神隠しと呼ばれる現象がある。
人が突然姿を消してしまう現象だ。
昔の人は天狗や鬼などにさらわれた、神さまの世界に誘われたなどど畏れを抱いた。
実際には家出や人間による誘拐、不慮の事故による死亡の行方不明などなどだろう。
だがなかには本当に妖怪にさらわれたり、異世界へと行ってしまった人間もいるのではなかろうか。
この物語の主人公である渡瀬幸助もそんな一人だ。
彼が神隠しにあったのは偶然としかいえない。そこに神の意思も異世界の人間の意志も関わっておらず、偶然目の前に開いた次元の裂け目に入ってしまったのだ。突如目の前が真っ暗になるほどに間近で開いたため、避けることもできなかった。入ったあとも自力で何とかすることは無理で、流れるまま別の箇所に開いた裂け目へと吸い込まれ、異世界へと放り出された。
幸助に起きた神隠しはそのようなものだ。
そんな彼の現状は落下中というもの。
幸助はなにが起きているのか理解できていない。一分も経たずにめまぐるしく変わっていった風景に混乱し、落下に慌てることもできていない。
幸助の視線はぼんやりと空に向けられている。下を見ていれば、そこにいる巨体生物に驚きの声を出していたのかもしれない。
巨体生物は西欧型の竜だ。知性を宿した赤黒い瞳に、黒い鱗をまとい、鋭い爪と牙、立派な二本の角、雄雄しい銀の皮膜の翼を持つ、どこか禍々しい雰囲気の竜。
そして幸助はそのまま巨大生物の尾の付け根あたりにぶつかり激痛であっさり意識を手放した。
高い位置から頑丈な竜の鱗にぶつかり致命傷一歩手前、いやほとんど棺桶に入っていた幸助。
だが三つの要因でその命の煌きは消えることなく、以前にも増して輝くことになる。
その日は竜にとっては半年に一度の食事の日だった。
怯える贄を一思いに丸呑みにしようか、それとも恐怖を与えた末に噛み砕こうかと思いに耽りながら、贄の到着を待っていた。
国を脅し、能力の高い人間の乙女を差し出すように仕向けたのは、もう三十年以上も前のこと。
そのときから竜は怯える乙女の肉を砕き飲み込み、己の糧としていた。
竜は知っていた。このような暴虐が許されるのは己が強いからだと。圧倒的な強さの前には弱人の群など蹴散らし、その思いを汲む必要すらないと。弱者は己の餌でしかないのだと。
神が己を止めにきても、その神を食らってやろうとすら考えていた。
竜はここに来る前も同じことをしていた。気まぐれで巣をかえ、行く先々でそこに住む生物に恐怖を与えてきた。
百を越える年月に幾千幾万の猛者が竜へと立ち向かい、ただ一度の負けもなく竜は存在していた。
諦めず竜にはむかうものはいても、かすり傷すら与えられずにその身を潰されていった。
竜は幸助が現れるその日まで絶対の覇者だった。
竜の最後は、生まれて初めて感じる魂をかき消すような激痛によるショック死だった。
ホルン・コルベス・ストラーチは贄を入れる豪奢な籠の中で、それを聞いた。今までに聞いたことのない、竜の咆哮。
咆哮だけならば幾度も聞いたことがある。けれどもその咆哮は自身に満ちた己を誇示するかのような咆哮だ。
しかし今日聞いたものは違う。悲鳴なのだ。
竜の住まう山を登っていた籠が止まる。籠を運ぶ者たちも戸惑っているのだろうとホルンには予想がついた。
けれどもそれがなんなのだと諦めの思いで自問する。
疑問を抱き解決したところで、己の命は今日まで。今日ここで国の存続のため邪竜に食べられ、命を散らすのだ。
それ以上考えることなくホルンは籠が動くのを待ち続ける。
虚ろな瞳には生を望む意思は欠片も浮かんではいない。
やがて籠は動き出す。贄を捧げる祭壇へと。
二十分ほど時間が経ち、籠は再び止まる。時間的にここが終着点なのだろうとホルンは思う。
鍵を開ける音がして、籠は開かれた。
騎士たちによってホルンは籠から出される。のろのろとしたホルンの動きにイラつくことはなく、むしろ憐憫すら浮かべ、ホルンの歩調に合わせ祭壇へと向かう。
ホルンが身に着けているものは灰色の髪と白い肌にあわせた一級品ばかり。死ぬ前にせめて着飾って晴れ姿を親に見せてやれという国からの贈り物だ。だが生気の薄い様相では死装束にも感じられる。今まで贄にされてきた乙女たちと同じように。
騎士たちにより祭壇最上部に連れられたホルンは、ここにじっとしているようにと告げられる。
ホルンが逃げ出すことは考えていない。それはホルンが貴族だからで、そのことをホルンが自覚していると知っているからだ。
騎士たちは籠を持ち、来た道を戻る。ここにいれば竜に不快感を与え、そのことで町一つが消えかねないのだ。
ホルンは目を閉じ、竜がくるのを待つ。五分経ち、十分過ぎ、三十分待ち、一時間が経過して、そろそろ二時間になろうかという頃、ホロンはようやく目を開けた。
表情には恐怖のほかに、どうして竜が現れないのかと疑問が浮かんでいる。
死を待ち続けるということに苦しみ、これ以上待つのは嫌だすぐにでも楽になりたいと考えたホルンは自分から竜の元へと向かうことにした。
この場から動いたことで機嫌を損ねたとしても結局は食べられ死ぬのだから、多少のわがままは許されるはずだと思い祭壇からおりて、山の奥へと歩き出す。道は竜が木々を押し倒したことでできたものがある。これに沿って行けば、巣までたどり着けるのではないかと考えている。
この山には動物は少なく、魔物にいたってはまったくいない。竜のそばになどいたくもないのだろう。
虫や鳥の鳴き声のない木々の間をホルンは歩く。聞こえるのは風が木の葉を揺らす音と己の足音のみ。
三十分ほど歩いてホルンは足を止める。黒く大きな塊が木々の向こうに見えたからだ。
ホルンは首を傾げる。なぜなら威圧感がないからだ。以前一度だけ遠くから見たときは、離れているにもかかわらず体が震えたのだ。だが今は体は震えない。威圧感の欠片もない。まるでただの石像を見ているかのような感じすらしている。
意を決するように頷いてホルンは一歩一歩竜へと近づく。
そしてホルンは自分が助かったことを知った。
「……死んでる」
一目見て竜が死んでいることを理解したのだ。
竜にとって最重要器官は角だ。竜の力の全てがそこで生まれ、体中を巡り、集まる。角がなければ竜は生きていけない。その角が砕け散っていた。すなわち死んでいることを意味している。
「どうして?」
死んでいることはホルンにとっても国にとってもいいことなのだが、なぜこのようになっているのかと戸惑う思いが強い。
原因を探ろうと竜の頭部に近づくも、戦いを専門にしているわけではないホルンにわかることはない。
それでもなにかわからないかと竜の体を探る。
十メートルを越す巨体には傷一つついていない。汚れてはいるが、手で汚れをぬぐうだけで艶々とした鱗が現れ光を反射する。
「あ」
ゆっくりと歩いていたホルンが倒れている少年をみつけた。
異世界に放り出され、落下し、勢いよく竜にぶつかった幸助だ。
大丈夫なのかと幸助に近づきホルンは一つの発見をした。
いままで傷一つなかった竜の鱗の一枚が砕け散っているのだ。
竜が死んだのはこの一撃が原因だった。
竜が極端に痛みに弱かった、というわけではない。ほかの箇所の鱗が砕けただけならば、少し痛いだけですんだ。
砕けた鱗周辺は竜本人も知らない弱点だったのだ。それもそこをつけば一撃で倒すことが可能という大きな弱点。
今までは鱗の頑丈さと弱点範囲の狭さに守られていたのだが、幸助が偶然落下しピンポイントでぶつかってしまったのだった。
幸助は鱗を叩き割った右肩を中心に、肩の粉砕と右腕の複雑骨折と裂傷、胸部骨折、全身の骨にひび、全身打撲という致命傷。その大怪我と引き換えに竜を倒すという大金星を上げていた。
「この子が倒したの?」
経緯はわからずとも、なんらかの方法を用いて倒したのではと予測し、ようやくホルンはこの先も生きていられることを実感した。
青い瞳からポロリと一滴の涙が流れたことをきっかけに、次々と涙が溢れていく。
「うぁ、あああーーっ」
言葉にならない声、それでも込められた感情で歓喜の泣き声だとわかる。
しばらく泣き声が周囲に広がる。つられるように虫の泣き声が小さく響きだした。虫も竜が死に、恐怖が去ったことを知ったのだろう。
ひとしきり泣いたホルンは涙をぬぐい、幸助に礼を言おうと近づく。間近に近づいて、幸助の怪我に気づく。
慌ててホルンは診察していく。戦いの知識はないが、医術知識は豊富に持っているのだ。診察を終え、状態がわかったホルンは顔を青ざめた。
泣いている間に幸助が死んでいたのかもしれないのだ。恩人をそのようなことで失っていたのかもしれないと思うと、悔やんでも悔やみきれない。この先ずっと必ず後悔し続ける。
急いで重傷箇所から治癒術を使っていく。始めは右腕、次に胸と一箇所一箇所丁寧に治療していく。
この世界の誰もがこのようなことができるのかというとそうでもない。ホルンは治癒術に高い才能を持っているのだ。齢十九にして大陸トップクラスといわれるほどに。
その才が原因で竜の贄に選ばれたのだから、ホルンは才能を恨んだこともあった。
医者に任せると半年はかかりそうな怪我を三十分で治療し、再度の診察で怪我はなくなったことを確認し、ほっと胸を撫で下ろす。
安心したら眠気が襲ってきてホルンは竜に寄りかかるように眠ってしまった。治癒術による体力の消耗もあるが、恐怖や不安などで睡眠時間が減っていたのだ、眠気に勝てなくとも無理はない。
ホルンが寝入って二時間ほど経ち、ようやく幸助は目を覚ました。
血が足りずくらくらする頭をさすり起き上がる。回りを見渡し、ここはどこだと首をひねる。
腕に違和感を感じ見てみると、真っ赤だった。流れた血が乾いていたのだ。
パニックになりつつ腕を触り、異常がないことだけは確認した。
ぶつかった衝撃などで記憶がとび、現状がさっぱりわからない。住んでいた場所付近には森などはない。それなのに今いる場所は森。そばには年上らしき美人が寝ていて、さらには馬鹿でかい見たことのない生物がいる。
どうしてこんなところにいるのか必死に朝からの記憶を辿っていく。
「朝起きて家を出て、学校に。学校終わって、小腹がすいてコンビニへ。それから、それから……目の前が真っ暗になった? 暗闇から抜けたら落下してた? なにかにぶつかった?」
思い出せる範囲で記憶を辿っても要領を得ない。当然だ。そのときの幸助も現状を把握していなかったのだから。思い起こしたところで現状を理解できるはずもない。
「まるで小説か漫画みたいだ。
とりあえずこの人に話し聞いてみよ。日本語通じないよねぇ、英語なら通じるといいなぁ」
幸助はホルンの肩を叩いて、それで起きないので肩を掴み揺する。
「起きて起きて」
まだまだ寝たりないという様子ではあるが、ゆっくりとホルンは目を開く。目を開き幸助を見るまでの間に、助かったことは夢だったのかもしれないとネガティブな考え生まれていた。だが目覚めた場所は籠の中ではなく、竜の腹の中でもなく、眠ってしまった場所で、目の前に治療した少年がいることから夢ではなく本当に助かったののだと安堵の溜息を吐いた。
ホルンはどこか痛む場所はないか聞くため、幸助はここがどこか聞くため、同時に口を開いた。
「dfyerhs」
「jukgtyhjnf」
互いに発した言葉がわからない。互いに聞き間違いかともう一度口を開いた。
「jsthsmu」
「juklh,f」
幸助は明らかに英語ではない言語に言葉が通じないことを確信し、ホルンは単純に聞いたことのない言語に首を傾げた。
幸助はジェスチャーでどうにか意思疎通できないかと、いろいろな動作を試みる。だが不思議そうな顔で首を傾げるホルンに全く通じていないのだと悟る。
途端に幸助は不安と焦りに包まれた。どこだかわからず、なぜここにいるのかわからず、どうしてこんなことになっているのかわからない。その不安は表情にも現れる。通じないとわかっていても必死に言葉を発して話しかける。
幸助が不安がっているとわかったホルンは、幸助が落ち着くように頭を撫でる。街で泣いている子を親が撫でて泣き止ませていたのを思い出したのだ。怖がらなくてもいいと微笑みを浮かべ、ゆっくりと撫でる。貴方の敵ではないと想いを込めて、幸助が落ち着くまで撫で続けた。
ホルンのおかげで少しは落ち着けた幸助は、もういいとホルンの手をとって撫でるのをやめさせる。
「ありがとう」
通じないとわかっていても礼を言う。
ホルンは笑みを浮かべたまま首を傾げた。
ホルンが自分の胸に手をあて言葉を発する。
「ホルン」
名前だけでも知らせようとしたのだ。もう一度名前を言って、次は幸助を指差した。
なにをしているのだろうと幸助は首を傾げる。それを見てホルンはもう一度同じことを繰り返す。
さらにもう一度繰り返したことで、幸助はようやく名前を言っているのではと推測できた。
「幸助」
「コースケ?」
指差されたときに自分の名前を言う。ホルンが発した自分の名前に頷く。もう一度指差され名前を言われ頷いた。
そうして微笑んだホルンに安堵した。名前だけでも伝えることができて、意思疎通が絶対に不可能ではないと証明され、不安が少しだけ晴れたのだ。
名前を伝えることができたホルンは、幸助を不安にさせないよう表情は笑みのままでこれからどうするか考え込む。
実家に帰るのは論外だ。逃げ出したのだと勘違いされるだろう。家族は渋りつつも受け入れるかもしれないが、街や国中の人間はなんてことをしたのかと怒り出すに決まっている。そうなると実家に迷惑がかかる。竜は死んだのだと説明しても信じてはくれないだろう。何人もの猛者が挑み死んでいったのだから、倒せない存在なのだと思い込んでいる。幸助を連れて行っても信じてくれそうにない。外見を見るだけではとても倒せそうには見えないのだ。それに信じてもらえても貴族たちにいいように利用され、使い潰される可能性すらありえる。なにせ伝説の竜殺しの再臨だ。使いようによっては外交の切り札にもなりうる。命の恩人にそんな目にあってほしくはない。
(とりあえずエリスのところに行きましょう。あそこなら街から離れているから隠れるのにちょうどいいし、エリスも人々に私のことを言わないし。
問題はここから離れてるってことよね。この子素直についてきてくれるかしら)
方針を決めたホルンは立ち上がる。つられるように幸助も立ち上がる。
万が一エリスが渋ったときのことを考えホルンは土産を持っていくことにした。土産とは竜の鱗だ。滅多に手に入らない高価な材料だし、竜が死んだことの証明にもなる。
幸助がぶつかり割れている箇所に手をかけて力いっぱい引っ張る。成人男性と同じ程度は力があるホルンでもはがすことは困難で、おもいっきり引っ張っても肉からはがれない。
ホルンの行動を見て、鱗が必要なのかと考えた幸助は手伝うことにした。ホルンが苦労している姿を見て、はがすのは大変だと思って両手を使ったのだが、シールをはがすように簡単にはがすことができた。ホルンはよほど力がないんだなと思いつつ、これならば片手でも大丈夫だと判断し、次々と鱗をはいでいく。
そんな幸助を見てホルンは驚きの表情を浮かべている。楽にはがせるような筋力をもっているように思っていなかったのだ。だがその驚きもすぐに納得したものとなった。竜を殺せるのだから、見た目と違いすごい力を持っているのだろうと。
両者ともに勘違いが入っているのだが、指摘する者もおらず、できる者もいない。そのまま勘違いすることとなった。
四十枚ほどはがしたところで幸助はホルンに止められた。鱗を渡すような仕草をするホルンに幸助は鱗全てを渡す。ホルンはショールに鱗を包んで端を結び、肩にかけた。
そしてホルンはエリスの家がある方向を指差し、幸助の腕をひっぱり歩き出す。
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