The Dawn of .45 Caliber Myths 45口径神話の始まり
                                         2007年4月4日掲載
1902年9月
 境目の無いマングローブの林が目の前の光景を覆っていた。高さは100フィート程だろう。そのおかげで照りつける太陽の日差しを遮ってくれている。しかし、地上を斜めに延びたマングローブの根は不気味で、心地良いものではない。
 1902年9月、フィリピン、ミンダナオ島南部…
 アメリカ合衆国海軍海兵隊デビット・フランクス三等軍曹(Sergeant)は疲れきっていた。所属する小隊がゲリラ討伐命令を受け、この地域を彷徨い歩き続けて、既に4日が経過した。この間、一度もゲリラと遭遇していない。成果ゼロという事実が、さらに疲れを増幅させる。
 いや、ゲリラに遭遇しないことで、内心ほっとしているのだ。もちろん、そんなことは口には出せない。
 汗で濡れた背中に、さっきからシャツが貼り付いてしまっているのが、とても不快だ。
 この島に来て2年が経過した。「海軍陸戦隊など、役立たずの集まりだ」、と、ずっと陰口を叩かれてきた海兵隊だが、スペイン戦争開戦後は、汚名返上の忙しさとなった。
 続いて起こったフィリピンとの戦争は簡単に決着が付いたものの、今度はゲリラが跋扈するミンダナオ島駐留だ。
  海外に出てみたい。その一心で8年前、合衆国海軍を志願したが、最近は故郷のユタ州に戻りたいと思うようになった。
 この島に住む原住民は恐ろしい。弓矢と剣を振り回すだけの連中と甘く見ていたが、とんでもない間違いだった。スペイン人が、何百年かけても、結局この島の南部を掌握できなかった理由も判るというものだ。
 小隊長が小休止を命じた。皆疲れきって、地面やその上に横に伸びている根に腰を下ろした。マングローブ林といっても、内陸側なので、地面は乾燥している。
 小隊の最後尾にいたフランクス軍曹は、クラッグ・ヨルゲンセン・ライフルを根に立てかけ、一番すわり心地の良さそうな根に腰を下ろした。
 背後のアポ山を見上げる。故郷の美しいワサッチ山脈とは似ても似つかない活火山だ。思わずため息が漏れる。
 少し離れた場所にサガリバナ (Barringtonia recemosa)を見つけた。つぼみが垂れ下がっている。夜になると、甘い香りをふりまきながら咲き、明け方には落ちてしまうのだろう。
 8月までの花なのに、まだ残っているのが意外だ。フランクス軍曹はこの花の香りが好きだった。生まれ育った故郷には、良く似た香りの全く違う花が毎年咲いていた。あの花の名前は知らないが、匂いは覚えている。最近、ホームシック気味になったのは、この花のせいだろう。この島で7月から8月に掛けて、夜になると盛んに咲いて匂いを振りまいていたからだ。原住民が恐ろしいので、国に逃げ帰りたいとは、自分でも思いたくない。
 フランクス軍曹は思わず立ち上がって、その花のつぼみに近づいた。ライフルを置いたまま隊から少し離れてしまうが、構わないだろう。4日もゲリラを見つけられずにいるのだ。今、ここで出くわすとは思えない。
 フランクス軍曹は、ほのかな花の香りに、故郷への想いを募らせた。
 そのとき、ゲリラ兵がひとり、密生したマングローブ林の陰から音も立てずに現われた。蛮刀を振りかざし、無言で軍曹に襲い掛かってくる。
 チャンスがあればアメリカ兵を血祭りにあげようと、ひそかに小隊を追跡していたに違いない。
 フランクス軍曹の郷愁は一瞬で覚めた。コルトM1892をすばやくホルスターから抜き、迫り来る敵に向けてトリガーを引く。1発、2発、3発…、ダブルアクションで撃ち出された38口径弾は確実にゲリラの身体を撃ち抜いた。だが倒れない。
 突然の銃声に、小隊の仲間は驚いて振り返った。何人かは、あわててクラッグ・ヨルゲンセン・ライフルを掴むがとても間に合わない。
 歯を剥き出し、目を見開いて迫りくる敵に、フランクス軍曹の顔は恐怖に歪んだ。リボルバーは6発を撃ち尽くしたが、ゲリラを止めることはできない。ハンマーノーズが発射済みケースのプライマーを叩く音が無情に響いた。その瞬間、ゲリラの手に握られていた蛮刀が、軍曹の首に振り下ろされた。
 弾丸を6発食らっても倒れなかったゲリラ兵は、モロ族と呼ばれるイスラム教徒だ。アメリカ海軍軍曹の首をはねたモロ族の兵士は、返り血を浴びながらニッと笑い、次の瞬間、身体を翻して、マングローブの林に逃げ込みかけた。だが突然その手から力が抜け、蛮刀を落としてしまった。「何かおかしい…」
 ゲリラ兵は目の前が真っ暗になり、自分が大地に倒れていくことを止めることができなかった。

独立運動
 フィリピン諸島は大小7000余の島々で構成されている。ここに人類が移り住んだのは2万5000年前から3万年前のことだ。その後、様々な地域から移住が続いたが、紀元前500年ごろ、現在のフィリピン人の先祖となるマレー人がこの地に住みついた。
 フィリピンにイスラム教が伝わったのは14世紀で、1450年には、フィリピン最初のイスラム王国であるスルー王国が誕生した。イスラム教はのちにスペイン人が訪れるまで、この地に広くその勢力を伸ばしていた。
 スペイン人マゼランが現れたのは1521年3月17日の事だ。マゼラン一行と原住民との間で戦闘になり、2週間後、マゼランは戦死した。スペインはメキシコより遠征隊を送り、フィリピンに勢力を拡大する足掛かりを築き始めた。そして16世紀後半、フィリピン征服に着手した。
モロ族とはフィリピンの南部,ミンダナオ島やスールー諸島に居住するイスラム教徒の総称だ。厳密にはマラナオ、マギンダナオ、タウスグ、サマル、ヤカンなど十数の部族に細分化される。
 スペインは1565年4月にセブ、1569年にはパナイを制圧した。1571年5月、マニラを占領、ここを首都と決めた。
 1578年、スペインはホロ島を攻撃、イスラム教徒のモロ族征服を開始する。1596年には初めてミンダナオ島を攻撃するが、モロ族も1599年ビサヤを攻撃し反撃する。1637年にはコンクエラ総督がミンダナオ島、スルー諸島に遠征してモロ族の支配者スルタン・クダラットと激戦を展開した。しかしスペインは最後までモロ族の支配するフィリピン南部を征服することは出来なかった。
 モロ族は,1578年以来ずっとスペイン人と抗争を継続したのだ。

 それでもフィリピン自体はメキシコ副王領としてスペインの支配下にあった。1821年、メキシコが独立すると、フィリピンはスペインの直轄支配を受けるようになる。
 1756年にヨーロッパで7年戦争が勃発、1762年イギリスはスペインに宣戦布告した。イギリス東インド会社の軍が首都マニラを攻撃、占領した。しかしその2年後、イギリスはフィリピンから撤退した。 再びスペイン統治下となったはフィリピンだが、植民地の維持はスペインにとって重いものとなり、農産物を始めとした経済活動が重視されるようになった。世界経済の拡大と共に、大規模農園が登場、スペイン人経営者だけでなく、フィリピン人の大土地所有者も現れるようになった。経済人としての地位を得たフィリピン人の中に、民族意識が高まり始める。
 1869年、スエズ運河が開通した。その結果、多くの欧米人がフィリピンにやってくるようになった。彼らはこの地に様々なヨーロッパの製品を持ち込んだが、それと共に自由主義や啓蒙思想などがフィリピンに根付くことになった。
 これがフィリピンの社会経済構造を大きく変化させることになる。自由主義思想に目覚めたフィリピン人の活動は、スペイン政庁の弾圧を受ける事になった。1872年、フィリピン人兵士と労働者達の暴動がおこり、これをきっかけにして、スペインの民族差別的宗教政策に対する反対運動をしていた3人の神父マリアノ・ゴメス、ホセ・ブルゴス、ハシント・サモラが処刑された。この事件は3人の名前からゴンブルザ(Gom-Bur-Za)事件と呼ばれた。
 政庁がフィリピン人神父や知識人に対する弾圧を強めていく中、身の危険を感じた知識人達は諸外国へ逃れ、海外からフィリピンの民主化を訴えていった。この段階ではまだ独立という大きな流れにはなっていない。
 しかし海外での活動に限界を感じた民主政治活動家がフィリピンに帰国、「フィリピン連合」を結成するが、すぐに反逆罪で逮捕され流刑となる。
 一方、労働階級出身の活動家が秘密結社カティプナンを作り、武力革命による独立に向けて動き出した。
 彼らは1896年8月、ついに武装蜂起を決行、革命に向けてスペイン軍との間で内戦が始まった。
 1898年、米西(アメリカ−スペイン)戦争が勃発し、アメリカはフィリピンにも軍を送り込んだ。そして独立運動勢力を支援し、革命政府を樹立した。
 戦争に勝利したアメリカは、スペインと和平条約を締結し、フィリピンの領有を宣言した。スペインによる支配との違いは、アメリカがフィリピンに対し友愛的同化を宣言し、できる限りの民主化を保証したことにある。しかしフィリピンを植民地としたことになんら変わりは無い。


 アメリカ領有にフィリピン側は激しく抗議し、1899年2月、米比(アメリカ−フィリピン)戦争が勃発する。3月には首都マロロスが陥落し、フィリピン側はゲリラ戦でアメリカに対抗した。
 モロ族(スルー・スルタネイト)はフィリピン民主活動勢力に協力せず,米西戦争には関わらなかった.しかし、米比戦争では、果敢にアメリカに対抗した。彼らが米比戦争に関わったのは、アメリカがモロ諸族の住むミンダナオの植民地化を目指したからだ。
 1902年、ルーズヴェルト大統領は、フィリピン平定を宣言したが、モロ族によるゲリラ活動はその後も各地で1911年頃まで続いた。
 アメリカ軍は、このモロ族との戦闘の渦中、大きな衝撃を受けることになる。

38口径採用
 アメリカ軍がメタリック・カートリッジ・リボルバーを採用したのは1870年の後半の事だ。その前年に開発されたS&Wのトップ・ブレーク・リボルバーModel 3が1000挺、アメリカ軍に納入された。このリボルバーは44S&W アメリカン・カートリッジを使用する。ほぼ同時期の1871年、アメリカ軍はそれまで使用していたパーカッション・リボルバー、コルト 1860をメタリック・カートリッジ仕様に改造して使用した。これは44 Coltカートリッジを使用する。


 1875年には、シングルアクション・リボルバーの傑作、コルト・シングルアクション・アーミー(別名ピースメーカー)がアメリカ軍に採用された。これは45Coltカートリッジを使う。そしてこれがアメリカ軍の新たな制式カートリッジとなった。

同じ1875年、アメリカ軍のジョージ・W・スコーフィールド少佐のアイデアで、S&W Model 3リボルバーのバレルラッチとエキストラクター部の改良が施された。これをS&W Model 3 スコーフィールド(Schofield)リボルバーという。このモデルもアメリカ軍に限定的に採用された。改良されたトップブレーク・オープン・システムによる迅速な排莢スピードを求めたものだ。


 このモデルは45S&W Schofieldカートリッジを使用する。したがってこの時期、アメリカ陸軍は45Colt, 45S&W Schofield, 44S&W American, 44Coltなどのカートリッジが併用されていた。
 これら一連のアメリカ軍ブラック・パウダー・メタリック・カートリッジで一番、パワーがあり数多く活用されたものが、コルト・シングルアクション・アーミーの45 Coltだ。
 ブラック・パウダーの時代、軍用ピストルは大きく重い弾丸を撃つものが一般的だった。ドイツは11mm、オーストリア11mm、フランスも11mm、イタリアは10.4mm、イギリスが455、ロシアは44と、少なくない国が大きな口径のリボルバーを使用していた。 もちろん、もっと小さな口径のリボルバーを使っている国もあったが、アメリカ軍の使用していた44口径や45口径は、当時の標準的な口径であったといえる。
 19世紀も終わりに近づくと、リボルバーの小口径化が進んだ。スモークレス・パウダーの開発がこの流れを促進させた。オーストリアの8mm, フランスの8mm, ロシアの7.62mmなどだ。アメリカ軍も38 Long Coltを採用した。当初はまだブラック・パウダーであったが、これは後にスモークレス・パウダーになった。
 アメリカ軍が採用した38口径リボルバーはコルト M1889 Navyである。これはコルトが開発した最初のスイングアウトリボルバーだ。コルトは1881年にウィリアム・メイソン開発のスイングアウト・リボルバーのパテントを取得していたが、製品化までには数年を要した。そして登場したのがこのM1889だ。
 それまでのコルト・リボルバーはソリッド・フレームを採用し、ローディング・ゲートから1発づつ装填排莢する形式であった。一方、S&Wはトップ・ブレーク・オープンで、装填排莢はソリッド・フレームより素早くおこなうことができた。しかしトップ・ブレーク・オープンの場合、構造上フレームの強度は比較的低い。そのためソリッドフレームより使用するカートリッジのパワーを低く押さえる必要がある。
 45S&W Schofieldカートリッジはコルト・シングルアクション・アーミーにも使用できたが、45 ColtカートリッジはS&Wスコーフィールドに使用できない。
 スイングアウト・シリンダーとなれば、フレームはソリッドであるため、強度も高く、かつ装填排莢も素早くおこなえる。
 アメリカ海軍(U.S. Navy)はこの特性に期待して、コルトM1889 Navyを約2000挺(5,000挺という説もある)オーダーした。その後、このM1889はNew Navyという名前に切り換わった。
 海軍が採用したM1889は38 Long Coltを使用し、銃身長は6インチだ。フレームのバットプレート底部に”U.S.N.”のスタンプが打たれている。
 もともと海軍は45口径ではなく、36口径のリボルバーを採用していた。海軍にとって、ピストルなど重要な武器ではない。だから38口径の採用は、全く問題がなかった。
 M1889で注目すべきは、そのシリンダーの回転方向だ。左回転(反時計回り)である。コルト・リボルバーはそれまで右回転シリンダーであったが、スイングアウト・リボルバーを開発するにあたり、フレーム右側面をプレート状にして、取り外せるようにした。右側面をプレート状にしたことが、シリンダーハンドの位置を変えることになり、左回転になった。
 しかしM1889はいくつかのデザイン上の問題を抱えていた。シリンダーのインデックス・システム(cylinder indexing system)の出来が悪く、正確な位置でシリンダーが停止しないことがあり、しばしばミスファイアを起こした。そしてスイングアウト式シリンダーは、その回転方向が左であると、常にスイングアウトさせようという力が掛かる。ラッチのスプリングはさほど強いものではなく、シリンダー固定の強度に問題があった。
 アメリカ陸軍はM1889の改良型であるM1892を11,000挺購入した。これも38 Long Coltを使用する。
 主な改良点はシリンダーのロックワーク・ファンクション(Lockwork function)に関するものだ。ボルト・ストップ・ノッチと、シリンダーのロッキング・ボルトを改良し、より確実にシリンダーを固定する。
 続くM1894,M1895,M1896はいずれもM1892の改良型で無煙火薬仕様としたものだ。 フレドリック・フェルトン(Fredrick Felton)により強度アップが図られ、アメリカ軍は144,000挺のM1894,M1895,M1896を購入した。古いM1889はコルトに送り返され、問題のあったロック・システムが改良された。
 アメリカ軍は制式採用したM1889シリーズにこだわり続けた。のちの大統領、セオドア・ルーズベルト中佐もアメリカ−スペイン戦争では有名なKettle Hillでこれを使用した。
 S&Wはコルトに遅れること7年の1896年、はじめてスイングアウト・リボルバーを製造した。
 それがS&Wハンドエジェクター (HandEjector)1st modelで、これにはシリンダーラッチが見当たらない。シリンダーをスイングアウトさせるには、シリンダー中心軸にあるシリンダーピンを前に引き出すことで、シリンダーのロックが解ける。
 これは32口径モデルだが,その3年後の1899年、改良されて38口径になり、海軍が1900年、陸軍は1901年にともに1,000挺を購入した。
 このM1899は現在まで続くS&Wスイングアウト・ダブルアクションリボルバーの原型となっている。左側面にシリンダーのロックを解くシリンダーラッチが付き、エジェクターロッドの先端にも、ロッキングシステムが加わった。
 米比戦争が勃発したのは1899年だ。この時点でもアメリカ軍の38口径化は大きく進んではいなかった。まだ多数のコルト・シングルアクション・アーミー45が陸軍を中心に保有されていた。確かに時代の趨勢に基づき、38口径を制式採用してはいたが、陸軍は45口径のストッピングパワーに依然として執着があったらしい。
 しかし海軍は38口径化が進んでいた。この米比戦争に兵を送ったのは海軍だ。彼らはコルトのM1889, M18892, M1894, M1895, M1896などを装備していた。

 アメリカは1898年、キューバとプエルトリコのスペイン軍と衝突した。これが米西戦争だ。アメリカ軍はスペインの植民地であるフィリピンにも兵を送り、反政府勢力を支援した。この戦争で、アメリカ軍制式のクラッグ・ヨルゲンセン・ライフル(Krag Jorgensen)に問題があることが判明した。
 クラッグ・ヨルゲンセン・ライフルは1892年に制式化したスモークレス・パウダーを使用する小口径連発ライフルだ。使用する弾薬は30-40Krag(30口径、火薬量40グレイン)と呼ばれるもので、従来の45−70と比べると大幅に小口径化している。対するスペイン軍の装備したライフルはマゥザー93ライフルで7×57mm Mauser弾を使用する。

 アメリカの30-40は220グレインの弾丸を使用し、初速2,200fps.銃口エネルギー2,365ft.lbs、スペインの7×57mm Mauserは173グレインの弾丸で、初速2,296fps., 銃口エネルギー2,025ft.lbsというスペックだった。初速と銃口エネルギーの数値的には、ほとんど差が見られないが、7mm Mauserの方が弾丸が軽く、低進性が良い。そしてクリップで弾丸を一気に装填可能なマゥザーと比べると、1発づつ装填していかないといけないクラッグ・ヨルゲンセンは操作性や速射性で明らかに劣っていた。

 結果としてクラッグ・ヨルゲンセン・ライフルは1903年、スプリングフィールドM1903に切り替えられることとなった。
 ライフルと同様に、新しく装備した38Long Coltもまたパワー不足が指摘された。併用されたシングル・アクション・アーミーの45Coltと比較すると明らかに弱い。
 アメリカはスペインと戦った米西戦争を終えた後、装備を交換する時間的余裕がないうちに米比戦争に突入した。
 フィリピンとの戦いに赴いたのは海軍だ。したがってこの時、使用されたものはM1889など一連の38Long Coltリボルバーが中心となる。
 フィリピン戦争、その中でも特にモロ族との戦いではこのパワー不足が深刻な事態となった。冒頭に書いたように、モロ族の戦士に38LongColtを6発射ち込んでも、倒れることなく突っ込んでくる。そんな事例が多々発生した。モロ族が得意としたのは、ゲリラ戦だ。正面から正規軍同士が物量でぶつかる戦闘ではない。突然、予想外の場所から襲い掛かる。兵士がそれに向けて38Long Coltを連射しても倒すことが出来なければ、アメリカ兵はパニックになるのも当然だろう。

2種類の死
 モロ族が特別に強靭な肉体を持っていたというわけではない。にもかかわらず、彼らが弾丸に対する耐性を持っていたのは2つの理由がある。
 彼らは,イスラム教徒であると同時に土着民族だ。戦(いくさ)の前に、一種の薬物を使って昂揚感を得ていた。トランス状態になれば、麻酔をうっているのと同様、肉体の損傷に対する痛みを感じない。
 そしてもうひとつ、彼らの死に対する意識の問題があった。剣で切られたり、弓矢に貫かれれば死ぬ。これが彼らの認識する死の形だ。しかし弾丸は彼らに死をもたらす決定的な武器とは、まだ強く認識していなかった。もちろん戦争やゲリラ戦をしているのだから、銃の存在は良く知っている。しかし彼らにとって死をもたらす圧倒的な武器は、まず第一に剣や槍、弓矢だった。銃など副次的な武器で、それほど恐れていなかったらしい。
 人間の死には大きく分けて2種類ある。精神的な死と肉体的な死だ。通常の人間は銃で撃たれたら死を意識する。「撃たれた!」このことは大変なストレスを人間に及ぼす。「撃たれた」=「死ぬ」と思い込んでいる人間は、撃たれたショックで本当に死んでしまう。たとえそれが致命傷でなくてもだ。しかし死ぬ事と撃たれたことが直結していない場合、簡単には死なない。モロ族の場合、弾が当たっても、それで死に至るとあまり考えず、そのまま直進してきたのだ。
 違う例をあげてみよう。アメリカ人は22口径リムファイア弾は、プリンキングなどの射撃遊びの弾だと思っている。攻撃や武装用の弾ではない。
 万一、事故が起こり、22口径弾が誰に当たったと仮定する。しかし当たった本人が、その弾はお遊び用の22口径リムファイア弾だと知れば、多少は安心する。357Magnumや9mmパラベラムで撃たれたのでは無くて良かった。22口径だったので助かる、そう考えると、それは単なる怪我という認識となり、その人に大きなショックを与えることはない。
 ところが銃のことを良く知らず、銃はとにかく危険なものという認識を持っている人、たとえば日本人が被害者だった場合は同じ怪我でも事情が違ってくる。銃で撃たれたということが大変なショックとなり、全く命に別状の無いレベルの怪我であっても、死んでしまう場合がある。弾が当たったことが精神に衝撃を与え、もう助からないと思い込むとそれで死んでしまうのだ。
 弾が当たっても、そんなくだらないもので死ぬとは考えないモロ族は、それが致命傷でない限り、そのまま突撃をおこなえたのだ。
 もうひとつの死、肉体的な死とはどういうものだろうか。致命的な器官が破壊されれば、人間は機能を維持できなくなり、生命活動は停止する。あるいは大きな傷を追い、血液が大量に失われれば死に至る。これが物理的な死、肉体的な死だ。
 38Long Coltは、肉体的な死を相手に与えるほど強力ではなかった。45Coltは大きな質量の弾丸を叩き込むことで、肉体器官を大きく損傷させ相手を倒す。
 モロ族との戦いはこの差が顕著に現われた例だ。
 同時期、中国でも同様の事態が発生した。北清事変、またの名を義和団事件(Boxer rebellion)だ。これは19世紀末の中国における排外運動だ。義和団とは義和拳とよばれる武術を修練したカルト教団である。彼らは義和拳(一種の拳法)を修練すれば不死身の身体となり、さらに修行を積めば天を飛翔する能力を得ることができると信じていた。
 その義和団が民衆を巻き込み、清朝と手を組んで外国人排斥運動を展開した。「扶清滅洋」(清を助けて、西洋を討ち滅ぼす)をスローガンに、各地の教会を襲撃してキリスト教徒を殺害し、鉄道を破壊した。彼らは大勢力となって北京に入り、外国人を殺害し続けた。
 欧米および日本は軍を中国に派遣してこの義和団を制圧した。これは1899年から1900年の出来事だ。この時、敵の中心勢力である義和団は、既に述べたように義和拳で自らを不死身だと確信しており、低威力のピストルで攻撃しても倒れず攻め入ってきた。まさにモロ族と一緒だ。自らを死なない存在だと思い込んでいる敵は、肉体組織を破壊して物理的な死に導かなくては倒れない。

 38 Long Coltの威力不足は当時、アメリカ議会でも問題となった。だからと言ってすぐに大口径に移管されたわけではない。しかし結果的にアメリカ軍は38口径に見切りを付け、45口径のセミオートマチックピストルの採用に向けて動き出すことになった。
 これがアメリカで現在まで続く45口径神話の発端だ。モロ族と戦ったのはアメリカ軍だが、ヨーロッパは義和団と同時期に戦っている。この19世紀末と20世紀初頭はセミオートマチックが実用化に向かった時代だ
 期せずして同じような経験を、アメリカとヨーロッパはアジアで経験した。その結果、アメリカは45口径を採用したが、ヨーロッパは9mm口径を普及させていった。
 100年が経過した現在でも、アメリカ人は45口径へ強い信頼を寄せている。1985年、アメリカ軍が9mmへ移行し、45口径は過去のものとなるかと思われたが、結局、45口径は消えることはなかった。いやむしろ、その評価は高まってきている。

Apr.4, 2007
Satoshi Maoka

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