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--/--/-- --:-- -- | edit? 「白骨化した人文地理学」 category: ◆geography
今日のキャッチフレーズでした。しゃれにならないなぁ。 その昔在学中に談話会か何かの折り、(誰だったか覚えていないけど)少し偉い先生に、「人文地理学とは何か」という問いを投げかけたら、軽く笑って「人文地理学っていうのは、人文地理学者がやっていることですよ」とあっさり切り返された。人文地理学者のやってることが人文地理学なのだとしたら、ちょっと救いがないなぁ、と思ったが言わず。別に当時例のアカハラの件の現場にいたから、というわけでもないのだけど(そういや、上の方も談話会であったのだから京大地理のご出身だったはずだ)。 まあ、でも、実際その辺の頃から、地理学者がいったい何をやっているのかを観察する目、というのを意識的に身に付けるようになったのも確かです。そして、結果的にはその方のご返答をうまいこと逆手にとって論文(もどき、か?)を一、二本書いてしまいました、と言えなくもないわけで。 救いがないから無くなっていい、と主張することはできても、救いがないからなくす、ということを僕一人で実行できるわけではない。だったら、なくすべきなのか、活かすべきなのか、活かすとしたら何を、といったことがせめて議論できるように、どうなっているかを明らかにする仕事が必要な気がするわけです。それ自体僕一人でできる仕事でもないですけど、まずは僕一人からでもやってみようと。そして、そんな実践にだって、現代の社会と時間・空間の問題、固有名詞や固有名の問題というのは関わってくる・・・ような感じがする。 今日、お昼に進々堂のベーコンエピ頬張りながら、また論文についてあれこれ考えてました。少し形のようなものが見えました。今日のエピはとびきり旨かったけど、あの時と同じ味ではなかったな。 できる範囲で無理せずに書き上げようと思います。白骨化させないために。 ・・・今日のBGM・・・ 犬と猫/中村一義 2007/04/18 01:42 Wed | edit? | trackback(0) | comment(6) Comment重いお言葉。
冗談でなくて本気でゆってたら,ホントに「救いがない」ですよね。 そういうの,思考や自分のやっていることへの自省 に欠けるものだと思うので, そういうことをしゃべるやつを見ると ぶっとばしたくなります。 高校地理の教科書を見ていると思うのですが, 制度(科目)として地理があって, じゃあ何でそれを学ばなくちゃいけないかと いうことを,きちんと高校生が納得できるように 呈示しなくちゃいけないはずなのに, 「地理は楽しい!!」とか堂々と書いてるのとか あるんですよ。 楽しいと思わない人とは, 楽しいよ~と言うことのほかには, コミュニケーションをとる気がないんでしょうか。 一部のマニアにだけ必要な分野だったら, 「救いがなく」かつ「消えてもいい」ものですよね。 そうじゃないんだということを, ノイジーでも,声高に言っていきたいと思ってるんですけどね。 久々の米,失礼しました。 ふくも URL #- | 2007.04.18 17:17 | edit?
いや、まったくおっしゃるとおり。
僕はまだ「楽しい」ということ以外に存在価値を見つけられていません。けど、自分が「楽しい」と思うことを、権威や何かに頼ってではなく、きちんと我が声で責任もって「楽しい」と表現する、ということには、ある種の社会的な意義が宿るかもしれない、と最近では思うようになった。 救いがないなと思うのは、楽しいだけでやってるくせに、その「楽しい」さえ表現できてない。そのことに気付いていない。そういう人たちですね。半端に社会的な地位があるもんだから、つい向上心を忘れてしまうのかもしれません。 Iz URL #Fdlxjvt6 | 2007.04.18 18:33 | edit?
学校などで新しく何かを学ぶときに、その根拠を必要性に求めるのは、説得力にかける気がする。
どの目的に必要なのか。生きていくためなのか、豊かな人生を送るためなのか、他人にほめられるためなのか、受験を突破するためなのか、楽しいからか、はたまた他の理由か。 また、学ぶ者にとってその目的は妥当なのか。 特定の目的が無いとき、必要性が高いというのは多くのことに役に立つということであり、ある意味基礎的であるということかと思う。そういった意味の必要性と、学びやすさや教えやすさや分野のまとまりなどを考慮した結果、小・中・高などのカリキュラムが決まっているのだろうけれど、一方で、数学は必要か?とか、もし数学が必要だとして、2次方程式は必要か?、複素数は?とか考えると、必要ないという意見にも正当性があるような気がしてくる。私は複素数使った論文書いたことないし。 学んだ知識や技術が後になって役に立つことだってたくさんあるのだけれど、全然使わないまま忘れていってしまうことだって多いわけで。 で、学生とかになんでこれこれを学ぶのですか?とかこんなの役に立つのですか?と聞かれた場合は、「これこれこういった応用があるし、こういったところで使われているから意味が無いわけではない。だけど、現在君が知らない・分からないことを新しく知って理解することは、脳みその訓練になり、思わぬ効能があるだろうから、やってみたら?」などと答えているわけなんだけど・・・やっぱり説得力ないかも。 読み返してみたら単に「メタな視点でも考えてみよう」といっているだけな気がしてきたし。まあいいや。 何かをやる、つまり脳みそを使うことに対して、優劣は意味がないんじゃなかろうか。ではどれを選ぶのか?といったら「自分が楽しいこと・興味のあること」でいいんじゃないか。で、もし他人も面白がってくれたら、幸せ。と。自分が楽しさを表現できているかといったら・・・うぅ。 #これまでとは関係ないけれど、「救いがない」っていう意味が全然分からない私は・・・ダメな人? ろみる URL #JalddpaA | 2007.04.20 01:27 | edit?
>脳みその訓練になり、思わぬ効能があるだろうから、やってみたら?
、 御意。要不要問わずにとにかく遊んでしまうことが出来るかどうか、ってのは、実はどうにか生きていくために一番必要で大切なことなのでは、と思います。けど、そういうのが必要だから、と言ってしまうと嘘臭くなる。 だから、自分が遊んでみせるしかないんですよね、結局は。伝わるかどうかはわからないとしても。 ただ、結局は周りに伝わってないのなら考えどころではあるのですが。 例えば、ギター弾くのが好きな人は、要不要や仕事か仕事じゃないかではなく、端的に楽しそうにギターを弾くでしょうし、サッカー好きな人は要不要ではなく端的にボールを蹴るでしょう。楽しさというのはそういう行為自体に表現されてると思うのだけど、しかし、もしその人達がギターを弾いたりボールを蹴ったりしている様子が少しも楽しくなさそうだとしたら・・・?あるいは、「ギター弾ける人」や「サッカー上手い人」と思われたいためだけに、大して楽しくもなさそうなのに、ギター弾いたりボール蹴っているのだとしたら・・・? それが僕が「救いがない」と表現したような事柄です。 楽しいことをやっていれば何やっても許されるのかどうか、というのは、また別の問題としてありますがね。ただ、楽しいことが出来て本当に幸せなときと言うのは、案外利己的になるよりも寛容な気分になるものだと思うので、そう考えると、何か大学というところは楽しいことを楽しくできないような歪みがあるんでないかと思ってしまいます。 Iz URL #Fdlxjvt6 | 2007.04.20 14:32 | edit?
「救いがない」、なんとなく分かった気が。
確かに楽しさが伝えられるか、っていうと、どうにも。 楽しさに限らず、表現されたものを知識や情報として伝達することは出来ても、その情報が生まれる母体となるような考えや感情とか感覚って全然伝えられない。 お互いに表現しあって、伝わっているのかを納得していくしかないのだろうけど。 楽しさは伝わらなくても、別なプラスの影響を与えられるのならそれはそれでいい気もする。そのあたりをめざして、かな。私は。 ろみる URL #JalddpaA | 2007.04.25 22:18 | edit?
まあ、風通しがよくてコミュニケーションが活発な場であれば、それにこしたことないんですけどね。そういう場なら、伝わるべきものは勝手に伝わってくもんだと。
Iz URL #Fdlxjvt6 | 2007.04.26 23:54 | edit?
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