早稲田大学TOPページへ戻る 早稲田大学TOPページへ戻る

オピニオン

No.154 アスベスト問題をどう読むか

1.アスベストによる環境リスクの広がり

 従来は作業現場の問題とされてきたアスベストによるリスクが、材料としての使用とともに、影響の範囲が次第に広がりつつある。図1は、鉱山からアスベストが採掘されてから、原料や材料の製造、製品の施工や利用、さらに廃棄・リサイクルに至る一連のライフサイクルにおいて、作業環境のみならず、居住環境においても曝露の機会があることを示している。

図1 アスベストのライフサイクルからみた汚染機会


 労働環境以外で今後のリスクが考えられるのは、局所的に濃度が高まる場合と、それ以外の一般環境である。図2に、それらの特性を整理した。特に、局所的な曝露においては、工場周辺、廃棄物処理・処分場周辺、幹線道路周辺などの屋外環境とともに、吹き付けアスベストや保温材などによる室内汚染も考えられる。このうち、前者については、公害的な側面を有する場合も考えられる。
図2 居住環境における汚染機会の分類

2.環境リスクの程度はどのように見積もられるか

 環境への影響が懸念される物質のリスクの程度を推定するために、一般に用いられている方法は、試験管による実験や動物実験から得られた結果を基礎とするものである。これは、環境中における対象物質の存在量が微量であることに加え、影響が「がん」という形で発生することが多く他の原因物質との関係が区別しにくく、人体への影響を検出しにくいことによる。これに対し、アスベストによる影響の一つに悪性中皮腫という特殊な疾患があり、既に統計的なデータが得られている。こうした特性を生かして、疫学的な統計モデルを用いた将来予測を行うことができる。医学分野の専門家とともに行った共同研究の結果によれば、胸膜と呼ばれる肺を覆った膜の部分に発生する悪性中皮腫で死亡する男性は、2000年からの40年間で約10万人と推定される。

 一方、アスベストを用いた製造工場の作業者を対象とした調査の結果に基づいて、作業現場より濃度の低い環境におけるリスクを推定することも可能である。その結果によれば、特にアスベストの局所的な汚染源がない環境にみられるような大気中1リットルあたり0.1本程度の環境濃度で生涯生活した場合、10万人に1.8人程度がこの物質の影響で死亡すると推定される。また、90年代以前の環境モニタリングの結果にみられるように、1リットルあたり1本程度の濃度であれば1万人に1.8人程度、大気汚染防止法の中で1989年から設定されたアスベスト関連の製造工場の敷地境界における基準として用いられている1リットルあたり10本程度だと、1000人に1.8人程度ということになる。

 外国の公的機関でも同様の研究がなされており、米国の環境保護庁(EPA)は、1リットルあたり0.1本程度で10万人に2.3人、世界保健機関の欧州地域事務所による報告では、同様の濃度で喫煙者の場合、10万人に4.4人、非喫煙者の場合10万人に2.2人としている。いずれも、1リットルあたり0.1本の濃度で10万人に1人程度の生涯リスクであることを示している。

3.リスクの程度をどう考えるか

  1996年に当時の環境庁に設置されていた中央環境審議会は、「今後の有害大気汚染物質対策のあり方について」という答申をまとめた。これまで国が設定してきた環境基準はそれ以下ならば影響が発生しないことを前提にしてきた。しかし、最近の環境汚染により発生するとされている「がん」は影響が見られなくなるレベル(閾値)が存在しないとされているため、基準を設定することができなかった。そこで、閾値のない物質に対する環境基準の考え方を示しており、他の災害や事故のリスクレベル、他の国々の動向、関係者へのヒアリングなどをもとに議論した結果、環境リスクを低減するための当面の目標として、特定の物質が人々の一生涯に与えるリスクのレベルを10万人に1人程度と設定した。外国では、こうしたレベルを実質安全容量(VSD)と呼んでいる。仮に、国が定めたレベルで考慮すると、現在、特定の汚染源がない状況でみられる1リットル中0.1本程度であれば、VSDと同程度、すなわち、実質的に安全とみなしうるといえる。それに対して、大気汚染防止法で定められた敷地境界基準のレベルは、国が定めたVSDの100倍程度になると考えられる。工場の敷地境界直近に一生涯住み続ける人はいないので直ちに問題だとはいえないが、リスクのレベルとしてオーダーが2桁高いことに注意を要する。

4.日本の対応をどうみるか

 日本の対応を考える場合、絶対的な側面と相対的な側面の2つがあるように思われる。前者は、被害が顕在化する前に適切な対応がなされたかどうかという視点であるが、既に明らかになってきている中皮腫患者の増加傾向からみれば、事前に対応できたとはいえない状況にある。特に、女性の死亡者数が徐々に増加していることは、労働環境以外での曝露による影響が顕在化しつつあることを示唆しているように思われる。

 一方、後者の視点でみた場合、他国に比べて、労働環境を含めた規制や管理に遅れがなかったかということが検討の対象になろう。わが国の対応を考えるとき、1つの指標としてアスベストの輸入量の変化に着目してみたい。通常、欧米の先進国においては、使用量が増加した後ピークを迎え、徐々に減少していく。それに対し、わが国の輸入量は2つのピークを持っている。1つは1970年代前半、2つ目は1980年代後半である。1987年には小中学校の教室に吹き付けられたアスベストによる汚染が問題になり、アスベストの有害性が社会的に認知された。アスベストの有害性が認知され先進各国が消費量を減少させるなか、日本は逆に輸入量を増加させた。その理由を検討することが、日本の取った対応の特徴を明らかにすることになるにように思われる。この時期、日本はバブル経済に向うスタート地点にあり、経済的に好況期に入りつつあったことが関係しているかもしれない。

5.公害・環境問題としてのアスベスト汚染

 この問題が公害問題として認知されるかどうかは、今後の詳細な調査や分析の結果を待つ必要がある。その際、これまでの典型的な公害と比較して、特徴と思われる点を2つ挙げたい。1つは、原因物質が特定されており、関連疾患も特徴的なものであるという点である。2つめは、複数の発生源の存在に加え、ライフスタイルが多様化したことが原因の特定を困難にする可能性が挙げられる。アスベスト関連疾患との関係を明確にするためには、個々人のこれまで曝露機会を可能な限り過去に遡って追跡できるシステムを確立することが極めて重要である。既に労働災害を主眼においた中皮腫の登録制度が提案されてきたが、広く一般の居住者も対象にした曝露歴の把握が可能な仕組みを構築すべきである。

 また、環境問題としてみた場合、今後の汚染の可能性にも注意しなければならない。わが国がこれまでに消費したアスベストは1000万トンに上り、そのうちの大半が建築資材に使用されてきた。このうち、最も汚染が懸念されるのが屋内の天井やボイラー室などに施された吹き付けアスベストである。米国では吹き付けアスベストを一気に除去しようとしたため、施工水準が低くなり、かえって汚染を拡大したという経緯があった。必要な対策を見極め、適切な対策を行うことが可能な施工業者の要請が課題である。イギリスでは、1983年から施工業者の免許制度を開始し、2003年現在で700を越える業者が登録されている。免許は3年ごとに更新され、施工した工事の水準によっては免許を取り消される。

 量的に最も多いのは石綿セメント板と呼ばれる材料であるが、通常の状態であれば、吹き付けの場合に比べアスベストが飛散する可能性は格段に低い。ただし、甚だしい劣化がある場合や、建築物の解体時における施工方法によっては、著しい飛散が懸念される。イギリスでは吹き付けを含めたアスベスト建材の所在や劣化の程度などを、一般住宅以外の全ての建築物の持ち主や管理者がチェックし、必要な措置を施す義務を課す制度を、2004年5月よりスタートさせた。今後の環境曝露を最小限に抑えるためには、こうした制度の検討も必要である。

6.問われる企業の「社会的責任」

 アスベストの輸入、加工、製品の生産、施工といった一連の作業に関わった企業は、これまでの報道にあるように過去にアスベストの有害性を認知していたと考えられる。また、アスベストを専門に扱う企業だからこそ得られる外国の規制や企業対応の動きに関する情報を通じて、より早くこの問題に対応できたはずである。ところが、環境曝露という形で問題が社会的に認知されると、今度はアスベスト対策に貢献する企業として注目される傾向にある。なかには、今回の社会問題化により対策が進むという期待感から株価が上昇機運にある古手のアスベスト関連企業がある。これでは、問題を自ら作り出し、自ら対策に乗り出そうとする「マッチポンプ型産業」というそしりを免れないのではないか。

 国が過去の取組みを検証し、補償を含めた新たな制度を検討することは極めて重要である。しかし、それによって、この問題に関わった関連産業の社会的責任が不当に免責されることがあってはならない。企業がこれまでに知りえた情報から労働安全や環境保全に対する社会的責任を果たしてきたのか、十分な検証を行い、産業界が果たすべき責任を明確にした上で、有効な補償制度を検討すべきである。

 アスベスト問題が早くから社会に影響を与えている英国では、法廷の場で確定した企業からの賠償額を勘案して、じん肺等労働者補償法による支出額を検討する形をとっている。アスベストによる関連疾患は症状の認定もさることながら、原因の確定も困難であるため、個々の事例について関連企業の責任範囲を明らかにしたうえで、なお補えない部分を社会的に支える一つの方策として参考になろう。

 昨今注目されている企業の社会的責任(CSR)では、法律を遵守することを前提としたうえで、社会の一員としてさらに何をすべきかが重要な課題となっている。真の意味での社会的責任が問われるべきである。

7.予防原則を踏まえた意思決定システムの模索

 欧州委員会の環境研究所(European Environmental Agency)は、2002年に「早期警告からの遅い教訓」という報告書をまとめた。これは、20世紀に問題となった12の事例を対象に、環境問題に対する科学的知見が対策や規制にどのように生かされてきたかを検証している。その中で、アスベスト問題は対応の遅れた事例として扱われ、そこから10の教訓が導き出されている。このように、科学的知見があつまっても様々な要因で規制や対策が遅れる可能性は、今後も否定できない。むしろ、意思決定のあり方に課題が大きいのではないかと考えられる。

 今年の7月に訪問したカリフォルニア州のサンフランシスコ市では、2003年に予防原則に関する条例を世界で初めて制定し、具体的な取組みが始まっている。条例制定段階では企業や行政、議会議員に加えて、サンフランシスコ湾域の環境NGOが連合体を形成して、意思決定に参加している。1年半にわたる議論の末、今後の環境行政の原則を示す条例を制定した。この条例が有する特徴は、事業者が使用物質の有害性に関するできるだけ正確な情報を提供すること、それらの情報をもとに、問題を解決するための選択肢を挙げそれらを評価すること(オールターナティブアセスメント)、こうした議論を様々な関係主体のもとで行うこと、などである。サンフランシスコ市でこの問題を主として扱ってきた担当者が、今後の課題として「市民の意味ある参加」を強調していたのは印象的であった。

 今後検討すべき化学物質に対しては、有害性に関する情報に一定の制約があり、科学的判断だけでは明確な結論が得られない可能性も出てきている。こうした問題に対処するためには、その時点で得られる可能な限りの情報を踏まえた上で、市民やNGOを含めた関係主体がオープンな形で議論し、今後の方向性を模索していくことが重要ではないかと考えられる。

 今回のアスベスト問題を契機として、環境行政に関する意思決定のあり方を見直す契機とすべきである。

8.世界的な動きとの連携

 欧米の先進国が使用禁止を実施しつつある一方、発展途上にある地域では、逆に使用量が増加する傾向にある。特に、中国、インド、タイといった国々では、アスベストの輸入量の増加が著しい。なかでも、中国は自国にアスベストを産出する鉱山を有しているため、年間の消費量は50万トンを越えるといわれる。

 発展途上地域で作業に従事する人々が、アスベストの危険性を十分に周知されず、先進国ではおよそ考えられないような労働環境で作業している可能性は否定できない。仮に日本国内における対応が改善されたとしても、同じような問題が海外の途上国へ移っているとすれば、真の解決とはいえない。

 2005年8月にカナダのケベック州にあるアスベスト鉱山周辺を視察する機会があった。関係者の話からは、過去の対策のレベルからは著しく改善されていること、青石綿や茶石綿などのアンフィボール系と呼ばれる種類と現在鉱山から採掘しているクリソタイルは種類が異なり、安全性に問題はないとしている。このような主張のもとにアスベストの輸出先が途上国に移行しつつある現在、これまでにアスベストを使用してきた国としての経験と教訓を伝える必要があろう。

(2005年9月5日更新)


※この特集はasahi.comに2002年10月〜2008年3月まで掲載されたものです。
※掲載内容を早稲田大学と朝日新聞社に無断で転載することを禁じます。

◆最新オピニオン掲載中!
WOL × YOL


先頭へ戻る