赤い月


 13 託された夜


 コナンの病室を出た蘭は、廊下の先にある、自動販売機などの置かれた、休憩コーナーの椅子に腰掛けた。

 そして、携帯電話を取り出すと、コナンの友人達の名を思い浮かべた。

 時刻は、夜10時を過ぎている。

(どうしよう……)
 こんな時間に、大勢をここに呼ぶわけには、いかないだろう。

(とりあえず、哀ちゃんに来てもらおう)
 蘭は、携帯電話のボタンを押し、哀の携帯電話を呼び出した。

「?」
 呼び出しいるのに、哀は、電話に出ない。

(哀ちゃん……お願い、出て。私じゃ……私だけじゃ……)

 携帯電話の画面を見つめている蘭の胸中は、複雑だった。

 蘭は、コナンが新一だと確信している。そして、コナンが新一であろうと、そうでなかろうと、彼を愛していることも自覚している。
 しかし、一方で、今のコナンが一番大事に想っているのは、哀だということも、わかっている。

 哀が何者なのか、蘭には、わからないが、コナンが、哀を大事にし、哀も、コナンのことを想っていることは、2人を近くで見てきた彼女には、よくわかっている。

 悔しさ、寂しさを感じるが、今のコナンを元気にできるのは、哀しかいないと、蘭は、思う。

 だが、その哀は、蘭がかけた電話には、出なかった。


*****


 けだるい体を引きずるようにして自分の部屋へ戻った哀は、着替えもせずに、ベッドに倒れこんだ。

 体が自分のものでないように重いのは、良一から受けた行為のせいだけではなく、心が重いせいもあるだろう。

 好きでもない男に体を許し、自分を愛してくれている男を裏切ったこと。
 覚悟していたこととはいえ、やはり、辛い。

「あの薬のデータは、F国の製薬会社にある……パスワードは、夢の翼……」

 良一は、想いを遂げた後、そう言った。

 仰向けになった哀は、グッと唇を噛むと、右腕で目のあたりを押さえた。その腕の影が、僅かに光っている。

 執拗な良一の自分への行為は、哀の体だけでなく、心にも、深く、その痕跡を残した。

 ようやく、良一の深い欲望から解放され、手枷を外されても、痕跡が生々しく残るベッドの上で、哀は、しばらく、動くことができなかった。

 そして、良一から受けた行為に対し、恥辱と共に、どこかで悦びを感じている自分に、哀は、自己嫌悪に陥った。

 しかし。

(もう、後戻りはできない……)

 あんな男に体を許したのは、命をかけて、守りたいものがあるから。

 そして、もうひとつ。
 あの男がこれからやろうとしていること、それを止めなければならない。

 哀は、この先のことを考えると、気の遠くなるような想いがしたが、改めて、たった一人で、戦う覚悟を決めていた。

 その時、哀の携帯電話が鳴った。
 疲れきった腕が、力なく、その電話を取る。

(蘭さん……)
 着信画面を見た哀は、少し戸惑ったが、受信ボタンを押し、電話を耳にした。

『哀ちゃん?……どうしたの?さっきから、何度も、かけてたのに……』
「……ごめん、なさい」
『哀ちゃん……コナン君が、また、倒れたの』
「え?」
 蘭の思いつめたような声が聞こえ、哀は、目を開いた。

『意識が、なかなか戻らなくて……お願い、ここへ来て、傍に居てあげてくれない?』
 今の哀には、コナンの顔を見るのが怖い。
 今の自分は、コナンに優しく抱かれた頃の自分では、ない。

 哀は、蘭の言葉に戸惑っていた。

『哀ちゃん?』
 返事のない哀に、蘭は、不審に思って問いかけた。

「……私は……蘭さんが傍に居てあげてるのなら、私は、必要ないわ」
『どうして?……哀ちゃん、ずっと、コナン君と一緒にいたじゃない?……どうして、そんなこと、言うの?』
「……」

『最初、コナン君が倒れたとき、コナン君、歩美ちゃんに言ったの、聞いたでしょ?……哀ちゃんを呼んでくれって……今回も同じだと思う……コナン君、哀ちゃんに来てほしいと、思ってるよ』

 行けない。

 優しく抱いてくれたコナンを裏切り、さっきまで、他の男にこの身を任せていた自分が、彼の傍にいるなんて、許されない。

「行けない……私は……彼の傍にいては、いけない……」
『どうしてよ!?哀ちゃん!……コナン君、哀ちゃんを待っているよ』
「……」
『哀ちゃんじゃないと……コナン君を救えるのは、私じゃなくて、哀ちゃんなの……私じゃ、ダメなんだよ……哀ちゃんだけなの』
「蘭……さん……」

 泣き出しそうな蘭の悲痛な声に、哀の胸が詰まった。

 蘭は、知っているのだろうか。

 コナンが本当は、工藤新一だと、蘭は、気づいている可能性は高い。
 しかし、哀のことについて、蘭は、何も知らないはずだ。

 ただ、コナンが哀を信頼していることは、蘭も気づいている。
 コナンと哀の間にあるもの、そこに何か特別なものがあることは、蘭も感じているのだろう。

 コナンが一番信頼しているのは、自分ではなく、哀だと、蘭は、思っている。

『お願い……哀ちゃん……』


*****


 良一は、満足していた。
 彼にとって、灰原哀という女性は、非の打ち所がない。

 優秀な頭脳に、クールな表情、美しい肢体、そして、ベッドの上で見せた切なげな表情、自分の行為に対して見せる体の反応。

(思っていた以上に、いい女だ)

 満足したように、笑みを洩らした良一は、この後のことを考え始めた。
 彼女と自分が組めば、あの薬、この世に存在することが不思議な薬を改良して、世界中に売り込むことができるだろう。

 良一は、満足したように笑みを浮かべると、グラスを掲げ、1人、祝杯を挙げた。
 そして、電話の受話器に手を伸ばす。

「十条さん?……お願いがあります」


*****


「哀ちゃん……」

 哀がコナンの病室に入ると、蘭が彼女の顔を見て、僅かに瞳を揺らした。
 そのやつれた姿に、哀の胸が痛む。

 そして、ベッドに眠っているコナン。
 顔色も冴えず、苦しげに顔を歪めている。
 哀は、胸に沸きあがってくる罪悪感に、そんなコナンの姿を正視できなかった。

「蘭さん……江戸川君、倒れてどのくらい経つの?」
 哀は、蘭の方へ振り返って訊いた。

3時間ぐらい経ってると思う……ずっと、意識がなくって……」
 蘭の心痛が哀にも伝わってきた。
 そして、コナンの容態が深刻であることも、哀には、一見してわかった。

(残された時間は、短い……)

「私のせいよ……」
 蘭が呻くように、俯いたまま言った。

「え?」
 その、彼女らしくない口調に、哀が驚いたような顔を見せる。

「私が、悪いの……油断して……コナン君の体……もっと、気を、つけてないと、いけなかった……私のせい……」

「違うわ」
 自分の言葉を遮るように言った哀の少し強い語調に、蘭は、思わず顔を上げた。

「哀ちゃん?」
「今、江戸川君が苦しんでいるのは……私のせいなの。それなのに、私は、苦しんでいる彼を裏切った……」
 そう言った哀の表情は、意外と淡々としている。

 哀は、自分の鞄から白い封筒と小さな包みを取り出すと、蘭に差し出した。

「江戸川君は、時間が少しかかるかもしれないけど、必ず、目を覚まします。その時、これを渡して」
「これは?」
「彼に渡してくれれば、わかるわ」

 封筒には、手紙が入っているようだったが、包みの方には、何か小さな容器が入っているようだった。

「……蘭さん、江戸川君をお願いします」
 そう言うと、哀は、踵を返して、病室のドアを開ける。

「哀ちゃん!」
 蘭の呼びかけに、一瞬、動きを止めた哀だったが、振り向きもせず、病室を出て行ってしまった。

(哀ちゃん……)
 蘭は、哀の様子に、何故か胸が詰まる想いがして、追いかけることができなかった。


(蘭さんが傍にいてくれれば、私は……私は、安心してデータを探しに行ける……蘭さん、工藤君をお願いします) 

 薄暗い病院の廊下を、哀は、淡々とした表情のまま、少し早い足取りで歩いて行った。

(2009年1月4日初)



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