住宅から見つかった1905年発行の「新愛知新聞」=日進市野方町の市川家住宅で
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日進市に寄贈された同市野方町東島の古民家「市川家住宅」で、明治から昭和初期ごろの新聞が多数見つかった。保存状態は良くないが、百年以上前に発行されたものや、図書館でも閲覧できないものがあり、貴重な発見といえそうだ。
市川家住宅は江戸時代の一七六九年に建造されたとされる木造平屋。母屋や別棟の座敷二棟、土蔵二棟などからなる。地域で大きな力を持っていた庄屋だった市川家の子孫が代々住んでいたが、約十五年前に無人となり、所有者が保存と活用のため市に寄付を申し入れた。
市は地域の交流拠点などとして活用する方針で、整備が始まっている。新聞は、耐震補強工事のために屋内を清掃していたボランティアが、着物を入れるたんすの敷物などに使われていたのを発見した。
記事を保存しようと残されたわけではないため、日付はばらばら。計七十三枚のうち、ほとんどは中日新聞の前身だった「新愛知新聞」。最も古いのは一九〇五(明治三十八)年四月十一日発行だ。
当時は日露戦争の真っただ中。一面トップは「波艦隊来(きた)る」と題した評論が飾っている。日本海海戦で有名なバルチック艦隊がシンガポール沖に現れたことを伝え、艦隊の勢力分析や航海目的の考察が書かれている。
尾張東部地域の記事が載っている新聞もあった。一九二四(大正十三)年七月二十日夕刊の新愛知は、民間飛行家小栗常太郎による当時の東春日井郡瀬戸町(現在の瀬戸市)での試験飛行を報じている。
記事によると、試験飛行があった十九日は付近の村落の住民を含め二万人以上の観客が市内に集まり、権現山などが人で埋まった。
小栗は飛行機で「最初は約三百米突(メートル)の高度で瀬戸町の上空を」「更(さら)に約八百米突の高度で愛知郡幡山村(瀬戸市南部)より東春日井郡旭村(尾張旭市)水野村(瀬戸市西部)の上空を飛翔(ひしょう)」し、着陸後「瀬戸町の柴田いとゑ(12)高坂ひさ子(14)の二少女の捧(ささ)ぐる花を受けた」という。
新愛知の原紙は中日新聞資料部が保管しているが一般には公開しておらず、散逸したものも多い。県図書館では、紙面を撮影したマイクロフィルムでのみ閲覧できる。
見つかった新聞の中には、資料部や県図書館にフィルムですら残っていない、現在の西尾市で明治時代に配られていた地方紙「尾三新聞」も一枚だけあった。
新聞のほか古文書や古雑誌なども多数見つかっており、市はリストを作って整理を進めている。
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