2012-11-25
■中二病でも恋をする女の子の未来福音
人は何かを見たら、予想・予測をする。
例えば、60キロで走っている車は、帰納的には60キロで走り続けるといえるが、
その先300Mの信号が赤ならば停止するために減速する。
かつて、ストライプさんとそんな話をした気がする。
この中二病をアニメは演繹的に予測してこそ面白いと思っている。
それを基準に考える。
もう少し具体化しよう。
それは
「幻想」
そしてこの二つの
「許容」
だ。
事象としての具体化であれば一言「精霊会議」であるとも言える。
押井守や今敏(とあとボンズの劇場作品)は「虚構と現実」ということをテーマの軸においていたが、
花田十輝にこそふさわしいとも言える。
さて、この最終形から見てここまでの8話はどうか。
俺は非常に良い形で手が進んでいると見ている。
「幻想」という部分はこのアニメの主題からしてすでに満たしていた。
と
にまで肉薄した7・8話は大きな進展だといえよう。
つまり、六花は中二病などではなく、
彼らは正反対に見えて、幻想への逃避という意味では同じなのだ。
そして、幻想への逃避は即ちディスコミュニケーションへと繋がる。
六花のディスコミュニケーション性というのは今更言うまでもないだろう。
その結果、彼女は自分の幻想の中に閉じこもることで全てにディスコミュケートした。
しかし、問題はそれが勇太には「中二病」に見える、ということなのだ。
しかもここで良い感じに働いている要素が「性欲の排除」だ。
そこに性欲という現実をもってくることが出来る。
端的に言えば、六花は父親の代わりとなる男を求めているんだから、
もうやっちゃえば手っ取り早いだろ、と。
さらに岡田麿里で言えば、そこを逆手にとって男を従わせるのがいい女だろ、と
そういう話になってくる。
この弱ったメンヘラに狙いを定めて落としにいくだろう。
幻想とディスコミュニケーションの世界においては肉欲など無意味だ、と考える。
やってもやらなくても何も変わらない。
それは花田十輝の原点
ここに到達することである。
誰とも交わる必要もない。
そしてこれらを許容すること。
それで良いんだと、許容する。
幻想の中で誰とも交わらずに生きてもいいんだ、と。
幻想の中で生きることは普通のことで、それは逃避ですらない、と。
中二病でもないし、恋でもない。
ただのディスコミュニケーションと幻想。
俺は今のところ割かし順調に来ていると思っている。
そして同じく幻想とディスコミュニケーションの演出家
木上"ムント様"益治が、
久々に、京アニ版KANON10話級の
大仕事をしてくれるか。