【高橋惠子 芸能生活42年回顧録「女優物語」(5)】
昭和45(1970)年4月、15歳の私は大映最後のニューフェースとして入社。主演デビュー作は、当時の流行作家・富島健夫さん(故人)原作の「おさな妻」に決まります。富島さんは青春小説でも「リアルな性描写は欠かせない」がポリシー。私はデビュー作でヌードになる覚悟を決めました。
自分なりに台本を読み込み、「おさな妻」撮影の準備を進めていた6月のある日、撮影所の所長室から呼び出されました。私はてっきり「おさな妻」に関する具体的な指示が出るのかと思っていたのですが…。所長の話はこうでした。
高校を舞台にした青春映画の主演予定の女優がケガをしてしまい、急きょ代役を立てなければならなくなった。この“代役”を私にやってほしい——というわけです。
映画のテーマは当時の世間を騒がせていた高校生の妊娠と中絶。主役のヌードシーンも予定している、とのことです。
すでに「おさな妻」でヌードを覚悟していましたから、ヌードになること自体についての驚きはそれほどありません。それに撮影所のトップの所長の命令です。デビューさえしていない実績ゼロの私が断れるはずがありません。
こうして、私のデビュー作は代役での主演と決まりました。それがこの年の8月に公開された「高校生ブルース」です。ヌードシーンの撮影での恥ずかしさは何とか乗り切りましたが、公開前の宣伝活動で私は驚くことになります。「高校生ブルース」が10代の少女たちのリアルな性の実態を描く“大映レモンセックス路線”の第1弾に位置づけられていたからです。
もちろん、私には何も知らされておらず、そんな路線の映画ができるなんて寝耳に水。しかも、この路線の第2弾は本来ならデビュー作だった「おさな妻」だというではありませんか…。2作続けて10代の性を描く映画に主演しなければならない。想定を超える事態の連続に、私はどうしていいのか分かりませんでした。
そんな私の困惑とは無関係に、会社側は「高校生ブルース」の宣伝活動を大々的に展開します。この当時、大映宣伝部の所属になっていた私は、宣伝活動に協力しないわけにはいきません。
当時の私が他の映画会社のように俳優部の所属ではなく、なぜ宣伝部の所属になっていたのかというと、私をスカウトしてくれたスチールカメラマンが宣伝部に所属していたからです。
「スカウトマンの所属する部署の方がやりやすいだろう」という配慮からでした。ところが、それから間もなく、私は演技と宣伝との“2役”がとてつもなくハードなことを思い知らされるのです。
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