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thessalonike5
格差社会の政治、政治家の退廃、マスコミへの媚び阿り
昨夜(11/28)、NHKの7時のニュースの中で、福島の原発事故の被災者が国に支援を求め、復興庁の官僚との対話集会に臨む様子が放送されていた。この件、事実の詳細を確認しようと思ってネットを探したが、何も情報が出てこない。NHKだけが報道していて、何か背景があることを感じさせる。政権と官僚がNHKに特別に手配していて、つまりは、来年度予算に少しは計上してやるというという意味なのだろう。それと、この時期だから、民主党の選挙宣伝の意味もあるのに違いない。平野達男を撮ったカメラの視角に、徳永エリがちゃっかり美貌を割りこませていた。「民主党福島復興会議」の事務局長だ。このニュース映像には強く感じさせられるものがあった。平野達男に要望書を提出した女性、この人はおそらく支援団体の代表か何かだろう。「避難している方たちは非常に困窮していらっしゃいます。救済する措置をぜひお願いします」と訴えていた。訴える言葉と表情に、注意を惹かれるものがあった。その後、対話集会の場で官僚に窮状を訴える住民たちの眼差しはもっと悲痛で、切迫していて、ほんの数秒間の映像だったが、とても強烈な印象を残している。残念ながら、NHKは彼らの表情は捉えたが、彼らの言葉をマイクで拾って届けなかった。徳永エリは、もし秘書に始終を撮影させていれば、録画をBlogに公開するべきだ。
私が直観したことは、選挙を前にした今の国民は、まさしくこの福島の被災住民たちと同じだということだ。切実なのである。このニュース映像は、この選挙の構図と真実を意図せず描き出している。平野達男と復興庁の官僚は、テレビでパフォーマンスする政党の面々である。窮状を訴え支援を要請する被災住民は、一票を投じる有権者である。われわれは、かく真剣に政治家たちに向き合い、何とかして欲しいと渾身の願いを突きつけようとしている。政治家たちは、あの場の平野達男と復興庁の官僚どものように、ふんぞり返り、余裕の表情で、被害者の要求などまともに聞いてないのだ。関心がないのだ。気になっているのは、NHKのカメラである。テレビに自分がどう映るか、それだけに注意を払っている。今の政治と選挙の現実を、その構図に登場する人間と人間の関係を、この映像は象徴的に投影していた。国民がどんな思いで選挙に直面しているのか、政党の人間は理解していない。自民や民主の面々だけでなく、共産や社民の連中が分かっていない。一票を投じる国民が、福島の被災住民と同じ苦境にあり、政治の救援を切望しているのに、社民と共産の幹部の念頭にその意識がない。だから、彼らはカメラの前でだらしなく弛緩し、選挙で敗北しても平然としているのだ。恒例行事として選挙を受け止め、ルーティンワークを処理しているのである。
福島瑞穂などは、自分を政党の党首とは思っておらず、売れっ子のタレント文化人の一人ぐらいに思っているのだろう。社民も共産も、怠惰な永田町生活を続け、負けるばかりの選挙を繰り返し、惨めな少数異端のパーリア的境遇がすっかり板に付いた。そして、自らの主義主張を正論として堂々と力説する矜持を失った。護憲や反基地や反貧困を、至当の正義として毅然と言わず、右傾化した世論とマスコミに阿って、びくびくし、おどおどしながら、申し訳なさそうに恐縮して、猫なで声で喋っている。社民・共産を不当に矮小化して蔑むマスコミの視線に迎合し、そのマスコミの偏向報道に媚び諂っている。どれほどマスコミが彼らを侮辱的・差別的に扱っても、それに対して異議を唱えず、放送法の「不偏不党」と「政治的公平」の原則を根拠に抗議せず、マスコミの意図的で悪質な誹謗中傷にペコペコと頭を下げている。その関係性に馴れきってしまい、自ら「政治的悪役」のキャストを引き受けて演じている。福島瑞穂のテレビトークの語尾で登場する「・・・ですう」という表現と音節が、その卑屈で堕弱なビヘイビア・モデルの証左であり、自らの理念と政策に自信と確信を持ってない内面の露呈だ。解散の直後、市田忠義は、「汚れきった古い政治の濁流か、一筋の清流の日本共産党か」の選択だなどと抱負を言ったが、その目はヘラヘラ笑っていた。「わしはいま 何党かねと 秘書に問い」の川柳を披露したときも、緩んだ得意顔で悦に入っていた。
滅多にマスコミが撮って報道に供することがないのに、選挙となれば、一応は古顔政党の端くれの立場が尊重され、若い番記者が寄ってきて持ち上げてくれる。若い記者と言っても、産経と読売は筋金入りの内偵(スパイ)だろうし、他の小僧は共産など軽蔑しきって見下し、担当に回された不運を嘆いているコネ入社の貴族たちだ。「その川柳、使わせていただきます」などと追従を言われ、日頃は冷や飯の市田忠義は、愉しくてウハウハ興奮してしまうのだろう。今度の選挙で議席をどれほど減らすのか知らないが、3-4議席でも維持できれば、現在の境遇には変化がないから、彼らに何の不具合もないのだろう。改憲が民意の審判で決せられようとしている選挙で、顔面蒼白にもならず、神経衰弱にもならず、彼ら(社民・共産)は嬉々として選挙のルーティンに没頭している。元気よく目覚め、茶碗に大盛りの朝飯を食らい、健康な大便を排泄して、気分爽快で街頭演説に立ち、マスコミの注文に応じてヘラヘラ顔を撮らせ、心地よい疲労感で満足して一日を終えるのだろう。12/16の残酷な審判を前に、その日を暗澹とした気分で迎えようとしているわれわれを尻目に、共産の志位和夫・市田忠義も、社民の福島瑞穂も、内面と動機は平野達男や山田正彦と全く同じなのだ。だから、表情に深刻さや憂鬱さが浮かんで来ない。永田町芸能界の政治タレントの一人一人なのである。彼らは選挙に敗北しても責任を取らない。護憲が敗北しても責任を取らない。タレント稼業を元気よく続ける。
昨日(11/28)、官僚と向き合って必死で要望を訴えた福島の被災者の姿は、今のわれわれ市民と同じだ。われわれもまた、バブル崩壊後の格差社会の被災者である。格差社会と言い、格差社会の勝ち組と負け組と言うとき、あの昨日の対話集会で、真剣な悲痛な目で訴えていた福島の人たちこそ、日々の生活に困窮するローワークラスの姿で、ふてぶてしくふんぞり返っていた東大出の官僚たちは、富んで余裕のあるアッパークラスの典型なのだろう。この国の社会からミドルクラスが消失し、上下二つに階層分化し、階層が固定した中で選挙が行われている。すでに日本の選挙は、ミドルクラスが健在だった時代のそれと同じではない。確かに、愚かなわれわれは、全体として見れば、マスコミが吹かす風に踊らされ、マスコミの狡猾な策略のままに誘導され、悪い方へ悪い方へ追いやられ、自分から破滅へ転がる蒙昧な大衆に違いないのだけれど、一方で、ミドルからローワーに落ちたクラスの者として、政治に痛切な思いと願いを持ち、救済の政策措置を求めている。われわれは、嘗て持っていた経済的条件を失い、将来の生活の物理的基盤を失い、権利と人格を小さくして生きている。政治との関係は、昔のように、「無関心なノンポリが標準」という余裕で済ますわけにはいかなくなった。だからこそ、芸能ではなく政治がワイドショーの情報商品として繁盛する。否が応でも政治に関心を向けざるを得ない。しかし、格差社会の政治は、嘗てと違って大衆にやさしくないのだ。弱者に内在しようとしない。
永田町の住人たちは、マスコミの者たちと同じくエリートであり、貧しい下層を蔑み弄び、票のために利用するだけの存在にすぎない。その点では、政策の言葉はいくら正論を言っていても、社民も共産も同じである。昔、70年代の野党の幹部たちはそうではなかった。成田知巳、佐々木良作、竹入義勝、彼らの言葉と表情には、今の社民や共産に見える浮薄な作り笑いや媚び諂いはなかった。もっとストレートな迫力があった。戦争の体験があり、おそらくは戦後の壮絶な政治人生があり、訴えるものの熱さを大衆に思い知らせる部分があった。あの頃、政治家はもっと謙虚で真剣だった気がする。例えば、普段は銀座の女を囲って遊んでいる保守のダーティな政治家でも、選挙で、あるいは災害で、選挙区に入れば、一気に青年将校の真顔になった。有権者を見下してカメラの前でパフォーマンスするようなことはなかった。有権者の方も、今よりも政治家に対して同等の関係だった。自分たちが育てているという意識があった。今、政治家にとって、票とは具体的な有権者ではなく、マスコミのカメラなのだ。だから、マスコミに媚びるのである。昨日(11/28)の福島の人たちの姿を見ながら、これが今の日本人だと思い、そして、愛しく思われてならなかった。彼らには矜持がある。身をローワーに落としても、ミドルの人格と意識を失っていない。民主主義の政治なら、救済がないとおかしいじゃないかという、そういう社会原理の規範的前提を失わず、緊張感を失っていない。そういう人たちが、悔しさを押し殺して官僚の前に頭を下げている。
感動的な映像だった。権利は闘争の中で権利となる。人は、傷つけられた人格を取り戻すために権利の闘争をする。
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thessalonike5
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2012-11-29 23:30
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さくら
at 2012-11-29 19:27
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一般の日本国民は、格差が現実にある今はとくに、政治に対して真剣だと思います。いろいろな新党ができ、マスコミとタレントが騒いでいる中で、真剣に政策を見極め、それを託す政治家を探しています。
私は、消費税をとりわけ重く受けとめています。「貧すれば鈍する」ではないですが、経済的に困窮すればするほど、人は、その不安と苦しさから正気を失いがちになるからです。
戦後昭和の日本は、政府が民間の所得(余剰)から徴収して、それを公的な需要へふり向けていました。これで余剰は内需に転換され、日本経済は拡大再生産の好循環を続けていました。国内に商機があふれていました。
平成の日本では、消費税が導入され、政府は民間の消費(需要)から徴収して、それを公的な需要にあてています。需要を削って需要を創るので、行って来いでしかなく、これでは拡大するわけもありません。
日本の政府は、平成になって、大きく変質したように見えます。国民を利するためのものから、国民を利用するためのものへ。私は、この変質が制度として表れている最たるものが、消費税だと思うのです。
今度の選挙も正念場です。
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