山田郡(やまだぐん)は、かつて尾張国東部に存在した郡である。戦国時代に廃止され、春日井郡と愛知郡に分割編入されたが、その具体的な領域や廃止時期などに不明な点が多い。概ね現在の瀬戸市、名古屋市守山区、天白区で囲まれる領域周辺に相当すると考えられる(詳細は後述)。
目次
1 歴史
2 名前の由来
3 領域
3.1 地名
3.1.1 古代
4 参考文献
5 関連項目
歴史
676年(天武天皇5年)9月21日 - 大嘗祭の悠紀として尾張国山田郡が卜定される。(日本書紀)
752年(天平勝宝4年) - 郡内の寺田が東大寺に勅施入される。
909年(延喜9年) - 山田庄が立券される。
戦国時代半ば、山田郡は矢田川近辺を境に分割され、春日井郡(後の東春日井郡、西春日井郡)と愛知郡に編入される。
史料上に山田郡の名が見えるのは、1548年(天文17年)2月14日付け瀬戸市熊野神社棟札に「尾州山田郡八事北迫菱野村」とあるのが最後である。1570年(元亀元年)の亀屋天王社鰐口銘文では「春日郡山田庄小幡長谷村」とあることから、16世紀中頃に分割されたと考えられる。(上村喜久子説) 郡名の由来ははっきりしないが、安閑天皇の皇后春日山田皇女の御名代部に由来するという説がある。継体天皇は尾張氏をはじめとする地方豪族の支持を受けて即位しており、尾張草香の娘との間に生まれた子が安閑天皇となっている。安閑天皇は短い治世の間に多数の屯倉を設置しており、皇后の屯倉の1つとして尾張におかれた御名代部が山田郡の由来ではないかとするものである。 東は三国山(美濃国・三河国との境)、北は玉野川(庄内川)、南は境川(三河国との境)が郡境と伝えられている。しかし特に愛知郡との境界については諸説ある。少なくとも現在の瀬戸市、尾張旭市、長久手市、日進市、名古屋市守山区、名東区の全域が含まれ、それに加えて西区、北区、東区、千種区の矢田川南岸一帯、さらに天白区や東郷町北部を加える説が有力である。 東境が美濃国・三河国との境界であるという点はほぼ共通した理解である。 北境は庄内川とするのが一般的であるが、河道の変遷が激しいためとくに西部ではっきりしないところがある。 1143年(康治2年)『安食荘立券文』(醍醐寺文書)に春日部郡安食荘の南限が山田郡との郡境河川であると記されている。近世には春日部郡の成願寺、中切、福徳(いずれも現在名古屋市北区)が安食荘と呼ばれていたことから、その南の旧矢田川河道がかつての庄内川流路であり、春日部郡と山田郡の境界だったと考えられる。 南境は矢田川と庄内川の合流点を西端に、近世の春日井郡と愛知郡の郡境に沿って鍋屋上野(現在名古屋市千種区)に至り、とくに北区山田町は山田荘の中心地だったと想定されている。 その先が不詳であるが、 天文21年『桜井文書』や大永5年『後奈良天皇綸旨』(祐福寺文書)を参考にして、鍋屋上野から丘陵を南下して八事周辺から天白区を通って東郷町で三河国に接するという意見がある。(上村喜久子説?新修名古屋市史2巻第1章第3節50-71「郡の改廃と変質」) 一方で、東海道両村駅 『和名類聚抄』高山寺本には以下の7郷が記されている。 東急本にはさらに、余部、駅家、神戸の3郷が記されているが、駅家が両村との関係を覗わせる以外は詳細がわからない。他に8世紀中頃の正倉院文書に山田郷が記されている。 表・話
名前の由来
領域
地名
古代
船木(ふなき)
主恵(すえ)
この地域には古窯群が多く須恵器に関連した地名と想像される。千種区の末盛などに比定する意見がある。
石作(いしつくり)
長久手町岩作(やざこ) 750年(天平勝宝2年)の史料に初出。
志談(したみ)
守山区志段味 和名抄には「志誤」と記されているが誤記だとされている。
山口(やまくち)
瀬戸市山口 郡郷のみであるが平城宮出土木簡に記されている。
加世(かせ)
両村(ふたむら)
豊明市二村山 750年(天平勝宝2年)の史料に見えている。東海道両村駅
参考文献
北区誌
日進町誌
長久手町史
尾張旭市誌
関連項目
消滅した郡の一覧
愛知県
西春日井郡
東春日井郡
愛知郡
山田郡 … 群馬県、三重県、香川県に同名の郡が存在した。