10月15日ロシア・バルチック艦隊はリバウを出港した。
旅順の極東艦隊は、バルチック艦隊の到着を待っていた。バルチック艦隊が到着すれば一緒にウラジオストックまで逃げ込み、体制を立て直し日本の連合艦隊を殲滅し黄海の制海権を取り戻せると考えていた。
旅順要塞を陸上から攻撃していたのは、司令官乃木希典率いる第3軍であった。参謀長は伊地知幸助。
連合艦隊が見つけた、203高地は旅順口を見下ろせる格好の場所だった。そこに観測兵を置いて港内の軍艦を海軍砲で砲撃すれば、旅順の残存艦隊は消える、日本連合艦隊は佐世保に帰港しドック入りし、来るバルチック艦隊に備えることが出来る。
それまで、乃木軍は旅順攻撃で累々たる戦死者の山を築いていた。
特に203高地の攻略に死傷者が多かったのは参謀長伊地知の無能のせいだと言われていた。
海軍は203高地を攻めてくれと様々な方法で乃木司令官に頼んだが、伊地知は「陸軍の作戦に関し、海軍の干渉は受けぬ」と突っぱねていた。
「乃木将軍もその当時は今日人が崇拝するごとき司令官ではなかった」と後年当時のある少佐の証言もある。
そこで、関東軍総参謀長の児玉源太郎がついに旅順に乗り込み、乃木に変わって指揮を取り12月5日203高地を攻略した。
最初、海軍が海上から発見した203高地という大要塞の弱点を乃木司令官が直に認め、東京の陸軍参謀本部が指示したとおりに、海軍案を乃木司令部がやっておれば、旅順攻撃での日本軍死傷者6万という膨大な数字を出さずに済んだであろう。
旅順攻撃での日本軍の死傷者の数。
戦死者:15,400人
負傷者:44,000人
計:59,400人
203高地の陥落は、ロシア軍の防御構成に重大な影響をもたらした。ロシア軍にとってこの高地と連携した要地だった赤坂山の堡塁などはかってあれほど日本兵を殺傷した強力陣地でありながら、地勢上その力を失い、次の日の6日に守備兵は戦わずして退却した。赤坂山以東の堡塁のロシア兵はみな逃走した。
日本軍は203高地に見張りを立て、陸軍砲、海軍の艦砲射撃で、旅順口内の艦艇を砲撃し全て殲滅した。
旅順要塞のロシア軍は1905年1月2日降伏した。
水師営にて、乃木司令官とステッセル将軍の会見が行われたのは1905年(明治37年)1月5日であった。 |