日本事情通のオランダ人ジャーナリスト、イアン・ブルマ氏の「嘘がまかり通る国、日本 」

2012-11-24 02:13:39 | 世界
パレスチナ連帯・札幌 代表 松元保昭さんから
------------

すこし遅れましたが、訳書も数冊出ている日本事情通のオランダ人ジャーナリス
ト、イアン・ブルマ氏の「嘘がまかり通る国、日本 」が、Peace Philosophy で
紹介されましたのでお届けいたします。

※長文のため文字化けの場合は、下記リンク先からお願いします。

●出典:Peace Philosophy ブログ
http://peacephilosophy.blogspot.com/

======以下、全文転載=====

Saturday, November 17, 2012
嘘がまかり通る国、日本
(ジョン・ダワーらの近刊についてのイアン・ブルマの書評 日本語訳) The
New York Review of Books: "Expect to Be Lied to in Japan" by Ian Buruma
(Japanese Translation)

 日本を覆う公式的な現実。嘘だと分かっていながらも、横並びを意識してそれ
に合わせなければならない。それは第二次大戦前から連綿と続く日本の 特質。
主流メディアは公式的な現実を伝えてきた。福島原発以降、現実とのギャップは
狭まるどころか逆に広がり、権力と体制に対する、人々の冷めた 見方が広がっ
ている。野坂昭如が示すように、私たちは批判精神を持つことができるのか。

 ここで提起されている日本人の深層心理の問題は、「人間の幸せとは何か」を
考えることなく「経済成長にとって効率のいい労働力の育成」を目的 に、横並
び重視の教育を施してきた学校教育や戦後日本のあり方とも重なって見える。
 子供も、大人も、他人の目を気にし、「人に負けたくない」「のけ者にされま
い」「いじめに遭うまい」と全神経をすり減らしている。自分の全存在 を認め
ることができないから、自分を嫌いになる。まるでアレルギーを起こした免疫細
胞が自分の体を攻撃するかのように。これはアイデンティティー の問題、どこ
までが自己で、どこからが非自己かという境界線がおかしくなっている。

 これはさらに、アダルト・チャイルド(オブ・アルコホリクス)の問題とも重
なる。アルコール依存症者の子供たちは、自分が望むようにではなく、 周囲の
状況に反応して行動する自分を作り上げる。これは、アルコール依存症者のいる
家庭だけに起こることではなく、社会もこうした思考・行動パ ターンを私たち
に植え付ける。個人より団体を優先する日本社会が、強くこうした影響を及ぼす
であろうことは想像に難くない。「ありのままの自分」 は心の奥深くに閉じ込
めて、身を守る。このような、自分主体ではなく他人や周囲を主体とすることで
自分を守ろうとする生き方は、「共依存」と呼ば れる。
 つまり、戦前の日本から続く集団的「共依存」が人々の心を蝕み続け、その延
長線上に今の日本があるのだということを、思わざるを得ない。
翻訳・前文:酒井泰幸


Expect to Be Lied to in Japan
http://www.nybooks.com/articles/archives/2012/nov/08/expect-be-lied-japan/

■嘘がまかり通る国、日本
2012年11月8日
イアン・ブルマ

(訳注:この文はイアン・ブルマ氏による以下の新刊2冊への書評である。米国
で定評のある書評誌 The New York Review of Books に掲載された。)

ジョン・ W・ダワー 著
Ways of Forgetting, Ways of Remembering: Japan in the Modern World New Press
(『忘却の方法、記憶の方法:現代世界の中の日本』)

デヴィッド・マクニール、ルーシー・バーミンガム著
Strong in the Rain: Surviving Japan’s Earthquake, Tsunami, and Fukushima
Nuclear Disaster Palgvave Macmillan
(『雨の中でも強く:大震災、津波、福島原発事故を生き抜く』)

◆1、

俳人松尾芭蕉が1689年に東北を旅して、松島のあまりの美しさにほとんど言葉を
失い、彼の名作となったこの俳句にその感動を残した。

松島や ああ松島や 松島や

 17世紀から「日本三景」の一つに数えられる松島 は、実は美しい松の木の生
える250以上の小島からなる列島で、太平洋に面する湾 に作られた優美で小さな
石庭のような風景である。2011年3月11日に東北沿岸を襲って恐ろしい爪痕を残
した津 波に対して、これらの島々が防波堤の役割を果たしたので、この景勝地
には比較的小さな被害しか出なかった。しかし、ここから沿岸をたった数キロ南
北に移動しただけで、街や村全体が住民もろとも海に流され た。いまだに2,800
人が行方不明のままである。

 私は以前1975年 に松島を訪れたことがあったのだが、まだ松島の「絶景」を
見たことがなかったので、この夏私は松島への小旅行に出ることにした。前回
も、 私は日本各地から の旅行者でいっぱいの船に乗って港を出た。船はゆっく
りと湾内に出て、かわいらしいガイドさんは私たちが見ているはずの島々の、独
特の 形、名前、歴史につ いてのアナウンスを延々と話し続けた。問題は、どれ
だけ一生懸命ガイドさんが示す方向に首を伸ばしても、私たちに見えたものはた
だ一つ、 私たちは濃い霧の 中にいたのだった。しかしガイドさんはたくさんの
美しい島々を指し示すのを止めることはなく、船客たちもミルク色の霧の中をの
ぞき続ける ことを止めはしな かった。

  それは奇妙な経験だった。私は日本についてまだまだ知らないことがあった
のだ。私にはこの芝居とも言える素振りが何を意味するのかがわか らなかっ
た。私た ちはなぜ見えないものが見えているような振りをしていたのだろう
か。ガイドさんは自分が何をしていると思っていたのだろうか。これが旅行 ガ
イド本に書いて ある、有名な日本人特有のホンネとタテマエ、私的な欲求と公
的な体面、公式的な現実と個人的感覚の違いを表していたのだろうか。それと
も、これが一度動き 出したら方向転換できない硬直したシステムの姿だったの
だろうか。あるいは、旅行者たちがガイドさんの仕事に対して、うわべだけでも
敬意 を見せる礼儀正し い方法だったのだろうか。

  私はまだ本当のことはわからない。しかしその時以来、日本人が「公的秩
序」を守り「メンツを守る」ために、それが偽りであると自分では 重々承知の
現実観で も、表向きには自分を合わせる場面を、私は幾度も見てきた。日本
は、「裸の王様」が裸に見えることなどほとんどない国である。

◆2、

「3.11」大地震と、津波、原発事故によって現代に甦ったものの一つは、抵抗の
文化である。それは1960年代の大規模なベトナム反戦運動や公害反対デ モ以
後、ほとんど消滅しかけていた。ジョン・ダワーは、新刊のエッセイ集『Ways
of Forgetting, Ways of Remembering(忘却の方法、記憶の方法)』で、これら
1960年代の 抵抗運動を「平和と民主主義の論議に加えられ た根本的な反帝国主
義的批判」であると書いている。たしかに最近の日 本では少なくなってしまった。

 しかし今、福島第一原発のメルトダウン 以来、毎週金曜日に東京の野田佳彦
首相の官邸前に、原子力発電所の停 止を求めて何千人もの人々が反対のために
集まる。20万人に上るさらに大きな抗議集会が、「さ ようなら原発1000万人ア
クション」の一環として東京都心の代々木公園で行われた。800万人がすでに署
名した。これで少なくとも 表面上の効果はあった。まず政府は2040年までに原
発をゼロにすると発表した。その後、この計画は少なくとも検討するという約束
にトーンダウンした。

 デモの雰囲気は、昨年アメリカのオキュ パイ・ウォール・ストリート抗議行
動と似ていないこともない。情熱的 で、平和的で、お祭り気分で、1960年代の
ベテラン活動家たちの存在で目につ くノスタルジーの要素がちりばめられてい
る。指導的人物の一人は77歳のノーベル賞作家、大江健三郎である。
 大江はしばしば3.11 と過去の相似を指摘する。それは、石 油化学や鉱山会社
が大地に毒をまき散らしていた1960年代の抵抗運動のことではない。むしろ、彼
が回想しているのは1945年、日本人が原爆の最初の犠牲者に なったときのこと
である。近代日本史と核の悲劇を、大江は広島と長崎の「プリズム」を通して見
る。「原発で人命を軽視し、同じ過ちを 繰り返していることは、広島の犠牲者
たちの記憶に対する最悪の裏切りだ。」1

 他の日本人たちは、先の世界大戦からの 異なる残響を聞いた。たとえば94歳
の作家、伊藤桂一が心を動かされたのは、被災した原子炉の損害を食い止めよう
と我が身の危険を押して奮闘した消防士や、自衛官、原発 労働者の中に彼が見
た 自己犠牲の精神であった。彼らが伊藤に思い起こさせたのは、戦時中に日本
人兵士や市民が示した自己犠牲の使命感だった。日本の軍国精 神を直接見た多
くの中 国人には共鳴できない感情かもしれないが、いまだに日本では一定の共
感を呼ぶ。小編ではあるが非常に有用な本である『Strong in the Rain(雨の中
でも強く)』の著者、デヴィッド・マクニールとルーシー・バーミンガムが書い
ているのは、日本のテレ ビ解説者がしばしば福島のヒーローたちを神風特攻隊
員になぞらえたことである。

  大江が特攻隊員のことを想って涙ぐむ姿は想像できない。しかし、大江の広
島に対する注目は、戦時中の日本人の犠牲に対する伊藤の感情 に似た、ジョ
ン・ダ ワーが「被害者意識」と呼ぶ、日本に存在する一般的な特徴かもしれな
い。つまり、日本人が他国の人々に加えた苦しみを都合良く忘れる 一方で、特
に外国人の 手による日本人の苦しみに注目する傾向である。

  ダワーが言うように、多くの日本人は戦争を、たとえば南京大虐殺や、バ
ターン死の行進、マニラでの残忍な略奪行為ではなく、広島と関 連づけるとい
うのは本 当のことである。しかし、大江と彼の同胞の反核運動家たちの感情
を、「被害者意識」へと単純化することはできない。国家の自己憐憫は 彼らの
抵抗運動の核心 ではない。彼らの意図はむしろ、広島と福島はどちらも人災で
あったという点にある。そして彼らの怒りは、政府による詐欺、特に原子力 に
関して、一貫して嘘 をつかれていた長い歴史によって激しさを増す。それは、
明らかに偽りであると分かっている公式的な現実観に、自らを合わせるよう強い
られることと関係があ る。

  プロパガンダのために現実を改ざんするのは、もちろん日本に限ったことで
はない。連合軍の占領下、報道の自由の大切さを未開の現地人 たちに教えよう
として いた時でさえ、日本への原爆攻撃の恐ろしい結果を伝えるニュースは、
米軍の検閲によって意図的に日本国民には伏せられた。犠牲者の数 にかんする
統計は出版 禁止にされた。日本人カメラマンが原爆投下後に広島と長崎で撮影
したフィルムは押収された。ジョン・ハーシーによってニューヨーカー 誌のた
めに書かれた有 名な『ヒロシマ』という記事は、アメリカで大きな反響を呼ん
だが、日本では発禁処分になった。ダワーが言うように、「まさにその現場 に
おいて、単にこの空 前の大惨事の本質だけでなく、このトラウマ体験に関する
民衆の抵抗運動が許されなかったという事実によっても、苦しみはその度合いを
増すのだ。」

  しかしダワーは、戦時中の日本の荒廃がもたらしたもう一つの結果をも指摘
する。それは、ほとんど宗教的とも言える科学への信奉であ る。日本を再び立
ち上が らせるのは科学である。終戦の直前でさえも、報復攻撃を可能にするの
は科学だと考えられていた。ここには、日本は自前の原爆を持てる かもしれな
いという見 当外れな希望も含まれていた。広島被爆者によって書かれた最も有
名な文書のひとつは、蜂谷道彦医師による『ヒロシマ日記』で、1950年 代に占
領が終わった後にようやく出版できた。蜂谷医師は原爆投下のわずか数日後の病
院での様子を記述している。無残に切り裂かれた患 者たちは、ほとんど理 解不
可能な病で死んで行く。日本がカリフォルニアを、広島がやられたのと同じ種類
の爆弾で攻撃したという噂が広まる。病棟に歓喜の声 が上がる。

 しかし、日本での原子力祝賀ムードに水 を差したのは、1954年 にビキニ環礁
で行われたアメリカの水爆実験だった。皮肉というにはあまりにひどいことに、
この太平洋での爆発により犠牲になったの は、船で近くまで迷い込 んだ日本の
漁師だけだった。この事件がゴジラ映画第1作の着想を与え、日本人に広がった
核による世界の終末への恐怖を映し出した。そ してこれが反核運動の 始まり
だった。ダワーが指摘するように、日本原水協は日本の左翼に支持されただけで
なく、その初期には保守政党からも支持されてい た。

 しかし、日本の保守政治家たちが原子力 の推進を始めたのも1950年代であっ
た。大江は特に恥ずべき2人と して、右翼国粋主義者で後の首相である中曽根
康弘と、保守系新聞王の正力松太郎を挙げる。正力は戦後日本野球界の長老、そ
して「原子 力の父」として今も知られている。彼は好感を抱かせるような人物
ではなかった。戦後「A級」戦犯に分類された正力は、警察官僚 だった1920年代
に東京で起こった朝鮮人の大虐殺[訳者注:関東大震災の際の]に対する責任も問
われた。戦後に熱心な親米主義者となり、おそらくCIAと協力した正力は、アメ
リカの核技術を日 本に輸入する責任者だった。最初の原子炉はゼネラル・エレ
クトリック社により1960年代に建設された。2011年の大震災前は、日本の電力の
約30パーセントは原子力で発電していた。

 この数字は、原子力の比率が70パー セントに近いフランスに比べれば高くは
ない。しかし大江や他の左翼日本人の心中では、日本の原子力政策に対する抵抗
はエコロジー以上 の問題なのだ。正力や 中曽根のような人物とアメリカとの繋
がりの政治的歴史を考えれば、これはまさにダワーの言う「平和と民主主義の論
議に加えられた根本 的な反帝国主義的批 判」であり、それが反対者たちを動機
づけてもいる。大江の言葉では「我々が住んでいる日本という国の構造は(1950
年代半ばに)固まり、今もそのままであ る。まさにこれが(2011年3月の福島
の)悲劇につながったのだ。」2

  この見方には正しい面も多くある。しかし、日本で原発を致命的な活断層の
すぐ近くに建てたことを、戦時中の暗い過去を持つ数人の右翼 策謀家だけの責
任にす ることはできない。初期の反対運動にもかかわらず、結局多くの日本人
は原子力を支持する側に回った。おそらく一部は科学への一般的な 信奉のた
め、また一部 は天然資源が決定的に不足している列島ではそれが最良の選択肢
のように見えたためであろう。

  それでも、大江が日本の構造を指差すことは確かに正しい。政府官僚と、国
政・地方の政治家、それに大企業のなれ合い関係が、震災に襲 われた東北沿岸
を含む 日本の広い地域で、東京電力がエネルギーを独占することを許したの
だ。これに伴っていたのが真実の独占である。つまり、原子力は善で あり、原
子炉は安全で あり、さらには1970年代、1980年代、そして2007年の地震の後に
何度も起きたように、配管から放射能を含んだ蒸気が漏れ、保安規定が無視さ
れ、火災が発生した 時でさえ、心配することは何もない。

  東電の独占は力ずくで実施されたものではない。むしろそれはソフト・パ
ワーを駆使して行われた。地元社会の同意というのは、学校やス ポーツ競技
場、その他 の文化施設として湯水のように注がれる、カネの大盤振る舞いに
よって買収されたものだ。一流大学の研究ポストは東電から資金提供を受 け
た。巨額の広告予算 が全国メディアに流れた。ジャーナリストと学者は顧問と
して働くことを要請され、そしておそらく多額の報酬を得ていた。しかし、買収
は日本の主流派を取り 込む唯一最大の方法ではない。

 全国紙と呼ばれる大手新聞各社は、政治 的論調にいくらか違いはあるが、一
種の国民的合意を広めるのに役立っ ている。この国民的合意は、同じ政府と企
業からなる利益のネットワークよって形成され、大手報道機関も重要な役割を
担っている。これ は国立の放送会社であるNHKにも当てはまる。NHKはしばしば
BBCにたとえられるが、その強硬な独立主義はみじんも見られない。

  いわゆる「記者クラブ制度」では、全国紙の専門記者たちが独占的に特定の
政治家や政府機関から取材することが許される。そこには、こ れらの有力な情
報源が スクープや、非公認記事、専門調査記事によって裏切られることは決し
てないという前提がある。記者クラブは、一種の服従ジャーナリズ ムを生みだ
した。それ は、ニューヨーク9.11事 件後の報道を思い出せば分かるように、よ
り自由闊達な民主主義国においても珍しいことではないが、日本では制度化され
ている。大手新 聞が報道の内容を競い 合うことはない。そのかわり熱心に追求
するのは、公式版の現実を忠実に反映させることである。この理由の一つはまっ
たく伝統的なもの である。日本の歴史で は、中国や朝鮮半島と同様に、高級官
僚、作家、教師といった知識階級は、しばしば権力の批判者ではなく召使いで
あったのだ。

  もちろん、日本の全ての新聞が主流派なのではない。異端者や、反対者、内
部告発者は日本にもいる。そのような人々は、中国とは異なり 政治犯収容所に
飲み込 まれることはないが、別の方法で疎外される。マクニールとバーミンガ
ムは著書で、これがどのように機能するかを、様々な場面で指摘す る。福島原
発事故のあ いだ、NHKは毎日続く広範な放送の中に、けっして原子力批判者を入
れなかった。民間テレビ局のフジテレビでさえ、ある専 門家が、全く正確に
も、福島第一原発でメルトダウンの危険があることをうっかり漏らした後、彼を
二 度とスタジオに招くことはなかった。

 藤田祐幸(ふじた・ゆうこう)というこ の専門家は、全て問題ないから民衆
は安心すべきだという公式的な合意 に、反旗を翻すという大罪を働いてしまっ
たのだ。すでに2011年の大惨事のずっと以前から、原子力の合 意事項に批判的
な学者たちは降格あるいは左遷されていた。2002年から2006年 までの間に、福
島原発で深刻な保安上の危険があることは、従業員など何人かの人々によって実
際に報告されていた。バーミンガムとマク ニールの言葉によれ ば、この内部告
発者は「解雇を恐れて、東電と規制機関である原子力安全・保安院の両方を飛び
越して訴えたが、情報は無視された。」前 福島県知事によれば、 この情報提供
者たちは「国賊」のように扱われたという。

 またしても、このようなことは他のどの 国でも知られていない。万人が住む
べき場所を知り、服従がもたらす安 楽と特典は計り知れない、秩序正しい島国
の社会では、公式的な真実という仮面を壊すことはなおさら難しい。

◆3、

ジョ ン・ダワーが日本の戦時中のプロパガンダのすばらしさを強調しているの
は実にもっともなことである。人気漫画家から着物のデザイナー まで、一流の
映画監督 から最も尊敬される大学教授まで、全員が戦争遂行のために動員され
た。フランク・キャプラがハリウッドでプロパガンダ映画の製作を準 備してい
たとき、日中 戦争のさなか1930年代に作られた日本の映画を見せられて、彼は
こう言った。「これは勝てないよ…。 こんな映画は十年に1本ぐらいしか作れな
い。」日本の戦争の背後にあった公式的な真実は、ナチス・ドイツのように激し
く人種差別的 だったわけではなく、 ファシスト的な暴力への愛に染められてい
たわけでもない。日本が闘っていたのは、欧米の帝国主義と資本主義からアジア
を開放するため だった。日本は正義と 平等に基づいて、新しい近代アジアを代
表していたのだ。日本の多くの左翼知識人でさえこの考えに賛同することができた。

  当時でさえ反体制派はいた。その多くは共産主義者で、戦時中を牢獄で過ご
した。揺るぎない名声を得ていた数少ない作家たちは「内 的亡命」(体制内に
留まっ て戦争を止めさせる姿勢)に引きこもることができた。しかし概して、
作家や、ジャーナリスト、学者、芸術家たちは服従を選んだ。 これは特に、国
内の批判者 にいつでも襲いかかる邪悪な「思想警察」によって、ときおり強制
された。しかし、戦時日本での抑圧は、ドイツほど非情で暴力的な ものではな
かった。その必 要も無かった。ドイツとは異なり、国外亡命はほとんどの日本
人にとって現実的なものではなかった。外国に頼るべき人がいて、言葉 が話せ
るような人はほとん どいなかった。社会から排除され、底辺に追いやられると
いう恐怖から、多くの人々は国の大義のために集結するしか無かった。記者 ク
ラブ、諮問委員会、国定 の芸術・学術研究機関の入り組んだ社会的ネットワー
クと、官僚、軍人、実業家、政治家の相互扶助関係は、個人的には日本の戦争に
懐疑的である人の多くをも 取り込むほど、柔軟性に富み魅力的なものだった。

  森正蔵のケースは典型的である。彼は戦時中、毎日新聞の編集委員として尊
敬を集めていた。毎日新聞は今も三大紙の一つである。 (他の2紙は、リベラ
ル傾向 の強い朝日と、より保守的な読売である。)森は反体制派ではなかった
が、日本の敗戦に打ちのめされた愛国者であった。戦争中、彼 は公式的な真実
に服従し た。日本はアジアを開放しつつあり、軍事的敗北は実際には勝利であ
る、等々。彼が終戦直後に付けていた日記で魅惑的なのは、独自 の考えが突然
に輝き出した ことである。3

 森は、占領時代のアメリカによる新 聞検閲の偽善について不平を述べる。
「我々新聞人 は戦時中に軍国主義者や官僚に足かせをはめられて困難な時を過
ごした。いま米軍の占領下にあって、我々は別の困難に直面するだろ う。」 し
かし問題はマッカーサー将軍の「民 間情報教育局」(もしそんなものが存在し
たとして も、不適切な名称である)によるものだけではなかった。森は、1945
年 秋のある会議のことを書く。古参の毎日新聞編集者たちが「記者クラブ制
度」について議論する。大手メディアがどのニュースを報道 するかを相互に合
意するこ の居心地の良い談合制度を続けるべきか、あるいは新聞は自由市場で
ニュースや思想を競い合うことを始めるべきなのか。森は後者を 支持した。し
かし彼は少数 派だった。古いシステムが存続することになった。

 そして2011年の 春、1923年 の関東大震災以来日本を襲った最悪の自然災害、
あるいは大江健三郎にならえば広島と長崎以来最悪の人災の後も、それは変わら
な かった。日本の大手新聞は結 束し、福島第一原発でメルトダウンの危険はな
いという、政府官僚と東電役員の発表する公式的な真実を伝えることにした。そ
れだけ ではなく、大手新聞と放送 局の記者たちは、3月12日に福島第一原発で
最初の水素爆発が起きると、最もひどい打撃を受けた 地域から、規律正しい軍
隊のように揃って撤退した。公式的な理由は、会社が危険を冒すことを許可しな
いというものだった。その場にいたデヴィッド・マクニールによると、実際は別
の理由であった と説明した日本人もいたという。

  神戸大学名誉教授の内田樹(うちだ・たつる)は、朝日新聞にジャーナリス
トの撤退について彼の印象を書いている。被災地を調査し ようという試みが全
くな かったのは、主要新聞が競争を恐れ、他紙と少しでも違うことをするのを
恐れたからだ。彼はこのことが読者に先の戦争を思い起こさ せたと主張する。
当時、メ ディアは日本の破滅的な軍事作戦について、全くの作り事を一貫して
報道した。

 福島の物語での英雄の一人は、南相 馬市長の桜井勝延である。南相馬は福島
第一原発か ら24キ ロの距離にある街である。彼は日本のジャーナリストに不満
を述べた。「外国メディアとフリーランス記者は何が起こったのかを報道 する
ため大挙して押し寄せ た。あなたたちは何だ?」情報と食糧、医薬品を断た
れ、彼の街は見捨てられつつあると感じた。死にもの狂いで、彼はそれまでの危
機では不可能だったことを 始めた。3月24日、桜井市長は救助を求めるメッセー
ジをカムコーダーで撮影し、英語字幕付きでユーチューブに投稿した。 「政府
と東京電力からの情報は不足している。」 彼はジャーナリストや救 助者たち
に、人々が飢餓に貧している南相馬に来てくれるように 頼んだ。

 このビデオは「ウイルスのように」 広がった。桜井市長は国際的な有名人に
なった。援 助物資が世界中から到着した。外国記者も日本人フリーランス記者
もやって来た。

 バーミンガムとマクニールは神保哲 生という日本人フリーランス記者に言及
している。 彼はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の設立
者である。彼が地震被災地から送ったテレビ映像を百万人近くが ユーチューブ
で視聴した。その間にも、依然としてNHKは国立テレビチャンネルで、東京大学
の関村直人という原子力専門家による、気休めのメッセージを送り出し てい
た。彼は、原子炉の一つで爆発が起きて深刻な放射能漏れを起こす直前に、大規
模な放射能汚染には「なりそうにない」と視聴者 に語った。

 関村は日本政府のエネルギー顧問で もある。その後、遅きに失した感はある
が、NHKと他の放送局はついに神保の映像を放 送した。神保の言葉をバーミンガ
ムとマクニールが引用している。

「フリーのジャーナリストにとって、 大企業の限界がどこにあるかすぐに分か
るから、出 し抜くことは別に難しくありません。…私はジャーナリストとして現
場に入り何が起きているのかを知ることが必要だったのです。本 物のジャーナ
リストなら誰でもそうしたいと思うでしょう。」

  中国やイランに劣らず、インターネットは日本で反体制の声を伝える場とし
て欠かせないものであることがわかった。もうひとつ、古 くからある批判的視
点の情 報源は、シリアスなものからセンセーショナルな娯楽まで広がる、多様
な週刊誌の世界である。実際には大手新聞社によって発行され ているものもあ
るが、週刊 誌は主流メディアに代わるものとして第二次世界大戦後に本領を発
揮するようになる。その言葉遣いは辛辣である。週刊新潮は東電役 員を「戦
犯」と呼んだ。^4 しかし雑誌でさえすぐに許容の限界に突き当たる。朝日新聞
が発行する週刊誌のAERAは、防護マスクを着けた原発作業者の 写真を「東京に
放射能がくる」という見出しと共に2011年3月19日発売号の表紙に使った。バー
ミンガムとマクニールが指摘するように、これは虚偽報道ではなかったのだ
が、この雑誌は行き過ぎと見られた。お詫びが掲載され、コラムニストが一人、
職を追われた。

 したがって、日本の公式的な真実には現実とのかい離があ る。3.11大震災の
意図せざる結果の一つは、このかい離が広がったことであっ た。聞いたことを
ただ信じる人は減った。公的な後ろ盾を持つ専門家への冷笑するようなまなざし
が広がった 。これを問題だと見る人もいる。代表的な政治雑誌である文 藝春秋
は、3月に震災の1周年特集を組んだ。百人の有名な著者たちが3.11に ついてコ
メントを求められた。その一人、小説家の村上龍は、震災の結果、政府とエネル
ギー産業への信頼が失われたことを嘆い た。日本国民の信頼を回復するには何
年もかかるだろうと彼は言った。村上は60歳であ るが、ちょい悪でクールだと
いう評価を受けている。

 戦後最も優れた日本人小説家の一人 である野坂昭如は、1930年生まれで、第
二次世界大戦の空襲を 生き延びた。^5彼は信頼の問題にかなり違った見方を
持っている。「頑張れ日本!」や「絆」のような政府主導の激励スロー ガンの
連呼を受けて、野坂は若い世代に自分自身で考えるようにアドバイスする。「美
しい言葉に乗せられてはいけない。全てを疑 い、それから進むのだ。」6

  松島についてだが、その後私はもう一度訪問して今度はその風景を確かに見
た。空は快晴だった。私はガイドさんが見事な光景を説明 してくれるのを聴い
た。私 の周りの旅行者たちは彼女の説明にほとんど注意を向けていないように
見えた。そうか、日本は変わったのだ、と思ったそのとき、旅 行者たちは全員
中国人だと いうことに私は気付いた。


(以上、転載終わり。なお、注および著者略歴はリンク先でご確認ください。)



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