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平成21年7月24日 神田雑学大学定例講座No.466


航海秘話シリーズ第4回幕末の密航


目次

イラスト画像の画像
メニューの先頭です 1.講師紹介
2.はじめに
3.日本人の英語学習の歴史
4.MacDonald(1824-94)
5.森山栄之助、異例の出世
6.堀達之助(1823-94年)
7.質疑応答



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1.講師紹介

司会進行をする千代田図書館企画の河井さん 皆さま 本日は神田雑学大学共催、千代田図書館のトークイベント「航海秘話」にご参加いただきありがとうございます。
私は千代田図書館で企画を担当しています河合と申します。
この航海秘話のシリーズは、ロシア語の通訳をなさっていた中村孝さんを講師に迎え、6回連続で行うセミナーになります。
通訳として各国を訪れて、現地でも調査を行った中村さんが船旅とそれにまつわる人間模様についてお話いたします。
本日はその第4回「英語教師マクドナルド」がテーマになります。
この航海秘話のシリーズでは、千代田図書館にあります内田嘉吉文庫の資料からテーマに関連する挿絵や地図などをご紹介いたします。スライドの右下に青く「内田嘉吉文庫資料」というマークが出てくるのがそれに当たります。では航海秘話第4回を始めさせていただきます。
中村さんよろしくお願いいたします。
 
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2.はじめに

6回シリーズで4月から始めたのですが、前半3回は大航海時代をテーマとしました。 講師中村孝さん
今日からの後半は、幕末の密航者に焦点をあてます。
今日の密航の話は、アメリカの混血の方が日本に密航してきた話です。
8月と9月は日本から米英へ密航した人の話で、8月が同志社大学を創立した新島襄が箱館から密航した話、そして9月の最終回は薩摩藩の密航留学生、後の初代文部大臣になった森有礼を中心とした話をします。

今日の主人公マクドナルドは出生地がカナダ。捕鯨船で北海道の利尻島に来ます。
本題に入る前に、彼が来た1848年頃の蝦夷地がどんな感じかということを皆さんに知ってもらいたいと思い次の画面を用意しました。
北蝦夷図説にある画像 これは千代田図書館の「内田嘉吉文庫」から資料を引用しています。
1855年刊行の『北蝦夷図説』で間宮倫宋、これは「ともむね」と読むそうですが、彼が著者です。一般的には間宮林蔵と書きますが、この1855年の書物ではこういう漢字となっています。
「ともむね」でも音読みすると「りんぞう」ですね。間宮海狭で有名な彼です。
間宮林蔵は1809年に間宮海狭を発見します。亡くなったのが1844年で、この「北蝦夷図説」そのものは1855年刊行ですから、彼の没後、関係者が出版したものと思われます。

  これはジャパンガゼットという、横浜で発行された日本情報の雑誌からとった北海道の地図です。
急速に探検され地図になった蝦夷 タイトルは『Japan in Ezo』とあり、エゾにまつわる諸々のことが英語で書かれています。1862年から20年間にわたり蝦夷地を探査した方々の情報を載せています。
たとえばAさんは根室のことを書いたり、Bさんは網走のことを書いたりという具合です。
宗谷海狭と日本人は呼びますが、この地図では仏人探検家のラペルーズの名前をそのままとって「ラペルーズ海狭」と書かれています。今日の主人公がついた利尻島はRishiriとあります。

まず概略だけ申し上げます。
前半は混血児のマクドナルドが、自分の祖先は日本人と考え日本へ密航。
利尻島から長崎に移され、牢屋でオランダ語の通詞に英語レッスンを行ったという話です。
在日期間は半年程度。この間、当時のオランダ語通詞の中では生きた英語に接する機会のあった人、無かった人が出てきます。
後半はその日本人通詞の人間模様を話します。
 
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3.日本人の英語学習の歴史

日本人はどのように英語に接触したかについては諸説ありますが、まずは徳川家康の時代の1600年、ウィリアム・アダムス、日本名の三浦按針が来た時迄さかのぼると言われます。
その時彼はオランダ人に雇われて来た訳で、オランダ語がしゃべれたでしょうから、日本人には英語を学ぶ必要性は無かったと思われます。
詳細は省くとして、英語学習の大きな転換となったのが1808年のフェートン号事件になるかと思います。
これは英国軍艦のフェートン号がオランダの国旗を掲げて長崎に入港したのがきっかけです。
出島のオランダ人は喜んで迎えに行きますが、人質に取られてしまいます。それで異常事態発生が分かり、長崎奉行は警護役の肥前藩に指示を出す。ところが当初1000人はいると思った警護人が100人もいなかった云々、色々ありますが最終的には長崎奉行は切腹という事態になります。


フェートン号事件の背景はナポレオンです。
この1808年の時点ではオランダはナポレオン軍に征服され、オランダ国王は英へ逃亡。
このとき英はオランダを助ける条件に、オランダ東インド会社のアジアでの権益全部を英に、という条件を認めさせます。
ところがよくあることで、本国で合意しても現場では食い違いますね。まして当時の通信事情ですから、現場は知らんよということで、英蘭両軍の局地戦へと展開した、ということでしょう。
最終的にはフェートン号は人質2名を釈放し、水と食料をぶんどって出帆します。
日本人はナポレオン情報はほとんど知らされていなかったようですが、幕府も世界の新たな動きに敏感にならざるを得ない、外国語通詞とて他の言語、例えば英・露語を習得する必要性は痛感しつつも、はてさて具体的にはどうしたら良いか名案が無いという状況だったと推測します。

スライドには書きませんでしたが最初は仏語の修得令が出たようです。仏語について一言。
ロシア使節が1804年に来て追い返されるという事件がありました。その腹いせで露人が乱暴狼藉を働く。
その彼らが松前奉行に対し文書を残す。文書は露語と仏語で書かれていたそうです。
読めずに幕府は出島のオランダ商館に持って行き、どうも仏語らしいという話になったのでしょう。これは勉強しなくてはいけないということで、仏語修得令が少し前に出ていたのです。

いずれにせよ1809年に英・露語の修得令が出ます。
英語教育準備期 『英語事始』日本英学史学会編(エンサイクロペディアブリタニカインコーポレーテッド刊行)によると、これに伴い15名のオランダ語通詞に人事発令が出ます。
私が興味深く思ったのは、この発令が3回出ていることです。1809年の2月と6月と8月の3回です。
以下私の想像ですが、最初は2月に6人に発令します。ところが出された方も困ったと思うのです。土台無理な要求ですからね。
実は通詞にも色々な役職があります。一番上が大通詞、次が小通詞、そしてそれぞれに並みとか、末席、見習とかです。最初に大通詞に発令が出たでしょう。まあ大通詞は年配者ですから困ったと思うのです。今更全くの新言語挑戦には体力的に無理とか。ということで若手を選んで6月にまた発令、それでも足りずに今度は8月、ということではないでしょうか。
右往左往したと思います。

それでも幕府の人事発令が出た訳で、何かやらなくてはいけない。書いたもので何かまとめてお上に提出しないと格好付かないですからね。
そういう背景で完成したのが、1814年の日本初の英和辞書ではないかと私は思っています。収録単語数は5900前後だそうです。
この時期を私は準備期と勝手に名付けています。

当時は幕府や長崎奉行は問題が起こるとまずオランダ商館長に聞きに行っています。先ほどの露の手紙の件もそうでした。
当時の商館長の名前がドーフ、あるいは日本語訳ではズーフ。この方は在日19年程と大変な長期滞在者です。
出島オランダ商館の先生たち それからブロムホフ、商館長の次席です。
ズーフは仏語の心得があり多少日本人に教えたようです。ブロムホフは兵隊で英に半年ほど行っていたようで、日本人への英語教授は彼が前面に立ちます。

当時の蘭和辞典ですが、「江戸ハルマ」「長崎ハルマ」という言葉がありますが、聞いたことがありますか? 
このハルマというのはオランダ人の名前で多分言語学者です。
江戸時代の蘭和辞典 要はこのハルマを中心に編集されたオランダ語と仏語の蘭仏辞典をベースに、日本人は蘭和辞書を作っています。その完成が1796年。
江戸で出来たので通称「江戸ハルマ」、正式呼称は「ハルマ和解(わげ)」だそうです。これが日本初の蘭和辞書で収録語数が約8万語、本格的な辞書といえるかと思います。
長崎ハルマは、長崎でオランダ商館長が旗を振り、江戸ハルマをさらに改良したものです。
当時の緒方洪庵の適塾には「ズーフ部屋」という部屋があり、そこに立てこもってオランダ語を勉強したと言われています。これも商館長の名前であるズーフが辞書の代名詞だったことが分かります。
この蘭和辞書は大変貴重なものだったようで、適塾でもたった1冊しかなかったと言われています。
蘭和辞書の話をだしたのは、当時如何に日本人とオランダ語の繋がりが強かったかということを申し上げたかったからです。

これから話す英語に関しても、英語の辞書を苦心惨憺編集するわけですが、その製作にあたってはオランダ語の基礎、応用を相当学んでいたという基盤があったからこそ、割と早めに完成したのではないかと思います。

今までの話を仮に「準備期」としますと、それ以降は「実施・体験期」とします。
実施・体験期 この時期、1820年代、30年代、40年代で大きな事件を各一つ取り上げました。一言で言えば準備期間で習った英語はほとんど役立たず、というのが結論です。
例えば1824年に英の捕鯨船が今の茨城県の日立市付近の大津浜に来ます。その時に英語を長崎で習得したことになっている、江戸詰の通詞が駆けつけたがさっぱり通じない。どうやって相互理解したかと言えば、捕鯨船員の一人がオランダ語を解し、その人を通じオランダ語で切り抜けたそうです。

同年、トカラ列島の悪石島のそばの宝島にも英の捕鯨船が着きます。ここには薩摩藩の役人がいて、英の船員が一人殺されています。
この時は言葉の関係はほとんど問題にならず、相手は水と食料を求めてきた。薩摩藩は問答無用で追い払う。その最中のゴタゴタで一人を殺してしまったということだと想像します。
この1年後の1825年、幕府から「異国船打ち払い令」が出ます。
30年代には有名なモリソン号事件がありました。日本人漂流民7人を連れて来たにもかかわらず、追い返された事件です。
同時期、大塩平八郎の乱とか蛮社の獄の事件がありました。
40年代、また英の軍艦が長崎に来ますが、この時も英語は役立たず。唐通事の助けで切り抜けたそうです。ということで私はこの時期を「実施・体験期」と名付けています。
 
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4.MacDonald(1824-94)

こうした時代背景下の1848年、今日の主人公マクドナルドが利尻島に来るのです。
マクドナルド肖像 彼は父親がスコットランド人、母はインディアン大酋長の娘の混血児です。
お父さんは英の毛皮の関係の会社の責任者です。当時の英の政策として責任者は現地人と婚姻関係を結ぶのが普通だったようです。それがビジネス上好都合だったのでしょう。
ですからこのマクドナルドは少年時代、恵まれた環境で育ったと思います。会社の方針で当時、混血児に対し学校も用意していたようです。授業は英語でしたから、彼は少年時代最低4年間英語教育を受けていたことになります。成績も優秀で、父親の悩みは、彼の将来をどうするかということでした。

当時、こうした混血児は医師とか弁護士、牧師のような職業にはいくら優秀でもなれなかったそうです。
悩んだ父親は友人の銀行家に就職口を依頼。ということでマクドナルドは15,6歳で銀行に就職します。
銀行所在地は今のカナダの5大湖あたりで、そこで彼は初めて白人社会を体験します。嫌が応でも自分を見る目が冷たいとか軽蔑されているとかを体感する訳です。
結局嫌気がさして、彼は自分ひとりで生きていく決心をし、船乗りになろうと考えます。
インディアンの習慣として成人になった時点で若者は未知の領域に進むべし、という様な考えがあったそうです。そういうことも手伝って、彼はミシシッピー河を渡り船員になります。そして諸々の経験をします。
ロンドン、アフリカにも行きます。
ケープタウンを超えインドへも行っています。
様々な経験をしますが、中でも強烈だったのは奴隷貿易の実態を見たということだと私は想像します。
つまり彼の船が奴隷を売買するわけです。当時奴隷貿易を禁止するという1815年のある種の協定があるのです。奴隷貿易は止めようではないかということです。しかし実態は法をかいくぐって行われていたのです。
マクドナルドがその船に乗っていた時、奴隷貿易を監視する英の軍艦に遭遇します。
船長はどうしたか。船底に隠していた奴隷を全員甲板に上げ、軍艦と反対側の海に放り込んだそうです。それで自分の船は奴隷を乗せていないと主張した訳です。

マクドナルドは船員時代にそうした白人社会の実態をつぶさに自分の目で確認します。
かたや色々な人に会って、日本という国がどういう国であるか諸々の情報を得ます。
日本は鎖国政策を取っている。日本人は白人を恐れない。それどころか白人と闘ってさえいる等々の日本情報に接します。

話が前後しますが1830年代に太平洋を渡って日本人の漂流民がバンクーバーの近くに漂着します。
この時マクドナルドは8歳か9歳。この太平洋を横断して3人の日本人が生きて漂着したという事実に彼は非常な感銘を受けます。
なおかつ混血児として受けた数々の白人の侮辱、横暴。
日本という国はそういう白人を敵にまわして戦っている。日本は物欲ではなくて精神的なものを大事にする大変崇高な国等々、彼の日本への憧れはふくれる一方です。
の母親は若くして死んでいますが、インディアンの伝説として、自分たちの祖先はアジアからアリューシャン列島を渡って来たということも聞いており、そうした諸々があって彼の心の中では日本が非常に大きな存在になっていきます。
熱演の中村講師
ということでマクドナルドは船乗りになっていた時点で「いつか自分は日本へ行く」という決心をしたのだと思います。
彼はニューヨークへ行き捕鯨船と交渉をします。
当時は捕鯨業が一番盛んな時です。例のジョン万次郎が米捕鯨船に助けられたのが1841年の話ですから。
そして契約書を交わす時点で一つの条件を出します。船が満載状態で日本近海に行ったなら自分を降ろしてほしい。そういう条件を付けたそうです。
この辺の話は吉村昭さんの『海の祭礼』(文芸春秋社)という小説によれば、船長は「まあ冗談だろう」位で軽く引き受けたという表現をしています。
が彼は本気だった。しかしまともに日本へ行けば殺されるかも、という危惧が捨てきれない。そこで偽装海難すれば殺されずに受け入れられると考え、海難事故に見せかけ漂着します。

話題を変えて「イエロージャーナリズム」について触れます。
イエロージャーナリズムという言葉は19世紀後半に出てきたとする説があります。
これはキューバを舞台に米とスペインが戦争をした1898年頃の話です。どうもスペイン人はキューバの地元民を虐げている、可哀そうだということで、米のマスコミがその辺のことを安っぽい黄色い紙を使って印刷し書きたてたのがイエロージャーナリズムの語源、という訳です。
ただ別の説もあって、それは違う、19世紀の後半でなくて中頃からすでに存在していたとしています。
それによれば1840年代にこの社会現象はあったそうです。
1840年代は捕鯨業の最盛期で、日本近海に鯨の大群がいるという情報がハワイ経由で流れ、各国の捕鯨船団が日本近海に現れます。
それに伴い難破、漂流、物資の補給等いろいろ起こる訳ですが、その一つの事件が米の捕鯨船員が船内反乱を起こし失敗。やむを得ず15人が日本の陸地を踏むという事件です。
簡単に申しますと、15人は捕えられ長崎へ牢屋送りとなった訳ですが、荒くれ船員の矢面に立ち苦労したのが森山栄之助という男です。
森山栄之助肖像
彼はペリーの2度目の来日時、主席通詞になる男ですが、この15人には大変手を焼きます。
例えば牢屋からの逃亡。ある者は日本の食物など食べないと絶食に入る。ある時は仲間同士の殺しが起こったということもあります。
13人(2人死亡)は半年程長崎にいて、米に帰ります。
そしてあることないこと日本の悪口を言ったわけです。曰く、食べ物は最悪、風邪薬と称し毒薬を飲まされ殺された云々。これがまさに先ほどの「イエロージャーナリズム」の格好の餌食となり、「野蛮国日本」という活字が紙面に踊ったのではないかと思います。
こういう情報が民衆に浸透したという側面もあって、ペリーの日本行きも速まったのではないかと私は思います。
ペリー日本遠征記中の森山栄之助
先日千代田図書館の方が内田嘉吉文庫のなかのペリーの遠征記を見ていたら、森山栄之助の画像があって、それには『first interpreter(第一通訳)』と脚注されていたと教えてくれました。その画像も上に貼ってみました。

この15人とほぼ時を同じくして、今回の主人公のマクドナルドも利尻島から長崎の牢に入れられます。
森山は同時期に15人の船員とマクドナルドのことも世話した訳です。
マクドナルドの気持ちはどんなものだったのでしょうか。
吉村さんの小説にはこう書いてあります。「彼は自分のこれからの生きる道として通訳として生計を立てようと考えていた」。つまり彼は初めから日本語を勉強しようという気持ちがあったのです。
ですからまさに車の両輪で、日本語を勉強したいというマクドナルドと、森山のようにこれから生きた英語を学ばなくてはいかんという両輪がうまく噛み合って、日本で最初の英語の授業が長崎の牢屋で行われたのです。
この時の生徒は14人程が参加します。
授業の詳細は分かりませんが、この英語の発音はこうなのだと一人一人に言わせながらの授業だったようです。
オランダ語ではペリーはペルリ。ハリスはハルリスという発音だそうです。今まで通詞が学んできたオランダ語と同じアルファベットを読んでも発音が相当違います。
森山は正に生きた英語をこの牢屋で学ぶ機会を得、なおかつ大変な熱心さで英語を習得していったのです。
 
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5.森山栄之助、異例の出世

通常通詞は黒子です。自分の意見を述べるなんてことは出来ません。
ところが森山栄之助の場合はペリーが2度目に来た時の主席通詞、かつその次に露のプチャーチンという使節団が来た時にも通訳として活躍しています。
当時の森山栄之助の生活ぶりは寝る暇もないくらい多忙だったのではと思います。
異例の出世をとげた森山栄之助 例えばプチャーチンとは日本とロシアの国境の策定が議題の一つとなります。
彼はそうした諸々の経験を経て、通詞としても最高の位までいくのですが、通詞を卒業し普請役にまで出世します。
それは一種の外交官で自分でも意見を述べても良い役目になったということです。

話は変わりますが、鉄腕アトムの手塚治虫さんの祖先は手塚良庵といって、江戸時代は蘭方医だったそうです。
緒方洪庵の適塾では福沢諭吉と同じ釜の飯を食った仲間だそうです。その為もあってか手塚治虫さんはその辺の事情に詳しくて「陽だまりの樹」という長編漫画を残しています。
私が興味深かったのは手塚さんが作品のなかで森山栄之助に触れ、非常に悪く書いている点です。
どうして悪者扱いしたのか私は今もって良くはわからないのですが、『幕末の外交官 森山栄之助』の著者、長崎在住の江越弘人さん(20年以上森山栄之助を研究)に聞きましたら、ロシア使節のプチャーチン来日時、ゴンチャロフという作家も同行し『日本渡航記』という書物を残し、その中で森山に触れている。そして森山の態度は非常に大きいというふうに、悪い評価が書かれている。
江越さんはこれが後世に影響を与えているのではとおっしゃっていました。
 
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6.堀達之助(1823-94年)

この人がマクドナルドに会えずに生きた英語を学ぶ機会がなかった堀達之助でこれは晩年の写真です。
通訳として活躍していたころの堀達之助を千代田図書館の方が内田嘉吉文庫から探してくれました。さきほど森山栄之助が乗っていたペリーの日本遠征記のなかに『Second interpreter(第2通訳)』として載っていたそうです。並べて貼ってみました。
堀達之助、左が晩年の写真、右がペリー日本遠征記にある画像
彼を主人公にした吉村昭さんの小説が『黒船』です。彼の人生の最大の出来事はある事件で入牢したという事だと思います。

「すってんてん」という言葉がありますが、これは牢屋言葉だそうですね。
新聞情報ですが、これは囚人が牢屋に入ってくるとき、習慣として何がしかのお金を牢名主に差し出す。ところが持っていない者もいる。すると懲罰として文字通り「すってんてん」の真裸になって、牢名主の前で踊るのだそうです。
堀達之助説明 それには二つ目的があり、一つは何も危険なものを持っていないという証明、一つは囚人のストレス解消で、皆ではやしたてるのだそうです。それは役人も公認の行事だったようです。
堀もお金を持って行かなかったようですから「すってん踊り」をやらされたかも知れません。

では何故彼は入牢させられたか。
当時プロシア船のグレタ号が1855年に入って来るのです。これは完全な民間船で下田に来ました。
そこで応対したのが堀達之助でした。この船の船長が是非私は日本と交易がしたい、一筆したためましたよ、ということで手紙を堀に渡します。
ところが堀にしてみるとその文書は子供が書いたような文章で正式文書とは言い難い、国書というのはそれなりの体栽のあるもので、そうでないものはとてもお上へは出せないと判断。これを自宅で保管してしまうのです。
詳細はさておき、それがきっかけで文書私蔵の罪で牢屋に入れられるのです。
彼はこの事件の前、ペリーの初回来航時の主席通詞です。
そういう堀が人を殺した訳でもないのに、何故4年以上も牢屋に? 私は通詞間の陰湿な足の引っ張り合いも一因だったのでは、と想像しています。

時期的には吉田松陰と同じ時期です。吉田松陰は佐久間象山の弟子ですね。
話が飛びますが、佐久間象山は日本でも最初に間接的にせよ仏語に関わった人と言えるかと思います。
象山は松代藩で諸々の洋書と格闘していました。
その松代藩に医者として仕えたのが村上英俊です。村上は江戸にいたのですが、妹が松代藩に嫁ぐということで、彼も松代藩に移ります。そこで象山に会います。すると象山は「お前、この本を読め」といってドーンと洋書を渡したそうです。
それが仏語で何がなんだか分からない。
しかし村上は2ヶ月程この書物とにらめっこをし、なんとなく分かって来たそうです。後年彼は仏語研究の始祖と言われます。
千代田図書館イベントスペースでの講座風景

話がそれましたが、『英和対訳袖珍辞書』に触れなくてはいけません。
堀が牢から出た1859年くらいですか、蛮所調所勤務となり英和辞書編集の指令を受けます。
彼がリーダーになってこの袖珍辞書を作るのです。ポケットディクショナリーという意味ですね。
この辞書は1年9か月で作ったとありますが、蘭英辞書をベースに英和辞書に作り換えたわけです。堀はオランダ語に関しては大変な知識がある方ですから、それが最善の方法だったのでしょう。
このチームには西周(あまね)も協力しています。
3万5000語を収録していますが、2年足らずでこれだけのものを作るのは大変だったと思います。
伊藤博文は井上薫等4人と長州藩から英に密航します。そのとき後生大事に持って行った辞書が正にこの『英和対訳袖珍辞書』だったそうです。
私の話はこのくらいにして質問を受けたいと思います。(拍手)
 
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7.質疑応答

質問:マクドナルドのその後はどうなったのですか?
答え:15人の荒くれ船員とマクドナルドの合計16人の米人が場所は別でしたが、牢にいたわけです。
その情報がいち早く米側に伝わります。今のインドネシアであるバタビアの米領事にオランダの長崎商館長がマル秘文書で手紙を出したそうです。是非早めに引き取りに来てくれと。それで米領事が動き、半年くらいで船が来るのです。
マクドナルドも実際は帰りたくなかったのかもしれませんが一緒に乗せられ日本を退散します。
マクドナルドは最終的には香港経由で米に帰るのですが、山っ気のある方で、オーストラリアで金鉱を探したとか、色々放浪したようです。最後は故郷で亡くなります。日本には来ていません。

質問:森山栄之助は幕末の遣欧使節に随行していますね。やはり『英和対訳袖珍辞書』を持って行ったのですか?
答え:分かりません。しかし森山は英国のオールコック領事と一緒に行っています。
2人には信頼関係があったそうです。対等に会話していたことを考えると森山の英語のレベルはこの時期は相当高かったのではないでしょうか。

質問:堀達之助と森山栄之助はどこの藩出身ですか?
答え:良くは分かりません
。当時長崎ではオランダ語通詞の家が20程度あったようです。その一軒が堀家で達之助は優秀だったのでこの家に養子に来ます。
堀家は例のシーボルト事件で冷や飯を食わされたそうです。
ついでながら、堀達之助のご子孫に堀孝彦さんという方がいらして、『英学と堀達之助』(雄松堂)という本を書かれています。
この本の中には堀達之助に関しては間違った情報が流布している、例えば堀もマクドナルドから生きた英語を学んだという説もあるがこれは間違いだ、と書かれています。
森山家も代々通詞の家系です。
通詞は士農工商からいいますと町人だそうで、商にあたると思います。

質問:堀達之助と森山栄之助の交流は?
答え:ペリーの2回目の来航時、主席通詞は森、その補佐役が堀だったので、仕事上交流はあったと思います。
堀は森山の大変な出世に心穏やかではなかったと思います。通詞としての家格は堀家が上だったそうです。
吉村昭さんの小説では、森山にはそういう意味での反発心があったのではと書いています。
堀は牢屋から昔の通詞仲間に送金を依頼します。しかし誰一人応じてくれなかったようです

質問:堀達之助は吉田松陰とおなじ牢屋で接触があったのですか?
答え:吉村さんの小説では同じ小伝馬町の牢屋です。
当時堀は東口揚屋の牢名主になっていて、水戸藩士でハリス暗殺計画の罪で入牢してきた男を補佐として使います。
その男が吉田松陰(西奥揚屋)と文通を始め、その関係で間接的にせよ、堀、吉田両者の接触があったと言えると思います。

本日はご清聴いただき、まことに有難うございました。


文責:臼井良雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:臼井良雄


本文はここまでです


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