http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920211
伝承の史実が疑わしいとしても、歳月は実在する。書紀の編集者たち
が用意した“逆算長暦”は卓抜の着想だったが、唯一あまりにも唐突な
年代は、いかにして算出され、何のために誌されたのか。
皇祖神・高皇産霊尊が、地上を治めるために派遣した神々の子らは、
いずれも音信なく任務もはたさない。娘婿(天照大御神の長男)に命じ
ると「出発にあたって着がえているうちに、また男の子が生れてしまっ
た。僕(あ)のかわりに降(くだ)すべし」という。
かくして、生れたばかりの新孫(皇孫・天孫)が日向の地に定住し、
三男の山幸彦(海幸彦の末弟)の四番目の末孫、皇祖神より数えて六代
目が“天孫の曾孫”のちの神武天皇となる。
以上が、神代から皇代につづく記紀の系譜である。
《古事記》神代には、唯一の没年表記「山幸彦五百八十歳」とあるが、
皇代「神武天皇百三十七歳」との脈絡がない。ところが《日本書紀》皇
代では「神武天皇百二十七歳」と十歳わかく記され、前後に対応して、
暦日表記は精緻をきわめる。
ただし紀元前七世紀には、中国でさえも《春秋伝》にみられるように、
いまだ陰陽わかちがたい原始太陰暦である。書紀の暦日がほとんど仮想
の逆算暦によっていることは(本居宣長以後)あきらかである。
ここに、神武天皇が兄弟や子にいわく「天孫降臨は、一七九二四七十
余歳前」と明記される。ときに四十五歳(甲寅51)、即位前七年(皇紀
かくも壮大な年代は、逆算可能である点で世界史上に例がない。しか
るべき根拠があるなら、余歳などといわず、ずばり特定すべきではなか
ったか。
古今の読者には「昔々」ときこえるが、古今の研究者も、なぜか詮索
しない。
たとえば、本居宣長の没後門弟・伴信友の「後人傍書の鼠入説」は、
誰かが後で書きくわえた数字の羅列とみている(実行犯はいるはずだが、
誰だかわからない)。
余歳とは、末尾一から九、ここでは未満をふくめて余十年は甲戌11、
九年乙亥12、八年丙子13、七年丁丑14、六年戊寅15、五年己卯16、四年
庚辰17、三年辛巳18、二年壬午19、一年葵未20、〇年(一年未満)甲申
21、いずれかにあたる。
飯島忠夫の「余六歳、唐の武徳九年*に造られた戊寅元暦の上元暦説」
は、武徳元年(06180204G 戊寅15推古260101)が正しく、《三正綜覧》
には武徳二年施行とあるが、もとより書紀には関連記述がない。
福沢諭吉門下の那珂通世は、中国の讖緯(干支六〇×二十一元=千二
百六〇年)をもとに「辛酉革命説」を定説にみちびき、有坂隆道は総法
(儀鳳暦の共通分母)を周期年数にあてた「千三百四〇年説」、ともに
皇紀(神武天皇即位元年)の算出を断じたが、“天孫降臨”には沈黙し
ている。両説を、いかに演算しても、辛酉58皇紀元年の歳には結びつか
ないからである。
書紀の整合性からみるに、天孫降臨と神武天皇即位のあつかいに軽重
はなく、後世の皇紀偏重は編集意図にそぐわない。降臨から即位までの
年数が、干支などの周期で割りきれないのは何故か。
俗説に「語呂あわせ・暗号・聖数、三・五・八の欠数」などあったと
しても、舎人親王を編集長とする御前会議で採択されるわけがない。
ながい編集期間中に、唐において元嘉暦は廃暦となり、すでに新暦の
儀鳳暦(唐名は麟徳暦)が登場していた。
書紀の記述(06901220G 持統 41111)に「奉勅始行元嘉暦與(と)儀
鳳暦」とあるが、どのように併用あるいは移行したか、未解明である。
いずれを逆算すべきかも論議されたはずで、旧暦派は「過去の暦日は、
旧来の暦法によるべし」といい、新暦派は「長い歳月の復刻再現にこそ
最新の計算値でなければならぬ」と主張したのではないか。
この対立は(保守と革新ではなく)一年の長さについての天文学的な
命題であって、実は現代もつづいているらしい。
真太陽年・朔望月とも無理数であることは判明したが、天文学的年代
とともに短縮するという「ハレー理論」以来さまざまのアルゴリズムが
となえられ、いまもなお国際的合意にいたっていないという。
元嘉暦・儀鳳暦の日数も割りきれないので、長い年代には端数値など
の累積誤差が生じる。それぞれの定数により“天孫降臨”までの総日数
を対比すると、
-y = 1792470 元嘉暦 365.2467105263y = 654693771.2 儀鳳暦 365.2447761194y = 654690303.8 '+- ) 3467.4 儀鳳暦に対して元嘉暦は、三四六七日、約九年半“余る”ことになる。 (朔望補正を要するが、ここでは近似値による) 皇紀前七年の一七九二四七〇年前の元旦は、 甲申21皇紀 -17924760101 (以下に西暦) 儀鳳暦 -17931481029G -17931110827J 元嘉暦 -17931570524G -17931200321J '+- ) 3446
“余〇歳”は儀鳳暦の太陽年数、“余九歳”は元嘉暦の年首(月齢十日、
朔にあらず)を指ししめす。
かりに“余十歳以上”だとすると、端的な表現ができない(長々しい
説明をしないための年代設定とも思えないが)。総じて書紀は、暦法に
ついて寡黙である。
ひとり無口なプログラマーの存在を想像できなくもない。その役割は
編集参与としても(大陸出身者ゆえに)稗田阿礼のように、名をとどめ
なかったのではないか。
古来、どの民族も神々にとっての歳月は一瞬にすぎないと考えていた
らしい。不老不死なら時間の概念も成立しない。古事記「山幸彦五百八
十歳」の記述は、神から人への変貌を示すものかもしれない。
(19960923)
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── 《歴史研究 19920101 新人物往来社》P058-059
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920101
西暦元年元旦の曜日
── 《Awa Library Report 1997》
(20090224)
── 《Cuevas de Altamira 19520401 by Awa, Masatoshi》 http://d.hatena.ne.jp/adlib/00000000 紀元前の日付表記
adlib 2009/06/29 01:04 ── 壬申の乱は、大海人皇子の背後にいた地方豪族が渡来人の重用に
反発していたことが背景がある。
http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20090628/CK2009062802000004.html