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Saturday, November 17, 2012

嘘がまかり通る国、日本 (ジョン・ダワーらの近刊についてのイアン・ブルマの書評 日本語訳) The New York Review of Books: "Expect to Be Lied to in Japan" by Ian Buruma (Japanese Translation)

 日本を覆う公式な真実。嘘だと分かっていながらも、横並びを意識してそれに合わせなければならない。それは第二次大戦前から連綿と続く日本の特質。主流メディアは公式な真実を伝えてきた。福島原発以降、現実とのギャップは狭まるどころか逆に広がり、権力と体制に対する、人々の冷めた見方が広がっている。野坂昭如が示すように、私たちは批判精神を持つことができるのか。
 ここで提起されている日本人の深層心理の問題は、「人間の幸せとは何か」を考えることなく「経済成長にとって効率のいい労働力の育成」を目的に、横並び重視の教育を施してきた学校教育や戦後日本のあり方とも重なって見える。
 子供も、大人も、他人の目を気にし、「人に負けたくない」「のけ者にされまい」「いじめに遭うまい」と全神経をすり減らしている。自分の全存在を認めることができないから、自分を嫌いになる。まるでアレルギーを起こした免疫細胞が自分の体を攻撃するかのように。これはアイデンティティーの問題、どこまでが自己で、どこからが非自己かという境界線がおかしくなっている。
 これはさらに、アダルト・チャイルド(オブ・アルコホリクス)の問題とも重なる。アルコール依存症者の子供たちは、自分が望むようにではなく、周囲の状況に反応して行動する自分を作り上げる。これは、アルコール依存症者のいる家庭だけに起こることではなく、社会もこうした思考・行動パターンを私たちに植え付ける。個人より団体を優先する日本社会が、強くこうした影響を及ぼすであろうことは想像に難くない。「ありのままの自分」は心の奥深くに閉じ込めて、身を守る。このような、自分主体ではなく他人や周囲を主体とすることで自分を守ろうとする生き方は、「共依存」と呼ばれる。
 つまり、戦前の日本から続く集団的「共依存」が人々の心を蝕み続け、その延長線上に今の日本があるのだということを、思わざるを得ない。
翻訳・前文:酒井泰幸


嘘がまかり通る国、日本

2012118
イアン・ブルマ

(訳注:この文はイアン・ブルマ氏による以下の新刊2冊への書評である。米国で定評のある書評誌 The New York Review of Books に掲載された。)

ジョン・ W・ダワー
Ways of Forgetting, Ways of Remembering: Japan in the Modern World
New Press
(『忘却の方法、記憶の方法:現代世界の中の日本』)

デヴィッド・マクニール、ルーシー・バーミンガム著
Strong in the Rain: Surviving Japan’s Earthquake, Tsunami, and Fukushima Nuclear Disaster
Palgvave Macmillan
(『雨ニモマケズ:大震災、津波、福島原発事故を生き抜く』)

1.


 俳人松尾芭蕉が1689年に東北を旅して、松島のあまりの美しさにほとんど言葉を失い、彼の名作となったこの俳句にその感動を残した。

松島や ああ松島や 松島や

 17世紀から「日本三景」の一つに数えられる松島は、実は美しい松の木の生える250以上の小島からなる列島で、太平洋に面する湾に作られた優美で小さな石庭のような風景である。2011311日に東北沿岸を襲って恐ろしい爪痕を残した津波に対して、これらの島々が防波堤の役割を果たしたので、この景勝地には比較的小さな被害しか出なかった。しかし、ここから沿岸をたった数キロ南北に移動しただけで、街や村全体が住民もろとも海に流された。いまだに2,800 人が行方不明のままである。

 私は以前1975年に松島を訪れたことがあったのだが、まだ松島の「絶景」を見たことがなかったので、この夏私は松島への小旅行に出ることにした。前回も、私は日本各地からの旅行者でいっぱいの船に乗って港を出た。船はゆっくりと湾内に出て、かわいらしいガイドさんは私たちが見ているはずの島々の、独特の形、名前、歴史についてのアナウンスを延々と話し続けた。問題は、どれだけ一生懸命ガイドさんが示す方向に首を伸ばしても、私たちに見えたものはただ一つ、私たちは濃い霧の中にいたのだった。しかしガイドさんはたくさんの美しい島々を指し示すのを止めることはなく、船客たちもミルク色の霧の中をのぞき続けることを止めはしなかった。

 それは奇妙な経験だった。私は日本についてまだまだ知らないことがあったのだ。私にはこの芝居とも言える素振りが何を意味するのかがわからなかった。私たちはなぜ見えないものが見えているような振りをしていたのだろうか。ガイドさんは自分が何をしていると思っていたのだろうか。これが旅行ガイド本に書いてある、有名な日本人特有のホンネとタテマエ、私的な欲求と公的な体面、公式な現実と個人的感覚の違いを表していたのだろうか。それとも、これが一度動き出したら方向転換できない硬直したシステムの姿だったのだろうか。あるいは、旅行者たちがガイドさんの仕事に対して、うわべだけでも敬意を見せる礼儀正しい方法だったのだろうか。

 私はまだ本当のことはわからない。しかしその時以来、日本人が「公的秩序」を守り「メンツを守る」ために、それが偽りであると自分では重々承知の現実観でも、表向きには自分を合わせる場面を、私は幾度も見てきた。日本は、「裸の王様」が裸に見えることなどほとんどない国である。

2.


 「3.11」大地震と、津波、原発事故によって現代に甦ったものの一つは、抵抗の文化である。それは1960年代の大規模なベトナム反戦運動や公害反対デモ以後、ほとんど消滅しかけていた。ジョン・ダワーは、新刊のエッセイ集『Ways of Forgetting, Ways of Remembering(忘却の方法、記憶の方法)』で、これら1960年代の 抵抗運動を「平和と民主主義の論議に加えられた根本的な反帝国主義的批判」であると書いている。たしかに最近の日本では少なくなってしまった。

 しかし今、福島第一原発のメルトダウン以来、毎週金曜日に東京の野田佳彦首相の官邸前に、原子力発電所の停止を求めて何千人もの人々が反対のために集まる。20万人に上るさらに大きな抗議集会が、「さようなら原発1000万人アクション」の一環として東京都心の代々木公園で行われた。800万人がすでに署名した。これで少なくとも表面上の効果はあった。まず政府は2040年までに原発をゼロにすると発表した。その後、この計画は少なくとも検討するという約束にトーンダウンした。

 デモの雰囲気は、昨年アメリカのオキュパイ・ウォール・ストリート抗議行動と似ていないこともない。情熱的で、平和的で、お祭り気分で、1960年代のベテラン活動家たちの存在で目につくノスタルジーの要素がちりばめられている。指導的人物の一人は77歳のノーベル賞作家、大江健三郎である。
 大江はしばしば3.11 と過去の相似を指摘する。それは、石油化学や鉱山会社が大地に毒をまき散らしていた1960年代の抵抗運動のことではない。 むしろ、彼が回想しているのは1945年、日本人が原爆の最初の犠牲者になったときのことである。近代日本史と核の悲劇を、大江は広島と長崎の「プリズム」を通して見る。「原発で人命を軽視し、同じ過ちを繰り返していることは、広島の犠牲者たちの記憶に対する最悪の裏切りだ。」1

 他の日本人たちは、先の世界大戦からの異なる残響を聞いた。たとえば94歳の作家、伊藤桂一が心を動かされたのは、被災した原子炉の損害を食い止めようと我が身の危険を押して奮闘した消防士や、自衛官、原発労働者の中に彼が見た自己犠牲の精神であった。彼らが伊藤に思い起こさせたのは、戦時中に日本人兵士や市民が示した自己犠牲の使命感だった。日本の軍国精神を直接見た多くの中国人には共鳴できない感情かもしれないが、いまだに日本では一定の共感を呼ぶ。小編ではあるが非常に有用な本である『Strong in the Rain(雨ニモマケズ)』の著者、デヴィッド・マクニールとルーシー・バーミンガムが書いているのは、日本のテレビ解説者がしばしば福島のヒーローたちを神風特攻隊員になぞらえたことである。

 大江が特攻隊員のことを想って涙ぐむ姿は想像できない。しかし、大江の広島に対する注目は、戦時中の日本人の犠牲に対する伊藤の感情に似た、ジョン・ダワーが「被害者意識」と呼ぶ、日本に存在する一般的な特徴かもしれない。つまり、日本人が他国の人々に加えた苦しみを都合良く忘れる一方で、特に外国人の手による日本人の苦しみに注目する傾向である。

 ダワーが言うように、多くの日本人は戦争を、たとえば南京大虐殺や、バターン死の行進、マニラでの残忍な略奪行為ではなく、広島と関連づけるというのは本当のことである。しかし、大江と彼の同胞の反核運動家たちの感情を、「被害者意識」へと単純化することはできない。国家の自己憐憫は彼らの抵抗運動の核心ではない。彼らの意図はむしろ、広島と福島はどちらも人災であったという点にある。そして彼らの怒りは、政府による詐欺、特に原子力に関して、一貫して嘘をつかれていた長い歴史によって激しさを増す。それは、明らかに偽りであると分かっている公式な現実観に、自らを合わせるよう強いられることと関係がある。

 プロパガンダのために現実を改ざんするのは、もちろん日本に限ったことではない。連合軍の占領下、報道の自由の大切さを未開の現地人たちに教えようとしていた時でさえ、日本への原爆攻撃の恐ろしい結果を伝えるニュースは、米軍の検閲によって意図的に日本国民には伏せられた。犠牲者の数にかんする統計は出版禁止にされた。日本人カメラマンが原爆投下後に広島と長崎で撮影したフィルムは押収された。ジョン・ハーシーによってニューヨーカー誌のために書かれた有名な『ヒロシマ』という記事は、アメリカで大きな反響を呼んだが、日本では発禁処分になった。ダワーが言うように、「まさにその現場において、単にこの空前の大惨事の本質だけでなく、このトラウマ体験に関する民衆の抵抗運動が許されなかったという事実によっても、苦しみはその度合いを増すのだ。」

 しかしダワーは、戦時中の日本の荒廃がもたらしたもう一つの結果をも指摘する。それは、ほとんど宗教的とも言える科学への信奉である。日本を再び立ち上がらせるのは科学である。終戦の直前でさえも、報復攻撃を可能にするのは科学だと考えられていた。ここには、日本は自前の原爆を持てるかもしれないという見当外れな希望も含まれていた。広島被爆者によって書かれた最も有名な文書のひとつは、蜂谷道彦医師による『ヒロシマ日記』で、1950年代に占領が終わった後にようやく出版できた。蜂谷医師は原爆投下のわずか数日後の病院での様子を記述している。無残に切り裂かれた患者たちは、ほとんど理解不可能な病で死んで行く。日本がカリフォルニアを、広島がやられたのと同じ種類の爆弾で攻撃したという噂が広まる。病棟に歓喜の声が上がる。

 しかし、日本での原子力祝賀ムードに水を差したのは、1954年にビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験だった。皮肉というにはあまりにひどいことに、この太平洋での爆発により犠牲になったのは、船で近くまで迷い込んだ日本の漁師だけだった。この事件がゴジラ映画第1作の着想を与え、日本人に広がった核による世界の終末への恐怖を映し出した。そしてこれが反核運動の始まりだった。ダワーが指摘するように、日本原水協は日本の左翼に支持されただけでなく、その初期には保守政党からも支持されていた。

 しかし、日本の保守政治家たちが原子力の推進を始めたのも1950年代であった。大江は特に恥ずべき2人として、右翼国粋主義者で後の首相である中曽根康弘と、保守系新聞王の正力松太郎を挙げる。正力は戦後日本野球界の長老、そして「原子力の父」として今も知られている。彼は好感を抱かせるような人物ではなかった。戦後「A級」戦犯に分類された正力は、警察官僚だった1920年代に東京で起こった朝鮮人の大虐殺[訳者注:関東大震災の際の]に対する責任も問われた。戦後に熱心な親米主義者となり、おそらくCIAと協力した正力は、アメリカの核技術を日本に輸入する責任者だった。最初の原子炉はゼネラル・エレクトリック社により1960年代に建設された。2011年の大震災前は、日本の電力の約30パーセントは原子力で発電していた。

 この数字は、原子力の比率が70パーセントに近いフランスに比べれば高くはない。しかし大江や他の左翼日本人の心中では、日本の原子力政策に対する抵抗はエコロジー以上の問題なのだ。正力や中曽根のような人物とアメリカとの繋がりの政治的歴史を考えれば、これはまさにダワーの言う「平和と民主主義の論議に加えられた根本的な反帝国主義的批判」であり、それが反対者たちを動機づけてもいる。大江の言葉では「我々が住んでいる日本という国の構造は(1950年代半ばに)固まり、今もそのままである。まさにこれが(20113月の福島の)悲劇につながったのだ。」2

 この見方には正しい面も多くある。しかし、日本で原発を致命的な活断層のすぐ近くに建てたことを、戦時中の暗い過去を持つ数人の右翼策謀家だけの責任にすることはできない。初期の反対運動にもかかわらず、結局多くの日本人は原子力を支持する側に回った。おそらく一部は科学への一般的な信奉のため、また一部は天然資源が決定的に不足している列島ではそれが最良の選択肢のように見えたためであろう。

 それでも、大江が日本の構造を指差すことは確かに正しい。政府官僚と、国政・地方の政治家、それに大企業のなれ合い関係が、震災に襲われた東北沿岸を含む日本の広い地域で、東京電力がエネルギーを独占することを許したのだ。これに伴っていたのが真実の独占である。つまり、原子力は善であり、原子炉は安全であり、さらには1970年代、1980年代、そして2007年の地震の後に何度も起きたように、配管から放射能を含んだ蒸気が漏れ、保安規定が無視され、火災が発生した時でさえ、心配することは何もない。

 東電の独占は力ずくで実施されたものではない。むしろそれはソフト・パワーを駆使して行われた。地元社会の同意というのは、学校やスポーツ競技場、その他の文化施設として湯水のように注がれる、カネの大盤振る舞いによって買収されたものだ。一流大学の研究ポストは東電から資金提供を受けた。巨額の広告予算が全国メディアに流れた。ジャーナリストと学者は顧問として働くことを要請され、そしておそらく多額の報酬を得ていた。しかし、買収は日本の主流派を取り込む唯一最大の方法ではない。

 全国紙と呼ばれる大手新聞各社は、政治的論調にいくらか違いはあるが、一種の国民的合意を広めるのに役立っている。この国民的合意は、同じ政府と企業からなる利益のネットワークよって形成され、大手報道機関も重要な役割を担っている。これは国立の放送会社であるNHKにも当てはまる。NHKはしばしばBBCにたとえられるが、その強硬な独立主義はみじんも見られない。

 いわゆる「記者クラブ制度」では、全国紙の専門記者たちが独占的に特定の政治家や政府機関から取材することが許される。そこには、これらの有力な情報源がスクープや、非公認記事、専門調査記事によって裏切られることは決してないという前提がある。記者クラブは、一種の服従ジャーナリズムを生みだした。それは、ニューヨーク9.11事件後の報道を思い出せば分かるように、より自由闊達な民主主義国においても珍しいことではないが、日本では制度化されている。大手新聞が報道の内容を競い合うことはない。そのかわり熱心に追求するのは、公式版の現実を忠実に反映させることである。この理由の一つはまったく伝統的なものである。日本の歴史では、中国や朝鮮半島と同様に、高級官僚、作家、教師といった知識階級は、しばしば権力の批判者ではなく召使いであったのだ。

 もちろん、日本の全ての新聞が主流派なのではない。異端者や、反対者、内部告発者は日本にもいる。そのような人々は、中国とは異なり政治犯収容所に飲み込まれることはないが、別の方法で疎外される。マクニールとバーミンガムは著書で、これがどのように機能するかを、様々な場面で指摘する。福島原発事故のあいだ、NHKは毎日続く広範な放送の中に、けっして原子力批判者を入れなかった。民間テレビ局のフジテレビでさえ、ある専門家が、全く正確にも、福島第一原発でメルトダウンの危険があることをうっかり漏らした後、彼を二度とスタジオに招くことはなかった。

 藤田祐幸(ふじた・ゆうこう)というこの専門家は、全て問題ないから民衆は安心すべきだという公式な合意に、反旗を翻すという大罪を働いてしまったのだ。すでに2011年の大惨事のずっと以前から、原子力の合意事項に批判的な学者たちは降格あるいは左遷されていた。2002年から2006年までの間に、福島原発で深刻な保安上の危険があることは、従業員など何人かの人々によって実際に報告されていた。バーミンガムとマクニールの言葉によれば、この内部告発者は「解雇を恐れて、東電と規制機関である原子力安全・保安院の両方を飛び越して訴えたが、情報は無視された。」前福島県知事によれば、この情報提供者たちは「国賊」のように扱われたという。

 またしても、このようなことは他のどの国でも知られていない。万人が住むべき場所を知り、服従がもたらす安楽と特典は計り知れない、秩序正しい島国の社会では、公式な真実という仮面を壊すことはなおさら難しい。

3.


 ジョン・ダワーが日本の戦時中のプロパガンダのすばらしさを強調しているのは実にもっともなことである。人気漫画家から着物のデザイナーまで、一流の映画監督から最も尊敬される大学教授まで、全員が戦争遂行のために動員された。フランク・キャプラがハリウッドでプロパガンダ映画の製作を準備していたとき、日中戦争のさなか1930年代に作られた日本の映画を見せられて、彼はこう言った。「これは勝てないよ。こんな映画は十年に1本ぐらいしか作れない。」日本の戦争の背後にあった公式な真実は、ナチス・ドイツのように激しく人種差別的だったわけではなく、ファシスト的な暴力への愛に染められていたわけでもない。日本が闘っていたのは、欧米の帝国主義と資本主義からアジアを開放するためだった。日本は正義と平等に基づいて、新しい近代アジアを代表していたのだ。日本の多くの左翼知識人でさえこの考えに賛同することができた。

 当時でさえ反体制派はいた。その多くは共産主義者で、戦時中を牢獄で過ごした。揺るぎない名声を得ていた数少ない作家たちは「内的亡命」(体制内に留まって戦争を止めさせる姿勢)に引きこもることができた。しかし概して、作家や、ジャーナリスト、学者、芸術家たちは服従を選んだ。これは特に、国内の批判者にいつでも襲いかかる邪悪な「思想警察」によって、ときおり強制された。しかし、戦時日本での抑圧は、ドイツほど非情で暴力的なものではなかった。その必要も無かった。ドイツとは異なり、国外亡命はほとんどの日本人にとって現実的なものではなかった。外国に頼るべき人がいて、言葉が話せるような人はほとんどいなかった。社会から排除され、底辺に追いやられるという恐怖から、多くの人々は国の大義のために集結するしかなかった。記者クラブ、諮問委員会、国定の芸術・学術研究機関の入り組んだ社会的ネットワークと、官僚、軍人、実業家、政治家の相互扶助関係は、個人的には日本の戦争に懐疑的である人の多くをも取り込むほど、柔軟性に富み魅力的なものだった。

 森正蔵のケースは典型的である。彼は戦時中、毎日新聞の編集委員として尊敬を集めていた。毎日新聞は今も三大紙の一つである。(他の2紙は、リベラル傾向の強い朝日と、より保守的な読売である。)森は反体制派ではなかったが、日本の敗戦に打ちのめされた愛国者であった。戦争中、彼は公式な真実に服従した。日本はアジアを開放しつつあり、軍事的敗北は実際には勝利である、等々。彼が終戦直後に付けていた日記で魅惑的なのは、独自の考えが突然に輝き出したことである。3

 森は、占領時代のアメリカによる新聞検閲の偽善について不平を述べる。「我々新聞人は戦時中に軍国主義者や官僚に足かせをはめられて困難な時を過ごした。いま米軍の占領下にあって、我々は別の困難に直面するだろう。」 しかし問題はマッカーサー将軍の「民間情報教育局」(もしそんなものが存在したとしても、不適切な名称である)によるものだけではなかった。森は、1945年秋のある会議のことを書く。古参の毎日新聞編集者たちが「記者クラブ制度」について議論する。大手メディアがどのニュースを報道するかを相互に合意するこの居心地の良い談合制度を続けるべきか、あるいは新聞は自由市場でニュースや思想を競い合うことを始めるべきなのか。森は後者を支持した。しかし彼は少数派だった。古いシステムが存続することになった。

 そして2011年の春、1923年の関東大震災以来日本を襲った最悪の自然災害、あるいは大江健三郎にならえば広島と長崎以来最悪の人災の後も、それは変わらなかった。日本の大手新聞は結束し、福島第一原発でメルトダウンの危険はないという、政府官僚と東電役員の発表する公式な真実を伝えることにした。それだけではなく、大手新聞と放送局の記者たちは、312日に福島第一原発で最初の水素爆発が起きると、最もひどい打撃を受けた地域から、規律正しい軍隊のように揃って撤退した。公式な理由は、会社が危険を冒すことを許可しないというものだった。その場にいたデヴィッド・マクニールによると、実際は別の理由であったと説明した日本人もいたという。

 神戸大学名誉教授の内田樹(うちだ・たつる)は、朝日新聞にジャーナリストの撤退について彼の印象を書いている。被災地を調査しようという試みが全くなかったのは、主要新聞が競争を恐れ、他紙と少しでも違うことをするのを恐れたからだ。彼はこのことが読者に先の戦争を思い起こさせたと主張する。当時、メディアは日本の破滅的な軍事作戦について、全くの作り事を一貫して報道した。

 福島の物語での英雄の一人は、南相馬市長の桜井勝延である。南相馬は福島第一原発から24キロの距離にある街である。彼は日本のジャーナリストに不満を述べた。「外国メディアとフリーランス記者は何が起こったのかを報道するため大挙して押し寄せた。あなたたちは何だ?」情報と食糧、医薬品を断たれ、彼の街は見捨てられつつあると感じた。死にもの狂いで、彼はそれまでの危機では不可能だったことを始めた。324日、桜井市長は救助を求めるメッセージをカムコーダーで撮影し、英語字幕付きでユーチューブに投稿した。「政府と東京電力からの情報は不足している。」 彼はジャーナリストや救助者たちに、人々が飢餓に貧している南相馬に来てくれるように頼んだ。

 このビデオは「ウイルスのように」広がった。桜井市長は国際的な有名人になった。援助物資が世界中から到着した。外国記者も日本人フリーランス記者もやって来た。

 バーミンガムとマクニールは神保哲生という日本人フリーランス記者に言及している。彼はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の設立者である。彼が地震被災地から送ったテレビ映像を百万人近くがユーチューブで視聴した。その間にも、依然としてNHKは国立テレビチャンネルで、東京大学の関村直人という原子力専門家による、気休めのメッセージを送り出していた。彼は、原子炉の一つで爆発が起きて深刻な放射能漏れを起こす直前に、大規模な放射能汚染には「なりそうにない」と視聴者に語った。

 関村は日本政府のエネルギー顧問でもある。その後、遅きに失した感はあるが、NHKと他の放送局はついに神保の映像を放送した。神保の言葉をバーミンガムとマクニールが引用している。

「フリーのジャーナリストにとって、大企業の限界がどこにあるかすぐに分かるから、出し抜くことは別に難しくありません。…私はジャーナリストとして現場に入り何が起きているのかを知ることが必要だったのです。本物のジャーナリストなら誰でもそうしたいと思うでしょう。」

 中国やイランに劣らず、インターネットは日本で反体制の声を伝える場として欠かせないものであることがわかった。もうひとつ、古くからある批判的視点の情報源は、シリアスなものからセンセーショナルな娯楽まで広がる、多様な週刊誌の世界である。実際には大手新聞社によって発行されているものもあるが、週刊誌は主流メディアに代わるものとして第二次世界大戦後に本領を発揮するようになる。その言葉遣いは辛辣である。週刊新潮は東電役員を「戦犯」と呼んだ。4 しかし雑誌でさえすぐに許容の限界に突き当たる。朝日新聞が発行する週刊誌のAERAは、防護マスクを着けた原発作業者の写真を「東京に放射能がくる」という見出しと共に2011319日発売号の表紙に使った。バーミンガムとマクニールが指摘するように、これは虚偽報道ではなかったのだが、この雑誌は行き過ぎと見られた。お詫びが掲載され、コラムニストが一人、職を追われた。
 したがって、日本の公式な真実には現実とのかい離がある。3.11大震災の意図せざる結果の一つは、このかい離が広がったことであった。聞いたことをただ信じる人は減った。公的な後ろ盾を持つ専門家への冷笑するようなまなざしが広がった 。これを問題だと見る人もいる。代表的な政治雑誌である文藝春秋は、3月に震災の1周年特集を組んだ。百人の有名な著者たちが3.11についてコメントを求められた。その一人、小説家の村上龍は、震災の結果、政府とエネルギー産業への信頼が失われたことを嘆いた。日本国民の信頼を回復するには何年もかかるだろうと彼は言った。村上は60歳であるが、ちょい悪でクールだという評価を受けている。

 戦後最も優れた日本人小説家の一人である野坂昭如は、1930年生まれで、第二次世界大戦の空襲を生き延びた。5 彼は信頼の問題にかなり違った見方を持っている。「頑張れ日本!」や「絆」のような政府主導の激励スローガンの連呼を受けて、野坂は若い世代に自分自身で考えるようにアドバイスする。「美しい言葉に乗せられてはいけない。全てを疑い、それから進むのだ。」6

 松島についてだが、その後私はもう一度訪問して今度はその風景を確かに見た。空は快晴だった。私はガイドさんが見事な光景を説明してくれるのを聴いた。私の周りの旅行者たちは彼女の説明にほとんど注意を向けていないように見えた。そうか、日本は変わったのだ、と思ったそのとき、旅行者たちは全員中国人だということに私は気付いた。

1  “History Repeats,” The New Yorker, March 28, 2011. 

2  “Japan Gov’t Media Colluded on Nuclear: Nobel Winner,” AFP, July 12, 2012. 

正蔵: あるジャーナリストの敗戦日記 1945~1946 (東京: ゆまに書房, 1965). 

4  Quoted by David McNeill in a forthcoming academic paper, “Them Versus Us: Japanese and International Reporting of the Fukushima Nuclear Crisis.” 

5  His masterpiece, The Pornographers, translated by Michael Gallagher (Knopf, 1968), deserves another attempt at English translation. 

文藝春秋, 20123

以上、The New York Review of Books に掲載されたブルマ氏の書評の翻訳。
イアン・ブルマ公式サイトより抜粋
オランダと日本で教育を受けた。歴史、中国文学、日本映画について学ぶ。
1970年代には唐十郎の状況劇場、麿赤児の舞踏集団、「大駱駝艦」に参加。その後ドキュメンタリー映画や写真の世界でキャリアを築く。80年代はジャーナリストとして活動。現在は主要誌(The New York Review of Books, The New Yorker, The New York Times, Corriere della Sera, and NRC Handelsblad)に政治や文化の分野で執筆活動に従事。世界中の大学で研究員や講師を務める。現在はニューヨーク州のバード・カレッジ教授。2008年の国際エラスムス賞他受賞多数。日本語訳されている著書はこちらを参照。

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