2010年05月02日
山野千枝子(やまの ちえこ)・神奈川の偉人
山野千枝子(やまの ちえこ)・神奈川の偉人
神奈川県横浜市生まれ。
明治28年(1895)3月11日−昭和45年(1970)2月11日 76歳
美容師。
日本の美容の基礎を築いた先駆者。
ファッションモデルの先駆者。
鉄道局に努める三沢覚蔵の娘として横浜に生まれる。
長兄は貿易業、次兄はドレスメーカーという時代の先端をいく仕事で、千枝子は幼い頃から外国に憧れを抱いた。
父親の失業により進学を諦め、一旦は三井物産横浜支店に勤めるが、向学心を捨てることができず、神戸にいた長兄を頼って、神戸家政女学校へ入学する。
お見合いで結婚した夫山野末松とともに大正2年(1913)アメリカニューヨークに渡る。
米国女性と日本女性の美容に対する考えの違いを目の当たりにして、美容師を志すようになる。
日本女性の体と生活から総合的な改善を行い、不自由な着物や結髪から解放し、日本女性の美を国際的な水準にまで高めようと志したのである。
そして、夫に尽くすよりも自らの判断で道を拓く決心をし、働きながら夜間の美容学校に通い美容師となる。
幾つもの美容院で修行を積み、化粧品や当時のニューヨークでも珍しかったパーマネントやマーセルウェーブなどの毛髪術、経営一般についても学び美容師として自信を持った。
米国の渡って9年後の大正11年(1922)、帰国し東京駅前の丸ビルに丸ノ内美容院を開業した。
従来の「髪結さん」ではなく、純米国式の美容室は大変な人気を呼び、「美容院」「美容師」という言葉を日本で始めて使用し、普及させた。
現在の美容院のはじまりがここにあったのである。
美容師の養成、パーマ機の国産化、化粧品の開発などに努め、西洋美容を取り入れて日本人に合うように工夫を重ねた。
千枝子は日本女性がすべての点において、国際的水準に達していなくてはいけないと確信し、美容院経営のかたわら洋装知識の普及にも努める。
洋裁、手芸、編み物教室を開催し、髪型や洋服などを、ファッションショーや映画、雑誌、写真などのメディアを使って世に知らしめる努力をする。
昭和4年(1929)には美容運動の一端として、マネキンクラブを創設。現在のファッションモデルの前身である。
生きた人間によるモデルの登場は注目を集め、先端を行く女性の職業が誕生した。
しかし、千枝子のマネキンクラブの成功を妬むものもいて、「モデルたちから徹底的に搾取している」などの中傷や誹謗にあう。
美容協会から除名され、函館大火に際して支援物資を送っても名誉欲からのものだと曲解される始末である。
苦境に立たされた千枝子は、美容協会と訣別し、独自の道を歩もうと、美容の講演や技術実演に全国各地をまわるようになる。
パーマをかけているだけで非国民、国賊とののしられた戦時中を過ごして、戦後は、新橋に「山野千枝子ビューティー・サロン」を開店するとともに、婦人の社会的地位の向上を目指して婦人実業家たちと婦人経済連盟を結成。
昭和25年(1950)には、東京高等美容学校を設立し、美容師の育成に努めた。
また、美容師団体の統一を願い、東京都美容師組合連合会を結成。美容師の健康を守るために東京美容国民健康保険組合の発足にも努力した。
日本女性の美を国際的な水準にまで高めようと志した千枝子が考えた美とは、「精神、健康、調和」の三つの美であった。
髪型とか化粧という外観的な美だけでなく、内からにじみ出る精神美が肉体を美しくする、という心身両面の美容を提唱し続けたのである。
さまざまな誹謗、中傷にも屈することなく美容を追究し、その一生を美容に捧げた千枝子は、昭和45年(1970)年、76年の生涯を閉じた。
山野千枝子墓所(多磨霊園・東京都府中市多摩町)
光を求めて―私の美容三十五年史 (1956年)
瓦礫からの再出発 (日本の『創造力』―近代・現代を開花させた470人)
彼女たちの神話 (Feelコミックス)