地元でもあちらこちらで「景観保存」や「街おこし」活動が盛んになってきつつあり、「街の活性化」のためには、まことに喜ばしい話だが、わたし自身も「黒江の町並み景観づくり」運営協議会の1サポーターを努めており、「街おこし」には話題となる何らかの核が要ると強く感じています。
上に述べたことの一つのモデルとなるのが、今回採り上げようとしている「沙也加」で街おこしに取り組もうとしているグループの話なのですが、天正時代に大坂本願寺(一向宗・浄土真宗)が織田信長と長きにわたる戦のなかで鉄砲集団として本願寺派に味方した雑賀衆が反信長派の代表として地元でも未だに英雄視されています。信長は大坂本願寺を陥落させられないのは雑賀鉄砲集団のためだとして、本願寺との戦の途中にもかかわらず、大坂本願寺を陥落させるには、まず目の上のたん瘤である雑賀衆征伐のため天正5(1577)年2月、数万の兵を差し向けましたが、徹底的に雑賀衆を打ちのめすことなく雑賀衆と和睦し兵を引いたと云われていますが、その背景には反信長方の毛利か上杉が信長軍の背後を襲うという情報が信長をしてそうさせたという説があり、そのぐらい雑賀衆は鉄砲集団として信長を怖がらせた存在だったようです。
その証拠に本能寺の変のあと信長に代わって天下をとった豊臣秀吉は天正12(1584)年十数万の兵を動員し、自ら紀州征伐に出陣し根来寺を焼き払い雑賀衆が籠もる太田城を水攻めにするなど紀州全土を平定しました。このとき焼き払われた神社・仏閣は数知れずといわれるぐらい凄まじいモノだったそうです。このとき雑賀衆もその勢力を大きく失ったと言われています。
さて、本題に戻って司馬遼太郎はその著「尻啖え孫市」や地元の作家津本陽「雑賀六字の城」同、神坂次郎「海の伽耶琴(かやぐむ) 雑賀鉄砲衆がゆく」等々が雑賀衆のことを著し、「沙也加」については豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき鉄砲集団として渡朝し、「この戦いに義あらず」として朝鮮方に味方し帰化し「沙也加」と名乗ることには諸説あり、いまだ結論は出ていないが、司馬と神坂は孫市の子孫市郎が秀吉の朝鮮出兵の時、彼の地に渡り、日本軍から離れ朝鮮軍に味方し、「沙也加」となったとの説を唱え、それを小説化している。
そして司馬遼太郎、神坂次郎氏とも親交がある慶長の役のとき朝鮮から拉致された陶工の後裔である薩摩焼窯元・第14代沈寿官氏(司馬遼太郎著『故郷望じがたく候』の主人公です)自らが「沙也加」は「雑賀衆」の説に賛同しておられます。
第十四代「沈寿官」 |
また地元和歌山県や和歌山市は「沙也加」を雑賀の後裔とする立場をとり、彼らが住む韓国大邱市と友好関係にあり、相互交流を行っているし、相互に施設を建設し合っている。「沙也加」=「雑賀衆」には疑問が残ろうとも、そうではなかろうか?とかそうであろうというロマンがあることは観光資源として観光客を呼び込む意味からも街おこしの意味からも面白い話ではなかろうかと想う次第である。日韓友好に政府間ではお互いを否定し合う今日、せめて民間レベルでは、この史実をもとに友好の輪や相互交流の場が拡がることに期待したい。
◆ ◆
沙也可ゆかりの地紹介 市民団体がマップと説明板・「わかやま新報」10月16日 より転載
どちらも日本語と韓国語を併記しており、辻会長(68)は「目的は和歌山市の活性化です。
全国や韓国から観光客を誘致し、市内に泊まってもらえるようにしたい」と話している。
全国や韓国から観光客を誘致し、市内に泊まってもらえるようにしたい」と話している。
マップはA2の大きさで、雑賀衆の他、紀伊風土記の丘や李眞榮(り・しんえい)・李梅渓(り・ばいけい)顕彰碑など朝鮮半島との歴史的な交流地も含めた16カ所を掲載。観光協会やゆかりの地、韓日友好館などに1万枚配布する。
また生誕地説明板が設置された平井中央公園は、雑賀(鈴木)孫一の居城「平井城」があったとされる場所。平井のまちづくりや歴史保存を目指す「NPOまち」の池田清郎副代表(62)は「街おこしの会とはテーマが重なっており連携できる。ロマンです」と設置を見守っていた。
同会は、マップや説明板を使ったバスツアーも実施する予定で、日本語と韓国語の語り部も養成している(本年度の県「地域・ひと・まちづくり事業」と市「わかやまの底力・市民提案実施事業」補助)。
沙也可は、約420年前の朝鮮出兵の際、「この戦いに大義なし」と朝鮮軍に味方した日本人。その後朝鮮に帰化し李王朝の将軍になった。韓国に数千人の子孫がいるとされる。
沙也可が誰であるかには諸説あるが、紀州雑賀鉄砲衆の頭領・雑賀孫一の嫡男・孫市郎説が有力で、沙也可の子孫が和歌山市を訪れるなど交流を進めてきた。韓国・大邱(てぐ)広域市にことし5月完成した「韓日友好館」には、和歌山コーナーも設けられている。(わかやま新報より転載)
2012/5開館した「韓日友好館 |
和歌山市から贈呈された雛人形、右端は「馬冑」 |
「雑賀衆・沙也加で街おこしの会」活動記録
「沙也可」が豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、現地に残り、当時の王朝の将軍に昇りつめた、雑賀一族の末裔ともいわれる武将「沙也可(さやか)」を通じて、まちを活性化しようという取り組みが、和歌山市で始まっています
・ゆかりの地巡るツアー来月開催(10/10.WBS和歌山放送より引用)
マップを手にPRする「雑賀衆・沙也可で街おこしの会」の辻健会長(右)ら
これは、雑賀衆・沙也可で街おこしの会が、沙也可を日韓友好の架け橋にし、和歌山市に来る観光客を受け入れる体制を作ろうと活動しているものです。活動の一環で、会は、沙也可ゆかりの地などをまとめたマップ1万部を作成しました。マップには、沙也可の顕彰碑が建立されている、和歌山市和歌浦の紀州東照宮や、生誕の地など16ヵ所が紹介されています。
生誕の地とされる、和歌山市平井にある平井中央公園には、きのう(9日)午後、沙也可を紹介する高さおよそ2メートルの看板が設置されるなど、観光客を受け入れる体制の整備が進められています。
さらに、雑賀衆・沙也可で街おこしの会は、これまでの活動の集大成の1つとして、沙也可ゆかりの地をめぐるバスツアーを、来月(11月)18日に実施します。ツアーでは、顕彰碑がある紀州東照宮や生誕の地を巡り、沙也可の生涯をたどります。参加費用は2000円で、事前の申し込みが必要です。詳しい問い合わせ先は、雑賀衆・沙也可で街おこしの会 事務局 電話 073・461・1515です。
ザ・ビート代表の岡村康司さんの歌の披露です。和歌山初のプロバンド結成後に、NHKドキュメンタリー番組に出演後に大変な反響があったそうです。沢山のCDを出されていますが、今回は沙也可のために作っていただいた2曲を歌ってくださいました。
日韓交流センター(韓国 テグ市)の和歌山市のブースがオープンした5月に韓国語で現地で披露されました。今日は日本語で歌ってくださいました。
「沙也可むくげ咲く丘」(岡村氏作曲)・「いつか風になって」(作詞・作曲岡村氏)
韓国舞踊
キム・ヒャンス先生のソロのプチェチュムという扇の舞です。
ヒャンス先生とお弟子さん達の剣の舞です。

和歌山市立博物館 主任学芸員の太田宏一氏の講演です。
「火縄銃と雑賀衆そして戦国時代」という演題でした。
「雑賀衆。沙也可でまちおこしの会」の辻健会長の講演は「降倭将軍
沙也可を通しての日韓交流と地域活性化」でした。
・「雑賀衆「沙也加」で街おこしの会パンフレット作成・2011.06.17
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(クリックで拡大します 大きくしてお読み下さい)
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沙也加こと金忠善将軍の顕彰碑、紀州東照宮に建立 ・2010/12/09 【東京・聯合ニュース】
壬辰倭乱(文禄の役)当時、朝鮮に攻め込みながら朝鮮に帰化したとされる日本人武将・沙也可(さやか)、朝鮮名・金忠善(キム・チュンソン)の顕彰碑が日本の和歌山県和歌山市・紀州東照宮境内に建立された。和歌山が地元の自民党の二階俊博衆議院議員が9日、聯合ニュースに伝えた。
「沙也加」顕彰碑・和歌浦・東照宮境内 |
顕彰碑は、日本のNPO法人「和歌山の観光を考える百人委員会」が、金忠善(沙也可)に関する韓日国際シンポジウムを開催したのを記念し建立した。先月13日に現地で除幕式が行われ、二階議員のほか、金忠善(沙也可)を小説で描いた作家の神坂次郎さん、金忠善14代目子孫の金在錫(キム・ジェソク)さんら、韓日合わせ70人余りが参加した。
顕彰碑の高さは1.5メートルで、アシアナ航空が寄贈した韓国産陰城石製。韓国語と日本語で、神坂さんの文章と韓日友好を願う言葉が刻まれている。
金忠善(沙也可)は1592年の壬辰倭乱(文禄の役)で、加藤清正の先鋒として鉄砲隊を率い朝鮮に渡ったが、この戦いには理由がないとして投降。朝鮮の武将として戦功を立て、正2品の正憲大夫に取り立てられた。子孫は韓国全国に7000人余りいる。出自については和歌山県出身などさまざまな説がある。
顕彰碑の高さは1.5メートルで、アシアナ航空が寄贈した韓国産陰城石製。韓国語と日本語で、神坂さんの文章と韓日友好を願う言葉が刻まれている。
金忠善(沙也可)は1592年の壬辰倭乱(文禄の役)で、加藤清正の先鋒として鉄砲隊を率い朝鮮に渡ったが、この戦いには理由がないとして投降。朝鮮の武将として戦功を立て、正2品の正憲大夫に取り立てられた。子孫は韓国全国に7000人余りいる。出自については和歌山県出身などさまざまな説がある。
嘘で町おこしはかえって禍根を残すことになるでしょう。
返信削除匿名さん
返信削除沙也加については、諸説あることは事実ですが、貴殿が言う
「嘘」と言い切れる根拠があるのでしょうか?お尋ねします。
沙也加の里、韓国「友鹿里」では韓日友好館があり、そこには
「和歌山」コーナーが設けられ、彼らも紀州雑賀説を有力視し
和歌浦・東照宮の「沙也加の碑」が建立されたとき、韓国から
後裔にあたる方が参加し、シンポジュームも開催されました。
「義経伝説」も多数あります。北海道に逃れたとか、果ては
モンゴルに渡ってジンギスハーンになったとか、有名人の
消息については、我が町の町おこしに使われることも多いです。
ロマンがあっていいじゃありませんか!
ではまず孫市郎が朝鮮半島へ渡った証拠を見せてください。
返信削除「名護屋古城記」には孫三郎が鉄砲衆として名護屋まで来たことが書いてありますが、この孫三郎は後に水戸徳川に仕えた鈴木孫三郎重朝なのでありえませんね。
太閤記でも雑賀衆は名護屋留置になってます。名護屋まで行ったが渡海しなかった点で一致しますね。
ところが27日の新聞各紙で辻健会長は「孫市の長男で朝鮮出兵から帰っていない孫市郎」と断言しているわけですから、何か史料があってのことではないのですか?
沙也可は加藤清正の侍大将と自称していたようですが、清正に雑賀の侍大将はいません。
また、沙也可は3000の兵を持っていたそうですが、3000人動員出来るのは大名クラスです。
ちょうど長宗我部元親が3000人でした。
また、雑賀とする根拠がサヤカとサイカの音が似ているからとのことですが、そもそも沙氏の也可なので比較対象が違います。
鉄砲を使う人は雑賀以外にも沢山いました。
沙也可が日本から持ってきたという辛卯式戸籍なるものは日本に存在しません。
雑賀の末裔で歴史家の鈴木眞哉氏も自著で沙也可雑賀説を否定しています。
>和歌浦・東照宮の「沙也加の碑」が建立されたとき
説を既成事実化するために石碑を建てるのも後世に禍根を残すことと思います。
何でも経済優先でいいのでしょうか?
義経チンギスハンの与太話を引き合いに出してますが、これを史実と思っている日本人はおそらくいないでしょうし、チンギスハンが国家的英雄のモンゴルでわざわざ日本人だったと主張する人もいません。
青森のキリストの墓は海外では完全に笑いものです。
匿名さん
返信削除小生にこんな議論を吹きかけられては困ります。
わたしは、「町おこし」をするのは何か核になるモノが必要だ
ということで、たまたま町おこしで沙也加を採り上げられてい
る会の活動を耳にして、掲載されているマスコミ各社のご了解
を得てブログに採り上げただけのことです。
歴史は好きですが、所詮アマチュア歴史好きだけのことで、
ご貴殿の方が雑賀についての歴史に詳しい和歌山市在住の雑賀
関係者だと憶測しますが、人に議論を吹きかけるのに匿名とは
どう思いますか?名も名乗らず失礼とは思われませんか?
わたしは市立博物館の太田宏一主任学芸員さん「雑賀孫市の会」
の森下幸生会長さんとは面識があり、「雑賀」のことは少しは
分かります。
雑賀関係の鈴木・雑賀一族研究会の雑賀圭五会長さんのこんな
話があります。この続きの10.22を併せてご覧下さい。
そこには、次のようにあります
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「雑賀・沙也可一族」・池田 隆 2012.8.10
十年ほど前に街道歩きの仲間であった雑賀さんから聞いた話。彼は退職後に和歌山の実家に伝わる古文書の解読に頑張ってい
るという。司馬遼太郎の小説「尻喰らえ孫市」を思い出し、
主人公の雑賀孫市の話題を持ち出してみた。
すると彼は雑賀総本家の末裔で、日本全国に散らばった雑賀
姓の人たちを束ねる日本雑賀一族会の会長とのこと。
司馬遼太郎も彼のご実父を訪ね、当家の資料を調査していた
そうだ。雑賀孫市は戦国末期にいち早く鉄砲技術を導入し、
紀ノ川の河口周辺で勢力を張った雑賀衆の頭目である。
信長の石山本願寺攻めに対して激しく抵抗する。
雑賀さんは私と一緒に歩きながら、「史実については諸説あ
るが、…」と断りながらも雑賀一族の後日譚を語ってくれた。
それは司馬遼太郎の小説以上に興味深い。
信長の滅後、小牧・長久手の戦いで雑賀一族などの紀州勢は
家康方につき秀吉を大いに悩ます。それに怒った秀吉は徹底し
た紀州攻めを行う。その結果、雑賀一族は秀吉の傘下に入るが
苛酷な事後処置に強い恨みを抱く。
文禄の役で雑賀一族は加藤清正の軍に加わり、鉄砲技術を持
たない朝鮮勢を一気に攻立てる立役者となった。しかし秀吉に
強い恨みをもつ雑賀一族の一部が休戦期間中に秘かに寝返り、
相手に鉄砲技術を教えた。交渉決裂で再出兵となった慶長の役
では朝鮮勢も鉄砲で応戦し、今度は秀吉軍も苦戦を強いられた
その時に朝鮮側に鉄砲技術を教えた人物は「沙也可」と伝えら
れる。「サイガ」が訛ったのであろう。彼の子孫は大邱市近郊
の友鹿洞(ウロクトン)村に住みつき、救国者の末裔として周
囲から称えられてきた。
「今でも日本の雑賀一族と韓国の沙也可一族は親密に交流して
いる。日韓ワールドカップ共同開催に合わせ一層交流を深める
計画だ」と雑賀さんは張切っていた。私は「血と恨みは国より
も強し」と思った次第である。
沙耶可が書いた、「慕夏堂集」は、中国を賛美する本だそうです。
返信削除その中で、「日本人」という言葉は、彼の子孫による勝手な書き込みとも言われています。
なぜならば、それは沙耶可から数代後の人物が書いた本だそうです。
また、沙耶可は、これを所持していたそうです。
行小僕尹 沙也可古夫楽只二十一
父小射尹 益
祖大僕射尹 沃國
曽祖小射尹
外祖大公耶射尹 平秀
妻徐英娘古夫楽只二十
妻平正娘古夫楽只十八
これは、沙也可の辛卯式戸籍だそうです。
朝鮮独自の戸籍であって、日本は人別長でした。
そして、ここには日本名はありません。
また、雑賀孫一を名乗りだしたのは、水戸家家老にまで、出世した、6代目、孫一(孫三郎、重朝)からだとも言われています。
それまでは、たんに、鈴木孫一と名乗っていたともいわれます。
(歴史的には鈴木姓のほうが格が高いと思います)
雑賀衆の武勇が賞賛されていたため、敵方だった鈴木孫一ではなく雑賀を名乗ったといわれています。
なお、朝鮮の史料「宜祖実録」には、助命の代わりに倭人の捕虜に銃や火薬を作らせたと記述されています。
当時の日本人捕虜は、即日断首が、当たり前で、首切り役が疲れるか、日が落ちて、翌日にまわされるかだったそうです。
なぜ、私がこのようなことを言うのか?
匿名氏のように、真贋が不確かな伝説を、史実のように、宣伝するのは町にとって、不名誉だと思うからです。
朝鮮の学校歴史教科書では、朝鮮人学者が激怒するほどに、ファンタジーで編集されます。
もっとも、韓国の学者には、名声のために嘘歴史をでっち上げます。
高野新笠と武寧王の関係が曖昧であるのに、韓国では、桓武天皇は百済王の息子にされてます。
(200年以上の誤差は無関係)
韓国人にとっての歴史とは、存在してほしい歴史が正しい歴史であり、史料との整合性は、まったく無関係です。
沙耶可が日本人だとしている史料は、ほとんどなく、否定する要素だけが多いのは事実です。
補足。
返信削除「沃國」は、現在の38度線近くにあった、「東沃國」と思われます。
反偽歴史詐欺殿
返信削除今度は厳めしい名前を付けて登場なさった。偽の歴史詐欺に
反対するとは自分が何様の積もりなのか、人の家に土足で
踏み込んできてどういう積もりなんですか?迷惑千万です。
わたしが偽の歴史をでっち上げたとでも云いたいのですか?
今後は一切コメントしませんし、場合によれば削除します。
歴史はときの権力者・為政者によって創り挙げられます。
わたしは、「町おこし」をするのは何か核になるモノが必要だ
ということで、たまたま町おこしで沙也加を採り上げられてい
る会の活動を耳にして、街おこしの一例として掲載されている
マスコミ各社のご了解を得てブログに採り上げただけのことです。この会の一員でもなければ、この説に賛同している者でも
ありません。笠置シズコ流の「買い物ブギ」はお止め下さい!