コバトン誕生秘話
平成20年12月1日、コバトンの原作者である竹腰博晃さんが知事を訪問しました。
コバトンはどのように誕生し、どんな経緯で埼玉県のマスコットになったのか。その誕生秘話をご紹介しましょう。
デザイナーは当時の高校生
竹腰さん製作の原画 |
平成16年に埼玉県で開催された「第59回国民体育大会」をアピールするため、誰からも親しまれる「マスコットイメージ」を広く一般から募集しました。
当時高校生だった竹腰さん。学校のデザインの実習授業で、埼玉国体のマスコットイメージに応募しないかという話になりました。
- 竹腰さん
- 「コンピュータグラフィックの授業の時間に作って応募しました。だいたい5分から10分くらいで書いたんじゃないかと記憶しています。まあ、よくこれで通ったなって思います(笑い)」。
その時の原画がこれです!今のコバトンと違ってくちばしが長く、全体的にスリムだったんですね。
その後ちょっとした手違いが…
このデザインも、実はある偶然がなければ、世に出ることはなかったのです。当時の吉澤勝則先生にお話を伺いました。
- 吉澤教諭
- 「彼は2つデザインを製作したんです。彼が一生懸命やってたのは、たしかサクラソウをモチーフにしたデザイン。そのほかにシラコバトをモチーフにしたデザインも出してきて、手元に2作品になったんです。 動きのあるデザイン、県を代表するようなもの、色数は4色前後ということで、どちらかと言えば、シラコバトの方がいいかなということで、私は何も考えずにすんなりこちらで応募してしまったんです。 実は彼はサクラソウの方を出すつもりだったと。先生間違えて出しちゃったんだというのが後になってわかって、ビックリしました。」
吉澤教諭の手違いによって、応募されたデザイン。この偶然がなければコバトンは誕生しなかったのですね。
マスコットイメージの決定
平成12年5月31日、応募総数は795点の中から、第59回国民体育大会埼玉県準備委員会で審査した結果、最優秀賞が決定しました。
作品名「『シラコバト』をモチーフにした作品」、応募者 竹腰博晃さん。
あれ?「コバトン」って名前じゃないの~?
「コバトン」命名
国体当時のマスコット基本形 |
竹腰さんの作品は、デザイン補作され、国体の競技別展開画も作成されました。これで現在のデザインと同じになりました。
今度は、このマスコットにふさわしく、親しみやすい愛称を広く募集しました。応募総数はなんと17,471通。平成13年2月21日、第59回国民体育大会埼玉県準備委員会で審査した結果、最優秀賞が決定しました。
それが「コバトン」です。受賞者は小松稔さん。命名の趣旨は、「彩の国まごころ国体のマスコットとしてあちこちを軽やかに飛び回る愛らしいシラコバトは、人から人へ、大会から大会へ、みんなの熱意と真心を繋ぐバトンのような存在です」。
なるほど、「シラコバト」と「バトン」で「コバトン」なんですね。いい名前だ~。
知名度アップに向けて頑張った
初期製作のイマイチかわいくない着ぐるみ |
今では大人気の「コバトン」も誕生当初のちまたの反応は、「なんじゃこりゃ」、「知らん」という感じで。着ぐるみも今ひとつかわいくない・・・。
そもそも国体の知名度アップのために誕生した「コバトン」。当時の国体実行委員会では、「2面作戦」を展開しました。
1つは、「ありとあらゆるイベントに着ぐるみコバトンを出演させる」、もう1つは「様々なコバトングッズを開発し販売する」というもの。
この作戦が功を奏したのか、ある日イベントにコバトンが出没すると、小学生から「あっ、コバトンだ~」という声が。担当者一同が振り返る。なぜ、この子たちはコバトンを知っているんだ…。
「ねえねえ君たち、何でコバトンを知っているの?」と聞くと、「だって、給食の牛乳にコバトンが書いてあるもん」。
そして県内の人気者に
イベントに出向いてのこまめなPR活動と、コバトングッズの販売で、子どもから大人まで愛されるマスコットに成長。平成16年の「彩の国まごころ国体」も大成功のうちに幕を閉じました。グッズの販売額は総額1億円を突破し、「彩の国まごころ国体」の運営費用の一部に充てられました。
埼玉県のマスコットに再就職
国体終了後、コバトンの存続を望む声がたくさん県庁に寄せられました。そこで、平成16年12月、国体担当者が原作者の竹腰博晃さんを訪問し、国体実行委員会が持つコバトンに関する権利を埼玉県に譲渡することについて承諾をいただきました。
そして、新たな活躍の場として、平成17年1月4日に、上田清司埼玉県知事から辞令を交付され、正式に「埼玉県のマスコット」となりました。