高校から大学生時代、好きだった詩人は中原中也、金子光晴、ボードレール辺りだった。
金子光晴は骨太で、おぼろげな記憶だがパリで不良グループの親分になったり反骨精神の塊だったが、いずれにせよこの種の詩人は破滅型の側面があり、中原中也は子供を失い狂死、ボードレールも梅毒で「酒とハシッシュの比較」などという文章を書いて詩集も発禁、などなど、凄まじい生活をしている。
朝の歌 中原中也
天井に 朱(あか)きいろいで
戸の隙を 洩れ入る光、
鄙(ひな)びたる 軍楽の憶(おも)ひ
手にてなす なにごともなし。
小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、
倦(う)んじてし 人のこころを
諫(いさ)めする なにものもなし。
樹脂(じゆし)の香に 朝は悩まし
うしなひし さまざまのゆめ、
森竝[もりなみ]は 風に鳴るかな
ひろごりて たひらかの空、
土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。
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これは当時は丸暗記して、朝、天井を見ながら心で呟いていた。詩心という面で中也は凄まじいものがあり、この詩など、アンニュイを通り越して、末期の目というか、自殺代わりにどうにか詩を作ることで生きている感じがする。他の歌も同様で、余りにも痛切なので私はある時期から中也の詩を読まないことにした。
が、当時はのめり込み、彼の詩の魅力を探るためにローマ字に直したりして、音の響きの分析したこともある。単純な例を挙げれば、「犬が走っていく」と「犬が走ってゆく」では後者のほうがyuの音感が柔らかい。ア行やカ行やタ行などは音が硬く冷たい一方、サ行やハ行やマ行などは柔らかくて暖かいなど、意味やイメージ意外の部分に詩歌の魅力の秘密がある。後日記号論関係の本を読み始めたときに、誰かが同じような詩の分析方法を論文にしていた。意味やイメージと、音の感覚が相補的関係になると詩歌の磁力のようなものが強くなる、といった内容だったと思う。文学部の教授の引退記念講義でもそういうことを聴いた記憶があるが、誰だったか覚えていない。
ちなみに、中原中也の評伝を書いた大岡昇平は「彼の実生活を知らずに詩だけを読んで感動できる人たちは幸せだ」といった意味のことを書いている。
洗 面 器 金子光晴
( 僕は長いあひだ、洗面器といふうつはは、僕たちが顔や手を洗ふのに湯、水を入れるものとばかり思つてゐた。ところが爪硅(ジャワ)人たちはそれに羊(カンピン) や魚(イカン)や、鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたえて、花咲く合歓木の木陰でお客を待ってゐるし、その同じ洗面器にまたがって広東の女たちは、嫖客の目の前で不浄をきよめ しゃぼりしゃぼりとさびしい音をたてて尿をする。 )
洗面器のなかの
さびしい音よ。
くれてゆく岬タンジョン の
雨の碇泊とまり。
ゆれて、
傾いて、
疲れたこころに
いつまでもはなれぬひびきよ。
人の生のつづくかぎり
耳よ。おぬしは聴くべし。
洗面器のなかの
音のさびしさを。
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光晴は「おっとせい」などが有名だが、ああいう骨太さとこういう繊細さが同居していて面白い。
私の郷里愛媛の八幡浜からはダダイスト高橋新吉が出ており、この人は禅でも悟りを開いて公案の解説書なども書いている。中原中也にも強い影響を与えた。郷里の詩人なので感慨深いものがあり、これは後日新たに書きたいと思う。