日露戦争 概説6 明治37年2月9日〜明治38年9月5日
日露戦争は世界中の予想に反してロシア軍の敗北につぐ敗北に終わっていた。陸戦においては、小国日本の陸軍が世界最強と呼ばれるロシア陸軍に徹底的な打撃を与えていた。またロシア海軍も日本の聯合艦隊によって大打撃を受けていた。明治37年8月におこなわれた黄海海戦と蔚山沖海戦によってロシア太平洋艦隊の戦力は著しく低下、残存兵力も辛うじて旅順港内に閉じ込められていた。
そうした状況を憂慮したロシア皇帝ニコライ二世は、戦局を一挙に挽回するために、第二太平洋艦隊(以下バルチック艦隊と記す)を編成、司令長官には、侍従武官・軍令部長ロジェストヴェンスキー少将(後に中将)を任命した。
バルチック艦隊の各艦船は、その名のとおりバルト海のような内海での運用を考慮して建造されたため、復元力が弱く、艦首部の装甲が弱いという共通の弱点があった。さらには照準機や測距儀等の装備にも欠陥が多かった。加えて乗組員も、急遽農村部から徴発された者が多く、出港を前に戦術的教育を実施する必要があり、航海途中においても操艦訓練や砲術訓練を反復させなければならなかった。
数十隻にものぼる大艦隊の航海は、燃料とのたたかいでもあった。石炭は極めて燃料効率が悪く、おおむね3、4日ごとに補給しなければならない。大航海に費やされる石炭の量は、約24万トンという驚くべき量である。それらは、航路途中の港に配置されている外国から雇い入れた石炭船から補給を受けるが、艦隊自身も多くの石炭船を従え、食料、水を満載した運送船も同行させていた。 補給信号が発せられると、大型の石炭船が艦艇に接近し船体を横付けする。波に揺れる中での接舷は非常に危険であったが、波の穏かな日は、熟練した操舵によってそれを可能にした。そして石炭船のクレーンで吊り上げられた石炭の俵や水が甲板に移され、機関部員たちが艦内に運び込む。この石炭の洋上補給は、ロシア海軍が生み出した画期的な作業方法であった。ただし、うねりや波の高い洋上での作業時は、ハシケやカッターに石炭を積み替え、さらにそれを補給する艦艇に移さなければならず、非常な困難を伴った。
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バルチック艦隊の派遣を発表した前後、極東では旅順港閉塞作戦をおこなっていた我が艦艇が次々と触雷、衝突で失われるという事件が勃発していた。明治37年5月14日に、二等巡洋艦「吉野」が濃霧のため装甲巡洋艦「春日」と衝突、「吉野」は沈没し317名が死亡、「春日」は損傷した。またその翌日には新鋭戦艦「初瀬」が二度触雷し沈没、副長以下492名が戦死、その直後、戦艦「八島」も触雷して沈没した。 聯合艦隊の主力である6隻の戦艦は4隻に激減、戦力の1/3が失われた。バルチック艦隊の来航が伝えられる最中にあって海軍の悲嘆は大きかった。 その頃ロシア東洋艦隊は、修理中を含めて5隻の戦艦が旅順港内に潜んでいた。その上ロシア本国から東航するバルチック艦隊には、戦艦7隻が主力(実際は8隻)であると伝えられ、これらが合流すればロシアは12隻の戦艦を有する大艦隊となる。これに対し聯合艦隊は、わずか4隻の戦艦で対抗しなければならない。巡洋艦以下の艦艇は聯合艦隊の方が勝っているとは云え、主力艦の斉射で艦隊一決の大勢は決する、という当時の海戦の常識から考え、このままでは日本海軍の敗北必至は誰の目にも明らかであった。 明治37年12月5日 旅順の203高地が陥落した。その山頂からは旅順港内と市街とが一望のもとに見下ろすことができた。我が重砲は敵艦に対して砲撃を開始、戦艦5隻中4隻、巡洋艦2隻ほかが撃沈、残る戦艦「セヴァストポリ」も我が水雷艇隊によって大破着底し、旅順艦隊は全滅、聯合艦隊はバルチック艦隊に総力を挙げて立ち向かう態勢をとることが可能となったのである。
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リバウ軍港を4集団にわかれて出発した艦隊は、出港直後の暗夜の北海で英国漁船団を日本の水雷艇と誤認して砲撃する事件(ドッガー・バンク事件)を起こした。前述のように、急造の艦隊による練度の低さと指揮系統の弱さを暴露した顕著な事例であり、周辺諸国の物笑いとなっただけでなく、開戦の噂がささやかれたほど英露関係を悪化させた。 この影響もあり、日本の同盟国である英国からは艦隊の示威運動、フランスの港湾利用の制止、石炭購入の妨害等を受けて遠征の苦難は一層加重された。休養や補給に適した港湾はロシアの同盟国フランスの勢力下にある2、3を除いて、途中どこにもなく、遠大な航路の大半はイギリス海軍の勢力下にあった。そのため、洋上補給という困難な作業を繰り返さざるを得なくなった。 仏領マダガスカル島北岸のノシベ泊地とインドシナ半島カムラン湾だけが、40数隻12000名将兵の大遠征の休養・補給地であった。しかしこの艦隊に対してフランス政府の態度は、英仏関係を考慮して冷たかった。悪疫のはびこる灼熱の未開地ノシベ泊地では、当初2週間の停泊予定が2ヶ月にも延び、将兵の健康状態は急速に悪化、軍紀は極端に緩んだ。アフリカ海岸沿いの海図は不正確なものが多く、艦船の故障も相次いだ。ロシア人にとって灼熱の地は耐えがたいものがあり、運送船「マライア」では暴動が起こった程であった。 明治38年1月1日 本国から正式に旅順艦隊が全滅したことが伝えられ、旅順艦隊と合流して圧倒的な戦力で決戦に臨むという目論見は潰え去る。酷熱と激浪のインド洋を経て、4月14日たどり着いた補給地 ベトナムのカムラン湾でも、フランスの総督は本国の指示に基づいて3カイリ領海外への停泊を主張、さらには石炭の供給も拒否した。その頃スエズ運河を経て合流した支隊司令官(第2戦艦戦隊司令官)フェリケルザム少将が脳溢血で倒れ、精神衰弱気味のロジェストヴェンスキー長官は、遅れて到着するはずのネボガトフ少将指揮の第3艦隊を待ちながら4日間近海に遊弋、4月26日 カムラン湾北方60海里にあるヴァン・フォン湾沿岸を彷徨して、ここでも20数日待機することとなった。 結局バルチック艦隊は、この非常識なまでの長期・長途の大遠征で、すでに健康を害し士気は沮喪し軍紀は弛緩するという、実戦力が著しく低下した状態のまま、運命の対馬沖へと向かうのである。
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旅順陥落後、聯合艦隊は一部でウラジオ艦隊の監視、バルチック艦隊の情報収集等を行いながら、逐次内地の海軍工廠で艦艇の整備・補強・休養を行い鋭気を回復した。これらの艦艇は、日露戦争勃発以降、仁川港外の海戦、旅順港奇襲、黄海海戦の息つぐ間もない海戦によって損傷や故障個所が続出し、満身創痍に近い状態で、バルチック艦隊を迎え撃つ態勢には程遠かった。 聯合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、12月30日明治天皇に上奏後、翌年2月6日東京を列車で出発、呉軍港から旗艦「三笠」に乗り込んだ。2月14日 艦艇を率いて呉軍港を抜錨、21日には朝鮮南岸の鎮海湾に集結し猛訓練を行った。東郷長官は技量の面だけでなく精神の訓練も怠らず、「機先を制するは戦いの常法なり」と諭し「百発百中の砲一門は百発一中の砲百門に勝る」と訓示した。 訓練は猛烈を極めた。陣形運動が繰り返し行われ、敵発見から要撃戦、夜間の襲撃、追撃から撃滅へと一連の攻撃訓練は昼夜をわかたぬ激しいものであった。10日間に平時の1年間分もの訓練用砲弾を消費したほどで、この間に砲撃の技量は約3倍に向上したといわれ、鎮海湾の内外には実戦さながらの厳しい訓練が展開された。聯合艦隊は戦艦の数では劣っていたが、速力と中小口径の砲数で勝り、士気と技能ならびに下瀬火薬の威力では著しく勝っていた。
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バルチック艦隊が採るべき道は二つ考えられた。
@ 戦闘を覚悟の上で1日も早くウラジオストック軍港に直航、ここを拠点に改めて作戦を開始する。
遠征の途中ですら燃料補給に悩まされたバルチック艦隊が、改めて南方に拠点をつくり、そこで補給を行うとは考え難く、結局は@案を採用するものと判断した。
@ 最短コースである対馬海峡(朝鮮海峡)を通過する。
津軽海峡や宗谷海峡からは確かに行動は隠せるが、この時期は両海峡とも濃霧が立ち込める。地理に不案内で長い航海で疲弊している大艦隊が通過するのは極めて困難である。衝突や座礁の危険を冒してまで、慎重なロジェストヴェンスキー長官がこのコースを選択するとは思えない。 聯合艦隊の迎撃作戦は、作戦参謀秋山真之が考案したといわれる連続4昼夜にわたる七段備(かまえ)の戦法で、連携した波状攻撃によってウラジオストック到着前に敵艦隊の完全殲滅を目的としていた。
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ロジェストヴェンスキー長官以下のバルチック艦隊にとって、対馬海峡を通過することがウラジオストック軍港に向かう最短コースであることは十分承知していた。それ故、あえて太平洋上を迂回して、津軽、宗谷のいずれかの海峡を通過するコースも十分考えられたが、総合的に検討した結果、正攻法をとることに決した。 バルチック艦隊司令部は、対馬海峡に日本海軍の主力が待ち構えているに違いない、としながらも、基本的に日本艦隊は三海峡に分散配置されているものと信じていた。しかしロシア艦隊の戦力は日本艦隊を大きく凌駕しているという確信を抱いており、分散した中の一艦隊との決戦はむしろ望むところであった。その強い自信が対馬海峡突破の固い決意を抱かせたのである。 対馬海峡進入を前に、艦隊の一部を割いて太平洋上に進出させる陽動作戦を企図した。東郷長官以下の日本艦隊主力が対馬海峡を離脱した隙をついて、同海峡を突破しようと考えたためである。そのため仮装巡洋艦2隻と捕獲英国商船1隻を九州・四国の沖合いに出動させた。さらに5月24日には、石炭運搬の任を終えた運送船6隻が仮装巡洋艦2隻とともに上海方面に向かった。この行動もロシア艦隊が黄海方面で行動中を装う陽動作戦の一種であったが、却って対馬海峡を通過することを暗示させる結果となった。
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「ネボガトフ艦隊と合流したバルチック艦隊は、5月14日(カムラン湾北方)ホンコーヘ湾を出動、東方海上に向かう」この緊急電報に接した聯合艦隊は、インドシナからの距離から考え、5月22日にはロシア艦隊が対馬海峡付近に到達するはずであると推定した。ロシア側諜報機関の偽装電報が飛び交う中、我が聯合艦隊は対馬海峡に集結したまま動かなかった。 しかし24日になっても我が哨戒線に現れず、ロシア艦隊の消息は不明だった。聯合艦隊司令部では、津軽海峡に迂回したのではないかと焦燥し、5月25日 旗艦「三笠」における将官・参謀長会議では、同日午後3時に津軽海峡に向けての移動が決まりかけた。しかし、遅れて出席した第2艦隊参謀長藤井較一少将と同司令官島村速雄中将が反対したため、同日の移動は中止となり、折衷案として26日まで敵艦隊の動向を見極めることとなる。26日にはロシア艦艇の一部が東シナ海にいることが明らかになり、また天候が悪化したこともあり、再び移動は中止となった。結果的にはこれが日本に非常な幸運をもたらすこととなった。
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注 ロシア本国から出港した全艦艇は仮装巡洋艦、運送艦などこれ以外にも若干存在するが、故障発生や陽動作戦などのため海戦に参加することなく途中から別行動をとっている。 ロシア本国に逃れたのは特務船(運送船)「アナドゥイリ」1隻のみ、目的のウラジオストック軍港に到達したのはヨット式小型巡洋艦「アルマーズ」、駆逐艦「ブラーヴィイ」「グローズヌイ」の三隻のみであった。 日本艦隊の損失は、第34号艇、第35号艇、第69号艇の水雷艇三隻であった。
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司令長官 ロジェストヴェンスキー中将は、頭部に重症を負い、参謀長コロン大佐、セミョーノフ中佐以下の幕僚とともに駆逐艦「ベドーヴィイ」の降伏に伴い捕虜となった。直ちに佐世保海軍病院特等室に入院、衣食ともに日本海軍の将官級よりもはるかに高待遇であった。
次席指揮官たるネボガトフ少将は、旗艦「ニコライ一世」に坐乗し、戦艦「オリョール」他3隻の5隻をもってウラジオストックに向かったが、5月28日午前10時過ぎ、我が艦隊に包囲されたのを見て戦うことなく降伏を決意。参謀長クロッツ中佐、「ニコライ一世」艦長スミルノフ大佐らとともに捕虜となった。 東郷大将は、敗北した敵軍人に武人としての名誉を尊重し、ロジェストヴェンスキー中将とネボガトフ少将に対してロシア皇帝への戦況報告の打診を許可した。これは戦時下にあって極めて異例のことであった。また捕虜に対する待遇も人道的なものであり、ここでも武士道精神が発揮された。
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造船技術水準が高く、新鋭戦艦を続々と自国で進水させている世界一流の海軍国ロシアが、主要軍艦の多くを外国に発注している技術後進国日本に大敗したという事実は、まさに奇蹟的な大事件であり、奉天での陸上決戦での勝利に続く海上決戦での勝利は、日本軍の底知れぬ強さを示すものであった。
日本海海戦の日本圧勝のニュースは世界を驚愕させ、ほとんどの国が号外で報じた。 他方ロシア国内では、日本海海戦の敗北は5月30日に初めて公表され、「海戦には敗れたがロシアの威力は常に陸軍である。満州には50万人の兵があり講和に応じるべきではない」とする内容が多かったが、「戦争の行方は決した」とする論調も現れた。
日本海海戦(世界的呼称 対馬沖海戦)は、艦隊決戦主義を不動のものとし、大艦巨砲主義時代の幕開けを告げ、全世界の海軍戦術や建艦政策に大きな影響を与えた。
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