神棚の普及は

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 明治維新になって「文明開化」への道をまっしぐらに進めねばならない課題を果たすためには、国民の精神的団結のシンボルを作らねばならなかった。

 そのシンボルの一つは天皇である。「万世一系の…」という言葉で、絶対的不可侵の象徴としての存在を生み出さざるを得なかったのである。

 今にして歴史を詳しく見ていくと、決して「万世一系」ということではなく、天皇家についても紆余曲折の歴史があったことは明白である。

 もう一つのシンボルは宗教である。仏教とするにはあまりにも退廃していたし、かと言って西洋式にキリスト教にするわけにもいかず、はたと思いついたのが神道である。

 つまり、天皇の多くは祭神となっているし、日本書紀などの神話もあることから、神国日本ということに行き着いたのであろう。

 ではどのように具体的に日本に神道を深めていくかという方法であるが、時の政府はうまいことを考えついたのである。

 まず明治4年(1871)7月4日に太政官(第321)より
  卿社ハ凡戸籍一区ニ一社ヲ定額トス假令ハ二十ケ村ニテ千戸許アル一郷ニ社五ケ所アリ一所各三ケ村五ケ村ヲ氏子場トス此五社ノ中式内カ或ハ従前ノ社格アルカ叉ハ自然信仰ノ蹄スル所カ凡テ最首トナルヘキ社ヲ以テ卿社ト定ムヘシ餘ノ四社ハ郷社ノ附属トシテ是ヲ村社トス其村社ノ氏子ハ従前ノ通リ社職モ又従前ノ通リニテ是ヲ祠掌トス總テ郷社ニ附ス郷社ニ付スト雖トモ村社ノ氏子ヲ郷社ノ氏子ニ改ムルニハアラス村社氏子元ノマヽニテ郷社ニ付スルノミ郷社ノ社職ハ祠官タリ村社ノ祠掌ヲ合セテ郷社ニ祠官祠掌アルコト布告面ノ如シ但祠掌ハ村社ノ数ニヨレハ幾人モアルヘシ
  (以下略)
郷社はおよそ戸籍一区に一社を定額とす。たとえば20ケ村にて千戸ばかりある一郷に社5ケ所あり。一所各3ケ村5ケ村を氏子場とす。これ5社の中、式内か、あるいは従前の社格あるか、または自然信仰の蹄(てい)するところか。すべて最首となるべき社をもって郷社と定むべし。余の4社は郷社の付属としてこれを村社とす。その村社の氏子は従前の通り社職もまた従前の通りにてこれを祠掌とす。すべて郷社に付す。郷社に付すといえども、村社の氏子を郷社の氏子に改むるにはあらず。村社氏子元のままにて郷社に付するのみ。郷社の社職は祠官たり。村社の祠掌を合わせて郷社に祠官祠掌あること、布告面のごとし。ただし、祠掌は村社の数によれば、幾人もあるべし。
と、お触れを出し、同日別のお触れで次のように示している。

 明治4年(1871)7月4日 太政官(第322)〈明治6年をもって中止〉
  今般、大小神社氏子場取調ノ儀左ノ通被定候事
 規則
臣民一般出生ノ児アラハ其由ヲ戸長ニ届ケ必ス神社ニ参ラシメ其神ノ守札ヲ受ケ所持可致事
但社参ノ節ハ戸長ノ證書ヲ持参スヘシ其證書ニハ生児ノ名出生ノ年月日父ノ名ヲ記シ相違ナキ旨ヲ證シコレヲ神官ニ示スヘシ
即今守札ヲ所持セサル者老幼ヲ論セス生国及ヒ姓名住所出生ノ年月日ト父ノ名ヲ記セシ名札ヲ以テ其戸長ヘ達シ戸長ヨリコレヲ其神社ニ達シ守札ヲ受ナテ渡スヘシ
但現今修行叉ハ奉公或ハ公私ノ事務アリテ他所ニ寄留シ本土神社ヨリ受ケ難キモノハ寄留地最寄ノ神社ヨリ本條ノ手続ヲ以テ受クヘシ尤来申年正月晦日迄ヲ期トス
他ノ管轄ニ移転スル時ハ其管轄地神社ノ守札ヲ別ニ申受ケ併テ所持スヘシ
死亡セシモノハ戸長ニ届ケ其守札ヲ戸長ヨリ神官ニ戻スヘシ
但神葬祭ヲ行フ時ハ其守札ノ裏ニ死亡ノ年月日ト其霊位トヲ記シ更ニ神官ヨリ是ヲ受ケテ神霊主トナスへシ尤別ニ神霊主ヲ作ルモ可為勝手事
守札焼失叉ハ紛失セシモノアラハ其戸長ニ其事実ヲ糺シテ相違ナキヲ證シ改テ申受クヘシ
自今六ケ年目毎戸籍改ノ節守札ヲ出シ戸長ノ検査ヲ受クヘシ
 (以下略)
一、臣民一般、出生の児あらば、その由を戸長に届け、必ず神社に参らしめ、その神の守札を受け所持いたすべきこと。
但し、社参の節は戸長の証書を持参すべし。その証書には、生児の名、出生の年月日、父の名を記し、相違なく旨を証し、これを神官に示すべし。
一、今既に守札を所持せざる者、老幼を論ぜず。生国及び姓名・住所・出生の年月日と父の名を記せし名札をもって、その戸長へ達し、戸長よりこれをその神社に達し、守札を受けて渡すべし。
但し、現在修行または奉公あるいは公私の事務ありて他所に寄留し、本土神社より受けがたきものは、寄留地最寄の神社より本條の手続をもって受くべし。もっとも、来たる申年正月晦日迄を期とす。
一、他の管轄に移転する時は、その管轄地神社の守札を別に申受け、あわせて所持すべし。
一、死亡せしものは、戸長に届け、その守札を戸長より神官に戻すべし。
但し、神葬祭を行う時は、その守札の裏に死亡の年月日とその霊位とを記し、更に神官よりこれを受けて神霊主となすべし。もっとも、別に神霊主を作るも勝手に為すべきこと。
一、守札焼失または紛失せしものあらば、その戸長にその事実を糺して、相違なきを証し、改て申受くべし。
一、これより6ケ年ごと、戸籍改の節、守札を出し、戸長の検査を受くべし。

更に同日、
 明治4年(1871)7月4日 太政官(第323)〈明治6年をもって中止〉
  今般大小神社氏子調ノ儀改定候ニ付テハ各地方管内神社神官ノ輩守札差出方左ノ通相心得粗略ノ儀無之様取扱可申事
臣民共出生ノ児其土地ノ神社ヘ参詣致シ候ハ戸長ノ證書ヲ照シ其名前出生ノ年月日及ヒ父ノ名ヲ氏子帳ニ記シ左ノ雛形ニ随ヒ守札ヲ可相渡事
 (以下雛型等を略)
今般、大小神社氏子調べの儀改定候については、各地方管内神社神官の輩、守札差出方、左の通相心得、粗略の儀これなきよう取扱申すべきこと。
臣民共出生の児、その土地の神社へ参詣致し候は、戸長の証書を照し、さの名前・出生の年月日及び父の名を氏子帳に記し、左の雛形に随い守札をあい渡すべきこと。
とあって、これは最早国民を宗教的にがんじがらめに縛り付けていく「明治の宗門改め」である。

 国民は、神官から授けられた守り札(身分証明書とでも言うべきもの)を紛失しないように後生大事に保管しておかねば、万一紛失ともなれば、戸長(自治会長)から根ほり葉ほり尋問され、挙げ句の果てには非国民扱いをされてしまう。

 今では各家庭で自然と見られるようになった鴨居の棚の上の神棚の起こりは、どうやらこの守り札を安置させるべき場所であったのだ。あちこちのお守りもこの神社風の場所に同居しているはずである。

 特にご神体ともなるべきものは存在していない場合が多いようだ。ホームセンターでこれらの神棚が販売されているが、どうもそれは信仰の対象としての厳密な意識ではなく、要はお守りを入れておく箱としての意識なのかも知れない。

 各家庭に神棚が祭られたのは明治になってからという事を聞いたが、この「あー怖ろしや」の太政官のお触れの中味を見ると、神棚を鴨居の上に揚げて、大事な身分証明書を保管したくなるのは無理からぬところである。

 わずかに2年間の有効の太政官のお触れであるが、瞬く間に日本全国に浸透普及してしまった。やがて、明治5年(1872)3月14日には、「教部省」という、いわば宗教省なるものが設置され、国家宗教を一手に統括するようになった。この省は明治10年(1877)1月11日までの5年間弱の短命な機構であったが、功罪合わせて文明開化の時代に大きなものを残したのも事実である。

功としては、
 明治5年太政官布告第98号 神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス
というものを発しているが、これは未だに全て実現しているわけではない。

 罪と思うのは国家神道が次第に強化され、神国日本というイメージのもとに戦時体制に進んで行った経過は皆さんよくご存知のことでしょう。

 教部省等のいきさつ
 大宝元年(701)に出された大宝令により全官庁の最高位に置かれた神祇官が、全国の有力な神社を官社として統治したが、室町時代の武家の力が増すことなどもあわせて消滅していたものを、明治政府は神道復興のために、明治2年(1869)復活させた。

 しかし太政官から独立しているために政策の一致が見られなかったのか、やがて太政官の支配下として神祇省として機構整備された。明治5年(1872)、仏教も含めて対キリスト教対策のため教部省に改編、祭祀も宮中に移し宣教のみを行うこととなった。

 国家神道の最盛期である昭和15年(1840)には神祇院となって行ったが、第二次大戦終了により廃止されることとなった