年賀状
http://www.nengahaku.jp/history-2.html
江戸時代からあったけれど(6月に出したりするのは年賀状だろうか)、一般化したのは、明治の郵便制度の整備によるもののようです。
「すでに江戸時代には、「年賀の書状」が、身近な存在であった」とありますので、厳密には「年賀はがき」が新しいというべきかもしれませんね。
皇紀=神武天皇即位紀元 ~ 建国記念の日の典拠 ~
── 皇紀とは、明治政府が定めた日本独自の紀元(きげん=歴史上の
年数を数える出発点となる年。紀年法)で、1872(明治5)年に
明治政府が、神武(じんむ)天皇が即位した年を、記紀(古事記と日本書紀)
の記載から西暦紀元前660年と決め、その年を皇紀元年とした。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kouki2600.htm
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920211
↑天孫降臨余歳の元旦 ↓西暦元年元旦の曜日
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920101
皇紀をはじめとして、いわゆる「国家神道」全般が明治以降のものですね。
お葬式の祭壇
http://www.e-sougi.jp/sougi-annai/sousou/sousou-henka/sougirekis...
祭壇の登場は東京が最も早くそれでも昭和初期であり、現在のような祭壇が葬儀で一般化するようになったのは昭和30年代からのことだといわれています。それまでは、葬儀式場には柩と、枕机におかれた位牌や香炉などごく簡素な祭具が花環や供物などとともに並べられました。
黒白幕や黒白の水引も明治以降のもののようです。
http://www.nikkeibp.co.jp/style/secondstage/manabi/ceremony_0901...
日本で喪の色が黒とされたのは、明治中期の皇室の葬儀以降のこと、それまでは日本の喪の色は白でした。明治政府の欧化政策の流れの中で、欧米の喪の色である黒を日本でも採用することになりました。いわば「国際標準」に合わせたのですから、水引の黒白は、どんなに古くても明治の中期以降になります。
また、はっきりとした起源は見つからなかったのですが、おめでたいときの紅白の幕もそれほど古いものではないようです(江戸時代以降?)。
昭和三十年代というとずいぶん新しいですね。そういえば「水子供養」「水子地蔵」というのもかなり新しいような。
紅白も黒白も新しいのですね。
「ソメイヨシノ」の名称
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%A...
明治33年に命名されたそうです。
この品種自体の誕生も幕末から明治初期くらいですね。
これはちょっと難しい問題ですね。
1.「士農工商」を身分制度として解釈すること。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E8%BE%B2%E5%B7%A5%E5%95%8...
>士農工商の概念と実際の身分制度は大きく異なっている。
>明治時代以降の歴史学者は士農工商の言葉を江戸時代の実際の身分制度を表すものと解釈するようになった。そして士農工商は歴史学上の重要概念となり、さらに士農工商の下に穢多(えた)や非人(ひにん)を付けて「士農工商穢多非人」という序列があったとする俗説も生まれた。ただし、こうした明治以降の歴史観は儒教観念に基づく武士の見地を反映したものといえる。第二次世界大戦後はマルクス主義的な歴史認識により、武士を支配階級、農民を被支配階級と定義し、農民生活の悲惨さとそれに由来する階級闘争の存在が強調され、商人は財産(資本)を蓄積したブルジョワ階級であり、近代への幕を開く歴史的存在として捉えられるようになった。
2.大安、仏滅、友引などの慣習
http://www.e-woodbell.com/wall/rokuyou.htm
http://www.yamato80000jinja.gr.jp/zakkichou/rokuyou.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%9B%9C
>六曜が中国から日本に伝来したのは、14世紀の鎌倉時代末期から室町時代にかけて、とされる。その名称や解釈・順序も少しずつ変えられ、現在では赤口以外は全て名称が変わっている。19世紀初頭の文化年間に現在の形になった。
>幕末頃から、民間の暦にひっそりと記載され始めた。明治時代に入って、吉凶付きの暦注は迷信であるとして政府に禁止されたとき、六曜だけは迷信の類ではないと引き続き記載された。このことからかえって人気に拍車をかけることとなり、第二次世界大戦後の爆発的流行に至った。多種多様な暦注のなかでは新顔ながら、現代の日本に広まった。
「士>農>工>商」という身分制度があったと解釈するのが明治以降ということですね。「藩」とか「鎖国」といった言葉と似ていますね。
六曜も極めて新しいですね。
墓地。
「先祖代々の墓」なんて言いますが、火葬の始まったのも江戸時代。
誰も彼もがちゃんと火葬されて墓に入るようになったのは
法律が気宇呈された明治以降だそうです。
そういえばせいぜい祖父か曾祖父ぐらいしか墓に入っていませんね。
http://homepage.mac.com/hon1/sukanen/sousounotie/8haka.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%91%AC
今のお墓は「先祖数代の墓」というわけですね。
関連情報はこれですね。
http://www.gem.hi-ho.ne.jp/sogenji/rakugaki/kamidana.htm
明治4年から明治10年の明治新政府による宗教政策で一気に広まったものなのですね。
歴代天皇の確定。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E4%B8%8...
『歴代天皇を確定するための基準が定まったのは、大正時代末期のことである。このとき示された基準によって、「歴代天皇は125代、123人。」という現在の歴代天皇の形が確定している。』
単に南北朝のどちらを採るかレベルだけではなくて、
・神功皇后を天皇と見るか否か
・大友皇子を即位したと見るか否か
・etc...
まで近代に入ってから決めたことで、新たに天皇と認めたものには近代になってから諡号を送ったりもあったようですね。
ええ加減なもんだ。
たとえば「弘文天皇」という諡号は明治に送られたものですね。逆に「飯豊皇女」は天皇から下ろされたともいえますね。
歴史上、さまざまに変化してきた「天皇」の位置づけや意義についても、近代に作り出された天皇像だけが正しいものとされ、それを現代人が古来の伝統だと勘違いしているように思われます。
初詣もそうでしたか。
「初詣が習慣化したのはそれほど古い時代ではなく、明治時代中期のこととされている」「基本的に「年蘢り」形式を踏まず、単に寺社に「元日詣」を行うだけの初詣は明治以降広まった新しい風習であり、それも鉄道網の発展による賜物という」
こんな感じの情報を求めています。よろしくお願いします。
なお、回答者制限・回答数上限を緩めておきましたので、ぜひいろいろとご教示ください。ポイントも弾みます。