織田頼長
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織田 頼長(おだ よりなが、天正10年(1582年) - 元和6年9月20日(1620年10月15日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。織田長益(有楽斎)の次男。生母は長益正室の平手政秀の娘・雲仙院殿。そのため、長益の嫡子であったと考えられる。別名は秀信。通称は孫十郎、左門、雲正寺道八。官位は従四位下侍従。
父・長益とともに豊臣秀頼に仕えた(「頼」の字は秀頼からの偏諱と思われる)。慶長13年(1608年)1月、秀頼の命により年賀の使者として江戸におもむく。慶長14年(1609年)7月、公家猪熊教利の逃亡を助けて処罰され、浪人になったようである。大坂冬の陣に際して、豊臣家に帰参したと思われる。ただし、『徳川実紀』では猪熊教利の逃亡に関与したのは弟長政としている。帰国途次の慶長18年(1613年)2月20日、京都に逗留していた木下延俊を訪ねている。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に際しては長益とともに大坂城に籠城し、二の丸玉造口などを守備する。雑兵を合わせて1万人あまりの部隊を指揮したという。同年12月、自ら率いる部隊内の喧嘩騒ぎにより、徳川方の藤堂高虎隊が攻撃を開始して谷町口の戦いが起きる。しかし、頼長は病気と称して指揮をしなかったという。
元和元年(1615年)4月、大坂夏の陣に際し、大坂城を退去する。一説には、豊臣家の総大将の地位を望んだものの、叶わなかったためという。大坂城退去後は京都に隠遁し、茶の湯(現在の茶道)に専念して有楽流を継承する。頼長は豊臣家の部将であったため、長益は領地を分与することを控え、幕府も領地を与えず、大名に列することはなかったようである。
元和6年(1620年)9月20日、京都で死去、39歳。京都東山の長寿院に葬られた。正室は無し。ただし、『系図纂要』などによれば、教如の娘を頼長室としている。長男長好、長女(一条昭良室)の1男1女がある。