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西暦紀元前200年前ごろには、関東地方でも本格的な稲作が始まっていたと考えられています。そのころの東日本では、縄文時代の習俗から発展した、再葬墓(さいそうぼ)という葬制か普及していました。これは一度埋葬した複数の遺体の骨を掘り出しそれらの骨を壷や甕などの土器に入れ、さらに数個体の土器をまとめて一つの土坑(どこう)に埋めるものです。博物館では佐倉市天神前遺跡の資料をお借りし展示しています。市川では未発見ですが、再葬墓だったことでしょう。そのころの西日本ては地面を掘り窪めて作る土壙墓のほかに、木棺墓、石棺墓、甕棺墓などが採用されていました。このうち考古博物館では福岡市中央区西新町遺跡で発見された甕棺一基を福岡市文化財センターの格別のご好意により、永久貸与の形で借用展示しています。この甕棺は2.7×1.4メートル、深さ約1メートルの穴に、高さ118センチ、口径79センチの大きな甕を横にして置き、その中に推定身長143センチの成年女性を脚を折り曲げて上向きに安置し、さらに高さ39センチ、口径70センチの鉢を口を合わせて蓋とし、継ぎ目を粘土で目張りしてから土で埋めていました。甕棺は、大形の甕の中に大人の遺体をそのまま入れる土器の棺なのです。しかも甕棺は、北九州を中心とする狭い範囲で採用された埋葬墓でした。佐賀県吉野ケ里遺跡では二千基をこす甕棺が発見されています。大部分は展示例同様に何も副葬品は入っていませんが、中には高い盛り土の墳丘墓の下から発見された甕棺のように、甕の内側を水銀朱で赤く塗り、握り部が十字の銅剣と青いガラス製の管王(くだたま)という豪華な副葬品をもった、王を葬ったのかともいわれている例もあります。このように西暦紀元前一世紀の九州では同じ甕棺を用いながらも、何も副葬品を持たないものから,中国系や朝鮮系の青銅器(鏡・武器)や玉類などをもつものまで 内容に差があります。これは貧富の差もしくは階級の差をあらわしていると考えられています。差はあるものの、甕棺を用いる点では同じというのが注目されます。大きな甕ですから、一気に形をつくることは不可能てす。乾燥させながら粘土を横方向に継ぎ足して一周させ、これを何回か繰り返して積み上げています。重さは相当なもので、男性四人がかりで何とか動かせるというしろもので、遠くに運ぶのは不向きです。甕棺を焼いた場所の一つが今年佐賀県で発見されました。野焼きではなく、皿状に掘った窪みに口を下にして甕を置き、周りを燃料でおおい、さらに粘土の壁でおおうという一種の窯でした。土器を使った葬法でも、東西で全く違うという、日本の文化の多様な姿の一半を展示室で知ることができます。 |