日露戦争 概説7 明治37年2月9日〜明治38年9月5日
明治37年春以来、ウスリー方面のロシア軍は、韓国東北部の咸鏡(かんきょう)道に進入していた。日本側では早くからこの敵を国境外に駆逐し、あるいはウラジオストックまで進撃してこれを占領する計画が議論されていたが、満州での主作戦重視のために見送られていた。韓国駐剳軍(司令官 長谷川好道大将)は、奉天戦の終わった明治38年5月以降、増加された後備第2師団を当該方面に行動させた。後備第2師団は9月1日会寧まで進出、講和条約の成立によって作戦を終了した。 樺太に対しても、同様に早くから攻略する案があったが、北韓作戦と同じ理由で見送られていた。奉天戦直後の3月31日動員された新設の第13師団(師団長 原口兼済中将)は、日本海海戦が終わり、戦争終結が近く予想されるに至り、講和条件を有利にする目的のため樺太占領に使用されることになった。独立第13師団は、7月上旬行動を起こし、7月8日一部をもって大泊に、7月24日主力をもってアルコワに上陸それぞれ当面の敵を攻撃、リヤブノフ中将指揮の歩兵約4000、砲8門を主力とする在樺太ロシア軍の降伏により、8月1日樺太全島を占領、講和を迎えた。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ロシア陸軍は、国内の革命勢力に備えて兵力を温存していたうえに、日本軍の戦力を軽視したため極東への兵力派遣を躊躇していた。しかし相次ぐ敗戦に国内の人心動揺が高まることを恐れて、大々的な兵力増強に踏みきっていた。単線のシベリア鉄道を一方通行として使用し、たちまち極東ロシア陸軍の兵力は日本軍の3倍に迫っていた。日露両国の兵力の差は日を追って拡大していった。 これに対し奉天会戦で優勢なロシアの大軍を壊走させたとはいえ、日本軍にはそれ以上進撃する力は残っていなかった。しかも日本陸軍は、兵の補充を急ぐ余り、陸軍省令第五号で徴兵検査の水準を、身長四尺九寸五分(約147cm)まで下げていた。その上日本の財政も悲観的状況であった。開戦後1年3ヶ月余の間に投入された戦費は20億円近く、それは戦前の国家予算の8倍にもあたる巨額であった。政府は、増税、新税の創設をはじめ5回にわたる国債、4回の外債によって補ってきたが、財政政策上、これ以上の捻出は不可能であった。 このような情勢の中で、我が政府・統帥部には講和を臨む声が高まっていた。そもそも日本が存亡を賭けて戦争に踏み切ったのは、ロシアの露骨な侵略政策と挑発行為に対する自衛国防のためである。日本の指導者たちは領土的野心を抱くこともなく、ロシア領内深く進撃する国力のないことを自覚していた。政府も軍部も、開戦時から戦争は短期間で終了し、ロシアと講和条約を締結することを真剣に考えていたのである。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸の奉天会戦、海の日本海海戦で日本軍が大勝を得た後、6月2日米大統領ルーズベルトは、駐米ロシア大使カシニーを招いて講和を勧告してきた。しかしカシニー大使は、5月30日の露国宮中軍事会議が継戦に決定した旨の電報を示しながら次のように答えた。 「日本軍が未だロシア領土の寸地尺土をも占領せざる現状にて講和するは、ロシアの名誉を失墜するものなり。余は未だ講和の訓令に接せず、未だ応ずるを得ず。」
しかし6月7日ころからようやくロシア内部にも講和の動きが見え始め、改めて6月10日米大統領ルーズベルトは、日露両国に対して講和を勧告してきた。さらには独、仏ですらロシアに和を構ずべきを勧め、講和の声は全世界に漲った。
無賠償、樺太の南半分のみ日本へ。これが心血を注いで講和会議に臨んだ日本全権・小村寿太郎の努力の賜物であり、日露戦争に辛勝した日本が得たすべてである。しかし同時にロシアのアジア侵略を抑え、日本の国際的地位を確立させたのであった。 賠償金がなく、占領した樺太も半分に削られたこの条約は、勝利を収めた日本にとって極めて不満足なものであった。一方、陸軍の大半を温存していたロシアにとっても、この条約は不本意であった。しかし日本の動員能力、戦費調達は払底しており、ロシアは国内に革命気運が燃え上がって来ており、ともに戦争継続は困難な事情があった。さらに米大統領の仲介努力もあってこのような妥協案が辛うじて成立したのである。 国内では講和条約を不満とする民衆が外交の失敗として政府を攻撃し、騒乱が日比谷付近から発生、9月から10月にかけて東京に戒厳令が布告される事件が起こった。「臥薪嘗胆」の苦労と、甚大なる犠牲に対する報いの少ないことに対する憤激からであった。ロシアは国内事情や内部の不和などによっていわば日本に勝利を譲ったが、もし継戦意思を堅持してハルピン付近で反撃にでていたならば果たしてどうなったいたか。このことは我が中央統帥部では当然知り尽くしていた。おそらく後年の大東亜戦争における、緒戦の勝利に対するその後の米英軍の反抗と同様の経過をたどったことであろう。 しかしこの真相は一般には理解され難く、国民の多くは連戦連勝の報道のみに眼を奪われ、国力の限界点に達していたわが国の現状には気づかなかった。その結果、いたずらに戦勝にたかぶり国防の脆弱性を知らずして、慢心が生じたことは否定できない。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本人は、人道のため賠償金の権利を放棄した。この偉大な好意は日本人が勇敢なだけでなく、寛大な国民であることを示した。 =ワシントン・スター紙=
日本は戦争で示した偉大さを講和条約で裏付けた。この日本の寛大さは世界史上例を見ないものである。
日本は世論を容れて正しく行動しそれによって得た地位は、いかに巨大な額の賠償金にも勝るものがある。
日本政府が賠償金放棄に対する国民の不満に敢然と対決しようとする勇気は、日本の陸海軍軍人が敵に対決した時の勇気に比べ遜色がない。
日本の古くからの騎士道(武士道)精神が、単なる金銭的配慮のための戦争遂行を恥としたのである。(中略)
日本が日露戦争に勝利を収めると、世界は日本の勝因を愛国心、自律心などとしたが、その基盤が武士道にあると考えた。それは新渡戸稲造の「武士道」(Bushido-The Soul of Japan)が、6年間で10版を重ねたこと、金子賢太郎から「武士道」を贈られたルーズベルト大統領が30冊を購入し、3冊を息子たちに、残りを政府要人、軍学校等に配布したことからも、またカイゼル・ウィルヘルム三世はドイツ軍に向かって「汝らは日本軍隊の精神にならえ」と訓示したことなどからも、当時の世界が日本の武士道に強く関心を持ち、武士道を評価していたことが理解できよう。 明治維新からわずか30余年にして西欧的近代化を達成した高度な技術力、小人のような日本軍将兵の驚くほど勇敢で不屈の精神力、これらは欧米先進国から感嘆と畏怖をもって迎えられた。富国強兵策を経ての日清戦争、臥薪嘗胆の後の日露戦争、それは我が陸海軍が全国民の後援のもとに登りつめた一つの黄金時代であった。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日露戦争において、有色人種の一小国が白色人種の強国ロシアを打ち破ったことは、まさに13世紀の蒙古帝国以来絶えて久しいことであった。アジアの感激は大きく、シルクロードの宿場の多くには、明治天皇のご真影と東郷元帥の写真が飾られたほどで、インドのネールは、「青年時代最大の感激は、日露戦争で日本が勝利したことである」と記している。有色人種の志気を鼓舞し、民族意識を高めたことは論を待たない。 アジアの独立、アジアの民族運動はここに芽をふいた。清国に辛亥革命が起こったのも間もない後のことである。日本を範とし、白色人種の支配から脱しようとする気運がようやく動き出そうとした。その影響は中東やロシアの勢力圏内にあったポーランド・フィンランドなどにまで及んだ。前述のネール首相をはじめ、有色世界の多くの政治的指導者が、日露戦争を契機に起ち上がり、欧米列強の帝国主義的支配に果敢に挑戦し、遂には歴史の帰趨を変えるに至った。当時において日本民族の果たした役割は、実に偉大なものがあったと言えよう。
西欧の史書では、フランス革命が国民国家を成立させたとしているが、民族国家の独立をアジアやアラブ、アフリカ諸国に目覚めさせたのが日露戦争であり、その運動に火をつけ、有色人種の民族国家を建国させたのが、のちの大東亜戦争ではなかったか。 |