たしか97年の事だったが、福島県の飯村さんから写真が送られてきたように記憶している。常滑だと思うが、ちょっと変なところもあるので見て欲しいというようなことだった。そして、それは、ここに出した写真の小ぶりの甕と瓜二つの製品だった。
その後、県の陶磁資料館の井上さんからも、しばらくして連絡が入った。盛岡市の教育委員会の方で甕を捜しているので、なんとかしてやって欲しいというものだった。
この二つの話は、つながっていて盛岡市の教育委員会が盛岡藩主の菩提寺の墓所を調査したところ、三代藩主の南部重直の墓地の下に埋まっていたのが、この甕のそっくりさんだった。
市教委としては、歴史資料として保存したい。しかし家臣団は主君の棺を人目にさらすのは、いささか問題がある。忍び難きを忍んで、後世の歴史教育に資料を提供するとしても、その代替品は、なくてはならない話だ。
ということで、代替の甕をなんとか入手したいということになり、井上さんを介して僕のところにきたのだった。この甕棺の中には12枚の慶長小判が、21枚の寛永通宝、1枚の皇宋通宝とともに入っていたという。さすがである。
南部重直は寛文4年(1664)に江戸桜田邸で59歳の生涯を閉じた。遺骸は二週間ほどかけて盛岡に運ばれ、火葬された。火葬の骨壷とするのには、この甕は大きすぎる。
総高71.8〜72.1p、口縁部径36.5〜38.0p、胴部径54.5〜55.0p、底径14〜15.1pが、その大きさで、写真に出したのは、それよりひと回り大きい。江戸屋敷から遺骸を運ぶ容器として使われ、また棺としても使われたと理解したいが、その辺のところは報告書では論及されていない。
ただ、この時期に、盛岡あたりで常滑の甕が流通していたとは、考えがたいという状況はある。
近世の常滑焼は、東北地方では、あまり使われていない。因みに写真の甕のサイズは、総高73p、口縁部径39〜37.5p、胴部径60p、底径16pで重量は33.8kgである。
もう一つの写真は、18世紀の前半に編年している甕。総高86p、口縁部径71.5〜73p、胴部径83p、底径19pで、その重量は65.6kgという巨体である。
この甕とよく似た特徴をもち、一まわり小型、といっても器高は80pで口径は63.4pという甕が、やはり仙台藩三代藩主の墓の地下から検出されている。伊達の三代目といえば伊達騒動の主役、綱宗公である。
酒色に溺れ、所行紊乱により幕府に隠居を命じられ、伊達家のお家騒動が巻き起こる。隠居させられたのが21歳とは若い。そして隠居後は身を慎み芸術の分野に、その才能を発揮し、50年の歳月を送った。
没年は正徳元年(1711)で享年72、江戸は品川邸に歿している。その遺骸は五代藩主吉村によって仙台の経ヶ峰の地に葬られ、正徳6年には善応殿が完成している。
遺骸は石灰とともに厳重に密封されており、火葬ではない。棺内には、やはり宝永小判が10枚入っていた。江戸で甕に入れられ、仙台に運ばれたものと僕は考えている。
さて近年神奈川県の横須賀市で幕府の軍艦奉行を務めた向井将監夫妻の墓が調査された。そして、夫の墓には備前の甕が使われ、婦人の墓には常滑の甕が使われていた。その婦人の甕は、ここに出した大きな甕とそっくりなのだが、墓標が示す年代がなんと寛文なのである。
そうして、あらためて綱正墓の甕を見ると、口縁部の断面形態がよりY字形になっており、この甕とは微妙に違うと言えなくも無い。
はじめは、なにか特殊な事情があるのではないかと思っていたが、どうもこちらの編年作業が杜撰であったと最近では思い始めている。近世の編年は、まだまだ序の口にさしかかったばかり。