高校講座HOME >> 世界史 >> 第35回 南アジアの独立 〜インド、パキスタン、バングラデシュ〜
今回のテーマは、「南アジアの独立〜インド・パキスタン・バングラデシュ〜」。
19世紀後半から20世紀後半の1970年代までのインド・パキスタン・バングラデシュといった南アジアを見ていきます。
この時代、日本は二度の世界大戦を経験しました。敗戦後はアメリカの占領を経て、空前の高度経済成長を遂げていきます。
インドでは、イギリスの植民地支配の下で、差別撤廃を求める民族運動が始まります。
非暴力・不服従を掲げたガンディーなどの運動によって、インドはイギリスから独立します。しかしそれは、宗教対立を背景に二つの国家に分離しての独立でした。
19世紀後半、イギリスは世界各地に植民地を確保し、世界支配体制を作り上げました。そのもっとも重要な拠点が、植民地インドでした。
今回は、インドがいかにしてイギリスの強大な支配から脱していったかという脱植民地化の道筋を追うとともに、独立を達成してから現在に至るまで続くインドとパキスタンの対立の過程をみてみましょう。
<3つのポイント>
@インド人エリート層の成長と独立運動の過程
Aガンディー、ネルー、ジンナー
B二度の分離独立〜インド、東西パキスタン、バングラデシュ
<年表>
・1885年 インド国民会議開催によって独立運動が始まりました
・1905〜06年 ベンガル分割令に対して民族運動が激化。イスラーム教徒のムスリム連盟結成
・1919年 州の政治への参加を認めるモン・ファド改革と、運動弾圧のためのローラット法
・1920年 ガンディーによる非暴力・非協力運動開始
・1930年 「塩の行進」という不服従運動
・1939年 第二次世界大戦が始まり、インドでは「クイット・インディア(インドから出て行け)運動」
・1947年 インドとパキスタンの分離独立
・1971年 東パキスタンがバングラデシュとして独立
19世紀後半のインドはどのようにイギリスに支配されていたのか見ていきましょう。
ムガル帝国滅亡後のインドは、1877年にイギリス領インド帝国となり、インドを統治するための総督府が置かれました。
イギリスのヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ね、その下で本国から派遣されたインド総督が、強大な権力を振るいました。
行政機構が整えられ、約3億人ものインド人を、6万人ほどのイギリス人の官僚たちが支配しました。
現在のパキスタン・インド・バングラデシュなどにあたるこの地域を、イギリスは2つに分類して統治していました。
1つは、経済的に重要でイギリスが直接統治を行なう地域。インドの総人口のおよそ3分の2がくらしています。これがいわゆる植民地インドです。
もう1つは、ムガル帝国以来の地方王国である「藩王国」の領土です。
藩王国の支配者「藩王」。イギリスは彼らに対して、統治に協力することを条件に、王国の存続を認めました。もっとも多い時に565あった藩王国を、イギリスは間接的に支配したのです。
イギリス統治下のインドでは、茶、ジュート・綿花等、商品作物の生産が増えました。
これらを加工するために、機械化された工場が建設され、産業も発展していきます。
商品は欧米やアジアに向けて輸出され、通信や運輸の基盤も整えられました。
港と農業生産地を結ぶ鉄道が建設され、インドの鉄道の総延長は世界第5位に躍進しました。
イギリスはインド人への高等教育に力を入れ、エリート層も育っていきました。
こうした中から民族運動が始まったのです。
イギリスにとってインドはとても重要な植民地でした。
まずイギリスは、インドに対して、鉄道をはじめさまざまな投資をしました。
また、工業国だったイギリスは、綿製品などの製造品をインドに販売しました。
インドからは、インド統治に必要な退役官僚や軍人の年金支払いなどの「本国費」を支払いました。つまり植民地支配の経費を植民地に負担させたのです。
この対イギリス赤字を補填(ほてん)するため、インドから他地域へ、茶、綿花、落花生、ジュートなどを輸出して、黒字をかせぎました。
イギリスはインド人の高等教育に力を入れました。少数のイギリス人が3億を超えるインド人を支配するためには、政府と民衆の間に位置するインド人の人材を育成する必要があったからでした。その人材には英語教育が不可欠になりました。
こうして政府と民衆をつなぐインド人の中間エリート層が誕生しました。
中間エリート層とは、弁護士、法律家、ジャーナリスト、学者、官僚などです。
しかし政策を決定するような高級官僚にはインド人がなかなか採用されないという問題が出てきました。それは人種差別のためです。
こうした差別をなくそうとする動きがインド人中間エリート層の間で起きました。
そして、1885年にはそのための組織「国民会議」が誕生しました。これは、インド人エリート層とイギリス人の退職官吏とが協力して作りあげた融和的な団体でした。
イギリスとしては、インド人エリートにイギリスに請願させることで、その不満を解消していこうという発想だったのです。
しかし、その国民会議の性格が変わっていく事件が起きました。それが、1905年のベンガル分割令です。
左は、インドにおけるイスラーム教徒の分布図。
インドはヒンドゥー教徒が8割を占めますが、13%のイスラーム教徒つまりムスリムが存在します。経済の中心地のベンガル地方には、イスラーム教徒が多くいました。
イギリスは民族運動の中心地だったベンガル地方を分割してムスリムの自治州をつくり、運動を分断しようと考えました。
ところが、国民会議派はこれに反対運動を展開し、逆に民族運動は激化することとなりました。
この時、国民会議派が行なった抵抗運動が主に4つありました。
・スワデーシ(国産品の愛用)
・スワラージ(自治獲得)
・イギリス商品ボイコット
・民族教育の強化
こうした運動の結果、1911年、ベンガル分断計画は中止になりました。
1914年第一次世界大戦が始まり、インド兵が戦線に送られることになりました。
第一次大戦に出兵したインド兵の数は150万人。戦死者は3万6千にも及びました。
大戦後、民族自決という国際世論の圧力が高まり、インド人による自治要求が高まりました。そこでイギリスはインドに自治権を用意しました。
イギリスが導入したのは、「モン・ファド改革」と「ローラット法」の2つの政策です。
<モン・ファド改革>
・中央と州の議員を選挙で選ぶ
・州行政の一部をインド人にゆだね、中央政府はイギリスが掌握
<ローラット法>
・裁判なしでの拘束→治安維持のため民族運動を弾圧。
この2つは、飴と鞭(あめとむち)の方策といわれています。
州の行政を任せても中央政府は渡さないので、独立とはほど遠いものでした。
こうして第一次大戦後、インドでは民族独立運動が激しさを増すことになります。
そして、この運動にはガンディー、ネルー、ジンナーと、3人の重要人物が登場します。
ガンディーはインドの小さな藩王国の大臣の家に生まれ、イギリスに留学して弁護士となります。その後、南アフリカに渡り、迫害されていたインド人移民の差別撤廃運動に取り組みました。
1915年インドに帰国したガンディーは、農民運動や労働運動に参加して活躍します。
第一次大戦後の1919年。反英集会に参加した無抵抗の民衆にイギリス側の軍隊が銃を発砲。1500人もの死傷者を出します。
このアムリットサールの虐殺事件は、インド人の反英感情をいっそう強めました。
これに対しガンディーは、武力で独立を勝ち取るのではなく、非暴力・不服従の運動をよびかけました。
その一つが、1930年に始めた「塩の行進」です。これは、植民地政府の専売事業だった塩を、インド民衆の手で作るという抵抗運動です。
武器を持たないこうした運動はインド全土に広がり、エリートから民衆へと運動の裾野を広げました。
ガンディーの同志として民族運動を率いたのがネルーです。
イギリスで学び、弁護士資格を得て帰国したネルーは、国民会議派の中で影響力を強め、完全な独立を旗印に運動を組織していきます。
ヒンドゥー教徒が多数を占めた国民会議派に対し、イスラーム教徒はムスリム連盟という独自の組織を結成していました。
ムスリム連盟の指導者、ジンナー。彼が進める民族運動は、ガンディーのものとは異なりました。国民会議派が「1つの国民、1つのインド」を唱えるのに対し、ジンナーは、インドにはイスラーム教徒という別の国民(民族)が存在するという、「二民族論」を唱えました。
1940年、イスラーム教徒が人口の多数を占める州を集め、イスラーム教徒の国「パキスタン」の建国をめざすと宣言します。
1939年、第二次大戦が勃発すると、イギリスに続いてインド総督もドイツに宣戦を布告。
インド人は再び兵士として戦場に駆り出されます。
第一次世界大戦の際と同様、イギリスがインド独立を約束しないことへの国際的批判が高まり、イギリスは閣僚クリップスをインドに送りました。
クリップスは、戦争終了後インドに自治を与えることを条件に、戦争への全面協力を要請します。
しかし、非暴力を掲げるガンディーはこれを拒否。
ネルーは、即時独立を条件としましたが、イギリス側はこれを受け入れません。
またジンナーも、パキスタン建国が確約されていないとして賛成しません。
結局、交渉は決裂。
国民会議派は、「クイット・インディア」=イギリスはインドから出て行けという運動を展開。しかし、このためにガンディーをはじめとする国民会議派指導者は全員逮捕され、独立への道は閉ざされてしまいました。
ガンディー、ネルー、ジンナーの3人をまとめましょう。
ガンディー
・南アフリカで民族運動→インドへ
・「非暴力・非服従」の運動(古代インドの「不殺生」の思想との関連)
ネルー(ガンディーを師と仰いだ)
・西欧の価値観が強い環境で育ったエリート
・ガンディーとともに民族運動を担い会議派の指導者に
ジンナー
・少数派ムスリムの指導者として最初は国民会議派と連携
・やかでガンジーと運動をめぐり対立。
ムスリム連盟の組織を再建。国民会議派主導の運動に対抗
・1940年「二民族論」を展開、ムスリム国家建国を目標にかかげた
第二次大戦終了後、逮捕された指導者たちは釈放されました。
ところが、戦後は飢饉などもあり、労働運動や農民運動、宗派間の暴動がおこります。
イギリスは大戦で疲弊し、植民地維持が困難になっていました。
こうして独立に向けて大きく動いてゆきます。
独立の追い風を受けてインドは大きく動き出すことになりました。しかし、それは分離独立という独立というかたちをとることになります。
独立インドの姿をめぐって、ネルーとジンナーは大きく対立していました。
国民会議派ネルーの描いた独立インドは、植民地インドの11の州を強固な中央政府のもとに統一し、さらに藩王国も取り込み、一つの独立インドを作るというものでした。
ジンナーの要求は、イスラーム教徒が多数を占める地域を他から切り離し、パキスタンという独立国家を作るというものです。
これに結論を下したのが、最後のインド総督となったマウントバッテンです。
1947年六月、インド総督府で、イギリスからの権力委譲の最終決定が行なわれました。
マウントバッテンは、国民会議派、ムスリム連盟等の指導者に、独立に向けての案を示しました。
まず、ジンナーの希望通りイギリス領インドを分割し、東西にイスラーム教徒の国パキスタンを独立させる。
その際、パンジャブ州とベンガル州は分割し、インド最大の穀倉地帯の半分とベンガル最大の工業都市カルカッタをインドのものとする、というものです。
指導者たちはこの計画を受諾。国境線を引く責任者には、インドには縁もゆかりもないロンドンの弁護士が当たりました。彼は、もっぱら統計資料だけをたよりに赤い線を引きました。こうして、そこに住む人々の文化や生活とは無関係に、新しい国境線が作られたのです。
1947年8月14日。まず、東西パキスタンが独立し、当時の首都カラチで独立式典が行われました。ジンナーはパキスタン初代総督の座につきます。
翌8月15日、インドが独立。喜びにあふれた人々がデリーの町を埋めました。
ネルーは独立インド最初の首相の地位に就きました。
この分割独立に伴って、ヒンドゥー教徒はインドへ、イスラーム教徒はパキスタンへと一斉に移住し始めました。
この時、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒とが互いに殺戮(さつりく)を繰り返すという惨劇が繰り広げられました。
こうした事態を憂慮したガンディーは、何度も無期限の断食を行ない、民衆に非暴力を訴え続けます。ガンディーは暴動の激しい地域に赴き、これを抑えたいと考えました。
しかし、その願いは実現しませんでした。
インド独立の翌年、ガンディーはヒンドゥー過激派が放った3発の銃弾によって命を断たれたのです。
分離独立後の地図を見てみましょう。
東西が1800キロ離れていますが、それでもパキスタンという1つの国家です。
これは、イスラーム教徒の人口の多いパンジャブとベンガルが、パキスタンとして独立したからです。
ヒンドゥーとムスリムという括り方で空間を分け、国家を作りました。
しかし、インド、パキスタンという形で成立する二つの国家の中には、いずれもヒンドゥーとムスリムが少なからず暮らしていました。
藩王国は、独立に際してインド・パキスタンいずれかに属することになりましたが、そこで新たなる問題が生まれます。
分割独立後のインドを安定させるためには、藩王をどちらかの国に組み込まなければなりませんでした。マウントバッテンは藩王たちを集め交渉します。集まった藩王たちは時代の変化を受け入れ、ほとんどの藩王国がどちらかの国への帰属宣言に署名しました。
しかし、インドとパキスタンの国境に位置していたカシミール藩王国はこれを保留。
藩王ハリ・シンがインドに属するという署名をしたのは、独立の日を過ぎた騒乱の中でした。
藩王の署名によって、カシミールはインド領になったと、インドは主張します。
一方パキスタンは、この決定は、人口の8割を占めるイスラーム教徒の意思に反するとして、認めません。
両者が主張を譲らないまま、独立直後のインドとパキスタンは戦争に突入。3度の戦争を経た現在でもカシミール問題は解決していません。
一方、東パキスタンでは1971年、西パキスタンからの独立戦争が起きます。
ベンガル語を公用語から排除するなど、西の差別的な統治に対して、イスラーム教徒としての一体性よりも、ベンガル人としての民族意識が高まったのです。
9か月に及ぶ戦闘の末、東パキスタンはベンガルの国=バングラデシュとして独立を勝ち取りました。
これは、現在のインド・パキスタン・バングラデシュの地図です。
カシミール地方はインド・パキスタン双方が帰属を主張し、現在も国境が定まっていません。
一方東西に1800キロ離れて独立したパキスタンは、東がバングラデシュとして独立しました。
なぜバングラデシュは独立したのか、背景を追ってみましょう。
東パキスタンは西パキスタンから国家運営から排除されていました。また、政府の支出、民間の投資、言語政策などで格差・不平等を感じていました。
パキスタンの中で、軍政に対する民衆化運動が起きます。1970年総選挙で、自治を要求してきたアワミ連盟が過半数を制しました。これに対して、軍は議会を開かずに武力弾圧をします。
すると東パキスタン側が独立宣言。
ゲリラ戦からインドが軍事介入をしてパキスタンと戦い、破ったことで、バングラデシュは独立を達成したのです。
<今日のポイント>
@インド人エリート層の成長と独立運動の過程
Aガンディー、ネルー、ジンナー
B二度の分離独立〜インド、東西パキスタン、バングラデシュ
圧倒的な支配力を誇示したイギリスの支配に対し、インドの人々はガンディーという類いまれな指導者を得て、非暴力という前代未聞の運動によって独立を勝ちとりました。
19世紀以降のアジアにおけるイギリスの植民地政策を終焉させた意味は大きいのです。
この独立をきっかけにアフリカやアジアの植民地は次々と独立を果たします。
しかし、インドとパキスタンの両国は、現在までたびたび軍事衝突を起こしており、核兵器まで開発して世界の不安定要因の一つとなっていることも忘れてはなりません。