自伝・知財立国に取り組んだ日々 その4

 本の出版を企画するが受ける出版社がない
 前回まで既述したように、筆者はさまざまな知財関係に関係する人々との出会いによって、知的財産権についての現状認識と知識が蓄積されていった。
 その知識を元に97年の夏にかけて、筆者は荒井特許庁長官と共著本を書くためにまず目次を作り、それに前文を添えて出版企画書を作った。事前に荒井さんの了解を得て出版社に働きかけてみた。

 まだ知的財産という言葉は「業界言葉」だったので、「特許を見れば世界がわかる」「特許情報は宝の山」などいくつかのタイトルを提示した。こうしたタイトルは、荒井さんの講演資料から取ったタイトルであり、荒井さんはそのようなキャッチを作るのが実にうまかった。

 目次を作った段階で、魅力的な知財啓発書になると自負した。これならすぐにでも出版できるのではないか。しかし実際に動いてみると、どこの出版社も引き受けてくれない。
 知的財産と言うと「それは学術書ですね」と言う。「特許」と切り出すと「専門書ですね」と言う。その内容を説明しても分かってもらえない。

 さまざまな人脈を使って6つの出版社に話をしたが乗ってこない。落胆の中でこの共著企画はご破算になった。

 しかし荒井さんは独自に「これからは日本もプロパテントの時代」(発明協会 1997)、「特許はベンチャービジネスを支援する」(発明協会 1998)、「特許戦略時代」(日刊工業新聞社 1999)などを矢継ぎ早に出版していった。
 どの本も一般の人々にも興味を持つように書かれており、その行動力には舌を巻き後塵を拝したという思いだった。

 97年の夏を迎えるころ、複数の企業人から相談を持ちかけられた。
 「荒井特許庁長官は、まもなく任期が来て交代するらしい。荒井さんが交代すると特許庁行政は停滞する危惧がある。なんとか任期を延長する方策はないだろうか」

 官僚の人事は、民間にとってはどうにもならない問題だ。しかし任命者にたいして社会の声を届けることは意味があるのではないか。そう思い直し、各界の人々に相談をしてみた。

 そのとき、「荒井留任」を要請する声が、産業界だけでなく政界、弁理士会、マスコミ界にまで広がっていることを知った。官僚の人事でこのような広がりを見せたのはおそらく前例がないのではないか。
 しかしその心配は杞憂に終わった。まもなく「荒井留任」が決定し、さらに1年延びることが確定的になった。

 21世紀構想研究会を創設する 
 1997年9月、筆者は何人かの仲間を集めて「21世紀構想研究会」(現特定非営利活動法人21世紀構想研究会、http://www.kosoken.org/)を作った。
 知的財産権を重視した産業構造に変えるべき時代に、日本は何をするべきか。さまざまなテーマを討論して政策提言もしたいという研究集団を目指した。

 メンバーは、有力なベンチャー企業の創業者、中央行政官庁の課長クラス以上の官僚、大学人、新聞各社の論説委員・編集委員など約80人だった。そのメンバーに加わった株式会社インクス創業者の山田眞次郎氏との出会いが、私の世界観を変えた。

 山田氏は三井金属でドアロック(自動車のドア部分の機能)の設計をしていた。山田氏の設計したドアロックは、ホンダやクライスラーのほとんどの車に搭載され、ドアロックでは世界トップまで上り詰めた設計者である。

 1989年、デトロイトの展示会で、コンピューターのデジタル情報を3次元物体としてアウトプットする光造形装置を見てからもの作りの現場が変わると予感し、会社を辞めてもの作りのコンサルタント業に転進していた。

 光造形装置とは、簡単に言えば、コンピューターの中で設計したものを3次元の物体としてアウトプットするものだ。通常、我々は、コンピューターの中で作成したデータなどをアウトプットする場合、紙に印刷する2次元のものだ。
 それが3次元の物体としてアウトプットする。最初に筆者が聞いたとき、わが耳を疑った。

 光造形装置は、コンピューターで作成したデータを3次元物体としてアウトプットするのだから画期的な方法だ。しかもその画期的なアウトプット装置を世界で初めて発明し、実際にモノを作って見せた人物は、小玉秀男氏(現在は弁理士)という名古屋市の技術者であった。

 筆者は、すぐに小玉氏に連絡をとり取材したところ、驚くような事実を知る。小玉氏はこの画期的な装置の特許を取得するために、当然、特許出願をするのだが、審査請求をするのをすっかり忘れていたため、権利を取り損ねていた。

 装置の開発ではアメリカの技術者に先を越され、その装置が日本へ入ってきていた。当時の審査請求は7年間という猶予があり、小玉氏はアメリカに留学している間に忘れてしまい、審査請求権を失効するのである。

 その発明から日米での特許紛争に至るまでの詳細な報告は、筆者が書いた「大丈夫か日本のもの作り」(プレジデント社)に詳しく書いている。

 音を立てて崩れていく日本のモノ作り現場を見る
 ともかくも、光造形装置とは、コンピューターソフトの3次元CADを使って入力された3次元ソリッドデータを平面で切って2次元の断面データを作成し、このデータをもとに液状の光硬化性樹脂に紫外線レーザ光を照射して硬化させ、一層ずつ積層することによって3次元立体モデル(造形物)をアウトプットするものだ。

 たとえて言えば、平面に印刷したものを次々と積層して、立体形を作っていくような装置である。

 3次元積層造形法(ラピッド・プロトタイピング=RP)とも呼ばれており、開発のスピード化、開発コストの削減、開発工期の効率化に大きく寄与し、製品開発に不可欠な手段となって、モノ作りの現場を急速に変えていった装置であった。

 インクスに話を戻すと、同社は携帯電話の金型製造をしていたがそれは仮の姿であり、本命はもの作りのシステム設計であった。もっと具体的に言えば、日本の大企業の製造現場を作り変えるためのコンサルタント業である。

 携帯電話の金型は、その当時、設計図ができてから45日くらいかかるのが普通だった。それをインクスは45時間という信じられない時間に短縮する。その工程システムと技術はもちろん、特許に囲まれた新しい工法であった。

 山田氏はドアロックの設計者として約150件の特許を出願しており、知的財産権の世界も熟知していた。その山田氏から、産業現場の変革を懇切丁寧に伝授された。もの作りの現場に連れて行かれ、多くの企業人を紹介され取材に飛び回った。筆者にとって興奮の連続であった。

 特に蒲田地域の金型工場を見て回ったり、自動車、電気、材料関係などの大企業の技術者にも会い、モノ作り現場の変化を徹底的に取材した。
 産業技術に素人の筆者にとっては知らないことばかりであり興味が尽きない。その積み重ねによって、間違いなくモノ作り現場では革命が始まっていることを知った。

 こうして高度経済成長期を支えた日本のもの作りの現場が音を立てて崩れていく最後の現場を見ることができた。それは筆者にとって幸運であった。なぜなら次の産業構造の再構築の現場を理解する際に大いなるヒントをもらったからである。

 そしてそれは、1999年に初めて上海、北京を見たときの衝撃に結び付いていく。中国の台頭を肌で感じ、中国ウオッチャーになろうと決心したその動機こそ、日本の産業現場の転換期を見ていた体験があったからであった。

 古いモノ作りの現場に代わって台頭してきたのは、知的財産権を軸として再構築されていく新しい産業構造の現場であった。

 それは荒井寿光・特許庁長官が、日本の企業の特許意識の変革を訴え、日本は国際的な知財戦略を打ち立てないと競争力を失っていくことを警告していた活動と符合するものであった。
 知的財産権についての興味はますます大きくなっていった。