明治維新になって「文明開化」への道をまっしぐらに進めねばならない課題を果たすためには、国民の精神的団結のシンボルを作らねばならなかった。 そのシンボルの一つは天皇である。「万世一系の…」という言葉で、絶対的不可侵の象徴としての存在を生み出さざるを得なかったのである。 今にして歴史を詳しく見ていくと、決して「万世一系」ということではなく、天皇家についても紆余曲折の歴史があったことは明白である。 もう一つのシンボルは宗教である。仏教とするにはあまりにも退廃していたし、かと言って西洋式にキリスト教にするわけにもいかず、はたと思いついたのが神道である。 つまり、天皇の多くは祭神となっているし、日本書紀などの神話もあることから、神国日本ということに行き着いたのであろう。 ではどのように具体的に日本に神道を深めていくかという方法であるが、時の政府はうまいことを考えついたのである。 まず明治4年(1871)7月4日に太政官(第321)より
明治4年(1871)7月4日 太政官(第322)〈明治6年をもって中止〉
国民は、神官から授けられた守り札(身分証明書とでも言うべきもの)を紛失しないように後生大事に保管しておかねば、万一紛失ともなれば、戸長(自治会長)から根ほり葉ほり尋問され、挙げ句の果てには非国民扱いをされてしまう。 今では各家庭で自然と見られるようになった鴨居の棚の上の神棚の起こりは、どうやらこの守り札を安置させるべき場所であったのだ。あちこちのお守りもこの神社風の場所に同居しているはずである。 特にご神体ともなるべきものは存在していない場合が多いようだ。ホームセンターでこれらの神棚が販売されているが、どうもそれは信仰の対象としての厳密な意識ではなく、要はお守りを入れておく箱としての意識なのかも知れない。 各家庭に神棚が祭られたのは明治になってからという事を聞いたが、この「あー怖ろしや」の太政官のお触れの中味を見ると、神棚を鴨居の上に揚げて、大事な身分証明書を保管したくなるのは無理からぬところである。 わずかに2年間の有効の太政官のお触れであるが、瞬く間に日本全国に浸透普及してしまった。やがて、明治5年(1872)3月14日には、「教部省」という、いわば宗教省なるものが設置され、国家宗教を一手に統括するようになった。この省は明治10年(1877)1月11日までの5年間弱の短命な機構であったが、功罪合わせて文明開化の時代に大きなものを残したのも事実である。 功としては、 明治5年太政官布告第98号 神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス というものを発しているが、これは未だに全て実現しているわけではない。 罪と思うのは国家神道が次第に強化され、神国日本というイメージのもとに戦時体制に進んで行った経過は皆さんよくご存知のことでしょう。 教部省等のいきさつ 大宝元年(701)に出された大宝令により全官庁の最高位に置かれた神祇官が、全国の有力な神社を官社として統治したが、室町時代の武家の力が増すことなどもあわせて消滅していたものを、明治政府は神道復興のために、明治2年(1869)復活させた。 しかし太政官から独立しているために政策の一致が見られなかったのか、やがて太政官の支配下として神祇省として機構整備された。明治5年(1872)、仏教も含めて対キリスト教対策のため教部省に改編、祭祀も宮中に移し宣教のみを行うこととなった。 国家神道の最盛期である昭和15年(1840)には神祇院となって行ったが、第二次大戦終了により廃止されることとなった |