名前が出て、ほっといたしました。

道に迷った者が、明かりを見つけたような心境です。

早速ですが、訂正のほうよろしくお願いいたします。;;;

 

法華講のおばちゃん殿

 投稿者:管理人  投稿日:2012年10月29日(月)03時50分19秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用 編集済
  毎々の御投稿、そして創価外道に対する呵責、まことに有難うございます。

その邪宗・邪義を破折せんとする強い一念心は、必ず法界に遍満し、又は感応して、己(おのれ)の身
に功力として返って来るのであります。

ところで、おばちゃん殿からの同文投稿が、何度も繰り返されておりますが、前(さき)にもお知らせ
致しましたが、当室は現在、管理人による「確認後掲載」にて、それぞれの投稿文を扱っております。
したがいまして、板上の【投稿】をクリックされても、即座に投稿文は掲載されません。あくまで、
当室管理人が、おばちゃん殿からの投稿文を確認した後に、それらの投稿文が掲載される事となって
おります。もちろん、それらの処置は、すべての投稿者に対してのものです。尚、当室が今回の処置
を採った理由は、前に述べたとおりであります。ご不便をおかけし、まことに申し訳ありませんが、
当分の間は管理人が確認した後に投稿文が掲載される、という形で進めていきたいと思っております
ので、何卒、よろしくお願いいたします。

尚、重複している投稿文については、こちらの方で不掲載とさせていただきます。ご了承ください。
 

血脈こそ大事

 投稿者:法華講のおばちゃん  投稿日:2012年10月28日(日)18時33分5秒 dae141a4.tcat.ne.jp
返信・引用
  いつ池田大作に法が授けられたか。
いつ創価学会に法を授けられたか。

いつ浅井親子に、法を授けられたか。

彼らは、私と同じ在家席に座って、法要に出席していた。

あの者たちは、全部、創価学会から破門になった人だ。
破門された悔しさに、御宗門に、難癖つけてきているだけ。つまらん似非教学を作り上げ
て、騒いでいるだけ。

それに、政治家が絡んでいるだけ。
なぜ、文部省は 創価学会を取り消さぬ。

国あげて、大法謗をやっているこの現実。罰あたらいでか。

あの【妄想型統合失調】が疑われる池田大作に、学会員は陶酔していた。
学会員は言われるままに、大石寺を猊下様をののしった。
まともじゃないですよ。あの会合で見せたばか言動。

会員も【アホ!!!』って、一言ってやればよかったのに。


池田の言いなりに学会員を扇動をさせていた秋谷前会長、やめたとも聞こえるし、学会員も『知っている。二年ほど前に、やめた。』といった人もいたが。




 

血脈こそ大事

 投稿者:法華講のおばちゃん  投稿日:2012年10月28日(日)15時16分57秒 dae141a4.tcat.ne.jp
返信・引用
  いつ池田が血脈を受けたか。いつ浅井親子が血脈を受けたか。
いつ身延関係のものが血脈があったか。

破門されたとたんに、勝手なことしおって。

ところで、秋谷会長やめたのか学会に残っているのか、ここに出いるする学会員は、知らないのですか。
とうとうと似非法門を書き込む知恵は持っているのにだ。自分らを率いた元会長の行方さえ書けないのか。
 

血脈こそ大事

 投稿者:法華講のおばちゃん  投稿日:2012年10月28日(日)15時07分22秒 dae141a4.tcat.ne.jp
返信・引用
  破門された時から、大石寺の御法門にケチをつけるしか、能がない者へ。

池田大作に血脈が、いつ あったというのか。
顕正会の浅井親子にに、いつ血脈があったいうのか。

北山を含む身延に、いつ血脈があったというのか。
冷静になって大石寺に戻るべきです。

これほどまでに宗教界を混乱させて。

いい加減にしなさい。大罰あたらいでか。






 

血脈の 【あるなし】が大事。

 投稿者:法華講のおばちゃん  投稿日:2012年10月28日(日)14時49分48秒 dae141a4.tcat.ne.jp
返信・引用
  ここに書き込む邪宗創価学会員へ。

日蓮正宗の御法門に、ケチを付けるしか、芸がない学会員。

破門されたとたんに、学会幹部から聞かされた御宗門批判を、そのまま受け入れ、
自分の信仰目的であった、【大御本尊様を拝む】ことを捨てた人たち。

創価学会のどこに、血脈があるというのか。
悔し紛れに、今のままお題目を唱えても功徳があり、大聖人様に直結しているなどとほざいてきたが、・・・・・

もう踊らされるのは やめなさい。
学会員は、元会長秋谷会長がやめたのかどうかさえ、分からないのですか。
やめたのならば、なぜやめたのか、考えないのですか?

今も、秋谷が学会員であるのならば、その事実をここで言って御覧なさい。

創価学会や他の日蓮大聖人の御名を語る宗派の人間たちへ。
 皆の言うことが本当ならば、血脈の次第を、大聖人様が、日興上人にされるはずはなかったのです。

大聖人様の教えは、大石寺にだけしか伝わっておりません。
誰が何と言おうと。
これは事実。

日蓮正宗から退転した人たちへ。

もう一度信心をやり直してみましょう。
 要するにあなたたちは、ご本尊様に対し奉り、拝み切っていなかったのです。

 功徳を知るところまで拝まなかった。ということです。
 猊下様を信じる信心を、していなかったということです。
だから功徳が出なかった。

大石寺の戻って 拝みなおしましょう。





身延の僧俗関係者にも言いたい。

不幸の根源は創価学会であり、大聖人の教えと言い、勝手にお題目を唱えるる宗派を立てている者達。

それに、釈尊の教えと言って、釈尊の教えと違う教えを、勝手に流布させている、既成仏教。

 

松岡幹夫の馬鹿みたいな質問を笑う1

 投稿者:天才  投稿日:2012年10月26日(金)22時38分1秒 p2203-ipbf3507hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用
  松岡幹夫が御陰尊日顕上人に宛てた
馬鹿みたいな質問に対して、
日蓮正宗青年僧侶邪義破折班が破折した小冊子が発行された。

この破折に返答不能となった松岡を
最近フェイクが庇っているようであるが、
創価学会員は知らないであろう
この質問がまた実に馬鹿みたいな内容なのである。

その馬鹿みたいな松岡幹夫の質問内容を笑っていただき、
合わせて日蓮正宗青年僧侶邪義破折班の理路整然とした
破折に拍手喝采したい。


[馬鹿みたいな男の馬鹿みたいな質問]その①

●現代人に読ませる教学の本を書くのに、
カタカナ使用の文語体を用いる必要があると思うか、思わないか。


○日蓮正宗青年僧侶邪義破折班[回答]

片仮名使用の文語体を用いようと用いまいと、
それは著述者の自由である。

なにも松岡が、その可否を論ずる理由も必要もまた権利もない。
余計な口出しをする質問は、その意義を欠いている。また、
甚深の法義書について、文語体や片仮名書きも、
自ずからその含意を助長する意味も存する。ゆえに、

当該質問は、愚問の始まりというほかはない。

松岡如き低次の者の疑問と関係なく、
当該質問の内容は論ずる必要もないことであり、
要するに不必要な質問は正しいものではない。

●対して松岡 反論不能


○私の意見
必要があると思うか思わないかという質問の仕方、
さすがにニセ本尊信奉者らしい。

思うから用いられているのであって


それは馬鹿には理解出来ない。

なぜなら、正常なら(馬鹿でなけれ)ば、
頭からこんなクダラン
質問はしないであろうと思うから。
 

秋晴れ殿

 投稿者:管理人  投稿日:2012年10月26日(金)05時58分33秒 softbank126044207177.bbtec.net
返信・引用
  >さて、本論考は創価学会の現在の会則にも見られる日蓮本仏論に関して主に検討する。とあ
>るように、いかにも学者らしい研究結果を述べたものであり、それ以上でも、それ以下でも
>ないと理解致しました。

さても検討とな? はて、そうであるならば、以下のような結論染みた事などは申しますまい。

宮田云く「私は日蓮本仏論という教義が日蓮、日興、日目、日道にはまだなく、日蓮御影崇拝ならび
に釈迦仏造立否定という日蓮正宗に伝わる化儀から、その化儀を正当化する理論として日蓮本仏論が
形成されてきたと考えている」と。

つまり「検討」して「考えに至った」つまり、そういう「結果に至った」事を宮田は述べているので
あって、本より御貴殿が云う処の「研究の結果」なのである。

仍って是れこそは「検討」の類(たぐい)に入るのではなく「論証・結論」の分野に入るのである。
つまりは「検討する」を通り越して、宮田は「それ以上」の論決を示した、という事になるのである。
従って「(宮田の研究は)それ以上でも、それ以下でもない」との御貴殿の理解は、申し訳ないが半解
という事になる。

>創価学会の公式な教学は、専ら教学部の担うところであり、宮田幸一氏もそのような理解の上に
>あって論考を述べられていると、文面の上から思うところであります。従って、宮田幸一氏の論考
>をもって創価学会の公式の教学とのお考えは捨て置いて頂くのが宜しいかと存じます。

当方は創価大の宮田が云う処(ところ)の「日蓮本仏排斥論」が創価学会の公式教義である、などとは
言っていない。そういう「創価大学の教授が主張する邪説」に対して創価学会員の誰一人もが呵責し
ようとしない、其の「見て見ぬふり」の現状を責めているのであります。果たして学会をやめた者と、
日蓮本仏論の排斥を試みる者と、一体どちらが重罪であるのか。これこそは研究する、しないの問題
ではありません。事は大聖人を末法の仏とするか否かの根本教義の問題なのであります。して、其の
根本教義を覆そうとする学者が創価大学の教授とあらば、先ずは創価学会員として注意叱責するが、
信仰者及び信仰団体としてのアイデンティティーではないですか。小生は、その事を言っているので
あります。

果たして御貴殿は、こういう「邪説」を唱える創価大教授を注意しないのですか、さても「研究大い
に結構」と日蓮本仏論排斥の「研究」を容認するのですか。先ずは其の事、創価学会の公式教義に則
って御答え頂きたい。

>追伸
>上記、管理人殿があげられた文言は、日蓮御影本尊論の説明があって、はじめて上記論考の趣旨が
>完成します。従って、管理人殿のいう
>はて、創価学会の本尊は何時から法本尊のみとなったのでしょうか。
>との主張は、その趣旨、論点からは、また違ったものと思われます。

ならば、宮田が云う処の「創価学会だけが日蓮の教えの通り法本尊のみを本尊としているという点に
求めることができる』という「法本尊のみの本尊」とは如何なる本尊であるのか、しかも宮田は其の
「法本尊のみの本尊」こそが日蓮(大聖人)の教えであり、創価学会だけが其の教え(法本尊のみを本尊
とする)を守っている、とも言っている。果たしてこれは事実であるのか。して、もし違うと云うので
あれば、事は宗教の根本である本尊義であるから、其れこそ創価学会員として破折すべきではないか。

其の事も併せてお答え頂こう。

尚、当宗に於いては、御影様をして「御本尊」という認識はない。爾して「尊崇」の対象ではある。
だが、あくまで「尊崇」の対象であって、我らが帰命する根本尊崇こそは、言うまでもなく人法一箇
の曼荼羅御本尊であります。

※追伸、

前(さき)にもお知らせ致しましたが、当室は現在、荒らし投稿を遮断する為「確認後掲載」の処置を
採っております。従って、投稿文が即時に掲載されない場合もありますので、予(あらかじ)め御容赦
の程、お願い致します。
 

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