知命日記

歯科医、現在 休養中、「木偶庵」庵主、メインサイト http://www.jiro-taniguchi-fan.com/

夏目漱石 「思ひ出す事など」 その2

2012-11-27 03:08:20 | ☆アフォリズム


 始めて読書欲の萌(きざ)した頃、東京の玄耳君(げんじくん)から小包で酔古堂剣掃(すいこどうけんそう)と列仙伝(れつせんでん)を送ってくれた。この列仙伝は帙入(ちついり)の唐本(とうほん)で、少し手荒に取扱うと紙がぴりぴり破れそうに見えるほどの古い――古いと云うよりもむしろ汚ない――本であった。余は寝ながらこの汚ない本を取り上げて、その中にある仙人の挿画(さしえ)を一々丁寧(ていねい)に見た。そうしてこれら仙人の髯(ひげ)の模様だの、頭の恰好(かっこう)だのを互に比較して楽んだ。その時は画工(えかき)の筆癖から来る特色を忘れて、こう云う頭の平らな男でなければ仙人になる資格がないのだろうと思ったり、またこう云う疎(まばら)な髯を風に吹かせなければ仙人の群(むれ)に入(い)る事は覚束(おぼつか)ないのだろうと思ったりして、ひたすら彼等の容貌(ようぼう)に表われてくる共通な骨相を飽(あ)かず眺めた。本文も無論読んで見た。平生気の短かい時にはとても見出す事のできない悠長(ゆうちょう)な心をめでたく意識しながら読んで見た。――余は今の青年のうちに列仙伝を一枚でも読む勇気と時間をもっているものは一人もあるまいと思う。年を取った余も実を云うとこの時始めて列仙伝と云う書物を開けたのである。

 けれども惜しい事に本文は挿画ほど雅(が)に行かなかった。中には欲の塊(かたまり)が羽化(うか)したような俗な仙人もあった。それでも読んで行くうちには多少気に入ったのもできてきた。一番無雑作(むぞうさ)でかつおかしいと思ったのは、何ぞと云うと、手の垢(あか)や鼻糞(はなくそ)を丸めて丸薬(がんやく)を作って、それを人にやる道楽のある仙人であったが、今ではその名を忘れてしまった。
 しかし挿画(さしえ)よりも本文よりも余の注意を惹(ひ)いたのは巻末にある附録であった。これは手軽にいうと長寿法(ちょうじゅほう)とか養生訓(ようじょうくん)とか称するものを諸方から取り集めて来て、いっしょに並べたもののように思われた。もっとも仙に化するための注意であるから、普通の深呼吸だの冷水浴だのとは違って、すこぶる抽象的で、実際解るとも解らぬとも片のつかぬ文字であるが、病中の余にはそれが面白かったと見えて、その二三節をわざわざ日記の中に書き抜いている。日記を検(しら)べて見ると「静(せい)これを性(せい)となせば心其中(そのうち)にあり、動(どう)これを心となせば性其中にあり、心生(しょう)ずれば性滅(めっ)し、心滅すれば性生ず」というようなむずかしい漢文が曲がりくねりに半頁(はんページ)ばかりを埋(うず)めている。

 その時の余は印気(インキ)の切れた万年筆(まんねんふで)の端を撮(つま)んで、ペン先へ墨の通うように一二度揮(ふ)るのがすこぶる苦痛であった。実際健康な人が片手で樫(かし)の六尺棒を振り廻すよりも辛(つら)いくらいであった。それほど衰弱の劇(はげ)しい時にですら、わざわざとこんな道経(どうきょう)めいた文句を写す余裕が心にあったのは、今から考えても真(まこと)に愉快である。子供の時聖堂(せいどう)の図書館へ通って、徂徠(そらい)の園十筆(けんえんじっぴつ)をむやみに写し取った昔を、生涯(しょうがい)にただ一度繰り返し得たような心持が起って来る。昔の余の所作(しょさ)が単に写すという以外には全く無意味であったごとく、病後の余の所作もまたほとんど同様に無意味である。そうしてその無意味なところに、余は一種の価値を見出して喜んでいる。長生(ながいき)の工夫(くふう)のための列仙伝が、長生もしかねまじきほど悠長(ゆうちょう)な心の下(もと)に、病後の余からかく気楽に取扱われたのは、余に取って全くの偶然であり、また再び来(きた)るまじき奇縁である。

 仏蘭西(フランス)の老画家アルピニーはもう九十一二の高齢である。それでも人並(ひとなみ)の気力はあると見えて、この間のスチュージオには目醒(めざま)しい木炭画が十種ほど載っていた。国朝六家詩鈔(こくちょうりくかししょう)の初にある沈徳潜(しんとくせん)の序には、乾隆丁亥夏五(けんりゅうていがいかご)長洲(ちょうしゅう)沈徳潜(しんとくせん)書(しょ)す時に年九十有五。とわざわざ断ってある。長生(ながいき)の結構な事は云うまでもない。長生をしてこの二人のように頭がたしかに使えるのはなおさらめでたい。不惑(ふわく)の齢(よわい)を越すと間もなく死のうとして、わずかに助かった余は、これからいつまで生きられるか固(もと)より分らない。思うに一日生きれば一日の結構で、二日生きれば二日の結構であろう。その上頭が使えたらなおありがたいと云わなければなるまい。ハイズンは世間から二返(へん)も死んだと評判された。一度は弔詩(ちょうし)まで作ってもらった。それにもかかわらず彼は依然として生きていた。余も当時はある新聞から死んだと書かれたそうである。それでも実は死なずにいた。そうして列仙伝を読んで子供の時の無邪気な努力を繰り返し得るほどに生き延びた。それだけでも弱い余に取っては非常な幸福である。その頃ある知らない人から、先生死にたもう事なかれ、先生死にたもうことなかれと書いた見舞を受けた。余は列仙伝を読むべく生き延びた余を悦(よろこ)ぶと同時に、この同情ある青年のために生き延びた余を悦んだ。




 ウォードの著わした社会学の標題には力学的(ダイナミック)という形容詞をわざわざ冠(かん)してあるが、これは普通の社会学でない、力学的に論じたのだという事を特に断ったものと思われる。ところがこの本のかつて魯西亜語(ロシアご)に翻訳された時、魯国(ろこく)の当局者は直(ただ)ちにその発売を禁止してしまった。著者は不審の念に打たれて、その理由を在魯(ざいろ)の友人に聞き合せた。すると友人から、自分にもよくは分らぬが、おそらく標題に力学的という字と社会学(ソシオロジー)という字があるので、当局者は一も二もなくダイナマイト及び社会主義に関係のある恐ろしい著述と速断して、この暴挙をあえてしたのだろうという返事が来たそうである。

 魯国の当局者ではないが、余もこの力学的という言葉には少からぬ注意を払った一人である。平生から一般の学者がこの一字に着眼しないで、あたかも動きの取れぬ死物のように、研究の材料を取り扱いながらかえって平気でいるのを、常に飽(あ)き足らず眺めていたのみならず、自分と親密の関係を有する文芸上の議論が、ことにこの弊(へい)に陥(おちい)りやすく、また陥りつつあるように見えるのを遺憾(いかん)と批判していたから、参考のため、一度は魯国当局者を恐れしめたというこの力学的社会学なるものを一読したいと思っていた。実は自分の恥(はじ)を白状するようではなはだきまりが悪いが、これはけっして新しい本ではない。製本の体裁(ていさい)からしてがすでにスペンサーの綜合哲学(そうごうてつがく)に類した古風なものである。けれどもまた恐ろしく分厚(ぶあつ)に書き上げた著作で、上下二巻を通じて千五百頁ほどある大冊子だから、四五日はおろか一週間かかっても楽に読みこなす事はでき悪(にく)い。それでやむをえず時機の来るまでと思って、本箱の中へしまっておいたのを、小説類に興味を失(しっ)したこの頃の読物としては適当だろうとふと考えついたので、それを宅(うち)から取り寄せてとうとう力学的(ダイナミック)に社会学(ソシオロジー)を病院で研究する事にした。

 ところが読み出して見ると、恐ろしく玄関の広い前置の長い本であった。そうして肝心(かんじん)の社会学そのものになるとすこぶる不完全で、かつせっかくの頼みと思っているいわゆる力学的がはなはだ心細くなるほどに手荒に取扱われていた。今更ウォードの著述に批評を下(くだ)すのは余の目的でない、ただついでに云うだけではあるが、今に本当の力学的が出るだろう、今に高潮の力学的が出るだろうと、どこまでも著者を信用して、とうとう千五百頁の最後の一頁の最後の文字まで読み抜けて、そうして期待したほどのものがどこからも出て来なかった時には、ちょうどハレー彗星(すいせい)の尾で地球が包まれべき当日を、何の変化もなく無事に経過したほどあっけない心持がした。
 けれども道中は、道草を食うべく余儀なくされるだけそれだけ多趣多様で面白かった。その中(うち)で宇宙創造論(コスモジェニー)と云う厳(いか)めしい標題を掲げた所へ来た時、余は覚えず昔(むか)し学校で先生から教わった星雲説(せいうんせつ)の記憶を呼び起して微笑せざるを得なかった。そうしてふと考えた。――
 自分は今危険な病気からやっと回復しかけて、それを非常な仕合(しあわせ)のように喜んでいる。そうして自分の癒(なお)りつつある間に、容赦なく死んで行く知名の人々や惜しい人々を今少し生かしておきたいとのみ冀(こいねが)っている。自分の介抱(かいほう)を受けた妻や医者や看護婦や若い人達をありがたく思っている。世話をしてくれた朋友(ほうゆう)やら、見舞に来てくれた誰彼(たれかれ)やらには篤(あつ)い感謝の念を抱いている。そうしてここに人間らしいあるものが潜(ひそ)んでいると信じている。その証拠(しょうこ)にはここに始めて生き甲斐(がい)のあると思われるほど深い強い快よい感じが漲(みなぎ)っているからである。

 しかしこれは人間相互の関係である。よし吾々(われわれ)を宇宙の本位と見ないまでも、現在の吾々以外に頭を出して、世界のぐるりを見回さない時の内輪の沙汰(さた)である。三世(さんぜ)に亘(わた)る生物全体の進化論と、(ことに)物理の原則に因(よ)って無慈悲に運行し情義なく発展する太陽系の歴史を基礎として、その間に微(かす)かな生を営む人間を考えて見ると、吾らごときものの一喜一憂は無意味と云わんほどに勢力のないという事実に気がつかずにはいられない。

 限りなき星霜(せいそう)を経て固(かた)まりかかった地球の皮が熱を得て溶解し、なお膨脹(ぼうちょう)して瓦斯(ガス)に変形すると同時に、他の天体もまたこれに等しき革命を受けて、今日(こんにち)まで分離して運行した軌道と軌道の間が隙間(すきま)なく充(み)たされた時、今の秩序ある太陽系は日月星辰(じつげつせいしん)の区別を失って、爛(らん)たる一大火雲のごとくに盤旋(ばんせん)するだろう。さらに想像を逆(さか)さまにして、この星雲が熱を失って収縮し、収縮すると共に回転し、回転しながらに外部の一片(いっぺん)を振りちぎりつつ進行するさまを思うと、海陸空気歴然と整えるわが地球の昔は、すべてこれ々(えんえん)たる一塊(いっかい)の瓦斯に過ぎないという結論になる。面目の髣髴(ほうふつ)たる今日から溯(さかのぼ)って、科学の法則を、想像だも及ばざる昔に引張(ひっぱ)れば、一糸(いっし)も乱れぬ普遍の理で、山は山となり、水は水となったものには違かなろうが、この山とこの水とこの空気と太陽の御蔭(おかげ)によって生息する吾(われ)ら人間の運命は、吾らが生くべき条件の備わる間の一瞬時――永劫(えいごう)に展開すべき宇宙歴史の長きより見たる一瞬時――を貪(むさ)ぼるに過ぎないのだから、はかないと云わんよりも、ほんの偶然の命と評した方が当っているかも知れない。
 平生の吾らはただ人を相手にのみ生きている。その生きるための空気については、あるのが当然だと思っていまだかつて心遣(こころづかい)さえした事がない。その心根(こころね)を糺(ただ)すと、吾らが生れる以上、空気は無ければならないはずだぐらいに観じているらしい。けれども、この空気があればこそ人間が生れるのだから、実を云えば、人間のためにできた空気ではなくて、空気のためにできた人間なのである。今にもあれこの空気の成分に多少の変化が起るならば、――地球の歴史はすでにこの変化を予想しつつある――活溌(かっぱつ)なる酸素が地上の固形物と抱合(ほうごう)してしだいに減却するならば、炭素が植物に吸収せられて黒い石炭層に運び去らるるならば、月球(げっきゅう)の表面に瓦斯(ガス)のかからぬごとくに、吾らの世界もまた冷却し尽くすならば、吾らはことごとく死んでしまわねばならない。今の余のように生き延びた自分を祝い、遠く逝(ゆ)く他人を悲しみ、友を懐(なつか)しみ敵を悪(にく)んで、内輪だけの活計(かっけい)に甘んじて得意にその日を渡る訳には行くまい。

 進んで無機有機を通じ、動植両界を貫(つらぬ)き、それらを万里一条の鉄のごとくに隙間(すきま)なく発展して来た進化の歴史と見傚(みな)すとき、そうして吾ら人類がこの大歴史中の単なる一頁(ページ)を埋(うず)むべき材料に過ぎぬ事を自覚するとき、百尺竿頭(ひゃくせきかんとう)に上(のぼ)りつめたと自任する人間の自惚(うぬぼれ)はまた急に脱落しなければならない。支那人が世界の地図を開いて、自分のいる所だけが中華でないと云う事を発見した時よりも、無気味な黒船が来て日本だけが神国でないという事を覚った時よりも、さらに溯(さかのぼ)っては天動説が打ち壊されて、地球が宇宙の中心でなかった事を無理に合点(がてん)せしめられた時よりも、進化論を知り、星雲説を想像する現代の吾らは辛(から)きジスイリュージョンを甞(な)めている。

 種類保存のためには個々の滅亡を意とせぬのが進化論の原則である。学者の例証するところによると、一疋(ぴき)の大口魚(たら)が毎年生む子の数は百万疋とか聞く。牡蠣(かき)になるとそれが二百万の倍数に上(のぼ)るという。そのうちで生長するのはわずか数匹(すひき)に過ぎないのだから、自然は経済的に非常な濫費者(らんぴしゃ)であり、徳義上には恐るべく残酷な父母(ふぼ)である。人間の生死も人間を本位とする吾らから云えば大事件に相違ないが、しばらく立場を易(か)えて、自己が自然になり済ました気分で観察したら、ただ至当(しとう)の成行で、そこに喜びそこに悲しむ理窟(りくつ)は毫(ごう)も存在していないだろう。
 こう考えた時、余ははなはだ心細くなった。またはなはだつまらなくなった。そこでことさらに気分を易えて、この間大磯(おおいそ)で亡(な)くなった大塚夫人の事を思い出しながら、夫人のために手向(たむけ)の句を作った。

有る程の菊抛(な)げ入れよ棺(かん)の中





 忘るべからざる八月二十四日の来(きた)る二週間ほど前から余はすでに病んでいた。縁側(えんがわ)を絶えず通る湯治客に、吾姿を見せるのが苦(く)になって、蒸(む)し暑い時ですら障子(しょうじ)は常に閉(た)て切っていた。三度三度献立(こんだて)を持って誂(あつらえ)を聞きにくる婆さんに、二品(ふたしな)三品(みしな)口に合いそうなものを注文はしても、膳(ぜん)の上に揃(そろ)った皿を眺めると共に、どこからともなく反感が起って、箸(はし)を執(と)る気にはまるでなれなかった。そのうちに嘔気(はきけ)が来た。

 始めは煎薬(せんやく)に似た黄黒(きぐろ)い水をしたたかに吐いた。吐いた後(あと)は多少気分が癒(なお)るので、いささかの物は咽喉(のど)を越した。しかし越した嬉(うれ)しさがまだ消えないうちに、またそのいささかの胃の滞(とどこ)うる重き苦しみに堪(た)え切れなくなって来た。そうしてまた吐いた。吐くものは大概水である。その色がだんだん変って、しまいには緑青(ろくしょう)のような美くしい液体になった。しかも一粒(いちりゅう)の飯さえあえて胃に送り得ぬ恐怖と用心の下(もと)に、卒然として容赦なく食道を逆(さか)さまに流れ出た。


 青いものがまた色を変えた。始めて熊(くま)の胆(い)を水に溶き込んだように黒ずんだ濃い汁を、金盥(かなだらい)になみなみと反(もど)した時、医者は眉(まゆ)を寄せて、こういうものが出るようでは、今のうち安静にして東京に帰った方が好かろうと注告した。余は金盥の中を指(ゆびさ)していったい何が出るのかと質問した。医者は興(きょう)のない顔つきで、これは血だと答えた。けれども余の眼にはこの黒いものが血とは思えなかった。するとまた吐いた。その時は熊の胆の色が少し紅(くれない)を含んで、咽喉を出る時腥(なまぐさ)い臭(かおり)がぷんと鼻を衝(つ)いたので、余は胸を抑えながら自分で血だ血だと云った。玄耳君(げんじくん)が驚ろいて森成(もりなり)さんに坂元(さかもと)君を添えてわざわざ修善寺(しゅぜんじ)まで寄こしてくれたのは、この報知が長距離電話で胃腸病院へ伝(つたわ)って、そこからまた直(すぐ)に社へ通じたからである。別館から馳(か)けて来た東洋城(とうようじょう)が枕辺(まくらべ)に立って、今日東京から医者と社員が来るはずになったと知らしてくれた時は全く救われたような気がした。

 この時の余はほとんど人間らしい複雑な命を有して生きてはいなかった。苦痛のほかは何事をも容(い)れ得(え)ぬほどに烈(はげ)しく活動する胸を懐(いだ)いて朝夕(あさゆう)悩んでいたのである。四十年来の経験を刻んでなお余りあると見えた余の頭脳は、ただこの截然(せつぜん)たる一苦痛を秒ごとに深く印(いん)し来(く)るばかりを能事とするように思われた。したがって余の意識の内容はただ一色(ひといろ)の悶(もだえ)に塗抹(とまつ)されて、臍上方(さいじょうほう)三寸(さんずん)の辺(あたり)を日夜にうねうね行きつ戻りつするのみであった。余は明け暮れ自分の身体(からだ)の中(うち)で、この部分だけを早く切り取って犬に投げてやりたい気がした。それでなければこの恐ろしい単調な意識を、一刻も早くどこへか打ちやってしまいたい気がした。またできるならば、このまま睡魔に冒(おか)されて、前後も知らず一週間ほど寝込んで、しかる後鷹揚(おうよう)な心持をゆたかに抱いて、爽(さわや)かな秋の日の光りに、両の眼を颯(さっ)と開(あ)けたかった。少くとも汽車に揺られもせず車に乗せられもせず、すうと東京へ帰って、胃腸病院の一室に這入(はい)って、そこに仰向(あおむ)けに倒れていたかった。

 森成さんが来てもこの苦しみはちょっと除(と)れなかった。胸の中を棒で攪(か)き混(ま)ぜられるような、また胃の腑(ふ)が不規則な大波をその全面に向って層々と描き出すような、異(い)な心持に堪(た)えかねて、床(とこ)の上に起き返りながら、吐いて見ましょうかと云って、腥(なまぐさ)いものを面(ま)のあたり咽喉(のど)の奥から金盥(かなだらい)の中に傾けた事もあった。森成さんの御蔭(おかげ)でこの苦しみがだいぶ退(ひ)いた時ですら、動くたびに腥い噫(おくび)は常に鼻を貫(つら)ぬいた。血は絶えず腸に向って流れていたのである。
 この煩悶(はんもん)に比(くら)べると、忘るべからざる二十四日の出来事以後に生きた余は、いかに安住の地を得て静穏に生を営んだか分らない。その静穏の日がすなわち余の一生涯(いっしょうがい)にあって最も恐るべき危険の日であったのだと云う事を後から知った時、余は下(しも)のような詩を作った。

円覚曾参棒喝禅。 瞎児何処触機縁。
青山不拒庸人骨。 回首九原月在天。





 忘るべからざる二十四日の出来事を書こうと思って、原稿紙に向いかけると、何だか急に気が進まなくなったのでまた記憶を逆(さかさ)まに向け直して、後戻(あともど)りをした。

 東京を立つときから余は劇(はげ)しく咽喉を痛めていた。いっしょに来るべきはずでつい乗り後(おく)れた東洋城(とうようじょう)の電報を汽車中で受け取って、その意のごとくに御殿場(ごてんば)で一時間ほど待ち合せていた間(ま)に、余は不用になった一枚の切符代を割り戻して貰うために、駅長室へ這入(はい)って行った。するとそこに腰囲何尺(よういなんじゃく)とでも形容すべきほど大きな西洋人が、椅子(いす)に腰をかけてしきりに絵端書(えはがき)の表に何か認(したた)めていた。余は駅長に向って当用を弁ずる傍(かたわら)、思いがけない所に思いがけない人がいるものだという好奇心を禁じ得なかった。するとその大男が突然立ち上がって、あなたは英語を話すかと聞くから、嗄(か)れた声でわずかにイエスと答えた。男は次にこれから京都へ行くにはどの汽車へ乗ったら好いか教えてくれと云った。はなはだ簡単な用向(ようむき)であるから平生ならばどうとも挨拶(あいさつ)ができるのだけれども、声量を全く失っていた当時の余には、それが非常の困難であった。固(もと)より云う事はあるのだから、何か云おうとするのだが、その云おうとする言葉が咽喉(のど)を通るとき千条(ちすじ)に擦(す)り切(き)れでもするごとくに、口へ出て来る時分には全く光沢(つや)を失ってほとんど用をなさなかった。余は英語に通ずる駅員の助(たすけ)を藉(か)りて、ようやくのことこの大男を無事に京都へ送り届けた事とは思うが、その時の不愉快はいまだに忘れない。

 修善寺(しゅぜんじ)に着いてからも咽喉(のど)はいっこう好くならなかった。医者から薬を貰ったり、東洋城の拵(こしら)えてくれた手製の含漱(がんそう)を用いたりなどして、辛(から)く日常の用を弁ずるだけの言葉を使ってすましていた。その頃修善寺には北白川(きたしらかわ)の宮(みや)がおいでになっていた。東洋城は始終(しじゅう)そちらの方の務(つとめ)に追われて、つい一丁ほどしか隔っていない菊屋の別館からも、容易に余の宿までは来る事ができない様子であった。すべてを片づけてから、夜の十時過になって、始めて蚊(かや)の外まで来て、一言(ひとこと)見舞を云うのが常であった。

 そういう夜(よ)の事であったか、または昼の話であったか今は忘れたが、ある時いつものように顔を合わせると、東洋城が突然、殿下からあなたに何か講話をして貰いたいという御注文があったと云い出した。この思いがけない御所望(ごしょもう)を耳にした余は少からず驚いた。けれども自分でさえ聞かずにすめば、聞かずにいたいような不愉快な声を出して、殿下に御話などをする勇気はとても出なかった。その上羽織(はおり)も袴(はかま)も持ち合せなかった。そうして余のごとき位階のないものが、妄(みだ)りに貴(たっと)い殿下の前に出てしかるべきであるかないかそれが第一分らなかった。実際は東洋城も独断で先例のない事をあえてするのを憚(はばか)って、確(しか)とした御受はしなかったのだそうである。

 余の苦痛が咽喉から胃に移る間もなく、東洋城は故郷(ふるさと)にある母の病(やまい)を見舞うべく、去る人と入れ代ってひとまず東京に帰った。殿下もそれからほどなく御立(おたち)になった。そうして忘るべからざる二十四日の来た頃、東洋城は余に関する何の消息も知らずに、また東海道を汽車で西へ下って行った。その時彼は四五分の停車時間を偸(ぬす)んで、三島から余にわざわざ一通の手紙を書いた。その手紙は途中で紛失してしまって、つい宿へ着かなかったけれども、東洋城が御暇乞(おいとまごい)に上がった時、余の病気の事を御忘れにならなかった殿下から、もし逢(あ)う機会があったなら、どうか大事にするようにというような篤(あつ)い意味の御言葉を承ったため、それをわざわざ病中の余に知らせたのだそうである。咽喉の病も癒(い)え、胃の苦しみも去った今の余は、謹(つつし)んで殿下に御礼を申上げなければならない。また殿下の健康を祈らなければならない。




 雨がしきりに降った。裏山の絶壁を真逆(まさか)に下(くだ)る筧(かけい)の竹が、青く冷たく光って見えた幾日を、物憂(ものう)く室(へや)の中に呻吟(しんぎん)しつつ暮していた。人が寝静(ねしず)まると始めて夢を襲(おそ)う(欄干(らんかん)から六尺余りの所を流れる)水の音も、風と雨に打ち消されて全く聞えなくなった。そのうち水が出るとか出たとか云う声がどこからともなく耳に響いた。

 お仙(せん)と云う下女が来て、昨夕(ゆうべ)桂川(かつらがわ)の水が増したので門の前の小家(こいえ)ではおおかたの荷を拵(こしら)えて、預けに来たという話をした。ついでにどことかでは家がまるで流されてしまって、そうしてその家の宝物がどことかから掘り出されたと云う話もした。この下女は伊東の生れで、浜辺か畑中に立って人を呼ぶような大きな声を出す癖のあるすこぶる殺風景な女であったが、雨に鎖(とざ)された山の中の宿屋で、こういう昔の物語めいた、嘘(うそ)か真(まこと)か分らないことを聞かされたときは、御伽噺(おとぎばなし)でも読んだ子供の時のような気がして、何となく古めかしい香(におい)に包まれた。その上家が流されたのがどこで、宝物を掘出したのがどこか、まるで不明なのをいっこう構わずに、それが当然であるごとくに話して行く様子が、いかにも自分の今いる温泉(ゆ)の宿を、浮世から遠くへ離隔(りかく)して、どんな便(たよ)りも噂(うわさ)のほかには這入(はい)ってこられない山里に変化してしまったところに一種の面白味があった。

 とかくするうちにこの楽(たのし)い空想が、不便な事実となって現れ始めた。東京から来る郵便も新聞もことごとく後(おく)れ出した。たまたま着くものは墨がにじむほどびしょびしょに濡(ぬ)れていた。湿った頁(ページ)を破けないように開けて見て、始めて都には今洪水(こうずい)が出盛(でさか)っているという報道を、鮮(あざ)やかな活字の上にまのあたり見たのは、何日(いつか)の事であったか、今たしかには覚えていないけれども、不安な未来を眼先に控(ひか)えて、その日その日の出来栄(できばえ)を案じながら病む身には、けっして嬉(うれ)しい便りではなかった。夜中に胃の痛みで自然と眼が覚(さ)めて、身体(からだ)の置所がないほど苦(くるし)い時には、東京と自分とを繋(つな)ぐ交通の縁が当分切れたその頃の状態を、多少心細いものに観じない訳に行かなかった。余の病気は帰るには余り劇(はげ)し過ぎた。そうして東京の方から余のいる所まで来るには、道路があまり打壊(うちこわ)れ過ぎた。のみならず東京その物がすでに水に浸(つか)っていた。余はほとんど崖(がけ)と共に崩(くず)れる吾家(わがや)の光景と、茅(ち)が崎(さき)で海に押し流されつつある吾子供らを、夢に見ようとした。雨のしたたか降る前に余は妻(さい)に宛てて手紙を出しておいた。それには好い部屋がないから四五日したら帰ると書いた。また病気が再発して苦(くるし)んでいると云う事はわざと知らせずにおいた。そうしてその手紙も着いたか着かないか分らないくらいに考えて寝ていた。

 そこへ電報が来た。それは恐るべき長い時間と労力を費(ついや)して、やっとの事無事に宛名(あてな)の人に通ずるや否や、その宛名の人をして封を切らぬ先に少しはっと思わせた電報であった。しかし中は、今度の水害でこちらは無事だが、そちらはどうかという、見舞と平信(へいしん)をかねたものに過ぎなかった。出した局の名が本郷とあるのを見てこれは草平君(そうへいくん)を煩(わずら)わしたものと知った。

 雨はますます降り続いた。余の病気はしだいに悪い方へ傾(かたぶ)いて行った。その時、余は夜の十二時頃長距離電話をかけられて、硬(かた)い胸を抑えながら受信器を耳に着けた。茅ヶ崎の子供も無事、東京の家も無事という事だけが微(かす)かに分った。しかしその他は全く不得要領で、ほとんど風と話をするごとくに纏(まと)まらない雑音がぼうぼうと鼓膜に響くのみであった。第一かけた当人がわが妻(さい)であるという事さえ覚(さと)らずにこちらからあなたという敬語を何遍か繰返したくらい漠然(ぼんやり)した電話であった。東京の音信(たより)が雨と風と洪水の中に、悩んでいる余の眼に始めて暸然と映ったのは、坐る暇もないほど忙(いそが)しい思いをした妻が、当時の事情をありのままに認(したた)めた巨細(こさい)の手紙がようやく余の手に落ちた時の事であった。余はその手紙を見て自分の病(やまい)を忘れるほど驚いた。

病んで夢む天の川より出水(でみず)かな


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しゅぜんじ 長距離電話 一枚の切符 地球の歴史 スペンサー けんりゅう
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