パラダイムの本来の意味は「模範」であり、クーンは、科学教育において学生が模範として模倣する教科書的な理論や実験方法をパラダイムと名付けた。正常科学においては、科学者はパラダイムに基づくパズル解きに従事するが、これは軽蔑するべき非生産的活動ではなく、科学が本来の機能を発揮するために必要なことであり、科学革命を頻繁に起こすよりも経済的に合理的である。科学革命においても新しいパラダイムは古いパラダイムを引き継いで生まれる。革命が非連続に見えるのは、競合するパラダイムの権力関係が急激に変化するからであって、新しいパラダイムが無から生じることはない。科学革命は、政治革命と同様に、システムの存続のための権力闘争であり、理論が現実をよりよく模写するためにパラダイム・シフトが起きるのではない。
1 : パラダイムの本来の意味は何か
パラダイムは、トーマス・クーンが、1962 年に公刊した科学革命の構造において用いた概念であり、その後「知的枠組み」といったような意味で、科学史の文脈を超えて広く使われる流行語となった。マーガレット・マスターマンは、1965 年に開催された科学哲学の会議で、クーンが使っている「パラダイム」には、全部で21の意味がある[1] と指摘した。クーンは、多義性ゆえの混乱を回避しようと、1969年に科学革命の構造に追加された後書で、象徴的一般化、特定モデルへの信念、価値、模範などを要素とする専門マトリクス(disciplinary matrix)という概念を提案した[2]。以上の経緯を踏まえつつ、パラダイムの複数の意味を私なりに整理してみたい。
パラダイム(paradigm)という言葉は、物事を実行するためのパターンやモデル[3]
を意味するギリシャ語の“παράδειγμα”に由来する。そして、この「パラデイグマ」は、“παραδείκνυμι” という動詞に由来するが、この「パラデイクヌミ」は「傍らで」を意味する“παρά”と「見せる」を意味する“δείκνυμι”から作られており、傍らで見せる[4]
という意味である。例えば、モデルを画家の「傍らで見せ」て、その絵を描かせる時、そのモデルは画家にとってのパラデイグマということになる。
ギリシャ語の“παράδειγμα” は、ラテン語のパラディグマ(paradigma)に受け継がれるが、「模範」という意味の単語としては、英語と同様に“exemplar”が主として使われ、“paradigma”は「活用語形の変化表」という特殊な意味で使われるようになった。この特殊な意味も、本来の意味から大きく逸脱したものではない。ラテン語を教える時、教師は“amo, amas, amat…(私は愛す、君は愛す、彼は愛す…)”という典型的な動詞の活用表を「模範」として学習者の「傍らで見せ」、“laudo, laudas, laudat…(私は褒める、君は褒める、彼は褒める…)”などというように応用させることで、学習者に動詞の活用を身につけさせるというように考えれば、「パラディグマ」が依然として「模範」という意味でのパターンやモデルであることが理解できる。
科学教育におけるパラダイムも、文法教育におけるパラダイムと類似の機能を果たす。教師は生徒の前で例題を解いて見せ、生徒はその解法を模範(パラダイム)として類題を解き、それによって解法をマスターする。実験においても、教師は模範的な器具の扱い方を実演し、生徒はそれを模倣しながら、実験方法を体得する。クーンは物理学者であったが、彼も学校ではこのような方法で数学や物理学を学んだことだろう。クーンは、専門マトリクスの四つの要素の中で「パラダイム」の名に最もふさわしいのは、模範である[5]と言っている。この言葉でもってもともと私が念頭に置いていたのは、実験室の中であれ、試験に際してであれ、教科書の章末においてであれ、学生が科学教育を受け始めたころに遭遇する問題の具体的な解決策である[6]
。
もっとも、クーンによれば、科学のパラダイムと文法のパラダイムには大きな違いがある。言語の使用者にとって文法のパラダイムはたんに覚えればよいだけだが、研究者にとって科学のパラダイムは単純に複製すればよいというものではない。むしろ、コモン・ローにおける受け入れられた判例のように、新しいまたはより厳しい条件下でさらに明瞭化・特定化しなければならない対象である[7]
。コモン・ローは判例法主義で、裁判官の判決は、過去の同種の裁判の先例に拘束される。しかし、同種といっても違いもあるから、適用にあたって特殊な細則の新設が要求されることもある。科学法則の適用においても、例外の取り扱いをめぐって、法則の明瞭化と特定化が必要になることがあり、クーンはその作業をパズル解き(puzzle-solving)と呼んだ。
専門的マトリクスの他の要素は、模範に基づくパズル解きによって獲得される派生的要素である。すなわち「象徴的一般化」は F=ma のような記号化された公式や「作用と反作用は等しい」といった命題である。「特定モデルへの信念」はマスターマンが「形而上学的パラダイム(metaphysical paradigms)」と名付けたもので、世間でパラダイムと言えば、普通これを指す。、「価値」は危機の源や理論選択の要因を考える内的並びに外的整合性[8]
で、とりわけ誤謬に対する許容の基準である。こうした科学特有の言語、信念、価値は、科学者が同じパラダイムを模範とする教育を受けたがゆえに、科学者のコミュニティで共有されている。
クーンのパラダイム論は、自然科学だけが対象である。クーンは、自然科学の教育では、他の分野の教育とは異なり、大学や大学院でも教科書が重要な役割を果たす[9] と言っているが、それは本質的な違いではない。標準化された教科書が科学者の教育に使われるようになったのは最近のことで、それ以前では古典がパラダイムとしての機能を果たしていた。クーンのパラダイム論は、知的システム一般に適用されるべきであり、また、パラダイムを判例に喩えていることからもわかるように、法的システムにも適用可能である。これから確認するように、クーンのパラダイム論では、そのパラダイム(模範)は法的システムではないかと推測できるぐらい、法的システムの比喩が使われているのである。
2 : 科学革命はなぜ非日常的なのか
科学のパラダイムは超時代的に同じではなく、古いパラダイムが捨てられ、新しいパラダイムが受け入れられることがある。クーンはそれを科学革命と呼ぶ。「革命」という言葉は、通常、政治的な権力システムが抜本的に転換する時に使われる。クーンが敢えて「革命」という言葉を使うのは、科学革命が政治革命と似ていると考えているからである。
政治革命は、既存の制度が、環境によって、部分的には制度によって生み出される問題に十分に対処できなくなったという感覚が、しばしば一部の政治コミュニティに限定されているものの、増大する時に開始される。それと同様に、科学革命は、既存のパラダイムが、かつてはそのパラダイムが道案内をしてくれた自然の側面の解明に十分機能しなくなったという感覚が、やはりしばしばごく一部の科学コミュニティに限定されているものの、増大する時に開始される。[10]
クーンが謂う所の科学革命のプロセスは、カール・ポパーが科学の進化と考える、推測と反証を繰り返すプロセスとは異なる。クーンにしてみれば、そうしたプロセスは日常的なパズル解きのプロセスであり、非日常的な科学革命のプロセスではない。
ポパーは、科学的進歩がきわめて顕著で、稀にしか起きない革命的な出来事へと、彼が選んだ日常的な研究のいくつかの特徴を移し替え、しかる後に日常的な営みを完全に無視することで誤謬に陥っているのである。とりわけ、彼は、ある理論を既に前提することができる時にのみ十分適用可能な論理的基準でもって、革命中の理論選択の問題を解決しようとした。[11]
これに対して、ポパーは、正常科学(normal science)と異常科学(extraordinary science)の区別の有効性を認めつつも、クーンは、彼が『正常』科学と呼ぶものが正常であると言っている段階で間違っている[12]
と反論する。パズル解きは技術者がやることであって、科学者がするべきことではなく、クーンが言うような『正常』科学者は憐れむべき人間である[13]
。だから、クーンが謂う所の「正常科学」が正常になることは、科学の危機であり、実に我々の文明の危機である[14]
ということになる。
クーンは、ポパーとは異なり、元科学者であり、科学研究の現場がどうであるかを知っている。科学者たちは、日常的にはパズル解きに従事しており、革命を起こそうとは思っていない。革命は科学が危機に直面した時に起きるのであって、革命が起きないことが科学の危機だというポパーの主張は、科学者の通念に反している。
実際、パズル解きに従事している人は通常本格的な新奇さに抵抗するが、それはもっともなことだ。その人にとって、それはゲームのルールを変えることになり、いかなるルールの変更も本質的に破壊的であるからだ。[15]
クーンは、ポパーとは異なり、一つでも反証例があれば既存の理論は破綻し、科学革命が起きるとは考えなかった。科学者が革命を優先的に選ばないのは、経済的な合理性からして当然なのである。今、既存の条件 C1, C2, C3 … Cn を前提とすると、R∧¬R という矛盾が帰結するとしよう。矛盾を回避するためには、C1, C2, C3 … Cn のうちどれかを否定しなければならない。否定して、矛盾が生じなくなれば、危機は回避される。
(C1∧C2∧C3∧…∧Cn ⇒ R∧¬R) ⇒ (¬C1∨¬C2∨¬C3∨…∨¬Cn)
候補が多数ある時は、修正コストが小さいところから否定してみるのが合理的である。ちょうど投資家が、投資効率が高そうなところから優先的に投資を開始するように、科学者も、コストパフォーマンスが高そうなところから修正を試みるのである。だから、意外な実験結果が出た時、科学者は、実験に何か手違いがなかったのかと疑うのである。例えば、OPERAによる実験で、ミューオン・ニュートリノの速度が光速を上回ったという実験結果[16] が、2011年9月22日に発表された時、SF ファンたちは、これでタイムマシンが実現可能になったと喜んだが、科学者たちは、測定に何か問題があるのではないかと疑うなど、慎重であった。ミューオン・ニュートリノが超光速ならば、特殊相対性理論の抜本的な見直しが必要となるからである。そして彼らの懐疑は正しかった。GPS とマスタークロックを結ぶ光ケーブル接続部に緩みがあるとか電子ボードの時計が予想よりも 10 MHz 速く動いたとかいった計器の不備が原因であることがその後判明し、再実験の結果、光速と差はないという結論[17] に落ち着いた。
測定にミスがないと分かった場合でも、科学者たちはできるだけ小規模の修正で矛盾を回避しようとする。これまで依拠してきたパラダイムを全面的に放棄するという科学革命はめったにあることではない。それは政治革命がめったに起きないのと同じことである。法的システムに何か問題が起きた時に政府がすることは、最初は法の運用を変えることであり、それでも解決しないなら、合法的に法の一部を修正することである。非合法な手段、すなわち暴力によって政府を倒すことは、最後の手段である。革命は、抜本的な問題解決になるかもしれないが、長期にわたる混乱をもたらすかもしれないので、日常的に使うことができる手段ではないのである。
科学革命が政治革命と似ているとはいっても、パラダイム・シフトが古いパラダイムの信奉者を暴力で倒すことで成し遂げられるということではない。しかし、新しいパラダイムは、古いパラダイムの信奉者を合理的な方法で従わせることはできない。クーンは、新しい科学的真理が勝利をおさめるのは、それの反対者を納得させ、彼等の蒙を啓くことによってではなく、その反対者が最終的に死に絶え、当の新しい科学的真理に慣れ親しんだ新しい世代が成長することによってである[18]
というマックス・プランクの言葉を引用[19] して、パラダイム間の通約不可能性(incommensurability)を強調している。通約不可能性はもともとユークリッド幾何学の用語であるが、クーンは、パラダイム間で言葉の意味が全く異なり、合理的な対話が不可能である事態を指す言葉として使っている。通約不可能性に関しては、また改めて取り上げることにしたい。
3 : 伝統はイノベーションの障害か
ここで、クーンのパラダイム論が、西洋の知的伝統の中でどの程度独創的であるかを考えてみたい。クーンは、事実をありのままに観察することが科学の仕事ではないと考えている点ではポパーと一致している。もっとも、この点でクーンに影響を与えたのは、オーストリア出身イギリス人であるポパーではなくて、同じアメリカ人のノーウッド・ハンソンであった。ハンソンは、1958年に公刊した科学的発見のパターンにおいて、米国で支配的だった素朴な経験主義を批判し、ネッカーの立方体などのゲシュタルト心理学的な例を挙げながら、観察が理論負荷的であること、そのまま見る(seeing-that)ではなくて、として見る(seeing-as)であること[20] を主張した。クーンも、科学的発見のパターンを引用して、ゲシュタルト転換は大規模なパラダイム・シフトにおいて起きることの初歩的で有益なプロトタイプ[21]
だと言っている。パラダイム・シフトが起きると、ゲシュタルト転換が起きた時のように、同じものを見ていても違うものを認識するようになる。
ドイツでは、観察が理論負荷的であることは、イマニュエル・カント以来、哲学者の常識となっており、ハンソンの主張に目新しいところはない。クーンのパラダイム論は、パラダイムが時代によって変化すると考えた点で、アプリオリな総合判断に普遍的な妥当性があると信じていたカントの超越論的観念論とは異なると言うこともできるが、歴史相対主義的なドイツ観念論の後継者としては、カール・マルクスの方が先行者である。マルクスは、世界観が支配階級の利害によって歪められたイデオロギーであるとみなし、それを革命により変えることができると信じていた。
クーンの革命理論は、マルクスの革命理論と類似点を持つ が、マルクスとは異なり、革命を必ずしも肯定的に評価していなかった。その点では、クーンのパラダイムに対する考え方は、科学革命の構造の2年前に公刊された真理と方法でのハンス・ゲオルク・ガダマーの伝統や言語に対する考えに近い。ユルゲン・ハーバマスは、ガダマーの保守的な解釈学を批判したが、その批判は、ポパーがクーンのパラダイム論に対して行った批判と似ている。ガダマーにとってそのような批判はあまりにも言語に対して超越的過ぎる[22] し、同じことはクーンについても言える。実際のところ、パラダイムに対して盲目的である科学者をポパーが超越的に批判できるのは、ポパーが自分自身の哲学的なパラダイムに対して盲目的であるからである。
クーンは、真理と方法より1年前に公表した論文「科学革命における本質的緊張」において、「パラダイム」という言葉とともに「伝統」という言葉も使って、伝統にコミットすることの重要性を強調していた。
この苦心して作り上げた、しばしば深遠な伝統の中心的役割は、私が科学的研究における本質的緊張と言う時に主として念頭に置いているものである。科学者が、少なくとも潜在的には、革新者で、柔軟性を心に持たなければならず、そして問題があるのならそれを認知しようとしなければならないということは疑いの余地がない。そういう一般に受け入れられた、うんざりするようなステレオタイプは、たしかに正しいし、したがって、そのステレオタイプに合致する個人的な特徴の索引を探すことは重要である。しかし、ステレオタイプではないが、そのステレオタイプと注意深く結びつける必要があるように思えるのは、同じコインのもう一つの面である。[23]
伝統を守ることと伝統を超えることはコインの表と裏の関係にあり、伝統を拒否することでその伝統を乗り越えることはできない。本来両立しないと思われている伝統の保守と革新が表裏一体となっていることは、科学にとって本質的な(essential 必要不可欠な)緊張であるとクーンは考える。
クーンが言うように、この認識は一般的な通念とは異なる。例えば、リベラルな教育学者たちは、詰め込み教育に反対し、子供の自主性と個性を重視した教育を推奨するものだ。しかし、詰め込み教育の時間を削って、自ら考える時間を与える「ゆとり教育」で、伝統を乗り越える新しい価値を作り出す人材を育てることはできない。伝統的なパラダイムを知らない者は、伝統的なパラダイムの価値すらわからないから、伝統的なパラダイム以上に価値がある新しいパラダイムを創造することができないだけでなく、新しいパラダイムが伝統的なパラダイムよりも価値があるか否かということすらわからない。そういう人たちは、自分が低いレベルにいることすら知らないまま、低いレベルにとどまることになる。
伝統的なパラダイムの虜になると、完全なイノベーションを実現しにくくなるのではないかと懸念する人がいるかもしれない。しかし、そういう常識にとらわれている人は、実際に成功したイノベーションは、伝統の模倣から生まれているという現実をよく見るべきである。例えば、私たちは、進化論史上におけるヒトの誕生を画期的なイノベーションだと考えているが、ヒトの DNA は、チンパンジーの DNA と 1.44% しか異ならない。もっともそのわずかな相違が重要な違いをもたらしているのであって、蛋白質をコード化する遺伝子配列のうち 83% が、アミノ酸配列のレベルでの相違を生み出している[24]。ここから考えるなら、ヒトとチンパンジーは、共通の祖先から同じような遺伝子のパラダイムを受け継いでおり、違いは、主として環境適応のためのパズル解きにおいて現れているということができる。エジソンの名言に倣うならば、価値のあるイノベーションとは、1% の独創と 99% の模倣であるとでも言えようか。
1% の独創では不十分だと思う人もいるだろう。しかし、その割合を高めることはリスクを高めることにもなる。遺伝子は、化学物質や放射線照射などの手段で変異させることができるが、変異の結果生まれる個体のほとんどは、正常な個体よりも生存能力が劣る。だから、遺伝子突然変異は、その度合いが大きければ大きいほど、子孫を残さずに絶滅する確率が高くなる。だから遺伝子が大規模に変異することは稀であり、ましてや一から新たに作り直すことはできない。オットー・ノイラートは、私たちは、海のど真ん中で船を改造しなければならない船乗りのようなもので、船をドックで解体し、最良の材料を使って新規に建造することはできない[25]
と言ったが、遺伝子もまたノイラートの船と同じで、絶滅(沈没)を避けながら、部分的な修理を繰り返すしかないのである。
知のパラダイムに話を戻そう。私たちは、知的イノベーションは完全な独創でなければならないと考えがちであるが、完全な独創は、誰にも理解されることなく、消滅してしまう。もしも私が、全く独創的なアイデアを、私が発明した独創的言語で語るのなら、私は間違いなく精神病棟に隔離されることになるだろう。その意味を理解してもらうには、過去から引き継いだ言語のパラダイムに倣うしかないし、その価値を理解してもらうには、伝統的なパラダイムの価値を受け入れた上で、それを乗り越えたことを示さなければならない。クーンは、成熟した科学の新しい理論、とりわけ、新しい発見は、新しいものから生まれてくるのではない。それらは、全く逆に、古い理論、実在したりしなかったりする諸現象に関する古い信念のマトリクスから出現する[26]
と言うが、これは「成熟した科学」だけでなく、知のパラダイム一般に関しても言える。
クーンのパラダイム論は、科学史に応用したという点で新しさはあるが、哲学史的には、伝統的なパラダイムに依拠しており、科学哲学という点では、自ら本質的緊張を体現している。だから、クーンの議論は、自分自身についてもあてはまるという点で、整合的であると言うことができる。これに対して、ポパーは、パズル解きに従事する「正常な」科学者は、パラダイムに盲目的で、哀れな存在だと言いつつも、自分自身は、カントの批判哲学というパラダイムから逸脱することなく、そのパズル解きで一生を終えてしまった。クーンからすれば、ポパーは矛盾した存在に見えたことだろう。
4 : 革命は伝統を非連続にするのか
クーンは、科学革命から出現した正常科学的な伝統は、それ以前に存在した伝統と両立しないだけでなく、しばしば事実上、通約不可能である[27]
と述べていることからもわかるように、パラダイム・シフトにより、伝統が非連続になると考えているのだが、このクーンの考えは正しいだろうか。
史上最大の科学革命は、ルネサンスの終わりから18世紀の末のヨーロッパで起きた近代科学革命であり、定冠詞付きで“the scientific revolution”と言えば、普通この時期のパラダイム・シフトを指す。この時の科学革命は劇的であり、中世までヨーロッパにおいて支配的であったアリストテレスの自然学をガリレオ・ガリレイのレ・メカニケやヨハネス・ケプラーの宇宙の調和やアイザック・ニュートンのプリンキピアと比べるならば、そこには何の連続性もないかのように思える。
だからといって、近代の物理学あるいは天文学のパラダイムが、通約不可能なアリストテレスのパラダイムから突然生まれたと考えることは正しくない。近代の物理的諸科学は、アルキメデスの自然に対する幾何学的アプローチをパラダイム(模範)としており、それゆえ、古代ギリシャから続く知的伝統と連続的につながっていると考えるべきである。ガリレオは、当時ラテン語に翻訳されていたアルキメデスの著作を熱心に研究していたし、コペルニクスやケプラーは、アルキメデスの砂の計算者を通じて太陽中心説に基づく天文学を学んでいたし、ニュートンやライプニッツの微積分学の原型は、アルキメデスの取り尽くし法にある。
アルキメデスの物理学は静力学に限定され、動力学にまで及ばなかったと異論を唱える人もいるだろうが、浮力や力のモーメントの幾何学的分析を他の物理的分野にも応用することはパズル解きに属することであり、アルキメデスのパラダイムは、近代科学の諸理論と十分通約可能であった。だから、アリストテレスのパラダイムから近代科学のパラダイムが生まれたのではなくて、それまで傍流だったパラダイムが主流となり、主流だったアリストテレスのパラダイムが物理学や天文学などのテリトリーから哲学などの限られたテリトリーへと撤退したと考えるべきである。
非連続なパラダイムの転換というように見える劇的変化が、パラダイムそのものの抜本的変化ではなくて、競合するパラダイムとの権力関係の急激な変化によって起きることは、遺伝子としてのパラダイムで考えると分かりやすい。白亜紀の末期に鳥類を除く恐竜が絶滅し、代わって哺乳類が繁栄したが、このパラダイム・シフトは、恐竜たちが白亜紀末期に突如として哺乳類の子供を産むようになったことで起きたのではない。哺乳類は、傍流ながらも、主流だった恐竜と共存しており、白亜紀の終わりとともに両者の権力関係が変わっただけのことである。時代が大きく変わっても、それぞれの種の遺伝子は大きく変化はしていない。政治革命もまた、現在の政治的パラダイムがそれとは通約不可能な政治パラダイムによって打倒されることで起きるのであって、権力者の考えが突然変化することで起きるのではない。
5 : パラダイムは進歩するのか
パラダイムが他のパラダイムと通約不可能ならば、たとえ科学革命がパラダイム間の権力関係の変化だとしても、科学が革命を通して進歩しているとは言えなくなるのではないのかという疑問が生じる。進歩とは価値の向上のことであり、パラダイムが固定的な価値の基準を提供してくれる限り、その基準に基づく進歩を認識することができる。では、あるパラダイムの科学から他のパラダイムの科学へとシフトが起きた時、そのシフト自体を進歩と語ることができる価値基準はあるのだろうか。クーンはそうしたメタレベルの進歩には否定的である。
科学間に別の種類の進歩がある必要はない。もっと正確に言うと、パラダイムの転換が科学者や科学者から学ぶ人たちをより一層真理に近づけるという類の考えを放棄しなければならないかもしれないということである。[28]
クーンは、真理対応説の立場を取らないので、観察された事実の蓄積を科学の進歩とは考えない。それには同意するが、だからと言って、科学が進歩しているか否かを判定する価値基準が全くないということにはならない。価値基準は表面的には多様で、時代によって変化するように見えるが、根幹となる基準は、約40億年前に地球に生命が誕生してから今日に至るまで、全く変わっていないし、これからも変わることはない。すなわち、価値は、生命システムの存在確率を高めるという究極目的を基準にしており、多様で変化する価値は、そのための手段の価値だけである。遺伝子パラダイムは、自然淘汰を通じてこの基準で選別されてきたし、科学のパラダイムも、支持する科学者の獲得という権力闘争を通じて選別されてきた。政治革命を科学革命のパラダイム(模範)としてきたクーンにとって真理権力説は受け入れやすいはずだ。実際、彼は科学においては力がことを決するという命題は、もしもそれがパラダイム間の選択を行うプロセスと権威を抑圧するのでないとするなら、必ずしも間違いではないであろう[29]
と言っている。
科学が進歩しているかと聞かれた時、科学についてほとんど何も知らない人でも、進歩していると答える。それは、新しいパラダイムの科学がゲシュタルト的に変化させた世界観が、以前の世界観よりも魅力的で、真理に近いと感じているからではない。科学の進歩によって発達した技術が、人々の寿命を延ばし、手段的な自由度を高めていると感じているからである。だから、真理は《サバイバルの権力》として評価されているのであり、そして、真理の真理性は《権力のサバイバル》によって確証される。もちろん、認識が間違っているにもかかわらず、たまたまサバイバルすることはある。しかし、偶然なら再現性は低いし、生命システムの存在確率を高めるという究極目的を基準とするなら、評価されない。間違った理論が多数決で支持されることもあるが、多数決が間違っていることが認められるには、後の時代の多数決で決められなければならない。この意味において、「科学においては力がことを決する」あるいは「知は力なり」という命題は正しい。
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