赤い月


 20 揺れる感情


 良一は、執拗だった。

「はあっ……う……」

 哀の乳房を乱暴に掴み、揉みあげた良一の手が、乳房を吸い上げた良一の唇が、彼女の肌の上を移動していく。

 その執拗で、時間がかけられた行為に、悦楽の海に流されそうになった哀は、理性を総動員し、辛うじて、自分自身を冷めた感情につなぎ止めていた。

 彼の舌と指が、彼女の下腹部に達すると、良一は、哀の膝のあたりを掴み、両脚を開かせた。

「あっ!……はあっ……」

 そこに彼の頭が入り、舌を使った蹂躙が開始されると、哀は、声を上げて、上体を捩った。

 執拗な良一の舌と指の動きに、飛び去ってしまいそうな理性を必死に繋ぎ止め、唇を噛みながら、何度も声をあげ、身を反らす。一方で、そんな自分を冷ややかに見つめている別の自分がいて、哀は、いたたまれなくなった。

「あっ」
 腰を掴まれ、体が引かれたと思うと、良一が再び、彼女の中へ自身を突き入れてきた。

「んっ、はあっ……あ」
 良一の欲望の塊が哀を貫き、その律動が、彼女に喘ぎ声を上げさせ、その息を荒くさせる。
 
 両手を拘束されたまま、犯される恥辱と屈辱感、そして、その中に、確かに存在する快感。
 哀は、絶望の淵へ追い込まれたように思い、目を開けて、自分の中に侵入している男の顔を見上げた。

 その眼差しを、見つめ返してくる良一は、フッと、いやらしく笑う。そして、より強く、自身を突き入れてきた。

「ああっ……はあっ……」
 耐え切れず、顔を横にし、身を捩った哀は、また目を閉じ、唇を噛んだ。

 それにかまわず、良一の腰は、律動を続けている。

 夜の闇が支配し始めた異国のホテルの部屋。
 その、照明は、薄明るく、部屋のすべてをセピア色に染めてはじめている。
  
 揺れている2人の体に流れる汗が、その照明に照らされて、肌を鈍く光らせていた。


*****


「僕が憎いかい?」

 良一は、哀から体を離すと、細く目を開け、無表情にベッドに横になっている彼女の裸身を見下ろした。

 異国のホテルの部屋に響く良一の声は、哀には、虚しかった。

 ベッドの上で、右脚を僅かにくの字に折り、手枷で拘束された腕をこちらに見せて、哀は、体を少し横向けにしている。しかし、その顔は、向こうを向いていて、こちらからは見えない。

 ウエストのあたりから盛り上がるヒップ、そして、細い脚へ続く美しいラインを見せている哀の素肌は、汗に濡れて妖しく光っていた。

 良一は、ベッドに座ると、横たわる哀の体に手を置いた。その冷たい感触に、僅かに、彼女の体が震えたのを感じながら、腰や腿の辺りを撫でる。

 日本を離れ、今日まで、哀のことを思わない日はなかった。
 APTXのデータを送ったとき、自分も日本に戻り、彼女に会いたいと思った。

 しかし、良一には、野望がある。

 しばらく、良一の手が自分に触れ、蠢くままにさせていた哀は、ぼんやりとその天井を見つめていた。
 やがて、彼の手から逃れるように、ゆっくりと、体を動かし、後手に拘束されたまま、上体を起こす。

 疲れが全身を覆い、体が鉛のように感じられる。そして、心は、さらに重い。

 ベッドの上に残る、生々しい痕跡。
 そして、2人の汗と、体液が肌に纏わりついている不快感に、哀は、目眩を覚えた。

 今までは、あの薬のデータを手に入れるために、この男に身を任せた。
 しかし、今日は、なんのためだったのか。

 この男の野望を止めるためか、それとも……。

 認めたくはない。しかし、良一の行為に対し、自分の体が期待し、感じているのは、事実だった。

 しかし、その後に来る、胸の強い痛み。

 いや、このまま、この男の求めるまま、体を任せていれば、いい。
 そんな、自棄的な言葉さえ、哀の頭に浮かぶ。

「僕は、決して、君を離さないよ」
 後から、哀の体を抱きしめると、良一は、耳元でそう囁いた。

 それは、哀に、ただ、不快なものが体に纏わり付いている感覚しか与えなかった。


*****


 ようやく、良一から解放された時には、すでに夜10時になろうとしていた。

 哀は、良一の泊まるホテルから、車で10分ほどの距離にある、日系のホテルに部屋を取っていた。

 F国では、夜10時ともなれば、首都の中心部といえども、すでに人通りも少ない。
 ぼんやりと、流れる景色を眺めながら、哀は、タクシーの後部座席に座っていた。

「明日、朝11時に迎えに行く。用意して待っていてくれ」

 良一は、さっきそう言った。

 是非を言わせない、強い口調と表情だった。

 哀は、彼の言葉に黙って頷いた。
 しかし、彼女は、強い決心をも、そこで確認していた。

 それは、決して、誰にも屈しない、哀の誇りを賭けた決心。
 何があっても、どんな目に遭っても、守りたいものを守り抜く、彼女の強い決心。

「!」
 ホテルの玄関で、タクシーを降りたとき、哀は、はっきりと自分を見つめる視線を感じた。

(誰かが、私を監視している)

 しかし。
 今、慌てて見回したところで、その人物を見つけることは、できないだろし、相手も警戒するだけだ。


 何者かを探る必要はある。だから、今は、相手を警戒させないほうがいい。

(危険は、覚悟の上……)

 哀は、改めて、腹を据えた。
 ここまできた以上、もう後戻りはできない。

 そう思うと、不思議と、恐怖も、焦りも感じなくなった。
 自分でも、驚くほど、平静さを取り戻した。

 哀は、フッと息を吐くと、夜空を見上げる。

(月、赤いわね……)
 日本で見る位置とくらべると、随分、角度の高い位置に、月が赤く、輝いている。

 しばらく、その月を見ていた哀は、顔を戻すと、前を見つめ、表情を引き締める。そして、ゆっくりと、ホテルの玄関を入っていった。


*****


「随分、お楽しみのようだな」
 哀と入れ替わるようにして、良一の部屋を訪ねた男は、流暢な英語でそう言った。

 口髭を蓄えたがっしりした体格の男で、F国人らしく、その肌は、褐色をしている。

「本当にあの女、シェリーなのか?」
 男は、この部屋から出て行く哀を、廊下の陰から見ていた。

「あんただって、あの女に会ったこと、あるだろ?」
「ああ。だが、1度、会っただけだし、もう15年以上も前の話だからな……それに、あのジンが執拗に狙っていたからな。生きているとは、思わなかった」
「仲間がいたのさ」
「仲間?」
「ああ。あの女を命がけで守った仲間が、な」
「ほお……しかし、あの女、本当に協力してくれるのか?」
「ふん……」
 良一は、男の言葉には、答えずに、皮肉めいた笑顔を浮かべた。

「それより、あの薬のデータだが……」
 良一の笑顔に眉をしかめたF国人の男が切り出した。

「難しいのか?」
「ああ……あの女、解毒剤を完成させたらしいが……やはり、あの女でないと、無理かもしれんな」

「そうか……」
 F国人の男は、良一の顔を見て、口元を緩めた。その目は、意味ありげに光っていたが、良一は気づかなかった。


*****


 ベッドに横たわっても、眠れなかった。

 哀は、少し汚れた天井を見つめながら、その瞳は、何も映していないようだった。


 あの男に抱かれた後、いつも、胸が痛む。
 その時は、体が感じてしまう。しかし、その後で、体と心が思い出すのは、一度だけ、自分を優しく抱いてくれた男のこと。

 ただ一度、コナンに抱かれた時のことは、甘く、優しく、そして、締め付けられるような罪悪感と共に、その胸の中にいつもある。
 あの男にいいようにされれば、されるほどに、心が、体が、コナンとの一度きりの夜を思い出し、胸が熱くなる。

(逢いたい……)

 抑えていた想いが、一気に噴き出した。

 涙が溢れ、止まらない。

 いきなり、体を動かすと、哀は、ベッドにうつ伏せになった。その口から、嗚咽が洩れる。

 体を震わし、ベッドに顔を埋めた哀は、今夜だけ、今だけ、哀は、自らの感情を解放し、それに身を任せていた。


*****


 翌日、哀が目覚めたときは、もう陽が高くなっていた。
 窓を閉ざすグレーのカーテンが、外の明るさを伝えている。

 体が重い。

 眠ったという感覚は、あまりなかった。
 事実、ウトウトしたのは、明け方になってからだろう。

 夢を見たが、覚えていない。
 悲しい夢だったような気もするし、楽しい夢だったようにも思う。

(9時半)
 時計を見た哀は、ようやく、昨夜、良一が11時に迎えに来ると言っていたことを思い出した。

 気は進まないし、体も重い。
 哀は、大きく息を吐くと、ベッドを出た。

 シャワーを浴びると、少しは、身も、心も軽くなった気がする。
 洗面台の鏡に顔を映すと、哀は、表情を引き締めた。

 今日は、自分やコナンの運命を左右する日になるような予感がする。
 ひょっとすると、命を賭けることが起こるかもしれない。

 ただ、怯えはなかった。
 自分でも驚くほど、落ち着いていた。

 昨夜、ベッドで涙を流したことが嘘のようだった。
 あの時の気持ちをまるで他人のもののように、冷静に見つめることができる。

 ルームサービスでサンドイッチなど、軽い朝食をとる。
 窓を開けると、熱帯独特のムッとした空気が流れ込んできたが、風があって、不快感はなかった。

 ノースリーブのTシャツと、ジーンズパンツというラフな格好に着替えたとき、時計に目をやると、1120分前になっていた。

 窓を閉めた哀は、その向こうに拡がる、抜けるような青空と太陽と、それらが照らしているこの国の首都の雑多な町並みを眺めた。

 その深く、静かな海のような碧い瞳には、強い光が宿っていた。


(2009/7/26初)



NEXT 赤い月21「コナン」へ


赤い月INDEXへ

隠し部屋INDEXへ