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1941年12月8日

2012/10/18 23:00

 

1941年12月8日。この日は、日本帝国海軍機動部隊が真珠湾を攻撃し、

大東亜戦争が勃発した日である。

世界にとって大きな衝撃を与えた日

詩人の高村光太郎は、その日の興奮をこう表している。

記憶せよ、十二月八日

この日世界の歴史あらたまる。
アングロ・サクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる。
否定するものは我等ジャパン、
すがめたる東海の国にして、そを治しめたま明津御神あきつみかみなり。
世界の富を
壟断ろうだんするもの、強豪米英一族の力、われらの国において否定さる。

我らの否定は義による。
東亜を東亜にかへせといふのみ。
彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。
われらまさに其の
爪牙そうがくだかんとす。
われら自らの力を養いてひとたび起つ。
老若男女みな兵なり。
大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
世界の歴史を両断する十二月八日を記憶せよ。

高村光太郎

日露戦争の立役者、秋山真之の著書『天剣漫録』に、こんな一説がある。

「敗くるも目的を達することあり。勝つも目的を達せざることあり。真正の勝利は目的の達不達に存す」

 

タイのククリット・プラモード首相は、『十二月八日』と題する文章で次のように述べている。

日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米・英と対等に話しができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。

12月8日は、われわれにこの重大な思想をしめしてくれたお母さんが、一身を賭して重大決心された日である。われわれはこの日を忘れてはいけない。

 

ククリット・プラモード元タイ首相

 

太宰治は、次のように静かな感動を記している。

十二月八日。早朝、蒲団の中で、朝の仕度に気がせきながら、園子に乳をやっていると、どこかのラジオが、はっきりと聞こえてきた。

「大本営発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」

 

しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞こえた。二度、朗々と繰り返した。それをじっと聞いているうちに、私の人間は変わってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹を受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。

 

 

坂口安吾『真珠』

僕はラジオのある床屋を探した。やがて、ニュースがあるはずである。客は僕ひとり。頬ひげをあたっていると、大詔の奉読、つづいて東条首相の謹話があった。涙が流れた。言葉のいらない時が来た。一兵たりとも、敵をわが国土に入れてはならぬ。

 

伊藤整『十二月八日の記録』

 

この日、わが海軍航空隊が大挙ハワイに決死的空襲を行ったというニュースを耳にすると同時に、私は急激な感動の中で、妙に静かに、ああこれで良い、これで大丈夫だ、もう決まったのだ、と安堵の念の沸くのを覚えた。この開始された米英相手の戦争に、予想のような重っ苦しさはちっとも感じなかった。方向をはっきりと与えられた喜びと、弾むような身の軽さとがあって、不思議だった。

 

 

当時のラジオ放送については、Youtubeで聞くことができる。

 

武者小路実篤 『文芸』誌上

大東亜戦争の使命というものが、実にはっきりし、現代の大日本ほど、後期ある時代はないということをはっきり自覚できたからである。現代の日本が生まれるために、今までの日本が表意されていたともいえる。その誇りが我らを明るくしたともいえる。
…そして僕らの使命はこの戦争の使命をアジアの人たちが心をひとつにして英米の支配下のものを救い、独立して立派に生きるように協力することが以下に大事なことかを知らせる点にあると思う。

 

火野葦平『荘厳な感動』

 

私はラジオの前で、ある幻想に囚われた。これは誇張でもなんでもない。神々がアジアの空へ進軍していく姿がまざまざと頭の中に浮かんできた。その足音が聞こえる思いだった。

 

戦後教育を受けてきた我々の視点からすると、いささか熱狂的に過ぎるように感じるかもしれない。これが軍国主義なのだろうか。全体主義的な社会風潮で、心にもないことを言っているのだろうか。

それは違うと思う。大東亜戦争は、決して一部の戦争犯罪者が熱病に浮かされて始めた狂気の戦争ではない。歴史の必然と功績があった。

 

インドネシアアン・トモ元情報・宣伝相は、1957年の来日時にこう語っている。

そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、我々がやらなければならなかった。そして実は我々の手でやりたかった。それなのに日本にだけ担当させ、少ししかお手伝いできず、まことに申し訳ない。

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