戻る



九州の甕棺


-弥生時代甕棺墓の分布とその変還-



藤尾 慎一郎



Ⅰ 甕棺研究の意義

Ⅱ 地名表および分布図作成の手続き

Ⅲ 分布

Ⅳ 小結

参考文献

甕棺墓地名表

文献目録

Jar Burials in Kyushu





Ⅰ 甕棺研究の意義


 本稿で扱う甕棺とは、埋葬専用棺として特殊に発達した超大形の甕形土器で、弥生時代の北部九州を中心とする地域に分布するものをさす。甕棺には実年代を推定しうる青銅器などの舶載品が多量に副葬されているため、甕棺自身を利用した土器編年と舶載品から導き出される絶対年代との対応を目的とした研究が古くから行われてきた〔岡崎 1977〕。また、高倉洋彰の業績に代表されるような、甕棺墓の墓地構成から北部九州における弥生時代社会の発達過程と解明していく研究も盛んである〔高倉 1972〕。最近では、墓地における甕棺墓の配列に注目して親族組織の復原を試みた春成秀爾〔春成 1984〕や田中良之等の研究もある〔土肥・田中 1988〕。
 このように、甕棺および甕棺墓を材料とする研究の有効性は、きわめて大きいものがある。ところが、甕棺の分布や甕棺墓の規模などといった基礎的なデータは、今なお提示されていない。基礎的なデータの整理を効率よく進めるには、時間軸と空間設定の整備が必要不可欠である。そこで甕棺の編年や地域色研究に関する最近の研究動向を少しばかり検討しておこう。

  1.編年研究

 森貞次郎が設定した伯玄社式から日佐原式に至る9型式編年は〔森 1968〕、現在でも基本枠としての位置を失っていない。基本的には森編年を細分する方向で継承・発展させたものといえよう。橋口達也の研究はその代表例である〔橋口 1979〕。橋口は甕棺の形態に注目した型式分類を行うとともに,甕棺の蓋として使川された壺や鉢などを利用して甕棺編年と日常土器編年との対応を計った。さらに甕棺と副葬品との関節を論じて相対年代に絶対年代を付与する作業を行った。この総括的研究をへて,福岡県内では橋口編年との対応を念頭においた編年が,甘木市栗山遺跡〔佐々木 1982〕や筑後市権現塚北遣跡〔橋口 1985〕において実践されつつある。また,速水信也は小郡市横隈狐塚遺跡を対象に,中期後半から後期前半の時期内において一型式内の細分を実践している〔速水 1985〕。
 以上のように細分作業が進展してくると,福岡・春日地域に分布する甕棺に比べると一回り小さくて丸みをおびた器形をもつ埋葬専用棺の存在が知られるようになり,しかもこれらは系譜を異にする甕棺との考えが出てくるようになってきた。橋口の「小形棺」〔橋口 1979〕,速水の「中形棺」〔速水 1985〕がこれに相当する。この甕棺は一つの地域に限定的な分布を示すというよりも,地域をこえたかなり広範囲にわたる分布を示すことや,分布の中心が福岡・春日地域の周辺にあることから,周辺部の甕棺を理解するうえで注意しておく必要がある。今後は甕棺を構成する複数の系列を考慮したうえで細分昨業を行っていく必要がある。

  2.地域色研究

 地城色は編年研究が深まっていくにつれて常にかかわってくる問題で,特に甕棺の場合は製作に携わった専門工人の問題(1)が背景に存在するため,地域色が顕在化しやすい。
 型式学的な方法でこの問題にはじめて取り組んだのは井上裕弘である。井上は,甕棺の胎土に含まれる砂粒の量と粒度に注目し,砂粒の多寡,精粗から胎土を二大別している。そのうえで,焼成法の差に起因する甕棺器表面の色調を,器表上の刷毛日痕の幅1cmあたりの本数,および刷毛目痕断面にみられる凹面と凸面の幅との関係から6細分した調整パターンとの相関をはかり,色調と調整パターンの組合せから立岩式併行期の甕棺を4分類した。そしてこの胎土,色調,調整法の組合せが地城毎に特徴をもつことに着目し,立岩式併行期の旧筑前に相当する福岡・春日,粕屋,甘木・朝倉,二日市の五つの地域で,地域型甕棺の存在を認め福岡・春日地域の一の谷型と原型,粕屋地城の粕屋型,甘木・朝倉地域の栗山型,二日市地域の道場山型の計5つの地城型を設定したのである〔井上 1978〕。
 その後,先の指標にタタキ技法の分類や調整順序と最終調整種のパターンなどの技術的指標と,胴部の膨らみや底部付近のしまりぐあいにみられる器形などの形態的指標を加えてあらたに嘉穂の立岩型,早良の藤崎型を設定し,計七つの地域型が存在するとし自説を発展させている〔井上 1985〕。また橋口も,主に原体の大きさを異にするタタキ技法の種類や,タタキのち刷毛のちナデといった器面調整の順序に違いがあることに着目し,器形的特徴を考慮したうえで,前期から中期後半にいたる,福岡・春日,甘木・朝倉,嘉穂に分布する甕棺の特徴について検討している〔橋口 1982〕。
 両氏の研究は,文様を基本的に施さない北部九州の土器を対象にした地城色研究を行う場合の方向性を示したもので,今後日常土器を対象にして地域色研究を進めていくうえで指針となる研究である。ただ日常土器の場合は専門工人の存在が確実な甕棺と比べて,一般に指摘されている形態的・技術的地域差の意味するものが異なる可能性を充分に考慮しておく必要がある。
 井上・橋口以後,各地で地域型甕棺の設定を目的とした研究が活発に進められている。佐賀では,七田忠昭が神埼郡二塚山遺跡出土甕棺の詳細な形式分類を行ったが,地域型甕棺の設定までは至っていない〔七田 1979〕。唐津の甕棺については,橋口が埋葬法の差を指摘(2)〔橋口 1982〕している他,中島直幸が器形を指標にして佐賀との比較を試みているものの,明確な形で地域型甕棺の設定は行っていない〔中島 1983〕。中島は「まだ各地域毎の特性や地域性を十分把握していないので各土器形式の区分及び細分はいたずらに分けすぎないようにするべきであろう。」〔中島 1983:42〕とし,時期差と地域差の混同を避ける姿勢が必要であると述べている。
 福岡県南部では,橋口が筑後市権現塚北遺跡の編年を行った際に,この地域の器形的特徴を明らかにして,全体的に甘木・朝倉との共通性が高い点を指摘している〔橋口 1985〕。平島勇夫は福岡県大牟田市羽山台遺跡の甕棺について,橋口編年〔橋口 1979〕との対応を計った。その際丸みを帯びた別系統の甕棺の存在,いわゆる橋口の小型棺が存在することには言及しているが,地域型甕棺の設定までは行っていない〔平島 1982〕。
 熊本県地域では中期の甕棺を対象にした西健一郎の研究がある〔西 1982〕。西は福岡系(3)の大形棺と小形棺が時期を追って南へ伝播していく過程を追跡しながら,県内で成立していく地域型甕棺を捉えようとした。その結果城ノ越式併行期の金海式系甕棺や立岩式併行期の須玖式系甕棺を抽出することに成功している。西の研究は甕棺墓中心地帯からの伝播と,それを受けて成立する地域型甕棺の関係をよく示したものとして注目される。
 以上のような佐賀,唐津,南筑後,熊本を対象にした研究では,器形に重点をおいた地域色の指摘にとどまる傾向がある。今後は製昨技術にまでふみこんだ研究を進める必要がある。橋口は,福岡・春日地城の周辺部に位置する嘉穂や甘木・朝倉における甕棺製作のあり方について,「甕棺への憧憬と大形棺製作への努力」と評したが〔橋口 1982:477〕,「単に須玖式文化圏縁辺部の出来事として片づけるのではなく,福岡と熊本における弥生文化を生みだした,弥生社会の構造上の問題として違いを明らかにする」〔西 1982:465〕という各地の独自性を重視する立場から考えていくこともまた必要であろう。
 専門工人の存在を背景とした甕棺の地域色研究は,北部九州各地における弥生社会を考えるうえで,もっとも有効なテーマの一つである。従来,甕棺の分布範囲は弥生時代における北部九州の範囲と重複してイメ-ジされてきた。その範囲は東限を嘉穂,北限を粕屋,西限を唐津,南限を熊本県宇土半島とするものである。しかしこれは甕棺が存続する全期間を通してみた最大範囲を示している。すなわち時間の経過とともに拡大・縮小する分布圏の動態についてはさほど注目されることもなく,また各時期毎の出土基数を示した地名表なり分布図も提示されていない。甕棺の地域色研究が従来のように立岩式併行期だけにとどまるわけはなく,先のような基礎的データを盛り込んだ地名表や分布図の提示が早急に必要な段階にきている。本稿の目的はまさにここにあり,今後の基礎作業として位置づけられる。



Ⅱ 地名表および分布図作成の手続き


 甕棺が研究の対象となってから多くの甕棺遺跡が調査・報告されている。しかし報告の形態は報告者毎に異なっているため,それらを一つのかたちにして地名表や分布図にまとめるには,かなり大幅な整理を必要とする。本章では地名表にかかげる各項目について一定のルールづくりを行う。

  1 時間軸

 今回の地名表では原則として相対区分を採用しない。これは研究者があまりにも不用意に用語を使用しているからで,統一はまず不可能と考えられるからである。たとえば,前・中・後期の三期区分(4)には異論がないとしても,各期内の細分となると単に各期を構成する型式の数にあわせて単純に振り分けているのが実状である(5)。一つの時期を期を二分するなら前半と後半,三分するなら前葉・中葉・後葉が基本となるが,現実には三区分に初頭・末を加えて五区分する場合が多い。また前半・後半のように二分する区分法では「中頃」が表現できないことから,前半・中頃・後半といった奇妙な相対区分も存在する。したがって地名表ではこのような事態を避けることが肝要である。
 そこで原則として森が設定した型式を軸とした時期区分を採用する。表1は本稿の時期区分と現在まで発表されてきた代表的な編年案との対照表である(6)


表1 甕棺編年対照表
本  稿森68速水85佐々木82橋口82七田79高倉78高島77折尾71
刻目突帯文







板付Ⅰ
伯玄社伯玄社KⅠa
KⅠb金隈金隈Ⅰa
金海金海KⅠcⅠb
城ノ越城ノ越栗山ⅠKⅡa汲田Ⅱa
汲田
KⅡb
汲田KⅡc二塚山ⅠⅡb
須久須久KⅢa須久Ⅲa
Ⅲb
横隈狐塚ⅠⅢc
立岩(古)立岩KⅢb立岩
立岩(新)KⅢc
桜馬場桜馬場KⅣa桜馬場


KⅣb

三津三津KⅣc


日佐原
KⅤa

KⅤb
日佐原KⅤc
KⅤd
KⅤe
KⅤf



  2 甕棺の定義

 甕棺をどう認識するかで対象とする時間幅にも関係してくる。本稿では甕棺墓として墓地構成も含めて広義に捉える立場をとる。甕棺墓の終焉はほぼ弥生時代の終わりと同じくするが,問題となるのは初現をどこに求めるかである。一般的には前期後半の伯玄社式もしくは前期末の金海式に求められているが,本稿では早期の刻目突帯文土器の成立をもって,甕棺墓の開始と考える。根拠は,刻目突帯文土器の成立を境に棺として使用される土器や墓地構成が大きく変化するからである。刻目突帯文土器成立以前は,日常土器から転用された粗製土器(深鉢)を棺として使用し,1基ないしは数基の墓地構成で多数群集せず,周辺に同時期の住居跡や土壙を1基ないし数基伴うといった生活域との未分離状態を特徴としている。しかし刻目突帯文土器成立以降は,新しく出現した埋葬専用の長胴壺(7)を棺として主に使用し他の器種と組み合わせた複式棺も登場する。また支石墓の内部主体としで営まれたり,支石墓に隣接して営まれて群集した墓地構成をとり,生活域とも分離されていることなど縄文的な埋葬形態からは脱却しているからである〔森田 1984〕。長胴壺自身も甕棺の祖型であり,型式学的な変遷をたどることができる点も重要な根拠の一つである。以上のように土器を含めて弥生的な埋葬形態が成立した時点をもって甕棺墓の開始と考えるのである。もちろん本格的な甕棺墓が伯玄社式からであることは言うまでもないことである。
 そこで森編年では型式が未設定の伯玄社式以前については,刻目突帯文土器単純段階を「刻目突帯文土器」,夜臼・板付Ⅰ式土器共伴期を「板付Ⅰ式土器」として設定することにする(8)

  3 各型式の問題

 森が設定した形式をめぐってはいくつかの議論がなされている。金海式という名称に対する新町式〔橋口 1987〕,桜馬場式に対する一の谷式〔高倉 1978〕,日佐原式に対する西新式がその代表である。ここでは様式として存在するかという点で争われている城ノ越式の問題についてふれておく。
 折尾学は,城ノ越式の大形棺が型式学的には設定できるとしながらも,佐賀県宇木汲田遺跡や福岡市金隈遺跡における墓地構成はこの段階に関する限り小形甕棺に限られていて,大形甕棺が存在しないことを根拠に大形甕棺の編年からは除かれるべきであるとした〔折尾 1971〕。橋口はこれに対して城ノ越式の少なさは事実として認めながらも,それはこの段階が甕棺葬の発展期に相当していて土壙墓や木棺墓とともに墓地を構成しているからだとし,城ノ越式大形甕棺の存在を強調している〔橋口 1979〕。これと似たような問題は三津永田式についても指摘されているが〔高倉 1978〕,甕棺墓の成立・発展・衰退を考える上で重要と考えられるため甕棺の型式として設定する。
 城ノ越式大形甕棺が様式として存在することは,周辺部への甕棺墓の伝播とも関連がある。
 筑後南部や熊本,嘉穂などの周辺地域に福岡系の大形甕棺が登場するのはこの段階からで,しかも橋口が指摘している「地方色ある甕棺」がこの伝播に重要な役割を果たしていることもあって,城ノ越式大形甕棺を設定することは有効であると考える。
 この結果,本地名表の型式区分は二分した立岩式を含めた森編年の10区分に刻目突帯文土器,板付Ⅰ式を加えた12区分となる。

  4 甕棺編年の大別

 今回,集成した約400遺跡のうち型式毎の基数が明確な遺跡はかなり少ないため,型式毎の分布図につかえる遣跡がかなり限定されてしまうことになり,型式毎に分布圏の消長を知るにははなはだ不利となり意味も半減してしまう。したがって先の12区分を整理・統合して大別し,できるだけ多くの遺跡を有効に利用する必要がある。たとえば,「汲田式から立岩式にかけて50基出土」という表現で報告してある遺跡がかなりの数にのぼるからである。
 大別するための指標としては次の四つがある。
(1)甕棺の製作技法などの技術的側面
 各段階毎に技術が向上している。刻目突帯文段階は埋葬専用棺(長胴壺)が成立し,壷の製作技法でつくられる。器面調整は壺に一般的な研磨調整を施す。城ノ越式段階になると刷毛目のあとナデて仕上げるといった甕棺独自の調整技法が成立するとともに,焼成法の変化に伴う軟質から硬質化への硬度の変化や,黄褐色から赤褐色・黄褐色への色調の変化がみられる。
 須玖式段附では,さらなる製昨技術の向上を背景とした,焼成法の進歩にもとづく色調の変化がみられ,淡黄色・黄白色化する。
(2)大形棺・中形棺にみられる系列的な差
 大形棺と呼ばれる甕棺は刻目突帯文土器の成立と同時に出現して,少しづつ大形化の方向へ進む。この大形化は伯玄社式の段階で日常用の大形壺とは法量的に隔絶化する。城ノ越式段階で器高は80cmを超え,須玖式段階になると100cmを超えるものも出現する。しかし橋口編年のKⅢに相当する立岩新段階から一転して器高が低くなりはじめ,福岡・春日地城では大形棺自体が衰退。その他の地域でも三津永田式段階でほぼ消滅する。
 一方,橋口の「小形棺」,速水の「中形棺」と呼ばれる埋葬専用棺が橋口編年のKⅡb式段階に成立し,立岩式古段階まで大形棺と並行して製作され用いられる。やがて新段階になると器高の増大へと転じ,器高が低くなって棺として衰退していく大形棺に取って替わるように盛行する。
(3)大形棺の周辺地城への波及と衰退
 筑前・佐賀に限定されていた大形棺も城ノ越式段階になると南筑後・熊本(菊池川流域)で成立する。立岩式段階になると,須玖式段階に大形棺がもたらされていた嘉穂において在地の大形棺が成立する。しかし桜馬場式段階になって,福岡・春日で甕棺葬が衰退しはじめ他の墓制へと転換していくのを皮切りに三津永田式段階には佐賀でも同じ状況がみられる。そして日佐原式段階には,北部九州的甕棺葬がすでに終焉しており,一部の地域で残存しているほかは糸島地域で特殊に展開している程度となる。
(4)甕棺に副葬される副葬品の種類と所有形態の変化
 小田富士雄の研究によれば次のように大別される〔小田 1987〕。
 第Ⅰ期(金海式~汲田式) 分散所有型 複数の集団から構成される共同墓地内で,有力集団の家長,さらには家族が漢以前の朝鮮製青銅器を一棺一品的に所有する。
 第Ⅱ期(須玖式,立岩式) Ⅰ期の副葬品に加えて前漢・九州産青銅服,鉄製武器を所有する。墳墓形態には地城型が幾つか存在する。
 第Ⅲ期(桜馬場式,三津永田式) 集中所有型 王莽・後漢前半代の境,九州産青銅器を所有する。


表2 甕棺の時期大別の指標


 以上,(1)~(4)で示した特徴を指標に本地名表では次のように大別する。
 Ⅰ期(刻目突帯文~伯玄社式) 甕棺墓の萌芽期に相当する。土器としては大形に属するがまだ日常土器とは法量的に隔絶されてはいない。形態的に壺形を呈している。
 Ⅱ期(金海式~汲田式) 甕棺墓の発展期に相当する。法量的に日常土器から隔絶した超大形に達し(器高80cm以上),形態的にも甕形になって甕棺という名にふさわしい形態になる。甕棺独自の製作技法も確立し,南筑後・熊本(菊池川流域)でも在地の大形棺を作りはじめる。副葬品の所有形態は小田の第Ⅰ期である。
 Ⅲ期(須玖式,立岩式古段階=橋口KⅢb) 甕棺墓の最盛期に相当する。さらに大形化して器高が100cmを超えるものも出現する。甕棺としてはあらゆる面でもっとも発達し,頂点に達した段階である。嘉穂で在地の大形棺を作りはじめる。副葬品の所有形態は小田の第Ⅱ期である。
 Ⅳ期(立岩式新段階=橋口KⅢc~三津永田式) 甕棺墓の衰退期に相当する。大形棺の小形化と衰退,中形棺の大形化に代表される。福岡・春日,佐賀では甕棺墓自体が衰退し,他の墓制への転換が進む。副葬品の所有形態は小田の第Ⅲ期である。
 Ⅴ期(日佐原式) 甕棺墓の残存期に相当する。 Ⅳ期までみられた北部九州的甕棺は存在せず,糸島や日田地域などで持殊に展開するにすぎない。

  5 基数の算出法

 地名表では埋葬専用に製作された大形棺・中形棺を対象とするため,日常土器からの転用品とこれらを明確に区別する必要がある。
 Ⅰ期(刻目突帯文~伯玄社式)は,壺として大形化はしているものの,日常土器と法量的に隔絶しているわけではなく,また形態的にも埋葬専用として厳密に区別ができないものもあるため,棺として使用されている場合はそのまま算出する。Ⅱ期(金海式~汲田式)は,埋葬専用の大形棺と日常土器からの転用品との区別が法量・形態的にも可能なため,それぞれを大形棺,日常土器からの転用品を含む小形棺と判断して算出する。
 Ⅲ期(須玖式・立岩式古)とⅣ期(立岩式新~三津永田式)はかなり複雑な様相をみせる。速水信也は,この段階に棺として用いられた土器を法量から3群7小群に分類している〔速水 1985〕(表3)。速水は,埋葬専用に制作され成人棺と呼ばれてきた甕棺を大形棺と呼び,また橋口が指摘したKⅡb~KⅢaにかけて存在する別系統の甕棺である「小形棺」を中形棺と呼称する。この二つは前節の系列的側面のところで述べた「大形棺」,「中形棺」にあたる。速水は中形棺の特徴として,胴部が丸みを帯びた器形で,口縁部のつくりは簡略,胴部に一条の突帯をめぐらす点を挙げている。
 地名表では,速水の法量分析を基本に棺として使用された土器を次のような基準から大形棺,小形棺と大別する(表3)。
 まず,埋葬専用棺を目的として製作された土器を大形棺,それ以外の二次利用の棺を小形棺と呼び区別する。大形棺には,速水分類の大形棺,大形棺が縮小したもの,中形棺,中形棺が拡大したものが含まれる。また小形棺には日常土器の甕・壺,およびこれらと法量だけが大きくなった相似形の土器が含まれる。
 従来は,成人棺・小児棺として区別する方法が一般的であった。甕棺墓に埋葬される成人・小児の比率が,当時の杜会情勢を反映して時期毎に推移することを指摘した研究もある〔中間 1978〕。しかし,本地名表で大形棺・小形棺として区別するのは,埋葬専用棺を利用することが,北部九州の甕棺墓を理解するうえでも,もっとも重要な意味をもつとの認識にもとづくからで,本稿の目的の一つが甕棺墓の時間的・地域的境界を明確にすることにあるからである。
 たとえば,縄文時代から土器棺葬が存在していることを考慮すれば埋葬専用棺として独自の器形をもち法量的に大型化している大形棺の存否を指標にすることで甕棺墓の上限をおさえることができる。また弥生時代にはいっても,時期を同じくして遠賀川下流域のような隣接地域で土器棺葬が営まれており,これも大形棺を指標にすることで甕棺墓の分布範囲をおさえることができるのである。さらに地域色研究を進めるうえでも,専門工人の存在が直接関係する大形棺を確実におさえておく必要もあろう。また,資料を扱ううえでも大形棺と小形棺の区別は成人と小児の区別に比べて容易である。成人と小児の厳密な区別は人骨が検出されない限り不可能で,それは大形棺に小児が埋葬される例があることからも明らかである。そのうえ,大形棺分布圏内における小形棺の埋葬法を見ると,成人棺を埋葬後,その上に寄り添うかのごとく埋葬されていることから,遺跡の削平の影響が小形棺の数にただちに反映する点を考慮すれば,成人と小児の比率を算出しても,もっとも遣存が良好な遺跡でないと実態を反映しないという理由もある。
 しかし,このように厳密な規定をしても,出土した甕棺口縁部の実測図が掲載されていれば大形棺か小形棺かの再検討も可能だが,このような報告形態がとられるようになったのは最近のことで,ほとんどは再険討が不可能である。このような場合は,報告書の記載に忠実に従っている。基数のあいまいさは多少あると考えられるが,あくまでも目安をつけるための基礎作業としてはやむをえまい。


表3 法量からみた甕棺分類
法 量種  別本稿分類速水分類
器 高31~39cm台日常土器小形棺小形棺
50~57cm台日常土器がやや大形化したもの中形棺
61~72cm台更に大形化したもの
中形棺大形棺
78cm以上大形棺が縮小したもの
大形棺
中形棺の拡大したもの
大形棺



  6 地域設定

 井上の研究で,すでに立岩式段階における7つの地城型甕棺が設定されている。筆者は通時的な地域型甕棺の設定を将来の課題としているため,一定の地城枠をつくって地名表に反映させたいと考えた。これはあくまでも地理的条件と現在おさえている大形棺の分布から設定したにすぎず,甕棺自身の型式学的な検討などは一切加えていない。あくまでも便宜的なものである。したがって将来的には変更する余地を十分に残している点は言うまでもない。
(1)玄界灘沿岸
 西北九州 唐津より西の沿岸地域と島嶼部で,長崎県五島,平戸,壱岐,北松浦郡,佐世保市,佐賀県東松浦郡が含まれる。
 唐津 旧東松浦郡に属す範囲で現在の佐賀県唐津市,相知町,浜玉町が含まれる。
 糸島 旧糸島郡に属す範囲で現在の福岡県糸島郡二丈町,志摩町,前原町,福岡市西区の一部が含まれる。
 早良 旧早良郡に属す範囲で,現在の福岡市西区,早良区,城南区が含まれる。井上の藤崎型はこの地域の甕棺である。
 福岡・春日 旧筑紫郡に属す範囲で,現在の福岡市南区,博多区,東区の一部,筑紫郡那珂川町,春日市,大野城市,太宰府市北部が含まれる。井上は,一の谷型と原型の二つを設定している。
 粕屋 旧粕屋郡に属す範囲で,現在の福岡市東区の一部,粕屋郡志免町,宇美町,古賀町が含まれる。
(2)有明海沿岸
 神埼 旧神埼・三根郡に属す範囲で,佐賀県神埼郡神埼町,千代田町,三田川町,東脊振村,中原町,三養基郡上峰村,北茂安町,鳥栖市西部が含まれる。
 佐賀 旧佐賀郡に属す範囲で,嘉瀬川と城原川に挟まれる地域である。現在の佐賀県佐賀郡大和町,佐賀市,神埼郡神埼町,干代田町が含まれる。
 小城 旧小城・旧佐賀郡の一部で,嘉瀬川以西の地域である。現在の佐賀県小城郡小城町,佐賀郡大和町,佐賀市の一部が含まれる。
 多久 旧小城郡の一部で,現在の佐賀県多久市に相当する。
 武雄 旧杵島郡の一部で現在の佐賀県武却市,杵島郡北方町が含まれる。
 島原 北高来・南高来郡の一部で現在の長崎県小長井町,諌早市,森山町,有明町,島原市,北有馬町が含まれる。
 熊本 菊池川流域と白川流城で分離できそうだが,今回は熊本県ということで一括しておく。
 筑後南部 旧八女・山門・三池郡に属す範囲で,現在の福岡県筑後市,山門郡瀬高町,八女郡立花町,八女市,大牟田市に相当する。橋口の筑後南部と一致する。
(3)内陸部
 嘉穂 旧嘉穂郡に属す範囲で福岡県飯塚市,嘉穂郡嘉穂町,穂波町,桂川町を含む。井上の立岩型はこの地域の甕棺である。
 二日市 旧筑紫郡の南部に属す範囲で,福岡県筑紫野市の北部に相当する。井上の道場山型はこの地城の甕棺である。
 朝倉 旧朝倉郡に属す範囲で,宝満川より東,筑後川より北の地域である。福岡県朝倉郡夜須町,三輪町,甘木市,朝倉町,小郡市の一部を含む。井上の栗山型はこの地域の甕棺である。
 小郡・鳥栖 筑前・肥前・筑後の三国地域で福岡県筑紫野市南部,小郡市,佐賀県鳥栖市東部を含む。将来的には鳥栖市地域で独自の地域圏をつくる可能性もある。
 久留米 現在の福岡県久留米市を中心とする地域である。
(4)その他
 大村 長崎県大村市富の原遺跡を中心とする地城である。
 日田 大分県日田市を中心とする地域で,筑後川中流に位置する。
 薩摩 薩摩半島西海岸の地城で,鹿児島県日置郡吹上町,金峰町に相当する。
 分布図では,以上示した各地域毎の基数が反映されるように考慮して,先の五期区分のなかで甕棺墓の消長が表現できるようにした。


Ⅲ 分布

 今回作成した分布図には,刻目突帯文土器から日佐原式まで全時期にわたる分布を表現したもの(図1)と,甕棺大別期毎における大形棺の基数を表現したもの(図2~図6)の二種類ある。

  1 全時期(図1)

 まず,長崎県対馬,福岡県宗像,遠賀川下流域,豊前,豊後,日向,大隅,天草にはまったく分布しない点に注意する必要がある(図1-1)。
 次に分布状況をみると,分布範囲は,熊本県宇土半島を南限に,大分県日田市を東限,長崎県壱岐を北限,長崎県五島を西限とする地域,及び飛び地的な分布をみせる薩摩である。全時期的には九州の西半に分布し,とくに北部九州地城に集中して分布することを示しているのである。なかでも唐津,糸島,早良,福岡・春日の玄界灘沿岸地域,向陸部地域,神埼,佐賀,小城の有明海北岸地域,熊本県白川流域に集中した分布をみせ,北部九州の範囲と一致している。それでは各地域の甕棺墓はどのように推移していったのであろうか。

  2 Ⅰ期(刻目突帯文式~伯玄社式)(図2)

 甕棺墓の萠芽期に相当し,刻目突帯文以来の甕棺が存在する段階である。すでにほとんどの地域で甕棺墓が分布するが,型式毎に細かくみると刻目突帯文の段階は,そのほとんどが支石墓の内部主体であったり,支石墓に近接しで営まれていることもあって,支石墓の分布と重複するように,西北九州,唐津,糸島,早良,小郡・鳥栖の西部,神埼,佐賀,島原,熊本に偏った分布をとる。規模も5基から10基でさほど大きくない。しかし集落域とは分離されていて縄文的墓地構成とは明らかに異なっている。板付Ⅰ式段階には小郡・鳥栖の東部に,伯玄社式段階になるとようやく福岡・春日,二日市,朝倉,筑後南部へと拡大,墓地の規模も拡大して10基以上群集する例が多くなる。Ⅱ期以降に一般化する弥生的な墓地構成の特徴をすでにみることができるのである。

図2-1九州における大形甕棺分布図 Ⅰ期/ 図2-2北部九州における大型甕棺分布図 Ⅰ期



  3 Ⅱ期(金海式~汲田式)(図3)

 粕屋,嘉穂,久留米,大村に分布がひろがる。小形棺を含めた総基数では80基を超える遺跡が出現(福岡市金隈遺跡[112],同吉武大石遺跡[69])するが,大形棺に限ると佐賀県中原町姫方遺跡[46]の46基が最高である([ ]内の数字は遺跡番号で分布図・地名表の番号と一致する)。
 嘉穂に大形棺が出現するが,いまだ立岩遺跡周辺には到達せず,二日市方面から嘉穂へはいる入口部にとどまっている。熊本の状況は,在地の刻目突帯文壺から変化をとげてきた壺棺が一掃されると,取って換わるように城ノ越式段階で菊池川流城に,汲田式段階で白川流城に福岡系の大形棺が出現する。しかし墓地の規模はすべて5基以下の小規模なもので,さらに一つ地域の中で大形棺をもたない遺跡と混在して分布している。大形棺をもっていた集団ともたなかった集団が存在したことがわかる。南筑後は筑後市権現塚北遣跡[338]に金海式から群集する傾向がみられる他は,大牟田市羽山台遺跡[334]で汲田式が5基前後みられる程度。久留米は西屋敷遺跡[349]で10基群集は5基以下の甕棺墓が点在する程度である。このように,嘉穂,久留米,熊本の甕棺は小規摸で土器棺葬の遺跡と混在して分布するという様相をみせている。
 玄界灘沿岸をみてみると,唐津の甕棺墓は宇木汲田遺跡[30]を除いて5基以下がほとんどで,規模的に小さい。早良,福岡・春日でもようやく甕棺墓が盛行するが,福岡市板付遺跡[102]や同有田遺跡[78]など平野の核となる遺跡では30基以上群集することはなく,むしろ吉武大石遺跡[69],金隈遺跡[112]など平野の外縁に位置する遺跡で30基以上,群集する傾向がある。板付や有田遺跡ではI期同様に甕棺墓以外の墓制を多く採用していた可能性も考えられる(9)
 内陸部,佐賀平野では規模の点からみれば,小郡・鳥栖[安永田 203],神埼[姫方 207]で20基以上群集する傾向がある。小郡・鳥栖,神埼の大形棺は206基で,福岡・春日,早良の202基に比べてわずかに上回っており,大形棺の規模の点では脊振東南麓に一つの中心があるといっても過言ではあるまい。二列埋葬が盛行するのもこの段階のこの地域なのである。しかし,副葬品の所有形態からみると福岡・春日,早良において圧倒的な集中がみられることはいうまでもない。
 以上のように,Ⅱ期は大形棺の点的な久留米以南への伝播と,脊振東南麓における大規模遺跡の集中煩向に特徴づけられよう。

図3-1九州における大形甕棺分布図 Ⅱ期/ 図3-2北部九州における大型甕棺分布図 Ⅱ期



  4 Ⅲ期(須玖式~立岩式古)(図4)

 嘉穂では立岩遺跡周辺に大形棺が出現するとともに,規模も10基前後の群集を示す。熊本では全体的に2~3基の小規模傾向が一般的で,甕棺自体も速水の中形棺が顕著である。西北九州からは大形棺が姿を消し,小形棺がわずかに分布するだけになる。薩摩ではこの段階だけ大形棺が1遺跡1基単位で出現する。
 唐津ではⅡ期同様に宇木汲田遺跡における大規摸な集中傾向に変化はない。一方,多久でははじめて50基以上の大規摸な遺跡が出現,福岡・春日,神埼ではⅡ期と変化なく50基以上の大規摸埋葬が継続されるが,佐賀ではほとんど大形棺がみられず,二日市,小郡・鳥栖も5基前後とやや小規摸化する。
 この時期の副葬品の所有形態に変化があらわれる。Ⅱ期は,副葬品と大形棺が必ずしも結びつくことはなく,木棺墓に多量副葬というパターンも存在したのに対し,Ⅲ期になると,副葬品と大形棺の組み合わせに統一されるようになる。首長の埋葬形式として大形棺が位置づけられ,朝鮮・前漢の青銅器,九州産青銅器,鉄製武器を大形棺に副葬する「形式」が完成したものと考えられる。大村市富の原遺跡[278]や飯塚市立岩堀田遺跡[129]のあり方も周辺地域におけるその典型で,「大形棺+副葬品」という埋葬形式ごと受容したものと考えられる。さらに大形棺ならどれでもよいというわけではなかったようで,特定の地域で作られた大形棺を持ち込んで埋葬形式を実践する傾向も認められる。

図4-1九州における大形甕棺分布図 Ⅲ期/ 図4-2北部九州における大型甕棺分布図 Ⅲ期



  5 Ⅳ期(立岩式新~三津永田式)(図5)

 この時期に様相が一変する。日田,武雄,五島で1~2基の小規摸ではあるが大形棺がはじめて出現する一方,熊本からは大形棺が姿を消す。
 全体的に墓地の規模は縮小するが,Ⅲ期に甕棺墓の規摸,副葬品の量と質において頂点をきわめた福岡・春日,神埼,朝倉では甕棺墓自体が衰退し,なかでも福岡・春日ではその傾向が強く,佐賀なども含めて三津永田式の段階までには一斉に他の墓制へ転換する。
 これらの地域と入れ替わるように,Ⅲ期にみられた大形棺と副葬品の埋葬形式は福岡県糸島郡前原町三雲遺跡[47‐57]周辺で顕著になる。しかし,三雲でももはや大形棺の多数群集はなく,副葬品が1~2基の大形棺に集中的に多量副葬される。立岩遺跡や富の原遺跡では,この段階ではまだ大形棺が首長の埋葬専用棺としての位置をかろうじて保っていたようである。小郡市横隈狐塚遺跡[181]はこの時期における最大の規模をほこるが,これは中期末として分離された遺跡の数がまだ少ないことにも原因があると考えられる。この段階における甕棺墓の中心は二日市,朝倉,小郡・鳥柄,神埼にあり,Ⅲ期に比べ分布圏が一気に縮小するのである。

図5-1九州における大形甕棺分布図 Ⅳ期/ 図5-2北部九州における大型甕棺分布図 Ⅳ期



  6 Ⅴ期(日佐原式)(図6)

 筑後南部の曲松遺跡[330]を除いて群集傾向はみられなくなる。糸島で集中的に分布するものの基本的に5基以下の規模で数基が点在するにすぎないことや,大形棺自体が中形棺の流れをくむことなどから,すでに橋口が説いているように北部九州的甕棺墓ではなく持殊な展開をみせたものである。もはやⅣ期まで集中していた地域にはほとんど存在せず,周辺の大村,嘉穂からも姿を消し,島原や西北九州の島嶼部に小形棺が点在するにすきない。

図6-1九州における大形甕棺分布図 Ⅴ期/ 図6-2北部九州における大型甕棺分布図 Ⅴ期



Ⅳ 小結

 Ⅰ期からⅤ期まで順に検討してきた。以下,別の観点から大形棺の分布と規模について若干述べて終わりとしたい。

  1 各期毎の最大分布範囲(図7)

 図7は,各期毎の最大分布範囲を分布図に表現したものである。
(1) Ⅰ期 五島(浜郷遺跡)から福岡・春日(中・寺尾遺跡)の玄界灘沿岸と,島原(原山遺跡),熊本(沈目立山遺跡),朝倉(馬田上原遺跡)を結ぶ範囲内。
(2) Ⅱ期 五島(浜郷遺跡)から粕屋(蒲田遺跡)の玄界灘沿岸,大村(富の原遺跡),島原(妙法塚B遺跡),熊本(畑中遣跡),朝倉(三奈木久保鳥遺跡)を結ぶ範囲内。玄界灘沿岸を東に粕屋までやや拡大するが,基本的にはⅠ期と変わらない。まだ立岩遺跡がある嘉穂盆地まで達していない点に注意する必要がある。
(3) Ⅲ期 唐津(桜馬場遺跡)から粕屋(鹿部山遺跡)の玄海灘沿岸と,大村(富の原遺跡),熊本(畑中遺跡),嘉穂(立岩堀田遺跡)を結ぶ範囲内と,薩摩である。西北九州の島嶼部には存在せず西限が九州島内に縮小し,東限は嘉穂盆地まで拡大する。玄界灘沿岸では鹿部山遺跡まで到達しもっとも北まで拡大する。
 この段階は,島嶼部にこそ大形棺が存在しないが九州島内では最大の分布を示す。この範囲こそ,福岡・春日地域を盟主とする政治的統一体におさめられた北部九州地域と位置づけられるのではと考えている。薩摩に大形棺が出現することは,熊本平野での隆盛と無関係ではない。どこの大形棺が搬出されているか興味深いところである。
(4) Ⅳ期 五島(宇久松原遺跡)から,粕屋(中ノ坪遺跡)までの玄界灘沿岸と大村(富の原遺跡),島原(今福遺跡),南筑後(権現塚北遺跡),日田(吹上遺跡),嘉穂(立岩遺跡)を結ぶ範囲内。熊本から姿を消して,南限が南筑後まで後退する反面,日田に大形棺が出現し,筑後川沿いに東限が拡大する。五島に新たに出現するが飛び地的である。薩摩ではもはやみられない。
(5) Ⅴ期 唐津(久里大牟田遺跡)から粕屋(七夕池南遺跡)の玄界灘沿岸地域と,島原(西の角遺跡),筑後南部(曲松遺跡),日田(草場第2遺跡)を結ぶ範囲内。もっとも分布域が縮小する。粕屋郡宇美町の裏粕屋地域と遠賀川上流に初めて甕棺墓が成立するが,もはや北部九州的甕棺墓ではない。

図7甕棺墓の時期別分布図



  2 各期毎の各地域における規模の変遷(図8)

 各地域で大形棺がいくつ存在したのかその総数を時期別に分布図に表現したものが図8である。その前におことわりしておかなければならないことは,1988年8月現在,約1,800基が検出されている筑紫野市隈・西小田遺跡群,約1,500基が検出されている神埼郡吉野ヶ里遺跡群,約1,200基が検出されている福岡市吉武遺跡群のデータが含まれていないことである。しかし,これらの遺跡の存続幅,中心となる時期,大形棺と小形棺の比率からみても,この分布図に示された内容に大きな差はないと考えられる(10)
 さて,先に分布からみた大形棺の範囲と比べてみると,いわゆる北部九州的甕棺墓と考えうる特徴(10基以上で群集するなど)をみたしている遺跡の分布は,さらにせまばり地域的にも集中していることがわかる。すなわちⅢ期の嘉穂地域を除けば,唐津,糸島,福岡・春日,粕屋,二日市,朝倉,小郡・鳥栖,神埼,佐賀,小城,多久に限定された分布を示している。これらが,大形甕棺墓の中心地域として改めて認識できる。あまり意味はないが,小形棺や時期不明を加えたⅠ~Ⅴ期の総基数を示したものが図8-1である。中心地域における集中度に変化はない。
 福岡・春日地域は,甕棺墓を採用するのが伯玄社式段階とかなり遅く,また他の墓制ヘの転換も桜馬場式段階とかなり早い。Ⅱ・Ⅲ期の短期間のうちに「大形棺+副葬品」を首長の埋葬形式として急速に確立し,副葬品を多量に副葬する。立岩遺跡におけるⅢ期段階の隆盛もこの様な意味付けと結び付いていたことは明らかである。
 しかしⅣ期になってその意味付けが転換するやいなや,別の埋葬形式に急速に転換していくのである。
 一方,刻目突帯文土器段階から長胴壺を利用した壺棺葬の伝統をもつ多久から神埼にかけての有明海北岸地域などでは,神埼,小郡・鳥栖を中心に多数の甕棺埋葬を延々と継続するのである。Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ期には副葬品を伴う大形棺もあるが,そのあり方は福岡県須玖岡本遺跡や三雲遺跡とは異なり,むしろ立岩遺跡,福岡県夜須町東小田峯遺跡,富の原遺跡のあり方に近い。有明海北岸地域に関しては,一部首長層が「大形棺+副葬品」の埋葬形式を実践するが,これは甕棺墓に対する憧れといったものではなく,福岡・春日地域と同じ埋葬形式をとることで,地域的盟主の位置を確保するという政治的手段と考える必要がある。しかし大部分の甕棺に埋葬される人々は,刻目突帯文土器以来の土器棺葬の伝統上で,大形甕棺葬を極端に展開させたと考えるほうがこの地域の特質を正しく認識することになるだろう。
 今後,型式学的な検討が地域毎に進めば地域間の大形棺の移動が明らかとなってくる。例えば立岩遺跡の10号甕棺は二日市地域の道場山型とされ,富の原遺跡にも北部九州的な大形棺が持ち込まれているという。また,熊本における北部九州系大形棺と在地甕棺の関係,黒髪式土器との関係,島原や薩摩における熊本系中形棺の存在など検討すべき課題は多い。本稿で行った基礎作業がこれらの一助となれば,目的は達せられたことになる。多くの方々のご叱正をいただければ幸いである。

図8地域毎の時期別規模




表4 地域毎の時期別基数
地域大形棺計時期不明補正大形棺計甕棺総基数
西北九州277112387475158
唐津215848152144142215331
糸島6530191031276130215
早良1159571091461,0647081,586
福岡・春日36143272724068788451,769
粕屋01261331324777
嘉穂02313036210141293
二日市35830580131106184241
朝倉260152523269538538900
小郡・鳥栖291118615123791,9641,3612,522
神埼191551443303512,5481,6252,951
佐賀38923716174230289454
小城4235014384206464
多久037932013240152233
武雄323401201215
大村017701501530
島原5155016403665
熊本29827006484106175
筑後南部950832494166177297
久留米1203824654688157
日田000336161419
鹿児島003003033
合計3347181,145393632,6538,5686,96712,955
(注)1 ⅠからⅤは,大形棺の時期別基数(個体数ではない)。
2 「大形棺計」は,ⅠからⅤ期の大形棺の総基数(Ⅰ+Ⅱ+Ⅲ+Ⅳ+Ⅴ)。
3 「時期不明」は,所属時期が不明な甕棺墓の基数。大形棺,小形棺を含む。
4 「補正大形棺計」は,時期不明の甕棺墓を構成する大形棺と小形棺の比率を1:1と推定して算出した大形棺と,所属時期が明らかな大形棺の基数とを合わせた大形棺の補正した総基数(大形棺計+時期不明/2)。
5 「甕棺総基数」は,時期不明も合わせた大形棺と小形棺の総基数(補正大形棺+小形棺)。
(この表には所属時期が明らかな小形棺の基数は提示していない。)



謝  辞

 小稿は1981年に『末盧国』を製作する際,甕棺が100基以上出土している遺跡のリストを用意したことが基礎となっている。その後,横山浩一先生から甕棺の分布についてまとめるよう教唆された。1987年に西日本における弥生時代遣跡のデータベースを作成する機会があり,当時九州大学の学生だった川上洋一,塩見充子,重藤輝行,渋谷 格,高久健二,中村真由美氏の協力を得て資料化した遣跡情報カードに負うところが多い。
 今回,まとめるにあたっては,草場啓一氏(筑紫野市教育委員会),速水信也氏(小郡市教育委員会),森田孝志氏(佐賀県教育委員会),久保伸洋氏(東脊振村教育委員会)から多くの御教示をいただいた。そして指導と激励をいただいた春成秀爾氏に感謝したい。記して深謝する。
 (本研究は,昭和62年度文部省科学研究費補助金奨励研究A「西日本における水稲耕作受容期の研究」の成果の一部である。)

(1988.10.31 稿了)







(1) 器高が1mを超えるような大形品であるため,女性による日常的土器製作とは考えにくいということが一つと,ある地域に特徴的な甕棺が別の地域に持ち込まれている事実からみて,商品的性格を備えている。この様な事実関係を考慮すれば社会から特殊な職能集団として認められた専門工人の存在が浮かび上がってくるのである。
(2) 直立・倒置の埋置形態,覆口の多さを指摘している。
(3) 西は,外来系として福岡と記述しているが,具体的にどの地域を指すのか明示していない。
(4) 柳田康雄の金海式中期初頭説〔柳田 1985〕など,若干の見解の差があることも事実である。
(5) もっとも森が甕棺編年を発表した1968年当時は,土器が社会を規制すると考えていたこともあって社会の発展段階を考慮にいれた相対区分であったわけだが,資料数の増加にともない,社会が土器を規制するという考えが普及してくるようになって,この傾向は顕著になったといえよう。
(6) 各氏編年と森編年との併行関係は,それぞれの研究者の意見に従っている。本稿編年と森編年との対応について,ここではふれておく。表1をみればわかるように汲田・立岩・桜馬場・日佐原式について操作している。
 まず,汲田・桜馬場・日佐原式は,森編年以降の調査で存在が明らかにされた型式を包括して設定した。現在まで提出されてきた編年が,森編年の延長線上にある以上,森編年の型式を軸に時期区分をおこなった方が,報告されている甕棺の時期を設定するにあたって最も有効で正確と考えたからである。立岩式に関しては,二つに細分して橋口のKⅢb・KⅢcにあわせることで,後述するような甕棺墓の分布動態との対応を計るためである。本来ならこれらの操作は,型式学的な検討のうえで加えるべきだがまた改めて論じたいと考えている。型式名を増やせば対応も難しくなり煩雑さも増すことを考慮して幅をもたせておくことの利点を優先させた結果である。
(7) 刻目突帯文土器の埋葬専用の壺についてはすでに長胴壺との名称を与えており〔藤尾 1984〕,金海式へといたる型式組列については別稿を用意している(『横山浩一先生退官記念論文集』仮称)。
(8) 相対区分は採用しないといったものの,便宜的に補足しておく。
 刻目突帯文土器=早期
 板付Ⅰ式=前期初頭
(9) 板付遺跡周辺では,那珂沼口遺跡で伯玄社式が2基確認されているだけで早良も含めて墓地に関しては貧弱な内容となっている。これは調査が進めば例がふえるのか,埋葬形式の差なのか断定できないが,後者の可能性が高いと考えている。
(10) 前期末から中期後葉の時期に属する甕棺墓に埋葬された成人と小児の比率を算出した中間研志の研究によれば,時期によってバラツキがあることが判っている。ほぼ4:6から8:2の間を推移しているが,概して成人の比率がやや高いことが判る。ここでは,成人と小児が大形棺と小形棺にそれぞれ埋葬されたと仮定し,さらに成人と小児の比率を1:1と最小限に見積り,吉武,隈・西小田,吉野ヶ里などを含めた大形棺の基数を地域毎に算出してみたものである。






参考文献




井上裕弘「甕棺製作技術と工人集団」(『論集日本原始』,吉川弘文館,東京,1985)。
井上裕弘「甕棺製作技術と工人集団把握への試論」(『山陽新幹線関係埋蔵文化財調査報告』9,福岡県教育委員会,1978)。
大神邦博「福岡県糸島地方の弥生後期甕棺」(『古代学研究』53,1968)。
岡崎 敬「日本考古学の方法」(『古代の日本』9,角川書店,東京,1971)。
岡崎 敬「鏡とその年代」(『立岩遺蹟』,河出書房新社,東京,1977)。
折尾 学『金隈遺跡第2次調査概報』(福岡市埋蔵文化財調査報告書17,1971)。
小田富士雄「初期筑紫王権形成史論-中国史書にみえる北部九州の国々-」(『東アジアの考古と歴史』中,岡崎敬先生退官記念論集,同朋舎出版,京都,1987)。
河口貞徳「入来支石墓調査概要」(『東アジアより見た日本古代墓制研究』,1976)。
佐々木隆彦「栗山遺跡出土甕棺の編年的位置」(『栗山遺跡』,甘木市文化財調査報告12,1982)。
七田忠昭「二塚山出土甕棺とその編年」(『二塚山』,佐賀県文化財調査報告書46,1979)。
高倉洋彰「墳墓からみた弥生時代社会の発展過程」(『考古学研究』78,1973)。
高倉洋彰「大形甕棺の編年について-とくに型式設定の手続きの問題に関して-」(『九州歴史資料館研究論集』4,1978)。
高島忠平「甕棺の編年」(『立岩遺蹟』,河出書房新社,東京,1977)。
土肥直美
・田中良之
「古墳時代の抜歯風習」(『日本民族・文化の生成』,六興出版,東京,1988)。
中島直幸「甕棺墓について」(『柏崎小長崎遺跡』,唐津市埋蔵文化財調査報告6,1983)。
中間研志「結語」(『山陽新幹線関係埋蔵文化財調査報告』6,福岡県教育委員会,1978)。
中間研志「甕棺墓について」(『九州縦貫自動車関係埋蔵文化財調査報告』24下巻,福岡県教育委員会,1978)。
西健一郎「熊本県における弥生中期甕棺編年の予察」(『森貞次郎博士古稀記念古文化論集』,福岡,1982)。
萩原裕房「安国寺遣跡の甕棺について」(『東部土地区画整理事業関係埋蔵文化財調査報告書』2,久留米市文化財調査報告書36,1983)。
橋口達也「弥生時代の遺物 A 甕棺」(『九州縦貫自動車関係埋蔵文化財調査報告』25,福岡県教育委員会,1978)。
橋口達也「甕棺の編年的研究」(『九州縦貫自動車関係埋蔵文化財調査報告』31,福岡県教育委員会,1979)。
橋口達也「甘木・朝倉地方甕棺についての若干の所見」(『栗山遺跡』,甘木市文化財調査報告12,1982a)。
橋口達也「甕棺のタタキ痕」(『森貞次郎博士古稀記念古文化論集』,福岡,1982b)。
橋口達也「南筑後における甕棺の編年」(『権現塚北遺跡』-福岡県山門郡瀬高町坂田所在遺跡群の調査-,瀬高町文化財調査報告書3,1985)。
速水信也「総括」(『横隈狐塚遺跡Ⅱ』,小郡市文化財調査報告書27,1985)。
春成秀爾「弥生時代九州の居住規定」(『国立歴史民俗博物館研究報告』3,1984)。
平島勇夫「甕棺について」(『羽山台遺跡』-福岡県大牟田市大字草木所在羽山台D・E・F地点の調査-,大牟田市文化財調査報告書16,1982)。
藤田 等「甕棺墓」(『弥生文化の研究』8-祭と墓と装い-,雄山閣,東京,1987)。
森貞次郎「弥生時代における細形銅剣の流入について-細形銅剣の編年的考察-」(『日本民族と南方文化』,平凡社,東京,1968)。
森田孝志「総括」(『金立開拓遺跡』,九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査報告書4,佐賀県文化財調査報告書77,1984)。
柳田康雄「甘木市・朝倉郡を中心とした甕棺の一考察」(『埋もれていた朝倉文化』,1973)。
柳田康雄「伊都国の考古学-対外交渉のはじまり-」(『太宰府古文化論叢』上巻,吉川弘文館,東京,1983)。


〔補記〕
 脱稿後,佐賀県吉野ヶ里遺跡が話題となり,1989年3月現在で甕棺総数は2,000基を超えたという。筆者が調べた時点に比べ500基程増えている。このうち大形棺が半分の250基と見積れば大形棺の総数でも福岡・春日地域と肩を並べるまでになり,神埼地域への集中度が高いことに改めて認識させられた。開発の度合を考えれば脊振南麓ではますます数の増加が予想されるため,この傾向はさらに強まっていくだろう。






甕棺墓地名表(1988年8月現在)




 本地名表は,九州の大形棺を対象としている。したがって,日常土器を転用した土器棺は含めていない。ただし大形甕棺墓が分布する地域に所在する土器棺は含めている。分布図上における大形甕棺と土器棺の区別は黒塗りと白ヌキの記号で表現している。
 「甕棺」が出土したと報告されていても,所属時期,基数,大形棺かの区別がすべて不明なものは省略している。
 基数の記入は,各型式毎におこなっているが,Ⅱ期以降は各型式毎の「大形棺」の数を左側に,「小児棺および不明」の数を右側にそれぞれ記入している。単棺,複棺にかかわらず大形棺1基として算出している。個体数ではない。
 報告書のなかには,甕棺墓の存続幅のみ記している場合も多い。これらについては存続幅を矢印で表現した。そして存続幅が本稿の甕棺大別期の幅内におさまる場合は,該当する大別期のところに大形棺の基数を,小形棺及び不明棺は時期不明の項に基数を記入している。また,幾かの大別期にまたがる場合は時期不明の項に記入している。

(藤尾)



凡 例
遺跡番号 分布図の番号と一致する。
 同じ遺跡で地点を異にしたり,調査年度を異にするものには原則として同じ番号をつけけている。
遺跡名 遺跡名の後の数字は調査年(西暦)の下ふた桁である。
所在地 県,丁目,番地,小字は省略している。
Ⅰ~Ⅴ 各大別期毎の大形棺の総基数である。
大形棺計 全期間の大形棺の総基数である。
総計 大形棺計に小形棺および不明の基数を加えた全期間の総基数である。
調査年 甕棺の調査が開始された年,もしくは甕棺が発見された年である。
文献番号 文献目録の番号と一致する。
1 2 3 4 5
6 7 9 10 11
12 13 14 15 16
甕棺墓地名表 1~7・9~16




文献目録



1小田富士雄「五島列島の弥生文化」(『長崎大学人類学考古学研究報告』2,1970)。
2塚原 博編『神ノ崎遺跡』小値賀町文化財調査報告書4,1984。
3藤田和裕編『長崎県埋蔵文化財調査集報』Ⅲ,長崎県文化財調査報告書50,1980。
4分部哲秋「長崎県宇久松原遺跡出土の弥生時代幼小児骨」(『長崎県埋蔵文化財調査集報』Ⅵ,長崎県文化財調査報告書66,1983。
5宮崎貴夫編『長崎県埋蔵文化財調査集報』Ⅵ,長崎県文化財調査報告書66,1983。
6萩原博文編『津吉遺跡群発掘調査報告書』平戸市教育委員会,1986。
7久村貞男編『宮の本遺跡』佐世保市埋蔵文化財調査報告書 昭和55年度,1980。
8大野台遺跡調査団「大野台遺跡」(『古文化談叢』1,1974)。
9樋口隆康「平戸の先史文化」(『平戸学術調査報告』,1951)。
10藤田和裕編『原の辻遺跡』Ⅱ,長崎県文化財調査報告書31,1977。
11安楽 勉編『原の辻遺跡』Ⅲ,長崎県文化財調査報告書37,1978。
12船井向洋編『西尾遺跡A地点』伊万里市文化財調査報告書23,1988。
13森田孝志編『押川遺跡』佐賀県文化財調査報告書60,1981。
14松尾吉高編『波戸遺跡群』鎮西町文化財調査報告書1,1983。
15藤田等他編『大友遺跡』呼子町文化財調査報告書1,呼子町郷土史研究会,1981。
16佐賀県教委編『大友遺跡発掘調査概報』図録編,佐賀県文化財調査報告書22,1973。
17柴元静雄「呼子町大友遺跡発掘調査概報その2,その3」(『新郷土』1970.11,1971.1)。
18木下之治「図版解説佐賀県大友弥生遺跡」(『九州考古学』39・40,1970)。
19徳富則久他編『佐賀県農業基盤整備事業に係わる文化財調査報告書』3,佐賀県文化財調査報告書79,1985。
20杉原荘介「佐賀県桜馬場遺跡」(『日本農耕文化の生成』東京堂,東京,1961)。
21中島直幸他編『菜畑遺跡』唐津市文化財調査報告書5,1982。
22中島直幸編『巡見道遺跡』唐津市文化財調査報告書3,1982。
23橋口達也「中原遺跡」(『末盧国』六興出版,東京,1982)。
24田島龍太他編『中原遺跡』唐津市文化財調査報告書18,1987。
25中島直幸編『久里大牟田遺跡』唐津市文化財調査報告書1,1980。
26木下巧他編『柏崎遺跡群』佐賀県文化財調査報告書53,1980。
27渡辺正気「瀬戸口支石墓」(『末盧国』六興出版,東京,1982)。
28伊藤奎二・高倉洋彰「森田支石墓群」(『末盧国』六興出版,東京,1982)。
29岡崎 敬「山本遺跡」(『末盧国』六興出版,東京,1982)。
30森本六爾「肥前松浦潟地方における甕棺遺跡と其の伴出遺物」(『考古学』1-5・6,1930)。
31蒲原宏行編『伊岐佐中原遺跡群』相知町文化財調査報告書1,1986。
32藤田 等「宇木汲田遺跡」(『末盧国』六興出版,東京,1982)。
33中島直幸編『宇木汲田遺跡調査概要』唐津市文化財調査報告書21,1987。
34田崎博之「唐津市宇木汲田遺跡1984年度発掘調査概報」(『九州文化史研究所紀要』31,1986)。
35木下 巧編『萬麓・寺ノ下遺跡』佐賀県文化財調査報告書29,1974。
36松尾禎作「葉山尻支石墓調査概報」(『考古学雑誌』39-1,1953)。
37松尾禎作「葉山尻支石墓第二次調査概報」(『考古学雑誌』40-2,1954)。
38中島直幸編『柏崎小長崎遺跡』唐津市文化財調査報告書6,1983。
39中島直幸編『柏崎松本遺跡』唐津市文化財調査報告書2,1980。
40唐津湾周辺遺跡調査委員会編『末盧国』-佐賀県唐津市・東松浦郡の考古学的調査研究-,六興出版,東京,1982。
41渡辺正気「五反田支石墓」(『末盧国』六興出版,東京,1982)。
42島田寅次郎他編『福岡県史蹟名勝天然記念物調査報告書』1,福岡県,1925。
43佐々木隆彦編『竹戸遺跡』二丈町文化財調査報告1,1979。
44中間研志他編『二丈・浜玉道路関係埋蔵文化財調査報告』福岡県教育委員会,1980。
45馬田弘稔編『二丈・浜玉道路関係埋蔵文化財調査報告』Ⅱ,福岡県教育委員会,1982。
46橋口達也編『新町遺跡』志摩町文化財調査報告書7,1987。
47橋口達也編『新町遺跡』Ⅱ,志摩町文化財調査報告書8,1988。
48井上裕弘編『御床松原遺跡』志摩町文化財調査報告書3,1983。
49橋口達也編『石崎曲り田遺跡』Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ,今宿バイパス関係埋蔵文化財調査報告8,9,10,福岡県教育委員会,1984,1985。
50川村 博編『伏龍遺跡』前原町文化財調査報告書5,1981。
51石井扶美子編『篠原新建遺跡』Ⅲ,前原町文化財調査報告書17,1984。
52鏡山猛他編『志登支石墓群』埋蔵文化財発掘調査報告4,文化財保護委員会,1956。
53川村 博編『井原遺跡群』前原町文化財調査報告書8,1982。
54岡部裕俊編『井原遺跡群』前原町文化財調査報告書25,1987。
55中山平次郎「大甕を発見せる古代遺跡(一)」(『考古学雑誌』11-1,1921)。
56柳田康雄編『三雲遺蹟-南小路地区編-』福岡県文化財調査報告書69,1985。
57小池史哲編『三雲遺蹟』Ⅳ,福岡県文化財調査報告書65,1983。
58柳田康雄編『三雲遺蹟』Ⅰ,福岡県文化財調査報告書58,1980。
59柳田康雄編『三雲遺蹟』Ⅱ,福岡県文化財調査報告書60,1981。
60柳田康雄編『今宿バイパス関係埋蔵文化財調査報告』2,福岡県教育委員会,1971。
61折尾 学編『今山・今宿遺跡』福岡市埋蔵文化財調査報告書75,1981。
62福岡市立歴史資料館編『福岡平野の歴史』-緊急発掘された遺跡と遺物-,福岡市立歴史資料館,1977。
63佐藤一郎編『青木遺跡』福岡市埋蔵文化財調査報告書169,1987。
64柳田純孝編『野方中原遺跡調査概報』福岡市埋蔵文化財調査報告書30,1974。
65小林義彦編『羽根戸遺跡』福岡市埋蔵文化財調査報告書134,1986。
66常松幹夫他編『吉武高木遺跡-弥生時代埋葬遺跡の調査概要-』福岡市埋蔵文化財調査報告書143,1986。
67下村 智「弥生中期の「墳丘墓」を掘る-吉武樋渡遺跡の調査-」(『特別展図録 早良国王墓とその時代-墳墓が語る激動の弥生社会-』福岡市立歴史資料館図録11,1986)。
68加藤良彦「弥生「戦士」の墓を掘る-吉武大石遺跡の調査-」(『特別展図録 早良国王墓とその時代-墳墓が語る激動の弥生社会-』福岡市立歴史資料館図録11,1986)。
69二宮忠司他編『四箇周辺遺跡調査報告書』4,福岡市埋蔵文化財調査報告書63,1980。
70池崎譲二他編『西新町遺跡』福岡市高速鉄道関係埋蔵文化財調査報告Ⅱ,福岡市埋蔵文化財調査報告書79,1982。
71福岡市教委編『埋蔵文化財遺跡地名表』福岡市埋蔵文化財調査報告書12,1971。
72森貞次郎「有田甕棺遺跡の甕棺と銅戈」(『有田遺跡』福岡市埋蔵文化財調査報告書2,1968)。
73井沢洋一他編『福岡市有田・小田部』4,福岡市埋蔵文化財調査報告書96,1983。
74井沢洋一他編『福岡市有田・小田部』5,福岡市埋蔵文化財調査報告書110,1984。
75井沢洋一他編『福岡市有田・小田部』7,福岡市埋蔵文化財調査報告書139,1986。
76井沢洋一編『福岡市有田・小田部』8,福岡市埋蔵文化財調査報告書155,1987。
77井沢洋一他編『福岡市有田・小田部』6,福岡市埋蔵文化財調査報告書113,1985。
78山崎純男編『下山門遺跡-付姪浜新町遺跡調査報告書-』福岡市埋蔵文化財調査報告書23,1973。
79中山平次郎「古支那鏡鑑沿革(二)」(『考古学雑誌』9-3,1918)。
80井沢洋一他編『藤崎遺跡Ⅳ-第8・10・11次発掘調査報告-』福岡市埋蔵文化財調査報告書138,1986。
81浜石哲也編『高速鉄道関係埋蔵文化財調査報告Ⅰ-藤崎遺跡-』福岡市埋蔵文化財調査報告書62,1981。
82浜石哲也編『福岡市西区藤崎遺跡』福岡市埋蔵文化財調査報告書80,1982。
83井沢洋一他編『福岡市早良区藤崎遺跡Ⅲ-第7・9次発掘調査報告-』福岡市埋蔵文化財調査報告書137,1986。
84塩屋勝利他編『福岡市城南区浄泉寺遺跡-遺構編-』福岡市埋蔵文化財調査報告書99,1983。
85山崎純男「福岡市カルメル修道院内遺跡調査報告」(『京ノ隈遺跡』段谷地所開発株式会社,1976)。
86高倉洋彰編『宝台遺跡』日本住宅公団,1970。
87中原志外顕他「丸尾台遺跡報告」(『宝台遺跡』日本住宅公団,1970)。
88井上裕弘編『山陽新幹線関係埋蔵文化財調査報告』9,福岡県教育委員会,1977。
89佐々木隆彦編『山陽新幹線関係埋蔵文化財調査報告』6,福岡県教育委員会,1978。
90井上裕弘編『山陽新幹線関係埋蔵文化財調査報告』3,福岡県教育委員会,1977。
91木下 修編『山陽新幹線関係埋蔵文化財調査報告』10,福岡県教育委員会,1979。
92佐々木隆彦編『安徳・道善・片縄地区区画整理事業地内埋蔵文化調査概報』那珂川町文化財調査報告書3,1979。
93沢田康夫他編『松木遺跡』Ⅰ,那珂川町文化財調査報告書11,1984。
94宮小路賀宏編『一の谷遺跡』春日町文化財調査報告書2,1969。
95佐土原逸男編『大谷遺跡』春日市文化財調査報告書5,1981。
96馬渡圭子編『西平塚遺跡・ナライ遺跡』春日市文化財調査報告書10,1981。
97秀嶋龍男編『西平塚遺跡C地区』春日市文化財調査報告書9,1981。
98松岡 史編『福岡県伯玄社遺跡調査概報』福岡県文化財調査報告書36,1968。
99丸山康晴編『赤井手遺跡』春日市文化財調査報告書6,1980。
100鏡山 猛編『福岡県須玖・岡本遺跡調査概報』福岡県文化財調査報告書29,1963。
101中山平次郎「銅鉾銅剣発見地の遺物追加」(『考古学雑誌』8-10,1919)。
102島田貞彦『筑前須玖史前遺跡の研究』京都帝国大学文学部考古学研究報告第十一冊,1930。
103佐々木隆彦編『須玖・岡本遺跡』福岡県文化財調査報告書55,1980。
104丸山康晴編『須玖・岡本遺跡』春日市文化財調査報告書7,1980。
105網干善教他編『日本考古学年報』37,日本考古学協会,東京,1986。
106井上裕弘編『高辻遺跡発掘調査概要』春日市文化財調査報告書3,1973。
107中山平次郎「銅剣銅鉾の新資料」(『考古学雑誌』7-7,1917)。
108後藤 直他編『板付』福岡市埋蔵文化財調査報告書35,1976。
109山口譲治編『板付周辺遺跡調査報告書』3,福岡市埋蔵文化財調査報告書36,1976。
110柳沢一男編『板付周辺遺跡調査報告書』7,福岡市埋蔵文化財調査報告書65,1981。
111横山邦継編『板付周辺遺跡調査報告書』1,福岡市埋蔵文化財調査報告書29,1974。
112横山邦継他編『板付周辺遺跡調査報告書』2,福岡市埋蔵文化財調査報告書31,1975。
113柳沢一男編『板付周辺遺跡調査報告書』9,福岡市埋蔵文化財調査報告書98,1983。
114力武卓治他編『那珂深オサ遺跡』Ⅱ,福岡市埋蔵文化財調査報告書82,1982。
115田中寿夫他編『福岡市公民館建設関係埋蔵文化財調査報告』福岡市埋蔵文化財調査報告書162,1987。
116横山邦継編『福岡市博多区比恵遺跡-第6次調査・遺構編-』福岡市埋蔵文化財調査報告書94,1983。
117吉岡完祐他編『瑞穂-福岡市比恵台地遺跡-』日本住宅公団,1980。
118柳沢一男編『比恵遺跡第8次調査概要』福岡市埋蔵文化財調査報告書116,1985。
119池崎譲二他編『高速鉄道関係埋蔵文化財調査報告Ⅳ-博多-』高速鉄道関係調査(1) 福岡市埋蔵文化財調査報告書105,1984。
120池崎譲二他編『博多Ⅳ』福岡市埋蔵文化財調査報告書119,1985。
121池崎譲二他編『博多・高速鉄道関係埋蔵文化財調査報告Ⅴ』高速鉄道関係調査(2) 福岡市埋蔵文化財調査報告書126,1986。
122柳沢一男他編『博多Ⅲ』福岡市埋蔵文化財調査報告書118,1985。
123山崎義治他編『福岡市博多区大字下月隈宝満尾遺跡』福岡市埋蔵文化財調査報告書26,1974。
124力武卓治他編『福岡市博多区席田遺跡群・中尾遺跡』福岡市埋蔵文化財調査報告書109,1984。
125飛高憲雄編『下月隈宮ノ後遺跡』福岡市埋蔵文化財調査報告書61,1980。
126折尾 学編『史跡金隈遺跡-発掘調査及び遺跡整備報告書-』福岡市埋蔵文化財調査報告書123,1985。
127舟山良一編『牛頚地区遺跡群』Ⅰ,大野城市文化財調査報告書16,1985。
128浜田信也編『中・寺尾遺跡』大野町の文化財3,1971。
129川述昭人編『中・寺尾遺跡』大野城市文化財調査報告書1,1977。
130山本信夫「付編 陣の尾遺跡第2次調査報告」(『太宰府条坊跡』太宰府町の文化財5,1982)。
131平ノ内幸治編『ウソフキ遺跡』宇美町文化財調査報告書5,1986。
132上野精志編『七夕池遺跡群発掘調査概報』志免町文化財調査報告書1,1974。
133石山 勲編『九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告』30,福岡県教育委員会,1979。
134力武卓治編『蒲田遺跡』福岡市埋蔵文化財調査報告書33,1975。
135古谷 清「鹿部と須玖」(『考古学雑誌』2-3,1911)。
136九大考古学研究室編『鹿部山遺跡』日本住宅公団,1973。
137石山 勲編『九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告』21,福岡県教育委員会,1978。
138橋口達也編『スダレ遺跡』穂波町文化財調査報告書1,1976。
139岡崎 敬編『立岩遺蹟』河出書房新社,東京,1977。
140中山平次郎「飯塚市立岩運動場発見の甕棺内遺物」(『福岡県史蹟名勝天然記念物調査報告書』9,福岡県,1934)。
141児嶋隆人編『嘉穂地方史』先史編,福岡,1973。
142浜田信也編『八木山バイパス関係埋蔵文化財調査報告』福岡県教育委員会,1983。
143酒井仁夫編『日上遺跡』福岡県文化財調査報告書48,1971。
144長谷川清之編『土師地区遺跡群(Ⅳ)』桂川町文化財調査報告書7,1985。
145長谷川清之編『土師地区遺跡群(Ⅱ)』『同(Ⅳ)』桂川町文化財調査報告書2,4,1983,1985。
146長谷川清之編『影塚東遺跡』-弥生時代編-,桂川町文化財調査報告書5,1985。
147長谷川清之編「十三塚遺跡の調査」(『土師地区遺跡群』桂川町文化財調査報告書1,1982)。
148長谷川清之編「影塚南遺跡の調査」(『影塚南遺跡(3地点)・影塚東遺跡(古墳時代編)』桂川町文化財調査報告書6,1986)。
149福島日出海編『嘉穂地区遺跡群』Ⅳ,嘉穂町文化財調査報告書7,1987。
150中間研志編『九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告』24,福岡県教育委員会,1978。
151石山 勲他編『九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告』4,福岡県教育委員会,1974。
152橋口達也編『九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告』25,福岡県教育委員会,1978。
153酒井仁夫他編『九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告』7,福岡県教育委員会,1976。
154川述昭人編『九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告』6,福岡県教育委員会,1975。
155浜田信也編『福岡南バイパス関係埋蔵文化財調査報告』5,福岡県教育委員会,1977。
156山野洋一編『修理田遺跡』筑紫野市文化財調査報告書5,1980。
157奥村俊久編『通り浦遺跡・剣塚遺跡』筑紫野市文化財調査報告書10,1984。
158奥村俊久編『山家地区遺跡』筑紫野市文化財調査報告書19,1987。
159高山 純編『埋もれていた朝倉文化』朝倉高校,福岡,1969。
160川述昭人編『吹田古墳群』夜須町文化財調査報告書5,1981。
161佐土原逸男他編『東小田遺跡群』県道久留米・筑紫野線関係埋蔵文化財調査報告2,福岡県文化財調査報告書70,1985。
162橘 昌信編『城山遺跡群発掘調査報告書』別府大学考古学研究室,1973。
163佐藤正義編『夜須地区遺跡群』Ⅰ,夜須町文化財調査報告書6,1984。
164佐藤正義編『夜須地区遺跡群』Ⅱ,夜須町文化財調査報告書7,1985。
165馬田弘稔編『栗田遺跡』三輪町文化財調査報告書1,1974。
166馬田弘稔編『栗田遺跡(B地区)』三輪町文化財調査報告書5,1986。
167小田和利編『鬼の枕古墳』甘木市文化財調査報告書19,1987。
168柳田康雄「弥生時代の甘木」『甘木市史』,1984。
169王城一枝編『日本考古学年報』38,日本考古学協会,東京,1987。
170小田和利編『小隈出口遺跡・小隈松山遺跡』甘木市文化財調査報告書18,1987。
171高山 明編『小田集落遺跡』甘木市文化財調査報告書2,1974。
172中山平次郎「筑前国朝倉郡福田村平塚字栗山新発見の甕棺内遺物」(『考古学雑誌』15-4,1925)。
173佐々木隆彦編『栗山遺跡』甘木市文化財調査報告書12,1982。
174赤川正秀「高樋・小坂遺跡の調査」(『辻遺跡』大刀洗町文化財調査報告書1,1987)。
175馬田弘稔編『上川原遺跡』甘木市文化財調査報告書13,1982。
176片岡宏二編『干潟遺跡』小郡市文化財調査報告書16,1983。
177速水信也編『干潟下屋敷遺跡』小郡市文化財調査報告書37,1987。
178速水信也編『井上北内原遺跡』小郡市文化財調査報告書20,1984。
179浜田信也編『永岡遺跡』筑紫野市文化財調査報告書6,1981。
180別府大学文学部編『福岡県筑紫郡筑紫野町常松遺跡調査報告書』別府大学考古学研究報告書1,1970。
181山野洋一編『矢倉遺跡』筑紫野市文化財調査報告書8,1982。
182柳田康雄編『国道200号線バイパス関係埋蔵文化財調査概報』福岡県文化財調査報告書67,1984。
183西谷 正編『津古内畑遺跡』小郡町教育委員会,1970。
184柳田康雄編『津古内畑遺跡第3次』福岡県教育委員会,1972。
185柳田康雄編『津古内畑遺跡第4次』小郡町教育委員会,1973。
186片岡宏二編『三国の鼻遺跡』Ⅱ,小郡市文化財調査報告書31,1986。
187速水信也編『横隈狐塚遺跡』Ⅱ,小郡市文化財調査報告書27,1985。
188浜田信也編『横隈山遺跡』小郡市教育委員会,1974。
189橋口達也編『九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告』31中巻,福岡県教育委員会,1979。
190片岡宏二編『大板井遺跡』Ⅰ,小郡市文化財調査報告書11,1981。
191工楽善通編『福岡県三井郡小郡遺跡』福岡県文化財調査報告書39,1968。
192片岡宏二編『津古・東宮原遺跡』小郡市文化財調査報告書18,1983。
193酒井仁夫編『九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告』5,福岡県教育委員会,1974。
194福岡県教委編『三沢蓬ヶ浦遺跡』福岡県文化財調査報告書66,1984。
195山本信夫「位置と環境-栗原遺跡・古墳群-」(『向築地遺跡』小郡市文化財調査報告書5,1979)。
196山本信夫「位置と環境-西島遺跡-」(『向築地遺跡』小郡市文化財調査報告書5,1979)。
197藤瀬禎博編『安永田遺跡』鳥栖市文化財調査報告書25,1985。
198藤瀬禎博編『梅坂炭化米遺跡』鳥栖市文化財調査報告書10,1982。
199藤瀬禎博編『大久保遺跡』鳥栖市文化財調査報告書3,1978。
200石橋新次編『柚比遺跡群範囲確認調査第4年次概要報告書』鳥栖市文化財調査報告書12,1982。
201木下 巧編『田代天満宮東方遺跡』佐賀県文化財調査報告書24,1973。
202堤 圭子編『九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査概報』8,1985。
203友貞菜穂子編『九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査概報』7,1984。
204石橋新次編『柚比遺跡群範囲確認調査第3年次概要報告書』鳥栖市文化財調査報告書7,1980。
205山田 正編『安永田遺跡本調査第1年次概要報告書』鳥栖市文化財調査報告書13,1982。
206石橋新次編『安永田遺跡』鳥栖市文化財調査報告書16,1983。
207山田 正編『安永田遺跡本調査第2年次概要報告書』鳥栖市文化財調査報告書15,1982。
208藤瀬禎博編『村田・三本松遺跡』鳥栖市文化財調査報告書17,1983。
209杠 一義編『香田遺跡』九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査報告書2,佐賀県文化財調査報告書57,1981。
210木下之治編『姫方遺跡』佐賀県文化財調査報告書30,1974。
211田平徳栄他編『姫方原遺跡』-B,C地点発掘調査報告書-,中原町文化財調査報告書3,1979。
212松尾禎作「佐賀県考古大観」-先史・原始時代編-,佐賀,1957。
213東中川忠美編『宝満谷遺跡』北茂安町教育委員会,1980。
214徳富則久他編『佐賀県農業基盤整備事業に係わる文化財調査報告書』5,佐賀県文化財調査報告書85,1987。
215七田忠昭編『二塚山』佐賀県文化財調査報告書46,1978。
216七田忠昭編『船石遺跡』上峰村文化財調査報告書,1983。
217蒲原宏行編『九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査概報』3,佐賀県教育委員会,1983。
218蒲原京子編『九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査概報』6,佐賀県教育委員会,1986。
219堤 安信編『九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査概報』4,佐賀県教育委員会,1981。
220木下之治「考古学[弥生時代]-神埼郡東脊振村横田遺跡」(『新郷土』20-1,1967)。
221金関丈夫他「三津永田遺跡」(『日本農耕文化の生成』東京堂,東京,1961)。
222森田孝志編『佐賀県農業基盤整備事業に係わる文化財調査報告書』1,佐賀県文化財調査報告書69,1983。
223久保伸洋編『西前田B遺跡』東脊振村文化財調査報告書6,1982。
224木下之治「埋蔵文化財の発掘発見の覚書」(『郷土研究』10,1960)。
225金関丈夫「佐賀県切通遺跡」(『日本農耕文化の生成』東京堂,東京,1961)。
226森田孝志編『佐賀県農業基盤整備事業に係わる文化財調査報告書』2,佐賀県文化財調査報告書74,1984。
227八尋 実編『馬郡遺跡』神埼町文化財調査報告書7,1981。
228七田忠昭編『下中杖遺跡』佐賀県文化財調査報告書54,1980。
229堤 安信編『柴尾遺跡』Ⅱ,千代田町文化財調査報告書8,1988。
230岩永政博編『利田柳遺跡Ⅲ区』神埼町文化財調査報告書,1980。
231森田孝志編『筑後川下流用水事業に係わる文化財調査報告書』1,佐賀県文化財調査報告書80,1985。
232天本洋一編『尾崎利田遺跡』佐賀県文化財調査報告書55,1980。
233河原忠司編『四本黒木遺跡発掘調査報告書』佐賀県教育委員会,1977。
234八尋 実編『四本黒木遺跡』神埼町文化財調査報告書6,1980。
235東中川忠美編『久保泉丸山遺跡』九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査報告書5,佐賀県文化財調査報告書84,1987。
236木下 巧編『金立開拓遺跡』佐賀市文化財調査報告書10,1974。
237高瀬哲郎他編『大門西遺跡』九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査報告書1,佐賀県文化財調査報告書51,1980。
238『全国遺跡地図』-佐賀県-,文化庁,東京,1988。
239蒲原宏行他編『金立開拓遺跡』九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査報告書4,佐賀県文化財調査報告書77,1984。
240福田義彦編『黒土原遺跡』佐賀市文化財調査報告書19,1987。
241木下之治編『大門遺跡』佐賀市文化財調査報告書9,1973。
242福田義彦編『東千布遺跡』佐賀市文化財調査報告書15,1985。
243西田和己編『九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査概報』5,佐賀県教育委員会,1983。
244大和町教委編『惣座遺跡』大和町文化財調査報告書3,1986。
245木島慎治編『九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査概報』10,佐賀県教育委員会,1988。
246多々良友博編『久留間カミ塚B地点』佐賀県文化財調査報告書64,1982。
247高島忠平「三日月町佐織の縄文土器」(『新郷土』31,1975)。
248三日月町教委編『袴田遺跡』三日月町文化財調査報告書1,1980。
249木下 巧編『戊遺跡』佐賀県文化財調査報告書36,1976。
250木下 巧「佐賀県下で注目された発掘調査の概報」(『日本考古学年報』37,誠文堂新光社,東京,1986)。
251三日月町教委編『本告遺跡』三日月町文化財調査報告書2,1981。
252『久米遺跡群』佐賀県文化財調査報告書42,1978。
253木下 巧「原始」(『小城町史』,1974)。
254西村隆司編『東多久バイパス関係埋蔵文化財調査報告書』佐賀県文化財調査報告書76,1984。
255木下之治編『牟田辺遺跡』多久市教育委員会,1975。
256天本洋一『牟田辺遺跡』第Ⅱ次,多久市文化財調査報告書2,1977。
257西村隆司『牟田辺遺跡』多久市文化財調査報告書3,1978。
258西村隆司編『撰分遺跡』九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査報告書7,佐賀県文化財調査報告書87,1987。
259黒野 肇他「附 附帯調査-神籠石内外の諸遺跡」(『おつぼ山神籠石』,武雄市,1965)。
260大園 弘編『椛島山遺跡調査報告書』佐賀県立博物館調査報告書3,1977。
261原田保則編『小野原遺跡』武雄市文化財調査報告書17,1987。
262原田保則編『茂手遺跡』武雄市文化財調査報告書15,1986。
263原田保則編『郷ノ木遺跡B地点』武雄市文化財調査報告書14,1984。
264稲富裕和編『富の原』大村市文化財調査報告書12,1987。
265田川 肇編『長崎県埋蔵文化財調査集報』Ⅷ,長崎県文化財調査報告書75,1985。
266正林 護「諫早市出土の銅剣」(『九州考古学』41~44,1971)。
267田川 肇「小栗B遺跡」(『長崎県埋蔵文化財調査集報』Ⅷ,長崎県文化財調査報告書75,1985)。
268秀島康秀編『林ノ辻遺跡』諫早市文化財調査報告書4,1983。
269高野晋司編『西の角遺跡』長崎県文化財調査報告書73,1985。
270田川 肇編『長崎県埋蔵文化財調査集報』Ⅱ,長崎県文化財調査報告書45,1979。
271古田正隆編『大野原遺跡発掘調査概報』有明町埋蔵文化財調査報告書3,1985。
272古田正隆『大野原遺跡の一部地目変更に伴う研究調査報告』有明町埋蔵文化財調査報告5,1986。
273副島和明「一部遺跡」(『長崎県埋蔵文化財調査集報』Ⅹ,長崎県文化財調査報告書86,1987。)
274小田富士雄「島原半島景華園の遺物」(『考古学雑誌』45-3,1959)。
275森貞次郎「島原半島,原山遺跡」(『九州考古学』10,1960)。
276森貞次郎「原山遺跡」(『九州考古学』14,1962)。
277高野晋司「国指定史跡原山支石墓群環境整備事業報告書」北有馬町教育委員会,1981。
278宮崎貴夫編『今福遺跡』Ⅱ,長崎県文化財調査報告書77,1985。
279宮崎貴夫他編『今福遺跡』Ⅲ,長崎県文化財調査報告書84,1986。
280北條暉幸「宇土市松山町畑中遺跡出土の甕棺」(『宇土市史研究』2,1981)。
281松本健郎他編『上の原遺跡』Ⅰ,熊本県文化財調査報告58,1983。
282富樫卯三郎「宇土市発見の石蓋甕棺」(『九州考古学』20・21,1964)。
283緒方 勉編『沈目立山遺跡』熊本県文化財調査報告26,1977。
284緒方 勉他編『久保遺跡』熊本県文化財調査報告18,1975。
285熊本市文化財調査会編『熊本市東部地区文化財調査報告書』熊本市教育委員会,1971。
286緒方 勉編『神水遺跡』Ⅱ,熊本県文化財調査報告82,1986。
287富田紘一他『渡鹿遺跡群発掘調査-概報-』熊本市教育委員会,1974。
288大城康雄他編『昭和53年度下南部遺跡発掘調査報告書』熊本市教育委員会,1979。
289西健一郎「熊本県における弥生中期甕棺編年の予察」(『森貞次郎博士古希記念古文化論集』1982)。
290熊本市文化財調査会編『熊本市北部地区文化財調査報告書』熊本市教育委員会,1969。
291乙益重隆「中九州地方」(『弥生式土器集成』本編1,1965)。
292『牟田原遺跡調査報告』同調査団,1977。
293平岡勝昭他編『梅の木遺跡』熊本県文化財調査報告62,1983。
294瀬丸敬二他編『西矢護免遺跡調査概報』同調査団,1980。
295坂本経尭『藤尾支石墓群』旭志村教育委員会,1959。
296佐藤伸二他編『矢護川日向遺跡調査報告』同調査団,1980。
297『泗水町史』1965。
298『鹿本町史』1976。
299立山広吉「熊本県山鹿市塚ノ本遺跡調査報告」(『石人』8-2,1967)。
300高倉洋彰「弥生時代副葬遺物の性格」(『九州歴史資料館研究論集』2,1976)。
301橋口達也「磨製石剣嵌入人骨について」(『スダレ遺跡』1976)。
302隈 昭志「熊本県小原竜宮遺跡調査報告」(『九州考古学』28,1966)。
303『塔の本遺跡発掘調査』1972。
304橋口達也「甕棺の編年的研究」(『九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告』31中巻,福岡県教育委員会,1979)。
305杉村彰一他編『大園山・杉谷遺跡』荒尾市文化財調査報告3,1978。
306平島廣幸編『荒尾市の文化財』Ⅰ,荒尾市文化財調査報告6,1982。
307石田広美編『羽山台遺跡』大牟田市教育委員会,1975。
308平島勇夫『羽山台遺跡』大牟田市文化財調査報告書16,1982。
309黒田康夫「倉永弥生文化遺跡の研究」(『昭和59年度埋蔵文化財調査概要』大牟田市文化財調査報告書24,1984)。
310川述昭人「堤遺跡出土の甕棺墓」(『女山・山内古墳群』瀬高町文化財調査報告書2,1982)。
311田中康信他編『藤の尾垣添遺跡』瀬高町文化財調査報告書4,1988。
312川述昭人編『権現塚北遺跡』瀬高町文化財調査報告書3,1985。
313小田富士雄編『亀の甲遺跡』八女市教育委員会,1964。
314川述昭人編『曲松遺跡』立花町文化財調査報告書2,1985。
315副島邦弘編『室岡山ノ上遺跡』八女市文化財調査報告書8,1982。
316川述昭人編『前津中の玉遺跡』筑後市文化財調査報告書4,1987。
317富永直樹他編『東部土地区画整理事業関係埋蔵文化財調査報告書』2,久留米市文化財調査報告書36,1983。
318鏡山 猛「甕棺累考(一)その群団と共有体」(『史淵』53,1952)。
319水野清一・島田貞彦「北九州における甕棺調査」(『人類学雑誌』43-10,1928)。
320島田寅次郎「石器と土器,土墳と副葬品」(『福岡県史蹟名勝天然記念物調査報告書』13,1939)。
321久留米市教育委員会『石丸遺跡現地説明会パンフレット』1977。
322大石 昇編『西屋敷遺跡』久留米市文化財調査報告書35,1983。
323大石 昇編『西屋敷遺跡』Ⅱ,久留米市文化財調査報告書40,1984。
324第4回くるめの考古資料展パンフレット,久留米市教育委員会,1978。
325富永直樹編『筑後国府跡』久留米市文化財調査報告書51,1987。
326立石雅文他編『東部土地区画整理事業関係埋蔵文化財調査報告書』3,久留米市文化財調査報告書39,1984。
327石山 勲編『九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告』27,福岡県教育委員会,1979。
328富永直樹「安国寺の調査」(『東部土地区画整理事業関係埋蔵文化財調査概報』久留米市文化財調査報告書32,1982)。
329高橋徹他編『九州横断自動車道建設に伴う発掘調査概報』大分県教育委員会・日本住宅公団,1985。
330高橋徹他編『九州横断自動車道建設に伴う発掘調査概報』大分県教育委員会・日本道路公団,1986。
331村上久和他編『吹上遺跡』Ⅰ,日田市教育委員会,1980。
332後藤宗俊他編『吹上遺跡』Ⅱ,日田市教育委員会,1981。
333土居和幸編『日田地区遺跡群発掘調査概報』Ⅱ,日田市教育委員会,1987。
334弥栄久志「白寿遺跡」(『日本考古学年報』31,東京,1980)。
335河口貞徳「下小路遺跡」(『鹿児島考古』11,1976)。
336戸崎勝洋他編『阿多貝塚』金峰町埋蔵文化財調査報告書1,1978。

(本館 考古研究部)










Jar Burials in Kyushu


Fujio Shin'ichiro



  “Kamekan” or jar burial is a super large jar type earthenware developed particularly for burial in the northern part of Kyushu in the Yayoi period (4C.B.C.-3C.A.D.). Burial with ceramic coffins existed already in the Johmon period. Such coffins have been discovered all over Japan. But these coffins are in fact earthenwares used in daily life and sometimes diverted as coffins on the occasion of funeral service. While the jar burials were intended only for burial ceremony, and are widely different from the earthenware used in daily life, both quantitatively and in form. These burials are distributed concentratedly in a limited time in the Yayoi period, and this in the northern part of Kyushu.
  The jar burials first attracted archaeologist's attention when they found that Chinese and Korean imported bronze implememts had been used as burial rituals whose real dates had been made clear to a certain extent.
  Furthermore, the correspondence between chronological sequence of earthenware in the Yayoi period and absolute dates can be identified.
  As a consequence of the foregoing, the jar burials were considered, from olden times as useful subjects of study for restoring the society in the northern Kyushu to its original state.
  Since the jar burials are the earthenware which developed specifically in size and form, it has been infered the existence of specialized craftsmen who made them. At present they are roughly divided into 7 patterns by such surface finishing as brush-mark finishing and paddle marks or form and by difference in color tone deriving from existence or non-existence of fillers, and further each pattern has been associated with each small district having, as their unit, an open field in thd northern part of Kyushu. “Local types”have thus been established. Such local patterns once defined, with the existence of specialized craftsmen in their background, useful data can be furnished for clarifying the characters of the buried persons and the relationship between a region, producer of the jar burials and another where the persons were buried and whereinto the jars had been transported, if we investigate how they were buried in the cemetery with the jar burials transported from the producing region.
  This paper is intended to prepare a distribution map of jar burials, to be taken as a basic work to establish local types of jar burials which can be regarded as useful element to know what was the society in Kyushu in Yayoi period.
  We roughly divided into five the period during which the jar burials existed, by such factors as : manufacturing techniques, line, diffusion into regions other than northen Kyushu and period of decline, type of burial rituals and form of possession. We then put in order the distribution range by period and evolutive quantitative change of the jar burials.
  As a result of these investigations and studies, we could become clear the following fact. That the burial with jar burials was not performed long in such areas as Fukuoka, Kasuga and Itoshima where are distributed the Suku-Okamoto and Mikumo vestiges in Fukuoka Prefecture, where gorgeous burial rifuals have been found in great quantity, but that the burial with jar burials were performed in a great number and for a long time in the regions along the shore of the Ariake Bay, such as Saga and Kanzaki.


戻る

National Museum of Japanese History, All rights reserved.
http://www.rekihaku.ac.jp