愛知郡(あいちぐん)は、愛知県尾張地方東部に位置する郡。人口42,118人、面積18.03km2、人口密度2,340人/km2。(2012年9月1日、推計人口)
名古屋市の東に位置し、以下の1町を含む。 伊勢湾東岸の丘陵地と沖積平野からなる地域で、古くから漁労や農耕が盛んに行われてきた。熱田神宮そばの断夫山古墳は尾張最大の前方後円墳で、周囲の古墳群とともに尾張氏の陵墓だと考えられている。 愛知郡の最も古い記述は、平城京出土木簡で、尾張国愛知郡と記載されている。尾張国造の本拠地であり、尾張氏が郡司と熱田大宮司を兼ねて勢力を保っていた。表記は愛智、年魚市、年魚道、吾湯市、阿由知、阿育知などとも書き、このことから元は「あゆち」と読んでいたと考えられる。語源は定かでない。713年(和銅6年)以降公式には「愛智」が用いられ、江戸時代後期になると「愛知」に変わった。 尾張源氏は多くが承久の乱で京都方に加わり衰退し、室町時代には管領斯波氏の領国となっていく。さらに応仁の乱の後に守護代の織田氏一族が勢力を固め、今川氏との勢力争いの末に織田信秀が那古野城はじめ一帯を手中に収めた。織田信長は信秀の子で那古野城生まれ、豊臣秀吉も愛知郡中村生まれだと考えられている。この頃山田郡南部が併合され愛知郡の範囲が大きく拡大した。江戸時代に入ると名古屋城が築城されて城下が整備され、近郊の村々も次第に発展していく。 1871年(明治4年)、廃藩置県により尾張藩は名古屋県となったが、翌年愛知郡の名を採って愛知県と改称された。愛知県発足当時、愛知郡は、第一大区(愛知郡名古屋など)と第二大区(その他の愛知郡が更に13小区分割)に区分された後、1876年(明治9年)、従来の第一大区は第一区となり、第二大区は、第二区となった。1878年(明治11年)、郡区町村編制法により愛知郡内の名古屋が名古屋区(1889年(明治22年)、市制施行し名古屋市)として分離独立した。 1896年(明治29年)以降、御器所村の一部、那古野村、古沢村の一部、熱田町、小碓村等が名古屋市へ編入された。その後も周辺町村の名古屋市等への編入が進む。以降の郡域は旧・山田郡の領域と考えられ、律令期の愛知郡とは重ならない。平成期は合併は行われず,名鉄豊田線やリニモ開通後の人口増を受けて日進町・長久手町が単独市制施行するなどの形で、現在は東郷町1町のみとなった。
東郷町(とうごうちょう)
目次
1 歴史
1.1 古代
1.2 中世
1.3 近現代
1.4 沿革
歴史
古代
中世
近現代
沿革
1889年(明治22年)10月1日 - 市制・町村制施行により、愛知郡に熱田町・鳴海町と45村が成立。(2町45村)
1889年(明治22年)10月1日 - 西春日井郡鍋屋上野村に愛知郡千種村の一部を編入し、同時に愛知郡に移る。
1897年(明治30年)7月12日 - 呼続村が町制施行し呼続町となった。(3町44村)
1898年(明治31年)8月22日(3町42村)
那古野村と古沢村の一部が名古屋市に編入された。
古沢村の残部が熱田町に編入した。
1902年(明治35年)2月13日 - 千種村が町制施行して千種町となった。(4町41村)
1904年(明治37年)12月10日 - 笈瀬村が町制・改称して愛知町となった。(5町40村)
1906年(明治39年)5月10日(5町16村)
鍋屋上野村と田代村が合併して東山村となった。
長湫村、上郷村、岩作村が合併して長久手村となった。
高社村、猪子石村が合併して猪高村となった。
幡野村、山口村が合併して幡山村となった。
諸和村、春木村が合併して東郷村となった。
香久山村、白山村、岩崎村が合併し、日進村となった。
沓掛村、知多郡豊明村が合併し、愛知郡豊明村となった。
広路村、御器所村が合併し、御器所村となった。
笠寺村、鳴尾村、星崎村が合併して笠寺村となった。
岩塚村、柳森村、松葉村が合併して常磐村となった。
鷹場村、日比津村、織豊村が合併して中村となった。
荒子村、御厨村、一柳村が合併して荒子村となった。
明徳村、寛政村、宝田村が合併して小碓村となった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:Oak-9