1852-1933
薩摩藩 加治屋町
日露開戦当時の海軍大臣。
欧米列強に比してあまりにも脆弱であった日本海軍を、大国ロシアに対抗し得るまでに増強した功績から、日本海軍の生みの親との異称もある。
今に残るいくつかの写真の風貌が示すとおり、若年の頃より勇猛な性格であり、かつ恵まれた肉体から、薩摩の中でも中心的な人物だった。幼い頃から『人になかなか屈しない暴れん坊の気質』があり、彼の父親などは「権兵衛はよくゆけば立派な人物になるが、一歩誤るとどんな人間になるか分からない」と心配していたという。その後、十代前半から鳥羽伏見~戊辰戦争に従軍、戦後は力士になろうとしたとか、海軍兵学寮の試験に落ちればやくざ者になる覚悟だったとか、いかにも薩摩らしい無骨で獰猛なエピソードが残っているが、実際には極めて強い理性で固められた人物だったらしい。
薩摩閥の頭であった西郷隆盛が、明治政府に対する反乱軍の親玉として不平分子らに担ぎ上げられた際、多くの薩摩人らは西郷側に着くべく職をなげうって薩摩へと帰還した。もちろん権兵衛も例外ではなかったのだが、既に将来の有望株として権兵衛の才覚を見出していた西郷は、権兵衛を説得して東京へ返るよう強く言い聞かせた。西郷のもとに残った同胞らを横目に、権兵衛は泣く泣く東京に引き返し士官学校へ復帰、そのまま海外留学へと旅立ち、ドイツの船舶上で西郷の死を知らされる事になる。山本権兵衛の人生においてこの時ほど悲しみが大きかった出来事は無かったと言われているが、あらかじめ予想されたこの結末を甘んじて受け入れたのは、一時の感情に流されずに国の将来を見据えた判断の結果であり、権兵衛が「情より理性に勝る人」であった事を証明する分かりやすい例と言える。同様のケースとして第四軍司令官の野津道貫がいる。短気で恐ろしいと思われた彼も、実際には人一倍の理性で物事を判断する人物。よって野津も権兵衛と同じように西郷の説得を受け入れ、西南戦争で西郷側につく事はしなかった。
山本権兵衛が海軍畑の中で頭角を現した理由として、人並み外れた記憶力や、物事を理路整然と伝える能力が人一倍優れていた事があげられる。また非常に肝が据わっており、大きな交渉で物怖じしないとか、相手の意表をついて自分のペースに持ち込むなど、若い時分に既に相当の老獪さも併せ持っていたと言われる。しかしそこに嫌らしさが無く、ゆくゆくは明治天皇にも愛されたように、非常に気持ちのいい人物であった事も特筆すべきだろう。
そんな権兵衛がいよいよ日本海軍にメスを入れる事となる。日露開戦の10年前、日清戦争後の三国干渉は、近代日本が味わった最初の国辱だったが、これを期に国家増強に拍車がかかったのは間違いない。この時点で将来東洋で日本と衝突する可能性のあるのはロシアただ一国であり、権兵衛としてはこれに耐えうるだけの海軍を仕立てるのが至上命題だった。ここで立ち上げられたのが明治29年から実施された十ヵ年計画である。
10年で軍艦総計5万t⇒25万t、海軍軍人12,000人⇒36,000人への大増強は、国家予算のかなりの部分が注がれた大事業で、国民への税負担は生活をかなり圧迫していたと言われる。が、ここで今日の日本と決定的に異なるのは、多くの国民がこの重税を前向きに受け止めた事であり、時に「一体いつになったら軍艦ができあがるんだ?」とむしろ催促の声なども聞かれたという。三国干渉で『臥薪嘗胆』が国家レベルでのスローガンとなって以後、日本民族人持ち前の忍耐力が最大限に発揮され、長く苦しい重税・貧困の10年を乗り越えて欧米列強並みの海軍が成立するに至るのである。
目の前に明確な敵の姿があり、重税の使途が極めて分かりやすいという状況が国民の忍耐と精神を持続させ、国家が侵略される恐怖と欧米列強への畏怖・憧憬が我が国の飛躍的成長の糧となった。これに先立つ数十年前、隣の清国では似たような状況にもかかわず、このようにはならなかった。この差は国民性の違いもあるだろうが、優れた指導者の有無という点はやはり無視できない。
山本権兵衛は海軍の大増強より以前に、海軍人事の大整理を行ったわけだが、軍部の高官らはほとんどが戊辰戦争で活躍した旧時代の英雄であり、同時に時代遅れの戦争屋だった。多くは権兵衛の同郷である薩摩人であり、権兵衛の先輩に当たる人間も多数。彼はこれらを全て予備役へと追いやり、正規の軍人教育を受けた若手らを重用したのである。
後に東郷平八郎の参謀長~総理大臣となる加藤友三郎なども派閥を超えて権兵衛に見出された逸材であり、また病弱で予備役行きが濃厚だった東郷平八郎自信も、ここでの権兵衛の判断で現役にとどめられた経緯がある。情より理性で物事を判断する気質が指導者の資質として発揮された一つの例であり、当時の新聞でも相当物議をかもしたらしいが、結果的に国家大計だった事が証明されている。
山本権兵衛は政治を含む戦略家としても優れており、早い段階で講和に持ち込む以外にこの戦争に勝ち目はないと考えた。全ての経緯や結果を知る我々からすれば、有利に講和に持ち込む構想は当たり前に思えるかもしれない。しかし、自らの手で列強に並ぶ軍艦を量産し、その威風を眺めれば『おかしな気』を起こしてしまうのが人間というもの。事実国民は自国の栄達に感動した。いよいよ日露開戦が濃厚になり始めた時、なんとか戦争を回避しようとする政府を、世論は弱腰と非難した。後の日本においては軍首脳部がこの大衆世論に便乗し、結果として滅亡寸前まで叩きのめされるのだが、明治国家においては理性の人、山本権兵衛をはじめとする、幾人かの優れた指導者により、その難を回避できたと言えるだろう。
山本権兵衛が主軸となって築き上げた日本海軍は、日本海海戦において、この時代で考え得る最高の働きで任務を全うした。この戦争の後、権兵衛は、造船業を民間に委託する方針を採用し、三菱造船をはじめとする民間の造船技術を飛躍的に高め、後の造船大国たる日本の礎を築くに至る。後にかの戦艦大和が造船される事となる呉海軍工廠の造船ドッグもこの流れで建造されたもので、この当時、世界でも群を抜く巨大なドッグだった。このドッグの記録は第二次大戦後の近代まで続き、60年代のタンカーの時代になってようやく世界水準として定着したというから、権兵衛の先見の明は凡人の及ぶところではない。
国家にとって有益なこの人物が表舞台から退場する要因となったのは政治がらみでのゴタゴタだった。総理大臣在任時のシーメンス事件(軍部絡みの汚職)や、かねてより『権兵衛にいい感情を持っていなかった』八代六郎海軍大臣の思惑など、権兵衛にとってマイナスとなる要因は本人の責任とは関係なく権兵衛を過去の人とした。結果的に国益を大きく損なうものであり、戦勝国がその栄華によってみずから転落し始めていた一つの兆しと言えるかもしれない。
権兵衛は日米開戦の8年前、1933年の12月8日に没した。