藤波心 (タレント)
日本は地震の活動期に入ったと言われています。
なのに、気がついたら54基もの原発を抱えてしまっていた。
こんなの、繁栄の象徴でも何でもなく、ただの「時限爆弾」です・・・。
私達に残された時間は、もうそんなに永くはないとおもいます。
色々事情があるのはわかります。
考え方の違いがあるのもわかります。
でも、もう、時間がありません。
タイムリミットはすぐそこまで来ています・・・。
政治家の皆さん、今回だけは党の垣根を越えて、団結してもらえませんか?
相手との違いを、ことさら問題にするのではなく、
相手との一致点に目を向けてください。
喧嘩は原発止めてから、ゆっくりしたら良いじゃないですか。
いま、日本の歴史、いや、人類の歴史は、皆さんにかかっているのです。
恐れる事はありません。
私達はしっかり見ています。
明るい日本の未来、子供達の為に、世界の為に、
勇気ある決断と行動を期待しています。
私達国民は、原発を無くす事に真剣に取り組む、
あなたの、永遠の味方であり、支持者です。
ためらわずに、前に進んでください。
TOSHI-LOW(BRAHMAN)
政治家のみなさんへ
想像してみてよ
助けが来ない瓦礫の下の絶望を
想像してみてよ
故郷を奪われた住人達の失意を
想像してみてよ
被ばくさせられた幼子の最後を
想像してみてよ
死の街に今も住む老人の孤独を
想像してみてよ
十五万を超える避難者の困難を
想像してみてよ
餓死する家畜を見た生産者の落胆を
想像してみてよ
放射性廃棄物にされた食べ物の行方を
想像してみてよ
高線量に晒される原発作業員の命の値段を
想像してみてよ
放射能の不安に脅えながら暮らす家族の葛藤を
想像してみてよ
広島や長崎での悲劇が教えたかった過ちの歴史を
想像してみてよ
無責任な国策が今までに強奪してきた小さな幸せの数々を
創造してみてよ
子供達に胸張れる日本の未来と人間らしく生きられる平和な世界を
鈴木邦男(「一水会」顧問)
「原発反対」に右も左もありません。
私が創設した「一水会」では昔から原発の危険性を説いてきました。34年前から、原発反対のデモをやったり、合宿をやったりしていました。チェルノブイリ事故の直後には高木仁三郎さんに来てもらって講演をしてもらいました。
当時は保守派、右翼陣営から「反原発を言ってる奴らは、皆、左翼で、日本の国力を弱め、破壊しようとしてる奴だ」と批判されました。
しかし、今や”流れ”が変わってきました。
このままでは日本は滅ぶ――そう憂い、「反原発」に変わり、それを勇気を持って言う人達が増えてきたんです。状況は、逆転しつつあります。西尾幹二さんや、小林よしのりさん、竹田恒泰さんなどの発言も影響が大きいでしょう。
日本の土地が汚されている――そのことへの危機感が強いのです。
「右から考える反原発デモ」でのスローガンは「福島の子供たちを救い出し、麗しき山河を守れ!」
原発に対し、右からも左からも、どんな思い、どんな表現でも、いろんな方向から声をあげることが必要だと思います。
毎週金曜日の首相官邸前のデモも歴史的なことですね。
政治家の人たちにはぜひ私たちの声を政治に反映してほしいです。
樋口明雄(小説家)
誰かが原発なんてものを作り出したために、人類はこの先10万年の長い間、滅亡することすら許されない。
原発が生み出す使用済み核燃料を、その間、責任をもって管理しなければならないからです。
そしてその原発が作った電力は、けっして未来ではなく、現代の人間が享受できるにすぎない。自分たちの刹那的な快楽がもたらした負の遺産をおのが 子孫に押しつけるとは、何て無責任な!
すでに作り出したものは、もとに戻すことができない。だとすれば、われわれがこの先やれることは、たったひとつ。
もうこれ以上、そう、たとえ1グラムとて、危険きわまりない使用済み核燃料を生み出すべきではないということ。
それなのにまだ、次々と再稼働させて、悪夢のような原発列島を再現したいのですか?
「すでにもう使用済み核燃料ができちゃったんだから、あとはどれだけできても同じ」
もしもそんなことをおっしゃるのなら、それは『ひとり殺すも100人殺すも同じ』という殺人者の論理です。
政治家のみなさん。あなたたちの姿を、われわれの子供たちが無垢な瞳で見ています。
そして、あなたたちの中にある”良心”を信じています。
伊勢谷友介
人類が「種(ヒト)」として存続する為に。
全ての生きとし生けるものは、その種の存続を最大目的とする。人類もその一種である。
人類は「摂理」に準ずることを、種としての目的とする。
「摂理」とはこの世の理。宇宙の理であり、自然界を支配する法則。全てを包み込む大いなる「循環」のこと。
「循環」とは、この世に存在する全てが作り出す、継続的な「均衡」のこと。
人類の存続は、地球環境から得た資源によってのみ成立する。資源を継続的に獲得できる環境の存続は地球の循環における「均衡」により成立し、その「均衡」の維持が人類存続の要である。つまりそれは人類自らの存在が、地球環境の「均衡」を壊すことがあってはならないと言うことを意味する。
人類は地球上の全ての存在と、それにより生み出されている環境とともに、「摂理」の中に存続することを最大の目標とし、いかなる場合でも「地球環境の存続を危ぶむ選択」をしてはならない。
ヒトは「社会」を形成し生存する種である。
「社会」とは、個人の存在の集合体であり、人と言う種の存続の為の体系である。社会を形成することは、ヒトという「種の理」のこと。「社会」を形成せずに人類の存続はない。
「社会」は個人の言動、選択の集合体である。個人の活動により形成される社会は、その目的を人類の存続の形態を創造するところに有する。
社会の存続は、個人や集団の世界への「認識不足」、「利己的」な活動によって危ぶまれる。未来に残す「負の遺産」や、「同種間の争い」は、現社会、未来の世界を物理的に破壊し、同時に「感情的」な遺恨を残す。それは未来において社会の存続を危ぶむものである。よって、前記のとおり同種間の争いは「地球環境の存続を危ぶむ選択」として、いかなる理由があろうとも「理性的」に回避されなくてはならない。
社会の存続は、個人の「自由」な言動の集合体により形作られる。個人は「利他的」な言動をもって社会を維持する「責任」をもつ。
「個人」としてのヒト。
全ての人は「自由と責任」を有する。
「自由」とは「摂理」の中にのみ成立する。つまり社会の存続を妨げる個の「自由」は無い。
「責任」とは「摂理」の為の意識であり、行為である。それは社会を継続する為の「義務」でもある。
個の成長が、種の成長に繋がり、摂理に近づく。
個は種全体の為に存在し、「種の存続」は個の集合により成立する。つまり、個人は「自由」な方法で「社会」に寄与することにより、「責任」を果たし、個人の存在の意味を成す。
個の成長とは「感情」に支配されることなく、理性的な「利他的選択」に結びつけること。ヒトの成長とは「摂理」への「意識、認識の深化」である。
「意識、認識の深化」とは、個としての意識に留まらず、社会への認識や、他生物に対する認識、現社会に存在する全て、未来に受け継がれる世界への「論理的認識」により培われる。
人類は自らの存在を自己認識したときより、世界に対する「論理的、科学的認識」を時間と共に深めてきた。「認識」を深めることにより、ヒトは個人的な意識に留まらず、ヒトそのものを客観判断し、種としての在り方を改め、個として命の使い方「目的」を知ることができる。
個人の生きている「目的」に基づく「理性的」、「利他的」な選択や行動が、種としての成長に繋がる。それは社会の成長であり、人類の存在そのものが「摂理」に近づくことである。
以上が私が考える「人間の道」です。
原子力は間違いなく未来に残す「負の遺産」です。
現時点で、原子力利用の継続は、未来の人間の負担になることは間違いない。
いかに原子力に頼らない形を作るのか。その方法を「民の力」に委ねていただきたい。その為に、まず皆さんに作ってもらわなくてはならないのは、民が自らの力で電力を生産し、供給し合える環境づくりのことです。つまり法の改正です。
国民にエネルギー生産、販売の自由化により、エネルギー消費への選択権を与えてください。
同時に、既にある「負の遺産」使用済み核燃料を無害化する技術進歩を、日本が、民が担うことが出来る環境づくりです。
私は、どの政治家の方々も、未来に人類のことを考えた時に、原子力が継続的に利用されるべきではないと考えていると信じています。
本質的な民主主義に必要なのは、政治が情報開示を積極的に行い、「民」自身が自由に考え議論した結論を、吸い上げ、政治家が実行し、その施行により、「民」が責任を負える状況です。
私も本質的な民主主義の再デザインを「民」として構築しようとしています。
今必要なのは、政局Showではありません。
民が考える世界の構築の機会を、是非創造しようではありませんか。
未来に謝罪しなくてはならない、現代人になるのではなく、感謝される今を作ることに、現在、最も近いのは政治家の皆さんです。与えられている責任はあまりにも重いのです。そのことを自覚した「ヒト」がその責任を負えるのです。
私、伊勢谷友介も「民」としてその為に全力を尽くそうと思います。
現社会が一日も早く、人類の継続性=摂理に近づけるよう一層の努力をお願いします。
吉田麻里香(ソーシャルワーカー/カウンセラー 福島県在住)
原子力災害のリアリティを、私たちは『ふくしま』で初めて経験しています。それは、放射線が健康を害するか否か、だけの問題ではありません。あるかもしれない、見えないものへの恐怖。子どもを守れていないかもしれない不安。線量計のある街並みが当たり前になってしまったことへの拭いきれない違和感。築き上げてきた生活が失われることへの不安。隣人が原発関係者かもしれないという環境で、本音が言えないストレス。福島の農作物が汚染されているという報道に「ふくしまの人々は汚染されている」と言われることを想像して怯える朝。福島の外に出たら差別されるのではないか、という恐怖する夜。福島に残る人も福島を出て行った人もそれぞれの選択に不安を抱え、互いを批判し非難することで自分を保ち、誤解しあい時に傷つけあってしまう。
人間関係に亀裂が入り、不安が家族関係に影を差し、今起きている差別とこれから起きるかもしれない差別に怯え、人を信じることが難しくなる。それが、原子力災害です。
政治家のみなさん。みなさんは、なぜ政治家を志したのでしょうか。
選挙で当選するためには、移り気な国民ひとりひとりよりも、まとまった票を約束する様々な団体の利益を大切に思うかもしれません。
ですが、思い出してください。
あなたは、最初からその団体の利益のために政治家を志したのですか?
声の小さなひとりのひとのために、あなたの選挙カーに反射的に手を振った、あるいはあなたの街頭演説に何気なく足を止めた、名前も知らないひとりのひとのために全力を尽くそうと、数の力に負けてしまう少数の弱き者たちの声に耳を傾けようと、苦しんでいる人たちのために命をかけようと、そう誓った日が、あなたにもあったのはないでしょうか。
私は、そう信じています。
福島に住む私の痛みは私だけのものであり、誰もが理解でき、誰もが共感できるものではありません。それでも、この痛みは『次』があれば(それは絶対にあってはならないことですが)、更に多くの人々が共有することになってしまいます。
『次』を起こさないために、ふくしまの現実を、そして私の痛みを汲みとってくれる方に、私は私の願いを預けます。